Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?①
 第一節
 (01) 市場の復活は、ソヴィエト経済に生命を吹き込んだ。
 私的取引は、7年間以上の革命と内戦が生んでいだ慢性的な不足に、すぐに反応した。
 1921年までは、誰もがつぎあての衣服と靴で生活し、壊れた台所用具で料理をしていた。
 人々は、小部屋と間仕切りを作った。
 小さく汚い市場が流行した。
 農民たちは、町の市場で食用品を売った。 
 田園地方を往復する「袋かつぎ屋」が大量の現象になった。
 私的なカフェ、店舗、レストラン、そして小規模の製造業者すらが、新しい法律によるライセンスを得て、雨後の筍のように出現した。
 外国の観察者は、この変化に驚いた。
 モスクワやペテログラード、内戦中に死んでいた諸都市は、再び生気を取り戻し、騒がしい商売人、忙しいタクシー運転者、華やかな店舗の看板が、1917年以前にそうだったように、街路を活性化した。
 「NEP はモスクワを巨大な市場に変えた」と、アメリカのアナキストのEmma Goldman は1924年に書いた。
 「一晩で小売店や雑貨店が生まれ、不思議なことに、数年間はロシアで見ることのなかった美品が積み重ねられた。
 大量のバター、チーズ、肉が、販売用に陳列された。
 塗り粉、珍しい果物、そしてあらゆる種類の甘菓子を、買うことができた。…
 男性、女性、子どもたちが、やつれた顔をして飢えた眼で、窓から覗き込み、大きな奇跡だと話した。
 昨日は極悪非道の犯罪だと考えられたものが、今は公然たる合法的な形態で、彼らの前に展示されていた。」(注01)//
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 (02) 空腹の人々はどうやって、そのような商品を買うことができたのか?
 私的取引の復活は、多くのボルシェヴィキにとって、革命への裏切りだった。
 それは富んだ者と貧しい者の格差の拡大につながるように思えた。
 あるボルシェヴィキはこう思い出した。
 「我々若い共産主義者はみな、金銭はただちにかつ永遠に捨て去られる、と信じて育ってきた。
 金銭が再び現れているのなら、金持ちの人間もまた再出現するのではないか?
 我々は、資本主義へと後戻りする滑りやすい斜面にいるのではないか?
 我々は、不安の感情をもって、こう自問した。」(注02)
 彼らの懸念は、NEP の最初の数年での失業者の増加によって強くなった。
 解雇された労働者は最低限度の生活をしていた一方で、彼らの推定では、農民たちは豊かになっていた。
 Goldman はある赤軍兵士がこう言うのを聞いた。「こうなるために、我々は革命を起こしたのか?」(注03)
 労働者たちのあいだには、NEP は農民層のために階級利益を犠牲にしている、NEP は「クラク(富農)」が復活するのを認めるだろう、クラクとともに資本主義システムも復活するだろう、という感情が大きく広がっていた。
 数万人のボルシェヴィキ労働者たちが、NEP を嫌悪して、彼らの党員証を引きちぎった。彼らは、NEP を「プロレタリアートの新しい搾取」(New Exploitation of the Proletariat)と名付けた。//
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 (03) この庶民的な怒りの多くは、「ネップマンたち」(NEPmen)に向けられた。私的取引の復活によって成長した事業者の新しい階級だ。
 ソヴィエトのプロパガンダや時事漫画が形成した一般民衆の想像では、
「NEPmen」は彼らの妻や愛人たちをダイアや毛皮で着飾らせ、大きな輸入車を運転し、高価なホテル・バーで金運を大声で自慢した。その金運は、新しく開催された競馬やカジノで使ったものだった。
 このような〈nouveaux riches〉(新富裕層)の伝説的な出費は、都市部の貧困の背景にあったもので、革命は不平等で終わると考えた者たちのあいだに苦々しい忿懣を生んだ。//
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 第二節
 (01) レーニンにとって、NEP は、国を立て直すための市場への暫定的譲歩以上のものだった
 大部分は彼自身の党による1917年のクー・デタの結果として、「ブルジョア革命」が完遂されていない農民ロシアでの社会主義の役割を再定義する、そのような努力が間違って定式化されたとすれば、NEP は過激だった。
 レーニンは第10回党大会で、「発展した資本主義諸国で」のみ、「社会主義への即時の移行」は可能だ、と言った。
 ソヴィエト・ロシアはかくして、「ブルジョアの手を借りて共産主義を建設する」という任務に直面していた。これがボルシェヴィキに意味したのは、農民たちに市場を通じて富を生み出させる、ということだった。//
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 (02) レーニンは、革命がそれにかかっている、〈smychka〉-労働者-と農民の同盟関係を救うための、農民層への必要な譲歩だと、NEP を見ていた。
 この同盟は、工場で製造された商品と食料の交換を基礎にして築かれるだろう。
 NEP は、農民たちに20パーセントの現物税を支払った後で余剰を自由に販売することを許すことによって、彼らの市場販売を刺激して奨励することを意図していた。
 これは都市部に食料を供給し、徴税を通じて、農民たちが穀物の代わりに求めている基本的な生活用品の製造に対する国家投資を増加させるだろう。
 この取引と食料輸出への課税によって、国家は、工業化するために必要な道具や機械を輸入する費用を調達できるだろう。//
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 (03) NEP は、戦略的な退却として提示された。
 レーニンは1921年に、多くの懐疑者に対して、「我々は、のちに二歩前進するために、一歩後退している」と保証した。
 しかし、あとどのくらい長く続くのかは。不明瞭だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、「10年程度またはたぶんそれ以上」と語った。—NEP は、民衆の反乱から革命を守るための「政治的策略の一方法としてではなく」、「真摯に」、「全体的な歴史の画期のために」採用された、とされていた。(注04)
 レーニンは、混合経済を通じて社会主義へと前進するための、長い期間の政策綱領だと、NEP を見ていた。
 資本主義への回帰を許すかもしれないとの危惧に対応して、彼は、国家が「経済の管制高地(例えば、鉄鋼、石炭、鉄道)を掌握しているあいだは、消費者の需要を充たす小規模の私的な農業、取引、手工芸品を許容しても危険はない」と主張した。//
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 (04) 内戦から出現した党にとって、これは、内戦が目指したものとは急進的に異なる革命の見方だった。
 戦時共産主義は、私的取引の兆候の全てを根絶することで、すみやかに共産主義に到達する、と約束していた。
 ロシアのような後進的な農民国家では、ボルシェヴィキが先進的な産業諸国家との間隙を埋める方策として、国家による強制—民衆の労働部隊加入への強要—に手を伸ばすのは簡単だった。
 しかし、NEP は、革命の目標地点まで—ブハーリンが述べたように「農民の荷車で」—ゆっくりと進むことを意味した。
 NEP の緩慢な速さは、深刻な関心を生み出した。
 革命が前進する勢いを全て失ったなら、いったいどうなるのだ?
 鈍化して、無気力が入り込むのを許したなら?
 まだ支配的で一般党員を誘い込む怖れのある、旧社会のブルジョア的習慣と心性に屈服させるのではないか?
 革命の基盤が、内部の敵—「クラク」とプチ資本家—によって、彼らが私的取引で富裕になるとき、掘り崩されるのではないか?
 資本主義諸国との戦争が勃発するとしたなら、国は自衛するに十分に早く工業化するのだろうか?//
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 第一節・第二節、終わり。第三節以下に、つづく。