「『わたし』とは何か」という主題と直接には関係なくなっているが、密接不可分とも言えるので、フリーマンの叙述をもう少しフォローしよう。原書を見て、適宜原語も付記する。
脳科学について、こうも語られる。邦訳書、p.5。
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① ある流派の「脳科学者たち」は「神経の出来事と心的出来事(neural and mental events)は、同じものの異なる様相」だと主張して、「脳がどのようにして思考を生み出すか」という問題を回避している。こうした考えは「心・脳同一説」(the psyconeural identy hypothesis、「同一説」・「双貌説」とも)として知られる。我々には「脳なくして思考する」のは不可能で、「脳」機能の一部は「思考」することなのだから、この説は「原理的には反駁が難しいほど理窟に適って」いる。
しかし、この「心・脳同一説」を「直接証明(test directly)する方法」はない。
「あなたが何かを考えながら同時にあなた自身が自身にが脳の中に入り込んで脳がどのように活動しているかを観察することはできません。
一方、あなたの脳を観察している人に、あなたが考えていることを言葉で伝えようとしたところで、彼はあなたの考えの内容を正確に知ることはできません。」
−−
前回に秋月が直感として書いたのと似たようなことをフリーマンも書いている。「現に活動している脳または心」の具体的内容等をその時点で(おそらくのちにでも)正確に知ることはできないのだ。よって、「心・脳同一説」の正しさは検証できないことになる。
フリーマンは、この点をこうまとめている。
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② 「現代脳画像検査方法によって、様々な種類の認知作業において脳の異なる部位が大かり少なかれ同時に活性化することが明らかとなりました。
しかし、この脳地図における色のパッチ〔濃淡や色の違い-秋月〕から、あなたが何を考えているかを推定することはできません。
つまりわれわれは同一性仮説を、検証不可能な理論と見なすほかないのです。」
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しかし、従来・在来の脳科学を全否定するのではもちろんなく、こう語り、かつ次のように目標(・達しようとする結論)を示す。邦訳書、p.6。
③ 「しかし、脳理論から因果律(causality)を排除すべきではありません。
私たち「脳科学者グループは、異なる観点から、選択能力(poweer to choose)は人間にとって本質的で奪うことのできない特性である」と考える。
「因果律があまねく宇宙を支配することを前提とする限り、選択の可能性を否定せざるを得なく」る。
逆に、我々は「選択の自由が存在するという前提」から出発し、「因果律を脳の特性として説明すること」を目指す。
「選択の自由が存在するという前提」は「倫理学』を基礎にしておらず、反対にこの前提が、「倫理」の諸問題を発生させる。
すなわち、「選択の自由」の奨励・拒絶、「選択の自由」を行使し得る性・人種・年齢・教育や資産の程度等々の地多くの倫理的問題」が発生するのだ。そして「選択の自由」の存在という前提こそが「アングロ・アメリカン民主主義社会の土台」となった。
だが17世紀以降の「生物学」・「物理学」の諸発見は「個人の自由」を否定する方向に働いた。スピノザは、「崖を転げ落ちる」岩との違いは人間は「自ら選択したという幻想を抱いている」ことにあるとした。
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そのような状況のもとで、としてフリーマンが目標(・達しようとする結論)してやや長く語るのは、次のようなことだ。
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④ 「従来の生物学の基本的発想を転回させ、脳のダイナミクスを正しく理解することによって、選択という生物学的能力を説明する」こと。
第一に、『選択のオプションがニューロンによって構成されることを説明するような脳のメカニズムを提示する」。
第二に、我々の「選択の瞬間に、ニューロン回路でどのようなことが生じているかを説明する」。
第三に、「気づきの本性とその役割、および気づきの状態と意識内容の継起との関連を、脳科学的な用語を用いて説明する」。
これらの作業は「脳の働きを理解し、その支配権を握るための基礎を築くこと」に他ならない。
こうして理解された「脳の働き」は、「脳科学が示す諸事実」のみならず、我々の「直観」、「思考」そして「クオリア」と合致するものでなければなない。
−−
フリーマンによる専門的な論述に立ち入りはしないが(私には知識・能力が足りない)、少なくとも日本の<文科系>、とりわけ<文学畑>の知識人・評論家が想像もしていないかもしれない議論が欧米でも日本でもなされていることが明らかだ。
何度も名前を出して恐縮だが、西尾幹二はまるで自分は「こころ」や「自由(意思)」の問題の専門家のごとき口吻で語る。自然科学系、とくに脳科学の研究者とは雲泥の差、天地の差、専門家と小学生レベルの幼稚さの違いのあることは明瞭だろう。
西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.37。
「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
ああ恥ずかしい。上に限っても、社会科学的知性の方が西尾よりも種々の意味での「こころ」をはるかに問題にし、議論している。西尾が無知で幼稚なだけだ。全集刊行書店の国書刊行会のウェブサイトがこの人物を「知の巨人」と呼んでいるのも、歴史に残る<大嗤い>だろう。
脳科学について、こうも語られる。邦訳書、p.5。
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① ある流派の「脳科学者たち」は「神経の出来事と心的出来事(neural and mental events)は、同じものの異なる様相」だと主張して、「脳がどのようにして思考を生み出すか」という問題を回避している。こうした考えは「心・脳同一説」(the psyconeural identy hypothesis、「同一説」・「双貌説」とも)として知られる。我々には「脳なくして思考する」のは不可能で、「脳」機能の一部は「思考」することなのだから、この説は「原理的には反駁が難しいほど理窟に適って」いる。
しかし、この「心・脳同一説」を「直接証明(test directly)する方法」はない。
「あなたが何かを考えながら同時にあなた自身が自身にが脳の中に入り込んで脳がどのように活動しているかを観察することはできません。
一方、あなたの脳を観察している人に、あなたが考えていることを言葉で伝えようとしたところで、彼はあなたの考えの内容を正確に知ることはできません。」
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前回に秋月が直感として書いたのと似たようなことをフリーマンも書いている。「現に活動している脳または心」の具体的内容等をその時点で(おそらくのちにでも)正確に知ることはできないのだ。よって、「心・脳同一説」の正しさは検証できないことになる。
フリーマンは、この点をこうまとめている。
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② 「現代脳画像検査方法によって、様々な種類の認知作業において脳の異なる部位が大かり少なかれ同時に活性化することが明らかとなりました。
しかし、この脳地図における色のパッチ〔濃淡や色の違い-秋月〕から、あなたが何を考えているかを推定することはできません。
つまりわれわれは同一性仮説を、検証不可能な理論と見なすほかないのです。」
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しかし、従来・在来の脳科学を全否定するのではもちろんなく、こう語り、かつ次のように目標(・達しようとする結論)を示す。邦訳書、p.6。
③ 「しかし、脳理論から因果律(causality)を排除すべきではありません。
私たち「脳科学者グループは、異なる観点から、選択能力(poweer to choose)は人間にとって本質的で奪うことのできない特性である」と考える。
「因果律があまねく宇宙を支配することを前提とする限り、選択の可能性を否定せざるを得なく」る。
逆に、我々は「選択の自由が存在するという前提」から出発し、「因果律を脳の特性として説明すること」を目指す。
「選択の自由が存在するという前提」は「倫理学』を基礎にしておらず、反対にこの前提が、「倫理」の諸問題を発生させる。
すなわち、「選択の自由」の奨励・拒絶、「選択の自由」を行使し得る性・人種・年齢・教育や資産の程度等々の地多くの倫理的問題」が発生するのだ。そして「選択の自由」の存在という前提こそが「アングロ・アメリカン民主主義社会の土台」となった。
だが17世紀以降の「生物学」・「物理学」の諸発見は「個人の自由」を否定する方向に働いた。スピノザは、「崖を転げ落ちる」岩との違いは人間は「自ら選択したという幻想を抱いている」ことにあるとした。
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そのような状況のもとで、としてフリーマンが目標(・達しようとする結論)してやや長く語るのは、次のようなことだ。
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④ 「従来の生物学の基本的発想を転回させ、脳のダイナミクスを正しく理解することによって、選択という生物学的能力を説明する」こと。
第一に、『選択のオプションがニューロンによって構成されることを説明するような脳のメカニズムを提示する」。
第二に、我々の「選択の瞬間に、ニューロン回路でどのようなことが生じているかを説明する」。
第三に、「気づきの本性とその役割、および気づきの状態と意識内容の継起との関連を、脳科学的な用語を用いて説明する」。
これらの作業は「脳の働きを理解し、その支配権を握るための基礎を築くこと」に他ならない。
こうして理解された「脳の働き」は、「脳科学が示す諸事実」のみならず、我々の「直観」、「思考」そして「クオリア」と合致するものでなければなない。
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フリーマンによる専門的な論述に立ち入りはしないが(私には知識・能力が足りない)、少なくとも日本の<文科系>、とりわけ<文学畑>の知識人・評論家が想像もしていないかもしれない議論が欧米でも日本でもなされていることが明らかだ。
何度も名前を出して恐縮だが、西尾幹二はまるで自分は「こころ」や「自由(意思)」の問題の専門家のごとき口吻で語る。自然科学系、とくに脳科学の研究者とは雲泥の差、天地の差、専門家と小学生レベルの幼稚さの違いのあることは明瞭だろう。
西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.37。
「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
ああ恥ずかしい。上に限っても、社会科学的知性の方が西尾よりも種々の意味での「こころ」をはるかに問題にし、議論している。西尾が無知で幼稚なだけだ。全集刊行書店の国書刊行会のウェブサイトがこの人物を「知の巨人」と呼んでいるのも、歴史に残る<大嗤い>だろう。