秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

V・シャラモフ

2359/J・グレイ2002年著でのコルィマ(Kolyma)①。

 一 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 =J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 上の邦訳書からの要約・抜粋または一部引用を掲載してきたが、外国語の翻訳ではなく、邦訳書の日本語文の要約・抜粋等にすぎないにもかかわらず、全部を了えていない。邦訳書の本文計6章、計209頁のうち、第4章の途中のp.139までにとどまっている。最後は→No.2122/2020.01.15.
 とどまってている理由は自分の事ながら今の時点で推測するに、一つは、J・グレイのこの本の文章は綿密で長々としたものではなく、要約・抜粋するのがかなり困難な、アフォリズムにかなり接近するものにますますなっていること、だ。
 二つは、同じJ・グレイの、Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)<邦訳書なし>を入手して、L. Kolakowski 、Eagleton & Hobsbawm、Tismaneanu の人や書物に関する論評を同じこの欄で試訳してしてきたことだ。L・コワコフスキにつき→No.2126/2020.01.19。
 なお、L・コワコフスキの文章は多くは原語から英訳されているので、まだ読解しやくすいように英語訳されているが、J・グレイの英語文は、現役のイギリス人の英語だけあって、はなはだ読み(理解し)難いところがある。
 J・グレイは好き・嫌いをわりあいと明確にしていて、前者にKolakowski、後者にHobsbawm が入る。Richard Dawkins に対しては批判的なのだが(理由の一つを勝手に推測すると、きっと、自信満々に書き過ぎることだろう)、そのドーキンス部分の翻訳=試訳を開始したが、読解と実際の試訳に難渋して、今のところ挫折している。
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  コルィマまたはコリマ(Kolyma)という場所(シベリアの東北の極北部)に旧ソ連の収容所があったことを知ったのは、たぶん、上の<わらの犬>によってだ。そしてJ・グレイは、V・Shalamov の<コルィマ物語>に依拠して、コルィマに言及していると見られる(但し、この欄で最近に試訳した書物によると、シャラモフによるコルィマの<物語>の全文ないし完全版ではないようだ)。
 すでに邦訳書の要約・抜粋等として掲載したところだが、あらためて、邦訳書を参照しつつ、J・グレイの原書にほぼ即したかたちで、より長く試訳して紹介しておく。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 まず、第3章第5節(邦訳書p.103-)あたり。
 <邦訳書要約→No.2121/2020.01.14>。以下は、これよりも長い。
 「」をはずし、原文の一行ごとに改行する。段落の区切りには○と//を付す。
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 (ここでの便宜的な数字)
 今日ではキリスト教徒と人間中心主義者(humanists)は、一緒になって、悲劇を不可能なものにしている。
 キリスト教徒にとって、悲劇とは偽装した天恵以外の何ものでもない。すなわち、世界は—ダンテが述べたように—、神聖な喜劇なのだ。そして、全ての涙がすっすり拭われてしまう来世がある。 
 人間中心主義者にとっては、全ての者が幸福な人生を送る可能性をもつときを、心待ちにすることができる、ということになる。
 そのうちに悲劇は、我々は逆境のもとでも生き抜けることを教訓として記憶させるものになるのだ。
 しかし、極限状態の苦痛によって人間は高貴になる、というのは、お説教または舞台上のセリフだけにすぎない。//
 収容所を生き延びたGustaw Herling によると、ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)の前で、「Solzhenitsyn も含む全ての収容所文学者は、頭を垂れなければならない」。この作家は、わずか22歳でまだモスクワ大学の学生だった1929年に最初に逮捕された。
 彼は、Solovki での3年間の重労働の判決を宣告された。そこは、正教の男子修道院がソヴィエトの強制集中収容所へと改造された、一つの島だった。
 1937年に再び逮捕されて、シベリア東北部のコルィマでの5年間の判決を受けた。
 控えめの推計でも、この極北の収容所でおよそ300万人が絶命した。毎年、受刑者の3分の1かそれ以上が死んだ。//
 シャラモフは、コルィマで17年間を過ごした。
 彼の書物の<コルィマ物語(Kolyma Tales)>は簡潔なChekhov 的文体で書かれ、Solzhenitsyn の作品がもつ教訓臭は全くない。
 だがなお、ときおりの素っ気なく離れている行の間に、一つのメッセージが示されている。
 すなわち、「違って行動することができると考える者は誰もみな、人生の本当のどん底に触れたことがない。そう考える者はみな、『英雄のいない世界』で最後の息を吐かなければならなかったということが決してない」。//
 コルィマは、道徳が存在しなくなる場所だった。
 シャラモフが冷ややかに「文学的おとぎ話(fairly tales)」と呼んだ状況では、人間の深い結びつきが、悲劇と窮乏の圧力のもとでやむなく作り上げられる。
 しかし、実際には、どんな友情や同情の絆も、コルィマで生き延びるに十分なほど強くはなり得ない。すなわち、シャラモフはこう書いた。
 「悲劇と窮乏が人々を一緒にさせて、人々の間に友情を生んだのだとすれば、その場合には、窮乏は極限状態ではなく、悲劇は大きくなかったのだ」。
 人生から生きる全ての意味を奪われて、受刑者たちには生き続ける理由が存在しないように思えたかもしれない。
 だが、ほとんどの者は体力が弱くて、自分たちが選択した方法で自らの生命を断つ機会がときおり訪れたとしても、その機会を利用することができなかった。
 「死ぬという気持ち(will)を失わないように、〔自殺を〕急がなければならない場合もあった」。
 飢えと寒さに痛めつけられて、受刑者たちは、無感覚のままで、無意識の死に向かって動いていった。//
 **
 ——
 以降の試訳も含めて、次回以降へ。

2330/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文②。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
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 (07) シャラモフは当初は、著作活動をした経歴によって、高い望みを持った。
 Boris Pasternak は、彼の詩作の才能を大いに誉めた。また、Aleksandr Solzhenitsyn は<One Day in the Life of Ivan Denisovich>で、収容所について書くのは可能だということを示した。
 しかし、ソヴィエト当局に外国での<ドクトル・ジバゴ>出版を責め立ててられていたPasternak は1960年に死亡した。また、Solzhenitsyn が出版することができるのは—かつほんの数年の間—今や党指導者であるNikita Khrushchev や影響力ある雑誌<新世界>の編集者のAleksandr Tvardovsky の好意があったからにすぎない、ということが明瞭になった。
 シャラモフが最初は抱いたSolzhenitsyn の偶像視は彼の友好的な反応を受け、<収容所群島>の編集を共同で行おうと誘われもした。
 しかし、シャラモフは明らかに、19世紀のキリスト教的価値のいくつかへのSolzhenitsyn の執着には、またソヴィエト社会のある範囲の道徳、とくに手労働の救世的力への忠誠さには、賛同しなかった。
 Solzhenitsyn は短い物語を書くことから大きい小説へと移ったけれども、シャラモフは、素材を偽ることとなる綿密な構成物だとして小説を評価しなかった。
 (ウラルでの矯正労働の回顧録は、<Visheara(反小説)>という表題だった。)
 シャラモフは、Yevgeniya Ginzburg のような、収容所の他の生き残りとは距離を置いた。そして、自分たちの苦しみの原因を作った悪党たちに対して優しすぎると批判した。
 彼は、最初はOsip Mandelstam の未亡人のNadezhda と親しかった。—最良の二つの物語を、彼女と詩人に捧げた。だが、賛美者と異端者たちに囲まれた女王蜂としての彼女の役割によつて、彼は遠ざかった。
 (08) こうした孤立やKGB が払った敵対的注意にもかかわらず、シャラモフは四作の詩集を何とか出版した。
 彼の詩は、革命前ロシアの象徴主義の技巧と主題をもった、強く回顧的なもので、公的に敵対心を掻き立てはしなかった。だが、彼の物語をソ連邦で出版するのは、最も論争的でない1965年の<The Dwarf Pine>の一冊を除いて、不可能だと判ることとなった。また、その例外ですら、<国の若者>の編集部から解雇される原因になった。
 1968年、—シャラモフが密かに意図してか、意思に反してかは確実には言えないが—個々の物語が、そして最初の書物の<Kolyma Stories>の全体が、西側へと漏れ出し、公表された。最初はエミグレ・ロシア人の雑誌で、次いでシャラモフの名によるドイツ語訳書、フランス語訳書として。
 シャラモフは私的に抗議した(出版物の提供と支払いを求めたけれども)。そしてついには、公式の<文学新聞>で、明らかに強いられて、抗議を表明した。
 彼が「反ソヴィエト」のエミグレや西側出版社を非難したことで、作家同盟に遅ればせながら入ることができるという報償が与えられた。作家同盟員でなければ、ソヴィエトの作家は生活していく望みを持てなかった。//
 (09) 1960年代の末、シャラモフはIrina Sirotinskaya の世話になった。彼女は、彼の原稿をロシア国立文学芸術資料館に預けていた。
 Sirotinskaya は、お互いの愛情と尊敬にもとづく関係に関する詳細な説明を付していた。
 Sirotinskaya の介入がなかったならば、確実に、シャラモフラモフの作品は、その他の異端の作家たちの作品のように消滅の運命に遭っただろう。
 シャラモフに懐疑的な友人たちは、とくに異端者または元受刑者あるいはそのいずれもの友人たちは、自分たちの友情を疑っていた。USSR(ソヴェト社会主義共和国連邦)の全ての国立資料館はKGB に服従しており、著作者の作品を存命中に資料館に移すことは、保存のためとともに、隔離の結果だと見なすこともできた。
 しかし、私はソヴィエト資料館にある私自身の著書に関して気づいたのだが、「保安のための除去」だったにもかかわらず、利用を統制できる文学作品に対して、純粋に貢献したいという資料管理者がいた。
 シャラモフの少なくとも詩集の出版について、Sirotinskaya がそれを助ける大きな役割を果たした、ということに疑いはない。//
 (10) 1970年代遅く、家を失って病気がひどくなったシャラモフは、姿を消して老人施設へと入った。
 その施設の条件は本当にひどいものだった。—皮肉にも、収容所の最悪の施設と同じほどにひどかった。
 コルィマで衛生兵としてシャラモフを教えた収監中の教授だった人の孫も含めて、友人たちが彼を発見して、彼の条件を少しでも良くしようとした。しかし、その働きかけはKGB と「医療スタッフ」に妨害された。
 Sirotinskaya はシャラモフとの関係を感じていたが、家族の利益を優先しなければなかった、結婚している女性だった。それでようやく、冬の頃からシャラモフとは距離を置いたように見える。
 1982年1月、精神医の委員会はシャラモフの状態を認知症と診断した。—ひどい難聴、筋肉統御力の喪失、見知らぬ者に対する激しい嫌疑。そして、凍えるような寒さの中をほとんど裸で、ほとんど誰も訪問することのできない「精神病院」へと移された。
 数日のうちに、シャラモフは急性肺炎で死んだ。
 Sirotinskaya はその回想録の中で、彼の死の直前に訪れたとき、シャラモフによって詩集の語句を口述されたと述べている。
 シャラモフはまた、彼女を相続人に指名する遺書を残し、出版されていない物語集を彼女に捧げた。
 この最後の措置の真実性は、シャラモフの異端派の仲間、とくにSergei Grigoriants によって争われた。
 シャラモフは第三者が存命の場合に語るのを嫌ったため(収容所についての古い習慣)、ここでも再び、伝えられる彼の会話が確証されることはなかった。//
 (11) シャラモフは、聖職者の子息として、洗礼を施されているという理由で、友人たちやソヴィエトの文学分野の人々は組織立って、教会式の葬儀と埋葬を行なった。//
 **
 ③むへとつづく。

2319/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文①。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者による序文の試訳。
 なお、<コルィマ物語>には、別に、以下の英訳書もある。
 Varlam Shalamov, Kolyma Tales, translated by John Glad(Penguin, 1980〜)。
 少なくとも翻訳の仕方は異なっているだろう。内容(対象範囲)にも違いがあるかもしれない。
 邦訳書はないと見られる。シベリア北東部の極北の<コルィマ>強制収容所のかつての存在自体が、日本ではほとんど知られていないだろう。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に原文にはない数字番号を付す。
 ** 
 序文(Introduction)—Donald Rayfield。
 (01) ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)は、スターリンの最悪の収容所での15年の稀少な生存者で、最も寒くて居住に最も適さない場所の一つであるコルィマの金鉱で、奴隷として6年間を過ごした。そのあとで、受刑者収容所の医療従事者として少しは耐えられる生活を送った。
 彼はこの収監の前に、若干の散文といくつかの詩文を書いていた。しかし、彼の七巻の散文、詩文、戯曲概要はほとんど全て、1953年のスターリンの死から1970年代後半のシャラモフ自身の身体および精神の不調の中で書かれた。//
 (02) 我々が収集して翻訳したのは短い物語から成る六冊の書物で、三冊ずつ合わせて二巻本として出版される予定だ。ほとんどは彼がコルィマにいた時期に関するものだが、北部ウラルの収容所で「矯正労働」をした1929年から1931年の初期に関する若干を含み、Vologda での青年期を思い出す一、二を含んでいる。
 自伝と虚構の間の境界はきわめて曖昧だ。つまり、これらの物語の事実上は全てを、シャラモフは体験するか、目撃した。
 彼の作品は、受刑者やその抑圧者たちの多数の実名で溢れている。
 彼自身はたんに『I』または『シャラモフ』として、ときにはAndreyev とかKrist とかの仮名で登場する。
 かくして諸物語は、彼の人生の最初の50年間の自叙伝となっている。//
 (03) シャラモフは、中世以来政治犯用の流刑地だった北部の町であるVologda で生まれた。そして、幼い少年の頃、天敵となるJoseph Stalin と一緒に小径を横切ったかもしれなかった。スターリンは、1911年と1912年に定期的に、Vologda にある宿泊所から立派な公共図書館へと歩いて通っていた。
 聖職者の子息であるシャラモフは(Anton Chekhov のように)宗教の形象と言語で充たされていたが、若いときから全ての信仰を拒否した。
 彼の父親から継承したのは、不屈の頑固さと権威に対する抵抗心だった(父親は、アリューシャン列島の宣教師を務めた非凡な人物で、政治的リベラリズムに共感し、他宗教への寛容さを説いたが、家族員に対しては専制的だった)。
 シャラモフの父親は、単純な手術を拒んだのちに盲目になった。
 父親はシャラモフにも、費用のかかる鼻腔手術を受けさせなかった。それによって、息子は嗅覚を失った。また、老年になってメニエール症にかかった原因になったかもしれない。//
 (04) Vologda は、ロシアの内戦中、とくに1918年には、ぞっとするような残虐行為が行われた舞台だった。その年に、サイコパスのMikhail Kedrov が、シャラモフの化学の教師を含む民間人の人質を射殺した。
 それにもかかわらず、シャラモフは革命に、とくにトロツキスト派に共鳴した。共産主義者によって、聖職者の子息だとして、高次の教育から排除されたとしても。
 そのとき教会から追放されていた彼の両親は、極貧の中で生活していた(『The Cross』物語を見よ)。シャラモフのときたまの稼ぎでは、生活は楽にならなかった。
 彼は皮革工場で働き、数学と物理で良い成績を挙げて、やがて(ソヴィエト法を勉強するために)モスクワ大学に入るのを許された。しかし、一人の仲間が『社会的出自を隠している』と彼を非難したことにより、追放された。
 彼は報道業界に入って不安定な収入を獲得し、レーニンの遺書の公表を(多数のトロツキストと同様に)要求する学生運動に関与したとして、初めて逮捕された。その遺書とは、スターリンを名指しして、粗雑で権力妄者だから党の総書記には任命できないとした文書だった。//
 (05) シャラモフは、コルィマと比較してのみ緩やかだと思えるような条件で、化学工場建設場で3年を過ごした。
 1931年、秘密警察の呼称だったOGPU の意向に反して釈放された。だが、嫌がらせを受けずに、モスクワで生活し、働くことができた。
 1934年、Galina Gudz と結婚した。
 1935年、娘のElena が生まれた。 
 Galina の兄のBoris Gudz はOGPU の工作員で、この結びつきに戦慄した。
 彼はシャラモフに、今ではNKVD(内務人民委員部)と称されている秘密警察に文書を書くよう圧力をかけた。
 その結果は最悪だった。シャラモフは逮捕され、反革命のトロツキスト活動をしたとして、最初はコルィマでの5年の判決を受けた。ちょうどその頃、大テロルがあり、ほとんどのトロツキストは射殺されるべきものとされていた。
 (Gudz の家族も弾圧を逃れることができなかった。シャラモフの妻と娘はトゥルクメニスタンへと追放された。Boris Gudz は秘密警察を解職され、バス運転手になった。その一番上の姉のAleksandra も抑圧された。)//
 (06) シャラモフはその散文で、結婚に伴う諸問題について言及するのを完全に避けた。
 コルィマでの体験と生存という奇跡は、諸物語の中で絵を見るように報告されている。
 解放と「名誉回復」(当局による無実の承認と二ヶ月分の俸給支払い)後に関する彼の自伝叙述は、しかしながら、会話や残っている若干の手紙類の記録によって、再構成される必要がある。
 彼の婚姻関係は、すみやかに崩壊した。
 娘は、月並みに育て上げられたスターリン主義者として、父親は死んでいるか犯罪者だと好んで考えた。
 2年後、彼はOlga Nekliudova と結婚した。
 この結婚関係は1966年まで続いたが、決して幸せなものではなかった。
 シャラモフは、多数のかつての収容所受刑者と同様に、可能な限り語らないという原則を維持した。第三者(情報提供者である可能性があった)が現存しているときには、決して語らなかった。
 いずれにせよ、自分の父親に似て、彼は女性についての父権的見方を持っていた。//
 **
 ②へとつづく。
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