秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Richard-Pipes

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
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 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
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 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
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 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
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 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
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2527/R・パイプスの自伝(2003年)⑱。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の最後。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う②。
 (06) このうんざりする主題について、コメントを二つ追加しよう。
 第一に、全体主義体制のもとで生きなかった人々は、それがいかに強く人々を捉えるか、最も正常な人々をすら、強くて明瞭な憎悪を掻き立てて怪物的な犯罪に手を染めさせるかを、想像することができない。
 Orwell は〈1984年〉で、この現象を正確に叙述した。
 この情感に囚われているあいだは、ふつうの人間の反応は抑圧されている。この体制が瓦解するや否や、その気分は冷める。
 この実証例によって、決して政治をイデオロギーに従属させてはならない、と私は確信した。あるイデオロギーが道徳的に健全な場合であっても、それを実現するには通常は暴力に訴える必要がある。社会全体がそのイデオロギーを共有することはないからだ。//
 (07) 第二に、ドイツ人について若干のこと。
 ドイツ民族は伝統的には、血に飢えているとは見なされていなかった。ドイツは、科学者、詩人、そして音楽家の国だった。
 だがしかし、大量虐殺の際立った達人たちであることが判った。
 1982年5月に、ワシントンで初めて会っていたフランクフルト市長のWalter Wallman を、彼の招きで、訪問した。
 我々は彼の家で私的な食事を摂り、ときには英語で、ときにはドイツ語で、さまざまな話題について会話をした。
 彼は、ある一点について、私に尋ねた。「ナツィズムはドイツ以外のどこかで発生し得たと思うか?」
 一瞬考えたあとで、私は、そう思わない、と答えた。
 彼は、「ああ神よ!」と言って、掌の中に顔を埋めた。
 私はすぐに、この上品な人物に苦痛を与えたのを悔やんだ。しかし、別の答えはあり得ない、と感じていた。//
 (08) ドイツ人に関して私がいつも感じている性格は、こうだ。生命のない物体や動物を扱うのは本当に秀逸だけれども、人間を扱う能力に欠けている。人間をたんなる物体としてしか扱わない傾向がある。(脚注1)
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 (脚注1) 読者の中には、ここでのドイツ人であれ、のちのロシア人についてであれ、こうした民族についての一般化に反対する人がいるだろう。そうであっても、私は遺伝子的特性ではなく文化的特徴について言っているのだ、ということに留意すべきだ。
 示唆しているのは教育であって、「人種」(race)とは何ら関係がない。
 かくて私の観察では、同じ文化の中で育ったドイツ・ユダヤ人は、彼らの言うポーランド・ユダヤ人よりもアーリア同胞人に似ていた。
 ついで、あるnation の構成員は一定の態様で行動する傾向があると言っても、これはむろん、全員がそうだ、ということを意味しない。〈大概は〉(grosso modo)の叙述的記述であり、総じて(by and large)間違いでななく本当だ、という記述だ。
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 ドイツ軍兵士が1939年に占領したポーランドから家に送り、のちに出版された手紙の中で、強調していたのはポーランド人とユダヤ人の「不潔さ」(dirtiness)だった、というのは重要だ。
 彼らの文化には関心を抱かず、衛生状態にだけ関心をもったのだ。(脚注2)
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 (脚注2) ポーランドの小説家、Andrzei Szezypiorski は、この気質をこう説明する。「ユダヤ人はしらみだ。しらみは絶滅しなければならない。このような考えはドイツ兵の想像力に訴えた。ドイツ人は清潔で、衛生と秩序を好んだからだ」。〈Noe, Dzien i Noe〉(1995)、p.242.
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 彼らは不潔な調度品にそうしたように、不潔な人間や家族世帯にうろたえたのだ。 
 彼らはまた、ユーモアのセンスをほとんど持っていない(Mark Twain はドイツのユーモアについて、「笑えるものでない」と言った)。(脚注3)
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 (脚注3) だが、助けが進行している。2001年の末に、イギリスの新聞は、オーストリアのアルプス保養地のMieming はユーモアを教えるドイツ人用の特別課程を始めた、と伝えた。それには「笑いの訓練」も含まれている。〈The Week〉,2001.12.22, p.7. 〈Sunday Telegraph〉から引用した。
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 したがって、ドイツ人には、ユーモアを可能にする人間の嗜好に対する寛容さのようなものが足りない。
 彼らは機械工学者だ—おそらく世界一の—。だが、人間は、際限のない理解と忍耐を必要とする生きている有機体だ。機械とは違って、厄介で気まぐれだ。
 ゆえに、教条のために殺害せよと命じられれば、廃棄した物品に対する以上の憐憫を何ら感じることなく、殺害する。//
 (09) あるドイツのSS〔Schutzstaffel,ナツィス親衛隊〕将校について読んだことを思い出す。Treblinka で勤務していた彼は、ユダヤ人を乗せた列車が彼らをガスで殺すべく到着したとき、彼らをたんなる「荷物」だと見なした、と語っていた。
 呪文で縛られたこのような者たちは、建設労働者たちが空気ドリルで舗道を壊すのと同様に感情を持たないままで、無垢で守る術なき人々を機関銃で殺害することができる。
 人間のこのような非人間化は、高度の〈Pflicht〉、「義務」意識と結びついて、他のどこかでは発生しなかっただろうようなホロコーストを、ドイツで可能にした。
 ロシア人は、ドイツ人よりもさらに多くの人々を、殺害した。また、自分たちの仲間を殺した。しかし、ロシア人は、機械工学的な精確さなくして、そうした。髪の毛や金の填物を「収穫」したドイツ人の理性的な計算を持たないで、殺した。
 ロシア人は、自分たちの殺害行為を自慢することもしなかった。
 私はソヴィエトの残虐行為の(彼らが撮った)写真を見たことがない。
 ドイツ人は、禁止されていたけれども、自分たちで無数の写真を撮った。//
 (10) かつてMünchen で、一時期にCornell でのロシア語教師だったCharles Malamuth を訪れた。
 彼はドイツ軍に接収されていたと思しきアパートを借りていた。
 コーヒー・テーブルの上に、以前の所有者が忘れて置いていったアルバムがあった。ふつうの人々ならば幼児や家族の小旅行の写真を貼っているようなアルバムだ。
 このアルバムには、東部戦線でヒトラーのために働いた家族の主人かその子息が家に送った写真が中にあった。ほとんど貼り付けられた、とても異なる種類の写真だった。
 私が見た最初は、ドイツ軍兵士が年配のユダヤ人女性を彼女の髪の毛を掴んで処刑の場所まで引き摺っているところを、写したものだった。
 つぎの頁には、三枚の写真があった。一つめは、赤ん坊を腕に抱えて木の下に立っている女性たちのグループだった。二つめでは、同じグループの女性たちが裸に剥かれていた。三つめは、大量に血を流して横たわっている、彼女たちの死体だった。//
 ——
 第七章、終わり。第一部も、終わり。続行するか未定だが、第二部の表題は、<Harvard>。

2526/R・パイプスの自伝(2003年)⑰。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の第七章に移る。
 ——
 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う①。
 (01) 1945年春、ドイツは降伏した。また、我々とユダヤ人全てへの人的被害をもたらしたことが分かった。
 赤軍がポーランドに入り、そこからドイツに進行するにつれて、新聞は、解放された強制収容所や「絶滅」収容所に関する記事や写真を公にし始めた。人間は骸骨に近くなり、靴や眼鏡が殺害された犠牲者から奪われて山積みになっていた。火葬場で、ガスを吸わされた人々が灰になった。
 我々は、このような系統的で大規模な殺戮を予期していなかった。野蛮であったばかりか、ドイツはその戦争のためにユダヤ人を用いることができたから合理的でもなかったので、そんなことは不可能に思えた。
 連合国諸政府は、ドイツに占領されたヨーロッパで起きていることを知っていた。しかし、戦争は「世界のユダヤ」によって、彼らの利益のために行われているというヒトラーのプロパガンダ機構を助けるのを怖れて、沈黙を守る方を選んだ。
 私はロンドンにあったポーランド亡命政権の1942年12月10日付の冊子を持っている。それは「ドイツ占領ポーランドでのユダヤ人の大量虐殺」との表題で、連合諸国構成諸国に対して訴えたものだった。
 輸送された数十万のユダヤ人および同数の餓死しているか殺害されたユダヤ人に関する、正確で詳細な報告がなされていた。
 その情報は無視された。
 永久の汚名になるだろうが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちも、同族に対するジェノサイドについて、口を噤んだままだった。//
 (02) 1945年4月末、私はOlek からの手紙を受け取った。彼は戦争を生き延びたが、最初はワルシャワの、次いでウッチ(Łódź〉の「アーリア」側に隠れていた。
 そのあとすぐ、母親がポーランド・ユダヤの新聞の切り抜きを送ってくれた。それには、Wanda が自分の言葉で、Treblinka のガス室へと移送する家畜列車から飛び降りて、ドイツにあるポーランド人用強制収容所の労働者として終戦を迎えた、と書いていた。
 これらは奇跡だった。
 だが、我々の一族の他の者には、奇跡は乏しかった。
 母親の二人の兄は、何とか生き延びた。
 郵便による連絡が回復するや否や、彼らは、すでに知られていたようなホロコーストが母国で行われたと伝える手紙を、我々に送ってきた。
 私の伯父は二人とも学歴がなく、戦前に多くを成し遂げたというのでもなく、主として祖母の資産から生じる家賃で生活してきた。
 このことで、二人の手紙はいっそう強烈なものだった。
 母親の弟のSigismund は、戦前には女性を追いかける人生を送っていたが、こう書いてきた。
 「狂人になっているのではないかと思う。彼らが戻ってくるという想いだけが浮かぶ。
 母親と一緒にいた我々のArnold とMax、Esther そして(彼らの娘の)Niusia は1942年9月9日にファシストの凶漢によってゲットーから引き出されて、巨大な輸送車に積み込まれた。
 ドイツのやつらは最初は、定住地を変えるだけだと言った。しかし、分かったとおり、到着すると人々は生きたまま焼かれるかガスを吸わされたのだから、これは通常の殺害だった。
 数百万の人々が、ゲットー全体が、このようにして殺戮された。もっと残虐なこともあった。」
 Max は、こう書いた。
 「Sigismund と私は、Max(.Gabrielew)、(その妻)Esther とJasia がTreblinka へ移送されたことの証人だ。…
 我々みんなが愛して、深い悲しみが尽きないArnold は、いつものように、年老いて生きるのに疲れた我々の最愛の母親と一緒に、口元に微笑をたたえて、「死の列」に立っていた。 
 この73歳の女性も、勇敢に立っていた。…
 ああ、彼らを救う可能性はなかった。
 どんな人間の力も叡智も、(彼らの運命を)和らげる何事もできなかった。
 彼らに毒を渡すこともできなかった。」//
 (03) 既に語られてきていないホロコーストのことで、私に言えることはほとんどない。
 これは、ホロコーストに関して読んだり映画や写真を見て、意識的に萎縮してきたからですらある。
 私が読んだ虐殺の全ての事件や観た全ての映像は私の心に永遠に鮮明に刻み込まれ、悪魔的犯罪のおぞましい記憶想起物として今も漂っている、というのが私の理由だ。
 これには困ってきたが、私の精神の安定と生への前向きの姿勢を維持するために意識はしてきた。//
 (04) ホロコーストは、私の宗教的感情を動揺させなかった。
 知的にも情緒的にも、私は神の言葉をヨブ記が記録するように受け入れた。その第38章によると、我々人間には神の目的を理解することのできる能力がない。(脚注)
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 (脚注) そう受容することで、私は知らないうちにタルムード(Talmudic)の聖人たちの、人間の理解を超越した問題を考察するのを思いとどまらせる助言、「汝にはむつかしすぎる事柄を探し出すな、汝に隠されている事柄を詮索するな」、に従っていた。A. Cohen, Everyman's Talmud (1949), p.27.
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 多くのユダヤ人が、ホロコーストを理由として宗教的信条を失った。私の父親も、その一人だった。
 かりに何かあったとして、私の信条は強くなった。
 大量虐殺(同時期にソヴィエト同盟で起きていたものを含む)は、人々が神への信仰を放棄するとき、人間は神の心象によって造られていることを否定するとき、そして人間を魂の欠けた、ゆえに消耗し得る物資的対象にしてしまうときに、生じるものだ。//
 (05) 私の心理に対するホロコーストの主な影響は、私に認められてきた生きる毎日を楽しく感じさせたことだ。私は確実な死から救われたのだから。
 自己耽溺や自己肥大に費やすためにではなく、悪魔の思想がどのようにして悪魔的帰結を生じさせたかの歴史上の例を示したり使ったりして、道徳的教訓を広げるよう用いるために、私の生は残されたのだ、と感じたし、今日まで感じている。
 学者たちがホロコーストについて十分に書いてきたので、共産主義を例として用いて、その真実を明らかにすることが使命だ、と私は考えた。
 さらに、精一杯の幸福な人生を送るのが自分の義務だと、また、ヒトラーを許さないと、生がもたらす全てに満足していようと、陽気にしていて気難しくはしないと、私は感じたし、感じている。悲しみと不満は、嘘をつくことや残虐さに無関心であるのと同様に、冒涜の一形態だと私には思える。
 このような考え方は、私の個人的および職業的生活に影響を与えたのだが、私の若い時代の体験の結果だ。そうではなく、苦しい経験を免れた幸運な人々が人生や職業をより冷静に捉えるのは自然なことだ。
 その反面で、自由な人々の心理上の諸問題にはほとんど我慢できないことを、私は認める。とくに、彼らが「アイデンティティの探求」その他の自己探求の種々の形に耽溺しているならば。
 それらは、私に言わせれば、些細なことだ。
 ドイツの随筆家、Johanness Gross が人類は二つの類型に区別することができる、と書くのに、私は同意する。「問題をかかえる人々と、交際をする人々」。
 問題をかかえる者たちは彼ら自身に任せるのが、自己を維持するための重要な要素だ。(後注7) 
 (後注7) FAZ, Magazine,1981.09.11.
 ——
 ②へと、つづく。

2513/R・パイプスの自伝(2003年)⑮。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊①。
 (01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
 一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
 それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
 (02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
 私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
 生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
 ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
 母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
 彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
 1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
 しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
 (03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
 ソ連に対する関心が高まってきた。
 1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
 私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
 ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
 (04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
 だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
 徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
 (05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
 のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
 Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
 列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
 空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
 私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
 訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
 (06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
 (07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
 私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
 帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
 私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
 彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
 ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
 その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
 料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
 彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
 私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
 (08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
 私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
 いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
 1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
 (09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
 物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
 ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
 教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
 この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
 ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
 言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
 しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
 第二は、Joshua Kunitz だった。
 彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
 全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
 しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
 二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
 (10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
 ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
 私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
 また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
 そして、デートをした。//
 (11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
 ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
 我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
 彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
 当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
 彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
 私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
 我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
 どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
 我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
 (12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
 注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
 二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
 二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
 彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
 そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
 彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
 二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
 我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
 ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
 両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
 ——
 ②へと、つづく。
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  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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