秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R.Pipes

2944/R.Pipes1990年著—第18章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄①。
 (01) ソヴィエト・ロシアへの大量テロルの導入の最初の一歩は、全ての法による制約の—実際には法それ自体の—廃止と、法を革命的良心と呼ばれるものに置き換えること、だった。
 このようなことは、他のどこでも起きたことがなかった。ソヴィエト・ロシアは、歴史上初めて、公式に法を法でなくした(outlaw)国家だった。
 この措置によって、国家当局は嫌悪する者を自由に処分できるようになり、対抗者たちに対する組織的大虐殺(pogroms)が正当化された。
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 (02) レーニンは、権力を握る前からずっと、これを構想してきた。
 彼は、パリ・コミューンの致命的な過ちの一つはフランスの法的制度を廃止できなかったことだ、と考えた。
 この過ちを、彼は回避しようとした。
 1918年後半に、プロレタリアート独裁を、「いかなる法にも制約されない支配」と定義した(注15)。
 彼は、法や法廷を、マルクス主義の流儀で、支配階級がその利益を拡大するための道具だと見なした。「ブルジョア」社会では、公平な司法という偽装のもとで、法は私有財産を守護するために役立つ。
 こうした見方は、1918年早くに、のちに司法人民委員になるN. V. Krylenko によって明確に述べられた。
 「法廷は、階級を超越する、社会の階級構造、闘争している集団の階級的利益、支配階級の階級的イデオロギー、そうしたものの本質的部分から独立した、何らかの特別の『正義』を実現することを任務とする装置だ、と主張するのは、ブルジョア社会の最も広がっている詭弁だ。…
 『法廷を正義で支配させよ』—これよりも酷い、現実についての誤魔化しを思い浮かべることはできない。…
 他にも、多数のこのような詭弁を引用することができる。すなわち、法廷は『法』の守護者だ。『政府当局』のように『人格』の調和ある発展を確保するという高次の任務を追求している。…
 ブルジョア的『法』、ブルジョア的『正義』、ブルジョア的『人格』の『調和ある発展』という利益。…
 生きている現実の単純な言語へと翻訳すれば、これが意味するのは、とりわけ、私有財産の護持だ。…」(注16) 
 Krylenko は、このような前提から、私有財産の消滅は自動的に法の消滅をもたらすだろう、社会主義はこうして、犯罪を生む心理的情動を「萌芽のうちに破壊する」だろう、と結論する。
 この見方によれば、法は犯罪を防止するものではなく、犯罪の原因だ。
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 (03) もちろん、完全な社会主義へと移行するあいだ、何らかの司法制度は残ったままだろう。しかし、偽善的な正義という目的ではなく、階級闘争という目的に奉仕するこになる。
 レーニンは、1918年3月にこう書いた。
 「我々には国家が必要だ。強制が必要だ。
 この強制を実現するプロレタリア国家の機関が、ソヴィエトの法廷であるべきだ。」(注17)
 この彼の言葉に忠実に、レーニンは権力を握ったすぐあとに、ペンによる署名を通じて、1864年以降に発展してきたロシアの法的制度全体を廃絶させた。
 彼はこれを、Sovnarkom(人民委員会議=ほぼ内閣)での長い討議のあとで発せられた、1917年11月12日の布令でもって達成した(注18)。
 この布令はまず第一に、ほとんど全ての現存していた法廷を解体させた。上訴のための最高法廷だったthe Senate までも含めて。
 さらに、司法制度に関係する職業を廃止した。行政総裁(the Proculater、司法長官のロシア版)の役所、法的職業、ほとんどの治安判事(justice of the peace)を含めて。
 無傷で残ったのは、些少な犯罪を所管する「地方法廷」(mestnye sudy)だけだった。
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 (04) この布令は、法令全書に載っている法令を明確には無効としなかった。—これは一年後に行なわれた。
 しかし、地方法廷の判事たちに、「打倒された政府の法令にもとづいて決定したり判決を言い渡すのは革命によってそれらが否定されておらず、かつ革命的良心や法的正当性についての革命的感覚と矛盾しない範囲に限られる、と指導される」とする指令を発することによって、同じ効果が生じた。
 この曖昧な定めを明瞭にする修正によって、ソヴィエトの布令のほか「社会民主労働党や社会主義革命党の最小限綱領」と矛盾する法令は無効だと明記された。
 基本的に言えば、犯罪はなおも司法手続に従って処理されたが、罪は、判事(または判事たち)が得た印象によって決定された。
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 (05) 1918年3月、ボルシェヴィキ体制は、地方法廷を廃止し、代わりに人民法廷(People’s Court、narodnye sudy)を設置した。
 この人民法廷は、全ての範疇の市民対市民の犯罪を扱うものとされた。殺人、身体傷害、窃盗、等々。
 この法廷の選任された判事たちは、証拠に関していかなる形式的な事項にも拘束されなかった(注19)。
 1918年11月に発せられた規則は、人民法廷の判事たちが1917年十月以前に制定された法令に言及するのを禁じた。
 さらには、証拠に関する全ての「形式的」規則を遵守する義務を免除した。
 判事たちは評決を出すに際して、ソヴィエトの布令に指導されるものとされたが、それがないときは、「正義に関する社会主義者の感覚」(sotsialistischeskoe pravosoznanie)によった(注20)。
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 (06) 国家とその代表者たちに対する犯罪を私人に対する犯罪と異なって扱うロシアの伝統的な実務に沿って、ボルシェヴィキは同時期に(1917年11月22日)、革命審判所(Revorutionary Tribunals)と称される、フランスの類似の制度を範とした新しい類型の法廷を導入した。
 これは、経済犯罪や「sabotage」を包含する範疇である、「反革命罪」で起訴された者を審理するものとされた(注21)。
 司法人民委員部—当時の長はSteinberg—は、これに指針を与えるべく、1917年12月21日に、追加の指示を発した。これにより、「革命審判所は制裁を課す際に、事案の諸状況と革命的良心が告げるところを指針としなければならない」と明記された。
 「事案の諸状況」をどう決定するのか、何が「革命的良心」なのかは、語られなかった(脚注)
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 (脚注) 革命前のロシア法ですら「善意」や「良心」のような主観的概念でもって機能していた。例えば和解法廷の手続を定める法令は、判事に「(彼らの)良心にしたがって」判決を提示するよう指示していた。同じような定式は、いくつかの刑事手続でも用いられた。帝制時代の法令のスラヴ主義的遺産は、ロシアの指導的な法理論家の一人のLeon Petrazhitskii によって批判されてきた。つぎを見よ。Andrzej Walicki, Legal Philosophies of Russian Liberalism(Oxford, 1987), p.233.
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 したがって、実際には、革命審判所はその設立時から、有罪に関する常識的印象にもとづいて被告人に判決を下す、カンガルー法廷として機能した。
 革命審判所には最初は、死刑判決を下す権限がなかった。
 この状態は、死刑の非公然の導入によって変わった。
 1918年6月16日、<Iavestiia>は、新しい司法人民委員のP. I. Stuchka が署名した「決定」を発表した。こう述べられていた。
 「革命審判所は、法がその制裁「以上の」という言葉を使って措置を定めている場合を除いて、反革命に対する措置を選択するに際していかなる規則にも拘束されない」。
 この複雑な言葉遣いが意味したのは、つぎのことだった。すなわち、革命審判所は自由に、適切と判断すれば犯罪者に死刑判決を下すことができる。但し、政府が死の制裁を命令したときは、そうしなければならない。
 この新しい規則の最初の犠牲者は、Baltic 艦隊のソヴィエト司令官のA. M. Shchastnyi 提督だった。トロツキーがこの人物をその艦隊をドイツに降伏させる陰謀を図ったとして訴追していたのだが、彼の例は、他の将校たちへの教訓として役立った。
 Shchastnyi は、レーニンの命令にもとづき大逆罪の事件を審理するために設置された中央執行委員会の特別革命審判所の審判にかけられ、その判決を受けた(注23)。
 左翼エスエルが死刑判決という嫌悪すべき実務の復活に抗議したとき、Krylenko は、こう答えた。「提督は、『死刑だ』ではなく、『射殺されるべきだ』と宣告されたのだ」。(注24)
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 第二節②へ、つづく。

2939/R.Pipes1990年著—第18章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳。
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 第18章・「赤色テロル」
 「大部分のテロルは、恐怖を抱いた人々が自分を安心させるために行なう無意味な残虐行為だ」。
 F·エンゲルスからK·マルクスへ(注01)。
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 第一節/レーニンとテロル①。
 (01) 国家による体系的なテロルはボルシェヴィキが発明したものだ、とは言い難い。その先例は、Jacobins に遡る。
 そうであったとしても、この点でのJacobins とボルシェヴィキが実際に行なったことの差異は大きいので、ボルシェヴィキがテロルを発明した、と考えてよい。
 フランス革命はテロルで頂点に達したが、ロシア革命はテロルとともに始まった、と言うにとどめよう。
 前者は「短い幕間」、「逆流」と称されてきた(注02)。
 赤色テロルは最初から体制の本質的要素であり、強くなったり弱くなったりしつつも、決して消失しなかった。そして、ソヴィエト・ロシアの上に永遠の暗雲のごとく掛かっている。
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 (02) 戦時共産主義や内戦その他のボルシェヴィズムの評判が悪い問題についてと同様に、ボルシェヴィキの代弁者や擁護者は、テロルの責任の所在を反対派に求めるのを好む。
 遺憾なことだったが、反革命に対する避けられない反応だった、と言われる。言い換えると、機会が別に与えられれば、避けただろう、と言うのだ。
 典型的であるのは、レーニンの友人だったAngelica Barbanoff の見解だ。
 「不幸なことかもしれないとしても、ボルシェヴィキが開始したテロルと抑圧は、外国による干渉や、特権を維持して旧体制を再建しようと決意したロシアの反動活動家によって強いられたものだった」(注03)
 このような釈明は、いくつかの理由で却下することができる。
 かりにテロルが実際に「外国の干渉主義者」や「ロシアの反動家」によってボルシェヴィキに「強いられた」ものだったとすれば、ボルシェヴィキがこれらの敵を決定的に打ち破るとすぐに—すなわち1920年に—、テロルを放棄しただろう。
 ボルシェヴィキは、そんなことを何もしなかった。
 内戦が終了するとともにボルシェヴィキは1918-19年の無差別の大虐殺をやめたけれども、彼らは、それまでの法令や制度を無傷で残した。
 スターリンがソヴィエト・ロシアの紛うことなき主人になると、彼が比類のない巨大な規模でテロルを再開するのに必要な手段は、すぐ手の届く所にあった。
 このことだけでも、ボルシェヴィキにとってテロルは防衛的武器ではなく、統治の道具だった、ということが分かる。
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 (03) ボルシェヴィキによるテロルの主要な装置であるチェカは、1917年12月早くに設立された。それは、ボルシェヴィキに対する組織的な反対派が出現する機会を得る前で、「外国の干渉主義者」がまだせっせとボルシェヴィキに言い寄っていたときだった。これらのことも、上述のような解釈の適切さを確認している。
 チェカの最も残酷な活動家の一人、ラトビア人のKh. Peters がこう言ったことに、我々は依拠することができる。すなわち、1918年の前半にチェカがテロルを開始したとき、「これほどの反革命の組織は、…かつて観察されなかった」(脚注1)
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 (脚注1) PR, No. 10/33(1924), p.10. Peters は、副長官として勤務した。1918年7-8月には、チェカの長官代理として。
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 (04) 証拠資料によると、最も決然たる煽動者のレーニンは、テロルを革命政府の不可欠の手段だと見なした。
 彼はテロルを予防的に—すなわち彼の支配に対する積極的な反対行為が存在しなくとも—行使するつもりでいた。
 彼がテロルを用いたのは、自分の教条の正しさと真白か真黒か以外に多彩に政治を見ることができないことについての、深い所にある自信に根ざしていた。
 それは、Robespierre を駆り立てたのと本質的には同じ考えだった。トロツキーは1904年に早くも、レーニンをRobespierre と比較した(04)。
 フランスのJacobin のように、レーニンは、もっぱら「良い市民」が住む世界を建設しようとした。
 こういう目標があったので、Robespierre のように、「悪い市民」を肉体的に排除することを道徳的に正当化することができた。
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 (05) レーニンが「Jacobin」という名を冠するのを誇るボルシェヴィキ組織を作ったときから、彼は、革命的なテロルの必要について語った。
 1908年の小論「コミューンの教訓」で、この主題に関する意味深い観察を行なった。
 この最初の「プロレタリア革命」の成果と失敗を挙げたあとで、その重大な弱点をレーニンは指摘した。すなわち、プロレタリアートの「行き過ぎた寛容さ」—「道徳的影響力を行使」しようとするのではなく、「敵を絶滅させておくべきだった」(注05)。
 この言明は、政治上の文献で、通常は害虫に対して使われる「絶滅」(extermination)という言葉を人間に対して用いた、最も早い例の一つであるに違いない。
 これまでに叙述してきたように、レーニンは、自分の体制の「階級敵」と定めた者たちを、有害動物の駆除に関する語彙から借りてきて、叙述した。クラクを例えば、「吸血虫」、「蜘蛛」、「蛭」と呼んだ。
 1918年1月に彼は、民衆が組織的虐殺(pogrom)を実行する気になるよう、感情を掻き立てる言葉遣いを用いた。
 「コミューン、村落や都市の小さな細胞は、金持ち、詐欺師、寄生虫を実際的に評価し支配する数千の形態と方法を実行し、試さなければならない。ここでの多様性こそが、成功と唯一の目標の実現を保障する。唯一の目標—ロシアの土壌から、全ての有害な虫を、悪辣なノミを、南京虫を—金持ち等々を—一掃すること。」(注06)
 ヒトラーならば、ドイツの社会民主党の指導者に関して、このような例に倣うだろう。彼はこの党の指導者たちは主としてユダヤ人だと考えていて、その著<Mein Kampf>で、絶滅させることだけがふさわしい<Ungeziefer>あるいは害虫と呼んだ。(注07)
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 (06) 国家の長になった最初の日に起きた出来事ほど、レーニンの心理にテロルへの狂熱が深く組み込まれていることを示すものはない。
 ボルシェヴィキが権力奪取していたとき、カーメネフは第二回全国ソヴェト大会に対して、ケレンスキーが1917年半ばに再導入した前線での脱走兵への死刑の廃止を求めた。
 大会はこの提案を採択し、前線での死刑を廃止した。(注08)
 レーニンは他のことに忙しくて、この出来事を見逃した。
 トロツキーによると、レーニンがこれを知ったとき、「完全に激怒した」。そして、こう言った。
 「馬鹿げている。死刑なしで、どうやって革命ができるのか?
 自分を武装解除して、きみの敵を処理できると思っているのか?
 他に弾圧のためのどんな手段があるのか?
 監獄か?
 両方ともが勝とうとしている内戦のあいだに、誰が監獄に意味を認めるのか? …
 彼は繰り返した。間違いだ、容赦できない弱さだ、平和主義者の幻想だ。」(注09)
 こう語られた時期は、ボルシェヴィキの独裁が辛うじて始まった頃、ボルシェヴィキが継続するとは誰も思わなかったために組織的反対運動が起きていなかった頃、まだ僅かにでも「内戦」の兆候がなかった頃だった。
 レーニンの強い主張に従って、ボルシェヴィキは死刑に関するソヴェト大会の行動を無視し、次の6月に死刑を再導入した。
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 (07) レーニンは舞台の背後でテロルを指揮するのを好んだけれども、チェカの「無実の」犠牲者についての苦情には我慢できないことをときたま知らしめた。
 無実の市民の逮捕を批判したメンシェヴィキの労働者に対して、1919年に、こう答えた。
 「有罪であれ無罪であれ、意識的であれ無意識であれ、数十人または数百人の煽動者を収監するのと、数千人の赤軍兵士や労働者を失なうのと、どちらがよいのか?
 前者の方がよい。」(注10)
 このような理由づけによって、無差別の迫害は正当化された(脚注2)
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 (脚注2) これを、Poznan での1943年の一演説でのSSに対するHeinrich Himmler の訓戒と比較せよ。
 「戦車障害濠の建設中に1万人のロシア女性が消耗して死ぬかどうかは、ドイツのための戦車障害濠が建設されているかぎりで、私の関心外だ。…
 誰か私のところにやって来てこう言う。『女性や子どもたちで戦車障害濠を建設することはできない。非人間的で、彼らは死ぬだろう』。
 私はこう言ってやる。『戦車障害濠が建設されなければドイツの兵士は間違いなく死ぬのだから、きみは自分の血縁の殺害者だ』」。
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 第一節②へとつづく。

2936/R.Pipes1990年著—第17章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)③。
 (13) 7月20日、Ural ソヴェトは発表の原稿を書き、モスクワに対して、公にすることの許可を求めた(注96)。
 発表原稿は、こうだった。
 「特報。Ural 労働者農民兵士代表ソヴェトの執行委員会と革命的幕僚の命令により、前の皇帝、専制君主は、その家族と一緒に、7月17日に処刑された。
 遺体は埋葬された。
 執行委員会義長、Beloborodov、Ekaterinburg にて。1918年7月20日午前10時。」(脚注)
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 (脚注) この文書のテキストは、むしろ疑わしい状況のもとで、西側で利用できるようになった。1956年春に、西ドイツの大衆紙の週刊<七日>の編集部に、自分をHans Meier と名乗る人物が、現われた。彼は、戦争捕虜として、1918年に皇帝家族処刑する決定にEkaterinburg で直接に関与した、この問題について記した文書を書いたが、東ドイツで生活している18年のあいだ隠してきた、と主張した。
 事件について彼が記したことは、詳細だがきわめて風変わりだった。主要な目的は、西側でもう一度生き延びていると流布し始めた物語である、そのAnastasia は家族と一緒に死んだ、ということに関する疑いを除去することにあったようだ。
 Meier の文書は、一部は真実で、一部は捏造だと見られる。最もあり得る説明は、彼はソヴィエトの秘密警察のために働いた、ということだ。彼の文書は、<七日>, No.27-35(1956年7月14日-8月25付)にある。
 Meier の「証拠資料」について、P. Paganutstsi, Vremia i my, No.92(1986)を見よ。著者は、ドイツの裁判所は自称Anastasia によって提起された訴訟に関連してMeier の文書を取り調べ、偽造だと判断した、と述べている。
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 モスクワは、これを発表するのを禁止した。ニコライの家族の死について言及していたからだった。
 この文書の唯一知られている複写では、「その家族と一緒に」とか「遺体は埋葬された」とかは、読みにくい署名をした誰かによって、抹消されていた。この人物は、「公表禁止」と走り書きしていた。
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 (14) Sverdlov は7月20日に、自分が原稿を書いた承認する発表文をEkaterinburg に電信で送り、モスクワのプレスで公にした(注97)。
 7月21日、Goloshchekin は、Ural 地方ソヴェトに、報せを伝えた。その報せについて知らなかったようだが、このソヴェトは一週間前に前皇帝を射殺する決定をした。この決定は今では、予定どおり実行されていた。
 Ekaterinburg の住民は、7月22日に配達された新聞でこれについて知った。翌日には<The Ural Worker>(Rabochii Urala)で改めて報じられた。
 この新聞は、つぎの見出しで伝えた。「白衛軍、前皇帝と家族の誘拐を企て。陰謀は暴露さる。Ural 地方ソヴェト、犯罪企図を予期し、全ロシア人の殺戮者を処刑。最初の警告だ。人民の敵、王君に手を差し伸べる以外に専制君主制を復活できず。」(注98)
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 (15) 7月22日、Ipatev 邸の警護者たちは退去した。Iurovskii は、全員で分けるよう8000ルーブルを渡し、前線へ動員されるだろうと告げた。
 その日、Ipatev は義理の妹から電報を受け取った。「居住者は出て行った」(注99)。
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 (16) 目撃証人たちは、民衆は—少なくともEkaterinburg の住民は—、前皇帝の処刑について知らされても何の感情も示さなかった、ということで一致している。
 死者を追悼して、モスクワの教会で若干の儀礼が行なわれた。だが、それ以外に反応はなかった。
 Lockhart は、「モスクワの民衆は、驚くべき無関心さでもって、報せを受け取った」と記した(注100)。
 Bothmer も、同様の印象をもった。「民衆は皇帝殺害を、冷淡な無関心さで受け入れた。上品で冷静な人々ですら、恐怖に慣れすぎていて、自分たちの心配と欲求に心を奪われすぎていて、特別なことと感じることができなかった。」(注101)
 前の首相のKokovtsov ですら、7月20日にペテログラードの路面電車に乗っているときに、肯定的な満足感を感知した。
 「哀れみや同情のわずかな痕跡すら、どこにも観察しなかった。
 報道は声を出して読まれた。にやにや笑い、冷笑、嘲笑とともに。あるいは、きわめて心なき論評とともに。
 きわめてうんざりする言葉も聞いた。「とっくになされるはずだった」。「やあ、ロマノフの兄貴、おまえの踊りは終わりだ」(注102)。
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 (17) 農民たちは、思いを胸にしまい込んだ。
 しかし、独特の論理で表現された、彼らの反応を一瞥することができる。ある老農夫が、1920年に某知識人に打ち明けた思いからだ。
 「今、地主の土地は皇帝のNicholas Alexandrovich によって我々に与えられた、と確実に知っている。
 これのために、大臣たち、ケレンスキー、レーニン、トロツキー、その他の者たちは、皇帝をまずシベリアに送り、そして殺した。子どもたちも同じ。
 その結果、我々には皇帝はおらず、彼らが永遠に民衆を支配することができた。
 彼らは我々に土地を与えようとはしなかった。だが、子どもたちは、彼らが前線からモスクワやペテログラードに戻ったときに、彼らを止めた。
 今は、彼ら大臣たちだ。彼らは我々に土地を与え、抑えつけなければならないからだ。
 しかし、我々を締め殺すことはできない。
 我々は強くて、持ちこたえるだろう。
 そして、いずれは、老いぼれ、息子たち、孫たちが、誰でもよい、我々は彼らボルシェヴィキの始末をつけるだろう。
 心配するな。
 我々の時代がやって来る。」(注103)
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 第14節/ニコライの処刑をモスクワが発表(2)。
 (01) つづく9年間、ソヴィエト政府は、頑なに公式のウソにしがみついた。Alexandra Fedorovna と彼女の子どもたちは安全に生きている、というウソだ。
 Chicherin は1922年に、ニコライの娘たちはアメリカ合衆国にいる、と主張した(注104)。
 このウソは、皇帝家族全員が一掃されたということを受け入れられない君主制主義者たちに擁護された。
 Solokov は、西側に着いたあと、君主制主義者たちに冷遇された。ニコライの母親、Dowager Marie 皇妃、Nikolai Nikolaevich 大公、こうした生存中の著名なロマノフ家の者たちは、Solokov と会うことすら拒否した(注105)。
 Solokov は無視され、貧困の中で、数年後に死んだ。
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 (02) ソヴィエト協力者のP. M. Bykov は、Ekaterinburg で1921年に出版したこの事件に関する初期の説明書で、皇帝家族に関する真実を語っていた。
 しかし、この本は、すみやかに流通から排除された(注106)。
 元来の版を維持しないものがパリで出版されたあとで、Bykov はようやく1926年に、Ekaterinburg の悲劇に関する公式の共産党版説明書を書くことを認められた。
 モスクワが主要なヨーロッパ言語に翻訳したこの書物は、ついに、Alexandra と子どもたちが前皇帝とともに死んだ、ということを認めた。
 Bykov はこう書く。
 「遺体が存在しないことについて、多くのことが書かれた。
 しかし、…死者の遺体は、焼却されたあとで、鉱床から遠く離れた場所へ持っていかれ、泥地の中に埋葬された。そこは、有志や調査員たちが掘り出さなかった地域にあった。
 遺体はそこに残っており、今までに自然に従って腐敗している。」(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.126. 家族の死を初めて認めたのは、つぎだと言われている。P. Iurenev, Novye materialy o rasstrele Romanovykh. Krassnaia gazeta, 1925/12/28(Smirnoff, Autour, p.25).
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 (03)  Iurovskii は、Ekaterinburg からチェコに向かって逃亡したのち、やがてのちにモスクワへ移った。そこで、政府のために働いた。
 職務に対する報奨として、チェカの役員団の一人に任命されるという栄誉を受けた。
 1921年5月に、レーニンに温かく迎えられた(脚注2)
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 (脚注2) Leninsksia Gvardiia Urala(Sverdlovsk, 1967), p.509-514. 皇帝家族の運命に関心をもったあるイギリスの将校は、1919年にEkaterinburg の彼を訪問した。Francis McCullagh, Nineteenth Century and After, No.123(1920年9月), p.377-p.427. Iurovskii は、Ipatev 邸の指揮者だったあいだ日記をつけていた。その日記は、つぎの中にある短い断片的文章を除いて、未公刊のままだ。Riabov’s article in Rodina, No. 4(1989年4月), p.90-91.
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 彼がニコライを殺害した回転銃は、モスクワの革命博物館の特別の保管庫の中に置かれている。
 1938年の秋にクレムリン病院で、自然の死を遂げた(注107)。
 彼は、チェキストかつ「ジェルジンスキの片腕の同志」として、小さいボルシェヴィキの英雄で成るpantheon に、適切な位置を占めた。小説や伝記の対象人物でもあった。それらは彼を、「典型的」なチェキストで、「閉鎖的で厳格だが、柔らかい心をもつ」と叙述した(108)。
 Ekaterinburg の悲劇に関係するその他の主要人物は、Iurovskii ほどうまくは生きなかった。
 Beloborodov は最初は、経歴を早く昇った。1919年3月には、中央委員会と組織局の一員として受け入れられた。そののち、内務人民委員の地位を得た(1923年-1927年)。
 しかし、トロツキーとの友情関係によって破滅した。1936年に逮捕され、その二年後に射殺された。
 Goloshchekin も、スターリンの粛清の犠牲者になり、1941年に殺された。
 二人とも、のちに「名誉回復」した。
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 (04) Ipatev 邸は長い間、クラブの建物や美術館として役立ってきた。
 しかし、当局はその建物を見るためにEkaterinburg(Sverdlovsk に改称)に来る訪問者の数の多さに不安になった。訪問者の中には、見たところ宗教巡礼者もいた。
 1977年秋、当局は取り壊しを命じた。
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 13節・14節、終わり。

2935/R.Pipes1990年著—第17章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
 (08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
 London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
 「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
 赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
 同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
 この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
 Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
 最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
 ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
 中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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 (09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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 (10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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 (11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
 <The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
 「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
 付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
 前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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 (12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
 彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
 もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
 7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
 Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
 Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
 このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
 それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
 ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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 ③へとつづく。

2934/R.Pipes1990年著—第17章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)①。
 (01) モスクワがロマノフ家の殺害を命じた、との争う余地のない証拠資料がかりに存在しなかったとしても、ニコライの「処刑」に関する公式の報道がその決定があったとされたEkaterinburg でではなく、モスクワで行なわれたという事実からしても、それが事実だったかを強く疑い得ただろう。
 実際に、Ural 地方ソヴェトは、すでに外国で報道されていた、発生したあとの5日間は、事件を公的に発表することを許されなかった。
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 (02) 証拠資料は決定的ではないけれども、皇妃と子どもたちの運命はきわめて微妙な問題だったがゆえに、モスクワはEkaterinburg に対して、発表を控えるよう命令したように見える。
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 (03) 問題は、この時期にボルシェヴィキが大いに取り入っていた、ドイツ人だった。
 ドイツ皇帝(Kaiser)はニコライの従兄で、ニコライの子どもたちの名付け親だった。
 彼〔Wilhelm 二世〕がその気になれば、ブレスト=リトフスク条約による解決の一部として、前皇帝とその家族をドイツに引き渡せと要求できただろう。この要求を、ボルシェヴィキは断わることのできない立場にあった。
 しかし、彼は何もしなかった。
 3月早くにデンマーク王がロシア前皇帝らのために取り持つよう求めたとき、ドイツ皇帝は、ロシアの皇帝家族の庇護場所を提供することはできない、と反応した。その理由は、ロシア人は君主制の復活の企てだと解釈するだろう、ということだった(注86)。
 スウェーデン王から、ロマノフ家がその苦境から楽になるのを助けるよう求められても、彼は拒否した(注87)。
 こうした振る舞いについての最もあり得る説明を、Bothmer が行なった。ドイツの左翼諸政党に対する恐れによる、というものだ(脚注1)
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 (脚注1) K. von Bothmer, Mit Graf Mirbach in Moskau(Tübingen, 1922), p.104. あるドイツ人学者は、ドイツの行動を擁護して、Alexandra が言ったこと—娘たちの家庭教師だったGilliard が記録した—を引用した。自分は「ドイツに助けられるより、ロシアで激烈に死にたい」。Jagow, BM, No.5(1935), p.351. そうかもしれないが、しかしもちろん、ドイツ政府は当時に彼女がこのように考えていることを知りようがなかった。
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 (04) ドイツ政府は、ニコライの運命に対して無関心だったにもかかわらず、ドイツの血統の前皇妃、彼女の娘たち、その他のロシア宮廷のドイツ人女性たち、とくにAlexandra の妹のElizabeta Fedorovna、の安全にはある程度の関心を示した。彼らは、これら女性をまとめて「ドイツの皇女たち」として言及した。
 Mirbach〔ロシア駐在ドイツ大使〕は5月10日に、Karakhan やRadek とともにこの問題を取り上げ、政府につぎのように報告した。
 「もちろん、打倒された体制を擁護するような冒険的行為をしてはいけないが、それにもかかわらず、私は、人民委員たちに対し、<ドイツの>皇女たちはあり得る全ての配慮でもって扱われる、とくに、彼女たちの生命への脅威はもちろんだが、どんな小さなごまかしもあってはならない、という期待を表明する。体調の悪いChicherin に代わってKarakhan とRadek は、きわめて協力的にかつよく理解して、私の見解を聞いてくれた。」(注88)
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 (05) 7月17日の朝、前夜の出来事に関する報告を、Ekaterinburg にあるソヴェトのある官僚—ほとんど確実に、その議長であるBeloborodov—は、クレムリンに電信で送ったと見られる。
 レーニンの生涯についてはきわめて詳細な編年記録があって、一時間ごとに彼の公的な活動を辿っている。しかし、不可解なことだが、その7月17日の記録はこう記している。
 「レーニンは(正午に)Ekaterinburg からの通信を受け、封筒に書く。『受領した。レーニン』」(注89)。
 Ekaterinburg はこの時期にはクレムリンと郵便では連絡しておらず直接の電信によっていたので、問題の通信は手紙ではなく電報だった、ということを当然視することができる。
 つぎに、当該の編年記録は通常は、レーニンに対する、挙げている文書の要点を記載している。
 この場合での省略が示唆するのは、共産党の文献がレーニンとの関係をつねに否定する主題、すなわち皇帝家族の殺害にそれは関連していた、ということだ。
 通信文は、ニコライの妻と子どもたちの運命に関して、明らかに十分に詳細ではなかった。そのことは、説明を求めてクレムリンがEkaterinburg に電信したことで分かる。
 同じ日ののちに、Beloborodov はモスクワへ、尋問に対する答えであるかのような暗号化した通信を送った。
 Solokov はEkaterinburg の電信電話局で、この電信文の写しを見つけた。
 彼はこの暗号を解読できなかった。
 ようやく二年後にパリで、あるロシアの暗号使用者が、解読した。
 解読された通信文は、皇帝家族の最終的運命に関する問題を決着させた。
 「モスクワ、クレムリン。人民委員会議秘書Gorbunov、返信証明。
 Sverdlov に知らせる、家族全員が長と同じ運命に遭う。公式には、家族は避難中に死ぬだろう。Beloborodorv。」(注90)
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 (06) Beloborodov の通信文は、その夜にモスクワに届いた。
 Sverdlov は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の幹部会に報せを伝えた。注意深く、ニコライの家族の運命に言及することを省略して。
 彼は、前皇帝がチェコ人の手に落ちることの重大な危険性について語り、Ural 地方ソヴェトの行動について幹部会から正式の是認を得た(注91)。
 彼は、適切な時期があった6月か7月初旬に皇帝家族をモスクワへ移送しなかった理由を説明するという、面倒なことしなかった。
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 (07) Sverdlov はその日の遅く、クレムリンで進行中だった人民委員会議の会合に立ち寄った。
 目撃者は、その光景をこう叙述する。
 「Semashko 同志が報告していた公衆衛生の企画に関する議論のあいだに、Sverdlov が入ってきて、Ilich(レーニン)の後ろの椅子に着席した。
 Semashko は終わった。
 Sverdlov は身体をIlich の方に曲げて近づき、何かを言った。
 『Sverdlov 同志は、出席者に対して、発表することを求める』。
 Sverdlov はいつもの落ち着いた声で始めた。
 『私は、言わなければならない。地方ソヴェトの決定により、Ekaterinburg で、ニコライは射殺された。Alexandra とその息子は、信頼できる者の手にある。
 ニコライは逃亡しようとした。チェコ人が近くに来ていた。
 〔全ロシア・ソヴェト〕執行委員会幹部会は、是認を与えた。』
 一同、沈黙。
 Ilich が提案した。『条項から条項へ、企画書を読み進まなければならない。』
 条項から条項へと読むのが進行し、統計に関する計画案の議論がつづいた。」(注92)
 このような偽装でもってどうしようとしていたのか、我々が知るのは困難だ。必ずや、ボルシェヴィキ内閣の一員たちは真実を知っただろうからだ(脚注2)
 このような成り行きは、恣意的な行動を正当化する「正しさ」を必要とするボルシェヴィキを満足させたように見える。
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 (脚注2) Bruce Lockhart は、7月17日の夕方にすでに、Karakhan が自分に、皇帝家族の全員が死んだと言った、と主張する。<あるイギリス人工作員の回想>(London, 1935), p.303-4.
 ニコライの4人の娘たちは誰の「手」のうちにいるのかと、なぜ誰かが問わなかったのか、不思議なことだ。
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 ②へとつづく。

2930/R.Pipes1990年著—第17章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第10節/殺害(2)②。
 (07) 苛酷な作業だった。
 Iurovskii は各処刑者に一人ずつ犠牲者を割当てて、真っ直ぐに心臓を狙うこととしていた。
 一斉射撃が止まったとき、犠牲者のうち6人—Alexis、三人の少女、Demidova、Botkin—は、生きていた。
 Alexis は、血溜まりの中で呻いていた。Iurovskii は、頭に二発撃って、終わらせた。
 Demidova は、うち一つには金属の箱が中にある枕を使って、激しく防衛した。だが彼女も倒れ、銃剣で差し抜かれた。
 「少女たちの一人が突き刺されたとき、銃剣はコルセットを貫こうとしなかった」と、Iurovskii は不満ごちた。
 彼が思い出すように、「手続」の全体は、20分を要した。
 Medvedev も、光景を思い出す。「彼らは、身体のさまざまな部分に銃弾で負傷した。顔は血で覆われていて、衣服にも血が染み込んでいた。」(注78)
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 (08) トラックのエンジン音がかき消してはいても、射撃音は街路からも聞こえた。
 Solokov 委員会での目撃証言者の一人で、外部警護者たちが宿舎にしていた街路の向かいのPopos の家の居住者は、こう思い出した。
 「私は、記憶にある16日から17日の夜を十分に再現すことができる。その夜私は、一睡たりとも眠れなかったからだ。
 深夜の頃、私は中庭へ行き、物置に近づいた。
 私は不安を感じ、止まった。少しのちに、遠くの一斉射撃の音が聞こえた。
 およそ15発だった。続いて、別の射撃があった。3発か4発だった。それらは、ライフル銃の音ではなかった。
 2時を過ぎていた。
 射撃音は、Ipatev 邸からきていた。
 まるで地下室から聞こえてくるように、くぐもって聞こえた。
 そのあと私は、急いで自分の部屋に戻った。前皇帝が拘禁されている家の警護者が、上から私を見ることができるのではないか、と怖くなったからだ。
 戻ったとき、隣人が私に尋ねた。『聞いたか?』。
 私は答えた。『射撃音を聞いた』。
 『聞いた?』
 『うん、聞いた』と私は言った。そして、我々は沈黙した。」(注79)
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 (09) 処刑者たちは、上階からシーツを持ってきた。そして、死体から貴重品を剥ぎ取って着服し、血が滴り落ちている遺体を、即席の担架で、低層階を通って、正門で待つトラックまで運んだ。
 彼らは、粗い軍用布のシーツを車の床に広げ、遺体をつぎつぎと上に重ね、同様のシーツでそれらを巻いた。
 Iurovskii は、死で威嚇して、盗んだ貴重品の返還を要求した。そして、金の時計、ダイヤの煙草入れ、その他の物を没収した。
 そして、トラックに乗って離れた。
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 (10) Iurovskii は、Medvedev に、清掃を監視する責任を課した。
 警護者たちは、柄付き雑巾、水バケツ、血痕を除去するための砂を持ってきた。
 彼らの一人は、作業の光景をつぎのように叙述した。
 「部屋は、火薬の霧のような何かで満たされており、火薬の臭いがした。…
 壁や床には、弾痕があった。一つの壁にはとくに多数の弾痕(銃弾そのものではなくそれによる穴)があった。…
 壁のどこにも銃剣の傷はなかった。
 壁や床の弾痕の周りには、血があった。壁には血が跳ねたものや染みがあり、床には小さな血溜まりがあった。
 弾痕のある部屋からIpatev 邸の中庭を通って横切る必要があった他の部屋の全てにも、血痕や血溜まりがあった。
 正門に続く中庭の石にも、同様の血の染みがあった。」(注80)
 翌日にIpatev 邸に入ったある警護者は、完全に乱雑した状態を見た。衣類、書籍、ikon が乱雑に散らばっていた。それは、隠された金や宝石類が隈なく探され、奪われた跡だった。
 雰囲気は陰鬱で、警護者たちは会話しなかった。
 チェカの一員たち(チェキスト, chekist)は低層階の自分たちの区画で残りの夜を過ごすのを拒み、上の階に移動していた。
 従前の居住者をただ一つ思い出させるものは、皇女のspaniel犬のJoy だった。この犬は、見逃されていた。彼は皇女の寝室のドアの外にいて、入れてくれるのを待っていた。
 警護者の一人はこう証言した。「ひそかに思ったことをよく憶えている。キミは、待っても無駄だよ」。
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 (11) 当分のあいだは、外部警護者はその職にとどまった。Ipatev 邸では何も変化していない、という印象を作り出すためだった。
 この欺瞞の目的は、偽りの逃亡の企てを演じることだった。この企ては、皇帝家族が殺されたと言われることになるだろう過程で彼らは「避難」しており、その間に行なわれた、ということになる。
 7月19日、ニコライとAlexandra の、私的文書を含む最も重要な持ち物が、列車に荷積みされ、Goloshchekin によってモスクワへと運ばれた(注81)。
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 第10節/殺害(2)、終わり。

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2913/R.Pipes1990年著—第17章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第三節/Ekaterinburgのボルシェヴィキは監禁を望む。
 (01) Tobolsk には鉄道路線がつながっていなかったので、革命の騒乱にただちには巻き込まれなかった。この時期には「革命」は主として、鉄道を使って移動する武装した者たちによって拡散されたのだ。
 このことは、つぎの説明になる。すなわち、1918年2月まで、Tobolsk には共産党の細胞がなく、そのソヴェトはエスエルとメンシェヴィキの支配下にあった。
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 (02) Tobolsk の隔離状態は、近くのEkaterinburg とOmsk のボルシェヴィキが皇帝家族の居宅に関心を示したときに、終わった。
 Ekaterinburg は2月に、Ural 地方のソヴェト大会を開催し、ボルシェヴィキが支配する、5名で成る幹部会を選出した。
 その議長の26歳のAlexander Beloborodov は、その職業は錠前屋または電気技師だったのだが、かつて立憲会議へのボルシェヴィキ代議員だった(脚注1)
 しかし、幹部会で最も影響力をもったのは、Sverdlov と友人関係があったために、Ural 地方の軍事人民委員のIsai Goloshchekin だった。
 1876年にユダヤ人家庭にVitebsk で生まれ、1903年にレーニンに参加し、1912年に中央委員会の委員になった。
 Goloshchekin はまた、Ekaterinburg のチェカの一員としても務めた。
 この人物とBeloborodov は、皇帝家族の運命に対して重大な役割を果たすことになった。
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 (脚注1) この人物について、Granat, XLI, Pt. p.1, p.26-29 を見よ。反ユダヤ主義君主制主義者たちは、皇帝家族の殺害を非難しようと決意していて、Beloborodov の本当の名前は「Weissbart」だと決定した。これにはいかなる根拠もないけれども。
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 (03) 1918年の春と夏のEkaterinburg の政治状況に関して我々が知っていることは、ほとんどただ一つの共産党文献から来ている。Ekaterinburg の悲劇に関する最も初期の共産党の見方を提示してもいる、P. M. Bykov の文書だ。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキは、前皇帝がTobolsk で享受している快適さに立腹し、前皇帝とその周囲の者たちに認められた自由の程度を警戒した。
 彼らは、春の雪解けの到来とともに皇帝家族は逃亡するのではないかと、怖れた(注11)。
 その当時、あらゆる種類の疑わしい者たちがTobolsk やその周りに集まっている、という根強い風聞が広まっていた(脚注2)。
 Ekaterinburg の共産党員たちの中には、皇帝の警察に迫害されたための素直な感情をもって、ニコライ二世—血のニコライ—を憎悪する過激な者もいた。
 しかし、多くの共産党員たちは、君主制の復活を怖れていた。何らかの抽象的な政治的考慮からというより、自分たちの生命についての恐怖からだった。
 彼らは、Robespierre がLouis 16世に対して国民公会が死刑判決を下すよう申立てた—「もし国王が有罪でないならば、彼から王冠を奪った者たちはどうなるのだ」(注12)—ように、判断した。
 彼らは、ロマノフ家が一刻も早く迅速に退去することを望んだ。そして、前提皇帝が逃亡しないことを確実にするために、Ekaterinburg で彼らの統制下に置こうとした。
 このために、1918年の3月-4月に、Sverdlov と接触した。
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 (04) Omsk も同様の考えだったが、モスクワとの連絡関係がなく、最後には敗れた。
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 (05) Ekaterinburg にあるUral 地方ソヴェトは、1918年2月に早くも皇帝家族について討議したが、そのときに川の氷が解ける5月までに逃亡するか誘拐されるだろう、という怖れを表明する者もいた。
 3月初め、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、Sverdlov の許可を得て、皇帝家族を移動させることを要請した(注13)。
 同様の要請は、Omsk からもあった。
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 (06) 全ての可能性を排除すべく、Ekaterinburg は3月16日に、Tobolsk へ、そこの状況を探索する秘密使節団を派遣した。
 使節団が戻って報告書を提出したあと、Ekaterinburg はTobolsk へ、皇帝家族を移送するための基礎作業を行なう武装部隊を派遣した。
 また、想定される逃亡経路に、巡視兵を配置した。
 この武装部隊が3月28日にTobolsk に着くと、同じ目的でOmsk が派遣した武装共産党員の一グループが先にいることに気づいた。
 2日前に到着したOmsk グループは、市議会(Duma)を解散させ、現地のソヴェトからエスエルとメンシェヴィキを追放していた。
 両グループは、どちらに権限があるかを論争した。
 弱かったEkaterinburg 派遣隊は、撤退せざるを得なかった。しかし、4月13日にボルシェヴィキのS. S. Zaslavskii が率いる増強部隊とともに戻ってきて、権限を掌握した。
  Zaslavskii は、皇帝家族を監禁するよう要求した(注14)。
 このために。監獄内に小部屋が用意された(注15)。
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 (07) こうした出来事によって、それまで皇帝家族が享受していた静穏さは破られた。
 Alexandra は、彼女の日記の3月28日/4月10日に、子どもたちの助けを借りて、宝飾品を衣服に「縫い合わせた」と記した(脚注2)
 皇帝家族は逃亡する計画を立てていた、と明らかにする証拠資料はない。また、支持者がこのために案出した謀略的構想なるものも、根拠がないことが判った。しかし、追放されるのではなく幽閉されるのだという重苦しい感覚が、皇帝家族の居宅に充満した。
 どんなに微かで非現実的なものであれ、ボルシェヴィキから逃れる全ての可能性が、今や消失した(注16)。
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 (脚注2) 特異な英語で書かれた前皇妃の日記の全体は、公刊されていない。アメリカの報道記者のIsaac Don Levine は、日記の写真と範囲が広い抜粋を、つぎで公表した。Chicago Daily News, 1920年 6月22-26日,28日。Eyewitness to History(New York, 1963)。
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 (08) 3月末、Goloshchekin は、モスクワへと向かった。
 彼はSverdlov にTobolsk の状況を報告し、皇帝家族が逃亡するのを阻止する緊急の措置が必要だと警告した。
 ほとんど同時期に—4月第一週に—、モスクワのソヴェト中央執行委員会の幹部会も、地方警備の代表者からTobolsk の状況に関する報告を聞いた。
 5月9日にSverdlov が中央執行委員会に行なった説明によると、地方に関するこの情報によって、政府は前皇帝をEkaterinburg へと移送するのを是認するよう説得された。
 しかしながら、この説明は、政府の意図に反して展開した事態を事後的に正当化する試みだった。
 なぜなら、〔中央執行部委員会〕幹部会は4月1日に、「可能ならば」ロマノフ家をモスクワに移動させると決定したことが、知られている(注17)。
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 第三節、終わり。

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2905/R.Pipes1990年著—第16章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱③。
 (10) 調達派遣隊の残忍な行動があったにもかかわらず、僅かばかりの食料しか諸都市には供給されなかった。彼らがどうにかして調達した少量の食料は、隊員たちによって消費された。
 食料派遣隊が組織されて二ヶ月後の1918年7月24日、レーニンはスターリンに対して、食料はまだペテログラードにもモスクワにも届いていない、と伝えた(注96)。
 考えられ得る最も残忍な政策が大失敗を喫して、レーニンは、激怒の感情に陥った。
 収穫の時期が近づき、村落「前線」へ派遣された者たちが失敗を継続していたとき、レーニンはボルシェヴィキの司令官たちの優柔不断さを難詰し、さらに苛酷な復讐を行なうことを命令した。
 8月10日、彼はTsiurupa に電報でこう伝えた。
 「1. Saratov にはパンがあり、我々がそれを徴集することができないのは、酷い、気狂いじみた醜聞だ。…
 2. 布令案。全てのパン生産地区に、<富者>の中から25-30人の人質を取る。この人質たちは、<全ての>余剰の収集と配送について、<生命>でもって答える。」(注97)
 Tsiurupa は、こう答えた。「現実の力があって初めて、人質を取ることができる。そんな力は存在するのか? 疑わしい。」
 レーニンは、こう返答した。「私は人質を『取る』ことではなく、『指名する』ことを提案している」(注98)。
 これは、人質取りを行なうことに、最も早く言及したものだった。そして、4週間のちに、「赤色テロル」のもとで、大規模に実行されることになる。
 レーニンがこの野蛮な政策に真剣だったことは、農民反乱が進行中のPenza 州に対する彼の指示から、明白になる。
 「5つの地区での蜂起を弾圧するあいだ、全ての穀物の余剰を所有者から奪うために、全ての努力を傾注し、全ての措置を採用せよ。そうして、蜂起の弾圧と同時にこの目的を達成せよ。
 この目的達成のために、全ての地区で人質を指名(人身拘束をするのではなく指名)せよ。氏名を明確にして、クラク、富者、搾取者の中から。そして、この者たちに、指定された施設または穀物集積地点への徴集と配送について、および例外なく全ての穀物の余剰の当局への引渡しについて、責任を負わせるものとする。
 人質たちは、この引渡し物の正確で迅速な提供について、自分たちの生命でもって答えることができる。…」(注99)
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 (11) 1918年8月6日、レーニンは、「ブルジョアジー」の「反革命」部分に対する「容赦なき大量テロル」および飢えを「武器」として用いる「裏切り者の容赦なき根絶」に関する布令を発した。
 余剰の穀物の奪取に抵抗する全ての者は、「運び屋」を含めて、革命審判所へと送致するものとされた。また、かりに武装したままで逮捕されれば、その場所で射殺されるものとされた(注100)。
 レーニンは、憤怒の感情に魅せられたごとく、「クラク」からはその余剰穀物のみならず、翌年の収穫のために必要な穀物〔種〕も剥奪せよ、と命令した(注101)。
 彼のこの時期の演説や文書による指示は、農民の抵抗に対する怒りによって理性的に思考する力をなくしている、ということを示している。
 このことは、1918年8月の工業労働者に対する訴えによっても明確だ。その中で彼は、つぎのように、「最後の、決定的闘争」に立ち上がることを呼びかけた。
 「クラクは狂って、ソヴィエトの権威を嫌悪し、数十万の労働者を窒息させ、切り刻もうとしている。…
 クラクが無数の労働者を切り裂くか、労働者たちが、勤労者の権力に反抗する、民衆の中の不正な少数派の蜂起を容赦なく粉砕するか、のいずれかだ。
 ここには、中間の立場はあり得ない。…
 クラクは、最も野獣的で、最も粗暴で、最も苛酷な搾取者だ。…
 この吸血鬼たちは、戦争中に民衆の欠乏に乗っかって富を固めてきた。こいつらは、幾千万も蓄えてきた。…
 この蜘蛛野郎たちは、戦争で困窮した農民と飢えた労働者を犠牲にして太ってきた。
 この寄生虫は、勤労者の血を吸っており、都市や工場の労働者が飢えるほどに豊かになってきた。
 この吸血鬼たちは、地主の土地をその手に集めたし、集め続けている。そして、貧しい農民を繰り返して隷従させている。
 これらクラクに対する容赦なき戦争に決起せよ! クラクに死を!」(脚注)
 ある歴史家が適切に観察したように、「これはおそらく、近代国家の指導者が、民衆をジェノサイド〔集団虐殺〕と社会的に同義のものへと掻き立てた、最初の例だった」(注102)。
 攻撃的行動を自衛活動と偽装するのは、レーニンに特徴的なことだった。この場合には、「クラク」が肉体的に労働者階級を殲滅するという、完全に空想上の脅威に対する自己防衛だ。
 この問題に関するレーニンの狂信的考えには、際限がなかった。
 1919年12月に、彼はこう言った。「我々」は—この代名詞はこれ以上明確化されていないが、彼自身やその仲間たちを含んでいそうにない—、穀物の自由取引を許容すれば「すぐに死に絶えるだろう」(注103)。
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 (脚注) Lenin, PSS, XXXVII, p.39-41. ロベスピエールのつぎの言葉を参照せよ。「富農が執拗に民衆の血を吸いつづけるならば、我々は民衆自体を彼らに引き渡そう。裏切り者、陰謀者、不当利得者に対して正義を実行するのにあまりに多数の障壁があるならば、民衆に彼らを処断させよう。」Ralph Korngold, Robespierre and the Forth Estate(New York, 1941), p.251.
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 (12) 農民の抵抗に対処するため、ソヴナルコム〔人民委員会議〕は8月19日に、戦争人民委員のトロツキーに、民間人派遣隊を含めて、関係する全ての部隊に関する責任を委ねた。このときまでは、これらの部隊は供給人民委員部に従属していた(注104)。
 Tsiurupa はその翌日、食料徴発活動を軍事化する指令を発した。
 食料派遣隊は、州と軍事当局の司令下に置かれ、軍事紀律に服した。
 各派遣部隊は最少で75人の隊員と2または3の機関砲を有するものとされた。
 これらは、近傍の騎兵部隊との連絡を維持し、農民の抵抗の強さに応じて必要とあれば、複数の部隊は一つに合同されるべく編成変えするものとされた。
 正規の赤軍部隊に対してと同じく、これらの各部隊には政治委員が任命された。貧民委員会(the Committees of the Poor)を組織することは、この政治委員の責任だった。
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 第五節、終わり。

2904/R.Pipes1990年著—第16章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱②。
 (06) 1918年の後半に村落地域で起きた出来事については、つぎの当時の新聞紙の記事が代表的に示している。
 「調達派遣隊がOrel 州のGorodishchenskaia volost’ に着いたとき、女性たちは、引き渡すことをしないで、穀物を水の中に投げ込み、予期せぬ訪問者が去ったあとで、掬い上げた。
 同じ州のLavrov Volost’ では、農民たちが『赤色派遣隊』を武装解除した。
 Orel 州では、徴発が最も広い規模で実施された。
 通常の戦争のためのごとくに、準備がなされた。
 『ある地区では、パンの徴発のあいだ、個人の全自動車、乗用馬、馬車が動員された』。
 Nikolskaia Volost’ とその近傍では、通常の戦闘が起きる。両者の側に死傷者が出る。
 派遣隊は、Orel に弾薬と機関砲を送るよう電信で要請した。…
 Saratov 州から、『村落は警戒し始め、戦闘の用意をしている』との報告が入る。
 Volskii 地区のいくつかの村落は、三又鋤で赤軍兵団に抵抗し、兵団を解散させた。
 Tver 州では、『食料探索のために村落に送られたパルチザン派遣隊は、至るところで抵抗に遭遇した。多くの場所からこうした遭遇に関する報告が来ている。徴発から穀物を守るために、農民たちは森の中に隠れ、穀物を地中に埋めている。』
 Simbirsk 州のKorsun の市場では、穀物を徴発しようとしている赤軍と闘うために農民たちがやって来た。一人の赤軍兵士が殺害され、数人が負傷した。」(注89)
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 (07) 1919年1月、Izvestia は、Kostroma 州の一村落で蜂起している『白衛クラク』に関する政府による調査の報告を掲載した。これは、村落「ブルジョアジー」に対する攻撃が現実にどのようなものであったかを示している。
 この調査は、村落の〔ソヴェト〕執行委員会の議長が農民の請願者たちをいつも殴ったこと、ときには杖で叩いたことを、明らかにしていた。
 犠牲者たちの中には、靴を剥ぎ取られ、雪の中で座らされる者もいた。
 いわゆる食料徴発は、現実にはふつうの強盗だった。その過程で、農民たちは、コサック式鞭で懲らしめられた。
 ある村落に接近すると、食料派遣隊は農民を脅かすために機関砲を撃つ。
 そして、闘争が始まることになる。
 「農民たちは、打撃から身を守るために5枚かそれ以上のシャツを着なければならなかった。だが、笞には鉄線が入っているので、それは大して役立たない。鞭打ちのあと、シャツが肌にくっつき、乾いた。それで、その部分を温水に浸してほどく必要があった。」
 派遣隊員は兵士たちに、「ソヴィエトの権威を忘れないようにさせるために」、手にする何でも持って殴打するよう命じた」(注90)。
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 (08) 政府がその軍事行動作戦を進ませるにつれて、田園地帯での反乱は大きくなった。
 これは、ロシアの歴史上、先例のないことだった。Razin の反乱やPugachev の反乱のような従前の蜂起は、地域的な事件で、東部や南東部の国境地域に限定されていたからだ。
 ロシアの中心地域では、今のような反乱はかつて一切起きなかった。
 1918年の夏に勃発したボルシェヴィキに対する農村の抵抗は、地域的な範囲と関与した人数のいずれについても、かつて発生した最大の農民反乱をはるかに上回るものだった(脚注1)
 しかしながら、その経緯は、依然として不完全にしか知られていない。ソヴィエトの文書類を所管する当局が重要な書類の公開を拒否しており、また、西側の研究者たちにこの主題についての不可解な関心のなさがあるがゆえにだ(脚注2)
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 (脚注1) ある学生は、この問題に関して、関与者の数と与えられた脅威から見て、内部的前線での対農民のボルシェヴィキの戦争の大きさは、前線での白軍との内戦をはるかに凌駕した、という説得的な主張を行なっている。Vladimir Brovkin, 「内部戦線について—ボルシェヴィキと緑党」.
スラヴ研究の前進のためのアメリカ協会の第20回全国大会で発表された論文。1988年11月、p.1.
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 (脚注2) 労働者と農民のいずれによるのであれ、「騒擾」に関する情報は検閲され、公表する新聞紙はしばしば罰金刑を受け、停刊させられたりした。1919年の初めまでに、全てのこのような情報は軍部の検閲によって排除された。軍部の検閲は、発行がまだ許容されていた一握りの非ボルシェヴィキ新聞から定期的に削除した。DN, No. 2(1919年3月21日), p.1.
 この主題に関する唯一の学問的論文集は、Mikhail Frenkin, Tragediia krest’ianskikh vosstanii v Rossi 1918-1921 gg.(Jerusalem, 1988)だ。1918-19年の蜂起は、この書物の第四章、p.73-p.111で扱われている。
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 チェカの報告によると、1918年に245件の村落「蜂起」(vosstaniia)があり、これらにより875人のボルシェヴィキと1821人の反乱者の生命が奪われた。
 加えて、2431人の反乱者が、処刑された(注91)。
 しかし、こうした数字は、被害者数の一部だけを、おそらくはチェカ自身の人員によって犠牲になった者たちの数だけを反映できるだろう。
 共産党員の歴史研究者の最近の成果は、こう述べる。1918年の7月と9月の間だけの不完全な数字資料から判断すると、22の州で、およそ1万5000人のソヴィエト「支持者」(storonniki)が殺された。この語が意味するのは、赤軍兵士、調達派遣隊員、共産党の役人たちだ(注92)。
 Chelyabinsk の共産党のある歴史書は、機関銃の周りでポーズをとる300人の赤軍分隊の一枚の写真を掲載している。
 説明書きによると、一人の生存者を除く全隊員が、「クラクの蜂起」によって殺戮された(注93)。
 他の地方や州でも、両者の側に同様の被害が発生したに違いないのは、明らかだろう(注94)。
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 (09) 1918-19年の反共産党農民蜂起は、経緯が概略すら知られていないのだが、最後には鎮圧された。
 農民反乱者たちは多くの点で政府の武力に優っていたけれども、射撃力の不足、とりわけ組織化のなさ、という点で劣っていた。それぞれの蜂起は自然発生的で、かつ局所的だったのだ(注95)。
 エスエルは、村落では支配的役割を果たしていたが、農民たちを組織するのを拒んだ。ほとんど確実に、白軍の手中に入って行動することの恐れからだった。
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 ③へつづく。

2903/R.Pipes1990年著—第16章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱①。
 (01) 前年の冬以来、ときには赤衛隊に組み入れられた武装部隊が、食料を求めて村落を襲撃してきていた。
 彼らは通常は、農民たちの激しい抵抗に遭った。農民たちを強力にしていたのは、武器をもって前線から故郷に帰還した兵士たちだった。ふつうは手ぶらで戻っていたのだが(注75)。
 レーニンは1918年1月に、各々10-15人の労働者がおり、厄介な農民を射殺する権限をもつ「数千の食料調達派遣隊」の結成を提案していた。だがこれは、支持を得られなかった(注76)。
 ボルシェヴィキが村落へのテロル行使部隊の体系的組織化へと進んだのは、ようやく1918年春になってからだった。
 最初の措置は、レーニンの署名付きで5月21日に発せられた、ペテログラードの労働者に対する訴えだった(注77)。
 その他の訴えや指示が、これにつづいた。
 実力を用いて食料を奪い取るという考えは、明らかに<armee revolutionnaire>を範としていた。これは、フランスの公安委員会がその最初の措置として 1793年6月に作ったもので、生産物の隠蔵を禁止する法令が伴なっていた。
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 (02) ロシアの労働者はこのような手段を好まなかった。
 彼らは、<burzhui>または地主に対して動員されることがあり得た。地主と労働者のあいだには超え難い文化的な懸隔があった。
 しかし、彼らの多くが生まれて、親戚がなお住んでいる村落に対しては、そうでなかった。
 彼らは、農民たちには階級的悪意を何ら感じなかった。レーニンやその支持者たちが責任があるとした、比較的に良い暮らしの農民に対してすら。
 ペテログラードの労働者たちにかなりの支持を得ていた左翼エスエルは、労働者と農民の間に階級的憎悪を焚きつけるボルシェヴィキの措置に、異議を唱えた。
 左翼エスエルの中央委員会は実際に、その党員たちに、食料派遣隊に応募するのを禁止した。
 ジノヴィエフは、志願者たちを寛容に誘いはしたが、5月の布令を実施するときには、相当の困難に陥った。
 彼は5月24日に、派遣隊は食料を求めて2日以内に出発すると発表したが、ほとんど誰も集まってこなかった。
 労働者全権委員団で組織されたペテログラードの工場委員会の集会は、この手段に反対する決議を採択した(注78)。
 ジノヴィエフは5日後に訴えを繰り返し、食料派遣隊を「ブルジョアジー」の脅威と結びつけた。
 「我々は、彼らがパンの匂いを忘れないように、一日当たり16分の1ポンドを与えるべきだ。
 だが、我々が麦藁粉を食べなければならないとしたら、それをまず最初にブルジョアジーに与えるべきだ。」(注79)
 労働者たちは動かず、ボルシェヴィキ知識人には全く欠けている常識的感覚をもって、穀物の取引を自由化することで食料不足を解決することを主張した。
 しかしながら、そのうちに、ジノヴィエフは脅威と報奨を結びつけて、何とか若干の食料派遣隊を組織することができた。その第一号の400人の兵団は、6月に田園地帯へと出発した(注80)。
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 (03) 食料派遣隊は、失望させた。
 善意の労働者たちはとどまったので、入隊した者たちの多数は、略奪するために村落へ行く都市のごろつきだった。
 このような結果への不満を、レーニンはすぐに受け取った(注81)。
 最初の調達派遣隊が村落に姿を現した後にすぐに、彼は、工業界の労働者に対して、つぎの挨拶文を送った。
 「私は、Vyksa の同志労働者たちが、本当の革命家として機関銃をもって、食料を求める大きな運動に着手するという立派な計画を実行することを、期待する。
 すなわち、飢えている全員を飢餓から救うという共通の任務のために、かつ自分たち自身のためだけではなく、Tsiurupa に完全に同意して、指示に従って活動する、えり抜きの、信頼できる、略奪しはしない者たちが派遣隊に配置されることを、望んでいる。」(注82)
 農民の不満から判断すると、つぎのことがふつうの現象だった。つまり、都市部から来た武装兵団は、盗んだ生産物の上に乗り込み、徴発した密造酒で酔っ払っている(注83)。
 厳しい制裁を受ける怖れがあったにもかかわらず、このような振舞いは継続したので、最後に政府は、食料派遣隊の隊員に、20ポンドまでの食料を個人のために使うことを、許さなければならなかった。これには、最大限2ポンドのバター、10ポンドのパン、5ポンドの肉が追加して含まれていた(注84)。
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 (04) しかし、制裁による威嚇も、自分のための使用の容認も、機能しなかった。そして、やがて体制は、新しく設立する赤軍に目を向けなければならなかった。
 ソヴィエト・ロシアに強制的軍役を導入する、1918年5月29日の布令が、食料派遣隊の設立と同時だったことは、決して偶然ではない。
 5月26日に案が作成され、翌日に中央委員会によって承認されたレーニンによる指令があった。これは、新しく構成された赤軍の最も早い任務はロシアの農民に対する戦争を繰り広げることであることを、示した。
 「1. 戦争人民委員部は、軍事的供給人民委員部へと改変される。—すなわち、戦争人民委員部の活動の十分の九は、軍が食料を求めることに適合させることに集中すること、および三ヶ月間この戦争を指揮することだ。
 2. 同じ期間、全国土に戒厳令を敷く。
 3. 軍を動員する。健全な分隊を選抜する。少なくとも一定の同じ地域の19歳の者たちを、収穫物を獲得し食料と燃料を集める体系的作戦に就かせる。
 4. 紀律の欠如に対して、死刑を導入する。/…
 9. 調達派遣隊全体について、集団的責任制、および10回の略奪事件ごとの処刑の威嚇を、導入する。」(注85)
 赤軍全体が農民層との闘いに割当てられるのを妨げたのは、チェコ人の反乱だけだった。
 そうであっても、赤軍は、この軍事作戦についてかなりの役割を果たした。
 赤軍が形成されていたとき、トロツキーは、次の二、三ヶ月のその任務は、「飢餓と闘う」ことだろう、と表明した(注86)。これは、「農民と闘う」ということの微妙な表現だった。
 この軍事作戦には褒章は発行されなかったけれども、<muzhik>に対する戦争は、赤軍にとって最初の戦闘体験を与えた。
 最終的には、全国家的な食料調達の闘いで、7万5000人の常備軍〔赤軍〕兵士が、5万人の武装民間人に加わった(注87)。
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 (05) 農民は、力には力で対抗した。
 当時の新聞紙は、政府と農民のあいだの戦闘に関する記事で充ちている。
 村落を行進する軍人および民間人部隊の司令官たちは、「クラクの蜂起」を定期的に報告した。しかし、証拠資料が明確にしているのは、彼らが
遭遇した抵抗は、「富農」のみならず村落農民全体を含む農民層の、自分たちの財産についての自発的な防衛活動だった、ということだ。
 「慎重に検討すればするほど、いわゆるクラクの反乱は、ほとんどつねに一般農民の蜂起だったように思われる。そこにはいかなる階級の区別も見出され得ない。」(注88)
 農民層は都市部での必要物の少なさを気にしておらず、「階級分化」について何も知らなかった。
 農民たちが見たのは、都市部からの武装部隊だった。その構成員は、しばしば、皮ジャケットか何かの軍服かを着た元の農民で、自分たちの穀物を奪うためにやって来ていた。
 彼ら農民たちは、農奴制のもとですら自分たちの収穫物を引き渡すことを強いられなかった。そして今も、そうするつもりがなかった。
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 ②へとつづく。

2900/R.Pipes1990年著—第16章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月①。
 (01) Sverdlov は、1918年5月20日に、新しい政策を発表した。
 「革命的ソヴィエトの権威が都市部で十分に強いと言えるとしても、…同じことは村落については言うことができない。…
 この理由で、我々は、村落を分裂させるという問題、村落に二つの対照的で敵対的な勢力を作り出すという問題に、最大限に真剣に、立ち向かわなければならない。…
 村落を二つの回帰不能の敵対的陣営に分裂させることに成功すれば、最近まで都市部で起きていたのと同じ内戦を村落で燃え上がらせることができれば、…その場合にのみ、我々は、都市部でできていたものを村落との関係でも行なうことができる、と言えるようになるだろう。」(注57)
 この異常な声明は、つぎを意味した。ボルシェヴィキは、隣り合って平穏に過ごしている農民のあいだに内戦を解き放つことによって、村落にこれまでは存在しなかった権力基盤を獲得するために、村落住民の一部が別の部分に対抗するよう誘い込むことを決定したのだ。
 この軍事作戦のために指定された攻撃兵団は、都市労働者および貧しく土地を持たない農民で構成されるとされた。「敵」は、富裕な農民、あるいはクラク、村落「ブルジョアジー」だった。
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 (02) レーニンは、ヒトラーのユダヤ人への憎悪と完全に等しい破壊的な感情でもって、彼が「ブルジョアジー」と感知するものを憎悪した。肉体的に消滅させれば、レーニンはきっと満足しただろう。
 都市部の中間層—職業人、金融業者、貿易商人、実業家、年金生活者—は、レーニンをほとんど煩わせなかった。彼らはすぐに従ったからだ。彼らは、東に行くほどブルジョアジーは無関心になるという、1898年のロシア社会民主党の創設綱領の命題の正しさを証明していた。
 彼らは、雪を掻くよう言われれば、雪を掻いた。写真のためにポーズをとるときでも、弱々しく微笑んだ。
 「寄付」が求められれば、忠実に支払った。
 彼らは意識的に、反ボルシェヴィキ軍隊や地下組織との接触を避けた。
 彼らのほとんどは、奇跡が起こることを望んでいた。おそらくは、ドイツの介入、あるいはおそらくは、ボルシェヴィキの政策が「現実主義」へといっそう向かうこと。
 そのうちに、彼らの本能は、身を隠すよう告げた。
 1918年春に、ボルシェヴィキが生産性を高める努力の一つとして、彼らを工業企業に再雇用し始めたとき、彼らの希望は高まった。
 <prauda>が述べたように、このような「ブルジョアジー」を恐れる必要は何もなかった(注58)。
 同じことは、ボルシェヴィキが「プチ・ブルジョア」と呼んだ社会主義知識人についても言えた。彼らもまた、自分たちの理由で、抵抗するのを拒んだ。
 彼らはボルシェヴィキを批判したが、闘う機会が提示されるといつも、別の方向を向いた。
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 (03) 状況は、村落地域によって異なっていた。
 西側の基準では、ロシアにはもちろん「村落ブルジョアジー」がおらず、数ヘクタールの追加の土地、追加の馬または牛、いくばくかの現金および臨時の労役提供のおかげで、僅かに暮らしが良い農民という階級だけがあった。
 しかし、レーニンは、ロシアの村落での「階級分化」というイメージに取り憑かれていた。
 彼は若いときに<zemstvo>の統計を研究し、種々の村落世界の経済的状況の僅かな変化に注目した。
 いかに些細であれ、富裕な農民と貧困な農民の間の分岐が大きくなっていることを示す統計資料は、彼にとっては、革命が利用することができる社会的紛争の潜在的にあることを示すものだった(注59)。
 村落に浸透するために、彼は、村落地域で内戦を起こさなければならなかった。そうするためには、階級敵が必要だった。
 その目的のために、「プロレタリアート」を破壊しようとしている、強力で多数の「反革命的」なクラクという階級を、彼は作り出した。
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 (04) 困惑することに、ヒトラーはユダヤ人か否かを決定する血統上の(「人種」的な)標識を作ることができただろうが、レーニンにはクラクを明確に区別する規準がなかった。
 クラクという術語には、厳密な社会的または経済的な内容がなかった。実際に、革命時代を村落で過ごしたある観察者は、農民たち自体がこの用語を用いない、ということを知った(注60)。
 この言葉は1860年代にロシア語の語彙の中に入ってきた。当時はその言葉は、経済的範疇ではなく、個性によって村落共同体の多数の農民から傑出している農民の一類型を指し示していた。クラクという語は、アメリカ人の俗語では「やり手」(go-getter)と呼ばれる者たちを表現するために用いられた。
 このような農民が村落集会や<volost’>の法廷を支配する傾向にあった。
 彼らはときには金貸しとして行動したが、これは、彼らの明確な属性ではなかった。
 理想的な完全に平等な社会に夢中になった19世紀遅くの急進的な文筆家や小説家は、クラクという語を、村落の搾取者という悪い名称として用いた。
 しかし、仲間の農民たちがこの語が当てはまる者たちを敵意をもって扱った、という証拠資料は存在しない(注61)。
 実際に、1870年代に「人民へ」と向かった急進的な煽動者たちは、全ての農民がクラクになることを心の奥底から切望していることを、発見した。
 ゆえに、1917年の以前も以後も、何らかの客観的基準を使って中間農民をクラクと区別するのは不可能だった。—誠実である瞬間には、レーニンも認めざるを得ない事実(注62)。
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 (05)  「クラク」という術語に厳密で有効な意味を与えることがいかに困難であるかは、ボルシェヴィキが村落地域で階級戦争を開始しようとしたときに、明確になった。
 クラクに抗して「貧困な」農民を組織する任務を与えられた人民委員たちには、これはほとんど不可能な仕事だった。なぜなら、彼らが接触すべく入った村落共同体には、この概念に対応する農民がいなかったからだ。
 そのような官僚の一人は、Samara 地方では農民の40パーセントがクラクだ、と結論づけた(注63)。
 一方、Veronezh 地方のボルシェヴィキ官僚は政府に対して、「民衆の多数を占めているために、クラクや富裕者たちに対する闘争を展開するのは不可能だ、と報告した(注64)。
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 (06) しかし、レーニンは、村落の階級敵を作らなければならなかった。村落がボルシェヴィキによる支配の外にあり、かつエスエルの支配下にあるかぎりは、都市部でのボルシェヴィキの政治基盤は、きわめて脆弱だった。
 農民たちは、固定価格で食料を譲り渡すのを拒んだ。このことは、都市部の民衆を農民層に対抗して結集させる機会を、レーニンに与えた。表向きは食料を引き出させるための、しかし実際には、農民層を屈服させるための好機を。
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 ②へとつづく。

2898/R.Pipes1990年著—第16章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
 (13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
 Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
 この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
 彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
 静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
 没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
 「老人は、最後の審判の絵を買う。
 農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
 そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
 彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
 食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
 Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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 (14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
 第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
 第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
 飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
 あるボルシェヴィキはこう観察した。
 「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
 盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
 飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
 このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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 (15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
 この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
 これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
 1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
 穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
 余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
 このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
 馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
 Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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 ④につづく。

2896/R.Pipes1990年著—第16章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。

2894/R.Pipes1990年著—第16章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
 (01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
 ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
 政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
 この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
 --------
 (02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
 彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
 しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
 もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
 ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
 こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
 「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
 しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
 村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
 言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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 (03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
 中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
 全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
 田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
 このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)
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 (脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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 (04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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 (05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
 この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
 引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
 臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
 しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
 ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
 妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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 (06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
 1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)
 1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
 農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
 穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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 (脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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 ②へとつづく。

2893/R.Pipes1990年著—第16章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-1918年に得たもの·失ったもの③。
 (13) レーニンの土地布令は、「ふつうの農民およびふつうのコサック」の所持物を収用から除外した。
 しかし、中央ロシアの多数の区域で、共同体の農民はこの条項を無視して、地主の持つ土地とともに仲間の農民に帰属する土地を奪うにまで進んだ。そして、それらを配分のための村落共同体の貯え地にした。
 <khutora>と<otruba>のいずれも、農民によるこの奪取の中に含まれた。また、Stolypin の立法を利用して村落共同体から離脱した耕作者の、かつての共同体の土地も含んでいた(脚注1)
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 (脚注1) <otruba>は、共同体用の細片土地と混ぜられた割当土地のことだった。<khutora>は、分離した農場をいう。いずれも、私的財産として所持された。
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 結果として、すぐさま、農民たちはStolypin の農業改革の成果の多くを消滅させた。村落共同体の原理が、それ以前の全てを一掃したのだ。
 共同体の農民は、その構成員が共同体の外部から購入した土地を同じように取り扱った。このような土地も、村落共同体の留保分に追加された。
 あちこちで、村落共同体は、その割当土地の大きさまで狭くするという条件で、その財産を農民たちに委ねた。集団化の直前の1927年1月、ロシア共和国(RSFSR)にある農地の2億3300万<desiatiny>のうち、2億2200万、あるいは95.3パーセントは、共同体が所持していた。そして、800万、あるいは3.4パーセントだけが、<otr uba>または<khutora>として、つまり、私的財産として所持されていた(注24)。
 --------
 (14) このような事実を見ると、ロシアの農民層は、無償で、大量の農地を革命から獲得した、と言うのは、誤解を招くものだ。
 得たものは、寛容でも、無料でもなかった。
 ロシアの農民層を同質のものとして扱うことはできない。「ロシアの農民層」という言葉は、数百万の個人を覆い隠す抽象的なものだ。
 個々の農民の中には、勤勉、節約、事業感覚の力で資本を蓄積するのに成功した者もいた。この資本は現金で所持されるか、または土地に投資された。
 この全ての現金とほとんど全ての土地を、彼らは今や失った。
 こうした要因を考慮すると、共産党が支援するduvan のもとで獲得した財産のために、muzhik は過大な支払いをした、ということが明らかだ。
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 (15) 農業革命は、農民をより平等にした。
 1917-18年にロシアで行なわれた大分配で、村落共同体は、標準よりも大きかった保有物を減らした。割当土地を分配するため共同体の主要な規準は、家族ごとの edoki または「食べる者」の数だったので。
 このような方法を採ることによって、広い割当土地(4 desiatiny 以上)をもつ家族の数は、ほとんど三分の一にまで(30.9から21.2パーセントへと)減った。一方で、4 desiatiny 未満だけを保有する家族の数は顕著に増加した(57.6から72.2パーセントへ)(脚注2)
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 (脚注2) Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100; O zemle: sbornik statei, I(1921), p.25 は、若干異なる数字を示す。大規模な所持の減少は、ある程度は、核家族が増えたことによる、共同家族の解体の加速によった。核家族は19世紀遅くにすでに始まっていたが、ボルシェヴィキの土地政策がそれを促進した。農民は没収された資産の配分に加わりたいと考えるが、家族の長であれば最善を尽くすことができるからだ。
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 この数字が示すのは、「中間農民」の数のかなりの上昇が起きた、ということだ。この層の数の上昇は、土地の豊かな農民の数の減少と、従前は土地を持たなかった農民に割当土地が与えられたことによって、生じた。土地を持たない農民の数は、ほとんど半分に減った(注25)。
 このような平準化の結果として、ロシアは、かつて以上に、小農民たち、自己充足的農民たちの国になった。
 当時のある者は、革命後のロシアを、「小さな商品生産者が…分割された土地を平等に管理し、規模がおおよそ同等の小区画の網を形成することを成し遂げた、ハチの巣」になぞらえた(注26)。
 マルクス主義の専門用語での「中間農民(中農)」—労働力を雇用せず、自らのそれを売りもしない者—が、農業革命の最大の受益者として出現した。これは、ボルシェヴィキが承認するには時間を要した事実だ。
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 (16) もちろん、誰もが黒の大分配から利益を得たのではなかった。それの主要な受益者は、1917年にすでに共同体の割当土地を持ち、村落共同体の集会を支配した者たちだった。
 1917年と1918年に割当土地を求めて都市部から村落へと流れるように戻っていた農民の多数は、再配分から排除されなかったし、標準以下の土地を受け入れるのを強いられることもなかった。同じことは、無収入を終わらせた土地を持たない農民(batraki)の半数についても言えた。
 暮らし向きのよい農民たちは、ボルシェヴィキ当局の意向を、無視した(注27)。当局は、土地社会化布令によって、村落ソヴェトに対して土地を持たないまたは土地の少ない農民への特別の配慮を示すよう指示したのだったが。
 ロシアには要するに、「社会化」という名のもとで要求する全員に標準的な規模の土地を与える、十分な農地がなかった。
 その結果として、土地を持たないまたは土地の乏しい村落共同体の農民は、せいぜい小さな割当土地しか得られなかった(注28)。
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 (17) ロシア革命は、村落共同体を歴史的な遠い地点まで運んだ。逆説的に言えば、ボルシェヴィキが農民を軽蔑していたとしても、村落共同体に黄金時代をもたらしたのは、ボルシェヴィキだった。
 「この数十年のあいだ削り取られてきた共同体は、国の事実上は全ての農業用地の上で花咲いた」(注29)。
 これは、ボルシェヴィキがただちには反対しなかった自然発生的な過程だった。反対しなかったのは、村落共同体はボルシェヴィキのために帝制時代と同じ機能を果たしたからだ。—すなわち、国家への義務を遂行するのを保障すること。
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 ③終わり。つぎの第三節へ。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2891/R.Pipes1990年著—第16章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
 (01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
 以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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 (02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
 私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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 (03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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 (04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
 革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
 その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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 (05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
 以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
 「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
 地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
 全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
 (余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
 農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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 (06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
 大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
 革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
 1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
 この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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 (07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
 1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
 この土地は、きわめて不公平に分配された。
 ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
 これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
 村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
 数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
 12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
 9地方では、4分の1から2分の1を得た。
 4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
 残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
 全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
 これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
 最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
 その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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 (脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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 第二節・②へとつづく。

2890/R.Pipes1990年著—第16章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳。
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 第16章・
 1918年春まで、村落共同体は、二月革命以降に手にした資産をその構成員に分配した。
 その後の分配は、ほとんどなかった。動員解除された兵士や遅れて到着した工業労働者たちは、土地割当てを稀にしか受けることがなかった。
 しかし、奪取した土地を平穏裡に享有することができると期待した農民たちは、やがて間違っていたと知った。
 ボルシェヴィキにとっては、1917-18年の「大分配」(Grand Partition)は、集団化への迂回路にすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、農民たちが自分たちの消費と播種用に必要とする量以上の穀物は国家のものだとするかつての勅令を依り所として、収穫物についての権利を主張した。
 穀物についての自由市場は、廃止された。
 農民たちは、予期していなかった状況の変化に当惑し、その資産を守るために激しく戦った。暴乱となって立ち上がったのだが、それは、数と領域の点で、帝制ロシアで見られたものを超えていた。
 だが、ほとんど役に立たなかった。
 農民たちは、「強奪する」と「強奪される」はたんに同じ動詞の異なる様態にすぎないことを知るようになった。
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 第16章・第一節/農民を階級敵とするボルシェヴィキの見方。
 (01) 十月のクー・デタの最大のパラドクスは、おそらく、一国での「プロレタリアートの独裁」を確立するためにそれが追求されながら、労働者(自己使用の職人を含む)は有給の被用者のせいぜい10パーセントを構成するだけで、十分に80パーセントは農民だったことだ。
 そして、社会民主党の見方では、農民層—土地のない農業労働者という少数者を除く—は、「ブルジョアジー」の一部であり、そのような者として、「プロレタリアート」の階級敵だった。
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 (02) 自己雇用の(または「中間の」)農民の階級的性格の認識は、社会民主党と社会革命党の間で一致していない中核的問題だった。後者の社会革命党は、「勤労者」(toilers)として工業労働者に随行する農民と位置づけた。
 しかしながら、マルクスは、農民を労働者の階級敵、「古い社会の防波堤」と定義した(注01)。
 カール・カウツキーは、農民層の目標は社会主義のそれとは反対だ、と主張した(注02)。
 1896年に社会主義インター大会で提起された農業問題に関する声明で、ロシア社会民主党代表団は、農民は社会主義思想に閉ざされた遅れた階層で、放っておくのがよい、と述べた(注03)。
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 (03) レーニンも、このような評価に賛成だった。
 1902年に、こう書いていた。
 「小生産者で小耕作者の階級は、<反動的>階級だ」(注04)。
 しかし、彼は、何らかの理由で現状に不満をもっている全ての集団と階級を革命の過程へ引き込むという彼の一般的な政策方針に沿って、「プロレタリア」の教条を助ける「プチ・ブルジョア」の農民層を許容した。
 この点で—戦術の問題にすぎないのだが—、レーニンは他の社会民主党員と違っていた。
 レーニンは、ロシアの村落は大部分はまだ「封建的」関係に支配されている、と想定した。
 農民層がこのような秩序と闘うかぎりでは、「進歩的」役割を果たした。
 「我々は、完璧で無条件の、改革的ではない革命的な、農奴制の残存の廃止と破壊を要求する。
 我々は、地主政府が奪い取って彼らを今日まで事実上の農奴制のもとに置き続けている土地は農民のものだ、と承認する。
 このようにして、我々は、—例外を設け、特殊な歴史的状勢を理由として—小資産者の擁護者になる。
 しかし、我々は、『旧体制』を残存させるものに対する闘争のかぎりでのみ、農民層を防衛する。…」(注05)
 レーニンが1917年にエスエルの土地綱領を採用し、ロシアの農民に私的に所持している土地を奪い取るよう勇気づけたのは、このような純粋に戦術的な考慮からだった。
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 (04) しかし、この戦術の目的—「旧体制」と「ブルジョア」継承者の崩壊—が達成されると、レーニンから見れば、農民層は、「プチ・ブルジョア」反革命という伝統的役割へと立ち戻った。
 反動的な農民の海で溺れている、ロシアでの「プロレタリア」革命の危険性が、ロシアの社会民主主義者に強迫観念を植え付けた。彼らは、フランスの農民層がとくに1871年に都市の急進主義を抑圧したような役割を、ロシアの農民層が果たしている、と意識していた。
 可能なかぎり早く西側の産業諸国に革命を拡散しようとするボルシェヴィキの強い主張は、相当な程度で、このような運命に陥るのを避けたいという思いでもって掻き立てられていた。
 農民を土地の永続的な所持者の地位に置いたままにすることは、都市部への食糧供給者、革命の要塞として管理するのと同じことを意味した。
 レーニンは、ヨーロッパの諸革命は「村落ブルジョアジー」を排除しなかったがゆえに失敗した、と記した(注06)。
 より狂信的なレーニン支持者の何人かにとっては、レーニンがエンゲルスに従って同盟者と見なそうとした土地を所持しない村落プロレタリアですら、信頼することができなかった。彼らもまた、結局は農民だった。—つまり、潜在的には、クラク〔富農〕だった(注07)。
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 (05) レーニンは、歴史を繰り返させない、という気でいた。
 彼が西側での革命の勃発を強く当てにしても、彼が支配することのできない外国での情勢発展にロシアの革命を依存させようとはしなかった。
 彼は、ソヴィエト・ロシアでの農民問題を熟慮して、二段階の解決方法を考えた。
 長期的には、唯一の満足し得る結果は、集団化だった。—すなわち、全ての土地と生産物の国家による収奪および農民の賃労働者への移行。
 この措置だけが、共産主義という目標と最初に権力に到達したという社会的現実のあいだの矛盾を解消するだろう。
 レーニンは、1917年の土地布令とボルシェヴィキが十月後に導入したその他の農業上の措置を一時的で便宜的なものと見なした。
 情勢が許すかぎりで速やかに、村落共同体は土地を剥奪され、国家が運営する集合体に変わるだろう(脚注)。
 この長期の目標には、何ら秘密がなかった。
 1918年と1919年の多くの場合に、ソヴィエト当局は、集団化は不可避だと確認した。1918年11月の<prauda>の一記事は、体制がそうできるようになると、「中間農民」は「叫んで蹴飛ばす」(volcha i ogryzaias)集団農業へと引き摺り込まれるだろう、と予見した(注08)。
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 (06) そのときまで、レーニンの考えでは、1. 厳格に実施される穀物取引の独占による、食糧供給への国家統制を主張すること、2. 村落地域に共産主義者の権力基盤を導入すること、が必要だった。
 これらの目標を達成するために要求されたのは、村落への戦争に他ならなかった。
 ボルシェヴィキはこの戦争を、1918年夏に開始した。
 農民層に対する活動は—西側の歴史文献では事実上無視されているが—、ボルシェヴィキによるロシアの征圧の、最も重要な段階だ。
 レーニン自身が、農民との闘争が村落反革命を防止し、西側の先行者と違って、ロシア革命が中途で終わって「反動」へと後退することを阻止するだろう、と信じていた。
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 第二節へとつづく。 

2889/R.Pipes1990年著—第15章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
 (01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
 はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
 明らかに、そうでなかった。
 この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
 体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
 そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
 1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
 その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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 (02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
 左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
 1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
 彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
 マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
 事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)
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 (脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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 (03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
 彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
 このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
 著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
 この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
 彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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 (04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
 本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
 しかし、これらには限界があった。
 1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
 「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
 したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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 (05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
 この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
 この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
 生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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 第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。

2887/R.Pipes1990年著—第15章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策②。
 (06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
 メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
 ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
 労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
 ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
 「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
 「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
 これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
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 (07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
 第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
 労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
 1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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 (08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
 党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
 1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
 しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
 これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
 「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
 そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
 ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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 (09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
 この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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 (10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
 強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
 構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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 (11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
 共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
 工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
 しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
 1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
 ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
 実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
 進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
 ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
 「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
 いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
 労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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 (12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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 第九節、終わり。

2883/R.Pipes1990年著—第15章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法②。
 (08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
 経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
 ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
 戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
 ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
 1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
 「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
 おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
 そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
 銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
 「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
 欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
 のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
 こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
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 (09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
 やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
 これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
 ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
 これには、次の条項があった。
 「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
 この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
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 (10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
 1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
 1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
 すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
 その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
 この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
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 (11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
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 (12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
 このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
 きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
 「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
 その他の範疇は、つぎのとおり。
 技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
 このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
 工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
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 ③へつづく。

2848/R.パイプス1990年著—第15章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳。
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 第15章・第一節/起源と目標①。
 (01) ”戦時共産主義“という言葉は、共産主義者および非共産主義者の文献で、長年にわたって、正確な意味を与えられてきた。
 <ソヴィエト歴史百科事典>の文章によると、こうだ。
 「戦時共産主義:ソヴェト社会主義共和国連邦の1918-20年の内戦と外国の干渉の時代の経済政策に与えられる名称。
 戦時共産主義の政策は、内戦と経済破綻によって生じた特別の困難さに支配された。」(注01)
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 (02) 戦時共産主義は情勢によって「支配された」という考えは、しかしながら、言葉の由来が示すように、歴史上の記録を破壊するものだ。
 「戦時共産主義」という言葉が最も早く公式に使われたのは、1921年の春だ。—すなわち、そのように称された政策が、よりリベラルな新経済政策によって放棄されているときだ。
 共産党政府が突然の方向転換を正当化するために、統制できなかった情勢下での直近の過去の大災害を非難しようと試みたのは、そのときだった。
 かくして、レーニンは、1921年4月にこう書いた。
 「『戦時共産主義』は、戦争と破綻によって強いられたものだった。
 それは、プロレタリアートの経済的責務に対応した政策ではなかったし、そうあり得ることもなかった。
 それは、一時的な措置だった。」(注02)
 しかし、これは後知恵だった。
 戦時共産主義の措置のいくつかは、実際に、緊急事態に対応するために採用された。だが、戦時共産主義は全体として、「一時的な措置」ではなく、本格的な共産主義を生み出すための、野心的な、そしてのちに判明したように、時期尚早の、企てだった(注03)。
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 (03) 体制の最初の数年のボルシェヴィキの経済政策は、即興でも反発でもなかったことは、トロツキーによっても確認されている。
 トロツキーは、戦時共産主義は「包囲された要塞での消費の体系的な編成」を必要とすることを認めたうえで、つぎのように叙述を進める。
 「その元来の観念では、戦時共産主義はより広い目的を持つものだった。
 ソヴェト政権は、こうした編成の手法を直接に、生産並びに配分における計画経済のシステムへと発展させることを望み、その方向で尽力した。
 言い換えると、ソヴェト政権は戦時共産主義から徐々に、だがシステムを破壊することなく、純粋な共産主義へと到達することを望んだ。」(注04)
 こうした見解は、別の共産主義者の権威によって裏付けられている。
 「戦時共産主義は、戦争という状況やその他の自発的に動く諸力の所産であるにとどまらない。
 それはまた、全く新しい原理のもとで国の経済生活を建設するための明確なイデオロギーの所産であり、社会政治的な構想を実現するものだ。」(脚注)
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 (脚注) L. N. Iurovskii, Denezhnaia politika sovetskoi vlasti 1917-1927 (Moscow, 1928), p.51. 見解が一致する当時の専門家は、左翼共産主義者のL. Kritsman だ(Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii, 2nd ed., Moscow-Leningrad, 1926)。彼は「いわゆる戦時共産主義」を、「プロレタリア自然経済での最初の偉大な企て、社会主義への移行の第一歩を進む企て」と称する(p.77)。
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 (04) 私有財産という制度に対する体系的な攻撃、ということ以上に、内戦期にボルシェヴィキが追求した政策がもつ長期間に及ぶ共産主義者の目標を説得的に確言するものはない。
 この目的をもってボルシェヴィキ体制が生存のために闘っていたときに採択された、そしてその生き残りには何ら寄与しなかった諸法令は、つぎのイデオロギー的な信念によって惹起されていた。すなわち、彼らの政治的自立の源であるがゆえに、市民たちから処分可能な資産の所有権を剥奪する必要がある、という信念。
 財産収用の過程は、不動産から始まった。
 1917年10月26日のいわゆる土地布令は、農民以外の所有者から土地所有権を剥奪した。
 これに続いたのは、都市の不動産に関する布令だった。都市不動産はまず商取引から排除され(1917年12月14日)、のちに国家へと没収された(1918年8月24日)(注05)。
 1918年1月に、全ての国家債務が否認された。
 1918年4月20日の布令は、商業および工業企業の購入、売却、貸借を禁止した。
 その日の別の布令は、私有の証券や債券が登録されることを要求した(注06)。
 私有財産の廃止への大きな一歩は、1918年5月1日の、相続を非合法化する法令によってとられた。
 これらはいずれも、「緊急措置」の範疇には含まれない。
 いずれも、私人や私的団体から生産財その他の資産に対する権利を剥奪することを意図していた。
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 (05) 1920-21年の冬にようやく得られた完成形において、戦時共産主義は、つぎの企図をもつ多数の凄まじい措置を含むものだった。すなわち、ロシアの経済全体—労働力、生産力、分配機構—を、国家の、より正確には、共産党の、排他的管理のもとに置く、という企図。
 これはまた、共産主義体制に対する反対派の経済的基盤を切り削ぐ、その体制が完全に「合理的な」態様で国民経済を再組織するのを可能にする、という二つを意図していた。
 こうした措置は、つぎのとおり。
 1. 生産手段の国有化。農業、輸送、極小の企業という重要な例外がある(一時的にだが)。
 2. 小売、卸売の国有化による私的取引の廃絶と政府が統制する分配システムへの置換え。
 3. 国家が規整する交換システムのための、交換や会計の単位としての通貨の廃止。
 4. 単一の計画を国民経済全体に課すこと。
 5. 健康な成人男性についての強制労働の導入。場合によっては、女性、子ども、高齢者についても。
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 (06) 内戦を理由としてではなく、あるいは内戦にもかかわらず、追求されたこれらの先行例なき措置は、最も効率的な生産性と配分の公正性に寄与する首尾一貫しかつ合理的な経済システムをソヴィエト・ロシアにもたらすために企図された。
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 ②へとつづく。

2811/R.パイプス1990年著—第14章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定①。
 (01) 1918年の6月まで、将軍たちは、ボルシェヴィキとの決裂を要求する〔ドイツ国内の〕唯一の党派だった。
 彼らは、外務省当局と一緒になって動く産業家や銀行家によって抑えられていた。
 しかし今や、期待していなかった同盟相手を見つけた。
 チェコスロヴァキア兵反乱のあと、Milbach とRietzler はレーニン体制の存続可能性について確信を失い、ロシアで支持される別の基盤を探すようにさらに強く主張した。
 Rietzler の勧告は、印象にだけもとづいてはいなかった。
 彼には、チェコ軍団を阻止するためにボルシェヴィキが当てにできる勢力はボルシェヴィキを見捨てつつある、という直接の知識があった。
 彼は6月25日、ドイツ政府に対して、在モスクワ大使館はチェコ軍団と国内の対抗者に対するボルシェヴィキの行動を助ける全てのことをしているけれども、この努力は無駄なように見える、と助言した(注87)。
 こう思っていたことは、数年のちに初めて知られるようになった。
 内戦の東部戦線での赤軍の司令官だったM. A. Muraviev 中佐がチェコ軍団と戦うよう説得するために、Rietzler は彼に、資金援助(賄賂)をしなければならなかった(脚注)
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 (脚注)  Baumgart, Ostpolitik, p.227; Erdmann, Rietzler, p.474; Alfons Paquet in Winfried Baumgart, ed., Von Brest-Litovsk zur deutscheh Novemberrevolution (Goettingen, 1971), p.76. Muraviev は、ともかくも7月初めに脱落し、かれの兵団のもとで死んだ。
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 さらに厄介なことに、ラトビア人兵団はボルシェヴィキのために闘う意気を低下させていた。
 彼らは、後援者たるボルシェヴィキの運命が衰退傾向にあるのを感じ、孤立するのを怖れて、別の立場に替わることを考えた。
 ラトビア人兵団を説得して7月のIaroslavl でのSavinkov 反乱の鎮圧を助けさせるために、Rietzler にはより多くの援助資金が必要だった(注88)。
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 (02) チェコ軍団はそのあいだ、次々と都市を奪取していた。
 6月29日、Vladivostok を掌握し、Ufa の7月6日がつづいた。
 Irkutsk ではボルシェヴィキの抵抗に遭ったが、それを打倒し、7月11日にその街を掌握した。
 この時点までに、Penza から太平洋まで、東部シベリアの支線部を含めて、シベリア横断鉄道の全線は、チェコ軍団の手に落ちた。
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 (03) チェコ軍団が妨げられずに前進し、ボルシェヴィキ党員が離脱していく恐れも高まって、Mirbach とRietzler には不吉な予感が生まれた。
 彼らは、連合諸国がこの危機を利用して、エスエルによるクーを企むのではないか、そしてロシアは連合諸国の側に再び戻るのではないか、と懸念した。
 この大厄災の発生を阻止するために、Rietzler はドイツ政府に対して、ロシアのリベラル派および保守派と接触するよう強く主張した。これらの派は、右派中心派、カデット党〔立憲民主党〕、Omsk 政府、Don コサックに代表されていた(脚注)
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 (脚注) Erdmann, Rietzler, p.711-2. Rietzler は、ドイツの潜在的な同盟者の中にカデットを含めていた。その指導者のMiliukov は、当時ウクライナにいたが、親ドイツの志向を表明していたからだ。その他のカデット党員は連合諸国に忠実なままだった。
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 (04) 在モスクワ大使館からの警告的報告書によって、軍部の不満はさらに大きくなった。そして、ドイツ政府がもう一度「ロシア問題」を検討するよう動かした。
 ドイツ政府が直面していた問題は、つぎのように整理することができる。まず、終始一貫してボルシェヴィキに執着すべきか。その理由は、1)ボルシェヴィキは長期間の脅威としてのロシアを排除するするためにロシアを完全に壊滅させた、2)ボルシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に黙従することによってロシアの最も富裕な地域をドイツの自由に委ねた。
 あるいは、それとも、ドイツの軌道の範囲内のロシアを維持する、もっと陳腐だがもっと生存可能性のある体制を選ぶために、ボルシェヴィキを振りほどくべきか。これがブレスト=リトフスク条約で獲得した領域の一部を放棄することを意味する、としても。
 これらそれぞれの立場の主張者たちは、手段について一致しなかった。
 だが、それらの目的は、同一だった。—すなわち、ロシアがフランスとイギリスがドイツを「包囲」するのを二度と助けないように、ロシアを弱体化すること。そして、ロシアを経済的浸透に対して広く開くこと。
 反ボルシェヴィキの党派は、こうした目標をロシアを従属した政治体に作り上げることによって達成したかった。しかし、一方で、外務省当局は、ロシアを内部から消耗させるためにボルシェヴィキを利用することによって、そうすることを選んだ。
 この問題をいずれかに決着させることは、ボルシェヴィキは衰亡しようとしているという在モスクワ大使館の見方からすると、かなりの緊急性を帯びた課題だった。
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 (05) ドイツ政府の誰も、ボルシェヴィキが長く権力を保持するのを望まなかった。論議は、戦争継続中の、短期間についてのものだった。
 論議に決着をつける困難さには、皇帝の気紛れさも加わっていた。皇帝はある日、「ユダヤ」ボルシェヴィキに対して激しく怒り、そのボルシェヴィキに対する国際十字軍を結成するのを望んだ。だが、次の日には、同じボルシェヴィキについて、ドイツの最良の友人だと語った。
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 (06) Ludendorff は、ボルシェヴィキを消滅させることを主張した。
 ボルシェヴィキは裏切り者だ。「我々のおかげで生きているとしても、ソヴィエト政府からは何も期待することができない」。
 彼がとくに困惑していたのは、ドイツの兵士たちのボルシェヴィキの政治宣伝への「感染」だった。そのプロパガンダは、東部の数十万の兵士たちの移動にともなって、西部前線へと広がっていた。
 彼は、ロシアを弱体化し、「力でもってロシアを[ドイツのために]奪う」のを欲した(注89)。
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 (07) 在モスクワ大使館は軍部の側にいたけれども、ロシアの政治集団から相当の支援を受けた見返りとして、ブレスト条約の改訂を推奨した。
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 (08) 反対する点がKuhlmann と外務省(在モスクワ大使館を除く)から申し立てられた。これには、多数の政治家とほとんどのドイツの事業家団体からの支持があった。
 5月に提出された外務省の覚書は、ボルシェヴィキとの協力を継続する論拠を定式化した。
 「ロシアの多様な所—主として反動的分野—から発せられているドイツの援助を求める理由は、資産階級の、ボルシェヴィキが彼らの所有物や資産を脅かしているという恐怖によって、最もよく説明することができる。
 ドイツは、つぎのような執行補佐人の役割を果たすべきだ。すなわち、ボルシェヴィキをロシアの家から引きずり出し、ドイツに対してツァーリ体制が過去数十年間追求してきたのと同じ政策を追求する反動家たちを復活させる、そのような執行補佐人。
 大ロシアに関して、我々は一つの最重要の利益をもつ。つまり、分解する力を促進し、その国を長いあいだ、弱いままにしておくこと。1871年の後にフランスに関して、Bismarck公が行なったのとまさに全く同じように。…
 その国の経済を掌握するためにロシアとの関係を正常なものにすることは、喫緊の我々の利益だ。
 その国の国内情勢に巻き込まれるほど、すでに我々とロシアを分けている亀裂は拡大するだろう。…
 ブレスト=リトフスク条約はボルシェヴィキによってのみ批准され、かつボルシェヴィキの全員ですらなかったことを、看過してはならない。…
 ゆえに、当面はボルシェヴィキを国家の指導的地位にとどまらせることが、我々の利益だ。
 ボルシェヴィキは当分の間、権力を維持するために、我々に対して忠誠の外貌を維持し、講和を保つために、行なうことのできる全てをするだろう。
 一方で、その指導者たちは、ユダヤ実業家なのだから、やがては、商業上および輸送実務の利益のために、彼らの理論を捨て去るだろう。
 よって我々は、ゆっくりと、しかし目的意識をもって、進まなければならない。
 ロシアの輸送、産業、そしてその国民経済全体は、我々の手中に握られなければならない。」
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 第九節②へとつづく。

2808/R.パイプス1990年著—第14章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
 (09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
 5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
 叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
 喧嘩が勃発した。
 Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
 上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
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 (10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
 実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
 Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
 チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
 --------
 (11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
 トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
 この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
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 (12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
 驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
 トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
 服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)
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 (脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
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 5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
 「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
 鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
 <ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
 これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
 同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
 トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
 --------
 (13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
 「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
 この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
 これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
 チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
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 (14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)
 ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
 しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
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 (脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
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 (15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
 そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
 チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
 2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
 5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
 彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
 彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)
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 (脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
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 第七節へとつづく。

2807/R.パイプス1990年著—第14章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱①。
 (01) ロシアの状況はまだ十分に複雑でないかのごとく、春に、彼らはウラルとシベリアの広大な地域でボルシェヴィキの支配を脱していた、チェコスロヴァキアの従前の戦争捕虜たちの反乱が起きて、状況はさらに複雑になった。
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 (02) ロシア軍はオーストリア=ハンガリー帝国に対して1914年に勝利したが、そのあいだに、数十万人を戦争捕虜にしていた。その中には、5ないし6万人のチェコ兵とスロヴァキア兵がいた。
 ロシア帝国政府は1914年12月に、多くは熱心に反ドイツ的で反ハンガリー的なこれら捕虜たちに、自分たちの軍団を形成し、ロシアの兵団とともに戦闘すべく前線に戻る機会を与えた。
 この機会を活用したチェコ人は、ほとんどいなかった。
 たいていの者は、この軍団(Druzhina と呼ばれた)を中央諸国は裏切り者として扱い、捕えた後で処刑するだろう、と怖れた。
 にもかかわらず、1916年には、二つのチェコスロヴァキア連隊が出現していた。これらは、将来の独立チェコスロヴァキア軍の中核になるべきものだった。
 パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会の長のThomas Masaryk は、ロシアその他に在住する民間人や戦争捕虜たちを西部前線で戦う正規の国民軍に編成する、という考えを抱いた。
 彼は、ロシア帝国政府と、チェコの戦争捕虜たちをフランスに避難させるよう交渉を開始した。しかし、ロシア政府は協力しなかった。
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 (03) Masaryk は、〔1917年2月以降に〕臨時政府にその案を再提示した。臨時政府は、好意的に反応した。
 チェコ軍団の編成は迅速に進み、1917年春には、2万4000人のチェコ人とスロヴァキア人は一つの兵団を組織し、東部戦線で戦った。彼らは1917年6月に攻勢に出た。
 この兵団とロシアの収容所にいる残りの捕虜たちを西部前線へと移送する計画が立てられた。だが、これを妨害したのは、ボルシェヴィキのクー〔1917年10月〕だった。
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 (04) 連合諸国は1917年12月に、ロシアにいるチェコスロヴァキア軍団を、最高連合国司令部の傘下にある分離した軍隊だと承認した。
 Masaryk はその翌月にロシアに戻り、もう一度交渉した。このときはボルシェヴィキ政府との交渉で、軍団のフランスへの避難が主題だった。
 中央諸国とウクライナ間の条約締結によって、チェコスロヴァキア兵が最も多く抑留されていたウクライナをドイツが占領しそうになったために、今やこの問題は相当の緊急性をもつことになった。
 ボルシェヴィキは、ブレスト条約に調印するまで、結論を遅らせた。そしてようやく3月半ば、連合諸国との関係が最も友好的だったときに、ボルシェヴィキは同意を与えた(注57)。
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 (05) Masaryk と連合国司令部は最初は、チェコスロヴァキア兵の避難をArchangel とMurmansk を経由して行なうつもりだった。
 しかし、北部の港湾への鉄道路線がフィンランドのパルチザンによって脅かされ、加えてドイツの潜水艦による危険もあったので、彼らをVladivostok で乗船させることが決定された。
 Masaryk は、チェコ軍団(Czech Legion)として知られることになる兵団の司令官たちに対して、「軍事的中立」の政策(注58)を採用すること、絶対にロシアの国内問題に干渉しないことを指示した。
 チェコスロヴァキア人が迂回してVladivostok へと到達しなければならない地域はアナーキーの状態にあったので、Masaryk とボルシェヴィキ当局とのあいだで、彼らは自衛のために十分な武器を携行することが取り決められた。
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 (06) チェコスロヴァキア人は十分に組織されており、早く出立したかった。
 彼らはボルシェヴィキ政府から許可を得るとすぐに、大隊(battalion)規模の、1000人編成の分団を形成し、ロシアで<echelon>として知られた特別の列車に乗った。
 最初のechelon がPenza に着いたとき、スターリンから1918年3月26日付の電報が届いた。それには、〔チェコスロヴァキア人の〕避難が行なわれるべき条件が列挙されていた。
 「戦闘部隊」ではなく「自由市民」として旅行すべきこと。武器は「反革命者たち」から身を守るために必要なものとして携行されるべきこと。
 チェコスロヴァキア人には、Penza ソヴェトが用意した政治委員が同行するものとされた(注59)。
 彼らは、ドイツの圧力の存在が疑われたこの命令に不満だった。訓練が行き届いていない急進的な親ボルシェヴィキ勢力、とりわけ、ハンガリーとチェコの戦争捕虜たちの中から募集された狂信的共産主義者に、信頼を措けなかったからだ。
 Penza を出る前に、彼らはやむなく武器の一部を放棄した。いくつかは公然と持ち続け、残りは隠した。
 そして、避難が再開した。
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 (07) 彼らは愛国心を強くもち、そのゆえにボルシェヴィキが中央諸国と分離講和条約を締結したのに不満だったけれども、政治的見解としては、断固として中央の左側に立っていた。ある歴史家の推測によると、彼らのうち四分の三は社会主義者だった(注60)。
 Masaryk の指令に従って、彼らは義勇軍〔白軍〕とボルシェヴィキのいずれの側からの接近も無視した。ボルシェヴィキはチェコの共産主義者を媒介者として使っていたのだけれども(注61)。
 彼らの心の中にあった目的は、一つだった。ロシアから抜け出ること。
 そうであっても、内戦の最中の地域を横切っていたので、ロシアの政治に巻き込まれるのを完全に避けることはできなかった。
 シベリア横断鉄道沿いの街を通過していたときに、地方の協力者たちとの接触を確立した。協力者たちは、食糧や必需品を彼らに与えてくれた。これは大半は、シベリアの第一党派であるエスエルによって行なわれていた。
 同時にまた、ときには都市ソヴェトやその「国際的」軍団と争論することもあった。後者のほとんどは、チェコスロヴァキアを革命に参加させたいハンガリーの戦争捕虜たちで構成されていた。
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 (08) 1918年5月末時点でのチェコ軍団のロシア情勢への関与は、中立政策の重要な転換ではなかった。
 ドイツがロシア政府に対して、チェコスロヴァキア人の避難を止めるよう求めたとき、その転換が始まった。ドイツは、数万人の新規のかつ士気高いチェコスロヴァキア人が西部前線で連合諸国の兵団に加わるとの見込みを不快に思ったのだ。
 ロシア政府は、ドイツからの要望の趣旨で命令を発した。しかしこれを履行させる手段はなく、チェコ軍団は前進し続けた(注62)。
 続いて、連合諸国が介入した。
 ロシア領土にいる連合国軍の編成に関して4月初めに届いた理解に従って、連合諸国は、ロシアにとどまって日本軍が大量の兵員を備えようとするこの軍隊に加わることもできるときに、チェコ軍団を地球を半周してフランスに送る意味はない、と結論づけた。
 連合諸国は、5月2日に大部分はイギリスの主張にもとづいて、Omsk 西方に位置するチェコ軍団はVladivostok へと進むのではなく、北へ、Murmansk とArchangel に向かう、そこで次の命令を待つ、と決定した(注63)。
 ロシア政府は、反対しなかった。だが、この決定はチェコスロヴァキア人に多大の苦難をもたらした。
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 ②へとつづく。
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