Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月①。
 (01) Sverdlov は、1918年5月20日に、新しい政策を発表した。
 「革命的ソヴィエトの権威が都市部で十分に強いと言えるとしても、…同じことは村落については言うことができない。…
 この理由で、我々は、村落を分裂させるという問題、村落に二つの対照的で敵対的な勢力を作り出すという問題に、最大限に真剣に、立ち向かわなければならない。…
 村落を二つの回帰不能の敵対的陣営に分裂させることに成功すれば、最近まで都市部で起きていたのと同じ内戦を村落で燃え上がらせることができれば、…その場合にのみ、我々は、都市部でできていたものを村落との関係でも行なうことができる、と言えるようになるだろう。」(注57)
 この異常な声明は、つぎを意味した。ボルシェヴィキは、隣り合って平穏に過ごしている農民のあいだに内戦を解き放つことによって、村落にこれまでは存在しなかった権力基盤を獲得するために、村落住民の一部が別の部分に対抗するよう誘い込むことを決定したのだ。
 この軍事作戦のために指定された攻撃兵団は、都市労働者および貧しく土地を持たない農民で構成されるとされた。「敵」は、富裕な農民、あるいはクラク、村落「ブルジョアジー」だった。
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 (02) レーニンは、ヒトラーのユダヤ人への憎悪と完全に等しい破壊的な感情でもって、彼が「ブルジョアジー」と感知するものを憎悪した。肉体的に消滅させれば、レーニンはきっと満足しただろう。
 都市部の中間層—職業人、金融業者、貿易商人、実業家、年金生活者—は、レーニンをほとんど煩わせなかった。彼らはすぐに従ったからだ。彼らは、東に行くほどブルジョアジーは無関心になるという、1898年のロシア社会民主党の創設綱領の命題の正しさを証明していた。
 彼らは、雪を掻くよう言われれば、雪を掻いた。写真のためにポーズをとるときでも、弱々しく微笑んだ。
 「寄付」が求められれば、忠実に支払った。
 彼らは意識的に、反ボルシェヴィキ軍隊や地下組織との接触を避けた。
 彼らのほとんどは、奇跡が起こることを望んでいた。おそらくは、ドイツの介入、あるいはおそらくは、ボルシェヴィキの政策が「現実主義」へといっそう向かうこと。
 そのうちに、彼らの本能は、身を隠すよう告げた。
 1918年春に、ボルシェヴィキが生産性を高める努力の一つとして、彼らを工業企業に再雇用し始めたとき、彼らの希望は高まった。
 <prauda>が述べたように、このような「ブルジョアジー」を恐れる必要は何もなかった(注58)。
 同じことは、ボルシェヴィキが「プチ・ブルジョア」と呼んだ社会主義知識人についても言えた。彼らもまた、自分たちの理由で、抵抗するのを拒んだ。
 彼らはボルシェヴィキを批判したが、闘う機会が提示されるといつも、別の方向を向いた。
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 (03) 状況は、村落地域によって異なっていた。
 西側の基準では、ロシアにはもちろん「村落ブルジョアジー」がおらず、数ヘクタールの追加の土地、追加の馬または牛、いくばくかの現金および臨時の労役提供のおかげで、僅かに暮らしが良い農民という階級だけがあった。
 しかし、レーニンは、ロシアの村落での「階級分化」というイメージに取り憑かれていた。
 彼は若いときに<zemstvo>の統計を研究し、種々の村落世界の経済的状況の僅かな変化に注目した。
 いかに些細であれ、富裕な農民と貧困な農民の間の分岐が大きくなっていることを示す統計資料は、彼にとっては、革命が利用することができる社会的紛争の潜在的にあることを示すものだった(注59)。
 村落に浸透するために、彼は、村落地域で内戦を起こさなければならなかった。そうするためには、階級敵が必要だった。
 その目的のために、「プロレタリアート」を破壊しようとしている、強力で多数の「反革命的」なクラクという階級を、彼は作り出した。
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 (04) 困惑することに、ヒトラーはユダヤ人か否かを決定する血統上の(「人種」的な)標識を作ることができただろうが、レーニンにはクラクを明確に区別する規準がなかった。
 クラクという術語には、厳密な社会的または経済的な内容がなかった。実際に、革命時代を村落で過ごしたある観察者は、農民たち自体がこの用語を用いない、ということを知った(注60)。
 この言葉は1860年代にロシア語の語彙の中に入ってきた。当時はその言葉は、経済的範疇ではなく、個性によって村落共同体の多数の農民から傑出している農民の一類型を指し示していた。クラクという語は、アメリカ人の俗語では「やり手」(go-getter)と呼ばれる者たちを表現するために用いられた。
 このような農民が村落集会や<volost’>の法廷を支配する傾向にあった。
 彼らはときには金貸しとして行動したが、これは、彼らの明確な属性ではなかった。
 理想的な完全に平等な社会に夢中になった19世紀遅くの急進的な文筆家や小説家は、クラクという語を、村落の搾取者という悪い名称として用いた。
 しかし、仲間の農民たちがこの語が当てはまる者たちを敵意をもって扱った、という証拠資料は存在しない(注61)。
 実際に、1870年代に「人民へ」と向かった急進的な煽動者たちは、全ての農民がクラクになることを心の奥底から切望していることを、発見した。
 ゆえに、1917年の以前も以後も、何らかの客観的基準を使って中間農民をクラクと区別するのは不可能だった。—誠実である瞬間には、レーニンも認めざるを得ない事実(注62)。
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 (05)  「クラク」という術語に厳密で有効な意味を与えることがいかに困難であるかは、ボルシェヴィキが村落地域で階級戦争を開始しようとしたときに、明確になった。
 クラクに抗して「貧困な」農民を組織する任務を与えられた人民委員たちには、これはほとんど不可能な仕事だった。なぜなら、彼らが接触すべく入った村落共同体には、この概念に対応する農民がいなかったからだ。
 そのような官僚の一人は、Samara 地方では農民の40パーセントがクラクだ、と結論づけた(注63)。
 一方、Veronezh 地方のボルシェヴィキ官僚は政府に対して、「民衆の多数を占めているために、クラクや富裕者たちに対する闘争を展開するのは不可能だ、と報告した(注64)。
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 (06) しかし、レーニンは、村落の階級敵を作らなければならなかった。村落がボルシェヴィキによる支配の外にあり、かつエスエルの支配下にあるかぎりは、都市部でのボルシェヴィキの政治基盤は、きわめて脆弱だった。
 農民たちは、固定価格で食料を譲り渡すのを拒んだ。このことは、都市部の民衆を農民層に対抗して結集させる機会を、レーニンに与えた。表向きは食料を引き出させるための、しかし実際には、農民層を屈服させるための好機を。
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 ②へとつづく。