Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)。
試訳のつづき。第五章へ。
——
第一部/第五章・大学(College)①。
(01) 米国についての我々の意識は歪んだものだったので、下船するときに父親が波止場で街灯柱にのんびりと依りかかっている人を見つけたとき、父親は安心して、この国は思っていたほど慌ただしくないようだ、と言った。
Ossi Burger がHoboken で我々を迎えてくれ、ニューヨーク市での一日後に、我々は列車で、近くにBurger 一家の農場がある、ニューヨーク州のTroy へ行った。//
(02) 私がニューヨークに望んでいたこと、そして最も印象を受けたのは、たぶんアメリカの映画で知っていた建築物や交通の規模ではなく、Burger 家の友人の子息である青年に伴われて、ホテル Waldorf Astoria のロビーに入ったり、音楽店舗を訪れたり、個人用ブースで好きなクラッシック音盤を聴いたりできたことだった。
Troy へ向かっていたときのGrand Central 駅で、私は新聞類販売店に立ち寄り、高等教育(higher learning)に関する書物を探した。
私は、「大学(College)」、「大学に関する情報」と言った。
売り子は当惑して、少し考えたあとで、〈College Life〉を一冊売ってくれた。その雑誌は、〈Playboy〉の先触れだった。//
(03) 我々は農場で、夏の残りを過ごした。
John と私が寝ていた納屋で、たまたま数百頁の1914-15年版〈アメリカ人名録〉を見つけた。
その巻末には、予備学校や大学(college)の100頁以上の宣伝広告が付いていた。
それが、私の求めていたものだった。すなわち、高等教育施設の名前と住所。
100枚のペニー切手を購入し、友人の助けを借りて、多数の大学への同一の要請文を書いた。自分には入学したい熱望があるが、経済的余裕がないので、奨学金と収入を得られる就労の保障を求める、と。
私は、Harvard と小さい田舎の大学の違いを知らなかった。
ほとんどの教育施設からは返答がなかった。いくつかは、消極の回答を寄せた。
だが、4つの大学から、私が求めるものの提示があった。Indianapolis のButtler College、University of Tennessee、South California のErskine College、Ohio のMuskingum College。
それらを見分ける基準を、私は持ち合わせていなかった。Muskingum に私を惹き付けたものは、〈人名録〉上の一頁全体の広告にある地図だった。その地図は、オハイオ州のNew Concord 市にあるその大学の位置がアメリカ合衆国の地理的中心であるように、作られていた。//
(04) 父親は、私が大学へ行くのを喜ばなかった。彼の新しい事業のために、私の助けを欲しかったためだ。
今では、当時よりもっと父親を理解することができる。だが当時の私には、少しでも高等教育を受ける機会がさらに遅れることは、非道で、不合理なことだった。
私には、ぼんやりした野望があった。自分が何をしたいのか、少しも分かっていなかった。しかし、金を稼ぐことではないと、絶対的に確実に、分かっていた。
神はドイツが支配するポーランドから、高次の目的のために、たんなる生存や自己満足を超えて存在するために、私を救ってくれた、と感じていた。
この感覚は、今までずっと消えなかった。
もしも父親が私をそばに置いて、勉強したい私の気持ちを理解し、同意するけれども、我々のいまの経済的状況からすると、ともかくもしばらくの間だけでも私の助力が不可欠なのだ、と説明してくれていたなら、あるいは私は、一年くらいは父親に従っていたかもしれない。
しかし、我々の文化では、父親は十歳代の息子を成人としては扱わなかった。//
(05) 1940月9月7日、私はバスで、オハイオへと向かった。
翌日、日曜の朝に、New Concord に着いた。
街も大学も居住者はほとんどが教会にいたので、大学のキャンパスは空っぽだった。
地方的な宿屋に記帳して、近くを散歩した。
赤レンガの建物群は19世紀半ばからあるようで、小山が多い丘陵地の丘に位置していた。
好ましい印象だった。田園ふうの大学は、ワルシャワやフィレンツェの大学とは全く似ていなかったけれども。
教室のある建物の入口に、神がモーゼに発したExodos の書物の一節が刻まれているのを見て、衝撃を受けた。「足の靴を脱げ、聖なる地へと立ち上がる場所に向かって」。
私は、もしかしてうっかりと神学校に着いたのでないか、と思った。
しかし、のちの午後に、大学の副学長と出会って、彼がキャンパスを車で案内してくれた。そして、全てが良く思えた。//
(06) 判明したとおり、私は素晴らしい選択をしていた。
Muskingum College はHarvard ではなく、そう装ってもいなかった。だが、私にとってはるかに適した場所だった。二つの理由があった。
大学が小さかった。—700名の学生とそれと均衡した規模の教授陣。これが意味したのは、私が大群の中で迷わないことだ。
戦争前から入学していたポーランドの女の子を除いて、キャンパスにいる唯一のヨーロッパ人だったので、私は好奇の対象だった。
時を経ずして、ほとんどの学生たちを個人名で知り、彼らもそうするようになった。
第二に、私はとても貧しかった。衣装入れには二着の上衣と四枚のシャツしかなかった。大きな大学だと、私は惨めな人物に見えただろう。
やがて、学生、教授、事務職員に連れられて街へ行った。そして、二年半をそこで幸せに過ごした。//
(07) ヨーロッパ人にとって、1940年にオハイオの中央に来るのは、19世紀へと後ずさりすることだった。そこの人々の外貌と価値観は第一次大戦前のものだった。
自分がかつて知っていた場所であるような、ほっとする安定感があった。
そこの人々がどれほどヨーロッパから離れているかを、私がデイトした利発で可愛い女の子が示したかもしれない。
彼女は、ヨーロッパがあるとは知っていたけど、私と逢えてとても嬉しい、と言った。彼女の胸の裡では、きっと全く信じ難いことだった。
学長や数人の教授たちを除けば、誰もヨーロッパへ行ったことがなかった。
(対照的に、名誉博士号を授与されるために1988年にMuskingum を再訪したとき、教授たちのほとんど、大学院学生の多くは、何人かは二度以上、大陸へ行っていた。)
人々は私の戦争話に、同情的に、しかし疑いながら、耳を傾けた。
一つには、彼らは圧倒的に共和党支持者で、当時の共和党は孤立主義を選んでいた。
しかし、政治論以上に、彼らは人間の善良さを信じていて、ドイツ人が私が描写するような悪魔だということに納得しなかった。
あるとき、第一次大戦でベルギーについて判明したとしたドイツの(その言う)残虐性がいかに虚偽であるかを、想起させられた。
読んだニーチェの言葉が頭をめぐった。このことから受けた衝撃で、この事実について知識を誇示する気になれなかったからだ。
ある日、副学長がキャンパスを歩いている私を見つけて、同乗を勧めてくれた。
我々が目的地に着いたとき、彼は簡単な講義をしてくれた。
私にどんな体験があっても、人類への信頼を失ってはならない、人々は根本的には善良で、人生は公正だ、と彼は言った。
彼は最後に、「ではまた。きみはニーチェを読んではいけない」と言った。
実際、私はニーチェを読むのはもうやめていた。//
(08) Muskingum での計5学期(semester)の間、アメリカとヨーロッパの間の多くの違いを観察することができた。
(09) 一つの顕著な差違は、アメリカの若者たちは、ヨーロッパの私の世代の者なら夢物語だと感じるだろうような自信を持って、人生設計をしている、ということだ。彼らは未来に生きているように見えた。一方で、我々は、その日ごとの暮らしをしていた。
雑誌〈Fortune〉を捲っていて、Maryland 損害保険会社の広告が目に止まった。こう書いてあった。
「予測できないことが…人生の行路を変更したり形成したりしてはいけない」。
本当に? 私は自問した。もしそうならば、私はなぜワルシャワからオハイオのNew Concord に来て、人生の行路をすっかり変えたのだろうか?
この保険会社の言葉の背後にある暗黙の前提は、金銭は人生の望ましくない変化を逸らすことができる、ということだ。しかし、金では十分でない。このことを、私は体験で教えられた。
アメリカの若者たちは、異なる進み方は溺死することだと確信して、潮流に沿って泳ぎながら、人生を開始しているように見えた。//
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第五章・大学①、終わり。
試訳のつづき。第五章へ。
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第一部/第五章・大学(College)①。
(01) 米国についての我々の意識は歪んだものだったので、下船するときに父親が波止場で街灯柱にのんびりと依りかかっている人を見つけたとき、父親は安心して、この国は思っていたほど慌ただしくないようだ、と言った。
Ossi Burger がHoboken で我々を迎えてくれ、ニューヨーク市での一日後に、我々は列車で、近くにBurger 一家の農場がある、ニューヨーク州のTroy へ行った。//
(02) 私がニューヨークに望んでいたこと、そして最も印象を受けたのは、たぶんアメリカの映画で知っていた建築物や交通の規模ではなく、Burger 家の友人の子息である青年に伴われて、ホテル Waldorf Astoria のロビーに入ったり、音楽店舗を訪れたり、個人用ブースで好きなクラッシック音盤を聴いたりできたことだった。
Troy へ向かっていたときのGrand Central 駅で、私は新聞類販売店に立ち寄り、高等教育(higher learning)に関する書物を探した。
私は、「大学(College)」、「大学に関する情報」と言った。
売り子は当惑して、少し考えたあとで、〈College Life〉を一冊売ってくれた。その雑誌は、〈Playboy〉の先触れだった。//
(03) 我々は農場で、夏の残りを過ごした。
John と私が寝ていた納屋で、たまたま数百頁の1914-15年版〈アメリカ人名録〉を見つけた。
その巻末には、予備学校や大学(college)の100頁以上の宣伝広告が付いていた。
それが、私の求めていたものだった。すなわち、高等教育施設の名前と住所。
100枚のペニー切手を購入し、友人の助けを借りて、多数の大学への同一の要請文を書いた。自分には入学したい熱望があるが、経済的余裕がないので、奨学金と収入を得られる就労の保障を求める、と。
私は、Harvard と小さい田舎の大学の違いを知らなかった。
ほとんどの教育施設からは返答がなかった。いくつかは、消極の回答を寄せた。
だが、4つの大学から、私が求めるものの提示があった。Indianapolis のButtler College、University of Tennessee、South California のErskine College、Ohio のMuskingum College。
それらを見分ける基準を、私は持ち合わせていなかった。Muskingum に私を惹き付けたものは、〈人名録〉上の一頁全体の広告にある地図だった。その地図は、オハイオ州のNew Concord 市にあるその大学の位置がアメリカ合衆国の地理的中心であるように、作られていた。//
(04) 父親は、私が大学へ行くのを喜ばなかった。彼の新しい事業のために、私の助けを欲しかったためだ。
今では、当時よりもっと父親を理解することができる。だが当時の私には、少しでも高等教育を受ける機会がさらに遅れることは、非道で、不合理なことだった。
私には、ぼんやりした野望があった。自分が何をしたいのか、少しも分かっていなかった。しかし、金を稼ぐことではないと、絶対的に確実に、分かっていた。
神はドイツが支配するポーランドから、高次の目的のために、たんなる生存や自己満足を超えて存在するために、私を救ってくれた、と感じていた。
この感覚は、今までずっと消えなかった。
もしも父親が私をそばに置いて、勉強したい私の気持ちを理解し、同意するけれども、我々のいまの経済的状況からすると、ともかくもしばらくの間だけでも私の助力が不可欠なのだ、と説明してくれていたなら、あるいは私は、一年くらいは父親に従っていたかもしれない。
しかし、我々の文化では、父親は十歳代の息子を成人としては扱わなかった。//
(05) 1940月9月7日、私はバスで、オハイオへと向かった。
翌日、日曜の朝に、New Concord に着いた。
街も大学も居住者はほとんどが教会にいたので、大学のキャンパスは空っぽだった。
地方的な宿屋に記帳して、近くを散歩した。
赤レンガの建物群は19世紀半ばからあるようで、小山が多い丘陵地の丘に位置していた。
好ましい印象だった。田園ふうの大学は、ワルシャワやフィレンツェの大学とは全く似ていなかったけれども。
教室のある建物の入口に、神がモーゼに発したExodos の書物の一節が刻まれているのを見て、衝撃を受けた。「足の靴を脱げ、聖なる地へと立ち上がる場所に向かって」。
私は、もしかしてうっかりと神学校に着いたのでないか、と思った。
しかし、のちの午後に、大学の副学長と出会って、彼がキャンパスを車で案内してくれた。そして、全てが良く思えた。//
(06) 判明したとおり、私は素晴らしい選択をしていた。
Muskingum College はHarvard ではなく、そう装ってもいなかった。だが、私にとってはるかに適した場所だった。二つの理由があった。
大学が小さかった。—700名の学生とそれと均衡した規模の教授陣。これが意味したのは、私が大群の中で迷わないことだ。
戦争前から入学していたポーランドの女の子を除いて、キャンパスにいる唯一のヨーロッパ人だったので、私は好奇の対象だった。
時を経ずして、ほとんどの学生たちを個人名で知り、彼らもそうするようになった。
第二に、私はとても貧しかった。衣装入れには二着の上衣と四枚のシャツしかなかった。大きな大学だと、私は惨めな人物に見えただろう。
やがて、学生、教授、事務職員に連れられて街へ行った。そして、二年半をそこで幸せに過ごした。//
(07) ヨーロッパ人にとって、1940年にオハイオの中央に来るのは、19世紀へと後ずさりすることだった。そこの人々の外貌と価値観は第一次大戦前のものだった。
自分がかつて知っていた場所であるような、ほっとする安定感があった。
そこの人々がどれほどヨーロッパから離れているかを、私がデイトした利発で可愛い女の子が示したかもしれない。
彼女は、ヨーロッパがあるとは知っていたけど、私と逢えてとても嬉しい、と言った。彼女の胸の裡では、きっと全く信じ難いことだった。
学長や数人の教授たちを除けば、誰もヨーロッパへ行ったことがなかった。
(対照的に、名誉博士号を授与されるために1988年にMuskingum を再訪したとき、教授たちのほとんど、大学院学生の多くは、何人かは二度以上、大陸へ行っていた。)
人々は私の戦争話に、同情的に、しかし疑いながら、耳を傾けた。
一つには、彼らは圧倒的に共和党支持者で、当時の共和党は孤立主義を選んでいた。
しかし、政治論以上に、彼らは人間の善良さを信じていて、ドイツ人が私が描写するような悪魔だということに納得しなかった。
あるとき、第一次大戦でベルギーについて判明したとしたドイツの(その言う)残虐性がいかに虚偽であるかを、想起させられた。
読んだニーチェの言葉が頭をめぐった。このことから受けた衝撃で、この事実について知識を誇示する気になれなかったからだ。
ある日、副学長がキャンパスを歩いている私を見つけて、同乗を勧めてくれた。
我々が目的地に着いたとき、彼は簡単な講義をしてくれた。
私にどんな体験があっても、人類への信頼を失ってはならない、人々は根本的には善良で、人生は公正だ、と彼は言った。
彼は最後に、「ではまた。きみはニーチェを読んではいけない」と言った。
実際、私はニーチェを読むのはもうやめていた。//
(08) Muskingum での計5学期(semester)の間、アメリカとヨーロッパの間の多くの違いを観察することができた。
(09) 一つの顕著な差違は、アメリカの若者たちは、ヨーロッパの私の世代の者なら夢物語だと感じるだろうような自信を持って、人生設計をしている、ということだ。彼らは未来に生きているように見えた。一方で、我々は、その日ごとの暮らしをしていた。
雑誌〈Fortune〉を捲っていて、Maryland 損害保険会社の広告が目に止まった。こう書いてあった。
「予測できないことが…人生の行路を変更したり形成したりしてはいけない」。
本当に? 私は自問した。もしそうならば、私はなぜワルシャワからオハイオのNew Concord に来て、人生の行路をすっかり変えたのだろうか?
この保険会社の言葉の背後にある暗黙の前提は、金銭は人生の望ましくない変化を逸らすことができる、ということだ。しかし、金では十分でない。このことを、私は体験で教えられた。
アメリカの若者たちは、異なる進み方は溺死することだと確信して、潮流に沿って泳ぎながら、人生を開始しているように見えた。//
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第五章・大学①、終わり。