秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R・パイプス

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
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 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
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 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
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 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
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 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
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2791/R.パイプス1990年著—第14章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話②。
 (10) 公式の政府の声明が、「国際ブルジョアジー」による攻撃を撃退するソヴィエト・ロシアの必要によるものとして、新しい、社会主義的軍隊の創設を正当化した。
 しかしこれは、公にされた使命の一つにすぎず、また必ずしも最も重要なものでもなかった。
 帝制軍と同じく、赤軍は二つの機能をもった。すなわち、外国の敵と戦うこと、国内の治安を確保すること。
 Krylenko は、1918年1月の第三回全国ソヴェト大会の兵士部会にあてて、こう宣告した。「赤軍の最大の任務は、『国内戦争』を闘い、『ソヴィエトの権威の防衛』を確実にすることだ」(注11)。
 言い換えると、赤軍の任務は、まず第一に、レーニンが行なうと決意していた内戦のために役立つことだった。
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 (11) ボルシェヴィキもまた、赤軍に対して、内戦を拡大する使命を与えた。
 レーニンは、社会主義の最終的勝利のためには「社会主義」国家と「ブルジョアジー」国家の間の一続きの大戦争が必要だ、と信じていた。
 彼らしくない率直さで、こう語った。
 「ソヴェト共和国が帝国主義諸国と並んで長いあいだ存在するというのは、考え難い。
 最終的には、どちらかが勝利する。
 その結末に至るまで、ソヴェト共和国とブルジョア諸政府のあいだの最も激烈な闘争が長く続くのは、避けることができない。
 これが意味するのは、支配階級であるプロレタリアートは、かりに支配することを欲しかつ支配すべきものならば、そのことを軍事組織でもって証明しなければならない、ということだ。」
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 (12) 赤軍を組織することが発表されたとき、<Izvestiia>は社説欄で、つぎのように歓迎した。
 「労働者の革命は、地球規模でのみ勝利することができる。そして、永続的な勝利のためには、さまざまな諸国の労働者が互いに協力し合うことが必要だ。//
 プロレタリアートの手に権力が最初に移った国の社会主義者は、腕を組んで、兄弟たちがブルジョアジーと国境を越えて闘うことを助ける、という任務に直面することになるだろう。//
 プロレタリアートの完全かつ最終的な勝利は、国内の戦線と国際的な戦線での連続した戦争の完全な勝利なくしては、考えることができない。
 したがって、革命は、自らの、社会主義の軍隊なくしては、達成することができない。//
 Heraclitus は、『戦争は、全てのことの父親だ』と言った。
 戦争を通じてこそ、社会主義への途もまた拓かれている<脚注>。」
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 <脚注> Izvestiia, No.22/286(1918.1.28),p.1. Heraclitus は実際には少し違って語った。—「(戦争でなく)対立は全てのことの父親であり王君だ。対立はある者を奴隷にし、ある者を自由にした。」
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 (13) 他に多くの見解が発表され、明示的にまたは黙示的に、赤軍の任務の中には外国での干渉が含まれる、という趣旨が述べられた。あるいは1918年1月28日の布令のように、「ヨーロッパでの来るべき社会主義革命への支援を提供する」と述べられた(注13)。
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 (14)  これら全て、将来のことだった。
 さしあたりボルシェヴィキが有していた信頼に足りる軍団は、ラトヴィア・ライフル兵団(the Latvian Rifles)だけだった。これについては、憲法会議の解散とKremlin の安全確保の箇所ですでに言及はしている。
 ロシア軍は、1915年の夏に、分離した最初のラトヴィア兵団を設立した。
 1915-16年に、ラトヴィア・ライフル兵団は、8000人で成る全員が義勇の兵団で、ナショナリズムが強い、かなりの大きさの社会民主主義の兵団だった(注14)。
 ロシアの常設軍団からのラトヴィア民族派で補強されて、それは1916年の末には、全部で3万人から3万5000人で成る8個の分団を形成していた。
 この兵団はチェコ軍団(Czech Legion)に似ていた。これはほぼ同時期にロシアで、戦争捕虜でもって編成されていた。もっとも、両兵団の運命は全く異なるものになるのだけれども。
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 (15) 1917年の春、ラトヴィア兵団はボルシェヴィキの反戦宣伝に好意的に反応し、講和と「民族自決権」原則によって、当時ドイツの占領下にあった母国に帰ることができるだろうと期待した。
 社会主義ではなく民族主義にまだ動かされていたが、彼らはボルシェヴィキの諸組織と緊密な関係を形成し、臨時政府に反対するボルシェヴィキのスローガンを採用した。
 1917年8月、ラトヴィア兵団は、Riga の防衛者として自認するようになった。
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 (16) ボルシェヴィキはラトヴィア兵団をロシア軍の他の兵団とは区別して扱い、損傷を与えないままにし、重要な治安活動を彼らに委ねた。
 ラトヴィア兵団は次第に、フランスの外国人軍団とナツィスのSSの結合体のようなものになっていった。外国の敵からと同様に内部の敵からも体制を守る、一部は軍隊で一部は保安警察のような軍団だ。
 レーニンは彼らを、ロシア人部隊以上に信頼した。
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 (17) 労働者と農民の赤軍を創設しようとする初期の計画は、無に帰した。
 入隊した者の目的は主に報酬と略奪する機会の獲得だった。前者はすみやかに月給50ルーブルから150ルーブルに上がった。
 軍の大半は、除隊されたごろつき兵士たちだった。トロツキーはのちに彼らを「フーリガンたち」と呼び、ソヴィエトの布令は「非組織者、悶着者、利己主義者」と称することになる(注15)。
 今日の新聞は、初期の赤軍兵団が実行した暴力的な「収奪」の物語で溢れている。空腹で支払いが悪かった者たちは、制服や軍備品を売り、ときには相互で闘った。
 1918年5月、Smolensk を占領した彼らは、「ユダヤを叩き出せ、ロシアを救え」というスローガンのもとで、ソヴェトの諸機関からユダヤ人を追放することを要求した(注16)。
 状況はかなり悪く、ソヴィエト当局はたまにはドイツの軍団に対して、言うことを聞かない赤軍兵団に介入することを要請しなければならなかった(注17)。
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 (18) 事態はこのように進むことはできず、レーニンはやむなく、かつての将軍幕僚やフランス軍事使節団に迫られていた職業的軍隊の構想を受け入れた。
 1918年の2月と3月初旬に党内で、労働者で構成されて民主主義的構造をもつ「純粋な」革命軍の主張者と、より伝統的な軍隊の支持者の間で、討論が行なわれた。
 討議では、労働者による工業支配の主張者と職業的経営の主張者の間で同時期に起きていたのと同じ対立があった。
 どちらの場合も、効率性の考慮が革命的ドグマに打ち勝った。
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 (19) 1918年3月9日、人民委員会議(Sovnarkom)は、ある委員会を任命した。その任務は、「社会主義的軍隊(militia)と労働者・農民の普遍的な軍事化の理念にもとづく、軍の再組織と強力な軍隊の創設のための軍事センターを樹立するプラン」を一週間以内に提示すること、だった(注18)。
 職業的軍隊に対する反対派を率いていたKrylenko は、戦争人民委員を辞し、司法人民委員部を所管した。
 彼に替わったトロツキーには、軍事の経験がなかった。ほとんど全てのボルシェヴィキ指導者と同じく、草案を考えるのを避けて以来ずっとだった。
 トロツキーが任命されたのは、敵に寝返ったり政治に干渉したりすることでボルシェヴィキ独裁に対する脅威を与えない、そのような効率的で戦闘準備のある軍隊を創設するために必要な、外国または国内についての職業的助力を獲得するためだった。
 政府は同時に、トロツキーを議長とする、最高軍事会議(Vysshyi Voennyi)を設立した。
 この会議は、将校(戦争人民委員部と海軍)とかつての皇帝軍の軍事専門家で構成された(注19)。
 ボルシェヴィキは、軍隊の完全な政治的信頼性を確保するために、軍事司令官たちを監督する「人民委員」の仕組みを採用した(注20)。
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 第二節、終わり。

 

2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
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 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
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 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
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 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
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 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
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 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
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 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
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 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
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 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
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2784/R.パイプス1990年著—第14章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章第一節②。
 (06) 西側はボルシェヴィズムに大きな関心をもたなかったとしても、ボルシェヴィキには西側に重大な関心があった。
 ロシア革命は、その元の国に限定されたままでは存続しなかっただろう。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な意味をもった。
 ロシアの地政学的位置だけによっても、ロシアが世界大戦から離れることは許されなかった。
 ロシアの多くは、ドイツの占領下にあった。
 やがて、イギリス、フランス、日本、アメリカが形だけの派遣部隊をロシアに上陸させた。東の前線を再活性化させようとの試みは失敗した。
 依然としてもっと重要だったのは、革命はロシアに限られるべきでなく、限られることもあり得ない、革命が西側の産業国家に拡大しなければロシアは破滅する、という確信が、ボルシェヴィキにあったことだ。
 ボルシェヴィキがペテログラードを支配したまさにその最初の日に、講和布令は発せられた。それは、外国の労働者たちに対して、ソヴェト政府が「労働者、被搾取大衆を全ての隷従と搾取から解放する任務を首尾よく成し遂げる」(注2)よう決起し、助けることを強く呼びかけるものだった。
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 (07) これは、新しい言葉遣いで覆われていたけれども、既存の全ての政府に対する、そして主権国家の内政問題への全ての干渉に対する、戦争の宣言だった。内政干渉は当時およびのちに頻繁に繰り返されることになる。
 そのような意図があることを、レーニンは否定しなかった。
 「全ての諸国の帝国主義的強奪に対して、我々は挑戦状を突きつけた」。
 外国での内戦を促進しようとするボルシェヴィキの企ての全て—文書アピール、助成金や援助金の提供、軍事的協力—は、ロシア革命を国際化させた。
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 (08) こうして外国の政府が彼らの国民に反乱や内戦を刺激することは、「帝国主義的略奪者」に対して、同じように報復する全ての権利を与えた。
 しかしながら、すでに述べた理由で、実際には、諸大国はこの権利を行使しなかった。いずれの西側政府も、大戦中もその後も、共産主義体制を打倒するようロシア国民に対して訴えることをしなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の年でのこのような限定的な干渉しかしなかった動機は、もっぱら、彼らの個別的な軍事的利益のためにロシアを役立たせることにあった。
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 第一節、終わり。

2781/R.パイプス1990年著—第14章①。

 Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
 A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   **「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
 B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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 序説。
 第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
  第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
  第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
  第11章/十月のクー。 p.439〜.
  第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
  第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
  第14章/革命の国際化。 p.606〜.
  第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
  第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
  第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
  第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
 あとがき。 〜p.842.
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 もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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 Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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 第14章/革命の国際化。
 休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
 —レーニン、1917年9月。
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 第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
 (01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
 これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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 (02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
 諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
 国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
 一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
 牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
 なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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 (03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
 1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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 (04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
 ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
 連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
 前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
 後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
 もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
 連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
 レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
 とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
 ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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 (05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
 諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
 ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
 しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
 レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
 彼の恐怖は、根拠がなかった。
 イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
 その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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 第一節②へとつづく。

2608/R・パイプス1994年著結章<省察>第九節(了)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳の最後。原書、512頁。
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 第九節・歴史からの道徳的示唆。
 (01) 科学的方法を人間の諸問題の管理に適用することはできないことを例証したことに加えて、ロシア革命は、政治の性格の問題、すなわち彼らの委任なくして、いや彼らの意思に反してすら、人間を作り直し、社会を再様式化しようとする政府の権利という、きわめて深大な道徳的問題を提起した。すなわち、初期の共産党のスローガン、「我々は力ずくで人類を幸せに向かわせる」、の正当性だ。
 レーニンと懇意にしていたGorky は、レーニンは人間を鉱石に対する金属加工者だと見なした、とするムッソリーニに同意した。(注24)
 レーニンの見方は、至るところにいる急進的知識人たちに共通する見方を表現したものにすぎなかった。
 これは、道徳的に優れていて同時により現実的なカントの原理的考えに逆行している。カントは、人間は決して他者の目的のためのたんなる手段になってはならず、自分自身に目的があるとつねに考えられなければならない、と説いた。
 この優れた見地からすると、ボルシェヴィキの過剰さ、自分たちの目的のために無数の人々の生命を簡単に犠牲にすることは、倫理と良識のいずれをも醜怪に侵害するものだ。
 ボルシェヴィキは、手段は—人々の福利および生命すら—きわめて現実的なものであり、それに対して目的はつねに漠然としていて、しばしば達成し難い、ということを黙殺した。
 この場合に適用する道徳的原理は、カール・ポパー(Karl Popper)によってこう定式化されてきた。
 「全ての人間が、価値があると自分が考える目的のために自分を犠牲にする権利をもつ。
 誰一人として、ある目的のために他者を犠牲にしたり、他者が彼らたちを犠牲にするよう誘発したりする権利をもたない。」(注25)//
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 (02) フランス革命に関するその記念碑的研究から、Hippolyte Taine は、彼自身は「たわいもない」(puerile)と表現した教訓を、すなわち「人間社会は、とくに近代の社会は、巨大で複雑なものだ」という教訓を導き出した。(注26)
 このような観察を、つぎのような推論でもって補足する誘惑に駆られる。
 まさに近代社会は「巨大で複雑な」ものであり、したがって把握して理解するのがきわめて困難であるがゆえに、社会を再構築しようとするのはもちろん、管理の諸様式を社会に押し付けるのは、適切ではなく、実現可能でもない。
 把握して理解することができないものを、統御することはできない。
 ロシア革命の悲劇的で醜悪な物語—現実にそうだったものであり、人類を向上させる高貴な企てと見た外国の知識人たちの想像ではそう思えたものではない—が教えるのは、政治的な権力(authority)は、イデオロギー上の目的のために用いられてはならない、ということだ。
 人々はあるがままに任せるのが、最善だ。
 Oscar Wilde が中国の賢人が語ったとした言葉によると、こうだ。人間にそのまま任せるべきものは、ある。—しかし、人間を統治(govern)するようなことは、かつてなかった。//
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 後注
 (24) NZh, No. 177/171 (1917.11.10), in H. Ermolaev, ed., Maxim Gorky, Untimely Thoughts (1968), p.89.
 (25) Frankfurter Allgemeine Zeitung, No. 291 (1976.12.24), Section VI, p.1.
 (26) Hippolyte Taine, The French Revolution, II (1881), Preface, p. v.
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  第九節、結章全体が終了。

2607/R・パイプス1994年著結章<省察>第八節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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 第八節・共産主義の失敗の不可避性。
 (01) それ自体がもった願望から判断すると、共産主義は記念碑的(monumental)な失敗だった。共産主義は、ただ一つのことだけに、成功した。—権力にとどまること。
 しかし、ボルシェヴィキにとっては権力はそれ自体が目標ではなくその目的のための手段だったのだから、たんなる権力保持だけでは、実験は成功したと評価することはできない。
 ボルシェヴィキは、その目的を何ら秘密にしていなかった。すなわち、私的財産を基礎にする全ての体制を打倒し、それらを世界的な社会主義社会の同盟で置き換えること。
 ボルシェヴィキは、第一次大戦の終わりまでに拡張していたロシア帝国の国境の内部でのみ成功した。第一次大戦終焉のとき、赤軍はドイツの降伏によって生まれた東ヨーロッパの真空に踏み込んだ。中国共産党は日本から自分たちの国の支配を奪った。そして、モスクワの助力を受けた共産主義独裁制が、新しく解放された地域に設立された。//
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 (02) 共産主義を輸出することが不可能だといったん判ると、ボルシェヴィキは1920年代に、自国での社会主義社会の建設に取り組んだ。
 この尽力も、失敗した。
 レーニンは、強制的没収とテロルを結合させることで、自国を数ヶ月のうちに世界の指導的な経済大国に変えるのを期待した。実際には反対に、彼が継承した経済を破滅させた。
 レーニンは、共産党がnation に対する紀律ある指導力を持つことを期待した。実際には反対に、国全体で弾圧した政治的不満や、自分の党内部の変化に遭遇した。
 労働者たちが共産主義者に背を向け、農民たちが反乱を起こしたとき、権力にとどまるには、断固として警察的手段に訴えることが必要だった。
 膨らんで腐敗した官僚機構は、体制の行動の自由を妨げた。
 諸民族の自発的な同盟は、抑圧的な帝国に変わった。
 最後の二年間のレーニンの演説と文章が明らかにしているのは、建設的な思想の衝撃的な少なさと経済に関する無能力さだ。テロルでさえも、古い国に染み込んだ習慣を克服するには役に立たないことが判った。
 ムッソリーニは、初期の経歴がレーニンのそれにきわめて似ており、ファシスト独裁者としてであれ共産主義体制を共感をもって観察していた。その彼は1920年7月にすでに、ボルシェヴィズムという「巨大で、恐ろしい実験」は失敗した、と結論づけた。
 「レーニンは、他の芸術家が大理石や金属の上で仕事をするように、人間の上で仕事をした芸術家だった。
 しかし、人間は花崗岩よりも硬く、鉄ほどには可塑的でない。
 傑作は生まれなかった。
 芸術家は、失敗した。
 その仕事は彼の力量を超えることが判明した。」(注22)/
 70年と数千万人の犠牲者のあとで、レーニンとスターリンのロシアの長としての継承者であるBoris Yeltsin は、アメリカの連邦議会に対して、多くのことを承認した。
 「世界は、安心して嘆息することができる。
 至るところに社会的衝突、敵愾心、人間性に注入する無比の残忍さを蔓延させた共産主義という偶像は、崩壊した。
 崩壊した。二度と生まれることはない。」(注23)//
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 (03) 失敗は不可避だった。失敗は、共産主義体制の前提そのものの中に組み込まれていた。
 ボルシェヴィズムは、歴史上最も無謀な、国の生活全体を総合計画に従属させ、全ての人間と全ての事物を合理化しょうとする企てだった。
 ボルシェヴィズムは、人類が数世紀にわたって蓄積してきた智恵を、無用のごみくずのごとく捨て去った。
 その意味で、科学を人間の諸問題に適用しようとする、独特な作業だった。
 それは、知識人層という種族に特徴的な熱情をもって追求された。知識人たちは、自分たちの理想に抵抗があることはその理想が健全であることの証拠だと考えた。
 共産主義は、啓蒙主義の誤った教理から出発したがゆえに、失敗した。これは思想の歴史でおそらく最も有害な、人間はたんなる物質的合成物で、精神や生得の思想を欠いている、という考え方だ。人間は、無限に鍛造可能な社会環境の産物のごときものだ、と見なす。
 この教理によって、個人的忿懣をもつ人々が社会にそれを向けること、自分たちではなく社会に解消させようとすること、が可能になった。
 経験が何度も確認してきたように、人間は生命のない物体ではなく、自らの願望と意思をもつ生物だ。—機械的存在ではなく、生物的存在だ。
 かりに最も凄まじい調教を受けたとしても、人間は、学ぶよう強制された教訓を自分の子どもたちに伝えることができない。子どもたちは絶えず新しくこの世に生まれてきて、最終的に解決されたと考えられている疑問を投げかけるのだ。
 この常識的な真実を例証するために、数千万人の死者、生き残った人々の甚大な苦しみ、そして一つの大国の破滅が必要だった。//
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 (04) このような欠陥のある体制が、どのようにして長く権力を維持し続けることに成功したのか。この疑問に、我々が何を思いつこうとも、体制の人々自身が支持したからだ、という答えで対処することはできない。
 市民からの明示的な委託にもとづかない政府の耐久性をその言うところの人気(popularity)で説明する者はみな、同じ弁明をその他の全ての、ツァーリズムを含む権威主義的体制にも行なわなければならない—ロシアのそれは70年ではなく7世紀も生き残った。そして、どうやらとても人気があったツァーリズムがどのようにして、数日のうちに崩壊したのか、を説明するという、面白くない仕事にさらに直面しなければならない。//
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 後注
 (22) Benito Mussolini, Opera Omnia, XV (1954), p.93.
 (23) NYT, 1992.6.18, p. A18.
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 第八節、終わり。つづく。

2606/R・パイプス1994年著結章<省察>第七節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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 第七節・革命の人的犠牲(human cost)。
 (01) 革命はロシアに、途方もない人的損失を負わせた。
 統計資料はきわめて衝撃的で、疑問を生じさせるほどだ。
 しかし、誰かが別の数字を示すことができないかぎり、歴史家はそれを受け容れざるを得ない。共産主義者と非共産主義者の人口統計学者たちが似たような数字を提示しているので、いっそうそうなる。//
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 (02) 以下の表は、1926年の国境内部でのソヴィエト同盟の人口を示している(単位は100万人)。
  1917年秋/147.6
  1920年初/140.6
  1920年初/136.8
  1922年初/134.9 (注19)
 人口の減少—1270万人—の原因は、まず、戦闘と感染症による死亡だった(それぞれ約200万人)。また、脱出(約200万人)。そして、飢饉(500万人以上)。//
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 (03) しかし、これらの数字は物語の半分しか伝えていない。通常の条件のもとでは、人口は静止したままではなく、明らかに増加するだろうからだ。
 ロシアの統計学者の推算が示すのは、1922年に人口は1億3500万ではなく、1億6000万以上を数えたはずだった、ということだ。
 この数字を考慮するならば、脱国者(エミグレ)の数を除いても、ロシアでの革命の人的犠牲者は—現実のそれと出生の減少とで—、2300万人以上に達する。(*) これは、第一次世界大戦の全交戦諸国が被った戦死者数の二倍半で、当時のスカンジナヴィア4カ国にオランダを合わせた人口数にほぼ匹敵する。
 現実の死亡者は16歳〜49歳の年代集団で最も多く、とくにその世代の男性に多い。彼らのうちの29パーセントが、1920年8月までに死んだ。つまり、飢饉が起きる前に。(20)//
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 (04) このような前例のない厄災を、平静に見ることができるか? 平然と見なければならないのか?。
 我々の時代の科学の威厳はきわめて高いので、少なからぬ学者たちは、調査に関する科学的方法とともに、道徳的かつ情緒的な冷静さという科学者の習慣を、別言すれば全ての現象を「自然な」ものと、ゆえに倫理的に中立的なものと見る習癖を、身につけてきた。
 彼らは、歴史的事象に人間の意欲を入り込ませるのを嫌う。自由な意思は予測できないので、科学的分析に馴染まないからだ。
 歴史的「不可避性」は、彼らには科学者にとっての自然の法則なのだ。
 しかし、科学の対象と歴史学の対象は大きく異なることがこれまでに知られてきた。
 我々は正当に、医師による病気の診断や、冷静で感情を交えない治療方法の提示を期待する。
 会社の財務状況を分析する会計士、設備の安全性を検査する技師、敵国の能力を評価する情報将校は明らかに、感情に左右されないままでいなければならない。
 その理由は、彼らの調査の目的は適切な決定に到達するのを可能にすることにあるからだ。
 しかし、歴史家にとっては、決定は他者によってすでになされており、冷静さがあっても理解に何も付け加えはしない。
 実際には、理解を妨げる。なぜなら、熱情の火の中で生み出された事象を、どうやって熱情なくして理解することができるのか?
 「Historiam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」—「私は、歴史は怒りと熱狂でもって書かれるべきだ、と主張する」と、ある19世紀のドイツの歴史家は述べた。
 全ての問題について中庸を説いたアリストテレスは、「怒りを欠くこと」が受容し難い状況がある、と書いた。「怒るべき事物に対して怒らない者たちは、馬鹿だと見なされるからだ」。(注21)
 関連性のある事実を集めることは、たしかに、冷静に、怒りや狂熱なくして、行なわれなければならない。歴史家の仕事のこの側面は、科学者のそれと異なるところはない。
 しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない。なぜなら、これらの事実を分類すること自体が—どれが「関連性がある」かに関する決定なのだから—、判断を必要とし、そしてこの判断は、価値に依存する。
 事実それ自体には、意味がない。事実を選択する指針を与えはしないし、命令しもしない。そして、強調すれば、過去の「意味を理解する」ためには、歴史家は何らかの原理的考え方に従わなければならない。
 歴史家は通常は、原理的考え方を持っている。意識していようといまいと、最も「科学的な」歴史家ですら、諸前提を置いて仕事をしている。
 総じて言えば、この諸前提は、経済的決定論に根ざしている。経済的、社会的な基礎資料は、統計学的な論証を導き、この論証は公平さという幻想を生むからだ。
 歴史的事象に関する判断を経るのを拒絶することも、道徳的諸価値にもとづく。すなわち、起きることは全て自然であり、ゆえに正しい(right)という暗黙の前提に立っている。これは、たまたま勝利を獲得した者たちを弁明することにつながる。//
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 後注。
 (19) Iu. A. Poliakov, Sovetskaia strana posle okonchaniia grazhdanskoi voiny (1986), p.94.
 (20) S. G. Strumilin, Problemy ekonomiki truda (1957), p.39.
 (21) Aristotle, Nicomachaean Ethics, IV, p.5.
 ——
 第七節、終わり。つづく。

2605/R・パイプス1994年著結章<省察>第六節(レーニンとスターリン)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 つぎの第六節は、2017年・2018年に試訳を掲載・再掲している。
 2017/04/09(1490/日本共産党の大ウソ33)、2018/11/08(1490再掲/レーニンとスターリン—R·パイプス1994年著)。
 これに依りつつ、あらためて原書を見て少し修正した試訳を掲載する。
 —— 
 第六節・レーニン主義とスターリン主義。 
 (01) ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題の一つは、レーニン主義とスターリン主義の関係、-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任、だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、この二人の共産党指導者の間のいかなる連関も否定する。そして、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式の歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑されるスターリン主義の先行者から、その後の体制を切り離すという目的に役立った。
 興味深いことに、レーニンの権力掌握は不可避だったと叙述する全く同じ者たちが、スターリンの叙述に至ると、その歴史哲学を捨て去る。彼らは、スターリンは歴史からの逸脱だ、と叙述するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、その言う先立つ行路のあとで、歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)、30年の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 ----
 (02) スターリンの経歴を検証すれば、彼はレーニンの死後に権力を掌握したのではなく、最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかになる。
 レーニンは、党の諸機構を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠資料が示すのは、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日常の事務を遂行したこと、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて多くて多様な助言を与えた、ということだ。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは党中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 スターリンはこれらの権能にもとづいて、実質的には全ての党支部や国家行政部門への執行的人員の任命を監督した。
 レーニンが組織的反抗者(「分派主義」)の発生を阻止するために導入していた諸規則のおかげで、スターリンは自分が執事的地位にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、スターリンの人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
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 (03) しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞たちの99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI. S. Unshlikht は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに「呵責なく」処理したかを、またレーニンが資本主義世界の <人道性> をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(注18)
 二人にある上記の違いは、「外部者」という概念の違いによる。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して用いたのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
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 (脚注*)  実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたViacheslav Molotov は、レーニンの方がスターリンと比べて「より苛酷(harsher)」だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184.
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 (04) 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産党員の殺戮を除いて-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量テロルも含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動様式(modus operandi)はレーニンのそれらと同じだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的には、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思い浮かべることはできる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして> 彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそが重要な指揮命令構造を党に課すことによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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 (後注18)  RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
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 結章第六節、終わり。つづく。

2604/R・パイプス1994年著結章<省察>第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.502〜。
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 第五節・共産主義とロシアの歴史の遺産。
 (01) 多くの不一致があるにもかかわらず、現在のロシア民族主義者たちと多数のリベラルたちは、帝制と共産主義ロシアの間の連結関係を否定する点では、一致している。
 前者が連関を承認するのを拒否する理由は、外国人、とくにユダヤ人を攻撃するのを好んだことについて、共産主義ロシアは自分自身の不運に対する責任を負う、というものだ。
 この点で彼らは、ドイツの保守派に似ている。ドイツ保守派は、ナツィズムをヨーロッパの一般的現象の一つと描く。その目的は、ドイツの過去に先例があったことを否定すること、あるいはドイツ人が特別に責任を負うこと、の否定だ。
 このような考え方は、間違ったことの責任を他者に転嫁することができるので、その影響を受けた人々の心を容易に掴んでいる。//
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 (02) リベラルたちや急進的知識人—ロシアには外国ほど多くないが—は、共産主義とツァーリズムとの間の親近関係を、革命全体が犠牲が多い無意味な大失敗になってしまうという理由で否定する。
 彼らが好むのは、共産主義者たちの宣せられた目標に焦点を当てて、それを帝制時代の現実と対比させることだ。
 こうすれば、瞠目すべき対照が生まれる、という。
 もちろん、共産主義時代の現実と帝制時代の現実を比較すればほとんど直ちに、描いた構図は変化する。//
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 (03) レーニンの体制と伝統的ロシアの類似性を、少なからぬ現代人は、とりわけ歴史家のPaul Miliukov、哲学者のNicholas Berdiaev、老練社会主義者のPaul Akseirod は(注10)、および小説家のBoris Pilniak は、気づいている。
 Miliukov によると、ボルシェヴィズムには二つの側面がある。
 「第一に、国際的だ。第二に、純粋にロシア的だ。
 ボルシェヴィズムの国際的側面は、きわめて先進的なヨーロッパの理論を起源としていることによる。
 その純粋にロシア的側面は、主としてその実践に関係している。ボルシェヴィズムの実践的側面はロシアの現実に深く根ざしていて、『アンシャン・レジーム』からの離反では全くなく、ロシアの過去を現在に再現(reassert)するものだ。
 我々の惑星の初期の時代の証拠として、地質の変化は地球の下の地層から表面に達しているのだが、ロシアのボルシェヴィズムは、薄い、社会の表層だけを取り除くことによって、ロシアの歴史的生命の非文化的で非組織的な基層は全くそのままに残した。」(注11)
 革命を主として精神の観点から検討したBerdiaev は、ロシアに革命があったことすら否定した。
 「過去の全てが繰り返されており、新しい仮面(masks)に隠れて動いている」。(注12)//
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 (04) ロシアに関して全く無知の者でも、たった一日の1917年10月25日に、武装蜂起の結果として、数千年の古い歴史をもつ巨大で人口の多い国が完全に変革され得たという推移を理解することができない、と感じるに違いない。
 同じ人々、同じ領土に居住する人々、同じ言語を話す人々、共通する過去の継承者たちが、政府の突然の交替によって異なる人間に作り上げられることは、ほとんどあり得なかった。
 このような劇的な、自然界には存在しない変形が可能であると信じるためには、物理的な実力に裏打ちされている布令(decree)についてにすら、その布令の力に対する大きな信頼が必要だ。
 人間は環境によって完全に塑型される自立性なき物体だ、と考えてのみ、このような非条理なことを思いつくことができるだろう。//
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 (05) 二つのシステムの間の継続性を分析するには、家産主義(patrimonialism)という概念を参照しなければならない。この家産主義はモスクワ公国の統治の基礎にあり、多くの態様で旧体制の終焉までロシアの制度や政治文化に存続してきた。(注13)
 帝制家産主義は、四つの支柱に依拠した。
 第一に、独裁政。すなわち、憲法にも代表的機関にも制約されない個人的支配。
 第二に、専制者による、国の資産の所有。すなわち私的財産の事実上の不存在。
 第三に、臣民に無制限の奉仕を要求する、専制者の権利。これは、集団的と個人的のいずれの権利も存在しないことに帰結した。
 第四に、国家による情報の統制。
 絶頂期の帝制支配を共産主義体制を比較すれば、レーニンの死の頃までに見られたように、間違いようのない類似性が明らかになる。//
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 (06) まず、独裁政から。
 伝統的に、ロシアの君主は、立法と執行の権力を完全に掌握し、外部の組織による干渉を受けないでそれらを行使した。
 君主は、民族または国家ではなく彼個人に忠誠を誓う奉仕貴族や官僚たちの助けを借りて統治した。
 レーニンは、役職に就いたその初日から、本能的にこのモデルに倣った。
 民主主義の理想への譲歩として立憲制や代表的機構を認めたけれども、それらは全く儀礼的な機能しか果たさなかった。立憲制は国家の真の支配者である共産党を拘束する力を持たず、議会は選挙されず、同じ政党によって選抜されたのだから。
 職責の履行に関して、レーニンは、最も独裁的なツァーリのピョートル一世やニコライ一世に似ていた。レーニンは、国はあたかも自分の私的所有物であるかのごとく、国家事務のきわめて詳細な事柄にも個人的に関与するのを執拗に主張した。//
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 (07) モスクワ公国の先行者がそうだったように、ソヴィエト支配者は、国の生産的、収益作出的な富への権益を要求した。  
 土地と工業の国有化に関する布令を皮切りに、政府は、純粋に個人的に使用される物品を除く全ての資産を奪い取った。
 そして、政府は一党の手中にあり、その党は今度はその指導者の意思に服従したがゆえに、レーニンは、国の物質的資産の事実上の所有者だった。
 (法的な所有権は「人民」にあったが、これは共産党と同義だと見なされた。)
 工業は、国家が指名する管理者によって運営された。
 その生産品と、1921年以前は土地からの生産物は、クレムリンが適切と判断したように処分された。
 都市部の不動産は、国有化された。
 私的な商取引は(1921年以前と1928年以降は)非合法化され、ソヴィエト体制は全ての合法的な卸売りと小売りの取引を統制した。
 こうした措置はモスクワ公国の実務を超えていたが、ロシアの主権者は国を支配するだけではなく所有しもするという原理を永続化するものだった。//
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 (08) 君主は、その住民も所有した。
 ボルシェヴィキは、国家に奉仕する義務を再び制度化した。これは、モスクワ公国・絶対主義の際立つ特質の一つだった。
 モスクワ公国では、皇帝の臣民は、微少な例外を除いて、軍隊や官僚機構で直接的にか、臣民の土地を耕作することでまたは従僕に条件付きで賃貸することで間接的にか、皇帝のために労働しなければならなかった。
 結果として、全国民が王君に繋がれた。
 奴隷状態からの解放は1762年に始まった。その年、郷紳(gentry)たちは私的な生活へと隠退することが認められ、99年後には奴隷解放の結果に至った。
 ボルシェヴィキはすみやかに、モスクワ公国時代の、全ての市民に国家のために労働することを義務づける実務を復活させた。これは、どの外国にも見られなかったことだった。
 処刑の威嚇でもってレーニンの指示に従って1918年に導入され、実施された、いわゆる「一般的な労働義務」は、17世紀のロシアには完璧に理解可能なものだっただろう。
 農民に関しては、ボルシェヴィキは、〈tiaglo〉、木材とりと運搬のような強制労働、の実務を復活させた。こうした労働には手当は支払われなかった。
 17世紀のロシアのように、どの住民も、許可なくしては国を離れることができなかった。//
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 (09) 共産主義官僚機構は、党と国家のいずれに採用された者であれ、全く自然なかたちで、帝制時代の先輩たちの生活様式へと滑り込んだ。
 義務と特権をもつが世襲の権利のない奉仕階級は、もっぱら上級者に対してのみ責任を負う、閉鎖的で細かく等級分けされた階層を形成した。
 帝制時代の官僚機構のように、彼らは法を超越した。
 〈glasnosti〉、つまり外部からの監督なしで働き、秘密の通牒を手段にして時間の多くをつぶした。
 帝制時代には、官僚機構内の上位階層への昇格によって、相続可能な貴族特権が授与された。
 共産主義官僚にとっては、最上位階層への昇進は、〈nomenklatura〉の名簿に含み入れられるという褒賞を伴った。これは、一般の人々は言うまでもなく—共産党員であること自体が奉仕貴族と同義だった—、ふつうの勤労者の手に届かない諸特権をもたらした。
 ソヴィエトの官僚機構は、帝制時代のそれのように、行政諸団体がその統制の外にあるのを容赦せず、すみやかに「国家化される」(statefied)こと、すなわちその指揮権の連鎖の中に統合されることを確実にした。
 これを、新体制の表面的な立法機関であるソヴェトのために、同様に表面的な「支配階級」の機関である労働組合のために行なった。//
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 (10) 共産主義官僚機構が古い様式に迅速に適合すべきだったことは、何ら驚きではない。新しい体制は、多くの点で古い習慣を継続したのだから。
 この継続性を促進したのは、ソヴィエトの管理的職位の相当に大きい部分が元は帝制時代の働き手によって占められていたことだった。彼らはかつての習癖を持ち込み、帝制時代の職務で得た習慣を共産主義の新加入者たちに伝えた。//
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 (11) 治安警察は、ボルシェヴィキが帝制から採用した、もう一つの重要な組織だった。ボルシェヴィキは、全体主義の中心的な制度になるものの手本を他に持っていなかったのだから。
 帝制ロシアは、それだけが二種の警察機構をもっていたことで独特だった。一つは、市民から国家を守るための、もう一つは市民が相互に守り合うための。(*)
 国家犯罪は、意図と行為の間に明確な区別をしないで、きわめて緩やかに定義された。(注14)
 帝制時代の国家警察は、監視の精巧な方法を練り上げていた。雇った情報提供者の網状組織を通じて社会に浸透し、職業的な工作員の助けを借りて反対諸党派に入り込むことによって。
 帝制時代の警察部門には、政治制度の変化を望む気持ちを表現するような、他のどのヨーロッパ諸国でも犯罪ではなかった行為を犯罪だとして、行政的に追放する制裁を課す独特な権限があった。
 アレクサンダー二世の暗殺後に与えられた多様な特権を使って、帝制警察は、1881年から1905年までのロシアを実質的に支配した。(15)
 その手段は全て、ロシアの革命家たちにとってよく知られていた。彼らは、権力へと到達するや、それを採用し、彼らの敵たちに向けた。
 チェカとその後継組織は、帝制の国家警察の実務を吸収した。そして、1980年代の後半には、KGB がほとんど一世紀前にOkhrana が作った手引書を部員に配布するほどになっていた。(16)//
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 (脚注*) 多くのヨーロッパ諸国には政治警察部門があった。しかし、その機能は、調査して容疑者を裁判にかけることだった。帝制ロシアにおいてのみ、政治警察が裁判権をもった。この権能によって、逮捕して、裁判所に頼ることなく容疑者を追放(exile)することができた。
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 (12) 最後に、検閲に関して。
 19世紀の前半、ロシアは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、予防的検閲を実施した。 
 検閲は、1860年代に緩和され、1906年に廃止された。
 ボルシェヴィキは、自分たちの体制を支持しない全ての出版を閉鎖し、全ての形態の知的および芸術的表現を予防的検閲の対象にした。最も抑圧的だった帝制時代の実務を再制度化したのだ。
 ボルシェヴィキはまた、全ての出版事業を国営化した。
 こうした方法は、モスクワ公国時代の実務にさかのぼる。ヨーロッパ人は、これに該当するものを知らなかった。(+)
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 (脚注+) 「書物印刷が出現したときから活版印刷が私人の手にあり、書物の出版の主導性が私人にあった西側諸国とは対照的に、ロシアでは、書物の印刷は最初から国家が独占した。このことは、出版活動の方向を決定づけた。…」
 C. P. Luppov, Kniga v Rossi v XVII veke (1970), p.28.
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 (13) ボルシェヴィキは、これら全ての事柄のモデルを、マルクス、エンゲルス、あるいはその他の西側の社会主義者の文献にではなく、彼ら自身の歴史のうちに見出した。かつまた、書物に叙述された歴史というよりも、彼らが皮膚感覚で経験した歴史だった。革命的知識人の発生と活動を予防すべく1880年代に制度化された強化・臨時防止措置の体制のもとで、自分たちが帝制と闘った経験だった。(注17)
 ボルシェヴィキは、こうした実務を、社会主義者の文献から借りた論拠でもって正当化した。諸文献からは、帝制時代に知られていたものをはるかに凌ぐ残虐さと呵責なさをもって行動せよとの命令を受け取っていた。
 ツァーリズムは、ヨーロッパから好ましく見られたいという願いをもっていたが、ボルシェヴィキにとってはヨーロッパは敵だったのだから。//
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 (14) ボルシェヴィキは帝制の実務を真似た、というのではない。逆に、彼らは帝制と何ら関係がないようにしようと、全く反対のことをしようと望んだ。
 彼らは、状況を考慮してやむなく見習った。
 いったん民主主義を拒否すると—これは1918年1月に立憲会議の解散で決定的になった—、独裁的に統治する他に選択肢がなくなった。
 そして、独裁的に支配することは、人々が慣れ親しんできた仕方で彼らを支配することを意味した。
 レーニンが権力掌握をして導入して体制には、最も反動的な帝制ロシアの統治に直接の先行例があった。アレクサンダー三世のそれであり、そのもとで、レーニンは育って大人になった。
 異なる名称をもったとしても、1880年代と1890年代の「反改革」をレーニンがいかに多く繰り返したかは、不思議なことだ。//
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 (15) ロシア革命が実際にそうだったように終焉したのは、何ら驚きではない。
 革命家たちは、人間と社会を再構成するという急進的な思想をもったかもしれない。しかし、過去をモデルにして、人間という素材で成る新しい社会を構築しなければならなかった。
 こうした理由で、彼らは遅かれ早かれ、過去に屈服することになる。
 「革命」(revolution)はラテン語の〈revolvere〉に由来し、この観念は元来は惑星の動きを表現するために用いられたが、中世の占星術者によって、人間界の事象の突然で予期しない転回を説明するために使われた。
 そして、revolvere する対象は、出発地点へと回帰する。//
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 後注。
 (10) SV, No. 6 (1921.4.20), p.6.
 (11) Paul Miliukov, Bolshevism: An International Danger (1920), p.5.
 (12) Jane Burnbank, Intelligentsia and Revolution (1986), p.194 から引用。
 (13) この主題については、私の Russia under the Old Regime (1974) を見よ。
 (14) 同上、p.109.
 (15) 同上、第11章。 
 (16) Oleg Kalugin, Vid s Liubianki (1990), p.35.
 (17) Pipes, Russia under the Old Regime, p.305-p.310.
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 第五節、終わり。つづく。

2603/R・パイプス1994年著結章<省察>第三節・第四節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.500〜。
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 第三節・「ユートピアン」ではないボルシェヴィズム。
 (01) 1991年以後はもはや争いようのなくなった共産主義の失敗の原因は、それは以前のソヴィエト同盟の指導者たちも認めているのだが、言うところの高貴な理想に達することのできない人間の欠点にあった、としばしば指摘されている。  
 釈明論者たちは、努力が報われなかったとしても、その意欲は高貴であって、企てには価値があった、と言う。彼らはこのような主張を支えるために、ローマ時代の詩人であるPropertius の言葉、「In magnis et voluisse sat et」ー「偉大な企ては、そう意欲するだけで十分だ」—を引用し得るだろう。
 しかし、ふつうの人間の望みとはまるで合致しないために、追求するには最も非人間的な手段に依拠しなければならない、そのような企てがいかほどに偉大だったのか?//
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 (02) 共産主義の実験は、しばしば「夢想的」(ユートピアン、utopian)と称される。
 かくして、ソヴィエト同盟に関する最近のある歴史書は、決して同情的にでなく、〈権力のユートピア〉(Utopia in Power)という書名を用いている。
 しかしながら、この言葉は、エンゲルスが用いた限定的な意味でのみ用いることができる。彼は、マルクスの「科学的」教理を受容しない社会主義者たちの見解は歴史的かつ社会的な現実を考察していないとして、彼らを批判するために、この言葉〔「空想的」(「夢想的」〕)を用いた。
 レーニン自身が、その生涯の最後に、やむなくこう認めることを強いられた。すなわち、ロシアの文化的現実を無視し、ボルシェヴィキが課そうとした経済的社会的秩序を形成する用意がロシアにはないことを無視したという罪責がボルシェヴィキにはある、ということを。
 ボルシェヴィキは、その理想が達成不可能であることが明白になると、無制限の暴力に訴えることによってその企てを継続した。
 ユートピアン共同体がいつでも想定していたのは、「共働的共同社会」(cooperative commonwealth)を創出するという任務について、党員たちに一致がある、ということだった。
 対照的にボルシェヴィキは、そのような一致を獲得しようとしなかったのみならず、個人や集団の主導による全ての見解表明を「反革命」だとして拒絶した。
 ボルシェヴィキはまた、虐待や弾圧に関する見解を除けば、彼ら自身とは異なる全ての見解を立憲主義的に検討する能力のなさを晒け出した。
 ボルシェヴィキは、こうした理由から、ユートピアンたち(Utopians)ではなく、狂信者たち(fanatics)と見なされるべきだ。
 彼らは目の前でそれを凝視した後でも、敗北を認めるのを拒んだ。これは、目標を忘れるという努力を倍加させるという、Santayana による狂信者の定義を充足している。//
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 (03) マルクス主義とボルシェヴィズムは、その誕生そのものが、暴力に取り憑かれたヨーロッパの知的生活の産物だった。
 自然選択に関するダーウィン理論は、中心では妥協なき闘いが行なわれるという社会哲学へと、すみやかに翻訳された。
 Jacques Barzun は、こう書く。「1870年-1914年の文学の手ごろな部分を渉猟しなかった者は、誰一人として、血を追い求めた大きさの程度を理解しなかった。また、ヨーロッパの古代文明について啓発されている市民が別々にかつ矛盾して執拗に求めた血は、多様な党派、階級、民族、人種の血だったことを、思い抱けなかった。」(注9)
 ボルシェヴィキ以上に熱狂的にこの哲学を吸収した者たちはいなかった。
 「呵責なき暴力」、全ての現実的または潜在的な対抗者の破壊を目ざして突き進む暴力は、レーニンにとって、最も有効だったばかりか、問題を処理するための唯一の方策だった。
 そして、その非人間性に彼の仲間たちの一部が怯んだとしても、その彼らもまた、自分たちの指導者の退廃的影響力から逃れることができなかった。//
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 (後注09) Jacques Barzun, Darwin, Marx, Wagner: Critique of a Heritage (1941), p.100-1.
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 第四節・イデオロギーの機能。
 (01) ロシアの民族主義者たちの考えでは、共産主義は、ロシアの文化や伝統には疎遠なもので、西側から輸入された一種の疫病だった。
 ウイルスだとする共産主義に関するこの意識は、僅かばかりの検証にも抵抗することができなかった。
 知識人たちの運動は国際的には広く見られたけれども、共産主義はまずロシアで、ロシア人のあいだで、定着した。
 ボルシェヴィキ党は、革命の前も後も、圧倒的にロシア人で構成されており、その初期の基盤は、ヨーロッパ・ロシアと境界諸国のロシア人移住者にあった。
 疑いなく、ボルシェヴィズムの基礎にあった〈諸理論〉、とくにカール・マルクスのそれは、西側出自のものだった。
 しかし、ボルシェヴィキの〈諸実践〉が独自のもので、西側のどこでもマルクス主義はレーニン主義=スターリン主義という全体主義の過剰へと行き着かなかった、ということも同様に疑い得ない。
 ロシアで、そしてのちには同様の伝統のある第三諸国で、マルクス主義は、自治、法の遵守、私的財産の尊重という伝統を欠く土壌で育った。
 異なる環境で異なる結果が生じる原因は、満足な説明としてはほとんど役立たない。//
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 (02) マルクス主義は、権威主義の傾向とともにリバタリアン(libertarian)的なそれをもつ。そしてこの両者への影響はいずれも、国の政治的文化に依存している。
 マルクス主義の教理にあるこれらの要素はロシアでは次第に優位を獲得して、ロシアの家産的(patrimonial)な遺産にぴったりと適合した。
 中世以来のロシアの政治的伝統では、政府は—より正確には支配者は—客体であって、「国」(the land)が主体だった。
 この伝統は容易に「プロレタリアート独裁」というマルクス主義の観念と融合した。この観念のもとで支配党は、国の住民と資源に対する不可分の支配権を要求した。
 「独裁」に関するこのマルクスの考えは十分に漠然としたものだったので、最も手近にあった家産主義というロシアの歴史的遺産の内容でもって充填された。
 全体主義を生み出したのは、ロシアの家産的遺産という頑丈な幹への、マルクス主義イデオロギーの移植だった。
 全体主義は、マルクス主義の教理とロシアの歴史と、そのいずれかに論及することだけでは説明することができない。これら両者の統合の結果だったからだ。//
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 (03) しかしながら、イデオロギーとして重要であっても、共産主義ロシアの形成におけるその役割は、強調されすぎてはならない。
 かりに個人または集団が一定の信念を表明し、自分の行動を誘発するものとしてその信念に言及するとすれば、その思想の影響を受けて行動している、と言ってよいかもしれない。
 しかしながら、思想というものは、説得と強制のいずれかによって他者に対する支配を正当化できるほどには、自分の個人的行為を指揮するために用いられはしない。そうだととすれば、問題は複雑になる。なぜなら、説得と強制力のいずれが思想に役立つかを決するのは不可能であり、反対に、思想はこのような支配を確保または正当化するために役立つからだ。
 ボルシェヴィキの場合は、上の後者を継続した。ボルシェヴィキはあらゆる考え得る仕方でマルクス主義を歪曲し、まず政治権力を獲得し、ついでそれを維持し続けたからだ。
 かりにマルクス主義が何かを意味しているとすれば、つぎの二つだ。すなわち、第一に、資本主義社会はその成熟とともに内部矛盾から崩壊する宿命にある、第二に、その崩壊(「革命」)は工業労働者(「プロレタリアート))によって遂行される。
 マルクス主義理論に喚起された体制は、少なくともこの二つの原理に執着していただろう。
 ソヴィエト・ロシアに、我々は何を見るか?
 「社会主義革命」は、資本主義がまだ幼年期にある、経済的には後進国で実行された。そして、労働者階級の意欲は非革命的なままだという見解を抱く党によって、権力が奪取された。
 やがて、歴史の全段階で、ロシアの共産主義体制は、マルクス主義のスローガンでその行動を覆っているときですらマルクス主義の教理を考慮することなく、何でも全てのことを挑戦者を打倒するためにならば行なった。
 レーニンは、まさにメンシェヴィキならば躊躇しただろうマルクス主義の良心から自由だったがゆえに、成功した。
 こうしたことを考えれば、イデオロギーは補助的な要因として扱われなければならない。
 新しい支配階級の願望や思考様式はおそらく、その行動を決定する、あるいは後世にその理由を説明する、そのいずれかを行なう一体の諸原理で成ってはいなかった。
 概して言って、ロシア革命の現実の行程を知らなければ知らないほど、マルクス主義思想がもった支配的な影響力に要因を求めたがるものだ。(*)
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 (脚注*) 歴史における思想の役割に関する議論は、ロシア歴史学に限られはしない。イギリスでもアメリカでも、この問題については激しい論争が行なわれてきた。イデオロギー学派の擁護者は、とくにLouis Namier の手によって、顕著な敗北を喫した。Namier は、18世紀のイギリスの思想は、全体として見れば、個人的または集団的な利害によって喚起された行動を合理化するために奉仕した、と論証した。
 〔Louis(Lewis) Namier、1888年〜1960年、現在のポーランド出身のイギリスの歴史学者。—試訳者。〕
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 第三節・第四節、終わり。つづく。

2602/R・パイプス1994年著結章<省察>第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.497〜。
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 第二節・ボルシェヴィキの権力掌握
 (01) ロシア革命で社会的経済的要因が果たした役割が相対的に小さかったことは、1917年二月の事件を考察すれば、明らかになる。
 二月は、「労働者」革命ではなかった。工業労働者たちは合唱隊の役を演じて、本当の主演者である軍隊に反応し、その活動を増幅させた。
 ペテログラード守備連隊の暴乱は、物価上昇と物資不足に不満な市民たちのあいだでの混乱を刺激した。
 ニコライが4年後にレーニンとトロツキーがKronstadt 蜂起と国土じゅうの農民反乱に直面した際に用いた、それと同じ残忍な鎮圧方法を選んでいたならば、暴乱は落ち着いていただろう。
 しかし、レーニンとトロツキーの関心は権力を握り続けることにあったのに対して、ニコライはロシアのことを気に懸けた。
 将軍とDuma 政治家たちが、軍隊を救い、屈辱的な降伏を避けるために退位すべきだと説得したとき、彼はおとなしく従った。
 権力にとどまり続けることが至高の目標であったならば、ニコライは容易にドイツと講和条約を締結し、軍隊を暴乱者たちに対して解き放っただろう。
 ツァーリは労働者と農民の反乱によって退位を迫られるという神話がまさに神話だったのは、記録からも疑いの余地はない。
 ツァーリが屈服したのは、反乱する民衆にではなく、将軍と政治家たちに対してだった。そして、愛国的な義務意識からそうした。//
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 (02) 社会的革命は退位に先行したというよりも、むしろその後に続いた。
 連隊兵士、農民、労働者、民族少数派は、各グループがそれぞれの目標を追求し、そのために国は統治不能になった。
 秩序を復活させる可能性は、臨時政府ではなくてソヴェトこそが正統な権威の淵源だと主張する、ソヴェトを動かす知識人層の主張によって挫折していた。 
 民主主義の敵は左翼の側にはいないと考えたケレンスキーの適確でない企てによって、政府の失墜は加速した。
 国全体が—その資産とともに政治的実体が—〈duvan〉、つまり略奪品の分配の対象になった。その進展が行き着くまで、誰にも止める力がなかった。//
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 (03) レーニンは、この無政府状態の中で権力へとつき進んだ。この状態をむしろ大いに促進したのだ。
 彼は、全ての不満グループに、それらが求めるものを約束した。
 農民たちの支持を得るために、社会主義革命党の「土地の社会化」綱領を吸収した。
 労働者たちには、工場の「労働者による統制」に関するサンディカリスト的傾向を激励した。 
 兵士たちに向けては、講和の展望を約束した。
 民族少数派に対しては、民族自決権を提示した。
 実際には、これら全ての誓約は彼の基本方針に反しており、それらの提示が目的を達成するとすみやかに破られた。このことは、国を安定化させようとする臨時政府の努力を無為にすることになった。//
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 (04) 同様の欺瞞は、臨時政府の権威を落とすためにも用いられた。
 レーニンとトロツキーは、ソヴェトと立憲会議への権力の移行を呼びかけるスローガンを用いて、一党独裁制の願望を隠蔽した。そして、問題を孕んだソヴェト大会の開催でもって、それを正当化した。
 ボルシェヴィキ党の一握りの指導者たち以外の誰にも、こうした約束やスローガンの背後にある真実が分からなかった。
 したがって、1917年10月25日の夜にペテログラードで起きたことを、ほとんど誰も気づかなかった。
 いわゆる「十月革命」は、古典的なクー・デタだった。
 その準備はきわめて内密に行なわれたので、カーメネフが事件の一週間前の新聞インタビューで党は権力奪取を意図していると暴露したとき、レーニンは、彼を裏切り者と宣告し、除名を要求した。(注5)
 もちろん、本当の革命であれば、予定表はなく、裏切られることもない。//
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 (05) ボルシェヴィキが臨時政府を打倒した容易さ—レーニンの言葉では「一枚の羽毛を持ち上げる」ようだった—によって、多数の歴史家は十月のクーは「不可避」だったと納得してきた。
 しかし、そう思えるのは、過去を振り返って見たときに限ってだ。
 レーニン自身が、きわめて不確かな(chancy)企てだと考えていた。
 1917年9月と10月の隠れ場から中央委員会に宛てた切迫した手紙で、成功は武装蜂起を実行する速度と決断に完全にかかっている、と彼は主張していた。
 10月24日に、こう書いた。「蜂起を遅らせるのは死ぬことだ。全てが間一髪に(on a hair)かかっている」。(注6)
 これは、歴史の趨勢を信頼する心構えのある、そのような人物が抱く感情ではない。
 トロツキーは、のちにこう主張した。—他のいったい誰がよりよく知る立場にいただろうか?
 もしも「レーニンと自分がペテルブルクにいなければ、十月革命は存在しなかっただろう」。(注7)
 わずか二人の個人の存在に依拠している、「不可避の」歴史的事件を、想定することができるか?//
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 (06) こうした証拠でもまだ確信を得られないならば、ペテログラードでの1917年十月の事件を精細に見るだけで足りる。「大衆」は観衆として振る舞って、冬宮への突撃を訴えたボルシェヴィキを無視したことを知るだろう。冬宮では、臨時政府の年長の大臣たちが外套で身を包み、若いカデットたち〔立憲民主党員〕、女性兵団、個人の小隊によって守られていた。
 我々はトロツキーの権威に従うことができる。彼自身によると、ペテログラードの十月「革命」は「せいぜい」2万5000人から3万人によって達成された。(注8)—この数字は、全国土に1億5000万人がおり、都市部には40万人が、連隊兵士たちが20万人以上いた、という中でのものだ。//
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 (07) 独裁的権力を掌握した瞬間から、レーニンは、のちに「全体主義的」(totalitarian)と名付けられた体制の基礎を掃き清めるために、全ての既存の制度を根絶し続けた。
 この「全体主義的」という用語は、冷戦期のものだと考えて用法を避けようと決めた西側の社会学者や政治学者に嫌悪されてきた。
 しかしながら、検閲機関がこの用語の使用禁止を解除したとき、いかにすみやかにソヴィエト同盟でこれが好まれるに至ったかは、注目に値する。
 かつての歴史には知られないこの種の体制は、私的だが全能の権力を国家に押し付け、全ての組織生活を例外なく自らに従属させる権利があると要求し、その意思の履行を無制限のテロルでもって強要した。//
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 (08) 全体を総合的に見れば、レーニンの歴史的な著名さは、きわめて劣っていた政治家たる資質によるのではなく、その統率の手腕によっていた。
 彼は、歴史の大きな征圧者の一人だった。この特質は、彼が征服した国は自分自身の国だけだったということで損なわれることはない。(*)
 レーニンの考えの新しさ、そして成功した理由は、政治を軍事化したことにあった。
 彼は、内政や外交を言葉の文字通りの意味での軍事行動として扱った、最初の国家の長だった。その目的は敵を服従するよう強いることではなく、殲滅することだった。
 レーニンはこの新しい考えによって、対抗者たちに対して顕著な有利さを獲得した。対抗者たちにとっては、軍事は政治の反対物であるか、そうでなければ異なる手段によって追求される政治だったからだ。
 彼は、軍事化した政治、そしてその結果としての政治化した軍事行動によって、先ず権力を掌握し、それを維持し続けることができた。それによって、まともに生育する社会的、政治的秩序の形成が助けられたのではない。
 彼は、ソヴィエト・ロシアとロシア依存国に対する争いの余地なき権威を主張したあとですら、闘って破壊すべき新しい敵を見出さなければならなかった。今は教会、つぎは社会主義革命党、そのつぎは知識人層。このようだったのは、全ての「前線」へと突撃することにきわめて習熟するに至っていたからだ。
 この好戦性は、共産主義体制の不変の特質になった。そして、スターリンの悪名高いつぎの「理論」で絶頂を極める。すなわち、共産主義が最終的な勝利に接近すればするほど、社会的対立はそれだけいっそう強くなる。—これは、空前無比の残忍さによる大量虐殺を正当化する考えだった。
 かくして、レーニン死後60年のうちに、ソヴィエト同盟は国内および外国での不必要な闘争でもって消耗し尽くし、自らを肉体的にも精神的にも破滅させた。 
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 (脚注*) Clausewitz はすでに1800年代の早くに、ヨーロッパ文明をもつ大国を獲得するのは、さもなくば内部的分割以上に不可能」になる、と書いていた。Carl von Clausewitz, The Campaign of 1812 in Russia (1843), p.184.
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 後注
 (05) RR〔=Richard Pipes, Russian Revolution〕, p.484-5.
 (06) Lenin, PSS, XXXIV, p.435-6.
 (07) Lev Trotskii, Dnevniki i pis'ma (1986), p.84.
 (08) Lev Trotskii, Istoriia russkoi revoliutsii, II, Pt. 2 (1933), p.319.
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 結章・第二節、終わり。第三節へと、つづく。
 

2601/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.493〜。
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 第一節・革命の原因②。
 (08) 農奴制の伝統と農村ロシアの社会制度—共有の家族資産とほとんど一般的な共同体による土地保有の制度—は、農民層が近代的市民性のために必要な性質を発展させるのを妨げた。
 農奴制は奴隷制ではなかったけれども、農奴は奴隷と同じく法的権利をもたず、ゆえに法の感覚がなかった点では共通していた。
 ロシアの指導的な古典的古代の歴史家で1917年の目撃者だったMichael Rostovtseff は、こう結論づけた。農奴制は、自由を全く知らず、そのことで農奴が真の市民たる性質を獲得するのが妨げられたという点では、奴隷制よりも悪かった、と。彼の見解では、これは、ボルシェヴィズムの主要な教条だった。(注4)
 農奴にとっては、権威とはまさにその性質からして恣意的だ。そして、それから自衛するために彼らは、法的権利や道徳上の権利への訴えに頼らないで、策略に依拠した。
 彼らは、原理にもとづいて政府を理解することができなかった。彼らにとっての生活は、ホッブズの全てに対する全ての者の戦いだった。
 このような姿勢は、専制主義(despotism)を助長した。内的な紀律と法への敬意が不在であれば、外部から課されるべき秩序が必要になるからだ。
 専制主義が作動するのを止めたとき、無政府状態が発生した。
 そして、いったん無政府主義が行路を進み始めるや、それは不可避的に、新しい専制主義を生み出すことになった。//
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 (09) 農民層は、ある一点でのみ、革命的だった。すなわち、農民層は、土地の私的所有を承認しなかった。
 彼らは革命の前夜に国の耕作地の10分の9を保有していたけれども、地主、商人、共同体に属さない農民がもつ残りの10パーセントを強く欲しがった。
 経済的な議論も法的なそれも、彼らの意思を変えなかった。彼らは、その土地に対して神から付与された権利をもつ、いつかは自分たちのものになる、と感じていた。
 そして、自分たちという言葉で意味させたのは、構成員に公正に土地を分与する共同体だった。
 ヨーロッパ・ロシアで共同体による土地保有が優勢だったのは、農奴制の遺産であるとともに、ロシア社会の歴史の基礎的な事実だった。
 これが意味したのは、法の感覚が微小にしか育たなかったことのほか、農民もまた個人的な私的財産をほとんど尊重しない、ということだった。
 急進的知識人たちは、農民層を現状に対抗させようとする彼らの目的のために、こうした傾向をいずれも利用した。(*)//
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 (脚注*) 1880年代に革命家の経歴を開始し、レーニンの独裁を目撃したVera Zasulich は、1918年に、ボルシェヴィズムを支持する社会主義者の責任は財産を奪おうと労働者—農民層をこれに加えることができよう—を扇動したが、市民の義務については何も教えなかったことにある、ということを承認した。NV, No. 74/98 (1918.4.16), p.3.
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 (10) ロシアの工業労働者たちが潜在的に不安定だったのは、革命的イデオロギーを吸収したがゆえにではなかった。—そうしたのは彼らのうちごく少数で、その者たちですら革命的諸政党の指導的地位からは排除された。
 そうではなく、彼らのほとんどは一世代前に、またはせいぜい二世代前に、農村から移り住み、表面的にだけ都市化していたので、彼らは工場へと農村的態度を持ち込み、ごく僅かにだけ工業の環境に適応していたからだ。
 彼らは社会主義者でななく、サンディカリスト(syndicalist)だった。彼らの村落が全ての土地について権利を与えられたように、彼らも工場について権利がある、と考えた。
 彼らが政治に関心をもったのは、農民層と同じような程度でだった。この意味でも、彼らは、原始的な、イデオロギー性のない無政府主義の影響下にあった。
 さらに、ロシアの工業労働者は、数の上で取るに足らず、革命で大きな役割を果たさなかった。せいぜい300万人の労働者では(彼らの多くは季節雇用の農民でもあった)、全国民の僅か2パーセントを代表しているにすぎなかった。
 教授たちに指導された大学卒業生の多数は、西側、とくにアメリカ合衆国でと同様にロシアでも、革命以前のロシアの労働者に急進主義の証拠があったことを探し出そうとして、せっせと歴史的資料を調べた。
 その結果として学術書ができたが、ほとんどが無意味な出来事や統計資料で充たされた。そして、歴史はつねに興味深いが、歴史書は空虚でも退屈でもあり得るということを、あらためて証明した。//
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 (11) 革命が起きた主要で、議論の余地はあるが決定的な要因は、知識人層(the intelligentsia)だった。ロシアの知識人たちは、他のどこよりも大きな影響力をもっていた。
 帝制時代の公務員の独特な「階位」制度は外部者を管理部門から排除した。最高の教育を受けた者を遠ざけ、西ヨーロッパでは構想されたが実行されなかった、社会改革のための空想的計画を、その者たちが受け入れやすいようにした。  
 代表的〔準議会〕制度と自由なプレスが1906年までなかったことで、教育の普及と結びついて、文化的エリートにはもの言わぬ民衆に代わって発言する権利がある、という主張をすることが可能になった。
 知識人が「大衆」の意見を実際に反映していた、とする証拠資料は存在していない。反対に、証拠が示しているのは、革命の前も後も、農民と労働者たちは知識人に対して強い不信の念をもっていた、ということだ。
 このことは、1917年とそれに続く数年で明確になった。 
 しかし、民衆の本当の意思はそれを表現する回路がなかったので、ともかくも1906年に短命の立憲的秩序が導入されるまでは、知識人たちは民衆の代弁者であるとの虚像を作ることができた。//
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 (12) 政治機構を正当化するものが存在しない他諸国のように、ロシアの知識人は自分たちで一つの階層を構成した。そして、思想が彼らに一体性と団結を与えたので、彼らは、極端な知的偏狭さを身に付けた。
 人間は環境により塑形される物質的実在にすぎないという、またその帰結として環境の変化は不可避的に人間の本性を変化させるという、啓蒙主義の考え方を採用して、知識人たちは、「革命」はある政府を別の政府に変えることではなく、比較にならないほどに大がかりなものだ、と見た。人間の新しい種を生み出すという目的をもつ、人間の環境の全体的な大変造なのだ。—むろんロシアでのことだが、他のどこでも同じだ。
 現状の不公平さを強調するのは、民衆の支持を獲得する手段にすぎなかった。こうした不公平さをどんなに是正しても、急進的な知識人たちはその革命的熱意の放棄を説得されなかっただろう。
 このような信念は、多様な左翼党派を結合させた。アナキスト、社会主義革命家〔エスエル〕、メンシェヴィキ、そしてボルシェヴィキ。 
 科学的用語を使っても、彼らの見解は矛盾する根拠に気づいておらず、そのゆえに宗教的信仰にきわめて近いものだった。//
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 (13) 知識人層は、我々は権力を渇望する知識人と形容したのだが、既存の秩序に全的かつ非妥協的に敵対した。
 自殺をするなら別として、ツァーリ体制が行うことができたもので、彼らを満足させるものは一つもなかっただろう。
 彼らは、民衆の条件を改良するためにではなく、民衆への支配を獲得して、民衆を自分たちのイメージに作り変えるために革命家になった。
 だが、帝制に立ち向かったにせよ、のちにレーニンが持ち込んだような手段を使う以外には、挑戦し、攻撃する方法をもっていなかった。
 諸改革は、1860年代のであれ1905-6年のであれ、急進派の欲求を強めただけで、革命的な過度の行動へといっそう彼らを刺激した。//
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 (14) 農民の要求に苦しめられ、急進的知識人層から直接の攻撃を享けて、崩壊を避けるためには帝制には一つの手段しかなかった。それは、社会の保守的要素と権力を分有し、権威の基盤を拡張することだった。
 歴史の先例が示すのは、成功した民主政体はもともとは権力分有を上位階層に限っていた、それがやがてその他の国民の圧力を受けるに至り、その結果として上位階層の特権がふつうの権利になった、ということだ。 
 数の上では急進派よりもはるかに多い保守層を巻き込むことは、政策決定と行政の両面で、政府と社会の間に有機的紐帯のようなものを作り出すだろう。そして、大変動の事態のときには帝制への支持を保障し、同時に、急進派を孤立させるだろう。
 帝制に対して、このような行路の選択が、何人かの先見の明のある官僚や私人から強く勧められた。
 大改革のあった、1860年代にこれが採用されるべきだっただろう。だが現実には、そうされなかった。
 ついに1905年に、民衆全体に広がる反乱によって議会制の導入を余儀なくされたとき、君主制の側はもうこの選択肢を利用しなかった。合同したリベラル派と急進派の反対勢力が、民主主義的参政権に近いものを認めるよう強いたからだ。
 この結果として、議会(ドゥーマ、Duma)での保守派は、戦闘的な知識人と無政府主義の農民に覆い隠されてしまった。//
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 (15) 第一次世界大戦は全ての交戦諸国に甚大な負担を課した。その負担は、愛国主義の名のもとでの政府と市民層の緊密な協力によってのみ克服することができた。
 ロシアでは、このような協力関係は一度も実体化されなかった。
 軍事的失敗によって元々の愛国的熱狂が消散し、国が消耗戦争を遂行しなければならなくなったとき、ツァーリ体制は民衆の支持を動員することができないことを知った。
 崇敬者ですら、それの挫折の時点で君主制は漂浪していることに同意した。//
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 (16) 政治権力を支持者たちと分有するのをツァーリ体制は拒否し、そしてそれを強いられたときには不承々々かつ欺瞞的にそうした。その動機は、複雑だった。
 心の奥底で王室、官僚機構、職業的将校たちに浸透していたのは、ロシアはツァーリの私的領有物だと見る因習的考え方だった。
 18-19世紀のモスクワ公国の推移の中で伝統的制度は次第に廃止されていったけれども、精神性は生き残った。
 そして、官僚層のみならず、農民層もまた伝来的な語句でもって思考して、強くて不可分の権威の存在を信じ、土地は帝制の財産だと見なした。
 ニコライ二世は、その継承者として専制を維持することを当然視した。無制限の権威は彼にとって受託した権能であって、弱める権利があるはずのない財産権と同等のものだった。
 彼は、皇位を守るために1905年に国民が選出した議員たちと権威を分かち合うのを同意したことについて、罪の感覚を拭い去ることができなかった。//
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 (17) ツァーリとその補佐者たちはまた、社会の少数部分とすら権限を分有するのは官僚制機構を混乱させ、民衆がさらなる参加を要求することになるだろうと怖れた。
 上の後者の場合、主要な受益者は、ツァーリとその補佐者たちが全くの無能だと考えている知識人層になるだろう。
 加えて、このような譲歩を農民たちが誤解して、暴動に進むという懸念もあった。
 また最後に、ツァーリに対してのみ責任を負い、その裁量によって国の行政を行ない、そこから多数の利益を得ている官僚機構が改革に反対している、ということもあった。//
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 (18) このような要因は君主の側が政府への発言権を保守派に付与することを拒んだことの説明にはなるが、正当化はしない。それが直面した問題の多様さや複雑さによって、いずれにせよ官僚機構が多くの効果的な権限を奪われたとしても、そうだ。 
 19世紀の後半に資本主義的諸制度が出現して、国の資源の統制権の多くは私人の手に移った。これは、家父長的財産制の残余を破壊した。//
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 (19) 要するに、帝制の崩壊は不可避ではなかったが、それは、ツァーリ体制が国の経済的文化的成長に適応するのを妨げた文化的および政治的欠陥が、そして第一次大戦により生まれた圧力のもとでは致命的な欠陥が、根深いところにあったことによる、と言えそうだ。
 このような適応の可能性が存在したとしても、政府を転覆させてロシアを世界革命の跳躍台として用いようと決意する戦闘的知識人層の活動によって、挫折しただろう。 
 ツァーリ体制の崩壊の原因となったのはこうした性格の文化的、政治的欠陥だったのであり、「抑圧」や「窮乏」ではなかった。
 我々はここで、原因はこの国の過去に遠く遡る民族的悲劇を論述している。
 経済的、社会的苦難は、1917年以前にあった革命の脅威に大きく寄与したのではなかった。
 「大衆」が—現実的にであれ夢想的にであれ—どのような不満を抱いていても、彼らは革命を必要としなかったし、革命を望みもしなかった。
 革命に関心を寄せた唯一のグループは、知識人層だった。
 言うところの民衆の不満や階級の対立の強調は、現実にある事実にではなく、イデオロギー上の先入観に由来した。すなわち、政治的進展はつねにかつどこでも社会経済的対立によって駆り立てられている、それは現実に人間の運命を動かしている潮流の表面にある「水泡」にすぎない、という信用の措けないないイデオロギーにだ。//
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 後注
 (04) Michael Rostovtseff in NV, No. 109/133 (1918.7.5), p.2.
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 結章・第一節、終わり

2600/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。
 この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
 →2018/11/08(1490再掲)→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)
 最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
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 結章/ロシア革命に関する省察。
 第一節・革命の原因①。
 (01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
 ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
 反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
 君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
 1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
 軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
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 (02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
 1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
 次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
 各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
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 (03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
 ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
 大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
 このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
 「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
 私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
 ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
 ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
 政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
 こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
 東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
 それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
 こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
 どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
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 (04) 革命は不可避だったか?
 何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
 お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
 E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
 歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
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 (05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
 もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
 軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2) 
 このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
 ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
 社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
 T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
 ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
 ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
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 (06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
 農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
 彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
 ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
 農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
 西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
 農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
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 (07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
 彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
 当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
 彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
 ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
 結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
 農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
 農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
 彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
 疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
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 後注
 (01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
 (02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
 (03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
 ——
 第一節①、終わり。②へと、つづく。

2599/R・パイプス1994年著第9章第九節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。最後の第九節
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 第九節・レーニンの死。
 (01) レーニンは、1924年1月21日月曜日の夕方に死んだ。
 家族や付添いの医師たち以外では、彼の最後の瞬間の唯一の目撃者は、ブハーリンだった。(*)
 一報が届くや否や、ジノヴィエフ、スターリン、カーメネフ、Kalinin は動力付雪上そりでGorki へと急いだ。指導部の残りの者たちは、列車で続いた。
 死んだ指導者のベッド脇で祈祷を行なったスターリンは、レーニンの頭を持ち上げ、自分の胸に寄せて、接吻をした。(注219)
 翌日、Dzerzhinskii は、レーニンの死に関する短い文章の原稿を書いた。GPU が大量逮捕をせざるを得なくなることがないように、「パニック」にならないよう民衆に警告するものだった。(注220)
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 (脚注*) Bukharin in Pravda, No. 17/2, 948 (1925.1.21), p.2. ブハーリンは、1937年2月に監獄からの生命を乞うスターリン宛ての手紙で、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と書いた。NYT, 1992.1.15, p.A11.
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 (02) レーニンが死んだ日、トロツキーは、保養地のSukhumi への途中で、Tiflis に着いた。
 彼はその翌日に、スターリンからの暗号電報で、それを知った。(注221)
 電信でのトロツキーの質問に対して、スターリンは、葬礼は土曜日(1月26日)に行われると知らせ、そのために戻ってくる時間はないだろう、政治局は予定通りSukhumi へ行くのが最善だと考える、と追記した。(注222)
 判明したように、葬礼は日曜日に行なわれた。
 トロツキーはのちに、自分を葬礼に出席させないよう意図的に間違った情報を与えた、とスターリンを攻撃した。
 この追及は、厳密な検討に耐えられるものではない。
 レーニンは月曜日に死に、トロツキーは火曜日の朝にその報せを受けた。
 モスクワからTiflis まで、彼は三日を要していた。
 彼がただちに帰還していれば、遅くとも金曜日にはモスクワに到着していただろう。かりに葬礼が土曜日に行なわれていても、彼は十分に出席できた。(+)
 それどころか、理由について何ら説明しなかったが、彼はスターリンの助言に従って、Sukhumi まで行った。
 レーニンの遺体が古参党員に付き添われて冬のモスクワに横たわっていたあいだ、トロツキーは、黒海の太陽を浴びていた。
 彼の不在は、大きな驚きと落胆をもって受け止められた。//
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 (脚注+) レーニンの葬儀を日曜日に延期するとの決定は、金曜日の1月25日に最初に発表された(Lenin, Khronika, XII, p.673)。したがって、土曜日に葬礼は執行されるとの電報でもって、スターリンは、トロツキーがのちに主張するように(Moia zhizn', II, p.249-250)意図的に彼を騙していた、のではなかった。
 Deutscher は、彼の英雄に好意的である特徴的な例だが、スターリンはトロツキーに葬礼は「翌日に」行なわれると知らせた、と主張する(Prophet Unarmed, p.133)。だが、スターリンの第二の電信は、葬礼は土曜日に、つまり「翌」日ではなく四日後に行なわれるだろうと述べていた。
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 (03) レーニンの遺体はどのように扱われたのか?(注223)
 これまで公にされていないが、彼の遺言で、レーニンは、ペテログラードの彼の母親の傍に埋葬されるという望みを表明していた。
 これは妻のKrupskaia も望んだことだった。
 彼女は、Pravda への手紙で、レーニン個人崇拝には強く反対していた。—記念碑も、式典も、そして暗黙にだが聖廟も、望まなかった。(注224) 
 しかし、党の支配者たちには、異なる考えがあった。
 政治局は、レーニンの死の数ヶ月前に、彼の遺体を防腐処理することを議論していた。
 この方針にとくに賛成したのは、スターリンとKalinin だった。彼らは、亡き指導者が「ロシア様式」で埋葬されるのを望んだ。
 聖人の遺体は腐敗しないという、正教に起源のある一般民衆の信仰に対応して、レーニンの肉体は永遠に展示される必要があった。
 彼らの共通の敵であるトロツキーを別として、彼らの誰も広くは知られていなかった。
 スターリンは官僚機構内の乱闘によってこの時点までに独裁的権力を獲得していたが、国内での知名度はほとんどなかった。
 死者は沈黙しているが姿は実在しているので、レーニンは、適切に保存されるならば、彼が創設した信条に正当性を与え、十月革命と後継者による支配の連続性を示すことになるだろう。
 レーニンの遺体を防腐処理して赤の広場の霊廟に展示するという決定が、ブハーリンとカーメネフの反対を遮って、採択された。//
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 (04) レーニンの遺体はDom Soiuyov の円柱ホールに横たえられていた。数万人がそれを見た。
 1月26日〔1924年〕、スターリンは弔辞を述べ、彼が神学校で学んだ宗教的抑揚を用いて、党の名のもとでレーニンの命令を実践すると「誓約」した。(注225)
 1月27日の日曜日、遺体は一時的な木製霊廟に運ばれた。(**)
 不幸なことに、春が到来する三月までに、遺体は変質し始めた。(注226)
 何がなされるべきだったか?
 葬礼の責任者だったKrasin は、再生を信じて、遺体を氷凍させることを提案した。そして、このための特別の装置がドイツから輸入された。だが、この考えは実行できないものとして中止を余儀なくされた。
 何事にも通じているのが仕事だったDzerzhinskii は、V. P. Vorobev という名のKharkov の解剖学者が生体組織の新しい保存方法を開発していたことを知った。
 指導部は長い討議のあとで、このVorobev にレーニンの防腐処理を委ねることを決めた。 
 彼が率いるグループは、不朽化(Immortalization)委員会と名付けられた。//
 ----
 (脚注**) レーニンの脳は切除され、V. I. Lenin 研究所へと移された。そこの科学者たちは、彼の「天才性」の秘密を発見し、「人類の進化の高次の段階」を示すと証明することを任務として割り当てられていた。
 のちに、スターリンと他の若干の共産主義著名人の脳が、収集物に加わった。レーニンの心臓は、V. I. Lenin 博物館に預託された。AiF, No. 43/576 (1991.11), p.1.
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 (05) Vorobev は補助者とともに三ヶ月間、細胞と組織内の水を自分が案出した化学的流動体に変える仕事に従事した。
 この合成物は、通常の温度と湿度では気化せず、細菌や真菌類を破壊し、発酵もしない、と言われていた。 
 防腐処理は7月後半に完了し、遺体は翌8月に新しい木製霊廟に展示された。
 これは1930年に、石製の聖廟に変えられた。除幕式を行なったのはスターリンで、やがて国家後援の崇敬対象物となった
 1939年、スターリンは、22人の科学者を遺物を監視する研究室に配置した。注意深くしていても、遺物は安定したままではなかったからだ。
 外面上の腐敗や変化が進まないように、最も先進的な方法が採用された。//
 ----
 (06) かくして、5年前には神を冒涜し、嘲弄する運動をして正教の遺物をニセモノとして晒したボルシェヴィキは、彼ら自身の神聖な遺物を創り上げた。
 くずと骨にすぎない教会の聖人たちとは違って、彼らの神は、科学の時代にふさわしく、アルコール、グリセリン、フォルマリンで成り立っていた。
 ----
 後注
 (219) V. Bonch-Bruevich in KN, No. 1 (1925), p.186-191.
 (220) RTsKhIDNI, F. 75, op. 3, delo 287.
 (221) Text in Volkpgonov, Trotskii, II, p.42.
 (222) Trotsky, Stalin, p.381-2.
 (223) これにつき、Nina Tumarkin, Lenin Lives! (1983), Ch. 6を見よ。
 (224) Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.1.
 (225) Stakin, Sochineniia, VIm p.46-p.51. 原文は、Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.6.
 (226) 以下の叙述が基礎にしているのは、Iurii Lopukhn in Glasnost' (1991.10.18), p.6、およびTumarkin, Lenin Lives!, p.182-9.
 ——
 第九節、そして第9章全体が、終わり。

2598/R・パイプス1994年著第9章第八節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退③。
 (11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
 彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
 それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
 スターリンは、こう回答した。
 「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
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 (12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
 この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
 1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
 ----
 (13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
 党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
 「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
 結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
 1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
 続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
 そして最後には、暗殺された。
 ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
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 (14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
 トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
 確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
 しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
 外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
 彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
 心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
 カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
 トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
 党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
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 (15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
 そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
 しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
 彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
 トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
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 後注
 (215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
 (216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
 (217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
 (218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
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 第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
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 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
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 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
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 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
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 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
 ——
 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
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 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
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 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
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 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
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 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
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 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
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 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
 ----  
 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
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 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
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 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
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 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
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 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
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 ②へと、つづく。

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
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 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
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 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
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 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
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 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
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 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
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 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
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 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
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 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
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 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
 ----
 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
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 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
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 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
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 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
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 第9章第七節、終わり。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
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 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
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 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
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 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
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 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
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 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
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 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
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 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
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 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
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 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
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 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2592/R・パイプス1994年著第9章第六節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
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 第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
 (01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
 レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
 本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
 ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
 スターリンとの違いは、方法だった。
 レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
 彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
 民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
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 (02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
 彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
 1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
 さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
 それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
 第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
 スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
 彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
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 (03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
 この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
 しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
 このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
 その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
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 (04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
 スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
 トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
 Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
 レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
 その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
 そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
 Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
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 (05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
 ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
 これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
 だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
 今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
 レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
 スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
 すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
 このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。 
 これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
 じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
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 (06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
 彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
 スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161) 
 レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
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 (07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
 それは、敵対的に受けとめられた。
 最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
 Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
 ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
 スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
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 後注
 (156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
 (157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
 (158) Pipes, Formation, p.266-9.
 (159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
 (160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
 (161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624. 
 (162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
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 ②へと、つづく。

2591/R・パイプス1994年著第9章第五節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第五節・レーニンの孤立③。
 (12) 官僚機構上の小さな敗北、そしてレーニン・トロツキー連合という妖怪。これらは三人組に警戒を促した。彼らが生き残るには、政府案件からレーニンを完全に隔絶することが必要だった。
 トロツキーが勝利した12月18日〔1922年〕、スターリンとカーメネフは中央委員会総会で、レーニンの健康と摂生に関する権限をスターリンに全権委任する決定を獲得した。
 スターリンがその秘書のLydia Fotieva に伝えたように、この決定はきわめて重要な意味をもった。その条項はつぎのとおり。
 「同志スターリンに対して、共産党員との接触と文通のいずれについても、Vladimir Ilich Lenin の隔離(isolation,〈izoliatsiiu〉)に関する個人的な責任を付与すること」。(注142、/
 スターリンの指示によると、レーニンは短い時間ごとに仕事をし、そのうちの一人はスターリンの妻のN. I. Allulieva である秘書たちに、口述筆記させることができた。
 これは驚くべき方法で、レーニンと彼の妻を精神的無能者として扱うものだった。
 レーニンはただちに、中央委員会は医師団の助言にもとづいて決定しておらず、反対に、医師団にどう語るべきかを伝えている、と疑った。(注143)//
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 (13) レーニンは、その中心にスターリンがいるとますます疑った、その計略の罠に嵌ったと感じて、助けを求めてトロツキーへと向かった。トロツキーもまた、同様の窮地にいた。
 トロツキーによると、我々にはこの彼の言葉しか手がかりがないのだが、レーニンは、ソヴナルコムの副議長の地位を受諾するようもう一度彼に要請した。—12月前半のいつかの私的な会話のことで、二人が直接に接触した最後となった。
 しかし、トロツキーが言うには、この場合はレーニンはさらに進んで、官僚機構一般に、とくに組織局に対抗する「陣営」(bloc)に彼も加わるよう求めた。
 トロツキーはこれを、スターリンに対抗する連合(coalition)を意味していると理解した。(注144)//
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 (14) 1922年12月15-16日の夜、レーニンは、二度めの発作を起こした。その後、医師団は強制的な休息と全ての政治的活動の自制を命令した。
 レーニンは、服従を拒んだ。(注145)
 彼は、完全な身体的無能力になる、また、あり得る死の危機に瀕していると感じた。そして、全てを良い状態で残すのを確実にしたいと思った。
 12月22日、話す力を失ったときは青酸カリを渡すようにFotieva に頼んだ。(注146)
 レーニンは五月に早くもスターリンに似たような頼みをしていた。これは、彼はスターリンに特別の信頼を寄せていた証拠だと、Maria Ulianova が理解する事実だ。(*)//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198. 彼女の叙述は、スターリンの命令に応えたブハーリンの依頼で書かれた。また、ブハーリンの手書き文書も残されていており、真実性にはある程度の疑問を生じさせる。Rogo vin, Byla li, p.71.
 トロツキーは、殺害される直前の1939年に、1923年2月の政治局会議での出来事を思い出した。その会議でスターリンは邪悪な目つきをして、レーニンが希望のない状態を終わらせるために自分に毒を求めた、と報告した。L. D. Trotsky, Portrety (1984), p.45-49.
 トロツキーはその生涯の最後に、レーニンは書記長〔スターリン〕が与えた毒で死んだと信じていたようだ。Houghton Library, Harvard Uni,, Trotsky Archive, bMS Russian 13 T-4636, T-4637, T-4638.
 トロツキーの主張には不誠実なところがあった。なぜなら彼は、レーニンの血液には毒素の痕跡はなかった、とする検死結果を知らせるDzerzhinskii からの電話を受ける地位にあったからだ。RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 322.
 Fotieva によると、スターリンはレーニンに決して毒を与えなかった。MN, No. 17 (1989.4), p.8.
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 (15) 12月21日、レーニンは秘書たちを信頼できなかったようで、妻のKrupskaia にトロツキーへの暖かいメモを口述した。それは、「一発の砲弾も打つことなく戦術的妙計だけでもって」外国通商の独占をめぐる闘いに彼が勝利したことを祝うものだった。
 彼はトロツキーに、攻撃を強めるよう強く迫った。(注147) 
 このメモの内容は、すみやかにスターリンに伝えられた。彼は今では、レーニンとトロツキーが自分に対抗する勢力に加わっているという疑いに確信をもった。
 彼はその翌日に、Krupskaia に電話をかけ、彼女の夫の口述ををしたのは党の権限でもって自分が決めた摂生方法に違反していると、激しく叱責した。そして、中央統制委員会の調査にかける、と彼女を脅かした。
 電話が終わったあと、Krupskaia は激怒の発作に陥り、泣きながら床を歩き回った。(注148)
 その夜〔12月22日〕、彼女が夫にこの出来事を告げる前に、レーニンはさらにもう一回、発作を起こした。 
 Krupskaia はカーメネフに対して、党員であった全期間を通じて誰もスターリンがしたようには自分に話しかけなかった、と書き送った。
 自分以上に誰が、夫の健康の世話をするのか?、彼にとって良いことを自分以上に誰が知っているのか?(注149)
 スターリンは、この手紙について知らされて、Krupskaia に電話をして詫びるのが分別ある態度だと考えた。しかし、カーメネフと相談をして、レーニンの隔離を実行すべくいっそう警戒する措置をとった。
 12月24日、政治局(ブハーリン、カーメネフ、およびスターリン)の指示に従って、医師団はレーニンに対して、口述の時間を一日に5分ないし10分に限定するよう命じた。
 彼の口述は回答を必要とする意向伝達ではなく、個人的なメモ書きだと見なされることとされた。これは、レーニンが国家の諸問題に介入したり、トロツキーに通信したりするのを禁止する、巧妙な方策だった。
 指示書には、こうある。「いかなる友人も家族も、レーニンに考察や興奮の素材を与えないように、政治生活に関してはいっさい彼に伝えてはならない」。(注150)
 かくして、健康を守るためという装いのもとで、スターリンとその仲間たちは、レーニンを事実上は家屋内監禁の状態にした。(+)
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 (脚注+) この措置には30年後に奇妙な反応があった。1952年の秋、スターリンの医師は彼が健康でないと知り、ただちに全ての仕事をやめるよう迫った。スターリンは、おそらく先例を忘れておらず、その医師の逮捕を命じた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1), p.9.
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 (16) レーニンは、その政治的習癖への高い対価を払っていた。
 20年間、彼はその同僚たちを支配してきた。だが今や、彼らは権力を味わい、自分たちが権力を握ろうと焦っていた。
 彼らは、党内につぎのようなつぶやきを流布する運動をして、静かなクー・デタに至ることを正当化した。「老人」とは連絡が取れない、彼は精神状態が正常ではない。(注151)
 トロツキーは、不誠実にも、この運動に加わった。
 1923年1月、レーニンは迫っている党大会に備えてPravda 用に論文を書いた。その中で彼は、党の分裂の可能性について懸念を述べ、これを阻止する方策を提案した。(注152)
 政治局と組織局は合同会議を開き、一般党員に衝撃を与えそうな論文の公表の是非を、長々と議論した。党員からは、指導部との不一致は語られてないなかったのだ。
 レーニンは自分の論文が掲載された〈プラウダ〉を見たいと要求していたので、V. V. Kuibyshev は、レーニンが目にする一部だけの発行を提案した、
 結局、政治局の会議には中央統制委員会(TsKK)の代表者が同席すべきだとする一節を除いて、論文は公表されると決定された。中央統制委員会は、とりわけ書記長を含む、どの「有名人たち」の影響下にもなかった。(注153)
 同時に、指導部は論文の潜在的に有害な影響を弱めるために、地方や地区の党組織に対して、秘密の回覧書を配布した。
 1月27日付のその文書は、トロツキーが起草し、スターリンを含む政治局と組織局のメンバーが手書きで署名した。そして、レーニンの体調は良くなく、政治局の会議に出席することができない、と忠告するものだった。
 このことから分かるのは、実際には党が分裂する危険性は少しもなかった、ということを、レーニンは認識していなかった、ということだ。
(注154)
 この文書の内容を知ったならば、レーニンは、ニコラス二世が退位を強いられた後で日記に書いた言葉を思い出したかもしれない。
 「あたり一面、裏切り、臆病、欺瞞ばかりだ!」。//
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 (17) トロツキーが協力した褒賞として、スターリンは彼に対して1月に、VSNKh(最高経済会議)またはGosplan(国家計画委員会)のいずれかを所管する〈zamy〉の職をもう一度提示した。
 トロツキーは、再び断わった。(注155)//
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 (18) レーニンは、追いつめられた動物のように抵抗した。
 発作の間の明晰なときに三人組がしていることを知り、それに対抗する大きな運動を準備した。
 明らかにそうできる状態ではなかったけれども、トロツキーの助けを借りて、3月に予定されている第12回党大会で、国の政治的および経済的運営の劇的な変化を貫徹しようとした。
 トロツキーは、この闘いの当然の同盟者だった。彼もまた、政治的に孤立していたからだ。
 かりにレーニンが成功していたならば、スターリンの経歴は大幅に後退していただろう。破滅しはしなかったとしても。//
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 後注
 (142) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo, list 88.
 (143) Lenin, PSS, XLV, p.485.
 (144) L. Trotsky, The Real Situation in Russia (1928), p.304-5; Moia zhizn', II, p.215-7.
 (145) Khronika, XII, p.542-3.
 (146) Maria Ulianova in IzvTsK, No. 6/317 (1991), p.190.
 (147) Lenin, PSS, LIV, p.327-8.
 (148) Ulianova in IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (149) Lenin, PSS, LIV, p.674-5.
 (150) Ibid., XLV, p.710.
 (151) Leon Trotskii in Biulleten Oppozitsii, No. 46 (1935), p.4.
 (152) Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (153) Pravda, No. 16 (1923.1.25), p.1. PSS, XLV, p.387を参照。
 (154) 初出は、IzvTsK, No. 11/298 (1989.11), p.179-180.
 (155) Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n-199n.
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 第9章第五節、終わり

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
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 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
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 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
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 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
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 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
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 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
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 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
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 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
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 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
 ——
 ③へと、つづく。

2589/R・パイプス1994年著第9章第五節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
 日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
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 第五節・レーニンの孤立①。
 (01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
 そのようなことは不可能だと、考えていた。
 1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
 「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
 党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
 このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
 実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
 彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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 (脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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 (02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。 
 彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
 公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
 彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
 「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
 自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
 こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
 彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
 しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
 きわめて深刻な矛盾が発生した。
 また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
 論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
 生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
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 (03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
 いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
 レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
 彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
 ----
 (04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
 彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
 どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
 経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
 トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
 レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
 この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
 (脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
 しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
 また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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 (05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
 その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
 医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
 強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
 スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
 ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
 これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
 三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
 彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
 彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
 この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
 ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
 Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。  
 「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
 何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
 その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
 レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
 彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
 彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
 Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
 レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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 (脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
----
 (06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
 トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
 当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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 後注
 (123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
 (124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
 (125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
 (126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
 (127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
 (128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
 (129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
 (131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
 ——
 第五節①、終わり。②へと続く。

2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
 ——
 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
 ----
 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
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 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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 第9章第四節、終わり

2587/R・パイプス1994年著第9章第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
 (01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
 それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
 レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
 身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
 1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
 秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
 12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
 このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
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 (脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
 (脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
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 (02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
 昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
 彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
 どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)  
 この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
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 (03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
 彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
 奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
 最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
 この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
 彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
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 (脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
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 (04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
 Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
 しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
 トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
 古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
 トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
 第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
 つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)  
 トロツキーの個性も、利点ではなかった。
 彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
 トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104) 
 彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
 かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
 「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
 彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
 その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)  
 1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
 1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
 政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
 彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
 「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
 彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
 Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
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 後注
 (96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
 (97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
 (98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
 (99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
 (100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
 (101) Desiatyi S"ezd, p.402.
 (102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
 (103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
 (104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
 (105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
 (106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
 (107) RR, p.707-8.
 (108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
 (109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
 ——
 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
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 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
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 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
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 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
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 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
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 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
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 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
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 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
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 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
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 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
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 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2583/R・パイプス1994年著第9章第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
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 第二節・国家の官僚主義化
 (01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
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 (02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
 国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
 ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
 ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
 1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
 1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
 しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
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 (03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。 
 金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
 一例で十分だろう。
 革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
 1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
 やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
 その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
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 (04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
 公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
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 (05) 結果は、大量の水増し要求だった。
 ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
 ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
 かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
 その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
 運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
 1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
 1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
 同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51) 
 最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52) 
 1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
 全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
 その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
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 (06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
 以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
  ****
  内務人民委員部/48.3%。
  国家経済最高会議/50.3%。
  戦争人民委員部/55.2%。
  国家統制人民委員部/80.9%。
  運輸人民委員部/88.1%。
  財務人民委員部/97.5%。
  ****
 「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56) 
 チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
 このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
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 (07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
 1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
 アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
 「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
 特徴的で、悲しい。
 廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
 新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
 長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
 彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
 頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
 丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
 『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
 抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
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 (08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
 1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
 俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
 しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
 意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
 かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
 Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
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 (09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
 「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
 少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
 しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
 官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
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 後注
 (44) Pethybridge, One Step, p.158.
 (45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
 (46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
 (48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
 (49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
 (50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
 (51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
 (52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
 (53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
 (54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
 (55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
 (56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
 (57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
 (58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
 (59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
 (60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
 (61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
 (62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
 (63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
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 第二節、終わり

2582/R・パイプス1994年著第9章第一節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化③。
 (15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
 Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
 「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
 最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
 上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
 そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
 Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
 民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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 (16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
 ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
 ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
 ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
 革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
 今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
 1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
 1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
 地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
 このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
 これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
 当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
 これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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 (17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
 1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
 今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
 1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36) 
 政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
 調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
 1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37) 
 書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
 こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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 (脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
 1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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 (18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
 1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
 この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
 かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
 二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
 その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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 (19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
 権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
 これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43) 
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 後注
 (32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
 (33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
 (34) Carr, Interregnum, p.278n.
 (35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
 (36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
 (37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
 (38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
 (39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
 (40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
 (41) Desiatyi S"ezd, p.137.
 (42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
 (43) Desiatyi S"ezd, p.881.
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 ③、終わり。第一節も、終わり。

2581/R・パイプス1994年著第9章第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化②。
 (09) 1920年にすでに、組織局が地方の党職員を指名することは一般的だった。彼らが運営すべく選出される、その地方党組織に諮ることのないままで。(注15) これは〈naznachenstvo〉、「任命制」と称されるようになった。
 数世紀にわたって官僚の支配と上からの指令の雨に慣れてきた国では、このような成り行きは正常に見え、これに対する反対は少なく、あっても影響力がなかった。//
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 (10) 理想主義的な理由で入党した共産主義者は疑いなくいたけれども、大多数の者は、党員であることによって得られる有利さのために入党した。
 党員たちは、19世紀には郷紳(〈dvorianstvo〉)の地位と結びついていた特権、すなわち政府の執行的(「責任ある」)地位に就けるという保障を享受した。
 トロツキーは彼らをダイコンと呼んだ(外側は赤く、内側は白い)。 
 共産党の階層で十分に高い者たちは、現金の手当のほかに食料配給の追加を受け、専門店舗を利用した。
 彼らは、逮捕や訴追から事実上は免れていた。これは無法のソヴィエト社会では決して小さな特権ではなかった。
 ソヴィエト政府は、帝制時代の実務を凌ごうとして、1918年に早くも、党職員は職務の遂行として行なった行動については訴追されない、という原則を打ち立てた。(注16)
 帝制時代には、直接の上司との意見不一致という理由だけで役人は裁判に付されることがあり得た。これに対して、共産党の役人は、「党で占めている等級に対応する党組織が知り、承認したうえでのみ」逮捕され得た。(注17) 
 レーニンは、このような実務に熱心に反対し、共産党員が間違った行動をしたならば他者よりも厳しく罰せられるべきだ、と主張した。だが、慣習を変えるには、彼は無力だった。(注18) 
 支配の最初から、法を超越する共産党の地位は、その党員たちへも移し換えられた。//
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 (11) 法的免責と結びついたこのような権力は、不可避的にその濫用を生じさせた。
 第8回党大会(1919年)が始まると、党職員の汚職や彼らの民衆からの離反に関する不満が語られた。(注19)
 共産党のプレスの紙面は、党職員が清廉という最も基礎的な規範を破っているという記事で埋められた。
 いくつかから判断すると、共産党幹部たちは、18世紀の奴隷所有者のごとく振る舞っていた。
 かくして、1919年1月、共産党のAstrakhan 機関は、Kliment Voroshilov の訪問に関して報告した。この人物はスターリンの戦友で、Tsaritsyn の第1十軍の司令官だった。 
 Voroshilov は豪奢な〈shesterka〉、6頭の馬に牽引された馬車で現れた。随行員たちの10台の馬車、トランク、樽その他の物品を高く積み上げた50ほどの荷車が、続いた。
 このような突然事には、地方の住民は訪問する賓客に対して全ての態様の人的サービスを行なうことが要求され、拒否すれば拳銃で威嚇された。(注20)//
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 (12) このような不面目な振舞いを終わらせるべく、党は1921年に、遅くと1922年早くに、粛清(purge)を実施した。
 表向きは内戦中の緩やかな受入れ手続で入党した出世主義者に向けられていたが、本当の攻撃対象は、他の社会主義政党、とくにメンシェヴィキから移ってきた者たちだった。レーニンは、共産党の隊列の中に民主主義思想その他の異端思想を注入しているとして、メンシェヴィキを非難していた。(注21)
 多くの者が除名された。
 そして、とくに不機嫌になった労働者たちなどに自発的に離党した者があって、党員数は、65万9000から50万に下がった。そしてさらに、40万人以下になった。(*) 
 このときに、「党員候補」の指名が制度化された。彼らは、入党資格を得る前に見習い期間を経験しなければならなかった。
 つぎの粛清(purge)では、より多くの者が除名されるか離党し、党のほとんど半分が変転した。(注22)
 こうした過程によって党はメンシェヴィキや他の「小ブルジョア社会主義者」を取り去ったかもしれなかった。しかし、腐敗した共産党員をそうしたのではなかった。
 共産党の特権的地位と法的責任からの完全な自由に内在しているがゆえに、権力の濫用は継続した。
 かりに市民が投票者または資産所有者のいずれかとして自分に関する事務処理を是正させる手段をもたないならば、また加えて、かりに党員は法的責任を免れているならば、行政集団は自制的になるか、居座り続けるか、あるいは自己満足の集団になってしまうだろう。
 党の倫理を監督するために1920年に設置された統制委員会は、党職員はその業務の遂行について自分たちを任命した者に対してのみ説明責任があり、「党員大衆」に対してはではない、ましてや国民全体にではない、と感じている、と報告した。(注23)
 これは、帝制時代の役人たちに広くあった態度を引き継いだものだった。(注24) //
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 (脚注*) 1922年9月の党組織部署のスターリンへの報告書は、地方によっては1921-22年に離党者が6.8から9.2パーセントに及んだ、と記した。: RTsKhIDNI, F. 558, op. 1 delo 2429.
 Kalinin によれば、党を去った者たちの大半は農民や労働者だった。RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9. 
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 (13) さらに悪いことに、党自体が官僚機構を腐敗させ始めた。
 1922年7月1日、組織局は、無害に感じさせる、「積極的党労働者の生活条件の改善について」という裁定を下した。これはもともと、省略した形で公にされた。(注25)
 この裁定は、党役人の給与体系を定めた。数百(新)ルーブルが受領される。家族手当、超過勤務手当が加えて支払われる。これで、全部では、基礎俸給の二倍になる。—この額は、工業労働者は平均して10ルーブルを得ていたときのものだった。
 上級の党官僚はさらに、代金を支払うことなく、追加の食料配給を受ける権利があった。他にもちろん、住居、衣服、医療、そして一定の場合には、運転手付きの自動車。
 1922年夏、党の中央機関に採用された「責任ある労働者たち」には、補足の食料配給が行われ、一月あたり26ポンドの肉、2.6ポンドのバターが配られた。
 彼らは、布張りで蝋燭の灯った特別の鉄道車両で旅行した。一方で庶民たちは、幸運に切符を入手できても、混み合った三等の客室か貨物車に詰め込まれた。(注26)
 最高級の役人には、外国の保養地で一ヶ月から三ヶ月の休暇または静養期間をとる権利があった。その費用は、党が金ルーブルで支払った。
 1921年11月、少なくとも6名のトップ・レベルの共産党員はドイツでの医療を受けていた。その一人(Lev Karakhan)は、痔の手術のためにドイツへ行った。(注27)
 このような利益の割当ては、スターリンの書記局が決定した。彼が採用したそこの職員は、600人いた。(注28)
 1922年の夏には、特別の恩恵を受ける者の数は、1万7000を超えた。
 同年の9月、組織局はその数を6万に増やした。//
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 (14) 党指導者たちは、別荘をもつ資格があった。
 田舎の家屋を得た最初の人物は、レーニンだった。彼は、1918年10月にモスクワの南西35キロメーターのGorki に、かつては帝制時代の将軍の資産だった屋敷を手に入れた。
 他の者たちも、レーニンに倣った。
 トロツキーは、ロシアで最も贅沢な不動産、Akhangelskoe を手に入れた。かつて、Iusuoov 王子の屋敷だった。
 スターリンは、Zubalovo の石油王の田舎家屋を自分のものにした。(注29)
 レーニンはGorkiで、GPUが操作する6台のリムジン車を自由に使用した。(注30)
 彼は自分のためには稀にしかそれを利用しなかったけれども、家族や友人たちのために利用させるのに反対ではなかった。例えば、妹とブハーリン家族がほとんど確実に休暇のためにクリミアへ旅行する私的車両には、彼らの旅の早さを上げるべく軍事列車が随行するように指示したように。(注31)
 劇場またはオペラに行ったとき、新しい指導者たちは、当然のこととして、皇帝用だった特別席を占めた。//
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 後注
 (15) Refail[R. B. Farbman]in Desiatyi S"ezd, p.97.
 (16) I. Zaitsev in Novyi den', No. 16 (1918.4.12), p.1; RR, p.63.
 (17) Konstantin Shteppa in Simon Wolin & Robert M. Slusser, The Soviet Secret Police (1957), p.86-87.
 (18) Lenin, PSS, XLIV, p.398; XLV, p.53.
 (19) E. g., N. Osinskii in Vos'moi S"ezd RKP(b): Protokoly (1959), p.27-28, p.164-7; A. A. Solts in Desiatyi S"ezd, p.57-58.
 (20) Kommunist (Abstrakhan), No. 6 (1919.1.11). Izvestiia, No. 12/564 (1919.1.18), p.4 が引用。
 (21) Lenin, PSS, XLIV, p.122-4.
 (22) "Aleksandrov", Kto upravlaet Rossiei ? (1933), p.28.
 (23) Solts in Desiatyi S"ezd, p.60.
 (24) RR, p.61-p.75. 〔RR=R. Pipes. Russian Revolution〕
 (25) A. Podshchekoldin in AiF, No. 27/508 (1990.7.7-13), p.2.
 (26) Alexander Berkman, The Bolshevik Myth (1925), p.43.
 (27) RTsKhIDNI, F.2, op.2, delo 1005.
 (28) S. K. Minin in Desiatyi S"ezd, p.92.
 (29) Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (1967), p.26-27; Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/I (1989), p.190.
 (30) Lenin, PSS, LIV, p.649, p.266.
 (31) TP, II, p.444-7.  
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 第一節②、終わり。③へ。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
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 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
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 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
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 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
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 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
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 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
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 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
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 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
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 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
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 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
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 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
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 第一節①、終わり。

2579/R・パイプス1994年著第9章序。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、へと試訳を進める。
 第9章の構成は、つぎのとおり。数字は本文にも目次にもなく、表題は目次にだけ見られる。
  
  第一節・共産党の官僚主義化。
  第二節・国家の官僚主義化。
  第三節・「労働者反対派」。
  第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭。
  第五節・孤立するレーニン。
  第六節・ジョージアに関する論争。
  第七節・レーニン・スターリン・トロツキー。
  第八節・トロツキーの衰退。
  第九節・レーニンの死。
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 第9章/新体制の危機。 
 あなたはつぎの問題を、どのように解くか。
 農民層は我々の味方でなく、労働者階級は多様なアナーキズムの影響下にあって我々を放棄しようとしているとすれば、いま共産党はいったい何を基盤にすることができるのか?
 以上、共産党第10回大会で、Iurii Milonov (1921年3月)。(注1) 
 中央の政府を妨害する障害は何もなくなっていたが、同時に、それを支えてくれるものも何もなかった。
 以上、Alexis de Tocqueville. (注2)
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 序。
 1921-23年に共産党を襲った政治的危機の原因は、対抗諸政党の弾圧によっても不満は消失せず、党員内部へと不満が移ったにすぎなかった、ということにあった。
 このような展開は、ボルシェヴィズムの主要な教義、紀律のある統一、を侵すものだった。
 第11回党大会の諸決議は、起きていることを遠回しに認めていた。
 「きわめて緊張していた内戦という状況下で、プロレタリアートの勝利を確固たるものにするために、その独裁を維持するために、プロレタリアートの前衛は、ソヴィエトの権威に敵対する全ての政治集団から組織する自由を剥奪しなければならなかった。
 ロシア共産党は、ロシアの唯一の合法的政党として残った。
 もちろん、このような状況は、労働者階級とその党に多くの優越性をもたらした。
 しかしそれは、他方で、党の仕事をきわめて複雑にする現象も生み出した。
 不可避的に、唯一の合法的政党の党員たちには、自分たちの影響力を行使しようとする気分が生じてきた。別の状況であれば共産党員のみならず、社会民主党またはその他の小ブルジョア社会主義の政党の党員たちにも出現するだろう集団や層だ。」(注3)
 トロツキーが、こう述べたように。「我々の党は今やロシアの唯一の政党だ。あらゆる不満が、我々の党を通じて昇って来る」。(注4)
 かくして、党指導部は、苦痛の選択を迫られた。すなわち、党内部での不満に寛容になることで、統一とそれから生まれる利点を犠牲にするか、それとも、党指導機構の硬化と党員たちの指導部からの離反という両者の危険をともに冒してでも、統一を維持するか。
 レーニンは、躊躇することなく、後者を選択した。彼はこう決意することによって、スターリンの個人的独裁の基礎を築いた。//
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 後注
 (01) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.84.
 (02) Alexis de Tocqueville, The Ancient Regime and the French Revolution, Chap. 12.
 (03) OdinadtsatyiS"ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1961), p.545.
 (04) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.352.
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 序、終わり。

2578/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第14節

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第14節へ。
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 第14節・ドイツとソヴィエトの軍事協力の開始。
 (01) Rapallo 条約は、二つの国の軍事的協力関係を促進した。
 1922年7月29日、ソヴィエト軍事革命評議会メンバーのA. P. Rozengolts とSeeckt 将軍の代表者たちとの間で、協定が締結された(今のところ文書の所在が分からない)。
 内戦中はトロツキーの副官だったE. M. Sklianskii が率いたソヴィエト使節団が、1923年1月にベルリンに到着した。
 使節団は、3億金マルクで兵器を購入する、ドイツの信用借款で支払われる、と提示した。しかし、ドイツ側は、製造能力が自分たちの需要に合わないという理由で、拒んだ。(注270) 
 ロシア側は、ロシア領域内でヴェルサイユ条約により禁止されている兵器の製造をドイツが行ない、ドイツが財源を負担し、管理する、ということに同意した。
 また、ドイツの軍事要員がロシアで訓練されることにも、同意した。(注271) 
 ドイツ側は、代わりに、ソヴィエトの将校たちを教育することを引き受けた。(注272)
 その翌年、ドイツ帝国軍は7500万金マルクをこの目的のために予算計上し、モスクワに支部を開設した。(注273)
 両国の代表団は、ポーランドに対する、さらには連合諸国に対してすらの、共同軍事作戦について、秘密裡に議論した。(注274) 
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 (02) ソヴィエト経済の未成熟さと非効率さのために、ドイツ側にとっては、兵器生産は失望に近いものだった。
 この軍事的協力関係による両当事者の主要な利益は、来たる世界戦争用に設計された先進兵器の試験と訓練から生まれるものだった。//
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 (03) 1924年までに、ドイツのいくつかの主要な兵器製造会社がロシアでの権利を得た。
 ドイツの三つの軍事施設の存在が、ソヴィエト・ロシアで確認されていた。一つは、Junker 航空機製造のためにFili に、もう一つは辛子ガスや無色有毒ガスの生産のためにSamara 地方に、三つめは戦車製造のためにKazan に。(注275) 
 民間人のふりをしたドイツの将校たちが、戦闘訓練のためにロシアへと旅行した。(注276)
 1924年初めから、ドイツの操縦士たちがLipetsk で訓練を受け、オランダで秘密に購入したFokker 戦闘機を飛ばした。そこで120人の操縦士と450人の航空機人員が教育を受けた。
 彼らは、ヒトラーの空軍の中核を形成した。(注277)
 「特別集団 R」の一人だった将軍Helm Speidel によれば、Lipetsk での訓練は、将来のナツィス空軍の精神的基盤」を作った。(注278)
 ロシアで得た経験は、連合諸国に対する10年の有利さをドイツ空軍に与えた、と言われている。(注279)
 ロシアの操縦士と地上人員もまた、Lipetsk 基地で訓練を受けた。//
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 (04) ドイツの将校たちも、Kazan とSamara で、戦車と化学兵器の経験を積んだ。
 ソヴィエト・ロシアで生産された知られていない数の兵器は、こっそりとドイツへ輸出された。
 1926年、ドイツの平和主義たちは、ソヴィエト・ロシアで生産された30万発の砲弾を積み込まれた三隻のソヴィエト船をStettin 港で発見することになる。
 これを発見して、社会主義指導者のPhilipp Scheidemann は、両国間の軍事協力関係を暴露し、ドイツの労働者に対してソヴィエトの武器を用いようとしていると政府を責め立てることができた。(*)
 しかし、禁止されている装備をロシアで大規模に生産しようというドイツの期待は、失望に終わった。
 毒ガスの生産は、困難になった。
 より大きい問題すらが、Fill の航空機製造工場を苦しめた。ロシア人が発注どおりの仕事をできなかったので、ドイツ国防軍はそれを閉鎖した。(注280)
 潜水艦計画は、設計図から次に進むことは決してなかったようだ。//
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 (脚注*) F. L. Carsten in Survey, No. 44-45 (1962), p.121; Freund, Unholy Alliance, p.211; Müller, Das Tor, p.146. 前もって警戒していたようで、ソヴィエトのプレスは同日の12月16日に、ソヴィエト連邦にドイツの軍事施設があることを認めたが、防衛的なものだと説明した。Pravda, NO. 291/3, p.520 (1926.12.16), p.1. これは、ワイマール・ドイツとの軍事協力にソヴィエト・プレスが言及した唯一のものだと見られる。
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 (05) ソヴィエトの将校たちは、1925年の初めに、さまざまに装って、ある者はブルガリア人だと偽って、ドイツ国防軍の演習を観察した。
 他の者たちは、参謀本部で教えられる秘密課程に参加すべくドイツへと派遣されていた。その参謀たちは、Model、Brauchitsch、Keitel、Guderin といった将軍たちとともに、初代のナツィ防衛大臣のWerner von Blomberg 陸軍元帥を含む、将来のヒトラーの将軍たちだった。
 生徒の中にはTukhachevskii とIakir もいた、と言われている。
 「ロシア人はこの課程のあいだに、全ての指令、戦術や作戦の研究書、募兵や訓練の方法、そして違法な再軍備の組織上の計画すら、を見て学習することができた。
 彼らに秘匿されたものは何もなかったように思える。」(注281)
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 (06) 明らかなことだが、このような規模での協力関係が、気づかれないままで進行することはなかった。
 実際に、ポーランドとフランスの情報機関はそれを知っていて、Scheidemann が暴露した後で、公に知られることになった。
 しかし、連合諸国は何らかの理由で、警戒しなかった。
 連合諸国は、それを止めようとは何らしなかった。そして、続く年月の間に、両国の技術的協力関係は、遮られることなく継続した。//
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 (07) このようにして、ソヴィエト・ロシアは再生するドイツ軍が基盤を築くのを助けた。このドイツ軍を、ヒトラーが自分のために使うことになる。
 急降下爆撃、自動車兵器、陸空軍の連結作戦、これらの戦術は、ソヴィエトの領土内で最初に試された。そして、ヒトラーの〈電撃作戦(Blitzkrieg)〉の基礎となった。
 赤軍の側について言うと、この協力関係のおかげで、第二次大戦中に連合国軍よりも十分に、ドイツの攻撃に対応することができた。//
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 (08) ソヴィエト・ロシアとの協力にかかわったドイツの将軍たちは、第二次大戦を準備していた。これは、ヴェルサイユ条約を廃棄し、第一次大戦で失った大陸での覇権をドイツに与えることになる。 
 ドイツの将軍たちは明らかに、ロシアが将来の敵対国になると予期していれば、彼らの軍事機密にロシアを関与させはしなかっただろう。
 かくして、1939年のナツィ・ソヴィエト協定の原型が、1920年代に、すなわちレーニンがまだ生きていて責任を担っていたときに、生まれた。この1939年協定は、ドイツがモスクワの好意的中立のもとでヨーロッパの大部分を占領する、第二次大戦を勃発させることになる。//
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 後注
 (270) Müller, Das Tor, p.105-6.
 (271) Kochan, Russia and the Weimar Republik, p.60-61; Fischer, Stalin, p.515-p.536; Raphael R. Abramovitch, The Soviet Revolution (1962), p.247-p.258.
 (272) Freund, Unholy Alliance, p.125.
 (273) Hans W. Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.573-6.
 (274) Müller, Das Tor, p.113-4.
 (275) Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.578; Müller, Das Tor, p.144-5.
 (276) Freund, Unholy Alliance, p.207-8.
 (277) Ibid., p.209.
 (278) Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953.1), p.28.
 (279) Freund, Unholy Alliance, p.209.
 (280) Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistskii mech kovalsia v SSSR (1992), p.20-23.
 (281) Freund, Unholy Alliance, p.210; Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953), p.35.
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 第14節、終わり。第8章全体も、終わり。

2577/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第13節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第13節へ。
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 第13節・1923年-共産主義者のドイツ・ナショナリストとの同盟(1923 Communist alliance with German nationalists)。
 (01) モスクワにとっては、連合諸国とドイツを引き裂いたままにしておくことが最も重要だった。そして、これを達成するための手段を、ヴェルサイユ条約の中に見出した。
 ドイツの指導的な社会主義政党の社会民主党は、この条約の条件の範囲内で活動し、連合諸国との友好関係を築こうとした。これに対して、共産党は、ドイツの最も反動的でナショナリスト的部分に目を向けた。
 レーニンは、1920年12月に、ドイツの「ブルジョアジー」はソヴィエト・ロシアとの同盟に向かって駆り立てられている、と宣言した。
 「ドイツは、ヴェルサイユ条約に従わされて、存在が不可能な条件の中にいると感じている。
 そして、この状況下で自然に、ロシアとの同盟へと進んでいる。
 あの息苦しい国のロシアとの同盟は…、ドイツに政治的な狼狽を生み出した。ドイツの黒の百人組は、ロシアのボルシェヴィキとスパルタクス団への共感へと動いている。」(注258)
 本当は、共産主義者に求愛しているのが「黒の百人組」ではなく、黒の百人組に、つまりナツィスとその同族の精神に、媚びているのが共産主義者だった。
 共産主義者・「ファシスト」協力関係は、1923年1月以降に最高潮に達した。そのとき、フランスとベルギーは、ドイツの賠償金支払いの不履行を宣言して、ルール地方を占領した。
 コミンテルン執行部はフランスと対立したドイツをただちに支持し、モスクワは、フランスの要請を受けてポーランドが攻撃するならばドイツを助けると約束した。(注259)
 1923年5月、ドイツ共産党(KPD) は、民族主義的大衆を徴兵する可能性を承認する決議を採択した。(注260)//
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 (02) ドイツの保守層や極右社会と交渉するレーニンの主な代理人は、Karl Radek だった。 
 Radek は、ドイツ共産党が孤立状態から離れる唯一の方途はナショナリスト部分との同盟関係の形成だ、と考えていた。
 彼は、このような変化を、「被抑圧国家」の場合はナショナリズムは「革命的」現象だ、という(ジノヴィエフと同様の)論拠で正当化した。(注261)
 気落ちしているドイツ人に対して、彼は、連合諸国に対抗する統一戦線を提案した。
 ドイツ政府に対して、フランスとの戦争の場合は、ソヴィエト・ロシアは「好意的中立」政策を採るだろう、ドイツ共産党は積極的に支持するだろう、と助言した。(注262)
 1923年6月、彼は、コミンテルン執行部に対して演説を行ない、ルール地方での輸送を妨害したとしてフランスに射殺されたナツィ一族のAlbert Schlageter を褒めちぎった。Schlageter は「ドイツ・ナショナリズムの殉教者」で、「革命の兵士へ真摯な敬意」を払う「反革命の勇敢な戦士」だ、と。
 彼はこう明確に述べた。「ドイツの愛国主義層が自国の民衆の大多数の意向になると決意し、そうして連合諸国の資本主義者とドイツ資本に対する戦線を形成しないならば、Schlageter の意思は虚しいものになるだろう」。(注263) 
 Radek はのちに、この扇情的な演説の文章は政治局とコミンテルン執行部の同意を得ていた、と明らかにした。(注264)
 ドイツ共産党(KPD)の機関紙の〈赤旗〉は今や、ナショナリストのためにその紙面を割いた。
 ナツィスは共産党員の集会で語り、共産党はナツィス党員の集会で語った。
 ドイツ共産党は、鉤十字を赤い星と混ぜ合わせたポスターを掲示した。(注265) 
 スパルタクス団のRuth Fischer は、彼女自身ユダヤ人だったが、ドイツの学生たちに、ユダヤ資本家を「踏みつぶし」、「首をつるす」ように熱く訴えた。(注266)
 このような協力関係は、ナツィスが離れた1923年8月に終わった。//
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 (03) 状況をさらに混乱させることだが、モスクワは、その対ドイツ政策の二つの立場—政府との同盟とその右翼の敵との協力関係—を、第三の、社会革命に伴わせた。
 政治局は、1923年8月23日に、新首相Gustav Streseman の政府を打倒する、と決定した。新首相 が、財政援助とヴェルサイユの条件の緩和を求めて、連合諸国と交渉するのを阻止するためだった。これは、ドイツを固く西側陣営につなぎとめることになるだろう。(注267)
 トロツキーは、当時にドイツで勃発していたストライキの波を利用しょうと望んで、クーを組織するために、Alexis Skoblevskii 将軍を長とする軍事使節団をドイツに派遣した。(注268)
 100万トンの穀物が、予期される連合諸国の封鎖にドイツが抵抗できるように、ペテログラードと前線地点に貯蔵されていた。
 2億金ルーブルの救済基金も、別に用意されていた。(注269)
 トロツキーはドイツ共産党と、革命戦術について討論した。その助言に基づいて、ザクセンとテューリンゲンでクーを開始する、と決定された。
 しかし、ドイツの労働者は、革命的訴えに反応できなかった。そして、右翼のKapp 蜂起と同時に起こったクーは、惨めな失敗に終わった。
 1923年11月から1924年3月まで、ドイツ共産党は非合法化された。//
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 後注。 
 (258) Lenin, PSS, XLII, p.104-5. Ost-Information, No. 81, 1920.12.4.—Dennis, Foreign Policies, p.155 が引用—を参照。
 (259) Freund, Unholy Alliance, p.153; Louis Fischer, The Soviets in World Affairs, I (1930), p.451; Gustav Hilger, The Incompatible Allies (1953), p.120.
 (260) Arthur Spencer in Survey, No. 44-45 (1962), p.139.
 (261) Leonid Luks, Entstehung der kommunistischen Faschismustheorie (1984), p.62.
 (262) Ruth Fischer, Stalin and German Communism (1948), p.265.
 (263) Karl Mielcke, Dokumente zur Geschichte der Weimarer Republik (1951), p.46, p.48.
 (264) Protokoll: Fünfter Kongress der Kommunistischen Internationale, II (1925). p.713; Die Lehren der deutschen Ereignisse: Das Präsidium des Exekutivkomitees der Kommunistischen Internationale zur deutschen Frage (1924), p.18; Braunthal, Historzy, II, p.277.
 (265) Braunthal, History, II, p.277.
 (266) Ossip K. Flechtheim, Die Kommunistische Partei Deutschlands in der Weimarer Republik (1948), p.89.
 (267) Braunthal, History, II, p.278-9; Freund, Unholy Alliance, p.172.
 (268) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.209-212.
 (269) Ibid., p.218; G. Z. Besedovskii, Na putiakh k Termidoru (1930), p.123.
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 第13節、終わり

2576/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節②へ。
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 第12節・ラパッロ(Rapallo)②。
 (12) レーニンは、ドイツとの交渉をいったん決断すると、スターリンが1939年にいっそう巧く模倣した策略を用いた。すなわち、連合諸国との合意を追求しているふりをしつつ、ドイツに対して分離協定に署名するよう圧力を加えた。 
 この戦術が、フランスやイギリスを怒らせるのを怖れる政府内や実業界の親西欧派の反対を抑えるのに役立った。//
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 (13) 1922年1月遅く、Radek 〔ロシア・ボルシェヴィキ〕は、驚くべき報せを持ってベルリンに現れた。ソヴィエト・ロシアの法的承認と商業信用を呼びかけ、その代わりにモスクワはヴェルサイユ条約の実施を助ける、とするフランスとの間の協定をモスクワはまさに締結しようとしている、との報せだ。
 Radek は、かりにロシアがそうするつもりならば、フランスはポーランドとの関係を断つかもしれない、とすら主張した。(*)
 彼は、Rathenau 〔ドイツの政治家〕に対して、ロシアと折り合うことでそのそうな進展を阻止するように迫った。
 また、これには多額の金銭がかかわっていた。
 Rathenau は、50億紙幣マルクの借款を提示し、ロシアは自分を恐喝していると抗議した。しかし、Radek は、ソヴィエトの政策に影響を与えるにはこの額(金での5000-6000マルク)では少なすぎるとして、それを却下した。(+)
 Rathenau は言葉を濁し、連合諸国の反応を心配し、輸入代金を支払うロシアの能力に懐疑的になった。
 フランスとの協定が迫っているとの主張には、実体がなかった。しかし、ドイツの外務当局からRathenau を追い出した点では、究極的にはRadek とその仲間たちの役に立った。かりにドイツが1914年以前のフランス・ロシア同盟の復活を避けたかったとすれば、ドイツは行動すべきだった。それもすぐに、行動しなければならなかった。
 Radek は、近代的軍需産業の建設を早くするために、Seeckt 〔ドイツの陸軍軍人〕に対して、赤軍は春にポーランドを攻撃する準備をしている、と内密に打ち明けた。ポーランドは猛烈に航空機を必要としている。
 騙されやすいドイツ人たちはこの作り話を信じ込み、1922年4月に、モスクワの近傍のFili でのJunker 航空設備の開設を急がせた。
 彼らはまた、空想上のポーランド侵攻にもとづいて、赤軍との職員間の討議を始めた。(注240)
 Radek は、Genoa 経由で4月初めにベルリンに着いたChicherin の支援を受けた。
 彼は、提示されているソヴィエト・ドイツ協定案を持ってきていた。ドイツ外務省の専門家の助けでのちに修正されたのだが、それは、Rapallo 条約の基礎文書として役立つことになる。(注241)// 
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 (脚注*) Wipert von Blücher, Deutschlands Weg nach Rappallo (1951), p.154-5. Gerald Freund はこの情報を引用し、彼自身が主導して行ったと示唆しつつ、Radek を「無責任」と称する。
 しかし、このような重大な問題については、政治局とレーニン個人の是認なくして何も行なうことができなかった。これがまさにその事案に該当することの証拠は、Chicherin が率いたGenoa へのソヴィエト代表団は二ヶ月後に、全く同じ戦術を用いて、ドイツをRapallo 条約の署名へとさせた、ということだ。Freund, loc, cit., p.116-7.
 (脚注+) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1124. ベルリンからの報告の日付は、1922年2月14日。1922年2月22日のレーニンの覚書では、Genoa の戦術に下線があり、Chicherin が外国資本なくしてはソヴィエトの輸送と工業の再建の見込みはない、と強く主張していた。Ibid., delo 1151.
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 (14) 1922年2月28日、政治局は、Genoa 会議に関する、経済協定を中心とするレーニンの基本方針を是認した。これは、「平和主義」派を分つことで、「ブルジョア」陣営の分裂を促進するものだった。
 「我々は、その(ブルジョア)陣営(または特に選んだ別の丁重な表現を用いよ)の『平和主義的部分』は、小ブルジョア、平和主義者、準平和主義的民主主義派の第二インターナショナルか二・五インターナショナル、ゆえにKeynes タイプのそれ、等々だと見なして、呼称すべきだ。
 我々の原則の一つは、原則でなければGenoa での政治的課題は、ブルジョア陣営のこの派を全体として切り離して、いい気分にさせ、我々が締結を受容できかつそれは望ましいと考えていることを知らしめることだ。我々の観点からして、取引上のみならず、政治的な合意の点でも。
 (資本主義が新しい秩序へと進む平和的な移行の数少ない機会の一つとして。これに関して我々共産主義者は、全く楽観的ではないが、敵対的な他の多数派諸国の面前で、その試みを助ける気はあり、それが我々の義務だと、一つの大国を代表する者の義務だと見なしている。)/
 全ての可能なことを、ブルジョアジーの平和主義派を強くしたり、少しでも選挙の見通しを明るくするのは不可能な何がしかのことをせよ。
 これが、第一だ。
 第二に、Genoa で一緒に我々に抵抗するだろうブルジョア勢力を分裂させよ。
 これが、Genoa での我々の二つの任務だ。
 どのような状況でも、共産主義者の見方を促進しなければならない。」(注242) 
 Genoa でのレーニンの戦術にとって重要な平和主義は「小ブルジョア幻想」だということにChicherin が異論を述べたとき、レーニンは、苛立ちを包み隠さず、まさにそのとおりであって、「敵であるブルジョアジーを破壊する目的で平和主義者を利用」しないのは正気でない、と説明した。(注243)//
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 (15) Genoa 会議は、4月10日に開会した。
 ソヴィエト代表団は、レーニンではなく、Chicherin に率いられていた。レーニンは出席しようと思っていて、かつ議長になることを想定していたが、Krasin から暗殺に遭う危険があると警告された後でとどまることに決めた。
 レーニンは、トロツキーまたはジノヴィエフが自分の代わりをすることも、拒否した。(注244) 
 Chicherin は第一日め、一般的な武装解除に関する包括的な「平和主義」綱領を発表した。
 これは、ソヴィエト・ロシアが当時、ドイツの助けで近代化しつつある世界で最大の軍隊(武装兵80万人以上)(注245) を有していたことからすると、皮肉な案だった。
 フランスの要請により、その提案は会合の議題とは関係がないものとして握りつぶされた。//
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 (16) Genoa での原理的なソヴィエトの経済的目標は、外国の借款と投資を確保することだった。
 1918年にドイツ外務省とソヴィエト大使のAdolf Loffe の間の連絡者だった同調者のHarry Kessler 公は、ドイツ外務当局の東部支所の長から、「ロシア人が興味をもつのは金、金、金だ」と言われていた。(注246)
 レーニンは実際に会議の前日の〈プラウダ〉に、ロシア人はGenoa へと、「共産主義者としてではなく、商売人として行く」と書いていた。(注247)
 Genoa でのソヴィエトの政策方針は、ドイツに集中することだった。指導的なソヴィエトの新聞は、こう論じた。「自立したドイツのロシアでの経済政策は、ドイツ資本の合理的な利用への途を開く。ロシア自身でだけではなく、さらに東へと、目ざす途はロシアを通り抜け、ドイツが別の経路では到達することのできない領域へとつづく途だ。」(注248) //
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 (17) 連合諸国は、ソヴィエト政府に対して、ロシアの外国債務を承認し、その「行動または不注意」によって発生した損失を外国人に補償することを求めた。
 外国の請求権は、ソヴィエト債券の外国での発行によって埋め合わされるべきだ。(注249)
 Chicherin は、きわめて条件付きの言葉で示唆して、再建に必要な融資はもちろん外交上の国家承認を受けるならば、損失を外国人に補償する、という意向を表明した。(注250)
 この問題について交渉するふりをしながら、ロシア代表団は、ドイツとの分離条約の締結に向かって静かに動いていた。//
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 (18) こうした努力をするについて、ロシア代表団は、Lloyd George の外交的愚かさに助けられた。
 自らを〈最高の人物(primus inter pares)〉だと示そうとして、この首相は、ソヴィエトを含む多くの代表団と会食をした。
 彼のロシア人との私的な遭遇がさりげなく仕組まれ、Radek とChicherin は、連合国・ドイツ協定をドイツが結ぼうとしていると、警告した。(注251)
 Rathenau は、穏当でないことが起きそうだとの助言に納得しつつ、疑念を拭い去り、4月16日に、Rapallo 近くのSt. Margherita ホテルで、本質的にはモスクワが草案を書いたソヴィエト・ロシア協定に署名をした。(**)
 すぐのちに、二枚舌だと非難されて、ドイツは、連合諸国もまたモスクワと分離協定を結ぶべく動いていたと論じて、自分たちの行動を正当化した。(注252)//
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 (脚注**) 二ヶ月後、Rathenauは、Rapallo 条約のために人生を捧げたのち、「親共産主義のユダヤ」だとしてナショナリストに殺害された。
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 (19) 協定が定める条件により、署名によって相互の外交的承認がなされ、最恵国待遇の地位が与えられた。(注253)
 両国は、戦争に起因する請求権を相互に放棄し、友好的な経済関係を促進することを誓約した。
 ドイツはさらに、ソヴィエトの国有化措置によって政府や国民が受けた損失に対する請求権も放棄した。
 Rapallo 協定は、ドイツが外交政策について連合諸国とは別個にかつ本来の望みとは反対に行動した、休戦以降の三番めの事例になった。いずれの場合も、ドイツは、ロシアに有利に行動した。—最初は、1919年に、封鎖に参加することを拒んだ。次いで、1920年に、ドイツを横切ってポーランドへと軍需資材を送るのをフランスに対して許可しなかった。//
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 (20) 連合諸国は驚いて、ドイツに対して集団的抗議団を送り、国際的交渉が従うべき問題に関する一方的な決定だと非難した。ドイツは対等な相手国として招かれているが、一体性という精神を侵犯することで応えたのだ。
 ドイツはその行動によって、ソヴィエト・ロシアとの共同討議への参加を排除された。(注254)
 Genoa 会議は、解散した。
 西側はおそらく、Rapallo 条約の諸条項をその含意ほどには警戒しなかった。その意味とは、「怒れるドイツと貧しいロシアの同盟」がうっすらと出現した、ということだ。(注255)
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 (21) Rapallo 条約は、ヴェルサイユの後でドイツが初めて締結した国際条約だった。
 ほとんどのドイツの政治家は、ロシアをドイツの経済的、政治的浸透に対して開くものだという理由で、この条約を支持した。
 社会民主党は反対し、ロシアは世界革命のためにドイツを利用している、と警告した。(注256) 
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 (22) この条約は、ロシアのイギリスとの取引を犠牲にして、ソヴィエト・ドイツ間の取引を増大させた。
 1922-23年、ソヴィエトの輸入の三分の一は、ドイツからだった。
 1932年、この数字は47パーセントにまで上がった。(注257)
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 後注
 (240) Freund, Unholy Alliance, p.99; F. L. Carstein in Survey, No. 44-45 (1962), p.119.
 (241) Herbert Helbig, Die Träger der Rapallo-Politik (1958), p.79-81.
 (242) Lenin, PSS, XLIV, p.407-8.
 (243) 初出、Literaturnaia gazeta No. 45 (1972.11.5), p.11.
 (244) TP, II, p.656-9; RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 27069.
 (245) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 74.
 (246) Harry Kessler, In the Twenties (1971), p.176.
 (247) Lenin, PSS, XLV, p.70.
 (248) EZh, No. 71 (1922.3.29), p.1.
 (249) Dennis, Foreign Policies, p.427.
 (250) Ibid., p.431-2.
 (251) Freund, Unholy Alliance, p.116-7.
 (252) Sovetsko-Germanskie otnosheniia ot peregovorov v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skgo dogovora, II (1971), p.485-6.
 (253) Text in NYT, 1922.4.18, p.1.
 (254) Sovetsko-Germanskie otnosheniia, II, p.486-7.
 (255) Dennis, Foreign Policies, p.430.
 (256) Freund, Unholy Alliance, p.148.
 (257) Müller, Das Tor, p.84. Walter Laqueur, Russia and Germany (1965), p.132.
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 第12節、終わり

2575/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節へ。
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 第8章
 第12節・ラパッロ(Rapallo)①。
 (01) 1920年代の(そしてこの問題では1930年代の)ソヴィエトの外交政策は、ドイツに焦点があった。ドイツは、つぎの革命の地域で、かつソヴィエト・ロシアの原理的敵対国のイギリスやフランスに対抗する潜在的な同盟相手だと見られていた。
 モスクワは同時にこの二つの目標—転覆と協力—を追求した。これらは相互に排他的で、そのことによってヒトラーによる権力への進軍への途を掃き清めたのだったとしても。//
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 (02) ヴェルサイユ後の国際関係の最も重要な事件は、アメリカが国際連盟への加入を拒んだことに次いで、Rapallo 条約だった。この条約で、ソヴィエト・ロシアとヴァイマール共和国は、Genoa での国際会議を経て、予期していなかった世界を驚かせた。//
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 (03) Genoa での会議は、二つの目的をもって開催された。
 ヴェルサイユで未解決のまま残された東欧と中欧の政治的、経済的問題を処理すること、ロシアとドイツとを国際社会へと再統合すること。—両国への招待状は第一次大戦の終焉以降それらが初めて受け取ったものだった。
 同盟政治家たちの副次的な関心は、ロシア・ドイツの潜在的な親交関係の成立を事前に防止することだった。彼らには、それは懸念すべき脅威だった。
 そのように判明したが、Genoa 会議は目標を一つも達成できなかった。その唯一の成果は、まさに阻止しようとしていた、ソヴィエト・ドイツの親交関係の成立だった。//
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 (04) ドイツには、ソヴィエト・ロシアと妥結すべき大きな理由があった。
 一つは、通商上の望みだった。
 ドイツは伝統的に、ロシアの主要な取引相手だった。
 二つの経済は、ロシアには豊富な原料があり、ドイツにはロシアが必要とする高い技術と経営技量がある、という点で、よく適合していた。
 ドイツの実業界は、戦後世界が「アングロ-サクソン」諸国に支配されているのは確かだが、ドイツが発展余地のある経済を維持していくための唯一の希望はモスクワとの緊密な関係のうちにある、と感じていた。
 NEP の導入は、このような協力関係を展望する見込みを可能にした。
 ドイツの実業家たちは、1921-22年に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係の発展に関する野心的な計画を立てた。ロシアを潜在的な植民地のごとく位置づけるものだった。(注229) 
 彼らは、北部ロシアとシベリアの広大な森林、シベリアの鉄鉱や炭鉱を利用する見通しに夢中になった。それらは、Alsace とLorraine の喪失を埋め合わせてくれるだろう。(注230)
 ペテログラードをドイツの技術的、財政的援助でもって海運と工業の中心地に変える、という壮大な企画が語られた。
 両国の通商交渉は、1921年早くに始まった。それは、ロシアに投資する外国企業をレーニンが招待したことに由来した。(注231)
 ドイツの産業界の幹部たちはKrasin に、ロシアの基幹部門のいくつかの管理と引き換えに、ソヴィエト経済の再建を助ける大規模の投資を呼びかける提案を行なった。(注232)//
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 (05) しかし、通商上の利益は、地政学的な考慮、すなわち、ソヴィエト・ロシアの助けがあって初めてドイツはヴェルサイユで課された足枷を断ち切ることができるという確信、に次ぐ位置にあった。
 ドイツ人の多数、おそらく大部分は、講和条約の条件は屈辱的かつ重いもので、免れるためには何でもする用意があると、考えていた。
 条約が課した義務履行をしたがらないこと(あるいは、ドイツが言ったように、その能力がないこと)は、フランスの報復を挑発した。これが、親西欧のドイツの政治家の立場をさらに悪くした。
 このような状況のもとで、ドイツのnationalist 社会は協力者を探し求めた。そして、共産主義ロシア以外に、連盟諸国からよそ者として非難されていたもう一つのこの大国以外に、この役割をよりよく果たす者があっただろうか?//
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 (06) Genoa 会議は、ソヴィエトの外務人民委員のGeorge Chicherin の声明によって促進された。1921年10月28日のそれは、こう述べた。
 ロシア政府は、一定の条件のもとで、「1914年以前にツァーリ政府が締結した国家借款から生じる他の国家や国民に対する義務の存在を認める」用意がある。
 彼は、「国際会議に、…ロシアに対する諸大国の請求権を考慮し、それらとの間の明確な条約を作成する」ことを提案した。(注233)
 Lloyd George は、この宣言はロシア革命で生じている問題を最終的に解決する魅力的な機会になる、と考えた。
 1922年1月6日、連盟最高会議は、押収や留保によって侵害された財産上の権利の回復も含めて、中欧と東欧の経済再建を考える国際会議を開催すると決議した。//
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 (07) 既に述べたことだが(第四章)、Hans von Seeckt が率いたドイツの将軍たちは、1919年の冒頭に共産主義ロシアに対する裏口の回路たる役割を果たした。
 ソヴィエト・ドイツ軍事協力関係へと至る決定的歩みは、NEP 政策導入とポーランドとの戦争終結のためのRiga 条約の締結がつづいた1921年の春に、すでに採られていた。
 レーニンは、赤軍がポーランドに対して示す無気力さに驚きかつ心配して、ドイツに軍隊の近代化への助けを求めた。
 この分野では、両国の利害は合致した。ドイツにとって、軍事的協力関係に入るのは望ましかった。
 ドイツは、ヴェルサイユ条約の条件として、近代戦争に不可欠の兵器を製造することを禁じられていた。
 ソヴィエト・ロシアの側は、そのような兵器も欲しかった。
 こうした共通する利害にもとづき交渉が行われ、やがてつぎのようになった。ロシアは、ドイツが先進兵器を製造して検査する安全な場所を提供する。その代わりに、ドイツは、赤軍が使う装備を提供し、訓練を行う。
 この協力関係は、1933年9月まで、すなわちヒトラーが権力を掌握して9ヶ月後まで、続いた。
 両国の軍隊にとって、多大なる利益だった。
 協定期限がついにやってきたとき、当時は戦時人民委員代理だったTukhachevskii は、モスクワにいるドイツの臨時代理公使に、「ドイツの遺憾な進展にもかかわらず、ドイツ国軍が赤軍の組織を決定的に助けてくれたことは、決して忘れ去られないだろう」と言った。(注234)(*)
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 (脚注*) すぐ前の1933年5月、ナツィ・ドイツとの軍事協力関係がまだ現実的に見えていたとき、Tukhachevskii は訪問したドイツ代表団に、こう言った。「あなたがたと私たち、ドイツとロシアは、我々が協同するならば世界を我々の考え方で支配することができるということを、つねに心に留めておこう」。Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistkii mech kovalsia v SSSR (1992), p.25.
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 (08) レーニンは、1921年3月半ばに、赤軍の再編成を助けてくれるよう、ドイツ軍に正式に要請した。(注235) 
 Seeckt は、このような進展を予期して、いくぶんか前に、ドイツ国防軍の内部に「特殊集団 R」を組織していた。これは、ロシア人と付き合った経験のある将校たちに補佐された内密の部隊だ。
 レーニンが要請したあとで、交渉は迅速に進んだ。
 4月7日、Kopp はベルリンからトロツキーに、ドイツ「集団」は生産のための技術人員と製造設備を用意するために、三つのドイツ兵器製造会社をかかわらせることを提案した、と伝えた。—Blöhm & Voss、Albatrosswerke、Krupp。三社それぞれが、潜水艦、航空機、大砲と砲弾の生産。
 ドイツはモスクワに対して、これらの工業の建設のための信用借款と技術的援助の両方を提供した。これらは、赤軍とドイツ軍の双方に同時に役立つはずだった。
 レーニンは、Kopp の報告を是認した。(注236) 
 やがて、「特殊集団 R」の代表者たちがモスクワに到着して、支局を開設した。
 ドイツ側は、厳格な秘密性を強く要求した。
 この協力関係は首尾よく隠蔽されたので、一年半の間、ドイツの社会主義者大統領のFriedrich Ebert は知らなかった。彼がSeeckt から聞いて知ったのは1922年11月で、そのときに遅れて同意した。(注237)//
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 (09) ソヴィエト・ドイツの政治的協力関係は、1921年5月に決定的な方向へと向かった。連合国がドイツの賠償金支払いの改訂要請を拒否したあとでだ。
 ドイツのほとんどの保守主義者と民族主義者たちは上機嫌で、ロシア共産主義者と共通する信条を掲げることで、連合国に制裁を加えようとした。//
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 (10) このような友好関係へのソヴィエトの関心には、明確な動機があった。すなわち、政治や軍事に加えて、経済だった。
 レーニンは、ソヴィエト経済の再建には西側の資本とノウハウが必要であり、これらを最も容易にドイツから得ることができる、と考えた。
 連合諸国はソヴィエト・ロシアとの通商を望んだが、借款問題が満足な結果を得て解決するまでは、信用貸しをするつもりがなかった。
 この問題はロシア・ドイツ関係には大きな障害ではなかった。ソヴィエトの債務不履行と国有化によって被ったドイツの損失ははるかに少ないもので、いずれにせよ、両国の1918年〔ブレスト=リトフスク〕条約の定めでもって実質的には補償されていた。
 連合国・ソヴィエト間の通商のもう一つの障害は、ソヴィエト各省は西側の個々の会社ではなく合弁企業と交渉をすべきだ、という連合諸国の主張だった。  
 これはモスクワの気には全く召さなかった。外国企業を相互に競わせるのを好んだからだった。
 連合諸国とは対照的に、ドイツは、ロシアが一対一でドイツの企業と交渉することに異議を挟まなかった。Rathenau は実際に、ドイツはモスクワの同意なしにはどの合弁企業にも参加しない、とRadek に約束した。(注238)//
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 (11) 9月21日と同24日、Krasin は、Seeckt の副官の一人である参謀部からのドイツ人将校と、ロシア・ドイツの軍事協力に関する詳細を詰めるために逢った。(注239)
 Krasin は、レーニンに報告したとき、金儲けだけ考えて連合国に簡単に脅かされるドイツの銀行家や実業家を巻き込んでも無駄だ、という考えまで述べた。「真剣に復讐を考えている」ドイツ人と交渉するのが最も好い。
 協力関係は、ドイツ政府からは厳格に秘密にされ、その情報は軍部にだけに限定された。
 ドイツは、ソヴィエト・ロシアで企画されている軍需産業を動かす技術者
や経営要員はもとより、財政援助も提供することになるだろう。彼らの公式な監督は、ソヴィエトの「トラスト」に委ねられる。 
 Krasin によると、計画の全体が赤軍の近代化の努力だと偽装されており、現実的かつ直近の目的は、ドイツが数百万人の軍に先進的で禁止されている兵器を装備させないことにあった。//
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 後注
 (229) Rolf-Dieter Müller, Das Tor zur Weltmacht (1984), p.50-p.60.
 (230) Ibid., p.46-47.
 (231) Lenin, PSS, XLII, P.55-p.83; 初出、1963年。
 (232) R. G. Himmer in Central European History, Vol. 9, No. 2, (1976), p.155.
 (233) Correspondence with Mr. Krasin Respecting Russia's Foreign Indebtedness, Parliamentary Papers, Russia, No. 3, Cmd. 1546 (1921) , p.4-5.
 (234) Dispatch of 1933.12.6. in Department of State Documents on Germn Foreign Policy, Series C, Vol. II (1959), p.81.
 (235) Gerald Freund, Unholy Alliance (1957), p.92n. さらに、E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, III (1953), p.361-4 を見よ。また、Deutscher, Prophet Unarmed, p.57-58.
 (236) TP, II, p.440-3.
 (237) Freund, Unholy Alliance, p.149.
 (238) PTsKhIDNI, F. 5, op.1, delo 2103, list 84, F. 2, op.2, delo 1124.
 (239) Ibid., F. 2, op.2, delo 897,933,939.
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 ②へと、つづく。

2574/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第11節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第11節へ。1922年12月、コミンテルン第4回大会で、日本共産党は正式にコミンテルンの支部となった。
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 第8章/第11節・外国共産党に対する統制の強化。
 (01) 新経済政策は、ソヴィエトの外交政策にも、影響を与えた。外交は今ではかつて以上に、異なって相反する次元で機能していた。在来の外交通商と、非在来的な転覆活動の二つの次元。
 モスクワは、NEP の統合部分だった通商と投資を促進するために外国と通常の関係に入ることを懸念していた。
 軍事行動は、放棄された。性急で即興的だった1923年のドイツでの蜂起の失敗は別として、ヨーロッパで蜂起を起こすという企てはもうなかった。
 その代わりに、コミンテルンは、西側の諸組織に徐々に浸透するという戦略をとった。//
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 (02) ソヴィエト内部では経済自由化の一環として政治的抑圧が強化された、と叙述してきた。
 同じことは、国際共産主義運動についても言えた。
 その運動に課された21項目の条件は、外国の共産主義組織をモスクワに従属させた。だが、コミンテルンは対等な共産党の連合体だという幻想は維持された。
 この幻想は、1922年12月のコミンテルン第四回大会で一掃された。
 同大会決定は、つぎのことを明確にした。第一に、外国の諸共産党は独自の見解をもつ権利を有しない、第二に、双方が衝突した場合は、ソヴィエト国家の利益が外国の共産主義運動よりも優先する。//
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 (03) ヨーロッパでの革命の切迫性についての考えは、逆説的に、外国のコミンテルン支部に対するモスクワの立場を高めた。
 「まさに世界革命にはもはや今日的可能性がないがゆえにこそ、(外国の)諸共産党は、その希望をソヴィエト・ロシアへとつなぎ止めなければならない。
 ロシアだけが革命時代の階級闘争に勝利して出現した。また、無数の敵から自らを防衛することにも成功した。
 ロシアは、来たる世界革命の象徴であり、世界資本主義に対する力強い防波堤だった。
 外国の諸共産党にその国の権力の奪取が困難に思われれば、それだけ固く、諸共産党はソヴィエト・ロシアに結集しなければならない。
 この憂鬱な世界情勢のもとで、ソヴィエト・ロシアこそが世界じゅうの共産党員の祖国であるべきであることほど、当然のことはない。」(注216)
 戦後世界の安定は「憂鬱な」報せだった者たちには、ともかくもこの文章の執筆者にはそうだったが、モスクワはじつに唯一の希望だと思えた。
 そしてモスクワは、この現実から適切な結論を導きだした。//
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 (04) この第四回大会を準備して、モスクワは、コミンテルンの組織構造から、連邦主義の痕跡を全て排除することを決定した。
 責任者だったブハーリンは、21項目の第14項について、これはソヴィエト・ロシアが「反革命」を撃退するのを外国の諸共産党が助けることを要求するものだったが、外国諸共産党はいかなるときでもソヴィエト政府の外交政策を支持する義務がある、ということを意味すると解釈した。(注217)
 要するに、共産主義者はソヴィエト・ロシアという唯一の祖国をもち、ソヴィエト政府という一つの政府をもつのだ。
 共産主義者は、この政府が外交関係上の行為としてしたことを、ソヴィエト同盟と「ブルジョア国家」—自国を含む—との同盟であっても、同意しなければならなかった。ロシア共産党の政治局が決定した、ソヴィエト・ロシアの必要に応えるのならば。 
 この項目は、1922年にRapallo で締結されたソヴィエト・ドイツ条約に対して、無言の批判があり得ることをとくに意識してのものだった。//
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 (05) コミンテルンの最高の名義上の決議に外国の党が疑問を持ったり口出ししたりするのを阻止するために、コミンテルン第四回大会は、これ以降は構成諸党はコミンテルンの大会が行われた後でのみそれらの各大会を開催する、と決定した。
 こうした手続によって、各諸党の代議員は独立した決議を動議として提出する権利を持たないことが確実になった。
 コミンテルンへの代議員たちは、各自の党からの拘束的な命令を携えて来ることが禁止された。そのような命令は、「国際的で、中央志向のプロレタリア政党の精神と矛盾する」がゆえに、無効であり、無意味とされた。
 各国の共産党大会にオブザーバーを送ることが、1919年以降のコミンテルンの慣例となった。これは今ではつぎの規定によって公式に承認された。すなわち、「例外的状況では」、「最も包括的な権限」を与えられて外国党が21項目の条件や大会決定を履行しているかを監督する代理人を各国の党に派遣する権能を、コミンテルン執行部に与える規定。つまりは各国の党を支配し、服従しない構成党を除名する、そのような権能だ。
 各国の党は、それらが選んだ代表をコミンテルン執行部に送る権利も、剥奪された。執行部メンバーは、大会によって選出された。
 コミンテルンの役職を辞任することは、コミンテルン執行部の承認がなければ認められなかっただろう。その理由は、「共産党の全ての執行部の役職は、それを担う個人に帰属するものではなく、全体としての共産主義インターナショナルのものだ」、ということだ。
 新しい執行部の25名のうち15名は、モスクワに居住することが要求された。(注218)//
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 (06) こうした全てのことは、すでに1903年以降のボルシェヴィキ党の慣例であり、第二回大会で採択された規約にも黙示的には存在した。
 1922年の決議で新しかったのは、その曖昧さだった。すなわち、ロシア人とその外国の支持者は形式的には対等だとの見せかけすら、全て欠落させていた。
 モスクワが代弁者として使っていたドイツの代議員のHugo Eberlein は、ロシア人の優越性についての不満を、つぎのように切り捨てた。//
 「将来的にも、コミンテルンの運営では、その最高幹部会と執行部において、ロシア人同志にはより力強い、最も力強い影響力が与えられなければならない。国際的な階級闘争の領域で最大の経験を積み重ねてきたのは、まさに彼らだからだ。
 彼らだけが、革命を現実に実行した。そのような背景の結果として、彼らは、経験について、他の地域からの代議員の誰よりもはるかに優っている。」(注219)
 第四回大会は、ブラジルからの代議員の反対を除く満場一致で、新しい規則を採択した。
 「共産主義インターナショナルは今や、厳格に中央志向の、軍型の紀律をもつ、ボルシェヴィキ世界党へと、変質した。(第四回)大会が示したように、疑うことなくロシアの命令を進んで受け入れる用意のある組織へと。
 そして、世界じゅうの諸共産党は今や、実際には、ロシア国家も支配している政治局によって支配される、ロシア共産党の一支部となった。 
 諸共産党はかくして、ロシア政府の代理機関へと零落した。」(注220)
 この変質はしばしばスターリンによるものとされるが、レーニンがコミンテルン政策の設定の責任者だったときに起きたことだ。//
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 (07) GPU は、外国の従属者たちを監督するのを助けるべく、今やコミンテルン執行部との緊密な作業関係に入った。
 GPU は、外国の9首都に支所を開設した。ほとんどはソヴィエトの外交使節として。
 各支所は、いくつかの隣接諸国についても責任をもった。
 かくして、GPU のパリ事務局は、イギリスとイタリアを含む、フランス以外の七つの西欧諸国での秘密行動を指揮した。
 GPU 支所の活動の中には、コミンテルン工作員を監視することがあった。(注221)
 コミンテルンの活動は、多様だった。
 1922-23年には、24の言語での298冊の出版を財政援助した。(注222)
 また、植民地諸国からの学生たちを扇動的技術で訓練する学校を運営しもした。//
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 (08) このような進展に失望したのではなく苦悩したヨーロッパの社会主義者たちは、コミンテルンと協働するという希望を捨てなかった。
 彼らは、コミンテルンが自分たちを「社会ファシスト」と扱ってその隊列を分断しているのを無視しようとした。そのことはむしろ、国際的な社会主義運動を弱体化させた。
 社会主義者たちは、つねに宥められようとした。
 しばらくの間は、その希望は実を結ぶように見えた。
 1921年のドイツ反乱の大失敗の後、レーニンは社会主義者との「統一戦線」戦術を定式化した。共産主義者は西側では弱すぎて、自分たちだけで行動することができなかったからだ。
 レーニンは、ある程度までは、労働組合主義者や社会主義者と協働しようと決定した。
 彼はこの考えをコミンテルンの執行委員会に提示した。その執行委員会では、ジノヴィエフ、ブハーリンその他からの強い反対に遭った。
 レーニンは、トロツキーの助けで、何とか抵抗を克服し、その考えをコミンテルン第三回大会(1921年6-7月)に提示した。
 「社会帝国主義者」や「社会主義裏切り者」との協働という考えは強い憤激を生んだが、大会は最終的にはそれを認可した。(注223)
 レーニンは同時に、ロシアの社会主義者たち(メンシェヴィキとエスエル)との協働は許さなかった。表向きは「ソヴィエト当局の敵」だったからだが、本当は、外国の社会主義者とは違って、彼らは権力を目指す重大な競争相手だったからだ。(注224)//
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 (09) 新しい戦術の結果は、1922年4月の第二回(社会主義)インターナショナルの会合へのコミンテルンの参加だった。この会合はベルリンで開かれ、「資本主義」の力の増大に対する闘争の共同綱領の策定と、ソヴィエト・ロシアの承認を目的としていた。(注225)
 1923年5月、ヨーロッパの社会主義諸党は、別途、ハンブルクに集まった。
 それらは、630万の党員と2560万の投票者を代表していた。—この数字は、コミンテルンに加盟した諸党の何倍もの強さを示していた。(注226) 
 新しい組織が設立され、労働者・社会主義インターナショナル(LSI)と称された。
 この組織は、構造的には連合的(federated)で、構成諸党は自由に国内問題について決定することができた。
 メンシェヴィキとエスエルは、集合した者たちのために、ソヴィエト・ロシアの状態とそこでの社会主義者の運命を示す荒廃した絵を描いた。
 彼らは丁寧に拝聴されたが、しかし、無視された。
 イギリスからの代議員は、嵐のごとき喝采を浴びたのだったが、この大会をつぎのように思い出した。
 「ロシアの収容施設での犠牲者や処刑されたり国外追放されたりした人々に対する責任が追及されたのは、主として西側の資本主義諸政府だった!」(注227)
 ソヴィエト・ロシアに関する決議は、ロシアの内部問題への外国の干渉の全てを非難した。
 その決議は、ソヴィエト政府の「テロリスト的手段」を非難する一方で、こう主張した。
 「(資本主義政府による)いかなる干渉も、ロシア革命の現在の段階での過ちを是正させることではなく、革命それ自体を破壊することを意図している。
 干渉すれば、本当の民主主義の樹立からははるかに離れて、血に飢えた反革命家たちの政府を設立させるにすぎないだろう。それは、西側資本主義によるロシア人民の搾取を促進する手段たる行動になる。
 ゆえに、本大会は、全ての社会主義諸党に対して、…干渉に反対するだけではなく、ロシア政府の完全な外交的承認とロシアとの正常な外交関係および通商関係の迅速な回復を、呼びかける。」(注228)//
 ヨーロッパの社会主義諸政党と諸労働組合は、言葉上は彼らが何もすることができないロシアの共産党支配を非難しつつ、彼らが影響力を発揮できる立場にある諸政策を是認することによって、本質的には、モスクワと同盟した。
 ボルシェヴィズムをロシア革命の一「段階」と理解することによって、彼らはそうした。これは、ボルシェヴィズムの不愉快な特質は一時的なものだ、という意味を包含していた。
 そして、それに代わる唯一の選択肢は「血に飢えた反革命者」による政府だ、と主張した。
 また、ソヴィエト・ロシアの外交的承認とロシアとの正常な通商関係の回復を、要求したのだ。//
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 (10) 「統一戦線」は、その内部矛盾から—かつて分裂に関係していた社会主義者たちとの統合が、いかにして可能だっただろうか—、そして第二および第三の両者のインターナショナルの隊列内部での強い反対によって、ほとんど直ちに崩れ落ちた。
 まもなく、コミンテルンは、社会主義者を再び「社会ファシスト」として扱うようになった。//
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 後注
 (216) Julius Braunthal, History of the International, II (1967), p.258.
 (217) Bukharin in Izvestiia, No. 6/1,743 (1923.1.11), p.3.
 (218) Protokoll des Vierten Kongresses der Kommunistischen Internationale (1923), p.994-7.
 (219) Ibid., p.807.
 (220) Braunthal, History, II, p.263.
 (221) Dennis, Foreign Policies, p.366.
 (222) Ibid., p.369.
 (223) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed (1959), p.61-65.
 (224) Lenin, PSS, XLV, p.131.
 (225) Braunthal, History, II, p.245-250; TP, II, p.704-5.
 (226) Braunthal, History, II, p.264.
 (227) Ibid., II, p.269. Protokoll des Internationalen Sozialistischen Arbeiterkongressen in Hamburug (1923), p.80 を引用.
 (228) Brainthal, History, II, p.270. Ibid., p.105, p.107 を引用。
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 第11節、終わり

2573/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
 ——
 第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)
 (01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
 部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
 レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
 Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
 ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
 Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
 暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
 別のボルシェヴィキは、こう説明した。
 「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
 全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
 Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
 その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
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 (02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
 チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
 チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
 とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
 Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
 「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
 男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
 蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
 蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70) 
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 (03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
 Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
 「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
 2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
 武器を提出しない村民は、射殺される。
 3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
 4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
 その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
 家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
 7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
 この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
 このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
 のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
 多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。 
 Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74) 
 とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
 レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
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 (04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
 彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
 「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
 さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
 おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
 村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
 おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
 森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
 全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
 10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
 彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
 やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
 民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
 翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
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 (05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
 終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
 農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
 しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
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 (06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
 赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
 赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
 そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
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 後注
 (64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
 (65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
 (66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
 (67) TP, II, p.480-1.
 (68) Ibid., II, p.532-4.
 (69) TP, II, p.480-1.
 (70) Ibid., II, p.532-4.
 (71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
 (72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
 (73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
 (74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
 (75) Ibid., II, p.562-3.
 (76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
 (77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
 (78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
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 第8章・第五節、終わり。
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 第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
 第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
 ⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
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 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
 ——
 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
 ——
 第四節②へと、つづく。

2569/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場②。
 (08) Antonov は、1920年9月に再び現われて、Tambov 市奪取に失敗して意気をなくしていた農民たちを率いた。
 有能な組織者である彼は、集団農場や鉄道連結点への電撃攻撃を行なうパルチザン部隊を結成した。
 当局はこの戦術に対処することができなかった。攻撃が最も予期し難い場所で行われたがゆえだけではなく(Antonov たちはときどき赤軍の制服を着用した)、そのような作戦活動のあとゲリラたちは家に帰り、農民大衆の中に溶け込んだからだった。
 Antonov 支持者集団は、正式の綱領を持たなかった。彼らの目的は、かつて大地主にそうしたように、共産主義者を農村地帯から「燻り出す」ことだった。
 この時期の全ての反対運動でのように、あちこちで、反ユダヤ主義スローガンが聞かれた。
 この当時のTambov のエスエルは、労働農民同盟を設立したが、これは、全ての市民の政治的平等、個人的経済的自由、産業の非国有化を訴えた。
 しかし、この基礎的主張が、現実には二つのことだけを望んだ農民たちに何らかの意味を持ったかは、疑わしい。二つとはすなわち、食料徴発の廃止と余剰を処分する自由。
 基礎的主張は、公式のイデオロギーなしで行動することを想定できなかったエスエル知識人が書いたものだった。「言葉は行為の後知恵だ」。(注38)
 そうであっても、この同盟は、農民たちのために募った村落委員会を結成して、反乱を助けた。//
 ----
 (09) 1920年の末までに、Antonov には8000人の支持者があり、そのほとんどが活動に参加した。
 1921年早くに、彼は、徴兵を行なうまでになった。これによって、彼の勢力は2万人と5万人の間のどこかにまで増えた。—数について、論争がある。 
 より少なく見積もっても、その規模は、ロシアの歴史上の著名な農民反乱であるRazin やPugachev が集めた勢力に匹敵するものだった。
 彼の軍団は、赤軍にならって、18ないし20の「連隊」に分けられた。(注39)
 Antonov は、優れた諜報組織と通信網を組織し、政治委員を戦闘部隊に配置し、厳格な紀律を導入した。
 直接の遭遇を避けて、短時間の急襲を好んだ。
 彼の反乱の中心は、Tambov 地方の南東部にあった。だが、似たような蜂起を発生させることなく、Veronezh、Saratov、Penza といった隣接する地方へも進出した。(注40)
 Antonov は、没収穀物を中央に運ぶ鉄道線を遮断した。その穀物を彼は必要とせず、農民たちに配分した。(注41)
 支配下の領域では、共産党諸組織を廃止し、しばしば残虐な拷問の後で共産党員たちを殺害した。犠牲者の数は、1000を超えたと言われている。
 彼は、このような手段を用いて、Tambov 地方の大半から共産党当局の痕跡を消滅させることができた。
 しかしながら、彼の野望はもっと壮大だった。彼はロシア人民に対して、自分に加わって、圧政者から国を解放するためにモスクワへと行進しようとの訴えを発した。(注42)//
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 (10) モスクワの最初の反応(1920年8月)は、その地方に戒厳令を布くことだった。
 政府は、公式の声明で、 反乱をエスエル党の命令に従って行動している「蛮族」と表現した。
 政府は、もっと知っていた。共産党の官僚たちは、内部通信を通じて、蜂起は元来は自然発生的なもので、食料徴発部隊への抵抗として激しくなった、と認めていた。
 多くの地方エスエルは支援を提供したけれども、党の中央機関は反乱との何らかの関係を全て否定した。すなわち、エスエルの組織局は「蛮族のような運動」と表現し、党の中央委員会は、反乱と関係をもつことを党員たちに禁止した。(注43)
 しかしながら、チェカは、明らかになっている全てのエスエル活動家を逮捕する口実として、Tambov 蜂起を利用した。//
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 (11) 常備軍では対抗できないことが明らかになったとき、モスクワは1921年2月遅くに、全権使節団を率いるAntonov-Ovseenko をTambov へ派遣した。 
 Antonov-Ovseenko は大きな裁量を与えられるとともに、レーニンに直接に報告するよう指示されていた。
 しかし、彼の指揮下にある、ほとんどが農民から徴用された多数の赤軍兵士たちは、反乱者たちに同情していたことが大きな理由となって、彼は十分には成功しなかった。
 明らかになったのは、騒擾を鎮静化する唯一の方策は、反乱を支持する一般農民を攻撃して反乱と切り離すこと、そのためには無制約のテロル、つまり強制収容所送り、人質の処刑、大量追放、を行使することが必要であること、だった。
 Antonov-Ovseenko は、このような手段を用いることについてモスクワの承認を求め、そして承認された。(注44)
 ——
 後注
 (38) Radkey, Unknown Civil War, p.75.
 (39) IA, No. 4 (1962), p.203.
 (40) Saratov について、Figes, Peasant Russia, Chap. 7 を見よ。
 (41) TP, II, p.424-5.
 (42) Rodina, No.10 (1990), p.25.
 (43) Marc Jansen, Show Trial under Lenin (1982), p.15; TP, II, p.498, p.554; Frenkin, Tragediia, p.128-9, p.132-3; Singleton in SR, No. 3 (1966.9), p.501.
 (44) TP, II, p.510-3.
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 第三節、終わり。第四節へと、つづく。

2568/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場①。
 (01) 共産主義は農村の住民たちに、矛盾する態様で影響を与えた。(注29)
 私的土地のある共同体への配分は、割り当てを拡大し、「中間」農民を増やして貧農も富農もその数を減らした。このことは、農民共同村落(muzhik)の平等主義的心情を満足させた。
 しかしながら、農民は、獲得したものの多くを急速度のインフレで失い、蓄えも奪われた。
 農民は食料「余剰」の容赦なき徴発も受け、多数の労働上の負担に耐えることを強いられた。その中では、木を切って材木を荷車で運ぶ義務が最も重たかった。
 ボルシェヴィキは、内戦中に、消極的であれ積極的であれ食料徴発に抵抗した村落に対して、周期的に戦闘行為をしかけた。//
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 (02) ボルシェヴィズムは、文化的には、村落への影響をもたなかった。
 厳しさが政府の証明だと思っていた農民たちは、共産党当局に敬意を払い、それに順応した。彼らは、数世紀もの隷属状態によって、主人の宥め方と、同時に出し抜き方とを、学んでいた。
 Angelica Balabanoff は、驚きをもってこう記した。
 「農民たちは何とす早くボルシェヴィキの言葉遣いを身に付け、新しい語句を作り、何と適切に新しい法律の多数の条項を理解したことか。
 彼らは、これまでずっとその法律とともに生活してきたように見えた。」(注30)
 農民たちは、彼らの祖先がタタール人にしたごとく、外国の侵略者に対してしただろうように、新しい権威に適合した。
 しかしながら、ボルシェヴィキ革命の意味、ボルシェヴィキが呼号したスローガンは、彼らにとっては、解く価値のないミステリーだった。
 1920年代の共産党学者の調査によれば、革命後の村落は自らを維持し、他者からは閉ざして、それまでそうだったように、自分たちの不文の規則に従って生活していた。
 共産党の存在は、ほとんど感じられなかった。農村地帯で設立されるような党の細胞は、原理的に見て、都市部からの人員で補佐されていた。
 モスクワが1921年初頭にタンボフ(Tambov)地方の反乱を鎮圧させるために派遣したAntonov-Ovseenko は、レーニンへの秘密報告で、こう書き送った。
  農民たちは、ソヴィエト当局を「人民委員部または使節団」からの飛来する訪問者や食料徴発部隊でもって感知した。彼らは、「ソヴィエト政府は異質で、命令を発するだけで、強い意欲はあるが経済的感覚がほとんどない、と見るようになった」。(注31)//
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 (03) 識字能力のある農民たちは共産党の出版物を無視し、宗教文献や現実逃避的小説の方を好んだ。(注32)
 外部の事件についてのごく僅かの反響音だけが村落まで届き、届いたそれは捻れていて、誤解された。
 農村共同体(muzhiks)は、誰がロシアを統治しているかについて、ほとんど関心を示さなかった。1919年までに、観察者は旧体制への郷愁がある兆候に気づいていたけれども。(注33)
 したがって、共産党に対する農民反乱が消極的な目標をもった、というのは驚きではない。「叛乱は、モスクワまで行進するのではなく、共産党の影響を遮断することを目ざした」。(*)
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  (脚注*) Orlando Figes, Peasant Russia, Civil War (1989), p.322-3.
 例外は、タンボフ農民反乱の指導者、Antonov だった(後述参照)。 
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 (04) 農村の騒擾は1918年と1919年はずっと発生し、モスクワは、動員できる主要な軍隊で介入せざるを得なかった。
 内戦が激しさの高みにあるとき、広大な農村地帯は、緑軍団が統制していた。これは、反共産主義者、反ユダヤ主義者、反白軍感情の者たちと通常の山賊たちとの混成軍団だった。
 1920年に、これらの燻っている炎は、大爆発を起こした。//
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 (05) 反共産主義の反乱のうち最も暴力的なものが、タンボフ(Tambov)で勃発した。Tambov は工業がほとんどない比較的に肥沃な農業地方で、モスクワから南西に350キロメートル離れていた。(注34)
 ボルシェヴィキ・クーより前、この地方は毎年6000万puds (100万トン)の穀物を生産していた。この数字は、外国へ船で輸出される穀物の三分の一に近かった。
 1918-1920年に、Tambov は、強制的食料取立ての鉾先となったのを経験した。
 以下は、Antonov-Ovseenko がこの地方での「蛮族」の発生の背後にあった原因を叙述したものだ。
 「1920-21年の食料徴発の割り当て量は、前年の半分に減じられていたけれども、全体として多すぎるのが分かった。
 広大な播種されていない領域があり収穫がきわめて少なかったことで、この地方の相当の部分で、農民たち自身が食って生きるに十分なパンが不足した。
 Guberniia 供給委員会の専門家委員会のデータによれば、一人当たり4.2 puds の穀物しかなかった(播種の控除後には飼料用の控除がなかった)。
 1909-1913年の間、消費量の平均は…17.9 puds で、加えて飼料用の7.4 puds があった。
 言い換えると、Tambov 地方では、前年の地方収穫高は必要量のほとんど四分の一だった。
 予定では、この地方は、穀物1100万puds とジャガイモ1100万puds を供出しなければならなかった。
 農民たちがこの査定量の供出を100パーセント達成していたならば、彼らに残されたのは、一人当たり穀物1 puds とジャガイモ1.6 puds だっただろう。
 そうではあったが、査定量はほとんど50パーセント達成された。
 すでに(1921年)1月に、農民たちは飢餓状態に入っていた。」(注35) //
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 (06) 1920年8月にTambov 市近傍の村落で反乱が自然発生的に勃発した。その村落は食料徴発部隊に穀物を渡すのを拒み、部隊の数名を殺害した。また、増援部隊を撃退した。(注36)
 制裁のための派遣軍を予期して、その村落は、手にしていたもので武装した。何丁かの銃砲はあったが、主としては三叉鋤と棍棒だった。
 近くの諸村落も、加わった。
 反乱者たちは、あとに続いた赤軍との遭遇以降、勝利者として出現した。
 農民たちは、勝利に勇気づけられて、Tambov 地方で行進した。この地方の首都に接近するにつれて、農民大衆の数は膨れ上がった。
 ボルシェヴィキは増援部隊を送り、9月に反攻に出た。反乱側の村落を燃やし、捕えたパルチザンを処刑した。
 Alexander Antonov というカリスマ性をもつ人物が出現していなければ、暴乱はそのときに、そこで終わっていたかもしれなかった。//
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 (07) Antonov は、社会主義革命党〔エスエル〕の党員で、伝統工芸職人または同党が財源を補充すべく組織した強盗団(「収用部隊」)に1905-07年に参加していた金属労働者のいずれかの息子だった。
 彼は、逮捕され、有罪となり、シベリアでの重労働の判決を受けた。(注37)
 1917年に故郷に戻り、左翼エスエルに入党した。
 やがて彼はボルシェヴィキに協力したが、ボルシェヴィキの農業政策に抗議して、1918年夏に彼らと決裂した。
 その後の二年間、ボルシェヴィキ活動家に対するテロ行為を展開した。それが理由となって、欠席裁判で死刑判決を受けた。
 だが、うまく当局をかい潜り、民衆的英雄となった。
 彼は、小さな支持者集団とともに自分で行動した。党との関係はもう維持しなかったけれども、エスエルのスローガンを掲げて。//
 ——
 後注
 (29) RR, 第16章。
 (30) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p55-56.
 (31) TP, II, p.484-7. 〔TP=Trotzky Papers, 1917-1922 (1964-71).〕
 (32) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.86, p.96-98.
 (33) A. Okninskii, Dva goda sredi krest'ian (1936), p.290-2.
 (34) Radkey, Unknown Civil War, あちこちで。;Mikhail Frenkin, Tragediia krest'ianskikh vosstanii v Rossi, 1918-1921 gg. (1988) , Chap. V; Orlando Figes, Peasant Russia Civil War (1989), Chap. 7. 共産党の見方については、Trifonov, Klassy, 1, p.245-9 を見よ.
 軍事公文書庫からの新しい史料が近年に、P. A. Aptekar で出版された。Voennoistoricheskii zhurnal No. 1 (1993), p.50-55, No. 2 (1993), p.66-70. 私の注目は、Robert E. Tarleton 氏によるこの情報に引かれる。
 (35) TP, II, p.492-5.
 (36) Iurii Podbelskii, in RevR, No. 6, (1921.4), p. 23-24.
 (37) Radkey, Unknown Civil War, p.48-58.
 ——
 第三節②へと、つづく。

2527/R・パイプスの自伝(2003年)⑱。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の最後。
 ——
 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う②。
 (06) このうんざりする主題について、コメントを二つ追加しよう。
 第一に、全体主義体制のもとで生きなかった人々は、それがいかに強く人々を捉えるか、最も正常な人々をすら、強くて明瞭な憎悪を掻き立てて怪物的な犯罪に手を染めさせるかを、想像することができない。
 Orwell は〈1984年〉で、この現象を正確に叙述した。
 この情感に囚われているあいだは、ふつうの人間の反応は抑圧されている。この体制が瓦解するや否や、その気分は冷める。
 この実証例によって、決して政治をイデオロギーに従属させてはならない、と私は確信した。あるイデオロギーが道徳的に健全な場合であっても、それを実現するには通常は暴力に訴える必要がある。社会全体がそのイデオロギーを共有することはないからだ。//
 (07) 第二に、ドイツ人について若干のこと。
 ドイツ民族は伝統的には、血に飢えているとは見なされていなかった。ドイツは、科学者、詩人、そして音楽家の国だった。
 だがしかし、大量虐殺の際立った達人たちであることが判った。
 1982年5月に、ワシントンで初めて会っていたフランクフルト市長のWalter Wallman を、彼の招きで、訪問した。
 我々は彼の家で私的な食事を摂り、ときには英語で、ときにはドイツ語で、さまざまな話題について会話をした。
 彼は、ある一点について、私に尋ねた。「ナツィズムはドイツ以外のどこかで発生し得たと思うか?」
 一瞬考えたあとで、私は、そう思わない、と答えた。
 彼は、「ああ神よ!」と言って、掌の中に顔を埋めた。
 私はすぐに、この上品な人物に苦痛を与えたのを悔やんだ。しかし、別の答えはあり得ない、と感じていた。//
 (08) ドイツ人に関して私がいつも感じている性格は、こうだ。生命のない物体や動物を扱うのは本当に秀逸だけれども、人間を扱う能力に欠けている。人間をたんなる物体としてしか扱わない傾向がある。(脚注1)
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 (脚注1) 読者の中には、ここでのドイツ人であれ、のちのロシア人についてであれ、こうした民族についての一般化に反対する人がいるだろう。そうであっても、私は遺伝子的特性ではなく文化的特徴について言っているのだ、ということに留意すべきだ。
 示唆しているのは教育であって、「人種」(race)とは何ら関係がない。
 かくて私の観察では、同じ文化の中で育ったドイツ・ユダヤ人は、彼らの言うポーランド・ユダヤ人よりもアーリア同胞人に似ていた。
 ついで、あるnation の構成員は一定の態様で行動する傾向があると言っても、これはむろん、全員がそうだ、ということを意味しない。〈大概は〉(grosso modo)の叙述的記述であり、総じて(by and large)間違いでななく本当だ、という記述だ。
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 ドイツ軍兵士が1939年に占領したポーランドから家に送り、のちに出版された手紙の中で、強調していたのはポーランド人とユダヤ人の「不潔さ」(dirtiness)だった、というのは重要だ。
 彼らの文化には関心を抱かず、衛生状態にだけ関心をもったのだ。(脚注2)
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 (脚注2) ポーランドの小説家、Andrzei Szezypiorski は、この気質をこう説明する。「ユダヤ人はしらみだ。しらみは絶滅しなければならない。このような考えはドイツ兵の想像力に訴えた。ドイツ人は清潔で、衛生と秩序を好んだからだ」。〈Noe, Dzien i Noe〉(1995)、p.242.
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 彼らは不潔な調度品にそうしたように、不潔な人間や家族世帯にうろたえたのだ。 
 彼らはまた、ユーモアのセンスをほとんど持っていない(Mark Twain はドイツのユーモアについて、「笑えるものでない」と言った)。(脚注3)
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 (脚注3) だが、助けが進行している。2001年の末に、イギリスの新聞は、オーストリアのアルプス保養地のMieming はユーモアを教えるドイツ人用の特別課程を始めた、と伝えた。それには「笑いの訓練」も含まれている。〈The Week〉,2001.12.22, p.7. 〈Sunday Telegraph〉から引用した。
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 したがって、ドイツ人には、ユーモアを可能にする人間の嗜好に対する寛容さのようなものが足りない。
 彼らは機械工学者だ—おそらく世界一の—。だが、人間は、際限のない理解と忍耐を必要とする生きている有機体だ。機械とは違って、厄介で気まぐれだ。
 ゆえに、教条のために殺害せよと命じられれば、廃棄した物品に対する以上の憐憫を何ら感じることなく、殺害する。//
 (09) あるドイツのSS〔Schutzstaffel,ナツィス親衛隊〕将校について読んだことを思い出す。Treblinka で勤務していた彼は、ユダヤ人を乗せた列車が彼らをガスで殺すべく到着したとき、彼らをたんなる「荷物」だと見なした、と語っていた。
 呪文で縛られたこのような者たちは、建設労働者たちが空気ドリルで舗道を壊すのと同様に感情を持たないままで、無垢で守る術なき人々を機関銃で殺害することができる。
 人間のこのような非人間化は、高度の〈Pflicht〉、「義務」意識と結びついて、他のどこかでは発生しなかっただろうようなホロコーストを、ドイツで可能にした。
 ロシア人は、ドイツ人よりもさらに多くの人々を、殺害した。また、自分たちの仲間を殺した。しかし、ロシア人は、機械工学的な精確さなくして、そうした。髪の毛や金の填物を「収穫」したドイツ人の理性的な計算を持たないで、殺した。
 ロシア人は、自分たちの殺害行為を自慢することもしなかった。
 私はソヴィエトの残虐行為の(彼らが撮った)写真を見たことがない。
 ドイツ人は、禁止されていたけれども、自分たちで無数の写真を撮った。//
 (10) かつてMünchen で、一時期にCornell でのロシア語教師だったCharles Malamuth を訪れた。
 彼はドイツ軍に接収されていたと思しきアパートを借りていた。
 コーヒー・テーブルの上に、以前の所有者が忘れて置いていったアルバムがあった。ふつうの人々ならば幼児や家族の小旅行の写真を貼っているようなアルバムだ。
 このアルバムには、東部戦線でヒトラーのために働いた家族の主人かその子息が家に送った写真が中にあった。ほとんど貼り付けられた、とても異なる種類の写真だった。
 私が見た最初は、ドイツ軍兵士が年配のユダヤ人女性を彼女の髪の毛を掴んで処刑の場所まで引き摺っているところを、写したものだった。
 つぎの頁には、三枚の写真があった。一つめは、赤ん坊を腕に抱えて木の下に立っている女性たちのグループだった。二つめでは、同じグループの女性たちが裸に剥かれていた。三つめは、大量に血を流して横たわっている、彼女たちの死体だった。//
 ——
 第七章、終わり。第一部も、終わり。続行するか未定だが、第二部の表題は、<Harvard>。

2526/R・パイプスの自伝(2003年)⑰。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の第七章に移る。
 ——
 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う①。
 (01) 1945年春、ドイツは降伏した。また、我々とユダヤ人全てへの人的被害をもたらしたことが分かった。
 赤軍がポーランドに入り、そこからドイツに進行するにつれて、新聞は、解放された強制収容所や「絶滅」収容所に関する記事や写真を公にし始めた。人間は骸骨に近くなり、靴や眼鏡が殺害された犠牲者から奪われて山積みになっていた。火葬場で、ガスを吸わされた人々が灰になった。
 我々は、このような系統的で大規模な殺戮を予期していなかった。野蛮であったばかりか、ドイツはその戦争のためにユダヤ人を用いることができたから合理的でもなかったので、そんなことは不可能に思えた。
 連合国諸政府は、ドイツに占領されたヨーロッパで起きていることを知っていた。しかし、戦争は「世界のユダヤ」によって、彼らの利益のために行われているというヒトラーのプロパガンダ機構を助けるのを怖れて、沈黙を守る方を選んだ。
 私はロンドンにあったポーランド亡命政権の1942年12月10日付の冊子を持っている。それは「ドイツ占領ポーランドでのユダヤ人の大量虐殺」との表題で、連合諸国構成諸国に対して訴えたものだった。
 輸送された数十万のユダヤ人および同数の餓死しているか殺害されたユダヤ人に関する、正確で詳細な報告がなされていた。
 その情報は無視された。
 永久の汚名になるだろうが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちも、同族に対するジェノサイドについて、口を噤んだままだった。//
 (02) 1945年4月末、私はOlek からの手紙を受け取った。彼は戦争を生き延びたが、最初はワルシャワの、次いでウッチ(Łódź〉の「アーリア」側に隠れていた。
 そのあとすぐ、母親がポーランド・ユダヤの新聞の切り抜きを送ってくれた。それには、Wanda が自分の言葉で、Treblinka のガス室へと移送する家畜列車から飛び降りて、ドイツにあるポーランド人用強制収容所の労働者として終戦を迎えた、と書いていた。
 これらは奇跡だった。
 だが、我々の一族の他の者には、奇跡は乏しかった。
 母親の二人の兄は、何とか生き延びた。
 郵便による連絡が回復するや否や、彼らは、すでに知られていたようなホロコーストが母国で行われたと伝える手紙を、我々に送ってきた。
 私の伯父は二人とも学歴がなく、戦前に多くを成し遂げたというのでもなく、主として祖母の資産から生じる家賃で生活してきた。
 このことで、二人の手紙はいっそう強烈なものだった。
 母親の弟のSigismund は、戦前には女性を追いかける人生を送っていたが、こう書いてきた。
 「狂人になっているのではないかと思う。彼らが戻ってくるという想いだけが浮かぶ。
 母親と一緒にいた我々のArnold とMax、Esther そして(彼らの娘の)Niusia は1942年9月9日にファシストの凶漢によってゲットーから引き出されて、巨大な輸送車に積み込まれた。
 ドイツのやつらは最初は、定住地を変えるだけだと言った。しかし、分かったとおり、到着すると人々は生きたまま焼かれるかガスを吸わされたのだから、これは通常の殺害だった。
 数百万の人々が、ゲットー全体が、このようにして殺戮された。もっと残虐なこともあった。」
 Max は、こう書いた。
 「Sigismund と私は、Max(.Gabrielew)、(その妻)Esther とJasia がTreblinka へ移送されたことの証人だ。…
 我々みんなが愛して、深い悲しみが尽きないArnold は、いつものように、年老いて生きるのに疲れた我々の最愛の母親と一緒に、口元に微笑をたたえて、「死の列」に立っていた。 
 この73歳の女性も、勇敢に立っていた。…
 ああ、彼らを救う可能性はなかった。
 どんな人間の力も叡智も、(彼らの運命を)和らげる何事もできなかった。
 彼らに毒を渡すこともできなかった。」//
 (03) 既に語られてきていないホロコーストのことで、私に言えることはほとんどない。
 これは、ホロコーストに関して読んだり映画や写真を見て、意識的に萎縮してきたからですらある。
 私が読んだ虐殺の全ての事件や観た全ての映像は私の心に永遠に鮮明に刻み込まれ、悪魔的犯罪のおぞましい記憶想起物として今も漂っている、というのが私の理由だ。
 これには困ってきたが、私の精神の安定と生への前向きの姿勢を維持するために意識はしてきた。//
 (04) ホロコーストは、私の宗教的感情を動揺させなかった。
 知的にも情緒的にも、私は神の言葉をヨブ記が記録するように受け入れた。その第38章によると、我々人間には神の目的を理解することのできる能力がない。(脚注)
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 (脚注) そう受容することで、私は知らないうちにタルムード(Talmudic)の聖人たちの、人間の理解を超越した問題を考察するのを思いとどまらせる助言、「汝にはむつかしすぎる事柄を探し出すな、汝に隠されている事柄を詮索するな」、に従っていた。A. Cohen, Everyman's Talmud (1949), p.27.
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 多くのユダヤ人が、ホロコーストを理由として宗教的信条を失った。私の父親も、その一人だった。
 かりに何かあったとして、私の信条は強くなった。
 大量虐殺(同時期にソヴィエト同盟で起きていたものを含む)は、人々が神への信仰を放棄するとき、人間は神の心象によって造られていることを否定するとき、そして人間を魂の欠けた、ゆえに消耗し得る物資的対象にしてしまうときに、生じるものだ。//
 (05) 私の心理に対するホロコーストの主な影響は、私に認められてきた生きる毎日を楽しく感じさせたことだ。私は確実な死から救われたのだから。
 自己耽溺や自己肥大に費やすためにではなく、悪魔の思想がどのようにして悪魔的帰結を生じさせたかの歴史上の例を示したり使ったりして、道徳的教訓を広げるよう用いるために、私の生は残されたのだ、と感じたし、今日まで感じている。
 学者たちがホロコーストについて十分に書いてきたので、共産主義を例として用いて、その真実を明らかにすることが使命だ、と私は考えた。
 さらに、精一杯の幸福な人生を送るのが自分の義務だと、また、ヒトラーを許さないと、生がもたらす全てに満足していようと、陽気にしていて気難しくはしないと、私は感じたし、感じている。悲しみと不満は、嘘をつくことや残虐さに無関心であるのと同様に、冒涜の一形態だと私には思える。
 このような考え方は、私の個人的および職業的生活に影響を与えたのだが、私の若い時代の体験の結果だ。そうではなく、苦しい経験を免れた幸運な人々が人生や職業をより冷静に捉えるのは自然なことだ。
 その反面で、自由な人々の心理上の諸問題にはほとんど我慢できないことを、私は認める。とくに、彼らが「アイデンティティの探求」その他の自己探求の種々の形に耽溺しているならば。
 それらは、私に言わせれば、些細なことだ。
 ドイツの随筆家、Johanness Gross が人類は二つの類型に区別することができる、と書くのに、私は同意する。「問題をかかえる人々と、交際をする人々」。
 問題をかかえる者たちは彼ら自身に任せるのが、自己を維持するための重要な要素だ。(後注7) 
 (後注7) FAZ, Magazine,1981.09.11.
 ——
 ②へと、つづく。

2521/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題の最終回。
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 序説・ウクライナ問題④。
 (18) 工業化はロシア化への圧力も強めた。工場の建設はウクライナの諸都市に、ロシア帝国の至る所から外部者を送り込んだからだ。
 1917年までに、Kyiv の住民の5分の1だけがウクライナ語を話した。(19)
 炭鉱の発見と重工業の急速な発展は、とくにウクライナの東端地域にある鉱業と製造業の地域であるドンバス(Donbas)に劇的な影響を与えた。
 この地域の指導的な工業家はたいていはロシア人で、外国人が混じっていることは少なかった。
 ウェールズ人であるJohn Hughs は、元々は彼に敬意を表して「Yuzivka」と呼ばれ、今はDonetsk(ドネツク)として知られる都市の基礎を築いた。
 ロシア語はDonetsk の工場で使われる言語になった。
 ロシアとウクライナの労働者の間で抗争がしばしば発生し、ときには、「ナイフでの決闘という最も乱暴な形態」をとり、両者間の激闘となった。(20)//
 (19) Galicia にある帝国の境界付近の、オーストリア・ハンガリー帝国のウクライナ人とポーランド人の混住地域では、民族主義運動ははるかに小さかった。
 オーストリアはその帝国のウクライナ人に対して、ロシア帝国またはのちのソヴィエト連邦よりも、はるかに大きな自治を認めた。少なからず、ウクライナ人を(オーストリアの観点から)ポーランド人に対する有用な競争相手と見なしたからだった。
 1868年に、Liviv(リヴィウ)の愛国主義ウクライナ人が文化的社会団体のProsvita を設立し、これはやがてウクライナじゅうに多数の会員をもつに至った。
 1899年から、ウクライナ国民民主党(National Democratic P.)がGalicia でも自由に活動し、選出した代表者をウィーンの議会へと送った。
 今日まで、ウクライナの自立的社会団体(self-help society)の従前の本部は、Liviv にある最も印象的な19世紀の建築物の一つだ。
 この建物は、ウクライナ民族様式の装飾を〈Jugendstil〉(若者様式)の外観へと融合した壮麗なものだ。そして、ウィーンとガリツィア(Galicia)の完璧な合成物になっている。//
 (20) しかし、ロシア帝国内部ですら、1917年の革命前の数年間は、多くの点でウクライナにとって前向きだった。
 ウクライナの農民層は熱心に、20世紀の初めの帝国ロシアの近代化に参加した。
 彼らは、第一次大戦の直前に急速に、政治的意識に目覚め、帝国に懐疑的になった。
 農民反乱の波が、1902年にはウクライナとロシアの両方にまたがって勃発した。
 農民たちは、1905年革命でも大きな役割を果たした。
 それに続く騒乱は社会的不安の連鎖を生み、皇帝ニコライ二世を動揺させ、ウクライナにある程度の市民的、政治的権利をもたらした。その中には、公的生活の分野でウクライナ語を用いる権利もあった。(21)
 (21) ロシア、オーストリア・ハンガリーの両帝国が予期されないかたちで、それぞれ1917年と1918年に崩壊したとき、多くのウクライナ人は、ついに国家を設立することができる、と考えた。
 ハプスブルク家が支配していた領域では、この望みはすみやかに消失した。
 期間は短いが血まみれのポーランドとウクライナの軍事衝突は、1万5000のウクライナ人と1万のポーランド人の生命を奪った。そのあとで、最も重要な都市であるLiviv などの西部ウクライナの多民族地域は、近代のポーランドへと統合された。
 その状態は、1919年から1939年まで続いた。//
 (22) ペテルブルクでの1917年二月革命の後の状況は、もっと複雑だった。
 ロシア帝国の解体によって、権力は短い間、Kyiv のウクライナ民族運動の手に渡った。
 しかし、指導者の中には、民間人であれ軍人であれ誰一人、この国の権力について責任を担う心準備をしている者がいなかった。
 政治家たちが1919年にVersailles(ヴェルサイユ)に集まって新しい諸国家の境界線を引いたとき—その中には近代のポーランド、オーストリア、チェコ・スロヴァキアがあった—、ウクライナは国家に含まれないことになる。
 だがなおも、そのときは完全には失われていなかっただろう。
 Richard Pipes(リチャード・パイプス)が書いたように、1918年1月26日の独立宣言は「ウクライナでの国家形成の〈dénouement〉(結果)を示すものではなく、本当の始まりだった」。(22)
 独立した数ヶ月間の騒然状態と民族的一体性に関する活発な議論は、ウクライナを永久に変えることになっただろう。//
 ——
 序説・ウクライナ問題、終わり。

2514/R・パイプスの自伝(2003年)⑯。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊②。
 (13) 1944年6月の初めに、ASTP の正規の「卒業式」があった。私は、ロシア語で、答辞の挨拶を述べた。
 我々は任務を課されるべく、士官候補生学校へ送られることになっていた。
 しかし、そうはならなかった。
 6月6日に連合軍はフランスに上陸し、軍は補充を必要としていた。
 我々は予定どおりに士官候補生学校へ行くのではなく、基礎訓練のために多数の歩兵部隊に配属されることになる、と知った。
 私は、Virginia 州のPickett 軍営地にいる第78分団または「稲妻」兵団の第310歩兵連隊に配属された。この軍営地は、Richmond 近くにある巨大な軍用地だった。
 その日は、我々二人が離れた、悲しい日だった。//
 (14) 私は思うのだが、アメリカ軍は人員方針について大きな過ちをしていた。軍服の兵士を、機械の一部のような交換できる存在物だと扱うことによってだ。
 男たちは、国のためにではなく、同志のために、25人かそこらの兵士で成る小隊(platoon)のような一団(unit)のために戦う。
 部隊(corps)の気概は、勝利する全ての戦力の基本的に重要な要素だ。
 第78分団の兵士は全員が、フランス侵攻を準備する部隊の補充兵として、三ヶ月前にイギリスに送られていた。将校と下士官はそこにとどまったけれども。
 私が属した分団は、言ってみれば、骨が抜かれていた。協力し合うチームではなく、多数の個人の集まりだった。これは、悪い前兆だった。//
 (15) つぎの八週間、我々は過酷な基礎訓練を受けた。フロリダの空軍で受けたのとは全く違っていた。
 Virginia の夏の気温は、しばしば華氏90度を超えた。
 我々はこの暑さの中で、全力で演習をしなければならなかった。
 私は、ブラウニング式自動小銃を運ぶ任務を割り当てられた。可動式のその銃はほとんど20ポンドの重さがあった。
 夜間の野営の間、我々はツツガムシ(chigger)に攻められた。皮膚に食い込み、ひどい炎症を引き起こす小さい不快な虫だ。火の点いたタバコをその後部にあてて排除しなければならなかった。
 我々の仲間の兵団は、混ぜこぜのクジの上にあった。—最も幸運ではないが、最善はヨーロッパに送られていることだった。//
 (16) ポーランドのROTC 軍営地での不幸な体験の5年後に小銃を引きつずって運んでいることを思うと、きわめて苦々しく感じた。
 私は日記に、不満を綴った。自分は「ラバのように働き、犬のように服従し、豚のように生きている、監獄の中の動物だ」。
 自分の言語上の技能、とくに敵国の言語である、ドイツ語とイタリア語のそれ、を使って、もっと戦争に貢献できる、と思っていた。そして、市民生活ではHarvard Law School に関係していた上品な大佐である、分団の情報部長に接触した。
 彼は私をG-2の一員にするという関心を示した。
 しかし、数日後に再び会って私の移動について尋ねると、私はもうすぐ出発することになっていると知った、と彼は言った。//
 (17) 実際に、数日後、海外輸送用の武器の包み方を仲間の代表が指示される会合に出席していたあいだに—1944年8月末のことだった—、私は呼び出され、Utah 州のKearns Field にある空軍基地に移動することが告げられた。
 私が属していた分団は、私を置き去りにして、ヨーロッパへと向かった。
 その分団は、Bulge の戦いで、些少の役割を果たした。//
 (18) Utah で、Cornell の学生たちは、別の二つの大学でロシア語の訓練を受けた者たちと出会った。そして10月に、我々はMaryland 州のRitchie キャンプへと移った。
 そのキャンプは、情報(intelligence)学校に転換されたカントリー・クラブの会館だった。
 二ヶ月ごとに新しいグループが、情報活動訓練の集中課程のために到着していた。そのあとで、修了生は任務を受け、前線へと出発した。
 我々の運命は、いくぶんか異なっていた。
 我々は特殊な任務のためのグループだったので、私はその任務の性質を戦争後に初めて知った。//
 (19) 1943年11月のテヘランでの首脳会談以来、アメリカとソ連の軍部は、ソヴィエト領域内に共用空軍基地を建設することを議論していた。
 ワシントンの主要な関心は、日本に対するための施設だった。だが、ヨーロッパは、東ヨーロッパでドイツと戦うソヴィエトの空軍施設を利用することも要求した。東ヨーロッパは、イギリスやイタリアの基地から爆撃することができなかった。
 「往復(shuttle)爆撃」という考えが現れた。すなわち、アメリカ空軍は東ヨーロッパの上を飛び、工業施設や油田地帯に爆弾を落とし、ソヴィエト領域内に着陸し、燃料補給と再装備をし、基地に帰還して、同じ任務を繰り返す。
 ロシアはこの提案に気乗りうすだったが、1944年の春、まさに我々がCornell での課程を終えようとしていた頃、ウクライナの三基地をアメリカ空軍が利用できるようにした。主要な基地はPoltava にあり、Mirgorod とPiriatin に小さな基地があった。
 この計画には、Frantic というコード・ネームが付けられた。
 1944年6月2日、アメリカ軍の爆撃機がこれらの基地から、初めてドイツの上空を飛行した。
 ドイツは東方からのこの空襲に驚き、6月22日に、200の爆撃機でPoltava 基地を集中攻撃した。Poltava 基地はほとんど廃墟となった。43のB-17爆撃機が破壊されるか、修理不可能な損傷を受けた。
 それにもかかわらず、アメリカ空軍は7月に攻撃を再開した。全部で、2000機以上によって、ソヴィエトの基地からの攻撃が行われた。
 効果は少なく、ソヴィエトとの軋轢がつねにあった。
 夏の終わりに、ロシアはウクライナの三空軍基地の閉鎖を命じた。
 しかしながら、いわゆる東方作戦は、1945年6月まで、引き続き敢行された。(*後注6)
 (*後注6) Richard C. Lucas, Eagles East (1970) で、語られている。
 (20) 我々ロシア・グループは、ウクライナの往復基地に通訳者として派遣されることになっていた。しかし、作戦が終わるにつれて、その任務も消失した。
 そうしてRitchie での課程を終えて、イリノイ州のScott Field へと移された。  
 表向きにはラジオ作戦の訓練のためだったが、実際には、将来にロシア語の話し手を必要とする事態に備えての予備軍として囲われた。
 退屈な生活だった。モールス符号やラジオの細かな機構の勉強は、楽しいものではなかった。
 (21) そこにいたことで、重要な精神的効果が副産物として生じた。
 一人前の歴史家になろうと決心したのは、そのときだった。
 私はつねに歴史に惹き付けられてきた。一つには過去は想像力を掻き立てるからであり、また一つには、歴史の射程範囲には限界がないからだった。
 だが、職業として歴史学を選択したのは、まさにその頃だった。//
 (22) Scott Field はミズーリ州のセントルイスの近くに位置していた。そのセントルイスで私は、ほとんどの週末を演奏会、公共図書館、あるいは古書店探しをして過ごした。
 ある日、たまたまFrançois Guizot の〈欧州文明の歴史〉に出会った、それは著名な文筆家の子息であるWilliam Hazlitt が翻訳したものだった。
 その書物—Guizot が1928年にソルボンヌで行った一連の講義録—は、かつて読んだどの歴史書とも違っていた。
 明々白々なものは何もないのだから、探求心はかつて発生した事実上全てのことについて、関心を寄せることができる。動機や影響について、そしてじつに、事態の推移それ自体について、つねに疑問がある。
 かくして、中世のハンガリーの穀物価格の歴史に、教皇Innocent 三世の生涯と仕事に、Zerbst 施設があった公国の政策に、これらは知的な変化を示しているというだけの理由で、人々は関心を集中させることになる。
 しかし、このような論点には、幅広い意義がない。これらは、チェス遊戯にも似た、問題解決の練習だ。
 同じことは、諸国や事件に関する標準的で一般的な歴史書について言える。
 それらは何が起きたかを、おそらくはその理由も、語る。しかし、そのような知識が何らかの意味で重要であることの理由を示しはしない。//
 (23) Guizot が書いた、そして私がそれ以来ずっとモデルにしてきた歴史書には、過去と我々自身との間の連結があった。それは哲学的歴史書であり、我々自身に関して教えてくれる叡智だ。—我々はどこから来て、なぜ今のように考えているのか。
 最初の頁から、Guizot は歴史への哲学的アプローチを明らかにしている。
 「いずれかの過去について、歴史を事実を語ることに制限する必要があるとしばしば主張されてきた。それが最も公正だと。しかし、語るべきはるかに多くの事実があること、事実それ自体はその性格について人々が先ず与えられたと思うものよりもはるかに多様であることに、我々は絶えず留意しなければならない。…
 我々が哲学を引き合いに出すことに慣れている歴史の割合、事件相互の関係、それらを結びつける連関、それらの原因と効果—これらは全て事実であり、全てが歴史だ。戦闘に関する話やその他の重要で可視的な事件と全く同じように。…
 文明は、こうした事実の一つだ。…
 私はただちに、歴史は全てのもののうち最大のものだ、歴史は全てを包含する、と付け加えよう。」//
 この序論的導入部に続く14の章は、時代と国々を、制度と宗教を見事に概観し、全てを洗練された上品な文体で表現していた。
 この書物は、私を完璧に捉えた。
 私が興味をもってきたものは—とくに哲学と芸術—、全てが歴史という学問分野の広大な屋根のもとに収容することができる、ということを、この書は示してくれた。//
 (24) 私の軍歴の残りは、拍子抜けしたものだった。
 Scott Field からCornell での夏の再教育課程に戻り、そしてRitchie に帰った、そこで私は、夜間の電話交換者の仕事を割り当てられた。
 1945年の後半〔著者は22歳—試訳者〕、我々はCalifornia に送られた。コリアで通訳者に配属される準備だった。
 しかし、日本が降伏して戦争は終わったので、家に帰りたくなった。
 我々の部隊には、FAH という不思議な名があった。
 たぶん我々を担当している軍事省の将校のイニシャルで成っている、と私は思いついた。
 正規の軍将校名簿を調べてみると、実際に、このイニシャルに一致する、Frank A. Hartmann という大佐を発見した。
 我々はペンタゴンにいる彼に電話する機会をもち、3-4年間も軍役に就いてきたので、除隊されるに値する、と知らせた。
 数日後に、東部の我々に命令書が届いた。
 もう待てなかった。民間人としての生活を取り戻し、自分の勉強を再開したかった。
 1946年3月、Maryland 州、Fort Meade で、私は除隊された。//
 ——
 第六章②、終わり。次章・第一部第七章の表題は、<母国をホロコーストが襲う>。

2513/R・パイプスの自伝(2003年)⑮。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊①。
 (01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
 一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
 それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
 (02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
 私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
 生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
 ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
 母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
 彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
 1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
 しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
 (03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
 ソ連に対する関心が高まってきた。
 1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
 私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
 ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
 (04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
 だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
 徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
 (05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
 のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
 Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
 列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
 空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
 私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
 訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
 (06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
 (07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
 私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
 帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
 私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
 彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
 ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
 その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
 料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
 彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
 私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
 (08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
 私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
 いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
 1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
 (09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
 物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
 ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
 教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
 この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
 ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
 言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
 しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
 第二は、Joshua Kunitz だった。
 彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
 全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
 しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
 二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
 (10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
 ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
 私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
 また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
 そして、デートをした。//
 (11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
 ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
 我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
 彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
 当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
 彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
 私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
 我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
 どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
 我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
 (12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
 注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
 二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
 二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
 彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
 そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
 彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
 二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
 我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
 ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
 両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
 ——
 ②へと、つづく。

2512/R・パイプスの自伝(2003年)⑭。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。p.44-p.47。
 ——
 第五章・大学②。
 (10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
 男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
 三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
 私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
 満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
 ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
 将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
 要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
 1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
 (11) 二年次の春に、恋に落ちた。
 その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
 だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
 その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
 その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
 (12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
 何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
 アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
 のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
 私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
 このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
 男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
 とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
 だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
 (13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
 私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
 親愛さは、友人のために留保されていた。
 アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
 New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
 彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
 私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
 だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
 今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
 しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
 のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
 しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
 (14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
 Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
 水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
 私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
 大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
 第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
 (15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
 若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
 私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
 ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
 彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
 ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
 「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
 彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
 (16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
 1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
 彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
 その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
 「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
 Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
 しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
 このような文章に、私は激励を感じた。//
 (17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
 だが、これらの収入では十分でなかった。
 父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
 Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
 しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
 誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
 そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
 それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
 同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
 夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
 私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
 その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
 それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
 学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
 (18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
 落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
 ——
 第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。
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