Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
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第20章・判決(Judgement)。
第二節②。
(08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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(09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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(10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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(11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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(12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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(13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
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(14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
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第二節、終わり。第20章も、終わり。
第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
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第20章・判決(Judgement)。
第二節②。
(08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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(09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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(10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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(11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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(12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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(13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
----
(14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
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第二節、終わり。第20章も、終わり。