秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

NEP

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
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 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2614/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.173〜。
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 第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
 
 第一節。
 (01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
 1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
 しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
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 (02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
 彼は、1924年1月24日に死亡した。
 レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
 スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
 1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
 スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
 第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
 レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
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 (03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
 私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
 検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
 党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
 チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
 Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
 その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
 彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
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 第二節へとつづく。

2573/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
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 第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)
 (01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
 部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
 レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
 Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
 ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
 Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
 暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
 別のボルシェヴィキは、こう説明した。
 「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
 全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
 Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
 その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
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 (02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
 チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
 チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
 とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
 Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
 「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
 男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
 蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
 蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70) 
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 (03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
 Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
 「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
 2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
 武器を提出しない村民は、射殺される。
 3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
 4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
 その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
 家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
 7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
 この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
 このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
 のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
 多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。 
 Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74) 
 とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
 レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
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 (04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
 彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
 「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
 さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
 おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
 村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
 おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
 森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
 全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
 10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
 彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
 やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
 民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
 翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
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 (05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
 終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
 農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
 しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
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 (06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
 赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
 赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
 そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
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 後注
 (64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
 (65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
 (66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
 (67) TP, II, p.480-1.
 (68) Ibid., II, p.532-4.
 (69) TP, II, p.480-1.
 (70) Ibid., II, p.532-4.
 (71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
 (72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
 (73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
 (74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
 (75) Ibid., II, p.562-3.
 (76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
 (77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
 (78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
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 第8章・第五節、終わり。
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 第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
 第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
 ⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
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 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
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 第四節②へと、つづく。

2569/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場②。
 (08) Antonov は、1920年9月に再び現われて、Tambov 市奪取に失敗して意気をなくしていた農民たちを率いた。
 有能な組織者である彼は、集団農場や鉄道連結点への電撃攻撃を行なうパルチザン部隊を結成した。
 当局はこの戦術に対処することができなかった。攻撃が最も予期し難い場所で行われたがゆえだけではなく(Antonov たちはときどき赤軍の制服を着用した)、そのような作戦活動のあとゲリラたちは家に帰り、農民大衆の中に溶け込んだからだった。
 Antonov 支持者集団は、正式の綱領を持たなかった。彼らの目的は、かつて大地主にそうしたように、共産主義者を農村地帯から「燻り出す」ことだった。
 この時期の全ての反対運動でのように、あちこちで、反ユダヤ主義スローガンが聞かれた。
 この当時のTambov のエスエルは、労働農民同盟を設立したが、これは、全ての市民の政治的平等、個人的経済的自由、産業の非国有化を訴えた。
 しかし、この基礎的主張が、現実には二つのことだけを望んだ農民たちに何らかの意味を持ったかは、疑わしい。二つとはすなわち、食料徴発の廃止と余剰を処分する自由。
 基礎的主張は、公式のイデオロギーなしで行動することを想定できなかったエスエル知識人が書いたものだった。「言葉は行為の後知恵だ」。(注38)
 そうであっても、この同盟は、農民たちのために募った村落委員会を結成して、反乱を助けた。//
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 (09) 1920年の末までに、Antonov には8000人の支持者があり、そのほとんどが活動に参加した。
 1921年早くに、彼は、徴兵を行なうまでになった。これによって、彼の勢力は2万人と5万人の間のどこかにまで増えた。—数について、論争がある。 
 より少なく見積もっても、その規模は、ロシアの歴史上の著名な農民反乱であるRazin やPugachev が集めた勢力に匹敵するものだった。
 彼の軍団は、赤軍にならって、18ないし20の「連隊」に分けられた。(注39)
 Antonov は、優れた諜報組織と通信網を組織し、政治委員を戦闘部隊に配置し、厳格な紀律を導入した。
 直接の遭遇を避けて、短時間の急襲を好んだ。
 彼の反乱の中心は、Tambov 地方の南東部にあった。だが、似たような蜂起を発生させることなく、Veronezh、Saratov、Penza といった隣接する地方へも進出した。(注40)
 Antonov は、没収穀物を中央に運ぶ鉄道線を遮断した。その穀物を彼は必要とせず、農民たちに配分した。(注41)
 支配下の領域では、共産党諸組織を廃止し、しばしば残虐な拷問の後で共産党員たちを殺害した。犠牲者の数は、1000を超えたと言われている。
 彼は、このような手段を用いて、Tambov 地方の大半から共産党当局の痕跡を消滅させることができた。
 しかしながら、彼の野望はもっと壮大だった。彼はロシア人民に対して、自分に加わって、圧政者から国を解放するためにモスクワへと行進しようとの訴えを発した。(注42)//
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 (10) モスクワの最初の反応(1920年8月)は、その地方に戒厳令を布くことだった。
 政府は、公式の声明で、 反乱をエスエル党の命令に従って行動している「蛮族」と表現した。
 政府は、もっと知っていた。共産党の官僚たちは、内部通信を通じて、蜂起は元来は自然発生的なもので、食料徴発部隊への抵抗として激しくなった、と認めていた。
 多くの地方エスエルは支援を提供したけれども、党の中央機関は反乱との何らかの関係を全て否定した。すなわち、エスエルの組織局は「蛮族のような運動」と表現し、党の中央委員会は、反乱と関係をもつことを党員たちに禁止した。(注43)
 しかしながら、チェカは、明らかになっている全てのエスエル活動家を逮捕する口実として、Tambov 蜂起を利用した。//
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 (11) 常備軍では対抗できないことが明らかになったとき、モスクワは1921年2月遅くに、全権使節団を率いるAntonov-Ovseenko をTambov へ派遣した。 
 Antonov-Ovseenko は大きな裁量を与えられるとともに、レーニンに直接に報告するよう指示されていた。
 しかし、彼の指揮下にある、ほとんどが農民から徴用された多数の赤軍兵士たちは、反乱者たちに同情していたことが大きな理由となって、彼は十分には成功しなかった。
 明らかになったのは、騒擾を鎮静化する唯一の方策は、反乱を支持する一般農民を攻撃して反乱と切り離すこと、そのためには無制約のテロル、つまり強制収容所送り、人質の処刑、大量追放、を行使することが必要であること、だった。
 Antonov-Ovseenko は、このような手段を用いることについてモスクワの承認を求め、そして承認された。(注44)
 ——
 後注
 (38) Radkey, Unknown Civil War, p.75.
 (39) IA, No. 4 (1962), p.203.
 (40) Saratov について、Figes, Peasant Russia, Chap. 7 を見よ。
 (41) TP, II, p.424-5.
 (42) Rodina, No.10 (1990), p.25.
 (43) Marc Jansen, Show Trial under Lenin (1982), p.15; TP, II, p.498, p.554; Frenkin, Tragediia, p.128-9, p.132-3; Singleton in SR, No. 3 (1966.9), p.501.
 (44) TP, II, p.510-3.
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 第三節、終わり。第四節へと、つづく。

2568/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場①。
 (01) 共産主義は農村の住民たちに、矛盾する態様で影響を与えた。(注29)
 私的土地のある共同体への配分は、割り当てを拡大し、「中間」農民を増やして貧農も富農もその数を減らした。このことは、農民共同村落(muzhik)の平等主義的心情を満足させた。
 しかしながら、農民は、獲得したものの多くを急速度のインフレで失い、蓄えも奪われた。
 農民は食料「余剰」の容赦なき徴発も受け、多数の労働上の負担に耐えることを強いられた。その中では、木を切って材木を荷車で運ぶ義務が最も重たかった。
 ボルシェヴィキは、内戦中に、消極的であれ積極的であれ食料徴発に抵抗した村落に対して、周期的に戦闘行為をしかけた。//
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 (02) ボルシェヴィズムは、文化的には、村落への影響をもたなかった。
 厳しさが政府の証明だと思っていた農民たちは、共産党当局に敬意を払い、それに順応した。彼らは、数世紀もの隷属状態によって、主人の宥め方と、同時に出し抜き方とを、学んでいた。
 Angelica Balabanoff は、驚きをもってこう記した。
 「農民たちは何とす早くボルシェヴィキの言葉遣いを身に付け、新しい語句を作り、何と適切に新しい法律の多数の条項を理解したことか。
 彼らは、これまでずっとその法律とともに生活してきたように見えた。」(注30)
 農民たちは、彼らの祖先がタタール人にしたごとく、外国の侵略者に対してしただろうように、新しい権威に適合した。
 しかしながら、ボルシェヴィキ革命の意味、ボルシェヴィキが呼号したスローガンは、彼らにとっては、解く価値のないミステリーだった。
 1920年代の共産党学者の調査によれば、革命後の村落は自らを維持し、他者からは閉ざして、それまでそうだったように、自分たちの不文の規則に従って生活していた。
 共産党の存在は、ほとんど感じられなかった。農村地帯で設立されるような党の細胞は、原理的に見て、都市部からの人員で補佐されていた。
 モスクワが1921年初頭にタンボフ(Tambov)地方の反乱を鎮圧させるために派遣したAntonov-Ovseenko は、レーニンへの秘密報告で、こう書き送った。
  農民たちは、ソヴィエト当局を「人民委員部または使節団」からの飛来する訪問者や食料徴発部隊でもって感知した。彼らは、「ソヴィエト政府は異質で、命令を発するだけで、強い意欲はあるが経済的感覚がほとんどない、と見るようになった」。(注31)//
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 (03) 識字能力のある農民たちは共産党の出版物を無視し、宗教文献や現実逃避的小説の方を好んだ。(注32)
 外部の事件についてのごく僅かの反響音だけが村落まで届き、届いたそれは捻れていて、誤解された。
 農村共同体(muzhiks)は、誰がロシアを統治しているかについて、ほとんど関心を示さなかった。1919年までに、観察者は旧体制への郷愁がある兆候に気づいていたけれども。(注33)
 したがって、共産党に対する農民反乱が消極的な目標をもった、というのは驚きではない。「叛乱は、モスクワまで行進するのではなく、共産党の影響を遮断することを目ざした」。(*)
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  (脚注*) Orlando Figes, Peasant Russia, Civil War (1989), p.322-3.
 例外は、タンボフ農民反乱の指導者、Antonov だった(後述参照)。 
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 (04) 農村の騒擾は1918年と1919年はずっと発生し、モスクワは、動員できる主要な軍隊で介入せざるを得なかった。
 内戦が激しさの高みにあるとき、広大な農村地帯は、緑軍団が統制していた。これは、反共産主義者、反ユダヤ主義者、反白軍感情の者たちと通常の山賊たちとの混成軍団だった。
 1920年に、これらの燻っている炎は、大爆発を起こした。//
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 (05) 反共産主義の反乱のうち最も暴力的なものが、タンボフ(Tambov)で勃発した。Tambov は工業がほとんどない比較的に肥沃な農業地方で、モスクワから南西に350キロメートル離れていた。(注34)
 ボルシェヴィキ・クーより前、この地方は毎年6000万puds (100万トン)の穀物を生産していた。この数字は、外国へ船で輸出される穀物の三分の一に近かった。
 1918-1920年に、Tambov は、強制的食料取立ての鉾先となったのを経験した。
 以下は、Antonov-Ovseenko がこの地方での「蛮族」の発生の背後にあった原因を叙述したものだ。
 「1920-21年の食料徴発の割り当て量は、前年の半分に減じられていたけれども、全体として多すぎるのが分かった。
 広大な播種されていない領域があり収穫がきわめて少なかったことで、この地方の相当の部分で、農民たち自身が食って生きるに十分なパンが不足した。
 Guberniia 供給委員会の専門家委員会のデータによれば、一人当たり4.2 puds の穀物しかなかった(播種の控除後には飼料用の控除がなかった)。
 1909-1913年の間、消費量の平均は…17.9 puds で、加えて飼料用の7.4 puds があった。
 言い換えると、Tambov 地方では、前年の地方収穫高は必要量のほとんど四分の一だった。
 予定では、この地方は、穀物1100万puds とジャガイモ1100万puds を供出しなければならなかった。
 農民たちがこの査定量の供出を100パーセント達成していたならば、彼らに残されたのは、一人当たり穀物1 puds とジャガイモ1.6 puds だっただろう。
 そうではあったが、査定量はほとんど50パーセント達成された。
 すでに(1921年)1月に、農民たちは飢餓状態に入っていた。」(注35) //
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 (06) 1920年8月にTambov 市近傍の村落で反乱が自然発生的に勃発した。その村落は食料徴発部隊に穀物を渡すのを拒み、部隊の数名を殺害した。また、増援部隊を撃退した。(注36)
 制裁のための派遣軍を予期して、その村落は、手にしていたもので武装した。何丁かの銃砲はあったが、主としては三叉鋤と棍棒だった。
 近くの諸村落も、加わった。
 反乱者たちは、あとに続いた赤軍との遭遇以降、勝利者として出現した。
 農民たちは、勝利に勇気づけられて、Tambov 地方で行進した。この地方の首都に接近するにつれて、農民大衆の数は膨れ上がった。
 ボルシェヴィキは増援部隊を送り、9月に反攻に出た。反乱側の村落を燃やし、捕えたパルチザンを処刑した。
 Alexander Antonov というカリスマ性をもつ人物が出現していなければ、暴乱はそのときに、そこで終わっていたかもしれなかった。//
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 (07) Antonov は、社会主義革命党〔エスエル〕の党員で、伝統工芸職人または同党が財源を補充すべく組織した強盗団(「収用部隊」)に1905-07年に参加していた金属労働者のいずれかの息子だった。
 彼は、逮捕され、有罪となり、シベリアでの重労働の判決を受けた。(注37)
 1917年に故郷に戻り、左翼エスエルに入党した。
 やがて彼はボルシェヴィキに協力したが、ボルシェヴィキの農業政策に抗議して、1918年夏に彼らと決裂した。
 その後の二年間、ボルシェヴィキ活動家に対するテロ行為を展開した。それが理由となって、欠席裁判で死刑判決を受けた。
 だが、うまく当局をかい潜り、民衆的英雄となった。
 彼は、小さな支持者集団とともに自分で行動した。党との関係はもう維持しなかったけれども、エスエルのスローガンを掲げて。//
 ——
 後注
 (29) RR, 第16章。
 (30) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p55-56.
 (31) TP, II, p.484-7. 〔TP=Trotzky Papers, 1917-1922 (1964-71).〕
 (32) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.86, p.96-98.
 (33) A. Okninskii, Dva goda sredi krest'ian (1936), p.290-2.
 (34) Radkey, Unknown Civil War, あちこちで。;Mikhail Frenkin, Tragediia krest'ianskikh vosstanii v Rossi, 1918-1921 gg. (1988) , Chap. V; Orlando Figes, Peasant Russia Civil War (1989), Chap. 7. 共産党の見方については、Trifonov, Klassy, 1, p.245-9 を見よ.
 軍事公文書庫からの新しい史料が近年に、P. A. Aptekar で出版された。Voennoistoricheskii zhurnal No. 1 (1993), p.50-55, No. 2 (1993), p.66-70. 私の注目は、Robert E. Tarleton 氏によるこの情報に引かれる。
 (35) TP, II, p.492-5.
 (36) Iurii Podbelskii, in RevR, No. 6, (1921.4), p. 23-24.
 (37) Radkey, Unknown Civil War, p.48-58.
 ——
 第三節②へと、つづく。

2567/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第二節・1920-21年の農民大反乱。
 (01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
 この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
 これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
 そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
 戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
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 (02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
 1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
 住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
 その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
 非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
 労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
 ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
 共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
 当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
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 脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
 これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
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 (03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
 そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
 政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
 農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
 1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
 それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
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 (04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
 ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
 共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
 内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
 「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
 内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
 だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
 共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
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 (05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
 このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
 内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
 この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
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 (16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
 その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
 共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
 実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
 レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)  
 共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
 戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
 近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
 反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
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 (17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
 帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
 しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
 かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
 ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
 白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
 しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
 1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
 トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
 しかし、事実は、否定できなかった。
 1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
 レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
 そして、その海は、激しく荒れていた。//
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 (18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
 しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
 一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
 あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
 もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
 同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
 農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
 労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
 そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
 これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
 ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
 「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
 これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
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 後注
 (08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
 (09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕 
 (10) Ibid., p.673.
 (11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
 (12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
 (13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
 (14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
 (15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
 (16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
 (17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
 (18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
 (19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
 (20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
 (21) RR, p.558-565.
 (22) Desiatyi S"ezd, p.347.
 (23) Ibid., p.350.
 (24) 上述、p.113.
 (25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
 (26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
 (27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
 (28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
 ——
 第二節、終わり

2566/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第一節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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 この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
 以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
 第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
 以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
 ——
 第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
 第一節・テルミドールではないネップ。
 (01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
 マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
 それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
 経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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 (02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
 1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
 彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
 1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
 レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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 (03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
 トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
 実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
 モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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 (04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
 共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
 レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
 しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
 彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
 計画どおりに進んだものは、何もなかった。
 レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
 経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
 「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
 これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
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 後注。
 (02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
 (03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
 (04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
 (05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
 (06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
 (07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
 ——
 第一節、終わり

2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第六節
 (01) NEP に関する議論は、時間の問題へと帰着した。
 ソヴィエト同盟が NEP が許容している機構を通じて工業化するのに、どのくらい長くかかるのだろうか? NEP が許容するのは、農場への課税と市場販売による資本蓄積、工業のための価格固定、新しい機械類の輸入支払いのための穀物の輸出だ。
 資本主義諸国家との戦争の勃発前にソヴィエト同盟が必要とする防衛産業を確立するのは、間に合うのだろうか?//
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 (02) 時間の問題は、体制の農民層との関係にかかるより広範な論点に関係していた。
 市場機構がいったん破綻し、穀物不足が発生したなら、とくに戦争の危険があるときにこれが起きたなら、どうなるのだろうか?
 農民たちはもっと多く納税しなければならなくなり、工業への投資はもっと減るのだろうか?
 あるいは、食料徴発が復活し、農民層との同盟関係は危うくなるのだろうか?//
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 (03) ブハーリンは、党の主要な支援者として、調達価格を高めることに賛成した。たとえ、工業化が農民の荷車の速さで進むことになるとしても。
 彼は、1926年の状況を判断したうえで、工業は何とか戦前の水準を再達成することができる、そしてNEP のもとで順調に推移するだろう、と主張した。
 彼は、ソヴィエト連邦は外国の脅威にも国内の脅威にも直面していない、と確信していた(前者につき、外国貿易は資本主義諸国との関係を落ち着かせている、後者につき、「クラク」や「私的利得者」は協同組合の急成長によって阻まれている)。//
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 (04) 1927年に、ボルシェヴィキの意見をNEP に反対にさせる二つの事件が起きた。
 第一は、都市部への穀物供給が再び途絶えたことだった。
 収穫不足が、消費用品不足と同時に起きた。そして、工業製品の価格が上がるにつれて農民たちは穀物売却を減らした。
 その秋の国家による農民からの調達量は、前年の半分になった。
 第二の事件は、戦争勃発の危惧だった。
 プレスが、イギリスがソヴィエト同盟に対する「帝国主義戦争」をしかけようとしている、という虚偽の風聞を報道した。
 スターリンは、この報告を、統合反対派を攻撃するために利用し、その指導者のトロツキーとジノヴィエフを、深刻な危機にあるソヴィエト国家の団結を破壊しているとして非難した。
 これら二つの問題—「クラク」の穀物ストライキと資本主義国家との戦争の脅威—は、スターリンの見方の中では結びついていた。//
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 (05) トロツキーとジノヴィエフは、調達価格を上げることに反対した。
 この二人は、消費用品生産の増加のために必要な食糧備蓄を確保するために、食料徴発を一時的に復活させることに賛成した。
 そのことは、農民たちの穀物を売却する動機をより大きくするだろう。
 この点で、スターリンは、ブハーリンの側に立ち、トロツキーとジノヴィエフに対抗した。後者の二人は、1927年12月の第15回党大会で敗北した。
 しかし、スターリンはそのあとで、ブハーリンとNEP への反対に転じた。
 彼のマキアヴェリスト的戦術は、権力の追求に際してのイデオロギーの完全な無視を示している。//
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 (06) 内戦時の乱暴な言葉遣いに戻って、スターリンは、五ヶ年計画でソヴィエト同盟を工業化すべく、穀物を求める新しい闘いを呼びかけた。
 戦争の危惧を彼は利用し、そのことで、NEP の放棄を推進することができた。NEP は工業の軍事化の手段としてはあまりに遅すぎ、戦争事態の際の食料確保手段としてはあまりに不確実だ、という理由を付けて、だった。//
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 (07) スターリンの五ヶ年計画は、革命は外国と国内の「敵」との絶えざる「階級闘争」だとする急進的な見方にもとづいていた。
 彼は乱暴な言葉遣いでもって、資本主義経済の最後の残滓(小取引と農民による耕作)を根絶することを語った。彼によるとそれは、社会主義的工業化へと国が進むのを妨げている。
 1928-29年のブハーリンとの間の政治闘争で、彼はブハーリンは「危険な」考えを持っていると責め立てた。その考えは、階級闘争は次第に少なくなっていくだろう、「資本主義的要素」は社会主義経済と調和し得る、というものだと。
 スターリンは言う。このような想定は、敵に対するソヴィエト国家の防衛力を弱め、敵がシステムに浸入し、内部からそれを転覆させるのを許すことになる、と。
 スターリンは、大テロル(Great Terror)へと至る国家の暴力の連鎖を合理化する歪んだ論理を用いる先駆者だったが、反対方向で、ブルジョアジーの抵抗は国家が社会主義へと接近するにつれて増大し、その結果として、活力が絶えず強くなることが「搾取者の反抗を粉砕して根絶する」には必要だ、と理由づけた。//
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 (08) 内戦時の階級闘争の再開を求めるスターリンの呼びかけは、一般党員の広範な部分を魅了した。彼らの中には、NEP は革命の目標からの退却を示している、という感覚が大きくなっていた。
 工業の発展についてのスターリンの弁舌は、青年期にイコン(聖像)とゴキブリの農民世界から飛び出して、こうした貧困の遺産を破壊するものと革命を見た下級のボルシェヴィキ党員全てに対して、力強い訴えとなった。
 彼らのほとんどは内戦時に入党し、スターリンのおかげで昇進してきた。
 彼らは実際的な人間で、マルクス主義理論の多くを理解しておらず、ボルシェヴィキに対する忠誠心は、「プロレタリア」という彼らのidentity と緊密につながっていた。
 彼らにとって、五ヶ年計画に関するスターリンの単純な見通しと、後進性を克服して国を世界の偉大な工業大国にするための新しい革命的攻勢とは、同じことを意味した。//
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 (09) スターリンの戦闘的な言葉はまた、まだ若すぎて内戦を闘えなかったが、それに関する物語にもとづく「闘争崇拝」の中で教育されてきた若い共産党員たち—今世紀の最初の20年間に生まれた者たち—に対して、特別の魅力があった。
 あるボルシェヴィキ(1909年生まれ)は、自分たち世代の戦闘的な世界観は、「ブルジョア的専門家」、「NEPmen」、「クラク」その他の「ブルジョアジーの雇われ者たち」との「新たな階級戦争」の必要についてのスターリンの主張を受け入れる心の準備をしていた」、と回想記の中で述べた。
 若い共産党員たちは、NEP に苛立つようになっていた。
 あるスターリン主義者は、こう説明した。
 「私の世代の共産青年同盟員たち—10歳またはそれ以下で十月革命に遭遇した—は、運命を呪った。
 我々の意識が形成され、青年共産同盟に加入したとき、そして工場へと働きに行ったとき、我々は、我々にはすべきことが何も残されていないだろうことを知った。
 革命は過ぎ去っていたからだ。内戦期の真剣だがロマンティックな年月は戻って来ないだろうからだ。そして、歳上の世代の者たちは、闘争や興奮のない退屈で平凡な生活だけを我々に残してくれたからだ。」(注08)//
 ----
 (10) ここに、スターリンの「上からの革命」、革命の第二世代の段階、の先頭に立とうとする熱狂者の集団があった。//
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 (11) スターリンは、内戦期の手段を復活させることで、穀物危機に対応した。
 食料徴発制は、一連の「非常措置」によって支えられた。—その中には、徴発軍団が穀物提出を控えていると疑うならば、その農民を誰でも逮捕して、財産を没収することを認める、悪名高い刑法典第107条もあった。
 「ウラル・シベリア方式」として知られるものは、数万の零落した農民農場を犠牲にしてでも比較的にうまく行った1928年の運動だったが、スターリンはこれによって、「クラクの穀物ストライキ」を破壊して五ヶ年計画が約束した工業革命に必要な食料を確保するために、より強制的な手段を押し進める気になった。
 「穀物を目ざす闘い」は、スターリンや彼の支持者たちを全力をあげた集団化へと向かわせていた。//
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 第六節、終わり。第9章全体も、終わり


 Figes-REv

2563/O.ファイジズ・NEP/新経済政策③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 —— 
 第9章・革命の黄金期?
 第五節
 (01) NEP は、革命が排除することを約束したがなしで済ますことがまだできない「ブルジョア文化」の残滓にとっての一時的猶予だった。
 NEP は、社会主義経済が必要とした専門的能力をもつ職業人階層—「ブルジョア専門家」、技術者、エンジニア、科学者—との闘いを、停止させた。
 それが意味したのはまた、宗教に対する闘いの緩和だった。教会はもう閉鎖されず、聖職者たちは従前のようには(あるいはのちのようには)迫害されなかった。
 啓蒙人民委員のLunacharsky のもとで、ボルシェヴィキは、寛大な文化政策をとった。
 今世紀の最初の20年間、ロシアの「白銀の時代」の芸術上のavan-garde は、30年代も流行し続け、多数の芸術家が、新しい人間とより精神的な世界を創造するという革命の約束から刺激を得ていた。//
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 (02) しかしながら、NEP は、ブルジョア的習慣と心性(〈byt〉と呼んだ)との闘いの中止を意味しなかった。 
 内戦の終焉とともに、ボルシェヴィキは、この文化戦線での長期の闘いを準備した。
 彼らは、革命の到達点は高次の—より共同的で、公共生活により活発に参加する—人間の創造だと考えた。そして、こうした人格を社会の個人主義から解放することに着手した。
 共産主義ユートピアは、こうした新しいソヴィエト人間(New Soviet Man)を設計すること(engineering)によって建設されるだろう。//
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 (03) ボルシェヴィキはマルクスから、意識は環境によって形成されると学んだ。
 そして、思考と行動の様式を変更する社会政策を定式化することから、この人間の設計という課題を開始した。//
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 (04) 家族は、彼らが最初に取り組んだ舞台だった。
 彼らは、「ブルジョア的家族」は社会的に有害だと見た。—宗教という砦、家父長的抑圧、「利己主義的な愛」は、ソヴィエト・ロシアが国家の託児所、洗濯場、食堂のある完全に社会主義のシステムへと発展するに伴い消滅するだろう。
 〈共産主義のABC〉(1919年)は、未来の社会を予見した。そこでは、大人たちは一緒に、彼らの共同社会の子どもたち全員の世話をするだろう。//
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 (05) ボルシェヴィキはまた、家族の絆を弱める政策も採用した。
 結婚を教会による統制から切り離し、離婚を単純な登録の問題に変えた。その結果として、世界で最高の離婚率となった。
 住居不足と闘うために、典型的には一家族一部屋で、一つの台所とトイレが共用の共同アパート(kommuki)を編制した。
 ボルシェヴィキは、人々を共同して生活させることで、人々はより集団的な性格になるだろう、と考えた。
 私的空間と私的財産はなくなるだろう。
 家庭生活は、共産主義的な友愛と組織に置き換えられるだろう。
 そして、個人は、相互の監視と共同社会の統制のもとに置かれるだろう。//
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 (06) 新しい様式の住居が、こうしたことを念頭に置いて、1920年代半ばに設計された。
 構築主義的な建築家は、「共同住宅」を設計した。それによると、衣類すらも含む全ての財産は住民が共同で使用するものになり、料理や子どもの世話のような家事は、交替制で諸チームに割り当てられ、全員が一つの大きな共同寝室で、男女で区別され、性行為のための私室が付くが、眠ることになる。
 この種の住居は、ほとんど建設されなかった。—あまりに野心的で、構築主義思考が短期間で政治的に受容されるには至らなかった。
 しかし、考え方自体は、ユートピア的想像やZamyatin の小説〈We〉(1920年)の中で、大きな位置を占めた。//
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 (07) 教育は、ボルシェヴィキにとって、社会主義社会の創成のための鍵だった。
 学校と共産主義青年同盟を通じて、彼らは、青年に新しい生活様式を教え込もうとした。
 ある理論家は、「柔らかい蝋のような子どもたちは可塑性が高く、優れた共産主義者になるはずだ。我々は家庭生活の邪悪な影響から子どもたちを守らなければならない」と宣言した。(注05)
 社会主義的諸価値の涵養は、ソヴィエトの学校のカリキュラムの指導原理だった。
 実際の活動を通じて子どもたちに科学と経済を教育することが、強調された。
 学校は、ソヴィエト国家の小宇宙として編制された。学習計画と成績は、図表や円グラフで壁に掲示された。
 生徒たちには、生徒評議会と「反ソヴィエトの考え方」の教師を監視する委員会を設置することが奨励された。
 学校の規則を破った子どもたちの学級「裁判」すらがあった。
 服従の意識を注入するために、いくつかの学校は、政治的な教練を導入した。それには、行進、合唱、ソヴィエト指導部に対する忠誠の誓約が伴っていた。//
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 (08) 子どもたちは、「革命家」の真似事をした。
 1920年代に最も人気のあった校庭遊びは、赤軍と白軍、ソヴィエトのカウボーイ・インディアンだった。それらでは、子どもたちが内戦の諸事件を演じ、特別に遊び用に売られていた空気銃がしばしば用いられた。
 もう一つは探索・徴発で、その遊びでは、一グループが徴発部隊の役を演じ、別のグループは穀物を隠す「クラク」として振る舞った。
 このような遊びが子どもたちに奨励したのは、世界をソヴィエト的に「仲間」と「敵」に分けること、正しい目的のために暴力を用いることを受容すること、だった。//
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 (09) 教育制度は、政治的には、活動家の生産と連動していた。
 子どもたちは、ソヴィエト・システムの実践と儀礼を教え込まれて、献身的な共産党員になるよう成長した。
 党は、とくに農村地帯での党員数拡大を必要とした。ボルシェヴィキ活動家の数が、人口に比してきわめて少なかったからだ。
 この世代—ソヴィエト・システムで初めて学校教育を受けた—は、党員の補充に適していた。//
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 (10) ソヴィエトの子どもたちは10歳で、1922年にボーイ・スカウト運動を範として設立された共産主義少年団(Pioneer)に加入した。そこで彼らは、「われわれ共産党の教条を断固として支持する」と誓約した。
 1925年までに5人に一人がこの組織に入り、その数は年々と増えていった。
 共産主義少年団員は頻繁に、行進、合唱、体操、スポーツを行なった。
 特別の制服(白シャツと赤いスカーフ)、団旗、旗、歌があり、それらによって団員は強い帰属意識をもった。
 この少年団から排除された者(「ブルジョア」出自が理由とされたのとほぼ同数いた)は、劣等感をもたされた。//
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 (11) 15歳で子どもたちは、少年団からコムソモール(共産青年同盟)へと進むことができた。
 全員が進んだのではなかった。
 1925年、共産青年同盟には100万の同盟員がいた。—15歳から23歳までの者全体の約4パーセントだった。 
 青年同盟に加入することは、共産党員としての経歴の第一歩だった。
 この組織は、熱狂者の予備軍として機能し、腐敗や悪用を非難する心づもりのあるスパイや情報提供者とともに、党の仕事を自発的に行なう者を提供した。
 この組織が強い魅力を持ったのは、まだ幼くて内戦で闘えなかったが、1920年代と1930年代の記憶で喚起された積極的行動礼賛の中で育った世代に対してだった。
 多数の者が、共産主義者であるからではなく、社会的活力を発散する場が他にないがゆえに、共産青年同盟に加入した。//
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 (12) Walter Benjamin は、1927年にモスクワを訪問して、こう書いた。
 「 ボルシェヴィズムは私的な生活を廃絶させた。
 官僚機構、政治活動家、プレスが力強くて、利害関心のための時間はほとんどこれらに集まっている。
 そのための空間も、他にはない。」(注06)
 人々は多くの面で、完璧に公共的生活を送ることを余儀なくされていた。
 革命は、公共的詮索から自由な「私的な生活」に対して寛容ではなかった。
 存在したのは党の政策ではない。人々が私的に行なう全てのことが「政治的」だった。—何を読んだり考えたりするかから、家庭の中で暴力的か否かに至るまでが。そして、これらは集団による譴責の対象となった。
 革命の究極的な狙いは、人々が相互監視と「反ソヴィエト行動」批判によって互いに管理し合う透明な社会を生み出すことだった。//
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 (13) 一定範囲の歴史家たちは、以下のことが達成された、と考えている。—1930年代までに、国家の公的文化の中で自分自身のidentity と価値観を喪失した「非リベラルなソヴィエト的主体」を生み出すこと。
 この解釈に従えば、ボルシェヴィキの公的な論議(discourse)によって定義された用語法から離れて個人が考えたり感じたりすることは、実際上不可能だった。また、異論を唱える全ての思考や感情は「自己の危機」と感じられる可能性が高く、強烈な個人による粛清が求められることになる。(注07)
 おそらくこれは、ある程度の人々に—学校やクラブで吹き込まれた若者、感受性の強い者たちや恐怖からこのようなことを信じた大人たちに—当てはまることで、このような人々はきっと少数派だった。
 現実には、人々は全く反対のことを主張することができた。—継続的な公共的詮索によって、自分の中に閉じ籠もり、自分自身のidentity を維持するためにソヴィエトへの順応の仮面をかぶって生きることを強いられた。
 彼らは、異なる二つの生活をすることを学んだ。
 一つは、革命の用語を口ずさみ、忠実なソヴィエト市民の一人として行動する。
 もう一つは、自分の家庭のprivacy の中で生きる。あるいは、自由に疑問を語ったり冗談を言ったりすることのできる、頭の中の内部的逃亡地で生きる。//
 ----
 (14) ボルシェヴィキは、この隠された自由の領域を恐れた。
 彼らは、人々がその仮面の下で何を考えているかを知ることができなかった。
 彼ら自身の同志ですら、反ソヴィエト思想を隠している、ということがあり得た。
 ここで、粛清(purges)が始まった。—潜在的な敵の仮面を剥ぐというボルシェヴィキの必要から。
 ——
 第五節まで、終わり。つづく。

2562/O.ファイジズ・NEP/新経済政策②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第9章・革命の黄金期?
 第三節
 (01) NEP に対する都市部の反対は、市場メカニズムがときに機能しなくなって—革命と内戦の数年後では必然的だった—、国営商店での食料不足をもたらしたために、大きくなった。
 問題の根源は、農民たちと取引ができる消費用品がなかったことだった。
 内戦によって、工業は甚大な被害を受けていた。
 農村では1922年と1923年は非常に豊作だったが、工業が回復するのは、農業よりも遅れた。
 結果として、下落した農産物価格と消費者用品の急速に上昇している価格の間の隔たりが大きくなった(トロツキーは「鋏状の危機」と名づけた)。
 製造物品の価格が上がるにつれて、農民層は、国営倉庫への穀物販売を減らした。
 国家による支払いを受ける調達率はきわめて低かったので、農民たちは、必要とする家庭用物品を入手することができなかった。—その一部は、彼らが小屋の仕事場で自分たちで作ることができた(鋤、綱、靴、ろうそく、石鹸、単純な木製家具)。
 農民たちは、安い価格で穀物を販売しないで、家畜の飼料にしたり、納屋に貯蔵したりした。あるいは、私的な商人や袋運び屋(bagmen)に売った。//
 ----
 (02) 食料供給の途絶を阻止すべく、政府は、内戦時スタイルの徴発の手段をとり、生産性を高めるために工業コストを削減した。そして、「NEPmen」への労働者階級の怒りに応じて、30万の店舗と市場施設を閉鎖した。
 1924年4月までに、当面する危機は回避された。
 しかし、市場の崩壊は、NEP にとっての潜在的問題のままだった。//
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 (03) この問題への対応の仕方について、ボルシェヴィキ内は分かれた。
 党の左翼たちは、農業価格を低いままにし続け、工業生産を増加させる必要があれば実力でもって穀物を奪うことを支持した。
 他方で党の右翼たちは、工業化のための資本蓄積の進度を遅らせても、国家と農民層の関係の基盤である〈smychka〉(労働者)と市場機構を守るために、調達価格を上げよと主張した。//
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 (04) 両派は、NEP の国際的背景に関しても一致しなかった。
 ボルシェヴィキが権力を奪取したときには、革命はすみやかに多くの先進工業国に拡大するだろうと想定されていた。
 彼らは、社会主義はロシアだけでは維持できない、なぜなら、「帝国主義」国家に対して防衛するに必要な産業をもたないからだ、と見ていた。
 1923年の末までに、革命がヨーロッパに拡大しそうにないことは明らかになった。
 戦後すぐの不安定期は過ぎていた。
 イタリアでは、秩序回復のためにファシストが権力を握っていた。
 ドイツでは、共産党が支援したストライキは、より大きな反乱へと発展することができなかった。
 スターリンは、即時の目標としての革命の輸出という考えを捨て去って、「一国社会主義」の政策を進めた。
 これは、党の革命戦略の劇的な転換だった。
 一般に想定されていたように工業国家からの支援が来るの待つのではなく、ソヴィエト同盟は今や、自己充足をし、自分の経済から抽出した資本でもって自らを防衛しなければならないだろう。
 西側から輸入する道具や機械の対価を支払うために、穀物や原料を輸出しなければならないだろう。
 ブハーリンが構想したこの考え方は、1926年に党の政策として採用された。
 しかし、左翼反対派は、マルクス主義イデオロギーからの根本的離脱だと批判した。マルクス主義は、世界から孤立した単一国家での社会主義建設を排除している、と。//
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 第四節
 (01) NEP は、国家と社会主義化した部門が私的部門と競い合う混合経済を許容した。 
 NEP のもとでの社会主義経済は、農民たちが集団農場や農業協同組合に加入するよう促す、国家による規制、財政措置、農学上の援助によって生まれることになる。//
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 (02) レーニンは、協同組合の役割を最も重要視した。
 彼は、協同組合がロシアのような農民国家での社会主義社会の建設の鍵だと考えた。協同組合は社会主義的配分と農民との交換のための「最も単純で、容易で、最も受容されやすい」様態だ、というのがその理由だった。
 国家に支援されて、協同組合は農民たちに、彼らの生産物と消費用品との間の交換比率の保障を提供することができた。
 道具を購入する際の信用を提供することができた。あるいは、肥料、灌漑で、または土地保有を合理化して共同体の狭い帯状区画の問題を解決する農学上の援助をして、彼らの土地を改良するのを助けることができた。
 協同組合は、こうして、農民たちを私的取引者から引き離し、国家が耕作実務に影響を与え得る社会主義部門へと統合するものと考えられていた。
 農場の半分が1927年までに農業協同組合に帰属したのは、NEP がうまく行った尺度となった。
 結果として、生産性の着実な上昇が見られた。農業生産の1913年時点での高さは、1926年に再び達成された。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント大きかった。いわゆるロシア農業の「黄金時代」だった。//
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 (03) レーニンが意図していたようにNEP が継続していれば、第三世界での社会主義的発展の例として役立ったかもしれなかった。
 ソヴィエト経済は、活気ある農業部門を基礎にして、1921年と1928年の間に急成長した。
 工業も順調で、1930年代よりも高い成長率だった、と主張されている。
 NEP が継続していれば、1928年以降のスターリンの経済政策の実際の結果よりも、はるかに強力に1941年のナツィの侵攻に対抗できていただろう。
 そうならずに、NEP は、ソヴィエト農業を永遠に損傷させ、数百万の農民の生命を奪った大量集団化によって覆された。//
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 (04) NEP はつねに、農業の集団化計画を伴うものだった。
 ボルシェヴィキはイデオロギー的に、全ての土地が共同で耕作され、生産が機械化され、国家がこれらの農場との固定契約でもって食料供給を保障することのできる、そのような大規模の集団農場(コルホーズ、kolkhozes)へと共同体を変革させるという長期目標を有していた。
 しかし、これは漸次的で自発的な過程であり、その過程で農民たちは国家による財政的、農学的援助を通じて集団農場へと奨励されるものとされていた。
 1927年の後で、徴税政策によって大きな圧力が加えられた。
 しかし、集団農場に加入するよう全ての農民を強制することに関しては、何の疑問もなかった。
 実際に、強制的実力は必要でなかった。
 農民たちは何はともあれ、TOZ として知られる小規模農場に執着していた。そこでは、耕作は共同で行われるが、家畜と道具は私有財産のままだった。 
 TOZ の数は、1927年の6000から1929年には3万5000へと増加した。
 もっと長い期間があれば、NEP の範囲内での重要な集団農場部門になっていたことだろう。
 協同組合からの農学上の助けを得て、最強の農民たち—「クラクたち」—が担う効率的な近代的農場になっていただろう。
 しかし、スターリンはこのいずれも、そうさせなかった。
  彼は、全ての土地、用具と家畜が集団化されたもっと大規模の集団農場を望み、それに農民たちが加入するよう強いた。
 結果は、national な大厄災だった。//
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 第四節まで、終わり。第五節以降へつづく。

2561/O. ファイジズ・NEP/新経済政策①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?①
 第一節
 (01) 市場の復活は、ソヴィエト経済に生命を吹き込んだ。
 私的取引は、7年間以上の革命と内戦が生んでいだ慢性的な不足に、すぐに反応した。
 1921年までは、誰もがつぎあての衣服と靴で生活し、壊れた台所用具で料理をしていた。
 人々は、小部屋と間仕切りを作った。
 小さく汚い市場が流行した。
 農民たちは、町の市場で食用品を売った。 
 田園地方を往復する「袋かつぎ屋」が大量の現象になった。
 私的なカフェ、店舗、レストラン、そして小規模の製造業者すらが、新しい法律によるライセンスを得て、雨後の筍のように出現した。
 外国の観察者は、この変化に驚いた。
 モスクワやペテログラード、内戦中に死んでいた諸都市は、再び生気を取り戻し、騒がしい商売人、忙しいタクシー運転者、華やかな店舗の看板が、1917年以前にそうだったように、街路を活性化した。
 「NEP はモスクワを巨大な市場に変えた」と、アメリカのアナキストのEmma Goldman は1924年に書いた。
 「一晩で小売店や雑貨店が生まれ、不思議なことに、数年間はロシアで見ることのなかった美品が積み重ねられた。
 大量のバター、チーズ、肉が、販売用に陳列された。
 塗り粉、珍しい果物、そしてあらゆる種類の甘菓子を、買うことができた。…
 男性、女性、子どもたちが、やつれた顔をして飢えた眼で、窓から覗き込み、大きな奇跡だと話した。
 昨日は極悪非道の犯罪だと考えられたものが、今は公然たる合法的な形態で、彼らの前に展示されていた。」(注01)//
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 (02) 空腹の人々はどうやって、そのような商品を買うことができたのか?
 私的取引の復活は、多くのボルシェヴィキにとって、革命への裏切りだった。
 それは富んだ者と貧しい者の格差の拡大につながるように思えた。
 あるボルシェヴィキはこう思い出した。
 「我々若い共産主義者はみな、金銭はただちにかつ永遠に捨て去られる、と信じて育ってきた。
 金銭が再び現れているのなら、金持ちの人間もまた再出現するのではないか?
 我々は、資本主義へと後戻りする滑りやすい斜面にいるのではないか?
 我々は、不安の感情をもって、こう自問した。」(注02)
 彼らの懸念は、NEP の最初の数年での失業者の増加によって強くなった。
 解雇された労働者は最低限度の生活をしていた一方で、彼らの推定では、農民たちは豊かになっていた。
 Goldman はある赤軍兵士がこう言うのを聞いた。「こうなるために、我々は革命を起こしたのか?」(注03)
 労働者たちのあいだには、NEP は農民層のために階級利益を犠牲にしている、NEP は「クラク(富農)」が復活するのを認めるだろう、クラクとともに資本主義システムも復活するだろう、という感情が大きく広がっていた。
 数万人のボルシェヴィキ労働者たちが、NEP を嫌悪して、彼らの党員証を引きちぎった。彼らは、NEP を「プロレタリアートの新しい搾取」(New Exploitation of the Proletariat)と名付けた。//
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 (03) この庶民的な怒りの多くは、「ネップマンたち」(NEPmen)に向けられた。私的取引の復活によって成長した事業者の新しい階級だ。
 ソヴィエトのプロパガンダや時事漫画が形成した一般民衆の想像では、
「NEPmen」は彼らの妻や愛人たちをダイアや毛皮で着飾らせ、大きな輸入車を運転し、高価なホテル・バーで金運を大声で自慢した。その金運は、新しく開催された競馬やカジノで使ったものだった。
 このような〈nouveaux riches〉(新富裕層)の伝説的な出費は、都市部の貧困の背景にあったもので、革命は不平等で終わると考えた者たちのあいだに苦々しい忿懣を生んだ。//
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 第二節
 (01) レーニンにとって、NEP は、国を立て直すための市場への暫定的譲歩以上のものだった
 大部分は彼自身の党による1917年のクー・デタの結果として、「ブルジョア革命」が完遂されていない農民ロシアでの社会主義の役割を再定義する、そのような努力が間違って定式化されたとすれば、NEP は過激だった。
 レーニンは第10回党大会で、「発展した資本主義諸国で」のみ、「社会主義への即時の移行」は可能だ、と言った。
 ソヴィエト・ロシアはかくして、「ブルジョアの手を借りて共産主義を建設する」という任務に直面していた。これがボルシェヴィキに意味したのは、農民たちに市場を通じて富を生み出させる、ということだった。//
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 (02) レーニンは、革命がそれにかかっている、〈smychka〉-労働者-と農民の同盟関係を救うための、農民層への必要な譲歩だと、NEP を見ていた。
 この同盟は、工場で製造された商品と食料の交換を基礎にして築かれるだろう。
 NEP は、農民たちに20パーセントの現物税を支払った後で余剰を自由に販売することを許すことによって、彼らの市場販売を刺激して奨励することを意図していた。
 これは都市部に食料を供給し、徴税を通じて、農民たちが穀物の代わりに求めている基本的な生活用品の製造に対する国家投資を増加させるだろう。
 この取引と食料輸出への課税によって、国家は、工業化するために必要な道具や機械を輸入する費用を調達できるだろう。//
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 (03) NEP は、戦略的な退却として提示された。
 レーニンは1921年に、多くの懐疑者に対して、「我々は、のちに二歩前進するために、一歩後退している」と保証した。
 しかし、あとどのくらい長く続くのかは。不明瞭だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、「10年程度またはたぶんそれ以上」と語った。—NEP は、民衆の反乱から革命を守るための「政治的策略の一方法としてではなく」、「真摯に」、「全体的な歴史の画期のために」採用された、とされていた。(注04)
 レーニンは、混合経済を通じて社会主義へと前進するための、長い期間の政策綱領だと、NEP を見ていた。
 資本主義への回帰を許すかもしれないとの危惧に対応して、彼は、国家が「経済の管制高地(例えば、鉄鋼、石炭、鉄道)を掌握しているあいだは、消費者の需要を充たす小規模の私的な農業、取引、手工芸品を許容しても危険はない」と主張した。//
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 (04) 内戦から出現した党にとって、これは、内戦が目指したものとは急進的に異なる革命の見方だった。
 戦時共産主義は、私的取引の兆候の全てを根絶することで、すみやかに共産主義に到達する、と約束していた。
 ロシアのような後進的な農民国家では、ボルシェヴィキが先進的な産業諸国家との間隙を埋める方策として、国家による強制—民衆の労働部隊加入への強要—に手を伸ばすのは簡単だった。
 しかし、NEP は、革命の目標地点まで—ブハーリンが述べたように「農民の荷車で」—ゆっくりと進むことを意味した。
 NEP の緩慢な速さは、深刻な関心を生み出した。
 革命が前進する勢いを全て失ったなら、いったいどうなるのだ?
 鈍化して、無気力が入り込むのを許したなら?
 まだ支配的で一般党員を誘い込む怖れのある、旧社会のブルジョア的習慣と心性に屈服させるのではないか?
 革命の基盤が、内部の敵—「クラク」とプチ資本家—によって、彼らが私的取引で富裕になるとき、掘り崩されるのではないか?
 資本主義諸国との戦争が勃発するとしたなら、国は自衛するに十分に早く工業化するのだろうか?//
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 第一節・第二節、終わり。第三節以下に、つづく。

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
 ——
 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
 ——
 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
 ----
 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
 ----
 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
 ----
 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2377/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節①。

 仕事(生業)で英語を使ったことはなく、大学生時代の英語の授業は高校のときよりも簡単でつまらなかったので、実質的には日本の公立高校卒業時の英語の力を基礎にして、<試訳>をつづけている。
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 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道。
 (1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
 この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
 兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
 Os'kin は、のちにこう書いた。
 「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
 鉄道の側での、気怠い生活だった。」
 指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
 南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
 内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
 破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
 Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
 「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
 建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
 これは、ロシアの荒廃の象徴だった。 
 Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
 軍技術者たちは、列車を修理した。
 夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
 この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
 (2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
 彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
 Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
 計画は、ある部分は実践的だった。
 ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
 かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
 さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
 彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
 鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
 些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
 全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
 それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
 鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
 (3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
 1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
 彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
 全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
 ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
 両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
 両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
 メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
 (4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
 <Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
 軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
 なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
 トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
 〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
 彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
 トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
 経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
 市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
 自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
 こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
 ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
 トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
 彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
 1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
 (5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
 ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
 この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
 <rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
 労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
 ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
 労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
 人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
 このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
 Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
 (6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
 食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
 労働者階級は、漂泊民になっていた。
 工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
 工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
 需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
 生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
 最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
 労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
 1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
 都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
 食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
 ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
 (7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
 〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
 ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
 しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
 労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
 地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
 1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
 労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
 意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
 この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
 1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
 これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
 その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
 兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
 (8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
 トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
 新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
 彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
 トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
 ——
 ②へとつづく。

2373/O·ファイジズ・人民の悲劇(1996)第16章第3節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に、邦訳書はない。試訳のつづき。p.804-7。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い⑤。
 (27)レーニンが死にかけていることを、一般国民は知らされなかった。
 プレスは最後まで、レーニンは深刻な病気から回復しつつあると報告しつづけた。—深刻な病気ならば、死を免れない人間は死んでしまうだろう。
 体制は、この「奇跡の回復」を考え出すことで、レーニン崇拝(cult)を生き続けさせようとした。体制自体の正統性意識が、ますますこれに依存してきていたのだ。
 「レーニン主義」という語が、1923年に初めて使われた。
 三頭体制は、「反レーニン主義者」であるトロツキーに対抗する真の防衛者だと自己宣伝しようとした。
 その同じ年に、正統派の聖典であるレーニン全集の初版の刊行が始まり(<Leninskii sbornik>)、レーニン研究所が設立され、レーニンに関する資料館、図書館および博物館が完成した。
 洪水のごとく聖人伝が刊行されたが、その主な目的は神話と伝説を作り出すことだった。—貧しい農民または労働者だったレーニン、動物や子どもが好きなレーニン、人民の幸福を目指した勤勉な労働者としてのレーニン。それらは、体制をより民衆的なものにするのに役立ったかもしれない。
 莫大な数のレーニンの肖像写真が公共建築物の正面に現われ始めたのも、このときからだった。
 モスクワのある公園には、花壇用草花で作られたレーニンの「生きている肖像」すらがあった。一方で、多くの工場や役所の内部には、彼の偉業を解説する公認の写真や資料が置かれた。(*48)
 人間のレーニンは死んだ。そして、神のレーニンが生まれた。
 彼の個人的生涯は国有化された。
 それは、スターリン主義体制を神聖なものにするための、聖なる装置だつた。//
 (28)1924年1月21日、レーニンは死んだ。
 午後4時に大きな脳発作があり、昏睡に入って、午後7時すぐ前に死亡した。
 家族と付添医師を除けば、レーニンの死を看取った唯一の者は、ブハーリンだった。
 彼は1937年に、自分の生命を守ろうとして、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と主張した。(*49)
 (29)クレムリンは翌日、開会中の第11回ソヴェト大会の代議員たちに向けて、発表した。
 会場からは叫びと嗚咽の声が聞こえた。
 おそらくは予期していなかったのが理由だが、公衆は純粋な悲しみの表情を見せた。
 劇場や店舗は、一週間閉鎖した。
 赤と黒のリボンで飾られたレーニンの肖像写真が、多数の窓に掲示された。
 農民たちが、最後の敬意を示すべくGorki の家にやって来た。
 数千の弔問者たちが、北極地方の寒さを物ともせず、レーニンの遺体が運び込まれたthe Hall of Columns まで、Paveletsky 駅からモスクワの通りを並んだ。
 つぎの三日間、50万の人々が数時間かかって、棺台の側を通りすぎた。
 数千の花輪と哀悼の飾り物が、学校や工場、連隊や軍艦、ロシアじゅうの町や村から送られてきた。
 のちに葬礼のあとの数ヶ月、レーニンの記念碑や像を建立する狂ったような動きがあった(Volgograd のそれはレーニンを巨大なネジの上に立たせた)。街路や施設が、彼にちなんで改称されたのも同様だった。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場全体が、入党を誓約した。—ある煽動家は、それが「逝去した指導者に対する最大の花輪だ」と言った。そして、レーニン死後の数週間で、10万人のプロレタリアートが、いわゆる「レーニン登録」に署名した。
 西側の多数の報道記者たちは、この「全国民的な服喪」は体制に対する「信頼へのpost-modern な票決」だと見た。
 別の者は、多年の苦しみの後で集団的に悲しみを吐き出して解放するものだとした。
 説明し難いことだが、人々はヒステリックに嗚咽し、数百人が気絶した。
 おそらくは、レーニン崇拝がすでに始まっていたことを示している。どれほどレーニン体制を嫌悪していても、かつて支配階級(boyars)を侮蔑しつつも「父なるツァーリ」を愛したのとちょうど同じように、「神なるレーニン」をなおも愛したのだ。//
 (30)レーニンの葬儀は、つぎの日曜日に、摂氏零下35度の寒さの中で行われた。
 スターリンが、the Hall of Column から赤の広場まで、開いた棺を運ぶ儀礼兵たちを引き連れた。赤の広場にある木製の基台の上に、それは置かれることになつていた。
 ボリショイ劇場楽団がショパンの葬送行進曲を演奏し、古い革命歌の「You Fell Victim」とインターナショナルが続いた。
 そして、6時間のあいだ次から次への隊列が、約50万人とされる人々の中を、陰鬱な静けさの中で、幕を下げながら、棺とともに分列行進をした。
 午後4時ちょうど、棺が保管室へとゆっくりと下されたとき、サイレン、工場の時笛、機関砲、銃砲がロシアじゅうに鳴り響いた。それはまるで、巨大な国家的悲嘆を放出させるがごとくだった。
 ラジオではただ一つのメッセージだけが読み上げられた。「同志たちよ、起立せよ。Ilich が墓所へと下されている」。
 そして、静寂があり、全てが止まった。—列車、船、工場。ラジオが、「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている」ともう一度伝えるまで。//
 (31)レーニンはその遺書で、ペテログラードの母親の側に埋葬してほしいと表明していた。
 それは彼の家族の望みでもあった。
 しかし、スターリンは、レーニンの遺体を保存したかった。
 彼がレーニン崇拝を存続させつづけるべきだとすれば、「レーニン主義は生きている」ことを証明しなければならないとすれば、レーニンの遺体は展示されなければならなかった。聖人たちの遺物のように、腐敗することのないよう処理された遺体が。
 スターリンは、トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って、その案を政治局が承認するよう強いた。
 保存という考えが浮かんだ契機の一つは、1922年のツタンカーメンの墓の発見だった。
 <Izvestiia>で、レーニンの葬礼は、「古代の偉大な国家の創設者」のそれに喩えられた。
 しかし、おそらくは、ロシア正教の典礼についての、スターリンによるByzantine 式の解釈によるところが大きいだろう。
 スターリンの計画に恐れ慄いたトロツキーは、それを中世の宗教的狂信に喩えた。
 「中世には、Sergius of Radonezh やSeraphim of Sarov の聖跡があった。今は、これらをVladimir Ilicch の遺体に代えようとしている。」
 最初は、凍結の方法でレーニンの遺体を保存しようとした。
 だが、遺体はすぐに腐食し始めることが判った。
 2月26日、レーニンの死から5週間のちに、科学者の特別チーム(「不朽化委員会」として知られる)が任命された。その任務は、防腐用液体を見出すことだった。
 数週間を働きつづけて、科学者はついに、グリセリン、アルコールおよび他の化学物質を含むとされる解決方式にたどり着いた(正確な構造はいまもなお秘密のままにされている)。
 レーニンの塩漬けの遺体は、赤の広場のクレムリンの壁近くのクレムリン木造地下室に置かれた。—のちに、今日も現存する御影石の廟に移された。
 それが一般に公開されたのは、1924年8月だった。//
 (32)レーニンの脳は遺体から取り除かれ、レーニン研究所へと移された。
 その脳は、「天才の実体」を発見する責務を負った研究者たちの研究に供された。
 彼らは、レーニンの脳は「人間の進化の高い段階」を表現していることを示すことになっていた。
 3万の切片へと薄切りされて、慎重に検査できる状態でガラス板の間に保管された。そして、将来の世代の科学者たちは、それらを研究して本質的秘密を発見することになるだろう。
 その他の「明白な天才たち」—Kirov、Kalinin、Gorky、Mayakovsky、Einstein およびスターリン自身—の脳は、のちにこの大脳収集物の中に加えられた。
 これらが、今日もなおモスクワにある脳研究所を形成した。
 1994年に、レーニンについての最終的な検査結果が発表された。それは、レーニンの脳は完全に平均的な脳だ、というものだった。(*51)
 この結果は、ふつうの脳でもときには尋常でない行動を掻き立てることがある、ということを示していることになる。//
 (33)レーニンが死んでいなかったら、どうなっただろうか?
 NEP やレーニンの最後の文書は、異なる発展方向を提示しただろうか?
 歴史家は、まともには仮定の問題を扱うべきではない。ましてや、起こっただろうと(またはこの場合は、起こらなかっただろうと)予想してはならない。
 しかし、レーニンの後継者問題の帰結については、おそらく若干の考察を試みることが十分に許容されるだろう。
 結局のところ、革命の歴史のかなりの部分はスターリンのロシアで起きたことから遡って書かれてきたので、現実にはどのような選択肢があったのかとを問題にしてよい。//
 (34)第一に、スターリン主義体制の基本的な要素—一党国家、テロルのシステム、個人崇拝—は、すでに1924年までに全て存在した。
 党の諸機構は、その大部分が、スターリンの手中にある従順な道具だった。
 地方の幹部たちの大部分は、内戦中に組織局の長であるスターリンが任命していた。
 彼らは専門家や知識人に対する卑俗な嫌悪感を共有し、プロレタリアの連帯とロシア・ナショナリズムを説くスターリンのレトリックの影響を受けた。そして、イデオロギー上のほとんどの問題について、自分たちの偉大な指導者に従うつもりだった。
 結局、彼らはかつてのツァーリの臣民だったのであり、党の「民主主義的」改革を目指すレーニンの最後の闘いは、この基礎的な文化を変えることができそうになかった。
 彼が提起した改革は全く官僚制的なもので、独裁制の内部構造の改革にだけ関係があった。そして、そのようなものだったので、NEPの本当の問題に向かうことができなかった。つまり、体制と社会、とくに征圧されていない農村地帯、の間の緊張した関係。
 真の民主主義化がなく、ボルシェヴィキの支配する姿勢の根本的な変化がなく、NEP は必ずや失敗する運命にあった。
 経済的自由と独裁制は、長期的に見れば併立し難いものだ。//
 (35)第二に、他方で、レーニンの体制とスターリンのそれとの間には基礎的な違いがあった。
 初期の頃は、党員が殺戮されることはほとんどなかった。
 そして、分派が禁止されたにもかかわらず、党にはまだ同志的な論議をする余地があった。
 トロツキーとブハーリンは、NEP の戦略を情熱的に議論し合った。—前者のトロツキーは、市場システムの破綻が工業化の減速をもたらす畏れがある場合の農民からの食糧の搾取につねに賛成したが、後者のブハーリンは、市場を基礎にした農民との関係を維持するために工業化が減速するのを認める方を好んだ。
 しかし、これはまだ知識人的な論議であり、二人ともに、NEP の支持者だった。そして、このような違いがあっても、二人ともに、こうした議論を互いに殺戮し合い、論敵をシベリアへと追放するための口実に用いるなどとは、夢にも考えなかっただろう。
 スターリンだけが、これをすることができた。
 彼だけは、トロツキーとブハーリンが政治的な論議と対立に夢中になっているので、自分は片方を使ってもう片方を破壊することができる、と見た。//
 (36)この意味で、スターリンの役割は、それ自体がきわめて重大(crucial)だった。—彼がいなければ、レーニンの役割がそうだったように。
 もしも、レーニンが最後の脳発作で1923年の党大会で発言することができなくなる、ということがなかったなら、今日ではスターリンの名前は、ロシアの歴史書の、脚注にだけ現われていただろう。
 しかし、「もしも(if)」は、かりにお望みならば、神の摂理(providence)のうちにある。この書は歴史であって、神学ではない。//
 —— 
 第三節⑤、終わり。第16章(最終章)も、終わり。

2356/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国③。
 (14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
 軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
 兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
 軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
 彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
 ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
 こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
 彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
 また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
 教会に対する新たな攻撃に参加した。
 農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
 そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
 (15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
 これが、NEP の失敗の根本原因だった。
 ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
 1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
 農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
 農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
 Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
 絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。 
 Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
 ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
 ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
 地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
 地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
 (16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
 制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
 村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
 これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
 ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
 1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
 電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
 税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
 地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
 1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
 (17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
 これは、間違いだった。
 NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
 つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
 農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
 NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
 ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
 ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
 村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
 ——
 第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。
ギャラリー
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