秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Muskingum

2512/R・パイプスの自伝(2003年)⑭。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。p.44-p.47。
 ——
 第五章・大学②。
 (10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
 男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
 三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
 私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
 満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
 ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
 将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
 要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
 1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
 (11) 二年次の春に、恋に落ちた。
 その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
 だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
 その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
 その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
 (12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
 何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
 アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
 のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
 私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
 このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
 男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
 とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
 だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
 (13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
 私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
 親愛さは、友人のために留保されていた。
 アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
 New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
 彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
 私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
 だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
 今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
 しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
 のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
 しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
 (14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
 Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
 水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
 私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
 大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
 第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
 (15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
 若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
 私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
 ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
 彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
 ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
 「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
 彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
 (16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
 1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
 彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
 その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
 「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
 Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
 しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
 このような文章に、私は激励を感じた。//
 (17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
 だが、これらの収入では十分でなかった。
 父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
 Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
 しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
 誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
 そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
 それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
 同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
 夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
 私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
 その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
 それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
 学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
 (18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
 落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
 ——
 第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。

2511/R・パイプスの自伝(2003年)⑬。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第五章へ。
 ——
 第一部/第五章・大学(College)①。
 (01) 米国についての我々の意識は歪んだものだったので、下船するときに父親が波止場で街灯柱にのんびりと依りかかっている人を見つけたとき、父親は安心して、この国は思っていたほど慌ただしくないようだ、と言った。
 Ossi Burger がHoboken で我々を迎えてくれ、ニューヨーク市での一日後に、我々は列車で、近くにBurger 一家の農場がある、ニューヨーク州のTroy へ行った。//
 (02) 私がニューヨークに望んでいたこと、そして最も印象を受けたのは、たぶんアメリカの映画で知っていた建築物や交通の規模ではなく、Burger 家の友人の子息である青年に伴われて、ホテル Waldorf Astoria のロビーに入ったり、音楽店舗を訪れたり、個人用ブースで好きなクラッシック音盤を聴いたりできたことだった。
 Troy へ向かっていたときのGrand Central 駅で、私は新聞類販売店に立ち寄り、高等教育(higher learning)に関する書物を探した。
 私は、「大学(College)」、「大学に関する情報」と言った。
 売り子は当惑して、少し考えたあとで、〈College Life〉を一冊売ってくれた。その雑誌は、〈Playboy〉の先触れだった。//
 (03) 我々は農場で、夏の残りを過ごした。
 John と私が寝ていた納屋で、たまたま数百頁の1914-15年版〈アメリカ人名録〉を見つけた。
 その巻末には、予備学校や大学(college)の100頁以上の宣伝広告が付いていた。
 それが、私の求めていたものだった。すなわち、高等教育施設の名前と住所。
 100枚のペニー切手を購入し、友人の助けを借りて、多数の大学への同一の要請文を書いた。自分には入学したい熱望があるが、経済的余裕がないので、奨学金と収入を得られる就労の保障を求める、と。
 私は、Harvard と小さい田舎の大学の違いを知らなかった。
 ほとんどの教育施設からは返答がなかった。いくつかは、消極の回答を寄せた。
 だが、4つの大学から、私が求めるものの提示があった。Indianapolis のButtler College、University of Tennessee、South California のErskine College、Ohio のMuskingum College。
 それらを見分ける基準を、私は持ち合わせていなかった。Muskingum に私を惹き付けたものは、〈人名録〉上の一頁全体の広告にある地図だった。その地図は、オハイオ州のNew Concord 市にあるその大学の位置がアメリカ合衆国の地理的中心であるように、作られていた。//
 (04) 父親は、私が大学へ行くのを喜ばなかった。彼の新しい事業のために、私の助けを欲しかったためだ。
 今では、当時よりもっと父親を理解することができる。だが当時の私には、少しでも高等教育を受ける機会がさらに遅れることは、非道で、不合理なことだった。
 私には、ぼんやりした野望があった。自分が何をしたいのか、少しも分かっていなかった。しかし、金を稼ぐことではないと、絶対的に確実に、分かっていた。
 神はドイツが支配するポーランドから、高次の目的のために、たんなる生存や自己満足を超えて存在するために、私を救ってくれた、と感じていた。
 この感覚は、今までずっと消えなかった。
 もしも父親が私をそばに置いて、勉強したい私の気持ちを理解し、同意するけれども、我々のいまの経済的状況からすると、ともかくもしばらくの間だけでも私の助力が不可欠なのだ、と説明してくれていたなら、あるいは私は、一年くらいは父親に従っていたかもしれない。
 しかし、我々の文化では、父親は十歳代の息子を成人としては扱わなかった。//
 (05) 1940月9月7日、私はバスで、オハイオへと向かった。
 翌日、日曜の朝に、New Concord に着いた。
 街も大学も居住者はほとんどが教会にいたので、大学のキャンパスは空っぽだった。
 地方的な宿屋に記帳して、近くを散歩した。
 赤レンガの建物群は19世紀半ばからあるようで、小山が多い丘陵地の丘に位置していた。
 好ましい印象だった。田園ふうの大学は、ワルシャワやフィレンツェの大学とは全く似ていなかったけれども。
 教室のある建物の入口に、神がモーゼに発したExodos の書物の一節が刻まれているのを見て、衝撃を受けた。「足の靴を脱げ、聖なる地へと立ち上がる場所に向かって」。
 私は、もしかしてうっかりと神学校に着いたのでないか、と思った。
 しかし、のちの午後に、大学の副学長と出会って、彼がキャンパスを車で案内してくれた。そして、全てが良く思えた。//
 (06) 判明したとおり、私は素晴らしい選択をしていた。
 Muskingum College はHarvard ではなく、そう装ってもいなかった。だが、私にとってはるかに適した場所だった。二つの理由があった。
 大学が小さかった。—700名の学生とそれと均衡した規模の教授陣。これが意味したのは、私が大群の中で迷わないことだ。
 戦争前から入学していたポーランドの女の子を除いて、キャンパスにいる唯一のヨーロッパ人だったので、私は好奇の対象だった。
 時を経ずして、ほとんどの学生たちを個人名で知り、彼らもそうするようになった。
 第二に、私はとても貧しかった。衣装入れには二着の上衣と四枚のシャツしかなかった。大きな大学だと、私は惨めな人物に見えただろう。
 やがて、学生、教授、事務職員に連れられて街へ行った。そして、二年半をそこで幸せに過ごした。//
 (07) ヨーロッパ人にとって、1940年にオハイオの中央に来るのは、19世紀へと後ずさりすることだった。そこの人々の外貌と価値観は第一次大戦前のものだった。
 自分がかつて知っていた場所であるような、ほっとする安定感があった。
 そこの人々がどれほどヨーロッパから離れているかを、私がデイトした利発で可愛い女の子が示したかもしれない。
 彼女は、ヨーロッパがあるとは知っていたけど、私と逢えてとても嬉しい、と言った。彼女の胸の裡では、きっと全く信じ難いことだった。
 学長や数人の教授たちを除けば、誰もヨーロッパへ行ったことがなかった。
 (対照的に、名誉博士号を授与されるために1988年にMuskingum を再訪したとき、教授たちのほとんど、大学院学生の多くは、何人かは二度以上、大陸へ行っていた。)
 人々は私の戦争話に、同情的に、しかし疑いながら、耳を傾けた。
 一つには、彼らは圧倒的に共和党支持者で、当時の共和党は孤立主義を選んでいた。
 しかし、政治論以上に、彼らは人間の善良さを信じていて、ドイツ人が私が描写するような悪魔だということに納得しなかった。
 あるとき、第一次大戦でベルギーについて判明したとしたドイツの(その言う)残虐性がいかに虚偽であるかを、想起させられた。
 読んだニーチェの言葉が頭をめぐった。このことから受けた衝撃で、この事実について知識を誇示する気になれなかったからだ。
 ある日、副学長がキャンパスを歩いている私を見つけて、同乗を勧めてくれた。
 我々が目的地に着いたとき、彼は簡単な講義をしてくれた。
 私にどんな体験があっても、人類への信頼を失ってはならない、人々は根本的には善良で、人生は公正だ、と彼は言った。
 彼は最後に、「ではまた。きみはニーチェを読んではいけない」と言った。
 実際、私はニーチェを読むのはもうやめていた。//
 (08) Muskingum での計5学期(semester)の間、アメリカとヨーロッパの間の多くの違いを観察することができた。
 (09) 一つの顕著な差違は、アメリカの若者たちは、ヨーロッパの私の世代の者なら夢物語だと感じるだろうような自信を持って、人生設計をしている、ということだ。彼らは未来に生きているように見えた。一方で、我々は、その日ごとの暮らしをしていた。
 雑誌〈Fortune〉を捲っていて、Maryland 損害保険会社の広告が目に止まった。こう書いてあった。
 「予測できないことが…人生の行路を変更したり形成したりしてはいけない」。
 本当に? 私は自問した。もしそうならば、私はなぜワルシャワからオハイオのNew Concord に来て、人生の行路をすっかり変えたのだろうか?
 この保険会社の言葉の背後にある暗黙の前提は、金銭は人生の望ましくない変化を逸らすことができる、ということだ。しかし、金では十分でない。このことを、私は体験で教えられた。
 アメリカの若者たちは、異なる進み方は溺死することだと確信して、潮流に沿って泳ぎながら、人生を開始しているように見えた。//
 ——
 第五章・大学①、終わり。
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