秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Modernity

2401/L·コワコフスキ・Modernity—第一章⑤。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 L・コワコフスキにつぎの著があり、邦訳書もある。L. Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing ?(2004,英訳2007)=藤田祐訳・哲学者は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 この著は30名の(西欧の)哲学者・思想家を「簡便な(人名)辞典」ふうに概括したものではなく、長々とした文章によらずして、一定の関心をもって論評している(この書の緒言も参照)。
 多数の文献を読み込んでいることは、そのマルクス主義に関する大著でも(日本ではほとんど名を知られていないポーランドや東欧の哲学者を含めて)見られるが、以下でも、その一端は見られる。
 欧米の哲学者・思想家を読んでもおらず、従って当然に言及することすらできない者でも、日本では「知の巨人」と称されることがある(国書刊行会ウェブサイト参照)。不思議なことだ。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ⑤。
 (19)しかしながら、我々の文化で何がModernityを表現しているのか、何が反modern の抵抗を表現しているのかに関して判断する場合に、我々は慎重でなければならない。 
 歴史的経験から、我々は、文化の進展上で新しいものはしばしば古いものを装って出現してくることを、知っている。逆もまた然りだ。—古いものが簡単にいま流行している服装を着ているかもしれない。
 改革とは、明白にかつ自己で意識しつつ、反動的だ。宗教改革の夢は、世俗的理性の成長のもとで、キリスト教という制度的形態をとりつつ、神学上の数世紀にわたる発展が生んだ堕落した影響を逆転させることだった。また、十二使徒の時代の信仰の初期の純粋さを回復することだった。
 しかし、宗教改革は実際には、知的かつ道徳的権威の淵源として積み重ねられてきた伝統を排除することによって、その意図とはまさに正確に反対の運動を勇気づけた。
 宗教改革は、宗教的諸問題の理性的な研究の精神を解放した。それは理性を教会や伝統から自立したものにした—そうでなければ激しく攻撃した—からだ。
 空想的なナショナリズムはしばしば、今は喪失したが前産業世界がもった美しさを、郷愁をもって追求するものだった。しかし、<過去>(praeteritum)を称揚することによって、ネイション〔国民〕国家の考え方という、著しくmodern な現象の発生に大きく貢献した。
 そして、ナツィズムという見事にmodern な産物は、その非現実的空想が怪物的に再生したものだった。それによって、「伝統的合理性」という軸の上で我々は適切にmodernityを測ることができるという考えをおそらくは反証明した。
 マルクス主義は、同じく古風な共同体への慕情とともに、紛れもなくModernity を求める熱狂、合理的組織化、科学技術の進歩の、混合物だった。そして、未来の完璧な社会の夢想的期待へと行き着いた。その世界では、いずれの価値の組み合わせも用いられ、調和のとれた混ぜ物となる。つまり、modern な工場とアテネの公共広場が何とか一つに融合するだろう。
 実存主義哲学は、きわめてmodern な現象だと見えたかもしれない—その語彙と概念上の網状回路において—。だが、今日の観点からすると、進歩を強く主張する新しい世界に直面している、そのような個人の責任という理念の正しさを再び証明しようとする絶望的な試みだった。その世界では、人間個々人は自分たちの合意のもとで、社会的、官僚主義的、または技術的諸集団がそれらを表現する匿名のメディアにすぎなくなり、人々は社会の非個人的作業の無責任な装置に変えられていることに気づかずに、自分たちの人間性を奪ってしまっている、というのだ。//
 (20)同様に、歴史の「狡猾な理性」もおそらく作動を停止しなかった。そして、何人も、集団的生活に対して自分自身がModernityの脈絡で寄与しているのか、それともその反動的抵抗として寄与しているのか、について推測することができず、まして確信をもって言うことはできない。さらには、どちらが支持するに値するのか否か、についても。//
 (21)つぎのような考えに慰めを探し求めることができるのかもしれない。文明は自ら切り抜けることができ、自己修正メカニズムを動員させることができ、あるいは、自己の成長に対する致命的効果と闘う反対機構を産出することができる、という考え。
 だが、このような考えに至るとしても、経験からして、全く安心できるものではない。結局のところは、病気の兆候はしばしば有機体の自己回復の試みなのだけれども。
 我々のほとんどは、身体が外部の敵と闘うために採用している自己防衛装置の結果として死ぬ。
 反対機構は、死ぬこともあり得る。
 したがって、自己調整の予見し得ない代価として、追求した平衡を回復する前に文明は死んでしまうかもしれない。
 我々のModernity への批判は—Modernityは工業化の進展と連関している、またはおそらく工業化の進展に動かされているという批判は—Modernity とともに始まった、そしてその批判はそれ以来広がり続けている、ということは疑いなく正しい。
 18世紀-19世紀に大きな危機はあったが—Vico、Rousseu、Tocqueville、ロマン主義者—、それは別として、操作の対象になりやすい<大衆社会>(Massengesellschaft)における意味の継続的的喪失を指摘し、非難する多くのすぐれた思想家たちがいることを、我々は知っている。
 フッサール(Husserl)は哲学的用語を用いて、modern科学がそれ自体の対象を意味をもって特定できないこと、事物を我々が予見し統制できる力を向上させるが、理解できないままの現象主義的厳密さで満足していること、を攻撃した。
 ハイデガー(Heidegger)は、我々の出自の根源を形而上学的洞察が忘却している非人格的なものに見出した。
 ヤスパース(Jaspers)は、見かけは解放されている大衆の道徳的、精神的受動性を、歴史的な自己意識の低下、その結果としての責任ある主体性の喪失や信頼の上に個人的関係を築く能力の喪失と関連づけた。
 オルテガ(Ortega y Gasset)は、芸術や人文学での高い水準の崩壊は知識人たちが大衆の低い嗜好に適合するのを強いられた結果だ、と指摘した。
 フランクフルト学派の者たちも、表向きはマルクス主義の語彙を用いて、同じようなことを行った。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 西尾幹二が影響を受けたと2019年著でも明記しているニーチェに関する記述が興味深い。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ④。
 (16-02)ニーチェの破壊的熱情は、中産階級の上辺だけの精神的安全性に大恐慌をもたらし、神の死の目撃者となるのを拒否している者たちの虚偽の信仰だと彼が考えたものを粉砕した。
 ニーチェは、現実に起きていることに気づくことができない、そういう人々の偽りの精神的安定を情熱的に攻撃することに成功した。なぜなら、最後に至るまでの全てを語ったのは、彼だったからだ。すなわち、世界は意味も、善悪の区別も生み出さない。
 現実は無意味だ。そして、その背後に別の隠された現実があるのでもない。
 我々が現に見ている世界は最終通告(Ultimatum)だ。
 我々に対して伝えようとする言葉はない。何にも言及しない。
 自己を消滅させ、何も聴こえず、何も発声しない。
 これらは語られなければならなかった。そして、ニーチェは、この絶望状態での解決方法または救済策を発見した。解決するのは、狂気だ。
 大して多くのことは、ニーチェの後でその提示した方向では、言うことができなかっただろう。//
 (17)Modernity についての予言者になるのは、ニーチェの宿命だったように見えたかもしれない。
 実際には、彼は曖昧すぎて、その責務を果たせなかった。
 一方で、彼は監禁されながら、取り返しのつかない知的および道徳的なModernity の結末を断言し、古い伝統から何らかの救済を得ようと臆病に望んでいる者たちを嘲笑した。
 他方で彼は、Modernityへの、進歩の苦い収穫物への恐怖を非難した。
 彼は、自分が知って—かつ語って—怖れ慄いたものを受容した。
 彼は、キリスト教の「ウソ」に対する科学の精神を称揚した。しかし、同時に彼は、民主主義的平準化の悲惨さから逃れようと欲し、粗野な天才という理想に避難場所を見つけようとした。
 だが、Modernity が望んだのはその卓越性に満足されることであり、疑念と絶望によってバラバラに引き裂かれることではなかった。//
 (18)ゆえに、ニーチェは、我々の時代の明快な正統説(explicit orthodoxy)にはならなかった。
 明快な正統説は、なおもつぎはぎで成り立っている。
 我々のModernity を主張しようとしつつ、我々は多様な知的な仕掛けを用いてその努力から逃れようとしている。意味は人類の伝統的な宗教的遺産とは別個に復活し回復され得るのであり、Modernity によって生じた破壊にもかかわらずそうだ、と納得していたいがために。
 いくつかの判型のリベラルなポップ神学(pop-theology)が、この作業に寄与している。
 いくつかの多様なマルクス主義も、同様だ。
 どの程度長く、またどの範囲まで、妥協のためのこの作業が成功し得るのかは、誰も予見することができない。
 しかし、先に述べた、世俗性の危険に知識人層が覚醒することは、我々が置かれている現在の苦境から抜け出す、期待できる通路であるとは思えない。そのような考察が間違っているからではなく、我々人間は、一貫しない、操作可能な精神をもって生まれている、と疑ってよいからだ。
 知識人層にあるのは、人騒がせに絶望的になる何かだ。その知識人たちは、宗教的愛着心、信仰心、あるいは忠誠さそのものをもたないが、我々の世界における宗教のもつかけがえのない教育的、道徳的役割を執拗に主張し、自分たちがまさに代表的な目撃証人であるそれらの脆弱さを嘆き悲しんでいる。
 私は、無信仰であるとか、あるいはひどく苦しい宗教的経験の価値を擁護しているとか、いずれの理由でも、彼らを責めはしない。
 ただ、彼らの作業が彼ら自身が望ましいと考える変化を生み出し得るのかについて、納得することができないだけだ。なぜなら、信仰心を広めるために必要なのは信仰であり、信仰心の社会的効用という知識人たちの主張ではないからだ。
 人間生活における宗教的なものの位置に関するmodern な考察は、マキャベリ(Machiavelli)の意味での、あるいは慈悲は愚者に必要で懐疑的不信が啓蒙された者には似つかわしいと認める17世紀の自由思想家たち(libertines)の言う意味での操作的巧妙さをもつものであってほしくはない。
 ゆえに、このような考察方法は、いかに理解しやすいものであっても、我々を以前の状態に置いたままにするだけではなく、その考察自体が、限定しようとしているのと同じModernity の産物なのだ。そしてそれは、憂鬱にもModernityがそれ自身に満足していないことを表現している。//
 ——
 ⑤へとつづく。


 L・コワコフスキ

2393/L·コワコフスキ・Modernity—第一章②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 この前に試訳していた1999年の著でも、L・コワコフスキは、人の「好奇心」はヒト・人間という生物種の本性ではないか旨書いていた。以下にも似たようなことに触れている箇所がある。いずれにせよ、L・コワコフスキは我々が生物・動物の一種であるヒト・人間であることをつねに忘れてはいない(そしてマルクス主義に関する大著ではアインシュタインにも量子力学にも、哲学者としてのマッハにも論及する)・
 自然科学は「敵」だと明言し(西尾幹二)、あるいは「殺伐たる」自然科学(岩田温)としか評せられない日本の一部の<文学畑社会評論家>の視野狭窄、<観念肥大>・<現実無視>ぶりは相当にひどいもので、日本の現況には本当にげんなりする。一端に触れただけの、余計な前ふりだった。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・限りなく審判されるModernity②。
 (3)それでもなお、変化し続け、その変化にはふつうは十分な数の狂熱的な支持者がいる。
 古いものと新しいものの間の衝突はおそらく永く継続し続け、我々はそれから逃れようとはしない。構成物と進化の間の自然な緊張関係が示しているように。この緊張関係には生物学的な根源があるように思われる。
 我々は、この緊張関係は生(life)の本質的な特徴だと、考えてよいかもしれない。
 明らかに、いかなる社会も持続と変化の両方の力を経験することが必要だ。 
 既存のいかなる社会にもこれら二つの対立する力があるが、いずれかの相対的な強さを判断することのできる信頼するに足る手段を、何らかの理論が提供しているか否かは、疑わしい。そういう理論があれば、方向量(vector)のごとくそれらに加えたり減じたりして、それを基礎にして、予見する力をもつ発展の一般的図式を描くことができるだろうけれども。
 いったい何が一定の科学者たちに挫けることのない急速な発展を取り込む能力を与えるのか、何がその他の科学者たちをきわめて緩やかな発展の速度で満足させるのか、そして厳密にはいかなる条件のもとで発展または沈滞が暴力的危機または自己破壊を生むのか、について、我々はただ推測することができるだけだ。//
 (4)好奇心、つまり世界を危険や生理的な不快さに影響を受けることなく虚心坦懐に探査したいという別の衝動は、進化に関する学生たちによると、我々の種に特有の発生形態学的特質に根源をもつ。そして、そのゆえに、我々の種がその同一性を維持するかぎりは、我々の心性(minds)からそれを抹消することができない。
 パンドラの最も悲痛な事故と我々の祖先の楽園への冒険がいずれも証拠立てているように、好奇心という罪悪こそが、人類が遭遇した全ての厄災と不運の主要な原因だった。そしてそれは、疑問とする余地なく、人類の全ての偉業の根源でもあった。//
 (5)探査の衝動は、世界の文明の間に同じように配分されてはこなかった。
 何世代もの学者たちは、ギリシャ、ラテン、ユダヤ教、そしてキリスト教の淵源が組み合わさって出現した文明はなぜ、科学、技術、芸術、および社会秩序の変化を促進し、急速に伝搬し、加速させるのに独自に成功したのか?、と問うてきた。数世紀にわたってほとんど発展せず、稀にしか感知されない変化にのみ影響された多くの文化が残存したり、創造性の短期間の激発のあとで無活動の状態に陥ったりしたのだったとしても。//
 (6)満足し得る回答はない。
 どの文明も、多様な社会、人口統計、気候、言語、心理にかかわる環境が偶然に凝集したもので、その文明の出現や衰亡の一つの究極的原因を追求しても、成功する見込みはないように思える。
 つぎのような研究成果を示されても、その有効性には強い疑問を抱かざるをえない。
 例えば、ローマ帝国は上流階級の者たちの脳に毒を入れて損傷する鉛の鉢が普及したがゆえに崩壊した。宗教改革はヨーロッパでの梅毒の蔓延で説明することができる。
 他方で、「原因」を探そうとする誘惑に打ち克つのは困難だ。相互に無関係の説明できない要因で文明は勃興したり破滅したりする、と思ったとしても。同じことは、新種の動物や植物の出現について、都市の歴史的配置について、地球の表面上の山岳の配分について、あるいは特定の民族的言語の形成についても言える、と考えたとしても。
 自分たちの文明を見究めるために、我々は、我々自身を認識して、独特の集団的自己意識(ego)を把握しようとする。その集団的自己意識は、知覚するために必要であり、それが存在しないことは私自身の不存在が私にとってそうであるように耐え難いものだ。
 したがって、「我々の文明はなぜ現在のようであるのか」という疑問には答えが存在しないとしても、この疑問を我々の心から完全に排除することはできそうにない。//
 (7)Modernity それ自体は、modern でない。しかし、若干の文明では他の文明よりも modernityに関する衝突が明らかに顕著で、現在が最も深刻になってきている。
 Iamblichos は4世紀の最初に、ギリシャ人はその本性からして新奇さ(novelty)を好み、—野蛮人と対照的に—伝統を無視する、と述べた。
 彼はしかし、それを理由としてギリシャ人を褒めたのではなく、その反対だった。
 新奇さを好むという点で、我々は依然としてギリシャ人の後継者なのか?
 我々の文明は、<新しい>ものはその定義からして良いものだという(多言をもって表明されていないが確かにある)信念に、もとづいているのか?
 これは、我々の「絶対的な前提条件」なのか?
 こうした問題は、<反動的(reactionary)>という形容詞とふつう結びついた価値判断を、想起させるかもしれない。
 この言葉は明らかに非難の意を含んでおり、自分自身を叙述するためにこの形容詞を用いようとする人々はほとんどいない。
 だが、「反動的」であることは、いかに二次的であってもある側面のいくつかでは、過去は現在よりも良かったということを意味しているにすぎない。
 反動的であることは自動的に間違い(wrong)だということを意味しているとすれば、この形容詞はほとんどつねにそうした前提を伴って用いられることになる。—過去はどんな点についても今より良かったかもしれないと考えるのは間違いだ、ということになるように思える。これは、何であってもより新しいものはより良い、と言うことと同じだ。
 さらには、このような大胆な言い方では、我々の「進歩主義(progressism)をほとんど何も叙述していない。
 まさに<modern>という言葉にも、同じ曖昧さがつきまとっている。
 ドイツ語では、この言葉は「新しい(modern)」と「流行している(fashionable)」の二つとも意味する。だが、英語やその他のヨーロッパ言語はこれら二つを区別しない。
 ドイツ人は適切(right)なのかもしれない。
 だが、少なくとも二つの形容詞を使うことのできる文脈では、この区別がどのように境界づけされるのかは明瞭でない。
 確かに、ある場合には、これらの言葉は交換可能ではない。
 <moderm 技術>、<modern 科学>、そして<modern 産業経営>。これらの場合に、<流行している(fashionabe)>は当てはまらないだろう。
 しかし、<modern 思想>と<流行している(fashionable)思想>の違いを説明するのはむつかしい。同じことは、<modern 絵画>と<流行している(fashionable)絵画>の違い、<modern 服装>と<流行している(fashionable)服装>の違いについて言える。//
 (8)多くの場合には、<modern>という語は価値から自由で、中立的であるように見える。<流行している(fashionable)>という語と同じだ。すなわち、<modern>とは我々の時代を覆っているものだ。そして実際に、この言葉は、しぱしば皮肉たっぷりに使われている(チャップリンの<モダン・タイムズ>のように)。
 他方で、<modern 科学>や<modern 技術>という表現は、少なくとも通常の用語法では、<modern>なものはそれを理由をしてより良い、ということを強く示唆している。
 こうした意味の曖昧さはおそらく、すぐ前に述べたように、変化に対する我々の態度につきまとう曖昧さを反映している。変化は、歓迎されることもあるし、怖れられることもある。望ましくもあれば、呪詛されもする。
 多くの企業はその製品を、両方の姿勢を示唆する語句を用いて宣伝する。例えば、「良い、古い様式の(old-fashioned)家具」あるいは「おばあちゃんが昔作ったようなスープ」が、「全く新しいスープ」あるいは「洗剤産業界のわくわくさせる新製品(novelty)」とともに用いられる。
 二種の妙技が働いているようだ。
 おそらく宣伝広告の社会学は、どのようにして、どこで、なぜこうした矛盾する宣伝文句が成功したのかに関する分析を提供したのだ。//
 (9)<modernity>とは何かが明確ではないので、我々は近年は、<postmodernity>(いくぶん古い表現の<ポスト産業社会>、<ポスト資本主義>等を拡大したものか模倣だ)について語ることで問題を回避しようとしている。
 私はpostmodernism とは何でpremodern とどう違うのかを知らないし、知るべきだとも感じていない。 
 postmodern の後には何が来るのだろうか。
 ポストpostmodern、ネオpostmodern、ネオ・反modern か?
 名前の問題はさて措き、本当の疑問が残っている。
 すなわち、なぜ、modernity の経験と結びついた不快感がこうも広く感じられているのか? そして、この不快感をとくに大きくしている一定のmodernity の淵源はどこにあるのか? //
 ——
 ③へとつづく。 
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