秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Markus-Gabriel

2525/西尾幹二批判062。

 (つづき)
  西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
 こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
 すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
 月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
 西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
 そして、こうも書く。
 「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
 自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
 そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
 この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。 
 テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
 こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
 さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
 首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。 
 「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
 なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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 2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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 その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。 
 M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
 Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
 =清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
 (0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
 我々は事実『それ自体』を確認することができない
 そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
 『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
 しかし、それがすでに解釈なのだ。
 『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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 上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
 (1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
 「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
 違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
 われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
 おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
 『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
 だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
 『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
 捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
 とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
 すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
 『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
 だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
 世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
 『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
 世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
 われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
 いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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 (2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
 否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
 私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない
 おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
 しかし、このことがすでに解釈なのである。
 『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
 —解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
 すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
 しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている
 —『遠近法主義』。//
 世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
 いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
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 注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
 このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
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2524/西尾幹二批判061。

  さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
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  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
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  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
 --------
 (つづく)
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