秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Lev

2301/レフとスヴェトラーナ21—第6章①。

 レフとスヴェトラーナ、No.21。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.111-p.117。
 ——
 第6章①。
 (01) スヴェータは、最初の手紙ですでに、レフと逢うという考えを持ち出していた。
 1946年7月12日の手紙で、こう書いていた。
 「もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くしてくれると思います」。
 レフは最初から悲観的だった。こう答えた。
 「逢うことについてきみは尋ねている。…
 スヴェータ、ほとんど不可能です。58-1(b)は恐ろしい数字です。」
 (02) レフは正しかった。
 収監者が訪問者を受ける許可を得るのは、実際に稀だった。
 また、許可がなされるとしても、家族または配偶者に限られた。
 出逢うことは、「良好で良心的な、かつ迅速な労働」に対する褒賞として例外的な場合にのみ許された。
 訪問者があるという約束は、受刑者が好ましい振る舞いをすることの大きな誘因となった。
 だが、出逢いが行われたとき、それはしばしば失望になるものだった。数分間に限られ、かつ監視員がいる場所でだったからだ。
 親密な会話をし、身体的な愛情を示すことは困難だった。
 北部収容所のある追想録は、妻たちの訪問が終わった後で、受刑者たちは「決まって寡黙になり、苛立っていた」と記した。
 (03) 妻や親戚の訪問もすでに十分に困難だったが、スヴェータはこれらのいずれでもなかった。
 彼女は友人で、大学以来の級友にすぎなかった。そして、レフと逢う許可を申請する根拠は何もなかった。
 しかし、スヴェータは、延期しないと決心した。
 親戚がペチョラを訪問するのは「原則として可能だ」とレフが書いていたのに勇気づけられ、彼女が書き記したように、「あなたと私が個人的に可能かどうかを調べる」ことを始めた。
 おそらく収容所当局は、慣習法上(common-law)の妻として彼女に同意するだろう。
 スヴェータは、1946年秋に、そのような旅をする希望をもっていると、こう書き送っていた。
 「可能性があるにすぎなくとも、できるだけ早く可能になるように全てのことをするよう、お願いします。
 休暇を得ることは全く期待していませんが、研究日に10日間を使うことはいつでもできるし、無給で休日を利用することもできます。
 Mik. Al. (Tsydzik)は私を支援するでしょう。」
 成功する機会についてもっと情報を得るまでどんな危険もスヴェータに冒してもらいたくなくて、レフは、秋になるまで思いとどまるように告げた。
 こう警告した。旅をするのに2週間は必要だろう、これは予定される休日以外に仕事から離れることができる期間よりもはるかに長い、数ヶ月先に行う必要がある、と。
 Glev Vasil'ev の母親は、八月に息子と逢ったあとモスクワに帰るのに2週間かかった。これはレフが知っているただ一つの訪問の例だった。但し、彼はその旅は長すぎる、と分かっていたに違いないけれども(モスクワまで2170キロメートルの旅行は通常は、列車で2日または3日を要した)。
 レフは、スヴェータを遅らせようとした。
 たぶん彼は、彼女が失望するのを怖れていた。あるいは、彼女がさほどに努力する意味はないと感じていた。
 しかし、彼女が計画を実行したときに直面するだろう莫大な危険を恐れたことに、疑いはない。
 スヴェータは「国家機密」とされた研究を行なっていた。そのときに彼女は、確信的「スパイ」と逢うために労働収容所に旅をする許可をMVD に申請しようと計画していたのだ。
 このような申請をするだけでも、彼女には研究所から追放されるか、またはもっと酷いことをすらされる危険があった。
 (04) スヴェータは、旅をするのにかかる期間の長さや巻き込まれ得る危険について説かれても、納得しなかった。
 レフから受け取った情報に疑いをもったので、彼女はもっと知る必要があった。
 10月15日に、つぎのように書き送った。
 「2週間の旅行だとは思っていませんでした。
 足のない手紙であれば、それほどの長い期間がかかるのだと思います。
 本当だとしても(何とかして調べます)、休暇中でなら別だけど、〔秋ではなく〕冬に私が行くことを話題にしても無意味です。
 でも、実行する前に、もう一度検討しています。
 特別の許可が必要なのかどうか、私に尋ねていましたが、その許可はいったい誰から?
 あなたの側の当局(とあなたの行動がどう評価されているか)にだけ依っていると、私は言われてきました。でも、私が言われたことを信じない十分な根拠はあります。
 私がいる地位は、もちろん、どんな特権も与えてくれません。」
 (05) 第一に不確実だったのはそもそも、彼女は妻でなくともレフに逢うことが許されるか否か、だった。
 レフには、信頼できる情報がなかった。
 1947年2月9日に、こう書いた。
 「Abez の北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部でよりも、可能性は大きいように思えます。そこでは、原則として15分から2時間を認めています。
 上級管理機関は、親戚、兄弟、妻(法律上と慣習法上のいずれも)、姉妹と従兄弟には、数日間にわたって一度に数時間を認めているようです。
 不幸ながら、この情報は公式の情報源によるのではありません。
 調べることができたのは、さしあたりこれだけです。」
 3月1日までに、レフはより多くのことを知った。勇気づけられるものではなかったけれども。
 「出逢いについてだけど、スヴェータ、きみにどう説明すればよいか分からない。でも、僕の素晴らしいスヴェータ、逢うのは、本当にとても困難で、たぶん屈辱的ですらある。そのときに僕たちが『痩せたナナカマドの木』(The Slender Rowan Tree)〔注〕を歌わないとしても。
 (原書注記—あるロシア民謡(「Ton'kaya nabina」)。悲しく美しい曲で、その歌詞はレフとスヴェータの気持ちと合致していた。
 「痩せたナナカマドの木よ/どうして揺れながら立っているの?/頭を下に曲げて/自分の根っこにまで。/道を横切り/広い河を越えて/やはり独りで/樫の木は高く立っているのに。/ナナカマドの木のように、どうやれば私は/樫の木に近づくことができるの?/可能ならば私は/前にかがんで腰を曲げはしないだろう。/私の細い枝で/樫の木の中へ入って落ち着き/昼も夜も囁きつづけるだろう。」〔/は改行部分—試訳者〕)
 ほとんどいつも、監視員がいる監視小屋で、数分間だけ逢うことしか許されていない。…
 ときには—これは最近にBoris German と彼の母親の場合に起きたことだけど—監視員が、当局がすでに許可を裁可した出逢いを、最後の瞬間になって拒否するかもしれない。…
 工業地帯でたまには連続する日々に数時間ずつ逢うことが許されてきた、というのは本当だし、その中には実際には監視されないまま逢うのが認められることもある(これはGleb(Vasil'lev)と彼の母親の場合に起きた)。
 でも、これらは稀なことで、58-1(b)の政治的受刑者には原則として認められません。
 収容所轄機関の文化教育部門からの肯定的証明書が役立つかもしれない。それを得るのは容易ではないけれども。
 しかし、それは主要な問題ではありません。…
 二人が逢うことの性格を思うと、かりにそんなことが起きるとしてだけど、僕はすぐに、きみは満足するだろうか、それともあの耐え難い苦痛を再び呼び覚ますだけだろうかと、考えてしまいます。あの耐え難い苦しみは、すでによく確立された僕たち二人の新しい現在の関係に慣れたために少しは和らいでいたのです。
 われわれを分かつ到達不可能な隔たりを、いま以上に強く感じてしまうのではない?
 他の人々は幸せなところにいるのに、幸せであることがきみにはいま以上に困難になるのではない?」//
 (06) スヴェータは思いとどまろうとしなかった。
 自分にとっての危険や影響がどのようなものであっても、ペチョラまで旅をしてレフに逢うと決心していた。たとえ数分間であっても。
 モスクワの収容所管轄機関が彼を訪問させようとしなければ、ペチョラの収容所当局に直接に申し込むつもりだった。
 そして、拒否されるようなことがあれば、おそらくはレフを助けてきた自由労働者の協力を得て、収容所に入り込む他の方法を探すつもりだった。
 手紙が秘密裡に彼に届けられるのならば、彼女はなぜできないのか?
 これはきわめて勇気がある、大胆な計画だった。
 かつて誰も、密かに労働収容所に入り込もうと考えなかった。//
 (07) しばらくの間は、計画を立て、情報をより多く収集する時間があった。
 北極圏では五月まで続く可能性のある冬の間にペチョラに旅するのは、暗闇が長くつづき、列車が動く可能性は氷結する気温で閉ざされるために、安全ではなかった。
 レフは発電施設で、夜間勤務で働いていた。
 彼は三月の末に、春が到来する兆しを感知した。
 早朝の光の美しさに心打たれつつ、希望と幻想を性格的に慎重に見守っていた。//
 「朝に発電施設を出るとき、僕のとても嫌いな黎明の影はもうありませんでした。でも日の出の輝き、暖かい太陽は、雪の吹きだまりを半分溶けた角砂糖に変えています。
 客観的に悪さを持っていないものがあるというのは不思議ですが、何かの理由で、きみはそれを嫌悪するだろう。
 このようにして僕は、偽りの朝焼けを感じています。…
 かつて夜明けに仕事を終えて歩いて帰っていたとき、月はもう低い所にありました。
 僕は尋常でない光に驚いて、突然に黙り込みました。
 雪の平らな表面は、朝の光を受けて青白く、影の部分は濃い灰色でした。一方で、雪の吹き溜まりの斜面は、徐々に衰える月光を反射してまだ光っていました。
 そして朝の空は、松の木の優美な影の上にあって、薄暗い灰色と灰色混じりの青緑色から柔らかいバラ色に変わりました。…
 日々が春に似て素晴らしくなった瞬間に、ゆっくりと溶けていく雪の中の汚れの中で、春が姿を現しています。そして、太陽は輝くのをもう惜しみません。
 きみは明るい光の中の全てを見つめるだろう。
 きみは少し(僕はたまにしか好きでないけど)語りたいと思っている。—誰か好い人物について話す、または…ちょっとの間だけ馬鹿話をする…。」
 (08) 暖かい天候が戻ってくるとともに、あらためて訪問についての会話が始まった。
 6月の間に、Nikolai Litvinenko の両親がKiev から彼らの息子に逢いに来た。
 レフは警告としてスヴェータにこう書いた。「出逢いは、愉快なものではありませんでした」。
 Litvinenko が申し込んだ北部ペチョラ鉄道労働収容所管理機関は、各回2時間逢うことのできる訪問を三回許可していた。
 しかし、木材工場の管理者は、監視小屋で監視員が同室してのものを、一回だけしか許さなかった。
 レフはスヴェータに書いた。
 「これが我々が得ることのできる最上限です。
 僕の条項は、それ以上を何も保証しないでしょう。
 Nikolai は、条項58-1(a)(原書注記—祖国に対する裏切りの罪。レフに対する58-1(b)(軍人による祖国に対する裏切り)と似た条文だった)の適用を受けてここにいます。」 
 Litvinenko 家族は「豊富な潤滑酒」にもかかわらず、それ以上の時間を得ることができなかった。この語でレフが意味させたのは賄賂だった。「莫大な総額の金が彼らにかかりました」。
 レフはLitvinenko の件から、スヴェータの訪問について積極的なことを何も見出さなかった。//
 「あらゆる事が、とくに調整が、彼らにとってきわめて高価なものでした。
 少なくとも彼らは多額の金銭を持っていて、だからさほどに負担にはなりませんでした。
 仕事をしているふりをして監視小屋へ歩いていったとき、彼らを見ました。
 母親はまだ若くて、でも痩せていました。彼女はKiev には自分のようにふっくらした人々は多くはいない、太つている人を見るのは珍しい(飢饉の示唆)、と言ったけれども。
 スヴェータ、外部者としてこのような出逢いを観るのは悲しい。
 Anton Frantsevich (原書注記—Anton Frantsevich Gavlovskiiは1938年以来のペチョラの受刑者で、Strelkovの実験室で助手として働いていた)が昨年に彼の妻に、離れたままでいて欲しいとの頼んでいるにもかかわらず彼女が来れば、逢おうとすらしないだろう、と伝えました。これは理解できることです。 
 彼らに神の加護あれ。
 時期がもっとよくなるまで、この問題を語るのはやめよう。」//
 レフは、自分を訪れるというスヴェータの計画に気落ちし、勇気が出なかったので、ほとんど彼女と逢うのを怖れているように見えた。
 たぶん彼は、逢っても満足を与えず、離れている苦痛をもっとひどくするのではないかと彼女に尋ねたとき、自分の心の声を伝えていたのだ。//
 (09) Litvinenko の経験でレフは意気消沈したとしても、スヴェータは、ペチョラへの別の訪問者によって励まされていた。
 Glev Vasil'ev の母親のNatalia Arkadevna は、息子に逢うため6月半ばにペチョラへの二度めの旅をしようとしていた。
 レフはスヴェータへの5月1日の手紙で、1946年の最初の旅行で彼の母親はは息子と聴取されない時間を何とか過ごすとができた、と語っていた。
 Natalia Arkadevna には、その成功を繰り返す自信があった。
 彼女はペチョラに出発する前に、レフの叔母のOlga に会いに行った。Olga は彼女と一緒に旅をしようと思ってきていたが、それは、レフが安心したことだが、彼女が医師に思いとどめられるまでだった(Olga はスヴェータがレフと通信して欲しくなかったということ)。
 数週の間、Olga はスヴェータに旅行計画について話していた。
 Olga が旅行をやり遂げると考えるのはどうかしている、という点で、スヴェータはレフに同意した。—地下鉄でモスクワを縦断するにも大騒ぎをしていた女性だった。Olga は、賢明にもNatalia Arkadevna のような「経験のある旅行者」にくっつこうとしたのだけれども。
 その頃までにGlev の母親は出発する準備が出来ていたが、スヴェータは、Olga が提案した旅行についてたくさん聞かされていたので、自分も昂奮する気分になった。—かりに間接的にでも—スヴェータを知った者は、彼女はまもなくレフと逢うのだろうと思ったに違いない。
 ——
 第6章①、終わり。
 

2298/レフとスヴェトラーナ20—第5章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.20。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.105-p.110。
 ———
 第5章③。
 (23) 密送の仕組みが発展するにつれて、スヴェータはレフと同様に多くの報せを得られるようになった。
 1月20日、彼女は家族や友人たちと乾杯して、レフの30歳の誕生日を祝った。
 そしてOlga 叔母に会いに行った。叔母はスヴェータがレフに送るための小荷物を持っていた。
 スヴェータは、レフのために何かと労力を使おうとする人々を嫌がっていることを知って、「あなたの考えを伝えたけれど、枕と夏服を受け取るのを拒みました」と説明した。
 オルガは、急いで地方ソヴェトに行ったのだった。ソヴェトはレニングラード・プロスペクトにある共同住宅のレフの古い部屋に、「ジブシー」を移していたからだ。
 彼女はそれを「ジプシー」から返してもらうよう当局に掛け合っていた。彼らは、レフの持ち物を全て自分のトランクに詰めて放り出していた。
 オルガは、レフは自分の所有物を失えば気を動転させるだろうと気遣った。しかし、レフが本当に心配したのは、両親が持っていた写真だけだった。
 彼は叔母にこう書き送った。
 「あの部屋はもう僕のものではありません。僕の持ち物について気にかける必要はありません。
 判決で僕の物が全くなくなったのは確かで、それらは形式的にはあなたと僕の所有物のはずでしょう。でも、今では取り戻すのは遅すぎます。
 かつまた、それを必要ともしていません。
 何かがもし残っていたら、僕のために保存しないで、売って下さい。あなたには金がもっと必要です。
 それらは、人間の生活には重要ではありません。騒いだり神経をすり減らす価値のないものです。」
 (24) 物質的条件は、モスクワの誰にとっても厳しかった。
 店舗は空で、食料の供給は不足し、基礎的な物品ですら配給された。
 スヴェータの家族は、多くのモスクワ市民と同様に、ジャガイモや他の野菜を食べて生き延びていた。それらは、日曜日に地下鉄と列車で旅をする郊外の割当区画で栽培していた。
 1947年の春までに、モスクワの生活条件は飢餓を人々が不安になり始めるまでに悪化した。不安は、ウクライナの飢饉の噂で大きくなった。ウクライナでは1946-47年に、数十万の人々が飢餓で死んだ。
 スヴェータはレフへの手紙で「ウクライナで起きていることについては、考えるだけで耐えられません」と明確に書いた。検閲があれば、受け付けられなかっただろう。
 「人々はシベリアかベラルーシ行きの列車に、群がって詰めかけています。でも、そこに行っても、ジャガイモしかありません。
 列車は、モスクワに入って来るのを止められています。にもかかわらず、市内には大群の物乞いたちがいます。
 モスクワの住民の少なくとも半分は、戦争中よりも悪い生活をしています。
 レヴィ、これを見るのは痛ましい。
 みんな、秋までの日数を計算し、収穫量はどうなるだろうと自問しています。
 当分は、家では全て十分です。…
 肉を少しも見ないのは本当ですが、菜食主義のような人々がいて、彼らはしばしば100歳になるまで生きると言われています。
 収入に関するかぎり、事態は悪くなりました。パパは1300ルーブルを貰っており、私の月給は930ルーブルです〔注〕。でもこのお金はすぐになくなってしまいます。」
 (原書注記—モスクワの工場労働者の平均月額賃金は、約750ルーブルだった。)
 (25) 手紙を交換し始めた最初から、二人は、「Minimum(最小限)」「Maximum(最大限)」という暗号符で呼んだものについて議論してきた。二つを合わせると短く「minimaxes」だった。
 前者は、レフが科学的仕事のできる収容所の別の部署への移動を願い出ることを指した。後者はもっと野心的に、レフの判決の短縮を、あるいは釈放をすら、獲得するよう訴えることを指した。
 スヴェータは最初から楽観的だった。
 彼女は、1946年8月28日にこう書き送った。
 「二つともに完全に可能です。
 スターリン賞を貰ったTupolev やRamzin 〔注ー下記〕のことを知っているでしょう。十分には知られていない、他の例も多数あります。」
 (原書注記ーAndrey Tupolev(1888〜1972)、ソ連の航空機設計家。1937年に逮捕され、受刑者としてNKVDの秘密の調査発展研究所で働いた。1943年にスターリン賞を授与された。Leonid Ramzin(1887〜1948)、ソ連の暖房技師。1930年~1936年は収容所の受刑者で、やはり1943年にスターリン賞を得た。)
 MDV が労働収容所にいる科学者を見つけ、ソヴィエト経済の専門家部門へと、とくに収容所の統制下にある軍事研究施設へと再任用する政策を採用していたのは、本当だった。
 問題は、収容所の幹部たちが通常は輩下の科学者を釈放する気がないことだった。発電所、生産実験所、照明の仕組み等々を彼らに依存していたからだ。
 レフは、すでに電気グループへの配転によって得た以上のものを達成できる希望がある、とは考えていなかった。
 「最大限」については、全く望みをもたなかった。
 スヴェータにこう書いた。「最大限を願い出することで、きみの活動力を無駄に費やさないで欲しい」。
 しかし、彼女は二つともに追求し続けた。
 12月にこう書き送った。
 「あなたには自信がない。私にも大した自信はない。たぶん、あなたと変わりはない。
 でもレフ、少しでも可能性があるなら、試してみる価値があるのではない?
 何も得られなくとも、不必要な苦しみが今以上に増えるのではないと思う。
 だから、我々は冷静で、希望に惑わされないでいる必要がある。—でも、行動です。
 何もしないで自然に生まれるものは、何一つありません。」
 (26) レフは1947年2月頃には、どんな訴えを考えても遅すぎる、と結論づけていた。
 物理研究所での科学研究は「学生の作業」のようなもので、移転を何ら保証するものではない、と思った。Strelkovを通じて誰かが収容所の科学行事でペチョラを訪れる予定があることを知れば、その人に頼んでみる、とスヴェータに約束したけれども。
 判決に対する異議は、フランクフルト〔an der Oder〕の軍事法廷によるレフの調査を再検討することを意味するだろう。
 全てはもう確定してしまっていると思っていたので、自分の経験を繰り返す意味を認めなかった。また、自分の状況をいっそう悪くさせる必要もなかった。
 レフは、5月1日の長い率直な手紙で、「最小限」や「最大限」について語り合うのはもうやめようとした。
 「異議が成功する可能性が少しでもあるためには目撃証人が必要で、そんな証人は決して召喚されないだろうから、最大限については考えていません。証人を何とかして発見するのも困難でしょう。
 証言の時間と…評決の発表の間に、新しいウソが突如として作られないだろうとは、確信を持っては言えません。
 人は二度目には経験を積んでいる、というのは本当です。…でも、成功の可能性はなおも微々たるものです。
 全ての行為は、少なくとも二つの異なる動機にもとづきます。—「善意」、これは自然な説明です。「悪意」、これは共謀的な考え方をして「汚いこと」を隠蔽します。
 最大の問題は、僕に有利な事実の多くに目撃証言者がいない、ということです。そして、誰も僕を信じようとしません。
 紳士的な教授(訴追官)は、自分たちの前に来る者が、愛国心や普遍的良識への忠誠心のような真摯な動機をもつことはあり得ない、と確信しています。…
 「最小限」については、核と宇宙の研究の軍事上の秘密の重要性によって、58条1bによって有罪とされてこの地域で労働している者には、とくに特別に殊れた者以外の者には、いかなる可能性も排除されています。
 労働収容所で過ごした者は、Yakutia、Komi、Kolyma や若干のその他を例外として、遠く離れた地方の町ですら大きな経済・産業の中心で働くことは許されていません。この事実は、当局がこの政治的条項を、まだ緩やかな条項であっても、どのように見なしているかを、十分に示すものです。
 どの宣誓証言者も、受刑者のための人物であっても、こうした条項を無視することはできません。
 この二ヶ月以内に、『Tukhachevsky 時代』(1937年)に有罪とされた、ここの誰かが釈放されるでしょう。
 その人物は共産主義青年同盟中央委員会の元委員で、軍用機操縦者、純粋な狂熱者です。そして彼は、ここに残っています。
 彼はここで馬具製作者として働き、この木材工場はまるで自分のものであるかのごとく、収容所の全ての問題に関係していました。…
 彼は一度ならず、我々が作業場で必要とする革のひもを購入するために、自分のパンを売り、タバコを拒否しました。
 そして、彼が行なったことに誰も感謝しておらず、あるいは、彼が釈放されて生活するのが許される場所が決定されたときに、それを思い出しました。
 きみは、きみの判決の刑期を変えることができない。」
 (27) スヴェータはレフの論理を受容する気がなかった。
 6月8日に、こう書き送った。
 「どう言えばよいか、分からない。
 あなたと議論することはできない。なぜなら、あなたがが書いていることは全て本当であること、この不快な真実があなたの状況の99.99パーセントを占めていること、残っているのはほんの僅かの偶然にすぎないだろうこと、を知っているから。
 でも、可能性は存在している。このこともまた、事実です。
 あなたは、心を失望でいっぱいにしないで、やはり努力し続ける方へと向かって欲しい。
 言うのは行うよりも簡単だ、と分かっている。
 あなたの立場に私がいたら、耐えられないでしょう。だから、迫ったり、強く主張したりはしません。ただあなたを、優しく説得しようとしているのです。
 試しつづけることで、事態がもっと悪くなることはあり得ますか?
 そうでないなら、リョーヴァ(Lyova)、たぶんだけど、これまでやって来たことに、あなたはもう一度耐える気持ちになりはしない?」
 スヴェータが選んだのは「最大限」への望みを持ち続けることであり、「最小限」のために積極的に請願することだった。—この方針は、FIANの理事長の支持も得た。この人物は、レフのために文書を書くと約束した。
 彼女はレフに、こうも書いた。
 「私はたぶん間違っている。
 でも、希望や夢なしで生きるよりもこれらを持って生きることの方が易しいというのが、この5年間にあったことではなかったの?」
 (28) しかし、レフには最終的な言葉があった。6月28日に、こう書き送った。
 「ちなみにかつて、Kharakov 研究所出身の化学者で、直流電気技師が職業だったBoris German について書きました。
 この人は、その専門能力で雇用して欲しいと頼んだ。
 ほどなく収容所側は彼を、一時(transit)収容所へと呼んだ(我々と遠くなく、ペチョラ駅に近い)。
 彼はそこで数週間を座ったままで塩漬けにされたあと、「間違って」Vorkuta へと移送された。
 ふつうの仕事(北極圏の炭鉱)の数週間後に、彼は一時収容所に戻った。そこからもう一度「間違って」Khalmer-Yu(北極洋岸の鉄道建設収容所)へと移送された。そこは、電気技師の気配などどこにもない場所だった。
 彼は、どの移送車両でも、慣行に従って持ち物を強引に奪われた。そして、最後に彼は一時収容所で知人に見かけられたけれども、その知人には彼は、肉体的には以前の彼の半分の人間だと思えた。
 いま彼がどこにいるのか、誰も知らない。
 彼は、できるだけ早く手紙を書くと約束したけれど、今まで誰も、彼から何も受け取っていない。
 Anisimov の友人でKuzmich という名の人は、同じような運命に遭ったように思われます。
 その人も「特別の任務」のために呼び出され、その後に消え失せました。
 こんなことは日常茶飯事で、「そうなる」(完全な消耗の最後の段階に進む)最も迅速な方法はきみの専門能力でもって仕事ができるよう移送を頼むことだ、と古い収監者たちは言います。
 これを聞いて、僕は、思わず楽観的に書いた「収容所・内務省(MDV)」あての願い出文書をすっかり破り棄てました。…
 よし、これで終わりにします。」
 (29) レフは木材工場にとどまる他はないと観念して、スヴェータは、どんな「最大限」や「最小限」よりもはるかに大胆なことをする計画を立て始めた。
 すなわち、ペチョラでレフと逢うために秘密の旅をすること。
 ——
 第5章③、終わり。第6章へとつづく。

2294/レフとスヴェトラーナ19—第5章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.19。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.98-p.105。
 ——
 第5章②。
 (12) レフや他の収監者のために木材工場の内外に密かに手紙を出し入れする自由労働者が、他にも数人いた。
 一人は、Aleksandr Aleksandrovsky だった。食糧供給部に勤務していた、灰色の毛髪の50歳代半ばの人物で、1892年に、Voronezh の近傍で生まれた。
 Aleksandr は第一次大戦を戦い、ロシアの内戦時に赤軍に入隊した。
 1937年、彼は内戦の英雄のTukhachevsky元帥による弾圧に反対して公衆の面前で演説した後で、逮捕された。
 ペチョラでの5年の判決に服したあと、釈放後も、年下の妻のMaria とともに自由労働者としてとどまった。Maria は、戦争中にカリーニンの町からペチョラに避難していた。
 彼女は、ソヴィエト通りにある電話交換所で働いていた。
 二人は二人の小さい息子たちと一緒に川そばの待避壕に住んでいたが、1946年に、工業地帯の中にある住居地区へと移った。
 その家屋は、内部はきわめて窮屈だった。
 壁は、ベニヤ板でできていた。
 小さな(上水道なしの)台所があり、二つの小さな部屋があったが、シングル・ベッドは一つだつた。
 男の子たちは、床で寝た。
 家屋の裏には庭があり、そこで彼らは何羽かのニワトリと一頭の豚を飼った。
 (13)  Aleksandr とMaria は、Strelkov の親しい友人だった。
 二人はしばしば、彼と電気グループの彼の門下生たちを、家でもてなした。
 二人は政治的収監者たちに同情し、彼らを助け、支えることのできる全てのことを行なった。
 Maria は、電話交換所で当局の会話に耳を傾けた。そして、計画されている移送やその他の制裁について収監者たちに警告を発することができた。
 二人はどちらも、収監者たちのために手紙類を送り、受け取った。
 子息のIgol は、「父は、シャツの中に手紙類を隠し、それらを刑務所地帯の内外へと出し入れしたものだ」と、思い出す。Igol は、切手を収集するのが好きだった。
 (レフはスヴェータと叔母たちに、「ここには熱心な切手収集者がいる」ので、違う種類の「面白い切手」を送ってくれるよう頼んだ。)
 Igol はつづける。
 「父は工業地帯のための通行証を持っており、一度も探索されなかった。
 誰も恐れていなかった。父はよく言っていたものだ。『私を処罰しようとさせてみろ!! 』」
 (14) Stanislav Yakhovich は木材工場の機械操作者で、収監者のための手紙密送に関与したもう一人の自発的労働者(voluntary worker)だった。
 レフはこの人物に発電施設で初めて会い、ほとんど取っ組み合いの喧嘩になった。 
 Yakhovich がレフのさらの手袋を取り去り、泥と油脂を付けて返した。
 これはレフが発電施設に来て最初の週に起きたことで、レフは、自分はこき使われるような人間ではないと示したくなった。
 レフは軍隊にいたことがあり、剛強だった。
 彼は、自分が生き延びたのは自分を防御する能力があったからだと思っていた。
 それでレフはYakhovich に跳びかかり、もう一度手袋を取っていけば「顔を強く殴るぞ」と威嚇した。 
 Yakhovich は何も言わず、微笑んでいた。
 彼はレフよりもかなり大きかったが、その喧嘩ごしの言葉にもかかわらず、レフは乱暴な人物ではないと理解することができた。
 二人は、互いに友人になった。
 (15) Yakhovich はLodz〔ウッジ〕出身のポーランド人で、微かな訛りのあるロシア語を話した。
 彼は工業学校を卒業しており、Orel 出身のロシア人と結婚し、二人の子どもがいた。息子は1927年生まれ、娘は1935年生まれだった。
 1937年まで、機械操作者として働いたが、その年に逮捕された。それはほとんど確実に、ポーランド出自が理由だった(彼を「ポーランド民族主義者」とするので十分だった)。
 Yakhovich は、ペチョラ労働収容所での8年の判決に服し、1945年の釈放の後もとどまった。そして今は、工業地帯の鉄条網の垣根のすぐそばの工場通りにある粗末な家屋の一つの中の一部屋で、もう一人のかつての収監者であるLiuskaという名の女性と一緒に生活していた。
 (16) ペチョラで長く過ごしていたので、Yakhovich は、収監者たちに深い同情の気持ちをもち、彼らを助けるために、できることなら何でもした。—使い走り、食糧提供、手紙配達。自分自身にとって大きな危険となるものだったが。
 自分のように妻と離れさせられた収監者には、特別の感情をもった。
 彼は1947年にOrel へと旅をして、妻と娘にペチョラに来て一緒に生活しようと説得したものだ。
 (17) あるとき、レフはYakhovich に、一束のスヴェータの手紙類を渡した。それは、営舎の厚板の床の下に保蔵していたものだった。
 レフはYakhovich に、モスクワまで運んでくれる者が見つかるまでそれを預かって欲しいと頼んだ。モスクワにはスヴェータがいて、彼女が回収する。
 収容所による検印が捺されていないためにその手紙類は非合法で、監視員の探索で発見されれば、没収され、廃棄されただろう。
 レフは分離地区へと入れられて制裁を受けるか、第三コロニー〔植民地域〕へと移送されるだろう。第三コロニーの生活条件はぞっとするようなもので、規則にもう一度違反すれば、懲罰警護車両で送られた。
 Yakhovich は手紙類の束をきつく詰めて上着の内部に隠し、収容所を出る途中にある主要監視小屋へと向かった。
 しかし、監視員は上着のふくらみに気づいた。
 監視員はYakhovich を止めて、それは何かと訊ねた。 
 Yakhovich は答えた。「何て?、これ? ただの紙だよ」。
 監視員は「見せろ」と言った。 
 Yakhovich は、手紙類の束を取り出した。
 監視員は「いや、手紙じゃないか」と言った。 
 Yakhovich は言った。「そうだ。それで何か(so what)?」
 「誰かがこれを投げ捨てた。それで、私はこれを掴んでトイレ区画へ行って、紙として使うつもりなんだ」。
 監視員は手で合図して、通過させた。
 (18) 密送者のネットワークが大きくなるにつれて、レフは、検閲を避ける自信をいっそうもち、ますます率直に手紙を書き始めた。
 この新しいやり方で彼が書いた最初の問題は、数ヶ月間悩んでいた事案に関係していた。すなわち、Strelkov に対する確執で、これは、収容所での人間の性質の暗い側面を晒け出すものだった。
 鉱山技師としての専門的能力によって、Strelkov は実験室の長としての高い地位を得た。実験室で木材工場での生産方法を試験し、制御した。
 他の誰も、彼の仕事をすることができなかった。
 しかし、自分の道を進む彼の「頑固な粘り強さ」(レフの言葉)によって、収容所幹部の何人かが彼から遠ざかった。彼らは、自分たちが生産計画を達成する圧力をかけられているときに、たんなる一収監者によって可能なこと、または不可能なことを告げられることが不愉快だった。
 1943年、Strelkov は、ペチョラ鉄道森林部の副部長だったAnatoly Shekhter と衝突した。Strelkov は、技術基準に適合していない資材を使って建設することを止めさせた。
 この問題はついには収容所当局の最上部にまで達したが、Strelkov が支持された。
 しかし、Shekhter はこの事件を忘れず、それ以来ずっと、Strelkov が行なった全てについて落ち度を見出そうとして、迫害した。
 (19) 1946年12月、Shekhter は作業を監察するために木材工場で数週間を過ごした。
 乾燥室の長—Gibash という名の収監者で、レフによると「嘘つきでペテン師」だとみんなが知っていた—は、自分の経歴のためにこの機会を利用しようとし、悪意をもってStrelkov を非難し咎める文書を書いた。それによると、実際には乾燥しているのに乾燥していないという理由で、作業のために材木を提供することを、Strelkov は拒んでいる。 
 Gibash は検査を求めて近傍の実験所に材木の見本を送り、その実験室は乾燥していると認定した。送る前に彼が自分で乾燥させた、と広く疑われたけれども。 
 Strelkov は、この非難—大テロル時代の用語法では、彼は乾燥した材木の供出を破滅的に遅延させて、工場の計画を破壊した、という非難—にもとづいて解任され、「怠慢(sabotage)」の罪を問われて、MDVの前に引っ張りだされた。 
 Strelkov は技術統制部に対して異議を申し立て、多数の材木標本が試験され、その結果として、自分の地位を回復した。
 しかし、Gibash は、別の訴追原因を見つけた。そしてこの事件は1947年の初めの数週にまで引き摺られた。
 この当時、レフはスヴェータにこう書き送った。
 「これについて、書きたくはありません。とても悲しいことです。でも、これを分ち合えるただ一人はきみです。…
 いったい何が、同じような地位にいる他人の破滅を望ませるのでしょうか? 
 Gibash は絶対に人間ではない。彼はとっくに、そのような言明をする権利を失っている。…
 この長い期間ずっと、僕はStrelkov の平静さと自己抑制を本当に尊敬していた。
 ときどき僕は、彼の妻か娘さんに手紙を出して、彼女らには何と素晴らしい人がいるのかと語りたくなる。
 もちろん、そんなことは馬鹿げている。彼女たちは誰よりもそれを知っている。だから、無分別なくしてそんなことをやり遂げないだろう。
 でも、僕はやはりそうしてしまうのではないか、と怖れています。 
 Strelkov の娘さんは、鉄道技術モスクワ国立大学の学生で、その夫、赤ん坊の子息、母親と一緒にプラウダ通りに住んでいます。
 当局はStrelkov に関して何かをするでしょう。でもゆっくりすぎて、誰に有利に決定するのかを知っているのは神だけです。
 最も理想的な人々がときには、最も暗い道へと入り込むのを強いられます。—僕は全く懐疑的になって、過去だけを信頼しています。」
 良い知らせが1月28日にやって来た。ペチョラ収容所管理機関がAbezで、Strelkov を復職させる決定を下したのだ。
 数週間後、Gibash は、さらに北方にある石炭地域であるVolkuta へと送られた。
 (20) Strelkov 事件は、レフの心の内部に何かを解き放った。
 彼はスヴェータに、より率直に収容所の生活条件について考えていることを書き記し始めた。
 レフを最も動揺させたのは、収容所システムがほとんど全員に対して最悪のものを生じさせた、そのあり様だつた。小さな対立関係や敵愾心が、窮屈な生活条件と生き残ろうとする闘いによって増幅した。
 悪意がわだかまり、容易に暴力へと転化した。
 レフは3月1日に、こう書き送った。
 「僕の大切なスヴェータ、事態の全てについて語る必要がある。
 スヴェータ、きみを愉しませるものを多くはもっていない。たぶん、これを決して書くべきではないのだろう。
 きみはかつて、不快な文章をお終いにするのは必ずしも良くはなく、その必要もない、と言った。
 でも、書き始めたので、書いて終えてしまう必要がある。
 耐えるのが最も困難なのは決して物質的な苦難ではない、ということが分かりますか?
 二つの別のことだ。—外部の世界と接触できないということと、僕たちの個人的な状況の変化は、いつでも予期せぬかたちで生じ得るということ。
 明日何が起きるのか、僕たちには分からない。一時間後のことについてすら。
 きみの公的な地位は変化し得る。あるいは、いつの瞬間にでもどこか別の場所に、ほんの些細な理由でもって、送られるということがあり得る。ときには、何の理由も全く存在しないかもしれない。 
 Strelkov 、Sinkevich(この人は今日去った)、そして多数の他の者たちに起こったことが、このことの証拠だ。
 ふつうの生活では全てのことが誇張されるのだから、これは興味深い(悲劇的な意味で)。
 人間の欠点や弱所と人々の諸行為の結果は、莫大な重みをもつ。
 もちろん美点もある。でも、それはふつうの状況では始めるのに大きな役割を果たさないのだから、ここでは美点ははるかに稀少になって、消失し始めるほどだ。
 悪意は敵愾心に変わり、敵愾心は激しい憎悪のかたちをとる。そして、慈悲深さは無意味なものになり、ひいては何らかの罪へと導く。
 ぶっきらぼうが侮辱となり、疑念は中傷となり、金銭横領は強盗になる。義憤は憤激となり、ときには殺人にまで至る。
 どんな少しでも明確な活動であれ、利己的な視点と世間的な視点のいずれからも、不適切かつ不必要なものになる。
 人が望むことのできる最大のものは、全く退屈な何かだ。辺鄙な片田舎の劇場の案内係の職務のような。その仕事は、個人的生活のために一日あたり少なくとも16時間をきみに残し、少しばかりの金銭も与える。…
 ああ、スヴェータ、今日はとても日射しの好い日なので、僕が書いた馬鹿げたことなど全て、誰の役にも立たない。」
 (21) 「どこか別の場所に移送されること」、これがレフの大きな恐怖だった。
 これは、条件がもっと悪い別の収容所または森林植民地区へと出発する懲罰車両によるものを意味した。
 レフは、「物質的苦難」ではなく、「外部の世界との接触」ができなくなることを怖れた。後者は、スヴェータを意味した。
 警護車両では、監視員は必ず彼の物(「全てが消失する。—印刷物、文書資料、手紙、写真」と彼は彼女に説明した)を奪う。そして、彼は何も書くことができない場所で最後を迎えるかもしれなかった。
 これは、スヴェータが恐れたことでもあった。—いつどの瞬間にでも、レフが消えるかもしれない。そうなれば、彼女はレフと接触できなくなる。
 毎月、木材工場を出発する警護車両があった。
 収容所運営者はその車両を、特定の収監者たちを懲罰し、危険だと判断した集団を破壊するために用いた。
 ある収監者が車両移送へと選抜されるか否かは、通常は恣意的に決定された。また、しばしば監視員または管理員がその者を嫌ったことによるにすぎなかった。
 (22)  病気になること、これがレフのもう一つの恐怖だった。
 他の収容所またはコロニーから収監者たちが到着することは—彼らは「ほとんどつねに体調がはるかに悪く見え、おそろしく不健康だった—、簡単に病気になることがあることを、彼に思い起こさせるのに役立った。
 「栄養障害—衰弱—は、我々の収容所でふつうのことです。
 壊血病もあります。でも、ある程度の対処法と経験があり、夏は緑に覆われますから、相当に御し易い。きみがレモンを齧ってビタミンCを摂れなければ、松葉やいろいろな種類のハーブに十分な量があります。きみは、このことを憶えておく必要がある。
 冬の間は、きみのタブレットをよく服用し、何人かの友人にあげます。
 Anisimov は残りを使い果たしてしまっています。彼は少し壊血病でしたが、今は良くなりました。
 きみのタブレットがどれほど助けになっているか、分かって!! 」
 もしレフが病気になれば、すみやかには回復しそうになかった。かりにもしも、工場の診療所に入ったとしても。
 診療所には一人の医師しかおらず、薬品や食料はほとんどなかった。病気患者用の供給品は、監視員によって決まって盗まれたからだ。
 ——
 第5章②、終わり。

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