秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Leszek-Kolakowski

2790/レシェク·コワコフスキ追想②。

 いっとき、L・コワコフスキに関する情報をネット上で探していたことがあった。
  日本語でのWikipedia、英米語でのWikipedia、当然にいずれも見たが、前者・日本語版のそれはひどかった。
 現時点(11/15)では少しマシになっているようで、新しい邦訳書についても記載がある、しかし、L・コワコフスキの哲学に「無限豊穣の法則」が一貫している、などという今もある説明は適切なのか、どこからその情報を得ているのか、きわめて疑わしい。
 日本語と英米語でWikipediaの叙述の内容は違うということを明確に知ったのはL・コワコフスキについて調べていたときだった。
 仔細に立ち入らない。英米語のWikipedia での‘Main Currents of…’ の項は、この著に対する数多くの書評(の要旨)が紹介されていて、興味深い。2005年の一冊合本版について、重すぎる、開きにくいとかの「注文」があったのには苦笑した。
 ともあれ、日本には、<明瞭な反共産主義者>であるL・コワコフスキの存在自体を隠す、あるいは、この人物についてできるだけ知られないようにする、という雰囲気があったのではないか。
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  L・コワコフスキは、ノーベル賞の対象分野になっていない学問分野での業績を対象にして贈られる、アメリカ連邦議会図書館Kluge賞の初代受賞者だった。のちに、ドイツのHarbermath も受賞している。
 日本語Wikipedia は、この点をほとんど全く無視している。私は、その選考過程等も示す議会図書館の記事を探して、この欄に紹介した。→「1904/NYタイムズ」。さらに、→「1906/NYタイムズ,訃報」
 L・コワコフスキは授賞式で、Kluge 氏は「klug (賢い、ドイツ語)です」とかの冗談を含めて挨拶していた。
 その授賞式に、あるスウェーデン女性も同席していたらしいので調べてみると、スウェーデンの皇太子(次期国王予定者、女性)だった。これは、ノーベル賞の対象外の学問分野についての賞で、元のノーベル賞との関係も意識されている、ということを示していると、秋月は推測している。
 同じワシントンのホワイト・ハウスでのG. W. Bush (小ブッシュ)と並んでのL・コワコフスキの写真では、彼の顔はいくぶんか紅潮している。つねに冷静そうな彼であっても、アメリカ大統領官邸に招かれること自体がさすがに感慨深いことだったのだろう。
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 Kluge 賞受賞(2003年)は当然に1991年のソ連解体以降のことで、その授賞理由には<現実(ソ連解体、ポーランド再生 )にも影響を与えた>旨が明記されていた。
 たぶんそれよりも後のものだろう、ポーランドの放送局員がイギリス・Oxford の(たぶん)コワコフスキの家の部屋でインタビューしている動画を私はネット上で探して見た。
 ポーランド語だったので、内容はさっぱり分からなかった。
 だが、印象に残ったのは、①頭の中の回転スピードに口と発する言葉が追いつかないのか、しきりに咳き込んでいた。
 ②全く「威張っている」、「偉ぶっている」ふうがなかった。本来、真摯な人物であり、また謙虚な人なのだろう。と言うよりも、奇妙な「自己意識
」がなくて、自分を「演技」することもないのだろう(そんな人は日本にはいそうだ)。
 なお、カメラに視線をじっと向けて語るのは、コワコフスキやポーランド人に特有ではなく、たぶん欧米人に共通しているのだろう。
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  L・コワコフスキとその妻タマラ(Tamara、精神科医師)の二人がコワコフスキの生地であるポーランド・(ワルシャワ南部の)Radom の町の通りを歩いている動画か写真を見たことがある。
 郷土出身の著名人ということで、ある程度は人が集まっていて、一緒に同スピードで歩いている少年もいたが、大きなパレードでは全くなく、夫妻が人々に手を降るのでもなかった。人々がある程度集まってきて申し訳ないというがごとき緊張を、L・コワコフスキは示していた。
 こうした場合、日本人の中には、<オレはこんなに有名になったのだ>という高揚を感じる者もいるのではないか。とくに「自己」を異様に意識する人の中には。
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  以下は「追想」ではなく、つい最近に知ったことだ。
 たまたまL・コワコフスキ夫妻の(たぶん一人の)子どもである1960年生まれのAgnieszka Kolakowska をネット上で追求していたら、その母親はユダヤ人またはユダヤ系である旨が書かれていた。娘の母親ということは、L・コワコフスキ本人の妻・タマラのことだ。(なお、父親のポーランド語文についての娘の英語訳は、母国語が英語でないためだろう、非英語国人にとって理解しやすい英語文になっている可能性が高いと思われる。)
 不思議な縁を感じざるを得なかった。
 まず、Richard Pipes (1923〜2018)は「ポーランド人」かつ「ユダヤ人」だった。
 両親は「オーストリア=ハンガリー帝国」時代にその領域内で生育し、R. pipes は家庭内では「ドイツ語」を、外では「ポーランド語」を話して育った、という。チェコと川で接する国境の町で生まれたが、1939年のドイツによるポーランド侵攻直後にポーランド(ワルシャワの南部)を親子三人で「脱出」、アメリカに移住して、20歳で(1943年に)「アメリカ合衆国」に帰化した。したがって、以降は「アメリカ人」。
 ついでながら、ワルシャワ近く→ミュンヒェン(独)→インスブルック(墺)→ローマ(伊)→ニューヨーク(米)という「逃亡『劇』」は、十分に一本の映画、何回かの連続「テレビドラマ」になる、と思っている。
 R.パイプスの自伝からこの時期について、この欄に「試訳」を紹介した。→「2485/パイプスの自伝(2003年)①」以降。
 ついで、T・ジャット(1948〜2010)の2010年の最後の書物(邦訳書/河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時)の序説で、編者・配偶者のJennifer Homans が書いていることだが、T・ジャットは逝去の数年前以内に、<ぼくの伯母さんはナツィスに(ホロコーストで)殺された>と言って<泣き出した>、という。
 ということは、T・ジャットもユダヤ人であるか、少なくともユダヤ系の人物だった。
 さらには、L・コワコフスキも、上のような形で、「ユダヤ人」と重要な関係があった。
 言語・民族・国家を一括りで考えがちな日本人には分かりにくいことが多いが(今でもほとんど理解し得ていないが)、たまたま最もよく読んだと言える、L・コワコフスキ、R・パイプス、T・ジャットのいずれも、ユダヤ人と関連があったことになる(次いでよく読んでいるのは、Orlando Figes だろう)。
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2789/レシェク·コワコフスキ追想①。

 L・コワコフスキが書いた書物は、何語であれ、今後も読み継がれていくだろうから、<追想>だけの対象にしてはいけない。
 以下では、L・コワコフスキに関する、個人的・私的な思い出を書く。むろん「個人的・私的な」交際関係があったわけではない。
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  この欄に英語文献の「試訳」を初めて掲載したのは2017年の2-3月だった。たまたまRichard Pipes, Russian Revolution (1990)をKindle で読んでいて、仕事で英語を使ってから40年以上経っていたが、「辞書」機能を使って何とか理解できる、邦訳もできそうだと感じた。
 その前にもともとは<ロシア革命>について知っておきたいという関心が生まれていて、R. Pipes 以外のロシア革命本もいくつか渉猟するようになっていた(洋書または邦訳書)。
 そうしたロシア革命に関する書物の注記の中で、たぶん「マルクス主義」に関して、Leszek Kolakowski, Hauptströmungen des Marxismus(Main Currents of Marxism)が挙げられていた。
 明瞭ではないが、R.パイプスではなく、M.メイリアの書物(Martin Malia, Soviet Tragedy -A History of Socialism in Russia 1917-1991(1994年)=邦訳書/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇(草思社、1997))だったような気がする。
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  基礎的な重要文献のごとき扱いだったのでたぶんすみやかに英語書を入手したが、ただちに「試訳」に進んだのではない。はたして、個人的にであれ、日本語に訳出してみる価値があるのかどうかが分からなかったからだ。下手に入り込むと、何といっても(三巻で)1500頁ほどもあるのだ。
 そこで、同じKolakowski の別の論稿を読んで、ある程度の「心証」を得ることにした。
 その際に選択したのは少し長い‘My Correct Views on Everything’という題の論考で、「『左翼』の君へ」と勝手に表題を変えて、この欄に全文を掲載した(2017年5月)、読みつつこの欄に掲載していったのだったが、じつに面白かった。正確に言えば、コワコフスキの論述の仕方、その思考方法と表現方法が複雑かつ新鮮で、意表を衝くような箇所も多く、まるで「自分の頭が試されている」ように感じた。こんな衝撃を日本人の日本語文から受けたことはなかったような気がする。
 →「『左翼』の君へ①」(2017/05/02)。
 この論稿は、のちに得た知識ではイギリスの「新左翼」のEdward P. Thompson がLeszek Kolakowski を「昔の仲間ではないか。いったい今のきみはどうなのだ」とか批判したのに対する反論文で(決して「釈明」文ではない)、T.ジャットによると「一人の知識人を丸ごと解体する」ごときものだった。
 この公開書簡による批判・反批判の中に、Thompson が Kolakowski の組織した「社会主義」に関するシンポジウムに招聘されなかったことに前者が不満を言うという箇所があった。これもあとで気づいたのだが、そのシンポジウムの成果をまとめた書物(1974年)の一部の「試訳」を、そういう関連があったとは知らないままで、のちにこの欄に掲載した。→「No.1974」(2019/06/10)。
 この反論・反批判論稿の内容には立ち入らないが、「左翼」または「新左翼」と自認している者は、じっくりと読むとよいだろう。
 こうしてコワコフスキは「信頼」できると判断したが、もう一つ、「神は幸せか?」(2006年)という短い論稿の「試訳」もこの欄に掲載した(2017年5月)。これも「議論の進め方」が大いに魅力的だった。なお、冒頭には「シッダールタ」への言及があり、原語で読んだわけではないがと慎重に留保しつつ、仏教にも関心を持っていたことを示している。→「神は幸せか?①」(2017/0525)。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents …の最初の「試訳」掲載は2017年6月で、第二巻のレーニンに関する部分から始めた。→「1577/レーニン主義①」(2017/06/07)。
 doctrin は「教理」と訳すことに早々に決めて、維持した。できる限りカタカナ英語を使わないという気分だったのだろう、ideology を「観念体系」と訳したりした。これは継続できなかった。
 基礎的な知識・教養がないためにしばしば難解だったが、辞書にも頼りつつ、何とか理解していった。
 今の時点で思い出すのは、第一に、「主義」、「思想」の歴史叙述ではあるが、L・コワコフスキは<ロシア革命>の具体的推移、諸局面についてもよく知っている、ということだ。単純に、「思想」の内在的な関係・比較や発展等を追っているのではない。「考え」、「思想」、「イデオロギー」と政治的・社会的現実の複雑な関係を相当に留意して叙述していた人だと思う。あるいは、あえて単純化はしない、未解明部分はあるがままに放っておく、という姿勢だった、と言えようか。
 第二に、些細なことだが、L・コワコフスキが参照しているレーニン全集の巻分けは日本でのそれ(大月書店版)と同じだった。かつてのソ連の「マルクス=レーニン主義研究所」が編纂したレーニン全集をその構成を同じにしてポーランドと日本でそれぞれの言語で翻訳して出版したものと思われる(なお、R.パイプスの書物が用いていたレーニン全集は、ポーランドや日本のそれと異なっていたようだ)。むろん、言語の違いによって、同じ論稿であっても必要頁数は同じではないので、L・コワコフスキが示す頁数ですぐに日本のレーニン全集の当該箇所を特定できたわけではない。
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2788/L・コワコフスキの大著の邦訳書が出版される。

  レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の日本語翻訳署が刊行されるようだ。
 秋月にとって、大ニュースだ。11月11日の池田信夫・ブログによって知った。
 L・コワコフスキ=神山正弘訳・マルクス主義の主要潮流—その生成・発展・崩壊(同時代社、2024)
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  日本での「マルクス主義」への関心が突如として高まったとは思えない。
 訳者の神山正弘を名も知らなかったが、この本を紹介するネット上の訳者紹介によると、訳者(1943〜)の最後の大きな仕事(この翻訳)が完了したがゆえの、この時期での刊行になったようだ。
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 1943年生まれの訳者の経歴は、種々のことを推測または想像させる。
 1962年—東京大学教育学部入学(卒業年の記載はない)、1965-67年—東京都学連副委員長・委員長、1967-72年—日本民主青年同盟(民青)東京都委員会学生対策部長・副委員長、1973-75年—東京大学大学院教育学研究科学生、1982-2007年—高知大学教育学部助教授・教授(たぶん定年退職)。
 39歳で大学教員の職を得ている。この遅さにも注目してしまうが、そんなことよりも、1972-73年に民青東京都委員会→大学院学生という変化があったことが興味深い(なお、川上徹(1940〜)は同じ東京大学教育学部出身で、同時代社の設立者だった)。
 神山正弘はおそらく、日本共産党の<新日和見主義事件>に巻き込まれ、民青や共産党の活動家であることをやめたのだろう。日本共産党(・民青)と具体的にどういう関係に立ち、どう処遇されたのかは、もちろん知らない。
 だが、<新日和見主義事件>=1972年と、見事に符号している。
 かつて若いときに日本共産党という「マルクス主義」政党の党員だったこと(これはまず間違いない)、10年を経ずしてその党とどうやら複雑な関係になったらしいこと(いつまで党員だったかは、もちろん知らない)、そしてもちろん「マルクス主義」または日本共産党のいう「科学的社会主義」の基礎的なところは<学習>していただろうことは、たしかに、レシェク·コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』を読み、翻訳してみようとする人物の像にかなりあてはまっているように見える。
 しかも、このL・コワコフスキの著は大まかに計1500頁と言ってよい長大な書物だ。神山は2007年に高知大学を辞しているようだが、その後のかなり長時間をこの本の読書と翻訳に費やしたのではなかろうか。
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  池田信夫は、「本書は1978年にポーランド語で書かれた古典」等と紹介しているが、細かいことながら、年次は誤っている。
 1976年に、ポーランド語の原書が、フランス・パリで、出版された。
 1977-79年に、三巻のうちの一巻ずつ、ドイツ語翻訳書がドイツで出版された。
 1978年に、一巻ずつ全巻の英語翻訳書が、イギリスで出版された。
 神山邦訳書がいずれの言語から翻訳したのかは、分からない。経歴からすると、ポーランド語からではなさそうだ。
 なお、フランス語版は第一巻、第二巻だけが出版された。L・コワコフスキが書いているのではないが、サルトルについてのL・コワコフスキの叙述(第三巻)がフランスでは嫌われた、とも言われる。
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  日本には、2024年まで、L・コワコフスキの大著の日本語翻訳書がなかった。相当に遅れて、形だけはようやく欧米に追いついたことになる。共産主義者・共産党員または共産主義・共産党のシンパだった欧米の著作者については、サルトルのほか、例えば、イギリスのホブスボーム、フランスのフーコー等、すみやかにきちんと邦訳書が出版されている、にもかかわらず。
 日本はアカデミズムのみならず、あるいはアカデミズムとともにとくに人文・社会系の出版界自体が相当に「左より」だ。
 新潮社、不破哲三・私の戦後60年(2005)
 中央公論新社、不破哲三・時代の証言(2011)
 これらのように、「大手」出版社が日本共産党幹部の書物を発行している(秋月は日本のメディア・出版社を基本的なところで信用していない)。今回の〈同時代社〉程度では、趨勢・雰囲気を変えるほどには至らないだろう。
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2628/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑥。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章④。
 (14) 精神の歪曲と身体の責苦を目的とするこのような皮肉な弁証法の利用を、西側のマルクス主義講釈者たちは、通常のこととして、見逃した。彼らは過去の理想または未来の展望の黙考に沈潜して、とくに彼らがかつての犠牲者や目撃者だった場合には、ソヴィエトの現在に関する不愉快な情報に動かされないままでいることを好んだ。(注12)
 Kolakowski がこのような者たちと遭遇したことが、疑いなく、「西側の」マルクス主義と彼の進歩的な同調者の大部分に対する彼の痛烈な軽蔑を説明する。
 「教養のある人々にマルクス主義が人気のある理由の一つは、マルクス主義は単純な態様ではきわめて理解し易い、ということだ。Sartre ですら、マルクス主義者は誤っており、(マルクス主義は)あれこれと研究し終えることなく、歴史と経済の総体に対処するのを可能にする道具だった、ということに気づいていた。」(注13)
 このような遭遇は、ずっと以前に出版された論考集〈My Correct Views on Everything〉という嫌味溢れる表題となった小論の動機となったものでもあった。(注14)
 イギリスの歴史家のEdward Palmer Thompson は1973年の〈The Socialist Register〉に、Leszek Kolakowski に宛てた公開書簡を掲載した。
 そこで彼は、かつてのマルクス主義者に向かって、若いときのマルクス主義修正主義からの転向によって擁護者を見捨てたと、叱りつけた。
 この公開の書簡が際立って示したのは、Thompson の自己満足と地域性だった。すなわち、彼は饒舌で(書簡は100頁に及んだ)、慇懃無礼で、偽善的だった。
 Thompson は、威張った扇動的な調子で、亡命したKolakowski の鼻の前に修辞の指先を突きつけて彼を払い落とし、彼を—その思慮深くて進歩的な公刊物を斜めに一瞥しながら—非難する。
 「我々二人は、1956年に共産主義修正主義の見解で一致した。…我々はともに、スターリン主義批判の先頭の立場から…を経てマルクス主義修正主義の態度へと至った。
 時代を経て、あなたとあなたが支持した物事は、我々の最も内的な思考について現在のようになった。」
 Thompson は、イギリスの地方の居心地よい安全な所から、こう示唆した。
 あなたは、どのようにしてあえて我々を裏切ることができるのか? 共産主義ポーランドでのあなたには不都合な体験でもって、我々に共通するマルクス主義の理想を覆い隠すことによって。//
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 (15) Kolakowski の反論文である〈My Correct Views on Everything〉はおそらく、政治的議論の歴史上、最も良く書かれた知識人の解体作業だ。すなわち、これを読んだあとでは誰も二度と、Edward Palmer Thompson を真面目に受け止めないだろう。
 この小論は、マルクス主義の歴史と体験によって「東側」と「西側」の知識人の間にあることが明らかになった、かつ今日まで存在している、大きい道徳的な溝を解説するものだった(そして症候として例証するものだった)。
 Kolakowski は情け容赦なく、Thompson の懸命の利己的な努力を解剖し、分析した。その努力とは、マルクス主義の欠陥から社会主義を、共産主義の拒絶からマルクス主義を、そして彼自身の犯罪から共産主義を救おうとするものだった。—全ては、一つの理想の名のもとに行なわれた。表面的には「唯物論的」現実に根ざし、信頼性もそれに依存していて、決して現実世界の経験や人間の不可能性に言及されることがない理想。
 Kolakowski はThompson に向かってこう書く。
 「あなたは、『システム』という概念で思考するのは傑出した成果をもたらす、と言う。
 私も、確かにそう思う。—たんに傑出しているばかりか不可思議な成果をだ、という点で留保はするが。
 人類の全ての諸問題を、それは一撃のもとですぐに解決するのだ。」
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 (16) 人類の諸問題を一撃のもとで解決する。現在を説明すると同時に将来を保障することのできる、全てを包括する理論を追い求める。
 現実の体験の苛立つような複雑さと諸矛盾を回避するために、知性的または歴史的な「システム」という松葉杖に逃げ場を求める。
 腐敗した果実から、想念または理想の「純粋な」種子を救い取る。
 このような近道は、永遠の魅力をもつが、マルクス主義者(または左翼)の独占物ではない。
 少なくともこのような人間の愚昧さのマルクス主義という変種から別離することだけは、至極当然のことだ。
 Kolakowski のようなかつてのマルクス主義者の洗練された洞察とThompson のような「西側」マルクス主義者の独善的な偏狭さのあいだで、歴史の審判自体について完全に沈黙するならば、問題は自明のこととして処理されたかのように思われるだろう。
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 注記。 
 (12) このような目撃証言には信頼性がないという主題に、西側の進歩主義者によるスターリン主義の釈明は注目した。
 全く同様に、アメリカのソヴィエト学者は、東方圏からの逃亡者または移住者による証拠物提出や証言を、無視した。—あまりにも個人的体験で、一致していないため、概観することを歪曲し、客観的に分析することを妨害する。
 (13) 「社会主義に残るものは何か ?」((注08)を見よ)。ポーランドの人々その他の「東方圏人」は、迎合的な西側の進歩主義者に対するKolakowski の嘲弄に共感していた。詩人のAntoni Slonimski は1976年に、Jean-Paul Sartre が20年前に、アメリカに対抗して「社会主義陣営」を弱めないために、社会主義リアリズムを放棄しないよう、ソヴィエト圏の文筆家たちを激励したことを、思い起こさせた。「彼にとっての自由、我々にとっての全ての制約!」。「L'Ordre regne a Varsovie」〈Kultura, 3〉(1976), S.26f. 所収、Marci Shore,〈Caviar and Ashes: ワルシャワ世代の生とマルクス主義の死, 1918-1968〉(2006), S.362 による引用、を参照。
 (14) 例えば、Leszek Kolakowski,〈Chretiens sans eglise. La conscience religieuse et le lien confessional au XVIIe siecle〉(1969)。同〈God Owes Us Nothing. A Brief Remark on Pascal's Religion and on the Sprit of Jansenism〉(1995)。並びに、論文集〈My Correct Views on Everything〉,South Bend, Indiana (2005)、とくに、George Urban との対話、「歴史における悪魔」と小論「Concern with God in an Apparently Godless Era」。ドイツ語では、Hans Rössner(編),〈Der nahe und der ferne Gott. Nichttheologische Texte zur Gottesfrage im 20. Jahrhundert〉,序言 (1981)で出版された。
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 第一章〔表題なし〕、終わり。第二章へつづく。

2626/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌④。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
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 第一章②
 (05) このような経緯によって、〈主要潮流〉の特徴がいくぶんか明らかになる。
 第一巻の〈生成者〉(ドイツ語版、成立)は、思想史として伝統的手法で執筆されている。すなわち、弁証法のキリスト教的淵源、ドイツのロマン派哲学での完全な解決の構想、その若きマルクスへの影響から、マルクスとその同僚のFriedrich Engels の成熟した文献までを辿っている。
 第二巻は、元々は(皮肉ではなく私は思うのだが)素晴らしい、〈黄金の時代〉というタイトルだった。(注4)
 彼は、1889年まで存在した第二インターナショナルから1917年のロシア革命までの歴史を叙述している。
 ここでもKolakowski は、とりわけ、急進的なヨーロッパの思想家の目ざましい世代が高度の精神的水準に導いた思想や論争を扱う。
 この時代の指導的マルクス主義者たち—Karl Kautsky、Rosa Luxemburg、Eduard Bernstein、Jean Jaures、そしてWladimir Iljitsch Lenin—、彼らはみな正当に一つの章を与えられ、それらの章は慎重にかつ明晰に彼らの歴史上の主要な議論と位置を概括している。
 このような総括的叙述では大して重要な位置を占めてこなかったためにさらに大きな関心を惹くのは、イタリアの哲学者のAntonio Labriola、ポーランドのLudwik Krzywicki、Kazimierz Kelles-Krauz、Stanislaw Brzozowski や「オーストリア・マルクス主義者」のMax Adler、Otto Bauer、Rudolf Hilferdinng、に関する章だ。
 Kolakowski の叙述で比較的に多くのポーランド人が登場するのは、疑いなく、部分的には著者の地域的観点によるのであり、それまでは軽視されたものを補うものだ。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者たち(この巻の最も長い章の一つが割かれている)のように、彼らは、ドイツとロシアのマルクス主義が忘却して長らく抹消した、中世ヨーロッパの〈世紀末〉を呼び起こしてくれる。(注5)
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 (06) 〈主要潮流〉の第三巻—多くの読者が「マルクス主義」と理解するもの、すなわちソヴィエト共産主義の歴史と1917年以降の西側マルクス主義者の思想を扱う—は、明けすけに〈瓦解〉と題されている。
 この部の半分弱はスターリンからトロツキーまでのソヴィエト・マルクス主義を扱い、残りは他諸国の選び抜いた理論家を論じている。
 彼らのうち若干の者、とくにAntonio Gramsci とGeorg Lukacs は、20世紀の思想史にとって継続的な関心の対象であり、Ernst Bloch やKarl Korsch(Lukacs のドイツの同時代者)には古物的な魅力がある。
 さらに他の者たち、とくにLucien GoldmannとHerbert Marcuse は1970年代半ばよりも今日ではさらに関心を惹かなくなったようなのだが、Kolakowski は数頁で済ませている。
 この著作は、「近年のマルクス主義の変遷の概観」で終わっている。これはスターリン死後のマルクス主義の展開に関する小論であり、Kolakowski は、自分の「修正主義」の過去に短く触れたあとで、ほとんど一貫した調子で、時代のはかない流行(Mode)を取り上げる。そして、Sartre の〈弁証法的理性批判〉やその〈余計な新造語〉から、毛沢東の「農民マルクス主義」やその無責任な西側の賛美者までがきわめて愚昧であることを語る。
 この部分の読者は、第三巻の緒言で警告される。この著者は、最後の章は数巻へと拡張できただろうと認めつつ、「ここでの主題がそのように詳細な叙述をする意味があるのかどうか、確信がなかった」と付記しているのだ。
 最初の二巻は1987年にフランス語で出版されたが、Kolakowsk の代表著作の第三巻はそこでは今日まで公にされていない、ということにここで触れておく価値がたぶんあるだろう。
 ここでKolakowski によるマルクス主義的教理の歴史の驚くべき射程範囲を紹介するのは、不可能なことだ。
 彼の叙述を上回ることは、ほとんどどの後継者によっても行なわれ得ない。この領域をこれほど詳細にかつこれほどの巧みさをもってあらためて掘り返すことができるために、いったい誰がもう一度十分な知識を得るだろうか? あるいは、いったい誰がもう一度十分な関心を呼び醒ますだろうか?
 〈マルクス主義の主要潮流〉は、社会主義の歴史ではない。
 この著者は、政治的論脈または社会的制度には表面的な注目だけを示した。
  これは動かされない思想史であり、かつて力をもった理論や理論家の一族の勃興と崩壊に関する教養小説(Bildunfsromane)であって、懐疑的で濾過したした時代に、残存している最後のその末裔たちについて、語っている。
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 (07) 1200頁にわたるKolakowski の論述は、率直であり、明晰だ。
 彼の見解では、マルクス主義は真摯に受けとめられるべきものだ。
 それは、階級闘争に関する宣明(しばしば正しいが、新鮮な何かではない)のゆえにではなく、また不可避の資本主義の破滅とプロレタリアによって導かれる社会主義への移行(完全に挫折した予言)の約束のゆえにでもなく、マルクス主義が、唯一の—そして本当に独自性をもつ—プロメテウス的なロマン派的幻想と妥協なき歴史的決定論の混合物を提示しているからだ。
 このように理解されるマルクス主義の魅惑は明白だ。
 それは、世界がどのように〈作動している〉(funktionieren)かを説明する。資本主義と階級関係の経済的分析だ。
 それは、世界はどう作動〈すべき〉かの態様を提示する。若きマルクスの唯心論的考察がそうだったような人間関係の倫理だ(そして、Kolakowski が、その妥協的な人生を軽蔑したものの、相当に一致したGeorge Lukacs のマルクス解釈)。(注6)
 最後に、マルクス主義は、マルクスのロシアの支持者たちがその(およびEngels の)文献から導き出した歴史的必然性に関する一連の主張に支えられたのだったが、世界は将来にそれに応じて作動する〈だろう〉との信仰を告知した。
 経済的記述、道徳的命令、政治的予見のこうした結合は、途方もなく魅力的である—かつ目的に適している—ことが分かる。
 Kolakowski が気づくように、マルクスは、なおも一層、読む価値がある。—その伝統の膨大な多面性を理解するためにだけであっても、別の者がそれに秘術をかけて、そこから飛び出してくる政治システムを正当化するためにも。(注7)
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 注記
 (04) ドイツ語訳書では、三つの巻は〈成立、発展、瓦解〉と区分された。
 (05) 歴史家のTimothy Snyder は、その書物、〈Nationalism, Marxism and Modern Central Europe: A Biography of Kazimierz Kelles-Krauz, 1872-1905〉(1997年)でもって、Kelles-Krauz を少なくとも忘却から救い出した。
 (06) Kolakowski は別の箇所でLukacs について書く—この人物は、Bela Kun ハンガリーRäte共和国で短期間に文化委員として働き、のちにスターリンの要請にもとづき、かつて書き記していた全ての興味深い言葉を放棄した—。彼は「優れた知識人の相当に尋常ではない例」だった、「生涯の最後まで…その精神は党に奉仕することにあったが、彼の著作は我々にもはや思考の衝動を与えない、彼は自らハンガリーに生き残った」。「文化形成としての共産主義」を参照。Gesine Schwan (編)所収の、〈Leszek Kolakowski, Narr und Priester. Ein philosophisches Lesebuch〉,S187-209, 1995年。
 (07) 「社会主義に残るものは何か」を参照。最初に出版されたときのタイトルは、「Po co nam pojecie sprawiedliwosci spolecznej ?」。〈Gazetta Wyborcza〉6-8号所収、1995年5月。〈My Correct View on Everything〉上掲に、再録された。
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 つづく。

2625/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌③。

 Tony Judt の論稿から、試訳を始める。
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 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 第一章①
 (01) Leszek Kolakowski は、ポーランド出身の哲学者だ。
 だが、このような性格づけは、全く適切ではない—または、十分ではない—と思える。
 Czeslaw Milosz やその前のその他の人々においてそうだったように、Kolakowski の知的および政治的な軌跡は、彼の反対派的立場によって明確になり得る。伝統的なポーランドの文化の深く根づいた経緯、すなわち聖職者主義、差別主義、反ユダヤ主義によって特徴づけられるものに対する立場によって。
 1968年に出国を強いられたのち、Kolakowski は、彼の故郷に戻ることも、そこで自分の著作を出版することもできなかった。
 1968年と1981年のあいだ、彼の名前はポーランドの検索対象になることが禁じられた著者だった。そして、彼はそのあいだに、今日に彼が最も知られている著作の大部分を執筆し、外国で公にした。
 亡命中のKolakowski は、ほとんどをイギリスで過ごした。彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。
 しかし、会話の際に言っていたように、イギリスは島であり、オクスフォードはイギリスの中の島であり、All Souls(学生のいないCollege)はオクスフォードの中の島だった、そして、Leszek Kolakowski 博士は、All Souls の中の島、四重に囲まれた島だった。(注1)
 イギリスの文化生活は、ロシアや中央ヨーロッパからの移民知識人たちに対して、かつては一つの場所を提供した。—Ludwig Wittgenstein、Arthur Koestler、あるいはIsaiah Berlin を想起することができる。
 だが、かつてのマルクス主義的カトリックのポーランド出身哲学者は、さらに異国者的で、彼の国際的な名声にもかかわらず、イギリスではほとんど知られていなかった。そして、驚くべきほどに低い評価を受けていた。//
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 (02) しかし、他の国では、Kolakowski は有名だった。
 彼の世代の多くの中央ヨーロッパの学者たちと同様に、彼は複数の言語を用い—自宅でのポーランド語や英語と同じようにロシア語、フランス語、ドイツ語を使った—、とくにイタリア、ドイツ、フランスで栄誉と賞を受けた。 
 Kolakowski がシカゴ大学の社会思想委員会で4年間教育したアメリカ合衆国では、彼の業績は惜しみない評価に恵まれた。その絶頂は2003年で、連邦議会図書館の第一回のJohn Kluge 賞が与えられた。—この賞は、ノーベル賞の対象になっていない学問分野(とくに思想科学)での生涯にわたる研究に対して付与されたものだった。
 しかし、一度ならずパリにいるときが最も落ち着くと述べていたKolakowski は、イギリス人以上にアメリカ人ではなかった。
 おそらく、20世紀の学者共和国の最後の輝かしい市民だと彼を叙述するのが、最も適切だろう。//
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 (03) 彼の本当の故郷のほとんどで、Leszek Kolakowski は、とくにその著名な三巻のマルクス主義の歴史書、〈マルクス主義の主要潮流〉で(そして多くのところではそれだけで)知られている。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版されたこの著作は、1年後にドイツで、2年後にイギリスで出版され、現在のアメリカ合衆国では一巻本の書物として再発行されている。(注2)
 この著作は、疑いなく、最大の高い評価を得ており、現代の人文学の記念碑的傑作だ。
 もちろん、Kolakowski の著作の中でのこの作品の卓越さには一定の皮肉がなくはないが、この著者は「マルクス学者」(Marxologe)では決してない。
 彼は、哲学者であり、哲学歴史家であり、カトリック思想家だ。
 彼は初期キリスト教の教派と異端派の研究を行ない、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史に最後の四半世紀の大部分を捧げた。これは、最良の哲学的神学的研究と称し得るものだろう。//
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 (04) 戦後ポーランドの同世代の中での洗練されたマルクス主義哲学者という高名から始まる、1968年の離国までのKolakowski の「マルクス主義」段階は、実際は全く短いもので、この時期の大部分で、彼はすでに異端者だった。
 すでに1954年、彼が27歳のときに、「マルクス=レーニン主義からの逸脱」を非難されていた。
 彼は1966年に、Posenでの労働者抗議運動(「ポーランドの十月」)10周年記念日のために、有名な批判的講演をワルシャワ大学で行ない、党指導者のWladyslaw Gomulka から公式に「いわゆる修正主義運動の主要イデオローグ」と咎められた。
 Kolakowski が講座を剥奪されたとき、その理由とされたのは、「国の公式の方向に逆らって」歩むという「若者の考え方」を作り出している、ということだった。
 西側に到着したとき、彼は、(我々には今でもそう思えるように、贔屓の者たちを困惑させることには)もはやマルクス主義者ではなかった。そして、そのあとで彼は、最近の半世紀のマルクス主義に関する最も重要な書物を執筆し、二年後に、ポーランドのある研究者が奥ゆかしく表現したところでは、「この主題に関するなおもささやかな関心だけ」を掻き集めた。(注3)//
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 注記
 (注01) Leszek Kolakowski とDanny Postel の対話、〈追放、哲学、未知の深淵での不安定なよろめきについて〉。〈Daedaulus〉2005年夏号所収、S.82.
 (注02) Leszek Kolakowski, 〈Glowne Nurty Markzmu〉1976, Paris. ドイツ語版、〈マルクス主義の主要潮流、成立・発展・瓦解〉1977-79, München. 再版、1981.
 英語訳の初版は、Oxford で1978年に出版された。ここで言及した新版は、著者の新しい緒言とあと書き付きで2005年にNew York で刊行された。タイトルは、〈マルクス主義の主要潮流、生成者・黄金時代・崩壊〉。
 (注03) Andrzey Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom :The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995, S. VII.
 楽観的正統派から懐疑的反対派への転遷について、Kolakowski は、つぎのようにだけ言った。
 「たしかに、20歳のとき、(完全にでなくとも)ほとんど知ったつもりだった。けれど、お分かりのとおり、年をとるにつれて、人々は愚かになる。28歳で、ほとんど分からなくなり、今でも一層そうだ。」
 以上、最初は〈Socialist Register〉(1974)に発表された〈My Correct Views on Everything. E. P. Thompson への返答〉。〈My Correct Views on Everything>、上掲書、S.19.
 ——
 つづく。

2624/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌②。

 雑誌<Transit—Europäische Revue>第34号・2007年/2008年冬季号。原語は、もちろんドイツ語。
 編集者まえがき(「編集の辞」、Editorial)
 (01) 2007年10月に、Leszek Kolakowski は80歳になった。
 彼は、1940年代の学問上の経歴を、正統派マルクス主義者として始めた。 
 この哲学者は、1956年以降の雪解けの時期にワルシャワ大学に1959年に招聘され、1966年に党から除名されるまで共産主義の改革の支持者になっていたが、1968年にその講座を失い、西側へと亡命(emigrieren)した。
 彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。 
 Krzysztof Michalski は、Kolakowski 思想の中心主題の軌跡を追っている。
 Tony Judt とJohn Gray は、1970年代に執筆された彼の最高傑作である〈マルクス主義の主要潮流〉から新しい意味を見出している。
 Kolakowski によるマルクス主義の思想史的再構成は、グローバル化への抵抗者のかたちを採るのであれ、Gray が驚くべき診断を下しているような、軍事力を媒介として民主主義政体を拡大するという新保守主義的な構想のかたちを採るのであれ、今日の夢想主義(Utopismus)の亡霊たちを見れば、完全に現在的であることが分かる。
 Marci Shore は東欧共産主義におけるユダヤ人の役割に関する論稿で、「夢想主義の慢性的な病理」(Gray)というとくに今日的な章を想起させている。//
 ----
 (02) Kolakowski は、早くから社会主義思想に取り組んできた。
 彼は、1957年に書いて検閲により発禁となった皮肉たっぷりの小冊子「社会主義とは何か?」で、共産主義体制を映しだした。
 この—この雑誌に再録した—政治風刺の傑作の後のほとんど50年後に、Kolakowski は、「社会主義から残るものは何か」(注1)という小論で、もう一度確認した。
 世界中に広がる不平等に鑑みれば、社会主義は今日再び、道徳的信頼を獲得しているように見える。 
 Kolakowski は、こう続ける。マルクス主義が全てについて間違っていたということは、まだ永らくは、社会主義の伝統を時代遅れのものにはしない。
 また、社会主義思想が悪用されたということは、まだその思想を失墜させはしない。
 結局は、社会主義的諸価値はリベラルな諸価値と結びついて、民主主義的な市場経済の範囲内で実現されたのだ。
 社会主義運動は、我々の社会の政治的風景を変え、今日には自明のことになっている福祉国家を生む、そのような改革を誘発した。
 Kolakowski は、さらにこう書き続ける。
 「たしかに、『代替可能な社会』の構想としての社会主義思想は、死んだ。
 しかし、被抑圧者や社会的に不利な者との連帯を表現するものとして、社会的ダーウィン主義に対抗する動機づけとして、競争とは少しは離れたところにあるものを我々に思い出させる光として、こうした理由でもって、社会主義は—システムではなく、その理想は—、今だになおも利用され得るのだ。」//
 ----
 (03) ロシアのジャーナリスト、Anna Politkowskaja は2001年に、…。
 <以下、省略>
 2007年12月、ウィーンにて。
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 (注1) 「社会主義に残るものは何か」, in: L. Kolakowski, My Correct Views on Everything (2005).
 ——

2344/L・コワコフスキ「権力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 この書物に、邦訳書はない。
 ——
 第一章・権力について②。
 (9)我々はみな、この意味での権力を欲しがるというのは本当か?
 たしかに、我々はみな、我々が適切だと考えるように、つまりは我々に利益となるように、または我々の正義の感覚と合致するように、他の人々が行動するのを好むだろう。
 しかし、このことから、我々はみな国王でありたいと思っている、ということが導かれるわけではない。
 パスカルが言ったように、自分が国王ではないがゆえに不幸であるのは、王冠を剥奪された王様だけだ。//
 (10)権力は—つねにではないがしばしば—腐敗する、と我々は知っている。
 また、かなりの長期にわたって権力の実質的手段を享有してきた者たちがしばしば、君主たちがかつて神が与えた権利でもって統治していたように、権力に対して一種の自然的な権利をもっていると感じるに至る、ということも知っている。
 このような者たちがあれやこれやの理由で権力を失ったとき、その者たちは、その喪失はたんなる不運ではなく宇宙規模の大災難だと考える。
 そして結局は、我々が知るように、権力闘争が、戦争その他の世界を苦しめる厄災の主要な源泉になってきている。//
 (11)こうした権力と結びついた多数の悪が存在することは、自然に、子どもじみた多様な無政府主義的ユートピアを生み出す。これによると、世界の病悪に対する唯一の治療法は、権力をすっかり排除することだ。
 より極端な考え方では、「権力」は、最も広く理解されている。その結果として、例えば、子どもたちに対する親の権力は、まさにその本性において、可能なかぎりすみやかに廃棄されるべき恐るべき専制だと考えられている。
 この考え方からすると、例えば、我々が子どもたちに母国語を教えるとき、我々は恐るべきほどの専制的暴力を現実に行使していることになる。権力のおかげで、我々は子どもたちを支配しており、我々は力づくで子どもたちに我々の望みを押しつけ、そして子どもたちの自由(liberty)を剥奪しているのだ。
 このような考え方によれば、子どもたちを獣の状態に放任するのが最善なのだろう。そうすれば、子どもたちは、自分たち自身の言語、習慣や文化を発明することができる。//
 (12)しかしながら、無政府主義のうちのより馬鹿げてはいない考え方は、政治権力の廃棄を目標としている。
 この理論は、全ての政府、行政機関、法廷が消失するならば、人間は平和と友愛に充ちた自然状態で生きていくだろう、というものだ。
 幸いにも、無政府主義革命が起きるのは不可能だ。そうしようとたんに決定するだけならば、いつでも好感をもたれるとしても。
 無政府状態は、権力の全機構と全制度が崩壊し、制御する者が誰もいないときにのみ発生する。
 このような状態によるつぎの結果は、不可避だ。すなわち、絶対的権力を追い求める何らかの勢力(force)が独自に(そのような組織がないわけではない)、自分たちの専制的秩序を押しつけるために、あらゆる荒廃状態から利益を得ようとするだろう。
 このことの最も劇的な実例は、もちろん、ロシア革命だった。そのときにボルシェヴィキ体制は、一般的な無政府状態の結果として、権力を奪取した。
 無政府とは、実際には、専制のための小間使いだ。//
 (13)権力を廃棄することはできない。権力は、ある種の政府をつぎつぎと交代させることで、より良くなったり、より悪くなったりする。
 不幸なことだが、政治権力が廃棄されるときにのみ我々みんなは平和な友愛状態で生活するだろうと言うのは、正しくない。
 我々の利益を分岐させて相対立させるのは、偶然ではなく、人間の本性それ自体だ。
 我々全員が攻撃の手段をもち、我々の必要や願望には制限がない。
 ゆえに、政治権力の仕組みが奇跡のように消え失せるとすれば、その結果は普遍的な友愛ではなく普遍的な殺戮だろうということは、きわめて平易に分かることだ。//
 (14)言葉の字義どおりの意味としての「人民の政府」は、存在してこなかったし、これからも存在しないだろう。
 他のことをさて措いても、そのような政府は技術的に見て実現されないだろう。
 人々が政府が行なっていることを監視し続け、選択できるならば別の政府と置き換える、ということによる一定の安全装置は、存在し得る。
 もちろん、ある政府がいったん権力を手にすれば、我々は多様な規制に服し、多数の重要な分野で我々は選択できなくなる。
 我々は選ぶことができない。例えば、子どもたちを学校に通わせるべきか否か、税金を支払うべきか否か、自動車を運転したいときに運転試験を受けるべきか否か、等々。
 政府を監督するために人々は種々の統制手段を設定するが、それらは絶対的な頼りにはならない。
 民主主義的に選出された政府は、腐敗することもある。そして、その決定はしぱしば、多数派国民の意向とは反対だ。
 どんな政府も、全員を満足させることはできない。
 等々。これらは全て、我々がよく知っていることだ。
 人々が政府を統制するために行使できる手段は、決して完全なものではない。だが、人類が専制を回避するためにこれまでに考案してきた最も有効な方法は、まさに、政府に対する社会的統制の諸装置を強化し、政府の権力の範囲を社会秩序を維持するのに必要なぎりぎり最小限にまで限定することだ。すなわち、我々の生活の全領域の規整(regulation)を認めることは、結局は、全体主義権力について語られていることになる。//
 (15)さて、我々は政治権力の全ての機構に疑いをもって対処し、必要とあれば(つねに必要だろう)、それについて抗議することができる。いや、じつに、そうすべきだ。
 しかしながら、権力や権力諸装置の存在自体について不服を言ってはならない。我々は異なる世界を考案することができないとすれば。—誰か多くの者がこれを試みてきたが、誰として成功しなかった。//
 ——
 第一章・権力について、終わり。

2343/L・コワコフスキ「権力について」(1999)①。

  レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 1927.10.23〜2009.07.17、満81歳で、Oxford で死去。
 この人の大著<マルクス主義の主要潮流>の英語版を試訳しようと思ったのは(結局半分以上の試訳を済ませたのは第3巻だけで、第2巻はレーニン以降だけ、第1巻はごく一部だけしか終わっていないが)、2017年の春だった。
 しかしただちに開始したのではなく、試訳してみる価値または意味がある(マルクス主義に関する)大著だ、という確信はなかった。
 そこで、この人のより短い文章を読んでみることとし、つぎの順で読んで試訳してみた(この欄に掲載済み)。
 ①「『左翼』の君へ」。これは8回を要して試訳を掲載した、このブログサイト上で勝手に付けたタイトルで、正確には、My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。→No.1526以降。
 「(新)左翼」のEdward Thomson というイギリスの知識人を「解体」する作業をした文章だったと、Tony Judt はその2008年の文章で書いた。→No.1720。
 (ついでに、フランス等のヨーロッパ史を専門とするTony Judt によるL・コワコフスキ死後の追悼文は、哀惜感に溢れ、かつ学問的だ。→No.1843。
 ②「神は幸せか?」。Is God Happy ? (2006), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。これは2回の掲載で済んでいる。冒頭にシッダールタ(仏陀)が出てくる。最後にShakespeare, Hamlet からの引用があることが、試訳した当時は分からなかった。→No.1559以降。
 これらを読んでみて、この人の書物ならばたぶん大丈夫だろうとの感触、または確信めいたものを得た。
 とくに前者によってだっただろう、再確認しないが、<(試訳しながら)思考能力が試される気がした>という旨を記した憶えがある。
 ---------
  久しぶりに試訳しようとするL・コワコフスキの以下の書物は、上の二つを最初に読んだときに感じた、この人の文章、あるいは思考の仕方を、その大著その他以上に思い起こさせるもので、懐かしい気すらする。
 彼は最初から「エッセイ」と銘打っている。もちろん、自分の「思想」だとか「歴史哲学」だとは主張していないし、それらを示そうとする気持ちなど全くなかったに違いない。もちろん、この人がポーランド出身の傑出した thinker、Denker だと他者が称していることは別として。
 また、キリスト教を含めて相当の「知識」・「教養」を持っているはずだが、それらを特にひらけかすという<衒学>趣味も感じられない。
 もちろん文章構成の技術・能力をもつのだろうが、この人がニーチェに強く感じているらしい余計な<レトリック>、あるいは<美文趣味>はないだろう。
 内容が簡単だ、というのではない。そうではなく、(実娘のAgnieszka Kolakowska による英語訳書なのだが)この人が用いる概念にある程度は困惑しつつ注目し、提示される「論理」に、ある程度は困惑しつつゆっくりと浸ることができそうなのは、なかなか幸せな感じがする。
 --------
 **
 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれていて、全ての表題が「〜について」となっている。
 もちろん(?)、邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第一章・権力(power)について①。
 (1)イギリスの前の財務大臣は、首相になりたいかとのテレビ・インタビューを受けて、やや驚いて、誰でもきっと首相になりたい、と答えた。
 これは私には、かなり驚いたことだった。というのは、私は、誰もが首相になりたいとは決して考えていないと確信しているからだ。
 反対に、きっと大多数の人々はそのような夢を決して思い浮かべない、と考えている。そのような野望を実現できる可能性は微少だと感じているからではなく、しなければならない仕事は恐るべきものに違いないとたんに考えているからだ、と思っている。
 絶え間ない頭痛、莫大な責任。そして、何をしようとも永遠に批判と嘲弄の対象になることを知っている。また、 最悪の意図の責任を負わされることになるだろう。//
 (2)さて、「誰もが権力を欲しがる」というのは本当か?
 答えは、この言葉をどれだけ広く理解するかによる。
 最も広い意味では、「権力」(power)とは、人間であれ自然であれ、我々を取り囲むものに対して望んだ方向へと影響を与えることを認めるものの全てだ。
 これを行なったときには、我々は周囲のものを「支配(master)」したと言われる。
 子どものときに最初の一歩を進んだり、初めて自分で立ち上がったとき、見ても明らかにこれらを愉しんでいるのだが、その子どもは、自分の身体に対する、ある程度の権力を獲得する。
 そして、一般に、身体や、制御することのできる筋肉、関節のような身体の一部を支配しないよりは支配することを我々はみな好む、というのは正しい(true)だろう。
 同様に、新しい言語、あるいはチェス、あるいは水泳、あるいは我々には新しい数学の一分野を学ぶとき、我々は、文化の新しい領域を「支配」することのできる技巧を獲得している。//
 (3)「権力」のこのような広義での理解は、人間の諸活動は全て、多様な形態での権力を得たいという望みによって動かされている、と結論づける理論の基盤になってきた。
 この理論によると、全ての我々の努力は、人間の活力の源泉である権力を渇望していることの別表現にすぎない。
 人々は、富は事物のみならず一定の(しばしば相当の)範囲で人々を支配する権力を与えてくれるがゆえに、富を追い求める。
 性行為(sex)すらも、権力という観点から説明できるかもしれない。我々は他の者の肉体を、それを通じて現実の人間を、所有したいと欲するのか、それとも、それを所有することで他人が所有するのを排除していると考えるか、のいずれであっても。
 いずれかの考え方をして、我々は、誰か別の者に対する権力を行使しているという感情を得て、満足する。
 もちろん性行為は、人間以前の自然の創造物の一つだ。
 そして、この理論によると、権力を望むのは自然世界の至るところにある本能だ。人間社会で我々が、文化的に影響されたどのような形態を採用しているとしても。//
 (4)少し考えれば、利他感情(altrueism)を、権力の観点から説明することすら可能だ。つまり、他人に対して親切であるとき、意識していようといまいと、他人の生活を支配する手段を行使したいとの望みが動機となっている。親切という我々の行為は、他人を部分的には我々の権力のもとにおいているのだから。
 権力の追求を動機としないような領域は、我々の生活にはない。
 他には何も存在しない。別の言い方をすれば、自己欺瞞だ。
 この理論は、このようになる。//
 (5)この種の理論は、表面的にはもっともらしくとも、実際には、ほとんど何も説明していない。
 人間の行動全てを動機という単一の観点から説明しようとする、または社会生活の全ては動機づけをする単一の力によつて動かされていると主張する、そのようなどんな理論も、擁護することはできない。
 しかしながら、まさにこのことが、この種の理論全てが究極的には哲学的な心象(constructs)であって、そのゆえにほとんど役に立たないことを、示している。
 例えば、人々の動機は仲間のために自分を犠牲にしようと彼らを苦しめようと同じだ、と言うことは、我々を前方に連れていきはしない。我々がそのような行為について判断を加えたり、ましてやこれらを区別して弁別する、そのために有効な原理的考え方は存在しない、つまり、どんなに異なって見えようとも、本質は全く同じだ、と言うまでに至るだろうからだ。
 しかしながら、このような理論は、使い途がある。というのは、誰かが、他のみんなは心の底では本当は不誠実だと自分に言い聞かせることができれば、冒した過ちはその者の良心には大した負担に全くならないだろうから。//
 (6)キリスト教思想の一定の潮流は、今日では廃れていてもかつては有力だったのだが、似たような気持ちを我々に生じさせ得るものだった。すなわち、神聖な上品さ(divine grace)がなければ、何をしようとも、必ず悪を行うことになると我々が言われるとき、必ずや善だけを行うことになるのだとしても、我々が仲間を助けるのかそれとも苦しめるのかは、ほとんど重要ではないことになる。
 神聖な上品さがなければ、いずれであっても我々は地獄へと放逐されることになるはずだ。
 このことが、全ての異教徒の運命であってきた。しかしながら、気高い(noble)。//
 (7)このような理論の支持者はつねに、全てのドアを開けることのできる単一のマスター・キーを追い求めている。
 しかし、全てのことを十分に満足させる説明のごときものは、存在しない。そのようなキーはない。
 文化は、人々が異なる事物によって喚起され、新しい必要(欲求、needs)に動機づけられるがゆえに、発展し、成長する。古い必要は人々の従前の役割への依存を流し去り、文化の自律神経的(autonomous)部分になる。//
 (8)我々の行動の全ては本質的には権力への渇望によって動かされていると主張する理論は、無邪気なもので、ほとんど説明する価値をもたない。一方で、それにもかかわらず、権力それ自体は、追求するにきわめて値する善であるままだ。
 我々が権力について語るとき、一般に、すでに述べてきたようなものよりも狭い意味で用いようと考えている。つまり、個々人や社会全体が他人に影響を与え、彼らの行為を制御するために、有形力(force)を用いて、または有形力を行使すると威嚇して、利用することのできる手段として理解する。
 この意味での権力は、ある程度は組織された、強制(coercion)という手段を必要とする。そして、現今では、これは国家を意味する。//
 ——
 ②へとつづく。第一章は②で終わり。
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