Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標④
 (20) この時期、レーニンは、資本主義の経営と技術を新しい国家で利用する、国家資本主義を擁護して、確信をもちつつ、但し十分には支持されなかったのだが、論述した。
 資本主義が提供する最良のものを採用してのみ、ロシアは社会主義を建設することができる、と。
 「国家資本主義の最も具体的な例を挙げよう。
 誰もがこの例を知っている。ドイツだ。
 ここに我々は『決定句』を見る。<ユンカー・ブルジョア的帝国主義に従属した>、近代的な大規模の資本主義運営と計画的組織化のうちに。
 強調部分を削除し、軍国主義、ユンカー、ブルジョア、帝国主義国家の箇所に<国家>を挿入する。この国家は、異なる社会類型の国家であり、異なる階級内容をもつ国家だ。—<ソヴィエト国家>、すなわち、プロレタリア国家だ。そうすれば、社会主義に必要な条件の<総計>を我々は得るだろう。
 近代科学の最新の研究成果にもとづく大規模の資本主義の技術がなければ、社会主義を構想することはできない。
 生産と産物の配分の統一的標準を数百万の人民に正確に観察させる、そのような計画的な国家の組織化がなければ、社会主義を構想することはできない(注22)。」
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 「ソヴィエト権力のもとでの国家資本主義とは何か?
 現時点において国家資本主義を達成することは、資本主義諸階級によって実行されている計算と統制を実践に移すことを意味する。
 国家資本主義の例を、我々はドイツに見る。
 ドイツは我々よりも優れていることを、我々は知っている。
 しかし、ほんの僅かでもつぎのことを考えれば、何が意味されるだろうか。かりにその国家資本主義の基礎がロシア、すなわちソヴィエト・ロシアで確立されるならば、正当な感覚を失わず、書物の知識の断片で頭を充たしていない者は誰でも、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言わなければならないだろう。
 <私は、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言った。
 ロシアがそれを達成すれば、完全な社会主義への移行は容易になるだろう。我々の理解では、国家資本主義とは、中央集権化され、計算され統御され、社会主義化された何ものかであって、それはまさに、今の我々に欠けているものだ。>…」(注23)
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 (21) レーニンが好んだ経済の問題はかくして、ボルシェヴィキが実際には採用することになるものよりも、はるかに穏健なものだった。
 レーニンがそのまま進んでいたら、「資本主義」セクターは基本的には無傷のままで残され、国家の監視のもとに置かれただろう。
 外国資本(主にドイツとアメリカ)の流入を想定した協力関係が結果として生じ、そのことは、政治的な副作用なくして先進「資本主義」の利益の全てをボルシェヴィキ経済にもたらすことを意味しただろう。
 こうした提案には、3年後の<新経済政策>と共通する多くの特徴があった。
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 (22) しかし、これは、現実にはならなかった。
 レーニンとトロツキーは、多くのグループから狂信的な反対を受けた。グループの中の<左翼共産主義派>の反対は、最も激烈だった。
 左翼共産主義者たちは、ブハーリンによって指揮され、党内エリートの重要部分と妥協していたが、ブレスト=リトフスク条約に関しては屈辱的な敗北を喫していた。
 しかし彼らはボルシェヴィキ党内の分派として活動をし続け、彼らの機関紙<共産主義者>の紙面で、自分たちの主張を議論し続けた。
 このグループの中には、Alexandra Kollintai、V. V. Kuibyshev、L. Kritsman、Valerian Obolenskii(N. Osinskii)、E. A. Preobrazhenskii、G. Piatakov、Karl Radek)がいた。そして自分たちは「革命の良心」だと考えていた。
 このグループが十月以来信じていたのは、レーニンとトロツキーは「資本主義」や「帝国主義」との機会主義的な順応へと滑り込んでいる、ということだった。
 レーニンは<左翼共産主義者>を、夢想家かつ狂信者で、「社会主義の幼年期の病気」の犠牲者たちだと見なした。
 しかし、この党派は、労働者や知識人から力強い支援を受けた。とくに、レーニンとトロツキーの提案によって「資本主義」の方法が導入される危険があると感じる、モスクワの党組織内の彼らによって。
 提案されたのは、責任をもつ個人による経営に戻すために工場委員会の解体、「労働者支配の放棄」を求めるものだった。この変化は不可避的に、党官僚たちの力と特権を減少させる。
 レーニンは、ボルシェヴィキがブレストのために論争しており、全てのソヴェトで多数派でなくなっていたときには、これら知識人と労働者内のその支持者たちを無視することができなかった。
 また、ある金属労働者がMeshcherskii との交渉に関してこう言うのを聞いたとき、常識が彼に勧める方向を強く主張することができなかった。「レーニン同志、この分野でも息つぎ時間を考慮しているなら、あなたは偉大なご都合主義者だ」(脚注)
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 (脚注) Vechernaia zvezda, April 19, 1918, in: Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p. 219. この参照は、もちろん、ボルシェヴィキがブレスト=リトフスク条約で確保したと主張した、一般には知られない「息つぎ時間」に関してだ。
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 (23) 実際に現実化した戦時共産主義の諸要素は、1918年4月にLarin が発表した小論の中で考察されていた。
 Larin は、1917年11月に彼の論文で発表した諸原理を綿密にしたものにすぎないと装っていたけれども、新しくて異なる経済綱領を提示していた。
 ロシアの全ての銀行は国有化されなければならない。
 工業についても、全ての分野でそうしなければならない。国家と私的トラストの間に協力の余地はない。
 「ブルジョア」専門家は、技術的要員としてのみ経済のために働くことができる。
 私的取引は廃止され、国家の監督のもとでの協同的作業に変えられなければならない。
 経済は、単一の国家計画に従うべきだろう。
 ソヴィエトの諸制度は、通貨とは関係させないで、会計処理を維持する。
 やがて、国家の統制は、旧地主の未使用土地を皮切りに、農業へと拡張されるだろう。
 私的資本に対する唯一の譲歩は、外国の利権だ。これは、技術的人員を提供し、備品の輸入のための借款を認めることで、ソヴィエト・ロシアの経済発展に参画することが許される(注24)。
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 (24) このような綱領的計画でもって、左翼共産主義派は1918年4月に、レーニンを抑えて圧倒した。そして、即席の社会主義というユートピアへと、向こう見ずにも突進していくことになった。
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 第一節、終わり。