Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
——
第三節・「労働者反対派」③。
(14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。
問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*)
Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85)
----
(脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
----
(15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
----
(16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
----
(17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
----
(18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
----
(脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
----
(19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88)
これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
----
(20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
----
(21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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(脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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後注。
(84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
(85) Ibid., p.361.
(86) Ibid., p.571-6, p.769.
(87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
(88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
(89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
(90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
(91) Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
(92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
(93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
(94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
(95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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第三節、終わり。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
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第三節・「労働者反対派」③。
(14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。
問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*)
Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85)
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(脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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(15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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(16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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(17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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(18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
----
(脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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(19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88)
これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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(20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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(21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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(脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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後注。
(84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
(85) Ibid., p.361.
(86) Ibid., p.571-6, p.769.
(87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
(88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
(89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
(90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
(91) Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
(92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
(93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
(94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
(95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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第三節、終わり。