秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
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 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2169/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑥-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき、最終回。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑥。
 (51)1957年2月、毛沢東は、「人民間の矛盾について」と題する講演を行った。これは、毛が理論家だと評価される根拠になっているもう一つの主要な文章だ。
 この中で彼は、こう宣言する。我々は慎重に、人民内部での矛盾と人民とその敵の間の矛盾を区別しなければならない。
 後者は独裁によって、前者は民主集中制によって、解消される。
 「人民」の間に自由と民主主義が広がっても、「この自由は指導者の付いた自由であり、この民主主義は中央集権化した指導のもとでの民主主義であって、アナーキーではない。<中略>
 自由と民主主義を要求する者たちは、民主主義を手段ではなく目的だと見なす。
 民主主義はときには目的のように思われるが、実際には一つの手段にすぎない。
 マルクス主義が我々に教えるのは、民主主義は上部構造の一部であって、政治の範疇に属する、ということだ。
 ということはすなわち、結論的分析では、民主主義は経済的基盤に奉仕する。
 同じことは、自由についても言える」(<哲学に関する四考>, p.84-p.86)。
 このことから抽出される主要な実践的結論は、人民内部の矛盾は教育と行政的手法の巧みな連係で処理されなければならず、他方で人民と敵の間の矛盾は独裁によって、つまり実力(force)によって解消されなければならない、ということだ。
 しかしながら、毛沢東が別の箇所で示唆するように、人民内部の「非敵対的」矛盾は、正しくない考えをもつその構成員が自分の誤りを受け入れるのを拒むならば、いつか敵対的矛盾に転化するかもしれない。
 このことが最も分かるのは、毛のつぎのような党員たちに対する警告だ。すなわち、党員たちが速やかに真実を承認するならば、その彼らは容赦されるだろう、しかしそうしなければ、その彼らは階級敵だと宣告され、そのようなものとして処置されるだろう。
 人民内部の見解の対立に関して毛は、正しさと過ちを区別するための6つの標識を列挙する(同上、p.119-120)。
 人民を対立させるのではなく団結させるならば、そうした見解や行動は正しい。
 社会主義の建築に有益であり、有害でなければ、同様。
 人民の民主主義的独裁制を強固にし、弱体化させないならば、同様。
 民主集中制を強化するのを助けるならば、同様。
 共産党の指導的役割を支援するのを助けるならば、同様。
 国際的な社会主義者の団結と世界の平和愛好人民の団結にとつて有益であるならば、同様。//
 (52)民主主義、自由、中央集権制および党の指導的役割に関するこれら全ての言辞には、レーニン=スターリン主義正統派と矛盾するところは何もない。
 しかしながら、実際には差異があるように見える。
 この差異は、こうだ。中国では「大衆」が支配しているとの多数の西側毛沢東熱狂者たちが想像するような意味でではない。そうではなく、中国の党はソヴィエトの指導者たちよりも多く、命じるためのイデオロギー操作の方法を知っていたがゆえに、政府は協議にもとづくという雰囲気をより醸し出している、という意味でだ。
 これは、権威が疑われない革命の父が長期間にわたって存在し続けたことや、中国が圧倒的に農村社会だったことによった。後者は、農民指導者は彼らの領主でもなければならないとマルクスが言ったことを確認している。
 古い文化を代表する階級が実際に破壊され、また情報の流通路がソヴィエト同盟以上にすら厳格に規制されている状況では(毛沢東が述べた「正しい思想の中央集権化」だ)、中央政府の権力を侵犯することなく、地方的な政治や生産に関する多数の問題は正規の政府機構によってではなく地方の諸委員会によって解決することができる。//
 (53)「平等主義」は、たしかに毛イデオロギーの最も重要な特徴の一つだ。
 既述のように、平等主義の基礎は、賃金の差異を排除する方針や全員が一定の量の身体労働をしなければならないという原理にある(指導者と主要なイデオロギストたちは、この要求対象から除外されたと見えるけれども)。
 しかしながら、このことは、政治的な意味での平等に向かういかなる趨勢を示すものではなかった。
 今日では、情報を入手できることは基本的な資産であり、統治に関与するための<必須条件(sine qua non)>だ。
 そして、中国の民衆はこの点で、ソヴィエト同盟の民衆と比べてすら、大切なものを剥奪されている。
 中国では、全てが秘密だ。
 実際には、いかなる統計も公的には利用できない。
 党中央委員会や国家行政機関の諸会議は、しばしば完全に秘密裡に行われる。
 「大衆」が経済を統制するという考えは、上層部以外の誰も経済計画がどうなっているかすら知らない国では、西側にいる毛主義者たちの、最も途方もないお伽噺(fantasy)の一つだ。
 市民が公的情報源から収集することのできる外国に関する情報は最小限度のもので、市民の文化的孤立は完全だった。
 中国共産主義に対する最も熱狂的な観察者の一人であるエドガー・スノウは、1970年に訪中した後で、公衆が入手できる書物は教科書と毛沢東の本だけだ、と報告した。
 中国の市民たちはグループを組んで劇場に行くことができた(個人用チケットは実際に販売されなかった)。また、外部の世界についてほとんど何も教えてくれない新聞を読むことができた。
 他方で、スノウが注目したように、彼らには西側の読者は慣れ親しんでいる殺人、ドラッグ、性的倒錯に関する物語は与えられなかった。//
 (54)宗教生活は、実際には破壊された。
 宗教的礼拝に用いる物品の販売は、公式に禁止された。
 中国人は、一般選挙や警察機構から独立した公的な訴追部署のような、ソヴィエト同盟には残っていた民主主義的表装の多数の要素を、なしで済ませた。ソヴィエトの公的訴追部署は実際には、「正義」と抑圧の両方の執行者だったのだが。
 直接的な実力による強制の程度は、知られていない。
 強制収容所の収容者数について、粗い推測をする者すら存在しない。
 (ソヴィエト同盟ではより多く知られている。これはスターリンの死以降の一定の緩和の効果だ。)
 専門家たちが議論をすることが困難であるのは、中国の人口は大まかに4~5億人と見積もられているという事実からも明らかだ。//
 (55)中国以外に対する毛主義のイデオロギー的影響には、主に二つの起源がある。
 第一に、ソヴィエト同盟との分裂以降、中国の指導者は世界を「社会主義」国と「資本主義」国ではなく、貧しい国と豊かな国に分けた。
 ソヴィエト同盟は、上の前者の一つと位置づけられ、さらには毛沢東によると、ブルジョアが復活しているのが見られる。
 林彪は、「農村地帯による都市部の包囲」に関する赤色中国の古いスローガンを国際的規模で適用しようとした。
 中国の例はたしかに、第三世界諸国にとって明らかに魅力のあるものだ。
 共産主義の成果はっきりしている。すなわち、共産主義は中国を外国の影響力から解放し、多大な対価を払いつつ、技術的および社会的な近代化の途上へと中国を乗せた。
 社会生活全領域の国有化は、他の全体主義諸国でのように、人類を、とくに後進農業国家を汚染した主要な疫病のいくつかを廃棄するか、または軽減させた。疫病とはつまり、失業、地域的な飢餓や大規模な貧困状態。
 中国型の共産主義の模倣が実際に成功するか否かは、例えばアフリカ諸国でのその問題は、本書の射程を超えるものだ。//
 (56)毛主義の、とくに1960年代の、イデオロギー的影響力の第二の淵源は、ある程度の西側の知識人や学生たちが中国共産主義を表装とするユートピア的お伽噺を受容した、ということだ。
 毛主義はその当時に、人間の全ての問題を普遍的に解決するものとして自らを描こうと努めた。
 多様な左翼的なセクトと人々は、毛主義は産業社会の厄害を完全に治癒するものだと、そしてアメリカ合衆国と西ヨーロッパは毛主義の諸原理にもとづいて革命を起こすべきだし、起こすことができると、真面目に信じたように見える。
 ソヴィエト・ロシアのイデオロギー的権威が崩れ落ちていたとき、ユートピア切望者たちは、エキゾティックな東洋に注目した。それはじつに容易に分かるが、中国の事情に完全に無知だったことが理由だ。
 完全な世界と崇高で全包括的な革命を追い求める者たちにとって、中国は、新しい天の配剤のメッカとなり、革命的戦いの最後の大きな望みとなった。-中国がソヴィエトの「平和共存」という定式を拒絶していなかったとすれば、こうではなかった。
 多数の毛沢東主義グループは、中国が大きく革命的信仰心を捨てて政治的対抗者というより「正常な」形態に変化したとき、ひどく失望した。そして、毛主義がヨーロッパまたは北アメリカで現実的な勢力となるのを望むことを明確にやめた。
 西側諸国での毛主義は、既存の諸共産党の地位に顕著な影響を何ら与えなかった、というのは実際のことだ。すなわち、毛主義は何らかの帰結として共産党の分裂を引き起こさず、小さな細片グループがもつ特性にとどまった。
 また、東ヨーロッパでも、アルバニアの特殊な例を除いては、記すに値するほどの成果を生まなかった。
 その結果として、中国は戦術を変換し、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランドやコンゴと等価値の独立した救済策だとして毛主義を提示するのをやめて、ロシア帝国主義の仮面を剥ぐことや同盟を追求することに集中した。同盟の追及、あるいは何としてでも、ソヴィエトの膨張を阻止するという共通の利益にもとづいて、影響力を拡大することに。
 実際に、これははるかに見込みがある方向だ、と思える。毛主義のイデオロギーの問題ではなく、露骨に政治的な問題だけれども。
 マルクス主義の用語法はこの政策の追求のためにまだ用いられているが、それは本質的ではなく、装飾的なものだ。//
 (57)マルクス主義の歴史という観点からすると、毛主義イデオロギーが注目に値するのは、毛沢東が何かを「発展させた」のが理由ではなく、かつて歴史的に影響をもつものになったどの教理よりも無限定の融通性をもつことを例証したことが理由だ。
 一方で、マルクス主義は、ロシア帝国主義の道具になった。
 他方で、マルクス主義は、技術的経済的後進性を市場の通常の働き以外の別の手段によって克服しようとする、大国の上部構造にあるイデオロギー的固定物だった(多くの場合は、後進諸国が市場を利用するのは不可能だ)。
 マルクス主義は、強くて高度な軍事国家の推進力となり、近代化という根本教条のために臣民たちを動員すべく、その力とイデオロギー的操作装置が用いられた。
 これまで述べてきたように、たしかに、伝統的マルクス主義には重要な要素があり、それは全体主義的統治の確立を正当化するのに役立った。
 しかし、一つのことだけは、疑い得ない。つまり、マルクスが理解した共産主義は、高度に発展した工業社会の理想であって、工業化の基礎を生み出すために農民を組織する方法ではなかった。
 だが、マルクス主義の痕跡と農民ユートピアや東洋専制体制とを混ぜ合わせたイデオロギーを手段として、その目標は達成することができることが判明した。-このイデオロギーは、<すばらしくこの上ない>マルクス主義だと宣明し、ある程度は有効に作動する混合物だ。//
 (58)中国共産主義への西側称賛者が困惑しているというのは、ほとんど信じ難い。
 アメリカの軍国主義を強く非難する言葉を見出すことのできない知識人たちは、つぎのような社会について狂喜の状態に入っている。子どもたちの軍事教練が第三年から始まり、全ての男子市民は4年または5年の軍事労役を義務づけられる、そのような社会についてだ。
 ヒッピーたちは、休日なしの厳しい労働紀律を導入して、薬物使用は言うまでも性的道徳に関する清教徒的規範を維持する国家に惹かれている。
 ある範囲のキリスト教者の文筆家ですら、そうした制度を高く評価している。中国での宗教は、仮借なく踏みにじられたけれども。
 (毛沢東は後生を信じたように見えるのは、ここではほとんど重要でない。
 1965年、彼はエドガー・スノウに二度、「すぐに神に会うだろう」と述べた(Snow, 同上, p.89, p.219-220)。
 毛は同じことを、1966年の演説で語った(Schram, p.270)。そして、1959年にもまた(同上, p.154)、マルクスと将来に逢うことをユーモラスに語った。)//
 (59)中華人民共和国は、明らかに現代世界のきわめて重要な要素だ。とりわけ、ソヴィエト膨張主義の抑止という観点からして。
 しかしながら、この問題は、マルクス主義の歴史とはほとんど関係がない。
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 第6節、従って第13章はこれで終わり。

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
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 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2164/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節④-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義④。
 (32)毛沢東とその「急進派」グループは、1966年春、「ブルジョア・イデオロギー」が最も傷つきやすい場所、すなわち大学、に対する攻撃を開始した。
 学生たちは、「反動的な学問的権威たち」に反抗して立ち上がるよう駆り立てられた。学者たちは、ブルジョア的知識で身を固め、毛主義的教育に反対しているのだ。
 毛沢東が長く明瞭に語ってきた内容について、つぎのことが指摘されていた。
 教育を受ける代わりに、時間の半分は学習に、半分は生産的労働に捧げられるべきだ。教員の任命と学生の入学はイデオロギー上の資格または「大衆との連環性(links)」に従うべきであって、学問上の成績によるのではない。共産主義プロパガンダは、カリキュラムの中で最も重要な特徴になる。
 党中央委員会は今や、「資本主義の途を歩む」全ての者の排除を呼びかけた。
 官僚層が毛思想に口先だけで追従して実際にはそれを妨害したとき、毛沢東は、彼以前のどの国のどの共産党指導者たちもあえては冒険しなかった道へと進んだ。彼は、組織されていない若者たち大衆に、毛の反対派たちを破壊するよう訴えたのだ。
 大学や学校は紅衛兵分隊や革命の突撃兵団を設立し始めた。これらは、「大衆」へと権力を回復し、頽廃した党と国家の官僚機構を一掃すべきものとされた。
 大衆集会、行進、街頭闘争が、全ての大都市での日常生活の特質になった(農村部はまだ相当に広く免れていた)。
 毛のパルチザンたちは、「大躍進」が惹起していた不安や欲求不満を巧妙に利用し、それらを経済の失敗について責められるべき官僚たちに向け、資本主義の復活を望んでいると非難した。
 数年間、学校と大学の機能は完全に停止した。毛主義グループは生徒や学生たちに、社会的出自と指導者に対する忠誠さのおかげで、彼らは「ブルジョア」学者の知らない偉大なる真実の所有者だ、と保障した。
 このように鼓舞されて、若者たちの一団は知識をもつことだけが罪である教授たちを苛め、ブルジョア・イデオロギーの証拠を求めて教授たちの家を探し回り、「封建主義の遺物」だとして歴史的記念物を破壊した。
 書物は、まとめて焼却された。
 しかしながら、当局は慎重に、博物館を閉鎖した。
 闘いの呼び声は平等、人民の主権、「新しい階級」の特権の廃絶、だった。
 数カ月後、毛主義者たちは、そのプロパガンダを労働者に対しても向けた。
 このプロパガンダはもっと困難な対象だった。なぜなら、労働者階級のうち賃金が多く安定した部門にいる者たちは、賃金の平等を求めて闘ったり、共産主義の理想を掲げてさらに犠牲を被る、という気がなかった。
 しかしながら、ある程度の貧しい労働者たちは、「文化革命」のために動員された。
 こうした運動の結末は、社会的混乱であり、生産の崩壊だった。
 紅衛兵の中にある異なる分派や労働者たちはやがて、「真の」毛主義の名前でもってお互いに闘い始めた。
 暴力的衝突が多数発生し、秩序を回復するために軍が介入した。//
 (33)つぎのことが、明らかだ。つまり、かりに毛沢東が知の無謬の淵源である自分は全ての批判から超越したところにいる、よって反対者たちは自分を直接に攻撃することはできない、と考えてなかったならば、党の権益層を破壊するために党外の勢力に呼びかける、という危険なことをあえてはしなかっただろう。 
 かつてのスターリンのように、毛沢東自身が党を具現化したものだった。そして、そのゆえに、党の利益という名のもとで党官僚機構を破壊することができた。
 (34)疑いなくこの理由で、文化革命というのは、つぎのような時期だった。すなわち、すでに極端な程度にまで達していた毛沢東個人崇拝(cult)が、スターリンの死の直前のスターリン個人崇拝を-感じられるほどには可能でないが-凌ぐすらするほどの、グロテスクで悪魔的な様相を呈した、という時代。
 毛沢東が至高の権威ではない活動分野は、存在しなかった。
 病人は、毛の論文を読んで治癒した。外科医は「赤い小語録」の助けで手術を行った。公共の集会は、人類がかつて生んだ最も偉大な天才が創った金言(aphorism)を、声を揃えて朗読した。
 追従はついには、毛沢東を称賛する中国の新聞からの抜粋が、ソヴィエトのプレスに読者の娯楽のために論評なしで掲載される、という事態にまで達した。
 毛沢東の最も忠実な側近で国防大臣の林彪(Lin Piao)は(やがて裏切り者で資本主義の工作員だったと「判明」したのだが)、マルクス=レーニン主義研究に用いられている資料の99パーセントは指導者〔=毛沢東〕の著作から取られているはずだ、換言すれば、中国人は毛以外の別の出典からマルクス主義を学習すべきではない、と断言した。//
 (35)もちろん、称賛の乱舞の目的は、毛沢東の権力と権威が掘り崩されるのをいかなるときでも防止することだった。
 毛沢東はエドガー・スノウ(Edgar Snow)との会話で(スノウが<The Long Revolution>,1973年、p.70, p.205で言及したように)、フルシチョフは「彼には個人崇拝者が全くいないので」おそらく脱落する、と述べた。
 のちに、林彪の汚辱と死の後に、毛沢東は、個人崇拝という堕落の責任を林彪に負わせようとした。
 しかしながら、1969年4月、文化革命の終焉を告げる党大会で、毛沢東の指導者としての地位およびその後継者としての林彪の地位は、公式に党規約の中に書き込まれた。-これは、共産主義の歴史で未だかつてなかった事件だった。
 (36)<毛沢東主席の著作からの引用>である「赤い小語録」もまた、このときに有名になった。
 もともとは軍部用のものとして準備され、林彪が序文を書いていたのだが、すみやかに普遍的な書物となり、全ての中国人の基本的な知的吸収物となった。
 これは、市民が党、大衆、軍、社会主義、帝国主義、階級等、関して知っておくべき全てを包含する、加えて多数の道徳的および実際的な助言も付いた、民衆用の教理書(catechism)だった。例えば、人は勇敢かつ謙虚であるへきで逆境に挫いてはならない、将校は兵士を撃ってはならない、兵士は金銭を支払わずに商品を奪ってはならない、等々。
 これには、選び抜かれた訓示文がある。すなわち、「世界は進歩している、未来は輝いている、この一般的な歴史の趨勢を誰も変えることができない」、等々(<引用>, 1976年、p.70)。
 「帝国主義は、つねに悪事を行っているがゆえに、長くは続かないだろう」(p.77)。
 「工場は、徐々にのみ建設することができる。
 農民は、少しずつ土地を耕すことができる。
 同じことは、食事を摂ることについても当てはまる。<中略>
 一呑みでご馳走の全てを飲み込むのは、不可能だ。
 これは、漸次的(piecemeal)解決方法として知られている」(p.80)。
 「攻撃は、敵を破るための主要な手段だ。しかし、防衛なしで済ますことはできない」(p.92)。
 「自分を守り、敵を破壊するという原理は、全ての軍事原則の基礎だ」(p.94)。
 「ある者はピアノを上手に演奏し、別の者は下手だ。彼らが演奏する旋律には、ここに大きな違いがある」(p.110)。
 「全ての性質は、一定の量で表現される。量がなければ、性質もあり得ない」(p.112)。
 「革命的隊列の内部では、正しいか間違っているか、達成したか不足しているか、の区別を明瞭に行うことが必要だ」(p.115)。
 「労働とは何か?、労働とは闘争だ」(p.200)。
 「全てが善だというのは正しくない。なおも不足や欠点がある。
 しかし、全てが悪だというのも正しくない。これもまた、事実に合致していない」(p.220)。
 「僅かばかりの善を行うことは、困難ではない。
 困難なのは、全人生を通じて善を行い、悪を決して行わない、ということだ」(p.250)。//
 (37)文化革命の動乱は、1969年まで続いた。そして一定の段階で、状況を明確に統制することができなくなった。すなわち、多様な分派やグループが紅衛兵内部で発生し、それぞれが、毛沢東の誤りなき解釈なるものを主張した。
 革命の主要なイデオロギストの陳伯達(Ch'en Po-ta)はしばしば、パリ・コミューンの例を引き合いに出した。
 唯一の安定化要因は、軍だった。毛沢東は思慮深く、大衆の議論を管理するようには、また官僚化した指導者たちを攻撃するようには、軍を激励しなかった。
 地方での衝突があまりに烈しくなったときには、軍は秩序を回復させた。そして、地方の司令官たちは革命家たちを助けるのにさほど熱心ではなかった、ということは注記に値する。
 党の組織が大幅に解体してしまったとき、軍の役割は当然にますます大きくなった。
 劉少奇を含む主要な若干の人物を解任するか政治的に抹殺したあとで、毛沢東は、革命的過激主義者たちを抑制するために、軍を用いた。
 闘争の結果として変わった党指導層の構成は、多くの観察者にとっては、いずれの分派にも明確な勝利を与えない、妥協的な解決だったように見える。
 「急進派」は、毛の死後にようやく敗北することとなる。//
 (38)上述のように、1955年と1970年の間には、いくつかの重要な点でソヴィエトの範型とは異なる、新しい変種の共産主義の教理と実践で構成される毛沢東思想の展開があった。//
 (39)1958年1月に毛が宣言したように(Schram, p.94)、永続革命理論が毛沢東思想の根本的なものだ。
 文化革命が進行していた1967年、彼はこう述べた。この革命は一続きの無限の長さの最初の革命だ、そして革命の二つ、三つまたは四つが起きたあとでは全てが良くなっているだろうと考えてはならない、と。
 毛沢東は、安定すればつねに不可避的に特権と「新しい階級」が出現する、と考えていたように見える。
 従ってこのことによって、革命的大衆が官僚制の萌芽を摘み取る、定期的な衝撃的措置が必要になる。
 かくして明らかに、階級または対立がない確定された社会秩序は、決して存在し得ないことになる。
 毛沢東はしばしば、「矛盾」は永遠のもので、永続的に克服されなければならない、と繰り返した。
 ソヴィエトの修正主義者たちに対する毛の追及内容の一つは、その修正主義者たちは指導者と大衆の間の矛盾について何も語っていない、ということだった。
 劉少奇の誤りの一つは、社会は調和し統合するという未来を信じたことだった。
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 ⑤につづく。

2163/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節③-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義③。
 (19)毛沢東は、1959年7-8月の廬山(Lushan)党会議で自己批判の演説を行い(そのときはむろん公表されなかった)、「大躍進」が党の敗北だったことを認めた。
 彼は、経済計画について何の考えもなかった、石炭と鉄は自発的に動かないで輸送が必要であるとは考えていなかった、と告白した。
 彼は農村部での鉄精錬政策について責任をとり、国は厄災に向かっている、共産主義を建設するには少なくとも1世紀が必要だろうと見ている、と宣言した。
 しかしながら、指導者たちが誤りから学んだので、「大躍進」は全てが敗北なのではなかった。
 誰もが、マルクスですら、過ちを冒す。その場合に重要なのは、経済だけが考慮されるべきではない、ということだ。//
 (20)1960年には広く知られるようになった中国・ソヴィエト紛争は、とりわけソヴィエト帝国主義を原因とするもので、存在はしたものの共産主義の理想や実現方法に関する考え方の差異によるのではなかった。
 中国共産党は、スターリンへの忠誠を熱意を込めて表明するとともに、東ヨーロッパの「人民民主主義」の立場を受け入れる動向もまた示さなかった。
 論争の直接の原因は、核兵器に関して発生した。これに関して、ロシアは、中国が使用を統制する力をもつという条件のもとでのみ、中国に核兵器を所有させるつもりだった。
 ここで列挙する必要はないその他の論争点の中には、アメリカ合衆国に対するソヴィエトの外交政策および「共存」という原理的考え方があった。
 対立の射程は二つの帝国主義国のものであって、共産主義の二つの範型のものではない。このことは、中国はソヴィエトによる1956年のハンガリー侵攻を留保なく是認したが、-断交後のその20年後には-チェコスロヴァキア侵攻を激しく非難した、という事実で示されている。毛主義の観点からは、ドュプチェク(Dubček)の政策は途方もない「修正主義」で、リベラルな考え方による「プラハの春」はソヴィエト体制よりも明らかに「ブルジョア的」だつたのだけれども。
 のちに中国の二党派間の争論が内戦の間際まで進行したとき、両派はいずれも根本的には、換言すれば中国の利益と主体性の観点からは、同等に反ソヴィエトであることが明らかだった。//
 (21)しかしながら、ソヴィエトとの対立の第一段階で中国が示したのは、イデオロギー上の差異に重点を置いていること、新しい教理上のモデルを創って世界共産主義の指導者としてのソヴィエトを押しのけ、または少なくともモスクワを犠牲にして相当数の支持を獲得するのを望んでいること、だった。 
 ときが経つにつれて、中国は、自分の例に従うのを世界に強いるのではなく、ソヴィエト帝国主義を直接に攻撃することで好ましい結果を達成する、と決定したように見える。
 「イデオロギー闘争」、つまりは中国とソヴィエトの指導者たちの間での公的な見解の交換は、1960年以降に継続した。但しそれは、国際情勢に応じてきわめて頻繁に変化した。
 しかし、その闘いは容易に、第三世界への影響力を求める、対立する帝国間の抗争となった。それぞれの敵国〔であるソヴィエトと中国〕は、いずれかの民主主義諸国との<アド・ホックな>同盟関係を追い求めた。
 中国が採用したマルクス主義は、中国ナショナリズムのイデオロギー的主柱となった。同じことは、従前にソヴィエト・マルクス主義とロシア帝国主義の間にも生じたことだったが。
 かくして二つの大帝国は対立し合い、ともに正統マルクス主義だと主張し、「西側帝国主義国」に対する以上に敵対的になった。
 「マルクス主義」の進展は、中国共産党がアメリカ合衆国政府を、主として反ソヴィエト姿勢が十分でないという理由で攻撃する、という状況をすら発生させた。//
 (22)中国共産党内部の闘争は、1958年以降に秘密裡に進行していた。
 主要な対立点は、ソヴィエト型の共産主義を選ぶか、毛沢東の新しい完全な社会の定式を支持するか、にあった。
 しかしながら、前者は、モスクワの指令に中国を従わせるのを望むという意味での「親ソヴィエト」ではなかった。
 対立にあった特有な点は、つぎのように要約することができる。
 (23)第一に、「保守派」と「急進派」は、軍に関する考え方が違った。すなわち、前者は紀律と最新式の技術をもつ近代的軍隊を要求し、後者はゲリラ戦という伝統を支持した。
 これは1959年の最初の粛清(purge)の原因となり、その犠牲者の中には、軍首脳の彭徳懐(P'eng Te-huai)がいた。
 (24)第二に、「保守派」は多かれ少なかれソヴィエトに倣った収入格差による動機づけを信頼し、都市部と大重工業工場群を重視した。
 これに対して「急進派」は、平等主義(egalitarianism)を主張し、工業と農業の発展に対する大衆の熱狂的意欲を信頼した。//
 (25)第三に、「保守派」は、先進諸国にいずれは対抗することのできる医師や技術者を養成するために、全ての段階の教育制度の技術的専門化を主張した。
 一方で「急進派」は、イデオロギー的教化(indoctrination)の必要を強調し、この教化が成功するならば技術的工夫はいずれは自然について来るだろう、と主張した。//
 (26)「保守派」は、論理的には十分に、ロシアと欧米のいずれかから科学知識と技術を求めるつもりだった。
 一方で「急進派」は、科学や技術の問題は毛沢東の金言(aphorism)を読むことで解決することができる、と主張した。//
 (27)一般的には「保守派」はソヴィエト型の党官僚たちであり、技術的および軍事的な近代化と中国の経済発展に関心があった。また、全ての生活領域についての党機構による厳格で階層的な統制が可能だと考えた。
 「急進派」は、近づいている共産主義千年紀というユートピア的幻想に、相当に嵌まっているように見えた。
 「急進派」は、イデオロギーの万能さと、抑圧のための職業的機構によるのではない、「大衆」による(しかし党の指導のもとでの)直接的な実力行使を、信頼していた。
 地域的基盤について言えば、「保守派」は明らかに北京が中心地であり、「急進派」の中心は上海(Shanghai)にあった。//
 (28)両派はもちろん、1946年以降は揺るぎなかった毛沢東のイデオロギー的権威に訴えた。
 1920年代のソヴィエト同盟では同様に、全ての分派がレーニンの権威を呼び起こした。
 しかしながら、ソヴィエトと異なるのは、中国では革命の父がまだ生きており、その毛が「急進派」グループを支持したどころか、事実上はそれを創出した、ということにあった。その結果として、「急進派」構成員たちは、対抗派よりもイデオロギー的にはよい環境にいた。//
 (29)しかしながら、「急進派」は、全ての点についての有利さを活用しなかった。
 1959-62年の後退の結果として、毛沢東は、党指導者たちの中に強い反対派がいることを認めざるを得なかった。そして、彼の力は相当に限定されていたように思われる。
 実際に、ある範囲の者たちは、毛沢東は1964年以降は現実的な権威たる力を行使していなかった、と考えている。
 しかし、中国の政治の秘密深さのために、このような推測は全て、不確実なものになっている。//
 (30)主要な「保守派」は劉少奇(Liu Shao-ch'i)だった。この人物は、1958年末に毛沢東から国家主席を継承し、1965-66年の「文化革命」で資本主義の魔王だとして告発され、非難された。
 彼は共産主義教育の著作の執筆者で、この書物は別の二冊の小冊子とともに、1939年以降は党の必読文献だった。
 その四半世紀後、このマルクス=レーニン=スターリン=毛主義の誤謬なき発現者は、突如として、儒教(Confucianism)と資本主義に毒された人物に変わった。
 批判者たちの主人によると、劉に対する孔子の有害な影響は主につぎの二つ点に見られる。
 劉少奇は、仮借なき階級闘争ではなく、共産主義的自己完成という理想を強調した。また、共産主義の未来は調和と合致だと叙述した。にもかかわらず、毛沢東の教えによれば、緊張と対立は永遠の自然法則だ。//
 (31)1965年末に党内部で勃発して中国を内戦の縁にまで追い込んだ権力闘争は、かくして、対立する派閥間のみならず、共産主義の見方の間の闘いでもあった。
 「文化革命」は一般には 毛沢東が書いて1965年11月に上海で出版した論文によっで開始された、と考えられている。その論文は、北京副市長の呉晗(Wu Han)が作った戯曲を、毛沢東による彭德怀(P'eng Te-huai)の国防大臣罷免を歴史の寓話を装って攻撃するものだと非難した。
 この論文でもって文化、芸術および教育への「ブルジョア的」影響に反対し、国家の革命的純粋さを回復して資本主義の復活を阻止する、そのような「文化革命」を呼びかける運動が、解き放たれた。
 もちろん「保守派」はこの目標に共鳴したけれども、確立されている秩序や自分たちの地位が攪乱されないように、その目標を解釈しようとした。
 しかしながら、「急進派」は何とか、党書記で北京市長の彭程(P'eng Cheng )の解任と主要な新聞の統制を確保し、獲得した。//
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 ④へとつづく。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

2160/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節①-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.494~p.499。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義①。
 (1)中国革命は、争う余地なく、20世紀の歴史の最も重要な事件の一つだった。
 毛主義(Maoism)として知られるその教理は、従って、その知的な価値とは無関係に、今日の思想闘争の主要な要素になっている。
 ヨーロッパ標準で測れば、毛主義のイデオロギー文書、とくに毛自身が書いた理論的著作は、実際には原始的で不格好で、ときには子どもじみている。
 これと比べると、スターリンですら、力強い理論家だという印象を与える。
 しかしながら、このような判断は、用心して行う必要がある。
 この書の執筆者のように中国語を知らず、中国の歴史と文化について僅かでかつ表面的な知識だけしか持っていない者は、疑いなく、中国思想に習熟した読者は理解することができる文章の意味、多様な連関と示唆するところを、完全に把握することはできない。
 この点で、我々は専門家の見解に依拠しなければならない。しかしそれでも、つねに同意するのではないけれども。
 この書物の他の箇所以上に、以下の論述は二次的情報にもとづく。
 しかしながら、理論的、哲学的主張をもつにもかかわらず、毛主義は先ずはそして最も多くは実際的な訓示だ、と最初に述べておいてよいだろう。そのことが何らかの態様で、中国の状況にはきわめて有効であることが判明したのだ。//
 (2)今日に毛主義と、あるいは中国で「毛沢東思想」と称されるものは、数十年前に起源のあるイデオロギー大系だ。
 ロシア共産主義に対する意味での中国共産主義の特徴のいくつかは、1920年代遅くにはすでに見えていた。
 しかしながら、とくに毛沢東のユートピア的見方を含むそのイデオロギーが明瞭な様相をとり始めたのは、ようやく1949年の中国共産党の勝利のあとでだった。そして、1950年代遅くまたはその後でのみ、若干のきわめて重要な側面が進展した。//
 毛主義は、その最終形態では急進的な農民ユートピアだ。そこでは、マルクス主義の言葉遣いが顕著に多くあるが、その支配的な価値はマルクス主義とは完全に疎遠だと見られる。 
 このユートピアはヨーロッパの経験と思想にほとんど依拠していないのは、何ら驚くべきことではない。
 毛沢東は、すでに新国家の長になっていたときにモスクワを2度訪問した以外には、中国を離れなかった。
 そのとき彼は自分で、どの外国語もほとんど知らず、マルクスに関する知識もおそらく相当に限られている、と明瞭に語った。
 例えば、正統マルクス主義者だと主張する一方で、彼には、物事には全て善と悪という二つの側面がある、と語る習癖があった。
 マルクスはこのような弁証法形態をプチブル的馬鹿さとして嘲弄したことを知っていたとすれば、彼はおそらく、こう言わなかっただろう。
 また例えば、マルクスが「アジア的生産様式」に言及したのを知っていたならば、彼はおそらく、これを論じただろう。しかるに、彼の著作はこれに何ら論及していない。
 毛沢東の二つの論考-「実践について」と「矛盾について」-が簡明に明らかにしているのは、彼がスターリンとレーニンの著作で何を読んだか、であり、加えて、そのときどきの必要に応じたいくつかの政治的結論だ。
 穏やかに言えば、これらの文章から何らかの理論的に重要なことを感知するには、多大の善意が必要だ。//
 (3)しかしながら、以上は本質的な点ではない。
 中国共産主義の重要性は、その教条の知的な水準によるのではない。
 毛沢東は、きわめて偉大ではなくとも、偉大な人物の一人だ。20世紀の、人間たる多数大衆の操作者だった。そして、彼が目的達成のために用いたイデオロギーは、中国のみならず第三世界の他部分を含めて、その有効性のゆえに意味をもっている。//
 (4)中国の共産主義は、1912年の帝国崩壊とともに始まった革命的事件を継承したものであり、数十年前、とくに1850ー64年の太平天国の乱〔Taiping rebellion 〕(歴史上最も血なまぐさい内戦の一つ)まで遡る展開の結果だ。
 毛沢東は、革命の第二期の主要な構築者であった。その時期には、ロシアと同様に、共産主義の支援のもとではレーニンが「ブルジョア民主主義」と称しただろうもの以外には生まれなかった。すなわち、大規模土地の農民への配分、中国の帝国主義諸国からの解放、そして封建諸制度の廃棄。//
 (5)毛沢東(1893~1976)は、湖南(Hunan)地方の裕福な農民の息子だった。
 村の学校に通い、中国の文字伝統の主要部分を学び、中学校へ進学するだけの性質を得た。
 早くに孫文(Sun Yat-sen, 孫逸仙)の革命共和党、のちの国民党に加入した。
 しばらく共和党軍で戦ったのち、1917年に勉強を再開した。こうした期間、彼は詩も書いた。
 のちに彼は、北京の大学図書館で働いた。このときの彼は、ナショナリストかつ社会主義の知識をもつ民主主義者で、マルクス主義者ではなかった。//
 (6)国民党の目標は、日本、ロシアおよびイギリス帝国主義から中国を解放し、立憲主義共和国を設立し、経済改革によって農民の運命を改善することだった。
 1919年の新たな暴動のあとで、最初の毛沢東グループが北京で結成された。そして、1921年6月、コミンテルン工作員の助けで、毛沢東を含む十数人のメンバーたちは、中国共産党を創設した。
 コミンテルンの指令に従って、党は最初は国民党と緊密に連携し、中国の萌芽的プロレタリアートの支持を獲得しようとした(1926年に、都市労働者は民衆200人当たり1人だった)。
 1927年に蒋介石が共産党員を殺戮したあと、蜂起し、国民党の左派脱退者と<同盟(entente)>しようとして何度も失敗したのちに、共産党は方針を変更し、前指導者の陳独秀(Chen Tu-hsiu)に「右翼日和見主義者」の烙印を捺した。
 殺されながらも、党は、労働者に影響を及ぼす努力を集中し続けた。しかし、毛沢東は、農民へと方向転換して、農民軍を組織することを主張した。
 しかしながら、党内の両グループはともに、反帝国主義と反封建主義を強調した。
 そこには、特段に共産主義的な見解の兆しはほとんどなかった。
 毛沢東は、生まれ故郷の湖南地域で、武装農民運動を組織し始めた。そしてその地域で、農民軍勢力は大土地所有者から没収し、伝統的諸制度を廃絶させ、学校と協同組合を設立した。//
 (7)つづく20年間、毛沢東は、都市部から離れた田園地帯に住んだ。
 やがて彼は、農民ゲリラ行動の傑出した組織者になるのみならず、中国共産党の揺るぎなき指導者になった。世界で唯一の、その地位をモスクワによる認証によらない指導者になったのだ。
 注目すべき勝利と劇的な敗北が多々あった時期である20年の間、彼は、国民党と侵攻者日本に対して、前者が後者と戦っている時期を除き、極端に困難な条件のもとで闘った。
 共産党は占拠した地域に将来の国家の基盤を組織した。だが、自分たちの革命の性格は「ブルジョア民主主義的」だと強調し、また農民や労働者だけではなく中低層や「ナショナル」なブルジョアジー、つまり帝国主義者たちと同盟しない者たちを含む、「人民戦線」を呼びかけつづけた。
 党は、1949年の勝利後の最初の数年間は、この基本線を採用し続けた。//
 (8)1937年、ゲリラ戦闘が継続している間、毛沢東は、延安(Yenan)の党軍事学校で、二つの哲学的講義を行った。それらは現在、中国の民衆が得られる哲学教育のほとんど全体を構成している。
 「実践について」の講義で、彼はこう述べる。人間の知識は生産的実践と社会矛盾から湧き出てくる。階級社会では、全ての思想形態は例外なく階級によって決定される。実践は、真実を測る尺度だ。
 理論は実践にもとづいており、その隷従物だ。
 人間は、感覚で事物を感知し、見ることのできない事物の本質を理解することのできる観念を形成する。
 対象を認識するためには、それに対処する実践的行動を起こさなければならない。すなわち、我々は食べることによって梨の味を知る。また、階級闘争に参加することによってのみ、社会を理解する。
 中国人は、「表面的かつ知覚的知識」にもとづいて帝国主義との闘いを開始した。ようやくのちになって、帝国主義の内部矛盾に関する理性的な知識を得る段階に到達し、かくして有効にそれと闘うことができている。
 「マルクス主義は、理論の重要性を厳格に強調する。それは、理論が行動を誘導することができるからだ」(<哲学に関する四考>、1966年、p.14)。
 マルクス主義者は、自分たちの知識を変化する条件に適合させなければならない。そうでなければ、右翼日和見主義に陥るだろう。
 一方で、発展の段階が思考を上回り、現実についての想像力を間違ってしまえば、エセ左翼の言葉商人の生け贄になるだろう。//
 (9)「矛盾について」の講義は、レーニンとエンゲルスからの引用の助けを借りて、「反対物の統合の法則」を説明しようとするものだ。
 「形而上学」は、「事物を、分離した、静態的で一面的なものだと見る」(同上、p.25)、そして運動または変化を外部から与えられた何かだと見なす。
 しかしながら、マルクス主義は、全ての客体は内部矛盾を内包する、それは機械的な動きも含めた全ての変化の原因だ、と断定する。
 外部的原因は変化の「条件」であるにすぎず、内部的矛盾こそがその「根拠」だ。
 「それぞれのかつ全ての差異はすでに矛盾を内包しており、差異それ自体が矛盾だ」(p.33)。
 異なる現実の領域には、それらに特徴的な矛盾があり、それらは、異なる科学分野の主な事項だ。
 我々はつねに、「全体」を感知するためにも、全ての矛盾にある個別の特質を観察しなければならない。
 ある事物は、その反対物に転化する。例えば、国民党は最初は革命的だったが、やがて反動的になった。
 世界は矛盾に充ちているが、あるものは他のものよりも重要だ。そしていかなる条件のもとでも、我々は主要な矛盾を、それから発生するその他の二次的な矛盾と見分けなければならない。-例えば、資本主義社会では、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の矛盾。
 我々は、矛盾を解明して克服する方途を理解しなければならない。
 かくして、「マルクス主義について我々が学習する始まりのときには、マルクス主義に関する我々の無知や学習の希薄さは、マルクス主義に関する知識と矛盾している状態にある。
 しかし、学習に精励すれば、無知を知識へと、希薄な知識を実質的な知識へと転化させることができる」(p.57-p.58)。
 事物は、反対物に転化する。土地所有者は剥奪され、貧者に変わる。一方、土地なき農民は土地所有者になる。
 戦争は平和に道を譲るが、平和は再び戦争に譲る。
 「生がなければ、死もないだろう。死がなければ、生もないだろう。
 『上から』がなければ『下から』はなく、…『上から』もなく、…。
 容易さがなければ、困難さはないだろう。
 困難さがなければ、容易さはないだろう」(p.61)。
 区別は敵対する階級間のような、真反対の矛盾の間に行われなければならない。正しい党方針と間違った党方針のような、真反対ではない矛盾の間にではない。
 後者は、誤りを訂正することで解消することができる。だが、それが行われなければ、真反対の矛盾に転化する可能性がある。//
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 ②へとつづく。

2159/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.491~p.494。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第5節・マルクス主義と「新左翼」②。
 (8)一般的に言って今日の状況は、マルクス主義が、その多くが相互の関わり合いのない広範囲な関心と希望の糧を提供している、ということだ。
 もちろんこのことには、対立する全ての人間の利害と考えがキリスト教の外衣を纏つてその独特の言語を用いた、そういう中世的類型の普遍主義からの、長い道程がある。
 マルクス主義という知的な装いは、一定の思想学派で用いられているにすぎない。しかし、その数はきわめて多い。
 マルクス主義のスローガンは、アフリカやアジアの多様な政治的運動によって、また国家的強制の方法で後進状態から抜け出そうとする諸国によって、頼るべきものとして求められている。
 こうした運動が採用し、または西側のプレスがそれらに適用するマルクス主義というラベルが意味するのは、それらの運動がソヴィエト同盟または中国から軍事物資を受け取っているということにすぎない。そして「社会主義」がしばしば意味するのは、国家が僭政によって支配され、政治的反対派は存立が許されない、ということだ。
 マルクス主義的な語法の断片は、多様なフェミニスト集団や、またいわゆる性的少数者によってすら、用いられている。
 マルクス主義の用語は、民主主義的な自由を守るという文脈ではほとんど適切には用いられていない。これはときどきは用いられているけれども。
 マルクス主義は、高い次元のイデオロギー的兵器たる地位を獲得した。
 世界大国としてのロシアの利益、中国ナショナリズム、フランス労働者の経済的要求、タンザニアの工業化、パレスティナのテロリストたちの活動、アメリカ合衆国での黒人人種主義。-これらは全て、マルクス主義の言葉を使って表現している。
 これらの運動や利益のいずれかに、誰も真面目にはマルクス主義「正統派」を認知することはできない。マルクスの名前はしばしば、マルクス主義は革命を起こして人民の名前で権力を奪取することを意味すると聞いた指導者たちが、頼って依拠するものになっている。こうして、マルクス主義は、彼らの理論的知識の総量になっているのだ。
 (9)疑いなく、マルクス主義イデオロギーの普遍化は、先ずはそして最も多くは、レーニン主義による。レーニン主義は、全ての現存する社会的要求と不満を一つだけの水路に向けて流し込んで、その勢いを共産党の独裁的権力を確保するために使う力がある、ということを示した。
 レーニン主義は、政治的機会主義を、理論の権威にまで高めた。
 ボルシェヴィキは、マルクス主義の「プロレタリア革命」の図式とは何ら関係がない情況で、勝利へとかけ登った。
 ボルシェヴィキは社会に現実にあった要求と願望を梃子として用いたがゆえに、勝利した。その要求や願望は、主としては民族と農民の利益だった。これらは、古典的なマルクス主義の観点からは「反動的」なものだったけれども。
 レーニンは、権力奪取を望む者は、教理上の考察などは考慮することなく、全ての危機と全ての不安の兆候を利用しなければならないことを、示した。
 全てのマルクス主義者の予見にもかかわらず、ナショナリスト感情と願望が最も力強いイデオロギーの活動形態だという情況では、「マルクス主義者たち」が、ナショナリスト運動が既存の権力構造を破壊するに十分な強さをもつときにはいつでも、それを自分たちと一体化させるのは、自然なことだ。//
 (10)しかしながら、マルクス主義の語法を用いる世界のいたるところにある多様な利益は、しばしば相互に対立し、別の観点から見ると、マルクス主義の普遍性は解体へと達する。
 ロシアと中国の両帝国の間の聖なる戦争では、どちらの側も、同等の権利をもってマルクス主義スローガンを掲げることができる。
 この状況では、スターリン死後の時代の国際共産主義運動を引き裂いた、大分裂が発生せざるをえない。
 さらには、多様な分裂はすでに1920年代に萌芽的にあった傾向を表現している。その趨勢は、スターリニズムの圧力のもとで消滅した、あるいはごく辺縁でのみ残存したのだけれども。
 この傾向が包含する諸要素は、のちに毛沢東主義になったもの(サルタン=ガリエフ〔Sultan-Galiyev〕、ロイ〔Roy〕)、共産主義改革派(今日の多様な西側諸党、とくにイタリアとスペインの共産党)、プロレタリアート独裁を行使する労働者評議会という考え、「左翼」共産主義というイデオロギー(Korsch、Pannekoek)だ。
 これらの考え方は、いくぶんは変わってはいるけれども、現在でも再現されてきている。//
 (11)最近のおよそ15年の間のマルクス主義の重要な主張は、産業の自己統治というイデオロギーだ。
 しかしながら、これの起源はマルクス主義ではなく、Proudon やBakunin が代表するアナキストやサンディカリストの伝統だ。
 労働者による工場管理という考えは、19世紀のイギリスのギルド社会主義者たちが論じたもので、マルクス主義からの影響は何もなかった。
 アナキストのような社会主義者は、当時にすでに、産業の国有化は搾取を失くすことができないだろうと気づいていた。他方でまた、個々の会社の完全な経済的自立は、その全ての帰結を伴う資本主義的競争の復活を意味するだろう、ということも。
 ゆえに彼らは、議会制民主主義と代表制産業民主主義の混合システムを提案した。
 ベルンシュタイン(Bernstein)もまた、この問題に関心をもった。そして、十月革命のあとで、ソヴィエト同盟と西側諸国の共産主義左翼反対派がいずれも、産業民主主義を求める声を挙げた。
 スターリンの死後、一つにはユーゴスラヴの実験が理由となって、この問題が復活した。
 フランスで最初に取り上げた一人は元共産党員のSerge Mallet で、<La nouvelle classe ouvrière〔新しい労働者階級〕>(1963年)の著者だ。
 彼は、産業の自立化の社会的帰結を分析して、熟練技術は労働者階級の「前衛」としてますます重要になっていると指摘した。しかし、生産の民主主義的制御の闘いを実行するという新しい意味で、この語を用いた。
 この闘争では、経済と政治の旧式の区別は消失する。
 社会主義の展望は、プロレタリアートの経済的要求によって開始される世界的な政治革命と結びついてはおらず、生産を組織する民主主義的な手段の拡大に関連している。その手段では、熟練技術をもつ賃金獲得者が本質的な役割を果たす。//
 (12)産業民主主義の可能性と展望の問題は、民主主義的社会主義では最も重要な意味をもつに至った。
 それ自体は、Marcuse やWilhelm Reich が喚起した新左翼の黙示録的夢想とは何の共通性もない。そして、歴史的にもイデオロギー的にも、マルクス主義とは別のものだ。//
 (13)スターリン死後のイデオロギー的議論の復活が生んだ副産物は、マルクス主義の歴史と理論への関心が増大したことだった。これは、アカデミズムでの関係文献の多さで示されている。
 1950年代と1960年代には、きわめて広範囲の著者たちによって、有益な著作が書かれた。 
 その中には、つぎの者たちが含まれる。
 鮮明なマルクス主義反対者(Bertram Wollfe、Zbignew Jordan、Gustav Wetter、Jean Calvez、Eugene Kamenka、Inocenty Bochenski、John Plamenatz、Robert Tucker)。
 および、マルクス主義に批判的かつ好意的な者(Iring Fetscher、Shlomo Avieri、M. Rubel、Lucio Colleti、George Lichtheim、David McLellan)。
 そして、あれこれの学派の正統派マルクス主義という少数グループ(Auguste Cornu、Ernst Mandel)。
 多数の研究書は、マルクス主義の起源、とくにその教理の側面でのそれ、を対象にしていた。
 レーニン、レーニン主義、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、そしてスターリンに関する文献が豊富にある。
 Korsch のような初期の世代のマルクス主義者のうちのある程度は、忘我の状態から救われた。ある程度は、再び登場した。
 マルクスのヘーゲルとの関係、マルクス主義のレーニン主義との関係、「自然弁証法」、「マルクス主義倫理」の可能性、歴史的決定論や価値の理論、に関する論争があった。
 マルクスの初期の理論-疎外、物象化、実践-にかかわる主題は、論議の対象であり続けた。
 マルクス主義に直接にまたは間接に関係する著作の多さは、この数年間に、飽き飽きするほどと感じられる程度にまでなっている。//
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 第5節終わり。つぎの最終節、第6節の表題は、<毛沢東の農民マルクス主義>。

2154/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。第6節まであるうちの、第5節へ。
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 第5節・マルクス主義と「新左翼」①。
 (1)いわゆる新左翼に看取することができるのは、一つはマルクス主義の語法の一般化だ。また一つは、マルクス主義の教理の解体と現代の社会的諸問題に対応する能力をマルクス主義が持たないことだ。
 新左翼に属すると主張したり、他者がその一部だと見なしたりしている全てのグループとセクトに共通するイデオロギー的特徴は何か。これを明確に語るのは困難だ。
 この革命的な希望を持つ名前の一つのグループは、1950年代遅くにフランスで生まれた(Parti Socialiste Unifié〔統一社会党〕は、ある程度はこれから発生した)。そして、類似のグループが、イギリスと他諸国で結成された。
 この運動の触媒となったのは、ソヴィエトの第20回党大会のほか、おそらくはもっと大きな程度で、1956年のハンガリー侵攻とスエズ危機だった。
 イギリスでの刊行物は<新理論家(New Reasoner)>と<大学・左翼の雑誌>で、これらはのちに<新左翼雑誌(New Left Review)>に統合された。
 新左翼は一般にスターリニズムを、個別にはハンガリー侵攻を非難した。しかし、ソヴィエト・システムの「頽廃化」は不可避であるか否かや現存する共産主義諸党の政治的、道徳的かつ知的な再生の展望はあるかに関して、彼ら内部での見解は異なっていた。
 彼らは同時に、労働者階級のイデオロギーとしてのマルクス主義を信頼していることを強調した。そして、その中には、レーニン主義の信奉を表明する者もいた。
 彼らはまた、注意深く、自分たちのスターリニズム批判を社会民主主義者や右翼とは区別し、「反共産主義者」へと分類されるのを避けようとした。
革命的でマルクス主義的な気分(ethos)を維持して、スターリニズム批判を西側帝国主義、植民地主義および軍備競争に対する新たな攻撃に適合させようとした。
 (2)新左翼は、諸共産党内に論争を巻き起こし、イデオロギー的論議を一般的に復活させることに貢献した。しかし、きわめて一般的な言葉遣いによるのを除けば、社会主義に関する、何らかの代替的モデルを作り出したとは思えない。
 「新左翼」という呼称は、大小はあれ毛主義者やトロツキストその他のグループを含む、既存の諸党派の外で「真の共産主義」を復活させようとする、多様な異端的論者によって使われた。
 フランスで<左翼>(gauchiste)という語を用いたのは通常は、レーニン主義的「前衛」党を含む、全ての形態の権威に対抗することを強調するグループだった。
 スターリン後の時代にはトロツキー主義の一定の復活があり、多数の分派集団、分離「インターナショナル」等の結成に至っていた。
 「新左翼」という語は1960年代には、ヨーロッパや北アメリカで、学生イデオロギーに対する集団的呼称として通常は用いられた。そのイデオロギーは、ソヴィエト共産主義と同一のものではなく、しばしば明確にそれを否認するものだったが、世界的な反資本主義革命の用語法を使い、モデルまたは英雄像として主として第三世界に注目していた。
 こうであっても、この新左翼イデオロギーは、その名前にふさわしい何らかの知的な成果を生み出さなかった。
 その特徴的な傾向は、つぎのように叙述することができるだろう。
 (3)第一に、彼らは、革命のための社会的「成熟性」という観念はブルジョア的欺瞞だ、と主張する。
 適確に組織された集団は、どの国でも革命を起こして、社会的諸条件の急進的な変革をもたらすことができる(「今ここにある革命」)。
 待たなければならない理由はない。
 現存する国家と統治するエリートたち(élite)を、将来の政治的経済的組織に関する議論をすることなくして、力(force)によって破壊しなければならない。
革命は、適切な時期に、それを決定するだろう。
 (4)第二に、現存秩序は例外なく、全ての側面で、破壊するに値する。すなわち、革命は世界的で、全面的で、絶対的で、無限定のものでなければならない。
 全面的(total)革命という考えが大学で開始されたとき、その最初の攻撃対象は当然に、「封建的」大学制度、その知識と論理的技術だった。
 雑誌、冊子、パンフレットで、革命家は自分たちの要求や言葉の意味を説明するよう求めてくる教師たちと議論する必要はない、と宣言された。
 学生たちに試験に合格し何よりも学科目を学習するよう要求するのは非人間的抑圧だとして、それからの「解放」を謳う、多くの言葉があった。
 大学や社会での全ての改革に反対することも、革命的義務だった。すなわち、革命は普遍的でなければならない。従って、部分的な改革は何でも、既得権益層の陰謀だ。
 全てが変革されるか、何も変革されないかのいずれかだ。なぜならば、ルカチやマルクーゼが言い、フランクフルト学派が教えるように、資本主義社会は分別不可能な一体なのであり、その全体だけを変革することができる。//
 (5)第三に、ブルジョアジーによって回復不能なほどに堕落させられた労働者階級を信頼することはできない。
 現時点では、学生は社会の最も抑圧された層だ。そのゆえに、最も革命的だ。
 しかしながら、全ての者が抑圧されている。ブルジョアジーは労働愛好教(cult)を導入した。よって、まず必要なことは、労働を停止することだ。生活必需品は、そのうちに用意されるだろう。
 最も下品な抑圧形態は、ドラッグの禁止だ。これともまた、闘わなければならない。
 性の解放、労働からの自由、大学の紀律その他全ての制限からの自由、普遍的で全面的な解放。-これら全てが、共産主義のエッセンスだ。//
 (6)第四に、全面的革命の態様は第三世界に見出すことができる。
 新左翼にとっての英雄は、アフリカ、ラテン・アメリカよびアジアの政治指導者たちだ。
 アメリカ合衆国は、中国、ヴェトナムあるいはキューバに似たものに変革されなければならない。
 新左翼の学生たちは、第三世界の指導者やFranz Fanon、Régis Debray のようにこの問題に関与する西側イデオロギストたちを別にすれば、暴力と黒人人種主義を提唱したアメリカの黒人指導者たちをとくに尊敬した。//
 (7)1968-69年に最高潮に達したこの運動のイデオロギー的幻想は、中産階層の甘やかされた子供たちの気紛れを、無意味に表現したものにすぎなかった。そして、彼らのうちの最も過激なグループは、ファシスト凶漢と事実上は見分けがつかなかった。
 それにもかかわらず、この運動は、数十年にわたって民主主義社会で鼓吹された価値への信頼には深刻な危機があることを、間違いなく表現していた。
 この意味では、醜悪な言葉遣いだったにもかかわらず、「純粋な」運動だった。
 むろん、ナツィズムやファシズムについても、同じことが言えたのだが。
 かりに可能であるとして、人間が汎世界的基盤でのみ解決できる切実した諸問題を、彼らは世論に持ち込んだ。第三世界の人口過剰、環境汚染、貧困、後進性および経済的失策。
 同時に、略奪的で感染しやすいナショナリズムによって、グローバルな行動はさほど有効ではなさそうであることが、明らかになった。
 これら全てが、教育分野の危機の多様な兆候は勿論のこと、政治的軍事的緊張や世界戦争への恐怖と一緒になって、一般的な不安の雰囲気と、現在ある救済策は効かないという感情を発生させた。
 状況は、歴史上にしばしば見られたことの一つだった。袋小路に迷い込んだと、人々は思った。
 彼らは絶望的に奇跡を待ち望み、千年紀的、黙示録的希望に耽溺した。
 普遍的な危機の意識を増大させたのは情報伝達(communication)の速さだつた。それでもって、全ての地方的問題や災難はただちに世界じゅうに知られることとなり、敗北という一般的感覚が発生した。
 大学生たちの新左翼的爆発は、欲求不満から生まれた攻撃的運動だった。その運動は、マルクス主義の諸スローガンから自分たちの語彙を容易に造り出した。あるいはむしろ、マルクス主義者が使ったのと同じ表現だった。すなわち、解放、革命、疎外、等々。
 この点を別にすれば、そのイデオロギーは実際には、マルクス主義とほとんど共通性がない。 
労働者階級なくしての「革命」から成る。また、現代技術に対する憎悪から成る。
 (マルクスは技術的進歩を称揚し、差し迫る資本主義の崩壊の理由の一つは、その技術進歩を維持できないことだ、と考えた。-これは、今日では馬鹿げたこととして繰り返されることのない予言だ)。
 進歩の淵源である原始社会(マルクスにはほとんど関心がなかった)への愛好。教育や専門化した知識に対する憎悪。そして、アメリカのルンペン・プロレタリアートは偉大な革命的勢力だという信念。
 しかしながら、マルクス主義には黙示録的側面があり、後世の範型の多くでその側面がが力を持つに至った。そして、マルクス主義的語彙からの一握りの言葉や語句は、世界を奇跡的なパラダイスに変化させる一撃を加えることができるという確信を、新左翼の者たちに抱かせた。
 情報伝達の障害となるのは唯一つ、大独占企業と大学教授たちだ。
 公式の諸共産党に対する新左翼の主要な不満は、共産党は革命にとって十分に革命的でない、ということだった。//
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 ②へとつづく。

2145/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節②-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。最後の段落の前に一行の空白がある。「むすび」または「小括」のごとくだが、内容的にはこの節に限らず、<修正主義>一般に関するもののように見える。
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 第4節・フランスでの修正主義と正統派②。
 (7)パリの流行が実存主義から構築主義へと変化した1960年代の後半、関心は、マルクス主義の完全に異なる解釈に向けられた。それは、フランスのマルクス主義者、L・Althusser 〔ルイ・アルチュセール〕が提示したものだった。
 構造主義が人気を得た理由の一つは、言語学の方法として始められたからだ。言語学は多少とも正確に「法則」を進化させ得る唯一の人文系学問分野だと見なされた。
 「科学的」地位は別の人文学分野へと移るだろうとの望みは、今では抱かれている。しかし、それ以来、この点の展開は物足りないままだ。
 Lévi-Strauss 〔レヴィ-ストロース〕 は、人文学への構造主義的、非歴史的接近方法の、フランスの最初の主張者だった。そして、個人にはほとんど関心を向けず、原始社会の神話にある符号(signs)システムの分析に集中した。
 そのシステムの「構造」は、誰かによって意識的に考案されたのでも、使用者の心に現れるものでもないが、科学的観察者は発見することができる。
 Althusser は二つの連作著書で-<マルクスのために>(1965年)と<資本論を読む>(1966年、E. Balibar と共著)-、マルクス主義は、人間の主体性と歴史的継続性が意識的に排除される、構造主義的考察方法を提供することができることを、示そうとした。
 彼はその攻撃の矛先を「ヒューマニズム」、「歴史主義」および「経験主義」に向け、マルクスの知的な発展は1845年の<ドイツ・イデオロギー>で明確に中断した、と主張した。
 マルクスはそれ以前はヘーゲルとフォイエルバッハにまだ囚われていて、具体的な人間個人を想定して世界を(疎外のような)「ヒューマニズム」や「歴史主義」の範疇によって叙述した。しかしながら、のちにはこうしたイデオロギー的接近方法を放棄し、厳密に科学的な理論を進展させた。それだけが、純粋なマルクス主義だ(なぜ以前のマルクスよりものつのマルクスの方が純粋なのか、Althusser は説明しない)。
 <資本論>で最も十分に深められ、その方法が<綱要(Grundrisse)>への序文で設定されているこのマルクス主義は、歴史過程は人間主体の行動という観点から叙述することができるという考えを拒否する。
 Althusser によれば、全ての科学的著作と同じく、<資本論>の主題は現実にある実体ではなく、その全要素が全体に依存する、理論上の構築物だ。
 歴史的唯物論で最重要なのは、他者に依存する歴史的現実の諸側面を確かめることではなく、諸側面のいずれもが全体に依存している、ということだ(これは、この論脈でAlthusser は言及していない、ルカチの考えだ)。 
 しかしながら、全ての領域にはそれに固有の変化のリズムがある。全てが均等に発展するのではなく、どの時点をとっても、進展の異なる段階にある。
 Althusser は「イデオロギー」や「科学」について、実証主義者たちが言っただろうような真実の「外部的」標識に科学は拘束されないとたんに述べるだけで、定義することがない。そうではなく、自分の「理論的実践」のうちに自分自身の「科学性」を創造する。
 このようにして科学は何で成り立つかという問題を片付けたうえで、マルクスの資本主義社会の分析は人間主体にではなく生産関係と関連している、と明確に述べる。その生産関係が、それに関与する人々の活動を決定するのだ。
 (看取し得るように、<資本論> は資本の運動が決定する作用をたんに具現化したものとして個人を扱っているというのは本当だが、このことは、資本が実際には個人を富または労働力の単位に変化させるという、マルクスの初期の観察を繰り返したものにすぎない。この変化が共産主義が廃棄を約束する、「非人間化」という効果だ。)
 我々はかくして、普遍的な方法的規準ではなく、交換価値という反人間的な性質に対する批判について、論述しなければならない。//
 (8)さて、考察の対象は、(この本でしばしば用いられるが、どこにも説明がない言葉である)「構造」(structure)であり、個人的な人間の諸要素ではない。
 Althusser は、「ヒューマニズム」という語で、つぎのものを意味させているようだ。歴史的過程を個人の行為に還元する理論、多数の例を通じて複合的になる同一の種たる本性を人間個人のうちに認める理論、あるいは、歴史的変化を絶対的「法則」ではなく個人の必要性の観点から説明する理論。
 「歴史主義」(これもAlthusser は説明しない語だが)はどうやら全ての態様の文化を論じることにあると考えられている。またとくに科学は、歴史的条件の変化と相関的なものとしてグラムシのように理解されているようだ。そして、科学の特別の権威と「客観性」を矮小化している。
 しかしながら、真のマルクス主義では、科学は「上部構造」の一部ではない。
 科学はそれ自体の規準をもち、進展する。科学は、客観的な観念的全体を構成するのであり、階級意識を「表現するもの」ではない。
 こうしてレーニンは正しく、外部から労働者階級の運動に注入されなければならず、階級闘争の要素または産物として発現することはあり得ない、と言った。
 なぜならば、社会生活の異なる諸側面は不均等に発展し(これはAlthusser が毛沢東に見出せると主張する点だ)、全てが同一の<時代精神〔Zeitgeist〕>を同じように表現するわけではない、というのがきわめて重要なことなのだ。
 どの諸側面も相対的には自立しており、革命にまで至る社会的「矛盾」はつねに、この「不均衡性」から生じる対立の産物だ。
 この最後の現象に、Althusser は「超(super-)決定」という名称を与える。そしておそらくはこの語によって、個々の現象は現存する条件の複合体(例、資本主義)からのみならず、当該の生活局面の、発展しているリズムによっても決定される、ということを意味させる。
 こうして例えば、科学の状態は社会状況全体はもとよりそれまでの科学の歴史に依存しており、同じことは絵画等々についても言える。
 上に紹介したようなことは、きわめて無邪気な結論だと思われる。「上部構造の相対的な自立性」に関するエンゲルスの言明を繰り返したものだ。
 Althusser はときおり、再びエンゲルスに従って、「超決定」にもかかわらず状況はつねに「究極的には」生産関係によって支配される、と述べる。しかし、エンゲルスの曖昧な言明をより明確にする何かを付け加えることがない。
 結論は要するにこうだ。個々の文化現象は一般に多様な状況に依存する。その中には、その一部となっている生活諸側面の歴史や社会関係の現在の状態が含まれる。
 このような明確な真実の、いったいどこが「科学的」なのか、何ゆえにマルクス主義の革命的発見なのか、あるいは、将来の予言は勿論のこと、どのようにして個々の特定の事実を説明する助けになるのか、について、何も語ってくれない。
 Althusser はまた、発展段階が同一か否かを示すために、例えば彫刻と政治理論といった二つの異なる分野でどのように比較することができるのかを、説明もしない。
 彫刻の分野のいかなる条件が「生産関係」のある所与の状態に対応しているかを歴史的法則から帰結させることができる、という想定のもとでのみ、これを行うことができる。
 しかし、このような推論をする方法について、Althusser は何ら提示しない。
 (党指導者はこれを行うことができるという想念は、現在の社会的意識が生産関係よりも「遅れている」がゆえにイデオロギー的迫害が正当化されると考えられている共産主義諸国では、決まってきわめて好都合だ。
 これが意味するのは、支配者は、どのような意識が「土台」と合致するためには必要なのかを知っている、ということだ。)
 (9)のちにAlthusser は、こう考えるに至った。ヒューマニズム、歴史主義およびヘーゲル主義の遺憾な痕跡が<資本論>の中にもなお見出し得るので、1845年頃のマルクスの見方の認識論的転回点は、考えていたほどには明瞭に画することができない、と。
 <ゴータ綱領批判>として知られる二つだけのマルクスの文章と政治経済学に関するAdolph Wagner の本の縁にあった若干の記述には、イデオロギー的な歪みが全くなかった。
 我々は、この点で、マルクス主義はマルクスの時代からきちんと存在したのか、あるいはAlthusser が考案する余地がなおあったのか、と不思議に思うことから出発することができる。
 (10)とくに1960年代後半でのAlthusser の見方が著名であるのは、彼の本は何らかの政治的結論に至ってはいないので、政治の問題ではない。
 もっと重要な点は、彼はマルクス主義者たちの間にある、実存主義、現象学論、あるいはキリスト教よりも進もうとする傾向に反対した、ということだ。そうして彼らは、自分たち自身の哲学を薄弱にし、独自性をなくしている、と。
 Althusser は、イデオロギー的「統合主義」を支持し、マルクス主義は自己充足的な教理であって100パーセント科学的で、外部からの助けを何ら必要としない、と保障する立場に立った。
 (科学という「神話」は、マルクス主義者のプロパガンダですさまじい役割をつねに果たしてきた。Althusser は、自分がいかに科学的であるかを、そして他の多数のマルクス主義者も同様であると、と繰り返して宣言する。これは本当の科学者の習癖ではないし、人文学者のそれでもない。)
 いくつかの新語法は別とすれば、Althusser は、理論に対する新しい貢献を何ら行わなかった。
 彼の著作は、たんにイデオロギー的厳格性と教理上の排他性へ立ち戻る試みにすぎなかった。マルクス主義を他の思考方法による汚染から守ることができる、という信念への回帰だ。
 この観点から言えば、古い様式のマルクス主義の偏屈さへの回帰だ。だが同時に、スターリン後の「雪解け」の結果として始まった、全く反対の過程を証言するものでもある。
 第一次大戦前にはちょうど同じように、当時の知的な流行にマルクス主義が「感染」してしまって、ネオ・カント的マルクス主義、アナクロ・マルクス主義、マルクス主義的ダーウィニズム、経験批判的マルクス主義等々、のような現象が生まれた。
 同じように、この20年間のマルクス主義者たちは、絶望的にも長い間の孤立を埋め合わせようとして、既成の、または人気ある哲学に頼った。そして今、ヘーゲル主義を加減したマルクス主義、実存主義、キリスト教、あるいはAlthusser の場合に見られるように、構造主義、がある。
 構造主義が人気のある別の原因は、1950年代遅くの人文科学でそれ自体が感じたことだろうが、離れた学問対象だったことにある。ここではこの点に立ち入ることはしない。
 <一行あけ>
 (0)これまで論述してきた修正主義は、スターリン後にマルクス主義が解体していくいくつかの兆候の一つにすぎない。
 これがもった重要性は、その批判的態度でもって、共産主義諸国でのイデオロギー的忠誠が減退することに、また、公式の共産主義の道徳的貧困さはもとより知的な貧困さをも暴露することに、大きく寄与した、ということにある。
 修正主義は同時に、マルクス主義の伝統にある軽視されてきた側面に注意を惹いた。そして、歴史研究に一定の衝撃を与えた。
 通用力をそれが与えた価値や主張は決して消滅しておらず、共産主義諸国の民主主義的反対派で依然として顕著だ。だが、とくに修正主義の論脈でつねに語られているわけではない。
 言ってみれば、共産主義僭政体制に対する批判は、ますます稀にしか行われず、ますます効果が少なくなっている。その際に用いられる言葉は、「共産主義を悪用から浄化する」、「マルクス主義を改革する」、「根源へと立ち戻る」だ。
 僭政体制と闘うことは、つまるところは、それはマルクスまたはレーニンの思想と反対だと証明することでは必ずしもない(そしてレーニンの場合は、彼との矛盾をすっかり証明するのはとくに困難だ)。
 このような議論は、1950年代の特定の状況のもとでは適切だった。しかし、今ではそう論じる意味が相当になくなった。
 哲学についても同様に、「歴史的法則」または「反射の理論」に対抗しての人間の主体性の擁護は、マルクス主義の権威にもとづく必要はないし、それなくして十分に行うことができる。
 このような意味で、修正主義は、現実的な論争点ではかなりなくなってきた。
 しかし、このことによって、その思想や批判的分析のいくつかがもつ永続的な価値が、何らかの影響を受けるわけでは全くない。//
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 第4節、終わり。つづく第5節の表題は、<マルクス主義と「新左翼」>。

2138/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節①-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。この書には、邦訳書がない。
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 第4節・フランスにおける修正主義と正統派①。
 (1)1950年代後半から、フランスのマルクス主義者たちの間で活発な議論が続いた。修正主義の傾向は部分的には実存主義からの支持を受け、部分的には実存主義との対立でもって支持を獲得した。
 ハイデガーとサルトルの二人がいずれも説いた実存主義には、マルクス主義修正主義と共通する一つの重要な特質があった。すなわち、還元不能な人間の主体性と実存の物的(thing-like)様相との間の対立を強調する、ということだ。
 同時に、実存主義は、人間存在は主体的な、つまり自由で自立した実存から「物象化された」状態へと逃げる恒常的な性向をも持つ、と指摘した。
 ハイデガーは、「不真正さ」と匿名性への漂流および非人格的現実と一体化する切望を表現することのできる、そのような諸範疇から成る精妙な大系を作り出した。
 同じように、サルトルによる「即自(in-itself)存在」と「対自(for-iself)存在」の対立に関する分析や、我々から自由を隠して我々自身や世界への責任から回避せしめる<悪意>に対する熱心な弾劾は、主体性や自由の哲学としてマルクス主義を復活させようとする修正主義者たちの試みと十分に合致していた。
 マルクス、およびそれ相当にだがキルケゴール〔Kierkegaard〕はいずれも、非人格的な歴史的存在へと人間の主体性を溶解させるヘーゲルの試みだと見なしたものに対して、反対した。
 このような観点からすれば、実存主義の伝統は修正主義者たちがマルクスの基礎的な教理だと考えたものと一致していた。//
 (2)のちの段階では、サルトルは、マルクス主義とソヴィエト同盟やフランス・マルクス主義を同一視しなくなった。しかし、同時に、決然として周到に、自分自身とマルクス主義を同一視するに至った。
 彼は<弁証法的理性批判>(1960年)で、実存主義の修正版と自らのマルクス主義解釈をを提示した。
 この長くてとりとめのない著書が明確に示したのは、サルトルの従前の実存主義哲学の名残りをほとんどとどめていない、ということだった。
 彼はこの書の中で、マルクス主義は<優れた>(par excellence)現代哲学だ、マルクス主義以前に、つまり17世紀にロックやデカルトがスコラ派哲学の見地からのみ批判され得たのと全く同じように、反動的な見地からのみ純然たる歴史的な理由で批判することができる、と述べた。
 この理由からして、マルクス主義は無敵(invincible)のもので、その個々の主張は「内部から」のみ有効に批判することができる。//
 (3)マルクス主義の歴史的「無敵さ」に関する馬鹿げた主張はともかくとして(サルトルの議論によれば、Locke に対するLeibnitz の批判やデカルトに対するホッブズの批判は、スコラ派の立ち位置に基づいているに違いなかった!)、<批判>は、「自然弁証法」や歴史的決定論を放棄するが、人間の行動の社会的重要性を維持しながら、「創造性」や自発性を目的として、マルクス主義の内部に領域を見出そうとする試みとして興味深い。
 意識的な人間の行為は、たんに人間の「一時性」を生む自由の投射物として表現されるのではなく、「全体化」に向かう運動として表現される。人間の感覚は現存する社会条件によって決定されている。
 換言すれば、個人は絶対的に自由に自分の行為の意味を決定することはできないが、環境の隷従物になるのでもない。
 共産主義社会を構成する、多数の人間の企図が自由に協同し合う可能性がある。しかし、そのことはいかなる「客観的法則」によっても保障されていない。
 社会生活は自由に根ざした諸個人の行為でのみ成り立っているのではなく、我々を制限している歴史の堆積物でもある。
 加えるに、自然との闘いなのだ。自然は我々を妨害し、社会関係を稀少性(<rareté>)が支配する原因となり、そうして、欲求の充足の全てが、相互に対立し合う淵源になり、人間がそれとして相互に受容し合うことを困難にしている。
 人間は自由(free)だ。しかし、稀少性によって個別の選択の機会が剥奪され、そのかぎりで人間性が消滅する。 
 共産主義は稀少性を廃棄することで、個人の自由と他者の自由を認識する能力を回復させる。
 (サルトルは、共産主義がいかにして稀少性を廃棄するのかを説明しない。この点で彼は、マルクスによる保障をそのまま信頼している。)
 共産主義の可能性は、多数の個人の企図が単一の革命的目的へと自発的に結びついていく可能性のうちにある。
 <批判>は、関係する他者のいかなる自由も侵害することなく、共同で活動に従事するグループを描写する。-革命的組織のかかる展望は、共産党の紀律と階層性に代わり、個人の自由を有効な政治的行動と調和させることを意図するものだ。
 しかしながら、この説明は一般的すぎるもので、かかる調和にある現実的諸問題を無視している。
 理解することができるのは結局、サルトルは目的をこう想定している、ということだ。すなわち、官僚制と装置化を免れた共産主義の形態を工夫して作り上げること。あらゆる様式での装置化は自発性とは真逆のもので、「疎外」の原因となっている。
 (4)多数ある余計な新語作成についてはさて措き、知覚や認識の歴史的性格、および自然弁証法の否定に関して、<批判>は何らかの新しい解釈を含んでいるようには思えない。サルトルは、ルカチの歩みを追っている。
 自発性と歴史的条件による圧力の調和について言うと、この著作が我々に語っているのは、せいぜいつぎのことだけだ。つまり、自由は革命的組織によって保護されなければならず、共産主義が諸欠陥を無くしてしまえば完璧な自由が存在するだろう、ということ。
 このような考え方は、マルクス主義の論脈で特段新しいものではない。新しいかもしれないのは、このような効果がいかにして達成されるかに関する説明の仕方だろう。
 (5)共産主義の伝統にもとづく哲学者たちに期待されるような、厳格な意味での修正主義は、「サルトル主義」とは合致しなかった。
 だが、ある範囲では、それは実存主義的主張を示していた。
 (6)修正主義という目印は、いくつかの形態をとった。
 C. Lefort やC. Castoriadis らの若干の異端派トロツキストたちは、1940年代遅くに<社会主義または野蛮〔Socialisme ou barbarie〕> というグループを結成し、同名の雑誌を出版した。
 このグループは、ソヴィエト同盟は退廃してしまった労働者国家だというトロツキーの見方を拒否し、生産手段を集団的に所有する新しい階級の搾取者たちが支配している、と論じた。
 彼らはレーニンの党理論に搾取の新しい形態を跡づけて、社会主義的統治の真の形態としての労働者自己統治の考えを再生させようとした。党は、余計であるのみならず、社会主義を破滅にもたらすものだ。
 このグループは1950年代遅く以降に、フランスの思想家たちに、きわめて重要な思想をもち込んだ。労働者の自己統治、党なき社会主義、そして産業民主主義。
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 ②へとつづく。

2126/J・グレイの解剖学(2015)①ーコワコフスキ。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳する。46の章に分かれていて、それぞれ独立しているので、順序はとわず、関心をもった部分から始める。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第37章・神は幸福か?: 宗教に関するコワコフスキ。
 (1)「全てに関する私の正しい見方」という、名の知られた歴史家のE. P. Thompsonが彼に宛てた100頁以上の公開書簡に対する反論文で、コワコフスキ〔Leszek Kolakowski〕は文章をこう結ぶ〔本欄№1540/2017.05.13試訳済みを参照-秋月〕。
 「長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想〔communist idea〕を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 〔*この続き・秋月-「哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。/この骸骨は、二度と微笑むことがないだろう。/君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ」〕。
 1974年に公刊されたコワコフスキの返答は、1960代初めにソヴィエト国境をイランへと横切ろうとして逮捕され、収容所での6年の重労働を宣告されたロシアの労働者の体験についての記録を含んでいる。
 ドイツで出版された回想記でそのロシア人労働者は、逃亡しようとした三人のリトアニア人に対してなされた措置を描写している。〔本欄№1526/2017.05.02参照
 二人はすみやかに逮捕され、何度も脚を射撃され、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。警察の犬によって噛まれて引き裂かれ、銃剣で刺し殺された。
 射撃されて死んだと考えられた三人めの囚人は生き残っていて、小部屋に投げ込まれた。その小部屋で、傷が膿み爛れて、腕が切断された。//
 (2)コワコフスキはこの話-1930代ではなく脱スターリニズム化した1960年代のことだと彼は注記する-を詳述しつつ、無名のロシア人労働者の個人的な説明は、労働者階級の運動に関する著名な年代史歴史学者には何の影響も与えないだろう、と知っていた。
 イギリス左翼にあるカトリック教的偏見の独演のごとく、トムソン〔Thompson〕の書簡は、現実に共産主義のもとで生きた者は希望を失うことはないという自己陶酔を主張する。
 トムソンの時代にあった淀んだ進歩的合意に完全に浸ったままで、彼は、ソヴィエト共産主義体制は素晴らしい実験で、スターリンが妨害した」ということを疑わない。
 彼は、「新しい社会システムを評価する時間としては、50年は短かすぎる」と見る。
 Eric Hobsbawm-20世紀の多くについてグロテスクにも非現実的な見方をもつ、もう一人の高く評価されすぎている歴史家-と同様に、トムソン(1993年逝去)は、レーニンが創立した新しい社会が突然に、それが基礎としたマルクス主義プロジェクトの痕跡を汚染された風景と犯罪化した経済や半分私物化したKGB以外には何ら残さないで、消え失せるに至った、ということの理由を疑問視しなかった。//
 (3)彼の娘のAgnieszka によって注意深く編纂されて提示された、この貴重な(indispensable)コワコフスキの小論集(注1)にある多数の重要な論考の一つ、「全てに関する私の正しい見方〕は、冷戦を主題とする例外的なものだ。
 情況によってやむなく政治的文筆家になったのだけれども、コワコフスキの最も深い関心は、もともとは決して政治的なものではなかった。
 (第二次大戦後に10歳代の青年が加入した)党から除名されたのち、彼は大学の講座職を逐われ、教育と出版を禁止された。彼は1968年にポーランドを離れ、1年後にBerkley に着いた。
 アメリカのリベラルな学術界の単純な精神が考えていたのは、自分たちは人間の顔をもつ社会主義の幻想(fantasy)を共有する者ならば誰にでも神聖な避難場所を提供する、ということだった。
 彼らが遭遇した忠誠と疑念の懐疑的な守り手は、一つの衝撃としてやって来たに違いない。
 しかし、彼の著作のまさに最初から、コワコフスキはなかんづく宗教に関心をもつことが明瞭だった。そして、かりに彼が共産主義の分析に多年を費やしたとすれば-その企図は彼の決定的(definitive)な<マルクス主義の主要潮流>(1978)で完結した-、世俗的な信仰としてのマルクス主義の役割を主としては検証するためだった。
 27の論考のうち三分の一だけが政治思想を扱っており、それらでは、マルクス主義と共産主義は宗教の歴史のうちの一つのエピソードとして理解されている。
 会話をすればコワコフスキは、疲れた微笑みを浮かべて、共産主義的全体主義は戦闘的無神論とは全く関係がない、という考え方に応答するだろう。
 彼はその際に、今日のevangelical〔福音主義〕の非信仰者たちが敬虔に繰り返す、ずっと流行しているよく考えられた(bien-pensant)この見解がなぜにここまで見当違いであるのかを、痛烈なほどに詳細に語り始める。//
 (4)これらの小論考は、ほとんど50年間に及ぶもので、広い諸分野にかかわっている。
 これらは弁神論(theodicy)の必然性と不可能性に関する論文であり、ある小論は神による幸福の思想について調子よく戯れており、別の小論は時間へのルーズさや上流気取り(snobbery)を称賛する。また、とりわけ、ポーランドでは共産主義が瓦解するまで出版されなかった、共産主義イデオロギーに対する初期の攻撃(1956年)や、ナツィ・イデオロギーとホロコーストに関する綿密で感動させうる小論もある。
 思想家(thinker)が繊細で鋭敏であれば、勝ち誇り主義(triumphalism)に屈することはない。この共産主義に対する非妥協的な批判者は、市場という祭壇に跪くのを拒んだ。1997年に、中国の強制収容所でほとんど無償で生産された商品はいかほどに世界市場で打ち負かすことのできないものであるかを記した。
 「こうして、自由市場は、専制体制と隷従を支援する」。
 これらの論考全てを貫いて輝いているのは、コワコフスキがもつ迷妄なき知性の、聡明な力だ。
 ここには、永遠なる事物について書き、同時に時代を支配する幻想をも暴露することのできる、真の知性がもつ、沪過された見識がある。-その種のものとして、おそらくは最後のものだ。//
 (5)彼の著作の全ては何らかのかたちで信仰(faith)に関係しているが、コワコフスキの信念(beliefs)を容易に明らかにすることはできない。
 「祝宴への神からの招待」は、彼の死の7年前に2002年に執筆され、この本で初めて翻訳されて公刊された。この小論は、パスカルとキリスト教ヒューマニスト、「たぶんイエス、たぶんエラスムスの支持者の一人」で、人間の正義の観念を超越する神というパスカルの心像に挑む者、の間の想像上の対論だ。
 コワコフスキの共感は護教派的(apologetic)戦略は「何ものにも至らない」パスカルの側にはない。しかし、人間の言葉で神を把握することができると考えるキリスト教者の側にもない。
 コワコフスキは、問題を残したまま(open)にする。
 彼が追求した矛盾-信仰と理性、科学と神話、現代性と自然的法則の継承の各々の間の-は、彼の著作で解消されなかった。
 しかし、解消し得ないディレンマについて解決を提示することをコワコフスキが拒むのは、弱さでは全くなく、きわめて稀少な性格の知性的統合を示すものだ。//
 (6)Agnieszka Kolakowska はその素晴らしい序言で、「コワコフスキの著作の最も顕著な特質」、彼を最もよく特徴づけるものは、真実と確実性に対する彼の態度だ、と述べている。
 これは、明敏な観察だ。
 人間の知識の限界に関するコワコフスキの見方は、Mill やPopper のようなリベラルたちが促進した見地とは大きく異なっていた。
 最も高潔な人間による探求は真実の追究だと見つつ、彼は、あらゆる種類の確信(certitude)を軽蔑した。-それはしかし、人間の誤謬性を認識することで徐々に真実に到達することができると考えたからではなかった。
 究極的な問題に関しては、真実を見出すのは困難であるばかりか、真実は本質的に不可思議(mysterious)なものなのだ。
 すなわち、「いかなる重要なものも、深く隠れているために我々が何も見出すことができないところにあるものを救い出すことはできない。全く、何もないところにあるものを」。
 こうした重要な事物のいずれかがコワコフスキに明らかになったのかどうかを、我々は知ることができない。しかし、1980年代および1990年代に〔Oxford大学の〕オール・ソウルズ(All Souls)で彼と語り合って、私の持った印象は、いかに躊躇したり臆病であったりしても、信仰者(believer〕のそれではなかった。
 そうではなく、信じようと切に欲してはいるが、そうすることができないと知っている人物だという印象だった。
 コワコフスキは書いた。-「おそらくは全ての偉大な哲学者の思考のどこかに、綻び(rent)がある。痛ましくて修復できない、織物の中の隠された裂け目がある」。
 彼はこれをパスカルに関するコメントとして述べたのだったが、コワコフスキ自身についても当てはまる、という感情を抑えるのは困難だ。//
 2014年
 (注1) Leszek Kolakowski, Is Good Happy ?, Selected Essays (2012, London). 
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 この章は終わり。ついで、別の章を扱う。

2124/西尾幹二の境地・歴史通/WiLL2019年11月号③。

 一 「神話と歴史」の関係・区別を論じ、前者の優先性・優越性を語る点で、つぎの二つで西尾幹二は共通している。
 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)、p.126-。月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 B/西尾幹二・国民の歴史
(産経、1999)-第6章・第7章。
 さすがに、20年間を挟んで、と感じられるかもしれないが、少しばかり吟味すると、一貫しているわけではない。例えば、Bには歴史も「とどのつまりは神話ではないか」との「哲学的懐疑心」が肯定的な意味で語られていて(p.157)、神話と歴史の<相対性>もむしろ強調されているように読める。
 一方、Aでは両者を峻別して「神話」の絶対的超越性を説いているがごとくだ。-「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にあるが、「神話は不可知の根源世界で、…人間の手による分解と再生を許しません」(p.219)。
 Aが<女系天皇否認>のための前提として語られているアホらしさには、すでに触れた。日本書記等がかりに<万世一系>の根拠になっても、<女系否認>の根拠には全くならない。
 この点はさて措くとして、20年間も同じ考え方でおれるはずがない、等々の釈明は可能だ。20年間も同じテーマについて全く同じことを書いていたのでは「進歩」がない。
 しかし、西尾幹二のつぎの著は、「歴史」をどう語っていただろうか。
 C/西尾幹二・保守の真贋-保守の立場から安倍政権を批判する(徳間書店、2017)。
 
保守ならば、当然真っ先に心の中に響き渡っている主張低音があるはずである。……そして、これらをひっくるめて<五、歴史>。」p.16。
 上で省略した一~四は、つぎだ。1・皇室、2・国土、3・民族、4・反共(反グローバリズム)。従って、西尾幹二によると、これら四つを「ひっくるめたもの」が<5・歴史>となる。
 西尾のこの著では、「保守」の「要素」を総括したものが、「歴史」だ。さほどに「歴史」という観念・概念は重視されている。
 そして不思議なことに、全部を詳細に読んだわけではないが、この「歴史」と「神話」の関係・区別には論及が全くかほとんどない。
 上のA、2019年の対談では「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にある等々と語って、<女系天皇>問題は、今日の日本で「神話」という「超越的世界観」を信じることができるか否かの問題だ、などと壮言しているにもかかわらず。
 西尾は、2017年著との関係について、書物や対談の趣旨から判断して「歴史」を同じ意味で使っているわけではない。自分の著作を全体として見て評価・論評してもらいたい、と釈明するかもしれない。しかし、上の二つ(AとC)での「歴史」概念の差異は著しい。そして、書物等、従って執筆時期や読者層を考慮して、この人物は、上の釈明があてはまっているとかりにしても、<それぞれに、適当に>同じ基礎的な言葉・概念を使い分けている、ということが明らかだ。
 そのつど、そのつど、上に挙げた要因によるのはむろんのこととして、同一の書の中ですら文脈に応じて、同じ概念を異なる意味・ニュアンスをもつものとして使う、ということにこの人物は習熟しているのだ。
 D/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書で、基本概念としての「自由」は揺れ動いている。そして、書物としてまとめる際に追記したかに見えるp.115-p.119は、ほとんど意味不明のことを喚いている。気の毒だ、見苦しい、と感じるほどだ。
 二 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊、p.222。ここに天皇論や「歴史」論ではない興味深い発言がある。
 ・「日本的な科学の精神」が「自然科学ではない科学」として「蘇る」必要がある。「分析と解析」だけではダメだ。
 ・「現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」は「自然科学の力とどう戦うか」だ。
 ・日本人が愛するのは、自然科学が与えている知性では埋めることのできない隙間」だ。
 ヨーロッパの庭園・建築物と日本の違いを話題に挿入しているが、より詳細な意味が語られているわけではない。しかし、おや?、と思わせる。
 これと似たこと、または通じることを、西尾は上のD・あなたは自由か(2018)でも書いている。p.37。近年に共通する「思い」に違いない。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 「自然科学」ではなくここでは「経済学」を含む「社会科学的知性」を排除しようとしている。少なくとも、「自然科学」とともに「社会科学」もまた、西尾幹二の「意識」またはその言うところの「自由」の問題を解決することはできない、ということだろう。
 ここでの「社会科学的知性」とは、すぐ前に「条件づくりの学問」という語があるように、生活条件の整備・向上のための「学問」・「知性」を意味させているようだ。この叙述の前には、子どもの成長を妨げる条件を排除する環境の整備だけでは「真の」成長にならない、人の住居を快適にしても「真の生活」にはならない、という旨の文章がある。p.36-。
 簡単に言えば、西尾には<物的条件>の整備ではなく<精神・こころ>が重要なのだ。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」こそ(だけ?)が。
 この著に関する論評はこの欄の別の項で扱っているので、子細には立ち入らないが、以上の部分やこの著の第2章<資本主義の「自由」の破綻>を読了しても感じるのはつぎだ。
 第一は、西尾幹二の、もともとあったに違いない<反欧米主義>だ。
 上のAのp.223にこうある。「西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」、とある。
 この<反欧米主義>とはもう少し言えば、<近代啓蒙主義>あるいは<ヨーロッパ近代>に対抗・反対しようとする<日本(・愛国)主義>だ。
 さらに言えば、<資本主義の「自由」の破綻 >という章題にも現れていると見られる、<反・資本主義>、<反・自由主義経済>の気分だ。別に言及するが、かつてソ連・社会主義諸国内にいて拘禁された者たち(ソルジェニーツィンら)の、解放されて「西側」諸国に接した際の「西側・自由主義」への批判・皮肉を長々と紹介したり言及したりしているのは、西尾の<反・資本主義(自由主義)>の気分をおそらくは明瞭に示している。
 この<反・資本主義(自由主義)>の気分は、当然に、西尾は断固として否定するかもしれないが、少なくともかつての「社会主義」への憧憬・「容共」気分と共通することとなる。
 この欄でレシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の試訳をしていて<フランクフルト学派>に関する部分を終えているが、上に記したような西尾の文章部分を見ながら、コワコフスキ紹介によるこの<フランクフルト学派>(アドルノ、ホルクマイアー、ブロッホ、マルクーゼら)のことを想起せざるを得なかった。
 <フランクフルト学派>は「左翼」だとされる。そして、むろん簡単に要約できないが、資本主義のもとでの「科学技術」の進展や「大衆文化」の醸成に批判的で、「より高い(higher)」文化が必要だとした。近現代「科学技術」、そして「啓蒙(主義)」に対する強い懐疑・批判を特徴とする。
  西尾幹二の「自然科学」批判は、フランクフルト学派の近現代「科学技術」や「近代啓蒙(主義)」に対する批判・攻撃と(少なくとも気分として)共通性がある。
 西尾は、例えば以下の文章を、どう読むだろうか。
 「フランクフルト学派の哲学者たち」が「現実に提示しているのはほとんど、エリート(élite)がもつ前資本主義社会の文化へのノスタルジア(郷愁)だった」(№2032)。
 「ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を…〔要するに資本主義経済-秋月〕のうちに感知することだ」。
  「フランクフルト学派がもつ主要な不満」は、「資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ」るのは「文化の高次の(higher)形態にとって有害だ」、ということにある(№2025)。
 彼らは「『大衆社会』やマス・メディアの影響力の増大を通じた、文化の頽廃、とくに芸術の頽廃を攻撃した。また、大衆文化の分析と激烈な批判の先駆者たちで、この点では、ニーチェの継承者であり、エリートの価値の擁護者だった」(№2004)。
 第二に、<物的条件>の整備ではない<精神・こころ>の重要性、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を西尾幹二が語るときの、その基礎的な<哲学>・<人間論>の所在だ。「唯我論」だとは言わないことにしよう。最近にこの欄で紹介したつぎの文章だけ、再び掲げておく。
 <自分の著書(初版)への「宗教的、文化的右派」からの批判には、無視されると思っていたので、驚いた。①「心は脳の産物」、②「脳は進化の産物」という現在の「心理学者や神経科学者」には当然の前提が、「彼らにとって急進的かつ衝撃的だった」。
 スティーヴン・ピンカー/椋田直子訳・心の仕組み-上(ちくま学芸文庫、2013)の「2009年版への序」(№2116/2020.01/07)。
 西尾幹二はまだ17世紀の<デカルト・心身二元論>の段階にいるのではないか旨、すでに記したことはある。

2114/L・コワコフスキ著第三巻第13章第3節-ユーゴ。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.474-8。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第3節・ユーゴスラヴ修正主義(Yugoslav revisionism)。
 (1)マルクス主義の進展でのユーゴスラヴィアの特別の役割は、修正主義思想を表明する個々の哲学者や経済学者についてだけではなく、最初の修正主義政党、あるいは最初の修正主義国家とすら呼ばれたものをここで扱う必要がある、ということにある。//
 (2)スターリンによって破門されたあと、ユーゴスラヴィアは経済的にもイデオロギー的にも困難な状況にあった。
 その公式のイデオロギーは最初は、一つの重要な点を除いて、マルクス=レーニン主義の範型から離反するものではなかった。つまり、ユーゴスラヴィアは、ソヴィエト帝国主義の面前で自分たちの主権を主張することで、ソヴィエトのイデオロギー的最高性を拒絶し、最長兄の大国的民族排外主義を攻撃した。
 しかしながら、のちにはユーゴスラヴ党は社会主義の範型と自分のイデオロギーを形成し始めた。それは内容的にはマルクス主義に忠実だったが、労働者の自己統治と官僚制のない社会主義に集中させるものだった。
 このイデオロギーの形成とそれに対応する経済的政治的変化は、多年にわたって続いた。
 1950年代の初頭、党指導者たちはすでに、官僚制化の危険について語っており、極端な権力の中央集権化が社会主義の理想のうちの最も価値あるものを殺した頽廃的国家だとしてソヴィエト体制を批判していた。最も価値あるものとは、労働大衆の自己決定、国有化とは区別される公的所有の原理だ。
 党指導者と理論家たちは、ソヴィエト方式の国家社会主義と、労働者の自己統治にもとづく経済とを、ますます明確に区別した。後者では、協同団体はたんに国家当局が課した生産ノルマを達成するのではなく、生産と分配に関する全ての問題を自ら決定する。
 継続的な改革の方策を通じて、産業管理は労働者自身を代表する諸団体へとますます委託された。 
 国家の経済的機能は縮小された。そして、党の基本教理からすると、これはマルクス主義理論と合致する国家の消滅の予兆となるべきものだった。
 同時に、文化生活に対する国家統制も緩和され、「社会主義リアリズム」は芸術的価値のある聖典ではなくなった。//
 (3)1958年4月の第6回党大会で党が採択した綱領は、自己統治にもとづく社会主義を公式の見解として設定した。
 これはその当時では、党の文書としては異様なものだった。プロパガンダであるとともに、理論に関係していたのだから。
 この綱領は、生産手段の国有化をその社会化とは明確に区別した。また、経済管理を官僚機構の手に委ねるのは社会的退廃をもたらし、社会主義の発展を停める、と強調した。
 さらに、それは国家と党装置との融合をもたらし、国家は消滅するのではなくいっそう権力を増大させて官僚制化する、とも。
 社会主義を建設し、社会的疎外を終わらせるためには、生産を生産者に、換言すると労働者の協同体へと、移譲することが必要だ。//
 (4)労働者会議に個別の各生産単位に関する無制限の権威が与えられれば、その結果は、特定の関係者だけに所有権を帰属させるだけの19世紀モデルとは異なる、自由競争のシステムになるだろう。このことは、最初から明確だった。
 いかなる経済計画も、可能ではなくなるのだ。
 その結果として、国家は投資率や蓄積した基金の配分に関する多様な基本的機能を果たすだけに変質した。
 1964-65年の改革はさらに、計画化の観念を放棄することなく、国家の権力を削減した。
 国家は、主として国有化した銀行制度を通じて、経済を規整するものとされた。//
 (5)ユーゴスラヴ型の労働者自己統治がもつ経済的社会的効果は、いまだに多くの議論と生々しい不同意の対象だ。ユーゴスラヴィアと世界じゅうの経済学者や社会学者のいずれでも。
 そのシステムが官僚制的虚構になってしまわないためには、市場関係の相当の拡張と市場の生産に対する影響の増大が必要だ。そして、それはすみやかに、蓄積という正常な法則が再び力をもつにつれて、一定の望ましくない結果をもたらした、と断定的に言える。
 国家の経済的な発展部分にある大きさの溝は、狭くなるのではなく、拡大していく趨勢にあった。
 賃金に対する圧力は、投資率を社会的に望ましい水準以下に落としかけた。
 競争的条件は、その特権が民衆的不満を掻き立てるほどの、豊かな産業管理者の階層を出現させた。
 市場と競争は、インフレと失業の増大を引き起こした。
 ユーゴスラヴィアの指導者と経済学者たちは、自己統治と計画化は相互に制限し合いがちで、妥協によってのみ調整することができるが、妥協の条件は恒常的な紛議を発生させる問題だ、ということに気づいていた。//
 (6)他方で本当なのは、ユーゴの経済改革は文化的自由および政治的自由ですらの拡大を随伴していた、ということだ。それは、ソヴィエト連邦以外の東ヨーロッパのその他の国で起きたことに十分に優っていた。
 しかしながら、これを「国家の消滅」と称するのは、全くのイデオロギー的虚構に他ならなかった。
 国家は自発的にその経済的権力を制限した-これは異様なことだった。しかし、政治的な主導性や反対派に対処するための警察制度の利用を独占することまでは、放棄しなかった。
 状況は奇妙(curious)なものだ。
 ユーゴスラヴィアは、他の社会主義諸国よりも大きな表現の自由をいまだに享有している。しかし、厳格な警察的抑圧に服してもいる。
 公式のイデオロギーを攻撃する文章を公刊するのは他のどこよりも容易だが、そのことを理由として収監されるのも簡単だ。
 ユーゴスラヴィアには、ポーランドやハンガリー以上に多数の政治犯がいる。だが、それらの国々では文化問題についての警察による統制がもっと厳格だ。
 単一政党支配は些かなりとも侵犯されておらず、それを疑問視することは制裁可能な犯罪となる。
 要するに、社会生活上の多元主義の要素は、支配党が適切だと考える範囲内でのみ広がっている。
 ユーゴスラヴィアは、改革とソヴィエト陣営からの排除によって多くのことを得てきた。しかし、民主主義国になったわけではない。
 労働者の自己統治に関する賛否は、なおも論争の対象のままだ。
 いずれにせよ、共産主義の歴史における新しい現象ではある。//
 (7)自己統治と脱官僚制化の問題には、哲学的側面もある。
 1950年代の初めからユーゴスラヴィアには、大きくて活動的なマルクス主義理論家たちのグループがあった。そして、認識論、倫理学および美学を論じてきており、政治的諸問題もまたユーゴスラヴ社会主義の変化と連結していた。
 1964年以降、このグループは哲学の雑誌<実践(Praxis)>を刊行した(1975年に当局により廃刊させられた)。そして、Korčula 〔コルチュラ〕島で定期的な哲学的議論の場を組織し、それには外国からも含めて多数の学者たちが出席した。
 このグループは、疎外、物象化(reification)および官僚制のような典型的に修正主義的な主題に集中した。
 その哲学的な志向は、反レーニン主義的だ。
 文章上の発表がきわめて多かった哲学者たちのほとんどは、第二次大戦でのパルチザン兵士たちだった。
 主な名を挙げておくと、つぎのとおり。G. Petrović、M. Marković、R. Supek、L. Tadić、P. Vanicki、D. Grlić、M. Kangra、V. Kolać およびZ. Pesić-Golubović。//
 (8)今日の世界でおそらく最も活動的なマルクス主義哲学者たちの集団であるこのグループの主要な目的は、レーニン=マルクス主義的 “弁証法的唯物論” に急進的に対抗するマルクスの人間主義的人類学(humanistic anthropology)を再建することだった。
 彼らの全てまたはほとんどは、“反射の理論” を拒絶し、ルカチとグラムシにある程度は従って、他の人類学的諸観念のみならず存在論的(ontological)諸問題も二次的にすぎない、そのような基礎的な範疇としての「実践」を確立しようとした。
 彼らの出発点は、かくして、人間の自然との実践的接触が形而上学的意味を決定する、認識は主体と客体の間の永続的相互作用の効果だ、という初期のマルクス思想だ。
 この観点からして、意味のない「歴史の法則」なるものが究極的には全ての人間の行動を決定するということを想定しているとすれば、歴史的決定論はそれがよって立つ根拠を維持することができない。
 我々は、人間は自分たちの歴史を創るのだ、というマルクスの言葉を真摯に受け止めなければならない。これを、歴史が人間を創るという言明へと進化論的に転換させてはならない。
 <実践>の哲学者たちは、積極的で自発的な人間主体の余地を残さないと強く指摘して、自由(freedom)とは「理解された必然性」〔=必然性を理解すること〕だとするエンゲルスの定義を批判した。
 彼らはこうして、<主体性の擁護>という修正主義の考えを採用した。それは、ソヴィエトの国家社会主義への批判やマルクスの教理と合致する社会主義の発展の正しい(true)経路としての労働者の自己統治への支持を、彼らの分析に連結させるものだった。
 しかしながら、同時に、社会主義は「労働者階級の先進部隊」だと自称する党官僚によるのではない生産者による能動的な経済管理を必要とする、と強調しながらも、彼らは、経済の自己統治は、行きすぎるならば、社会主義の理想に反する不平等を生む、ということを知っていた。
 ユーゴスラヴィアの正統派共産主義者たちは、<実践>グループを、完全な自己統治を制度化するのと不平等を回避すべく市場を廃棄するのと、両方を欲している、と非難した。
 ユーゴスラヴ修正主義者たちは、この点で分かれるように思える。しかし、彼らが書いていることには、しばしばユートピア的調子がある。「疎外」を克服すること、活動の成果を全面的に制御するのを全員に保障すること、計画化の必要と小集団の自治との対立、個人の利益と長期的な社会的責務の間の矛盾、安全確保と技術の進歩の対立、をそれぞれ除去すること、これらは可能だ、とするのだ。//
 (9)<実践>グループは、ユーゴスラヴィアのみならず国際的な哲学の世界で、マルクス主義の人間主義的範型を広めるという重要な役割を果たした。
 彼らはまた、ユーゴスラヴィアでの哲学的思考の再生に貢献した。そして、その国での専制的で官僚的な統治形態に対して知的に抵抗する、重要な中心だった。
 時代が経つにつれて、彼らは、ますます国家当局と対立するようになった。
 ほとんど全ての積極的なメンバーは最終的には追放されるか、または共産党の職から離任させられた。1975年には、彼らのうち8人が、ベオグラード(Belgrade)大学での職位を剥奪された。
 彼らの著作は、マルクス主義的ユートピアに関する懐疑をますます示しているように見える。//
(10)1940年代、1950年代のユーゴスラヴ共産主義者の一人だったMilovan Djilas は、修正主義者だとは見做すことができない。
 社会主義の民主主義化に関する彼の考えは、1954年に遡って党から非難された。そののちの彼の著作は、最も緩やかな意味においてすら、マルクス主義だと考えることはできない(すでに論及した有名な<新しい階級>を含む)。
 Djilas は、ユートピア的な思考方法を完全に放棄し、マルクス主義の本来的教理と官僚制的専制体制の形態でのその政治的現実化の間の連環(links)を、何度も指摘した。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<フランスにおける修正主義と正統派>。

2112/J・グレイ・わらの犬(2002)⑥-第2章03。

 ジョン・グレイ(1948-)の別の著書、John Gray, Gray's Anatomy: Selected Writings (2009,2013、レシェク・コワコフスキに関する一文がある)の謝辞(Ackowleagement)の文章の最後に、「Mieko」(みえこ・ミエコ)に感謝する旨の一文がある。この人は著者の配偶者で、日本人か、日本生まれの女性ではないだろうか。
 J・グレイは以下の著で西欧哲学・思想を大胆に?相対化して中国の仏教や道教への関心を示しているが(余計ながら、「隣の芝生は美しい」の類かもしれないとも感じるが)、このことと上記のこととの関係は、むろんよく分からない。
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 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。ごく一部を原文により変更している。邦訳書p.72~p.88。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞。
 第12節・仮想の自己〔Our Virtual Selves〕。
 「意志決定の表現」が「行動」だというが、「意志が決断する」ことはほとんどない。就寝・覚醒、夢の記憶・忘却、思考の喚起・忌避、これらの選択に「意志は関与しない」。
 「人間の行動は一続きに長く繋がった無意識な反応の末端であり、習慣と技巧(skills)の複雑極まりない組み合わせから起こる」。「自己認識」をいかに追求しても人間は自明のもの(self-transparent)にはならない。
 フロイトは人間の精神が大部分は「無意識に作動」すると理解した。「抑圧した記憶」の浮揚が適切な対処を可能にするという意味では正しいが、「記憶の検索」では「知覚の裏にある前意識の精神活動(preconcious mental activities)」を再現できない。「無意識」ではなく「前意識」が「意識の自覚」を生む。
 「意識」の「自己認識」に対する作用の限定性は人間の「主体性」(control of our lives)を否定しがちだ。とかく「行動」=「思考の帰結」と理解したい。しかし、誰もが大部分は「ものを考えずに」生活しているのであり、「意識の働きという概念」(sense of concious agency)は「矛盾する衝動のせめぎ合いから生まれる人為的構造(artefact)」だろう。
 人間は本能と習慣の生物だと言いたいのではなく、要するに「そのときどきの情況に対処しながら生きている」。
 人は概して自分=「統一された意識の主体」、人生=「行動の総和」と理解するが、「最新の認知(cognitive)科学と仏教古来の教義」は一致して、これを「錯誤」(illusive)と見なす。認知科学者のF・バレラ〔Francisco Varela〕はこう言う。-「人間という極致世界と微細存在の本質は、稠密に凝集した不分離の個体」ではなく、浮かびまた消失する変転する現象体だ。「仏教」はこのことを「凝視」(direct observation)で立証でき、「自己はいっさい空であり(the self is empty of self-nature)、そこには把握できる実体はない(void of any graspable substantiality)」と教える。
 自己をキメラ(chimera)と捉える点でも認知科学は仏教に倣う。-認知・認識はある「状態」から次へと切れ目なく移行するのではなく、「断続する行動パターン」だ。この有意義な理解によって、「認知の主体」としてホムンクルス(homuncular)を措定する愚を避けることができる。
  外から見る人間の特性として、「一貫した行動」を信じたいために、「体内にいて行動を指示する一寸法師」=ホムンクルスを想定するのは、間違いだ。ロボット工学者のブルックス〔R. A. Brooks〕は言う。-ロボットには「中央制御機構」はなくその動作は「競合する行動の集積」だが、観察者には「一貫した定形と映る行動」が浮かび上がる。
 これは人間にも当てはまる。人間の姿はじつは「知覚と行動の千変万化する情景」だ。「人間の自我は、…存在の根底をなす統一性の表現ではない。人間個人は昆虫の集団に構造のよく似た有機的組織体である。」
 「不変の自己」という考えは捨て難いが、そうではないことは「誰しもどこかで知っていよう」。
  第13節・無名氏〔Mr. Nobody〕。
 作家のG・リース〔Goronwy Rees〕は振り返って「人間個々の人格」(personal identity)という考えを疑問視し、こう書いた。-私は「客観的に記述できる歴史を負った個々人の持続的な特性」を自己のうちについぞ発見しなかった。「永遠不滅にして独立独歩の、思考する存在」を名乗ったことなどない。
 スコットランドの哲人、D・ヒューム〔David Hume〕も、「不変の自己」を発見しなかった。-大方の人間は「相互に関係を維持しつつ、目にも止まらぬ速さで絶えず波動しながら継続する知覚作用の集積」だ。「精神」(the mind)という舞台には「幾多の知覚が相次いで登場し、限りなく変化する情況で入り乱れ、多様な姿で通り過ぎ、引き返し、いつの間にか退場する」。単一性も時間を隔てた同一性もない。「精神を形成するのは、継起する知覚だけだ」。舞台の場所、筋立ての素材について何も把握できない。
 G・リースは、娘によると「無名氏」を自認していた。これは何ら異常でない。人間は全て「情動の塊」(all bondles of sensations)であり、「統一のとれた不変の自己」は<マヤ(maya)>=ベーダーンタ哲学での「幻影」でしかない。「一貫した自己」を知覚するようプログラムされているが、じつは「変化」があるだけで、そういう「自己認識の幻想」もまたプログラムに組み込まれている。
 我々自身に生じている変化は「見る側の自己が瞬息の間に去来するから確かには観察できない」。「自我(Selfhood)とは、意識の粗放がもたらす副作用である。内部活動はきわめて微妙かつ繊細なので、意識では捉えきれない」。
 「言葉の原点が鳥獣の遊びに遡る」のと同様に、「自我の幻想」・「不変の自己の幻想」も「言葉から生まれる」。幼少時に両親が話しかける言葉で「自己を認識」する。「記憶」を貫くのはその名だ。長じて「独白」し「自分史」を作り、「言葉」で「将来の可能性」を想定する。こうして「言葉で造り上げた仮想の自己」を過去・現在・未来に、さらには「死後の世界」にまで投影する。「死後」の「仮想の自己」は「生きているうちから既に亡霊」だ。
 「自我(the I)とは、たまゆらの事象である。にもかかわらず、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない」。正常な意識で現在に向かい合う限り「自我」(sensation of selfhood)に揺るぎはない。「これが、人間の根本的な誤り(premordial human error)だ。そのおかげで、我々の人生は夢の中ですぎてゆく」。
 第14節・究極の夢〔The Ultimate Dream〕。
 仏教では、「直観の修行」(practice of bare attention)でもって「知覚」を鈍磨させている「習慣」という紗幕を引き剥がす。「凝視」(refinement of attention)でもって「現実」を深く洞察する。その「現実」とは、凡庸な注意力でもって単純化され判りやすくされた、「たまゆらの儚い(momentary, vanishing)世界」だ。
 「過去との繋がり」を絶つという意味を含む「悟りの境地」(ideal of awakening)は、「幻想」が雲散霧消して「もはや煩悩に惑わされる憂いがない」(suffer no longer)ということだが、これはキリスト教の「救済」(salvation)の教義と変わらない。しかし、「幻想」からの解放という考え自体が、「幻想」だ。「瞑想」(meditation)は真実を露わにし得ない。
 「進化心理学(evolutionary psychology)や認知科学(cognitive science)」が教えるのは、人間は「悠久の血脈に連なる末裔、尾部の一端」だということだ。先人をはるかに超えてはいるが、「脳と脊髄は遠い過去の記憶を暗号に変えて保存している」。 
 道教(Taoism)は「人間は夢から覚醒できない」と認める。<荘子>は<老子>よりも神秘主義的だが、西欧やインドのそれとはなお異なる。荘子は懐疑論的(sceptic)でもあり、「仏教の中心にある現象と現実の確然たる二元論」も、「幻想を超越する企て」も、ない。「人生を夢と捉え、かつ夢から醒めようとはしなかった」。
 グレアム〔A.C.Graham〕の言うように、「仏教徒は夢から覚め、荘周は覚めて夢に入る」。「夢だという真実」に目覚めることは「真実」に対する反目を意味しない。
 荘周は「救済」の理念を受容しない。「もともと自己のない人間が自己の幻想から覚醒するはずがない」。
 「人間は、幻想を捨てきれない。幻想は、所与の自然条件だ。そうだとしたら、それに従うしかないではないか(Why not accept it ?)。」
 第15節・実験〔The Experiment〕。
 「現代の哲学者」は哲学は人に「生き方」を教えると高言するほど「思い上がって」いないが、「何を教えるか」の返答を迫られている。「明晰な思考を定着させる」と立派に言うかもしれない。
 しかし、「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 哲学は「中世には、教会に知的な足場を提供」し、19-20世紀には「進歩神話を後押し」した。「信仰」や「政治」から外れた「現代の哲学」は、「主題のない学問領域、教理の求心力を失った因習の牙城」だ。
 古代ギリシア哲学は「知識の探求」にすぎないのではなく「生き方」、「弁証法的議論の基礎」、「精神鍛錬の武具」であって、目的は「真実」ではなく「精神の平穏」・「静謐」だった。老荘思想においても同じ。
 「幸福」は「静安」のうちにしか見出し得ないのか。スピノザは、ストア学派の哲人たちと同じく「精神の平穏」=「精神の不安から救われること」を願い、パスカルは「救済」を求めて苦闘した。しかし、「真理」ではなく「幸福と自由」が問題であるならば、哲学に最終判断を求める必要はない。「信仰や神話」にも、見るべきものがあってよい。
 「かつて哲学者は真理の探究を装って精神の平穏を目指した。現代人はこのあたりで方向変換を図った方がよくはないか。
 「棄却できる幻想」と「捨てたくとも捨てられない幻想」をまず見分ける必要がある。その先は、「克服できない幻想」を見極めるよう努めればよい。
 「数ある虚偽の何を排除するか、なしでは済まされない虚偽とは何か。それが疑問だ。それこそが、実験である。」
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 第2章終わり。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2094/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、p.466-9。゜
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義④。
 (27)1968年はチェコスロヴァキアへのソヴィエトの侵攻の年だったが、ポーランドの分離した知的動向としての修正主義の終焉を事実上は告げた年でもあった。
 多様な形態に分化した反対派は現在では、マルクス主義または共産主義の語句用法をほとんど用いていない。そして、民族的(national)保守主義、宗教や伝統的な民主主義ないし社会民主主義の用語法で、十分に適切に表現することができる。
 共産主義は一般に、知的な問題であることを終えて、たんに統治権力と抑圧の一問題になって残っている。
 状況は、逆説的だ。
 支配党は依然として、マルクス主義と「プロレタリア国際主義」の共産主義教理を公式には宣明している。
 マルクス主義は高等教育のどの場所でも義務的履修の科目であり、その手引書が出版され、その諸問題に関する書物が執筆されている。
 しかし、国家イデオロギーが今ほどに生気のない(lifeless)状態になったことはかつてなかった。
 誰も実際には、マルクス主義を信じていない。支配者と被支配者のいずれも、その事実を知っている。
 だが、マルクス主義はなくてはならない(indispensable)。それは、体制の正統性を基礎づける主要なものだからだ。党は労働者階級と人民の歴史的利益を「明確に表現」する、という主張が党の独裁の根拠であるのと同様に。
 誰もが、知っている。「プロレタリア国際主義」は、東ヨーロッパ諸国は自分たちの事柄を決定する主人ではないという事実、かつ「労働者階級を指導する役割」はたんに党官僚機構の独裁を意味するにすぎないという事実、を覆い隠す語句だ、と。
 その結果として、支配者たち自身が、少なくともある程度の反応を一般民衆から得ようと望むときには、紙の上だけに存在するイデオロギーに訴えることがますますなくなり、その代わりに、<国家の存在理由>(raison d'état)や民族利益(natinal interest)の用語を使っている。
 国家イデオロギーが生気のないものであるのみならず、それはスターリン時代のようには明確には定式化されていない。定式化することのできる権威が、もはや存在しないからだ。
 検閲や多様な警察的制限で苦しめられているが、知的生活は継続している。その際に、国家による支援が人為的に存在させつづけ、批判から免れてさせていたけれども、マルクス主義はほとんど役割を果たしていない。
 イデオロギーと人文科学の分野では、党は、抑圧とあらゆる種類の禁止でもって消極的にのみ活動することができる。
 その場合ですら、公式イデオロギーは、かつての普遍主義的な要求資格を失なければならなかった。
 もちろんマルクス主義は直接的には批判されないかもしれないが、哲学の分野ですら、マルクス主義を完全に無視し、まるでそれは存在してこなかったのごとく執筆されている著作が現れている。
 社会学の分野では、一定の正統派論考が定期的に刊行されている。それは主として、その著者たちの政治的信頼性の証明を確保するだめにだ。一方で同時に、多数の別の諸著作が、西側と同じ方法を用いる、通常の経験的社会学の範疇に入ってきている。
 そのような著作に許容される射程範囲は、むろん限定されている。家族生活の変化や産業での労働条件を扱うことはできるが、権力や党生活の社会学を論じることはできない。
 厳しい制限が課されているのは、とくに近年の歴史に関係する歴史科学についてのマルクス主義的な理由というよりもむしろ、純粋に政治的な理由だ。
 ソヴィエトの支配者は、自分たちは帝制主義(Tsarist)的政策の継続性を代表していると、固く信じているように見える。そしてそのゆえに、ロシアとの諸関係、分割、民族的抑圧に支配された2世紀にわたるポーランド史の学術研究は、多数の禁忌のもとに置かれている。
 (28)ポーランドの経済学研究について、一定程度は、修正主義をなおも語ることができるかもしれない。効率性の増大を推奨する、実践的なかたちをとっているからだ。
 この分野で最も著名なのは、W. Brus とE. Lipinski だ。この人物たちはともにマルクス主義の伝統に頼っているが、その形態は社会民主主義に接近している。
 彼らが論じているのは、抑圧的な政治システムと結びいているために、社会主義経済の欠陥と非効率性は純然たる経済的手法で治癒することはできない、ということだ。
 ゆえに、経済の合理化は、政治的多元化なくしては、つまり実際には共産主義特有の体制の廃絶なくしては、達成することができない。
 Brus は強く主張する。生産手段の国有化は公的所有制と同義ではない、政治的官僚機構が経済的決定権を独占しているのだから、と。
真に社会主義化した経済は、政治的独裁制とは両立し得ない。
 (29)いくぶんか少ない程度にだが、Władysław Bienkowski は、修正主義者と分類することができるかもしれない。
 ポーランドの外で出版された著作で彼は、官僚的諸政府のもとでの社会と経済の悪化を分析する。
 彼は、マルクス主義の伝統に訴えるが、それを超えて、階級(マルクスの意味での「階級」)のシステムから独立した政治権力の自主的メカニズムを検証している。
 (30)類似の動向が共産主義者の忠誠心の衰退、マルクス主義の活力やその政治的儀礼の減少と結びついていることを、観察することができる。共産主義諸国によって、その程度は多様だけれども。
 (31)チェコスロヴァキアの1956年は、ポーランドやハンガリーと比べて重要性ははるかに低かった。修正主義運動が発展するのが遅かった。しかし、一般的な趨勢はどこでも共通していた。
 チェコの経済学者の中で最も知られた修正主義者は、Ota Sic だ。この人物は1960年代初めに、典型的な改革綱領を提出した。すなわち、生産に対する市場の影響力の増大、企業の自主性の拡大、非中央的計画化、社会主義経済の非効率性の原因である政治的官僚制の分析。
 政治的条件はポーランドよりも困難だったが、哲学者たちの修正主義グループも発生していた。
 その最も著名な構成員は、Karel Kosic だった。この人物は<具象性の弁証法(Dialectics of the Concrete)>(1963年)で、多数の典型的に修正主義的な論点を提示した。すなわち、歴史解釈での最も一般的な範疇としての実践(praxis)の観念への回帰、人類学上の問題<に向かい合う>存在論の問題の相対性、唯物論的形而上学の放棄や「上部構造」に対する「土台」の優越性の廃棄、たんなる産物ではなく社会生活の共同決定要素としての哲学や芸術。
 (32)1968年初頭のチェコスロヴァキアでの経済危機は、政治的変化と党の指導性の変更を突如として早めた。この経済危機がただちに、修正主義の考え方にもとづく、政治的、イデオロギー的批判論の進展を解き放った。
 宣告された目標は、ポーランドやハンガリーでかつてそうだったのと同じだった。抑圧的警察制度の廃止、市民的自由の法的保障、文化の自立、民主主義的経済管理。
 複数政党制、または少なくとも異なる社会主義諸政党を形成する権利を求める要求は、党員である修正主義者たちによって直接に提起されたのではなかったが、恒常的に諸議論の中で姿を見せていた。
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 ⑤につづく。

2075/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節③。


 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義③。
 (22)ハンガリーで修正主義の第一の中心になったのは、ブダペストの "Petőfi Circle"で、ルカチ学派の者たちを含んでいた。
 ルカチ自身はこの議論で顕著な役割を果たした。そして、ポーランドの修正主義者たちと比べて、彼もその支持者たちも、マルクス主義への忠誠をはるかに強調した。
 ルカチは「マルクス主義の枠内での」自由を求め、単一党支配の原理に疑問を抱いていなかった。
 あくまで想定にすぎないが、ハンガリーの修正主義者たちのスローガンがはるかに正統派的だったことは、民衆一般の不満の運動から離れるようになって、党に対する攻撃を彼らが適度に維持することができなかった理由だった。
 その結果は、明示的に反共産主義の性格をもつ大衆的抗議だった。そしてこれが、党の崩壊をもたらし、ソヴィエトの侵攻を招いた。
 ソヴィエトによる侵攻は、「民主化された」共産主義体制という考えはお伽噺であることがただちに明白になったポーランドにのみならず、西側の共産主義者たちに対しても、衝撃を引き起こした。
 小規模の共産党のいくつかは分裂し、その他の共産党は多数の知識人たちの支持を失った。
 ハンガリー侵攻は、世界じゅうの共産主義者たちの間に多様な異端的運動や、ソヴィエト路線の運動や教理を再構築しようとする試みが生まれるのを刺激した。
 イギリス、フランスおよびイタリアでは、民主主義的共産主義の可能性如何に関する多数の著作が出版された。
 1960年代の「新左翼」の大多数は、これらから刺激を受けて鼓舞されたものだ。
 (23)ハンガリーの修正主義運動は、ソヴィエトの侵攻によって破壊された。
 ポーランドのそれは、数年間にわたって、多様な、比較的に穏健な形態の抑圧と闘わざるをえなかった。抑圧とは、定期刊行物の閉刊、党方針に屈するのを拒む寄稿者の強制的な不採用、個々の著作者による出版の禁止、文化の全分野に及ぶ検閲の強化、といったものだ。
 しかしながら、ポーランドの修正主義が次第に減退していった主な理由は、そのような抑圧手段ではなく、修正主義者による批判論によって掘り崩されていった、党イデオロギーの解体にあった。
 (24)修正主義は、「根源」-主としては青年マルクスとその人間性の自己創造という観念-に立ち戻ることによってマルクス主義を再生し、その抑圧的で官僚制的な性格を治癒して共産主義を改良しようとする試みとしては、つぎのかぎりで、有効なものであり得ただろう。すなわち、党が伝統的イデオロギーを真摯に受け止め、党装置がイデオロギーの問題にある程度は敏感であるかぎりで。
 しかし、修正主義自体が、公式的教理に対する敬意を党が失ったこと、そしてイデオロギーがますます殺伐としているが不可欠の儀礼になったこと、の大きな原因だった。
 このようにして修正主義者の批判論は、とくにポーランドでは、共産主義の脚下からそれを崩した。
 文筆家や知識人たちは、宣言行動と抗議、当局に政治的圧力を加える試みを継続した。しかし、徐々に、真の修正主義思想、つまりマルクス主義に依拠することが少なくなった。
 党と官僚機構では、共産主義イデオロギーの重要性が明らかに衰退していた。
 かりにスターリニズムの暴虐に関与したのであってもそれぞれに忠実な共産主義者であって共産主義の理想を堅く保持していた者たちに替わって権力を掌握したのは、自分たちが利用してきた共産主義スローガンの空虚さを完全に知った、冷笑的で幻惑から醒めた出世第一主義者たち(careerists)だった。
 こうした種類の者たちで成る官僚制的機構は、イデオロギー上の衝撃にも動じなかった。/
 (25)他方で修正主義自体に、やがてマルクス主義の先端部を超えて進行するという、確かな内在的論理があった。
 合理主義の考え方を真摯に採用した者は誰でも、マルクス主義の伝統に対する自分の「忠誠心」の程度について、もはや関心をもつことができず、別の淵源や理論的刺激を利用することが禁止されているとも感じなかった。
 レーニン=スターリン主義の形態でのマルクス主義は貧困で未熟な構造をもつものだったので、厳密な検証を行うにつれて実際には消滅していった。
 マルクス自身の教理は、確かに知性に対するより多い栄養を供給するものだった。しかし、物事の性質からして、マルクスの時代より後に哲学や社会科学が提起した諸問題に対する回答を与えるものではなかったし、また、20世紀の人間主義的(humanistic)文化が発展させた多様で重要な観念的範疇を消化することができるものでもなかった。
 マルクス主義をどこかで始まっている新しい動向と結びつける試みがなされたが、それはすみやかにその明晰な教理形態をマルクス主義から奪うこととなった。
 マルクス主義は、知的歴史に寄与するいくつかのうちの一つにすぎなくなった。マルクス主義は、たとえ困難に思えても全ての問題に対する回答を見出すことができる、権威ある真理による全包括的な大系ではなくなった。
 マルクス主義は数十年間は、ほとんど全体として、有力だが自己充足的なセクトの政治イデオロギーとして機能した。その結果は、マルクス主義は諸思想がある外部世界からほとんど完全に遮断された、ということだった。
 この孤立状態を解消しようとする試みがなされたときには、すでに遅かった。-教理は解体した。ミイラ化した遺骸が突如として空中に晒されるがごとく。
 こうした観点からすると、正統派党員たちは全く正当に、マルクス主義の中に新しい空気を注入することを怖れた。
 修正主義者たちの訴えはたんに常識的なことと感じられた。-マルクス主義は科学に普遍的に適用される知的な方法にもとづく自由な討議で防衛されなければならない。現代的諸問題を解決するマルクス主義の能力を恐れることなく分析しなければならない。マルクス主義の観念的大系は豊富にされなければならない。歴史文書は捏造されてはならない。等々。
 こうした修正主義者たちの訴えは全て、悲惨な結末となることが判った。マルクス主義を豊かにしたり補完したりすることなく、疎遠だった諸思想の逆巻の中へと消失したのだ。//
 (26)ポーランドの修正主義はしばらくの間は残存したけれども、反対派の他形態の思想に比べて次第に重要ではなくなっていった。
 ポーランド修正主義の1960年代初期を代表したのは、KurońとModzelewski だった。彼らは、マルクス主義的かつ共産主義的な綱領を提案した。
 彼らによるポーランドの社会と政府に関する分析の結論は、共産主義諸国には新しい搾取階級が存在するに至っており、それはプロレタリア革命によってのみ克服される、というものだった。そしてこれは、伝統的なマルクス主義の基本的考えに沿っていた。
 彼らはこれにより、数年間の投獄を被った。しかし、彼らの抵抗が助けたのは、1968年の3月に相当に広がった暴動を指導することとなる、学生たちの反対運動の形成だった。
 しかしながら、このことは、共産主義イデオロギーとはほとんど関係がなかった。
 学生たちのほとんどは、市民的自由と学問の自由の名のもとで抗議運動を行った。そして、これらを特別に共産主義の意味で、また社会主義の意味ですら、解釈しはしなかった。
 政府は、暴乱を鎮圧した後、文化の分野での攻撃を開始した(これは当時の党内批判者たちとの闘いと関連していた)。そして、そうすることで、政府の主要なイデオロギー上の原理が反ユダヤ主義であることを露呈した。 
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 ④へとつづく。

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2061/司馬遼太郎「華厳をめぐる話」(1993)。

 司馬遼太郎「華厳をめぐる話」同・十六の話(中央公論社、1993/中公文庫1997、初出1989)、司馬遼太郎全集第54巻(文藝春秋、1999)収載。
 司馬遼太郎のこの随筆または紀行文の冒頭に、興味深い文章がある。全集、p.351。
 ・「この地でさまざまな"因縁"(関係性)が構成され、それが"縁起"となって、…という"因果"をうんでいる」。
 ・「孤立せる現象など、この宇宙に存在しない」。「一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にある」。
 ・「たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を…"世界"という」。
 きわめて<哲学>的にも見える文章だが、「華厳経」(盧舎那仏・釈迦如来=東大寺大仏)に関する「話」だ。
 特段に難解な日本語が用いられているわけではない。しかし、このように叙述することのできる司馬の筆力も相当のものだろう。筆力のみならず、一個の人間としての感受性も優れていたに違いない。
 上の文章から想起するのは、私は正確な意味を知らないが、<弁証法>というものだ。
 「大は宇宙から小は細胞の内部まで」何かと何かが「交錯しあい」「相対的に依存しあ」いながら「あらたな関係」を生み出す、というのは単純化すれば<正-反-合>ということにもなる。むろん、対立し矛盾し合うのは二つの「階級」でも「生産力と生産関係」でもない。革命が「あらたな関係」を生み出して「社会主義・共産主義」社会になるのでも全くないけれども。
 また、関連して想起するのは、人間社会の現在または過去・「歴史」に関して、司馬の上の文章を借りると、「因縁」・「縁起」・「因果」を、「相互に相対的に依存しあう」「一切の現象」を、あるいは「かかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあ」う「無限の微小・巨大といった運動」の「総和」を、正確にまたは厳格に叙述する、ということの、苛酷なほどの困難さだ。
 人間とその社会の「歴史」を、過不足なく可能なかぎり正確にまたは厳密に叙述してきた者が、はたしているだろうか。
 ここでさらに思い浮かべるのは、レシェク・コワコフスキの大著・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978)の「はしがき(Preface)」の中の言葉だ。この欄の№1839/2018年09月01日に掲載。
 L・コワコフスキはそこで、つまり大著の冒頭で、くどいほどに叙述対象に限定を加え、くどいほどに叙述の困難さを述べている。
 最も一般的で、注目されてよい叙述は、つぎの文章だろう。
 「いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を『生きている全体』から切り出すことを余儀なくされる。/これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになる。」
 つまり、マルクス主義の歴史の叙述についても、「全てのものが何らかの態様で結びついている」ので、厳密には、あるいは正確には、「世界史」全体の叙述が必要になる、と言うのだ。
 したがって例えば、第一に、もちろん強い関係はあるけれども、対象は「マルクス主義」の歴史であって「社会主義思想の歴史ではなく、…政治的党派や運動の歴史でもない」。
 また第二に、「政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ」、著者の主観的な「歴史的評価」のみがあって「歴史的説明」は存在しない、と最初から言ってしまえば、どんな「歴史的手引書」を執筆することもできなくなるのだから、「素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性」について、「著者の見解や志向が反映される」のは不可避だ。
 なお、<〜の歴史>ではなく<〜の主要潮流>というタイトルにしているのも、重要な意味があるのだと思われる。歴史全体を描くなどという大それたことをするつもりはない、という釈明?を、あらかじめ行っていることにもなる。
 ひるがえって考えて、複雑・多様な「全体」から一部を「切り出す」ことを余儀なくされるのは、小説(・フィクション)でないかぎり、歴史叙述・歴史学の宿命だろう。
 また、もともと、「言語」による抽象化、<立体的・総合的な>描写様式が開発されていない、ということによる平板化・単純化もまた、人間の知的営為としての歴史叙述の限界であり宿命なのだろう。
 しかし、困ってしまうのは、このような意識または自覚なく、歴史叙述の「訓練」を受けていないシロウトが「歴史」に関する書物や小論を平気で執筆して、公刊していることだ。櫻井よしこや江崎道朗のごとし。その他、小説と明記しないままの、<思い込み>による<歴史物語>の作成者たち。
 アカデミズム内にある者ならば、対象(・時代)の限定のほかに、叙述・検討する「視座・観点」の特定の必要、基礎とする史資料の適切な提示の必要といった「訓練」をいちおうは受けているに違いない。
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 詳しい説明・コメントは省略するが、司馬遼太郎が「大は宇宙から小は細胞の内部まで」というからには、人間の「脳内」も(身体全体も)、無数の要素の相互依存とその統合によって成っている、と言えそうだ。すでにこの欄で触れている二著から、一部を引用的に紹介しておく。
 アントニオ・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・感情・人間の脳(ちくま学芸文庫、2010)、p.198-9。
 ・この「反復的な回路で活動しているのは一連のfeedforward とfeedback のループ」だが、この「仕組みでもっとも重要なことは、基本的な生体調節と関わっている脳構造がじつは行動調節にも関わっていて、認知プロセスの獲得と正常な機能に不可欠であるという事実だろう」。「視床下部、脳幹、辺縁系は身体の調節だけでなく、たとえば知覚、学習、想起、情動と感情、そして推論と創造性といった、心的現象のよりどころであるすべての神経的プロセスにも介入している。身体調節、生存、そして心は、密接に絡み合っている。」
 ジュリオ・トノーニほか/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)、p.126。
 ・「理論のかなめとなる命題」は、「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である」ということだ。「差違と統合が同時に存在する」というのは、「脳という物質のなかには、本当に何か特別なものがある」ということだ。〔情報統合理論〕
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 司馬遼太郎・空海の風景(1975)は、ずっと昔に概読したような気がする(1975年芸術院恩賜賞受賞作)。
 あらためて読み直したいものだ。たんなる「宗教」話ではなくて、当時の日本人が構築した学問大系(大乗仏教・顕密)らしきものの「雰囲気」を知るためにも。司馬の人間というものに対する好奇心は相当なものだと思われる。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

2055/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)② 。
 (5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
 もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
 このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
 むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
 彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
 しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
 さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
 そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
 言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
 このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
 エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
 彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
 かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
 このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
 (6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
 スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
 マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
 これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
 (7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
 魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
 マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
 (8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
 手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
 科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
 ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
 (9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
 マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
 このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
 快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
 技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
 骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
 (10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
 これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
 しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
 人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
 この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
 マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
 (11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
 そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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 第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。

2053/G・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(2015)②。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 p.76~p.91には、「意識の事件ファイル」の「第一」から「第三レベル」の記述がある。ただちには理解不可能だが、「意識」の有無の判別について、三つの段階の問題がある、といった趣旨だろう。
 (1)第一。自発的とみられる「身動き」のあること。但し、「身動き」がなくとも、「意識」があることがある。
 ①脳「梗塞や出血」で「大脳皮質から脊髄へと伸びる、密集した線維が完全に切れて」いるのが、<ロックトイン症候群>の典型例。
 ②「脊髄から筋肉」への全ての「ニューロンと神経において、電気信号の発生がブロックされる」場合が、<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>や<ギラン・バレー症候群>。
 ③「大脳皮質」中の運動関係部位の広い範囲が「外傷または血液循環の不全」で破壊されると、同様のことになる。
 これらの場合、「意識がある可能性がある」。
 (2)第二。外部からの指示に<正しく>反応すること。
 脳出血により前頭大脳皮質に広い損傷をした23歳女性はいったん「植物状態」と診断され、身動きは全くなかったが、「テニスをする」、「自宅内を歩く」を想像してとマイクで指令すると、「前運動野」のニューロンの動きが活発になった=「酸素消費量」が明確に増えた。2006年に公表。
 但し、このような変化がなくとも、「意識」があることがある。
 ①指令で使う「言語」が理解できない場合。失語症のこともある。
 ②「大変な心理的・身体的状態」のため、<実験>に参加する気になれない場合。
 ③ そもそも対応する「気力」が残っていない。
 「意識がある証拠があがらないからといって、意識がない証拠とすることはできない」。
 (3)第三。直接に脳内に入り込んで、信号・波動・微粒子の動きを調べて分析する。
 基本的な技術は、つぎの二つ。
 ①機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)・ポジトロン断想法(PET)-脳の代謝活動を測定する。
 ②脳波図(EEG)・脳磁図(MEG)-ニューロンの電気活動を記録する。
 いずれも、「意識の発生と完全に相関関係にあるニューロンの動き」の有無を特定する。
 しかし、ア/ニューロンの活動量・代謝レベルによっては結論が出ない。
 イ/「ニューロンのインパルスの同期」も、完全な指標を示さない。
 ・「人に意識がある証拠をとらえるのは、いうは易しで、実際はずっと難しい」。
 ・「他人の脳のなかに意識の光が灯っているか、消えているかは知りえない。そんなはずはないと思われるかもしれないが、本当にそうなのである」。-p.91の最後の一文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt)-1948年1月~2010年8月/満62歳で死去。
 この欄でかなり多く言及したこの人物は、上に出てくる<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>(ゲーリック症)だったとされる。
 L・コワコフスキが2009年7月に逝去した直後の哀惜感溢れる追悼・回顧の文章(この欄で言及)は、その時点ではいっさい明かされていないが、この病状のもとで「意思表示」され、配偶者や同僚たちの助けで公にされたと見られる。

2052/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.415-。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)① 。
 (1)マルクーゼの初期の著作は、一種のマルクス主義を表明するものと見なし得るかもしれない(ヘーゲルに関する青年ヘーゲル派的な誤った解釈にもとづく、というのは本当のことだ)。一方で後期の著作は、マルクス主義の伝統を頻繁に呼び起こしてはいるが、ほとんどマルクス主義と関係がない。
 彼が提示するのは、(福祉社会によって回復不能なほどに腐敗した)プロレタリアートなきマルクス主義だ。また、(歴史変化の研究にではなく真の人間の本性に関する直観に由来する未来の見方としての)歴史なきマルクス主義だ。さらに、科学崇拝のないマルクス主義だ。
 解放された社会の価値が創造的活動にではなく愉楽のうちにある、そのような一つのマルクス主義だ。
 これらは全て、本来のマルクスのメッセージに関する、曲解し、歪曲した影像だ。
 マルクーゼは実際に、最も非理性的な形態での、半ロマン派的アナキズムの予言者だ。 確かに、マルクス主義はロマン派的特質を含んではいる。-前産業社会の失われた価値への、人間と自然との間の統合への、そして人間相互間の直接的意思疎通への思慕や憧憬。また、人間の経験上の生活はそれの真の本質と合致することができるし、合致すべきだ、という信念。
 しかし、マルクス主義はこうした要素以外のもの、つまり階級闘争の理論やそれがもつ科学的かつ科学主義的側面、を剥ぎ取られてしまえば、マルクス主義ではない。//
 (2)しかしながら、マルクーゼの著作の主要点は、逆のことを示す明白な証拠があるにもかかわらずマルクス主義者だと自称することにあるのではなく、我々の文明に現在すでにある趨勢のための哲学上の根拠を与えようとすることにある。その目標は、事物の本性によって描写することはできない、そのような幸福の新世界(the New World of Happiness)の啓示のために、内部からその文明を破壊することだ。
 さらに悪いことに、マルクーゼの著作から推論することのできる千年王国(millennium)の特徴は、社会は啓蒙された者たちの集団によって僭政的に支配されなければならないということだけだ。その集団の主たる資格は、ロゴスとエロスの統合を自分のうちに実現し、論理、数学および経験科学の忌々しい権威との関係を断っていることだろう。
 こうした叙述はマルクーゼの教理を戯画化したもののように見えるかもしれない。しかし、彼の著作の分析からこれ以外の何かを抽出することができる、というのは困難だ。//  
 (3)マルクーゼの思考は、技術、正確な科学および民主政体に対する封建主義的侮蔑意識に積極的内容のない漠然たる革命主義を加えた、奇妙な混合物だ。
 彼は、つぎのような文明の存在を嘆き悲しむ。
 (1) 倫理から科学を、価値から経験的数学的知識を、規範から事実を、規範的本質の洞察から普遍世界を、切り離す社会。
 (2) 「不毛な」論理と数学を生み出した社会。
 (3) エロスとロゴスの統合を破壊し、現実はそれ自体の感知されない「規準」を有することを理解しないために我々が直観でもって客観的規範それ自体と比較することができない、そのような社会。
 (4) 全てを技術的進歩に賭けてきた社会。
 こうした歪んだ社会は、知識と価値の「統合」を保持し、規範的本質を喚起することで現実を超越する弁証法によって、対抗されなければならない。
 論理や経験主義の困苦に染まっていない、この高次の知見を獲得した者たちは、この理由によって、共同社会の残余を形成する多数派に対して、暴力、非寛容および抑圧的手段を行使する資格がある。
 該当するエリートたちは、革命的学生たち、経済的後進国の識字能力のない農民層、およびアメリカ合衆国のルンペン・プロレタリアートによって構成される。//
 (4)根本的諸問題について、マルクーゼは、自分がいったい何を主張しているのかを示していない。
 例えば、人間性の真の本質は特定の直観によって明らかになる、そうではない直観によってではない、と我々はどのようにして語るのか?
 あるいは、どのモデルや規範的観念が正しい(right)ものだと、我々はどのようにして知るのか?
 これらの疑問については、答えがないし、かつあり得ない。つまりは、我々はマルクーゼとその支持者たちの恣意的な決定に、思うがままにされるのだ。
 同様に、解放された世界はどのようなものになるのか、我々には分からない。そして、マルクーゼは、あらかじめこれを描写することはできない、と明白に語る。
 我々が語られるのはのはただ、現存社会を完全に「超越」しなければならない、「グローバルな革命」を実行しなければならない、「質的に新しい」社会条件を生み出さなければならない、等々だけだ。
 抽出され得る唯一の積極的結論は、現存文明を破壊する傾向があるものは何でも全て、肯定的評価に値する、ということだ。
 例えば、つぎのように考えるべきいかなる根拠もない。アメリカ合衆国の多数の大学の中心で起こっている書籍の焼却は、プラトンやヘーゲルふうの高次の理性の名において腐敗した資本主義世界を「超越」する、そのような革命的過程を開始する良い方法ではない。//
 (5-1)科学と論理に対するマルクーゼの攻撃は、民主主義的諸制度と「抑圧的寛容」(「真の」寛容、すなわち、抑圧的非寛容の反対物)に対する攻撃と相携えて行われている。
 規範的行為や価値判断を論理的思考や経験的方法から明瞭に切り離す現代科学の基本的考え方は、実際には、寛容や自由な言論と密接に結びついたものだ。
 形式的であれ経験的であれ、科学的規準は、知識の領域を明確に画するのであり、その範囲内で、論争者は共有する諸原理を主張し、その自然の結果として、いずれの理論または仮説が受け入れられ得るものであるかの基礎について、同意することができる。
 言い換えれば、科学は思考のコード(code)を進化させ、演繹的および確率論的論理を構成してきた。そうした論理は、人間の精神に強制的に課され、承認し合う心づもりのある全ての者の間に、相互理解の領域を生み出している。
 この領域を超えたところにあるのは、価値の分野だ。そして、科学的思考の法則によっては証明不可能な一定の特有の価値が関与者たちの間で承認されているかぎりで、ここでも議論は可能だ。
 だが、科学的思考を支配する規準によっては、基本的な諸価値を有効なものにすることができない。
 こうした単純な基本的考え方をすることで、我々は、法則の適用が強いられる分野とそのような法則と相互寛容は存在しないために必要な分野を区別することができる。
 しかし、我々の思考が規範的「本質」に関する直観に従うということがかりに要求されるとすれば、そして、この条件のもとでのみ本当の思考だと称することができると宣告され、またそれが高次の理性の要求に適合するとされるだとすれば、非寛容と思考統制を宣言することに等しいことになる。特定の思想の唱道者たちは、論理的および経験的な規準についての共通する蓄積物を呼び起こせば、彼らの見解を防衛する必要がなくなるのだから。
 「不毛な」形式論理を痛罵すること(論理に関してマルクーゼの語るのはただ、不毛だということだけだ)、そして量的志向の自然科学を罵倒することは(科学についてマルクーゼは、経済学や技術について知っている以上には確実に何も知らない)、単直に無知を称揚することを意味する。
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 段落の途中だが、ここで区切る。

2049/L・コワコフスキ著第三巻第11章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.410-p.415。合冊版、p.1115-p.1119。 
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第4節・自由に反抗する革命(The revolution against freedom)。
 (1)インチキの必要を増大させてその必要を充足させる手段を提示する、そして虚偽の意識の呪文で多数の人々を縛る、このようなシステムから逃れる方途はあるのか?
 ある、とマルクーゼは言う。
 我々は、現存する世界を完全に「超越」し、「質的変化」を追求しなければならない。
 我々は、現実の「構造」そのものを破壊し、人々が自由のうちに要求を発展させるようしなければならない。
 我々は、(現在あるものを新しく適用するだけではない)新しい技術を持ち、芸術と科学、科学と倫理の統合を再び獲得しなければならない。
 我々は、自由な想像力を発揮し、科学を人類の解放のために用いなければならない。//
 (2)しかし、人々の多数が、とくに労働者階級が、システムに囚われて既存秩序の「世界的な超越」に関心をもたないとき、これら全てのことをいったい誰がすることができるのか?
 <一次元的人間>によると、答えはこうだ。
 「保守的な民衆的基盤のすぐ下には、浮浪者と外れ者の、異なる人種と異なる肌色の被搾取者と被迫害者の、失業者と雇用不能者の、下層界がある。
 彼らは、民主主義諸過程の外部に存在している。<中略>
 彼らがゲームをするのを拒むことから始めるということは、この時代の終わりの始まりを画しているということだ。」(p.256-p.257.)//
 (3)そして、アメリカ合衆国の人種的少数者のルンペン・プロレタリアートは、エロスとロゴスの統合を回復し、新しい科学技術を生み出し、そして形式論理、実証主義および経験論の僭政体制から人類を自由にするための、中でもとくに選ばれた人間たちの部門だ。
 しかしながら、マルクーゼは別の箇所でこう説明する。我々はまた、他の諸力を頼みにすることができる。すなわち、学生たちと経済的かつ技術的に後れた諸国の人々だ。
 これら三つのグループの同盟は、人間性の解放のための主要な希望だ。
 反乱する学生運動は、「変革のための決定的要素」だ。彼ら自体では完成させることはできないけれども(<五つの講義録>の中の「暴力の問題と急進的反対派」を見よ)。
 革命的勢力は暴力を用いなければならない。彼らは高次の正義を代表しており、現在のシステムはそれ自体が制度化された暴力の一つなのだから。
 合法的な範囲内に抵抗を制限することを語るのは馬鹿げている。いかなるシステムも、最も自由なシステムですら、自分に向かう暴力の行使を是認することができない。
 しかしながら、目的が解放であるならば、暴力は正当化される。
 さらに、学生たちの政治的反抗が性的な解放に向かう運動と結びついているのは、重要でかつ勇気を与える兆候だ。//
 (4)暴力を避けることはできない。現在のシステムは、虚偽の意識でもって多数民衆を苦しめており、僅かな者たちがそれから免れているにすぎないからだ。
 資本主義は、文化と思想の全てを同質化する手段を作り出してきた。その結果として、システムの一部に批判を変質させることで、批判を骨抜きにすることができている。すなわち、そのゆえにこそ、必要なのは暴力による批判なのであって、これはそのようにしては弱体化され得ない。
 言論と集会の自由、寛容および民主主義諸制度は全て、資本主義的価値による精神的支配を永続化する手段だ。
 従って、真の、惑わされていない意識をもつ者はみな、民主主義的自由と寛容からの解放を目指して闘わなければならない、ということになる。//
 (5)マルクーゼは、この結論を導くことを躊躇しない。彼はおそらく最も明確に、「抑圧的寛容」に関する小論でこれを述べている(Robert Paul Wolff 等による<純粋な寛容性への批判>(1964年)で)。
 彼は過去には、寛容は解放のための理想だ、と主張する。しかし今や、それは抑圧のための道具だ。多数派の同意を得て核兵器庫を建設し、帝国主義政策を追求する等々の社会を強化するために役立つとして。
 この種の寛容は、解放主義の理想に対する多数者の僭政だ。
 さらに、間違っていて悪であるがゆえに寛容であるべきではない教理や運動に対して寛容だ。
 全ての個別の事実と制度は、それらが帰属する「全体」の観点から判断されなければならない。そして、この場合の「全体」とは本来的に邪悪である資本主義システムであるので、このシステム内の自由と寛容は、それら自体が同様に悪(evil)だ。
 ゆえに、真の深い寛容は、虚偽の思想と運動に対する不寛容さを伴っていなければならない。
 「自由の範囲と内容を拡大する寛容は、つねに党派性がある(partisan)。-抑圧的な現状の唱道者に対しては不寛容だ」(p.99.)。
 「新しい社会(これは将来の事柄であるために現在とは反対のものとして以外には描写したり定義したりすることのできない)の建設が問題となっているときに、無限定の寛容を許容することはできない。
 真の寛容は、解放の可能性と矛盾したり反対したりする虚偽の言葉や間違った行為を擁護することができない」(p.102.)。
 「生存のための充足、自由と幸福自体が危うくなっている場合には、社会は無差別的であることができない。この場合には、寛容を隷従状態を継続するための道具にしないかぎりは、一定の事物を語ることぱできず、一定の思想を表現することはできず、一定の政策を提案することはできず、一定の行動を許容することができない」(同上)。
 言論の自由は肯定されるが、それは、客観的な真実を含むがゆえにではなく、そのような真実が存在し、かつそれを発見することができるからだ。
 従って、言論の自由は、真実でないものを永続ためのものであるならば、正当化することができない。
 このような自由が想定しているのは、全ての望ましい変化はシステム内部での理性的な議論を通じて達成される、ということだ。
 しかし、実際には、このようにして達成することのできるものは全て、システムを強化することに役立つ。
 「自由な社会はじつに、非現実的で叙述し難いほどに、現にある社会とは異なる。
 このような環境のもとでは、『事態の正常な行路を経て』、破壊されることなく生起するものは全て、全体を支配する特有の利益が支配する方向での改良になりがちだ」(p.107.)。
 多様な意見を表現する自由は、表現される意見は既得権益層(establishment)の利益を反映するということを意味する。既得権益層には意見を形成する力があるために。
 たしかに大衆メディアは現代世界の暴虐ぶりを描写する。しかし、無感動に、偏りを示すことなく、そうする。
 「かりに客観性が真実と何がしかの関係があるとすれば、またかりに真実は論理と科学の問題以上のものだとするならば、この種の客観性は虚偽であり、この種の寛容性は非人間的だ」(p.112.)。
 教理化されるのと闘い、解放の勢力を発展させるには、「表向き明らかに非民主主義的な手段が必要だろう。
 こうした手段は、つぎのような諸グループが行う言論や集会について寛容であることをやめる、ということを中に含んでいる。すなわち、攻撃的政策、武装、狂信的排他主義、人種や宗教を理由とする差別、を推進する者たち、あるいは、公共サービス、社会的安全、医療等々の拡大に反対する者たち。
 さらに、思想の自由の回復は、必ずや学校教育制度での教育や実務に新しく厳格な制限をもたらすかもしれない」(p.114.)。この制度の内部に囲い込まれて者たちは、本当の選択する自由を持っていないのだから。
 どの場合に不寛容と暴力が正当化されるのかを決定する資格をもつ者は誰なのか、と問われるとすれば、それに対する答えは、それをすることでどの根本教条に奉仕するか、にかかっている。
 「解放的寛容<中略>は、右(Right)からの運動に対する不寛容を意味し、左(Left)からの運動についての寛容を意味するだろう」(p.122-p.123.)。
 この単純な定式は、マルクーゼが主張する「寛容」の性格を典型的に示している。
 彼が明瞭に述べるところでは、彼の目的は独裁制を打ち立てることではなく、寛容という観念と闘うことで「真の民主主義」を達成することだ。巨大な多数派は、その心性が情報の民主主義的淵源によって歪められているために、正しい判断をすることができないのだから。//
 (6)マルクーゼは、共産主義者の見地から書いているのではなく、彼の思想が共有する「新左翼」のそれから書いている。
 共産主義の既存の形態に関するマルクーゼの態度は、批判と称賛の混合物の一つであり、きわめて曖昧で両義的な言葉で表現されている。
 彼は、アメリカ合衆国とともにソヴィエト連邦に適用されるように、「全体主義的」や「全体主義」という語を用いる。しかし一般的には、前者と比べると、後者を軽蔑している。
 マルクーゼは、あるシステムは多元主義的で、別のそれはテロルにもとづくことを承認する。しかし、この点を本質的な差違であるとは見なさない。
 すなわち、「ここでの『全体主義的』とは、テロルによってのみならず、定立された社会によって効果的な反対の全てを多元主義的に吸収することをも意味するよう、再定義される」(<五つの講義録>, p.48.)。
 「『全体主義的』とは、社会によるテロルを用いる政治的調整のみならず、与えられた利益による必要物の操作を通じて働く、非テロル的経済技術的な調整もそうだ」(<一次元的人間>, p.3.)。
 「文化の領域では、新しい全体主義は厳密には調和させる多元主義として出現するのであり、そこでは最も矛盾する労働と真実とが無関心なままで平和的に共存する」(同上, p.61.)。
 「今日では、先進的産業文明の活動過程の中に、権威主義体制のもとにはない社会は存在するのか?」(同上. p.102.)。//
 (7)要するに、テロルは、テロルとしても、民主政、多元主義および寛容によっても、いずれによっても行使される。
 しかし、テロルが解放のために用いられれば終焉に到達するだろう約束がそこにはあり、にもかかわらず、自由の形態で用いられるテロルは、永遠に続く。
 一方で、マルクーゼは、つぎの考えを繰り返して表明している。すなわち、ソヴィエトと資本主義体制は、産業化という同じ過程の類型として、ますます似たものになっている、との見方を。
 彼は<ソヴィエト・マルクス主義>で、マルクス主義の国家教理を鋭く批判し、それにもとづくシステムはプロレタリアートの独裁ではなく、プロレタリアートと農民に対する独裁の手段を用いた産業化の加速のための手段であり、マルクス主義はその目的のために歪曲されている、と主張する。
 マルクーゼは、マルクス主義のソヴィエト版が幼稚な知的水準にとどまることや、マルクス主義が純粋に実用主義的(pragmatic)な目的のために使われていることを、認識している。
 他方で彼は、西側資本主義とソヴィエトのシステムは、中央集中の増大、官僚制、経済合理化、教育の編成、情報サービス、労働の気風、生産等々の方向で、一つに収斂していく顕著な兆候を示している、と考える。
 しかしながら、一方で、彼がより大きい希望を認めるのは、資本主義よりもソヴィエトだ。ソヴィエトでは官僚制はその利益を完全には囲い込むまたは永続化することをしていないからだ。すなわちそれは、「究極的には」、抑圧による統治体制とは比較しようもない、全てに及ぶ技術的、経済的および政治的目標に対する第二次的地位を占めるに違いないからだ。
 階級を基礎とする国家では、合理的な技術的経済的発展は搾取者たちの利益と矛盾する。
 同じような状況はソヴィエト社会でも発生している。官僚制は、それ自体の目的のために進歩を利用しようとしているのだから。しかし、将来にこの矛盾は解消される可能性がある。それは、資本主義では生じないだろう。//
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 第4節、終わり。第5節・最終節の表題は<論評(Commentary)> 。

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

2044/L・コワコフスキ著第三巻第11章第2節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.402-p.407。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第2節・現代文明批判。
 (1)経験的な人間の運命の反対物である超越的規範または規範的な「人間性」の観念を抱いているとして、マルクーゼは、我々の文明がなぜそしてどの点でこのモデルと合致できないのかを検討する。
 人類の真正な観念を根本的に決定づけるのは、「幸福(happiness)」だ。これは、自由を含み、マルクーゼがマルクスのうちに見出したと主張する観念だ。-マルクスは、実際にはこの言葉を用いなかったし、彼の著作からこの語の意味をどのようにして抽出するかは明瞭ではないのだけれども。
 我々は、人間存在は「幸福」を追求するという経験的事実に加えて、人間はそれを当然のこととして要求することができるということを承認することから、まずは始めなければならない。
 マルクーゼは、人間存在はそれを要求することができない理由を発見するために、文明に関するフロイトの哲学をその出発地点として採用する。
 彼は、過去の歴史の解釈に関するところまで広範囲にフロイト哲学を受容した。だが、未来に関しては疑問視した。
 実際のところ、フロイトは、人間存在は幸福を追い求める資格がある、または確実にそれを獲得することができる、と語るだけの法則は存在しない、と考察していた。
 本能や精神(psyche)の三段階に関するフロイト理論は-id、ego、超ego-「快楽原理」と「現実原理」の間の対立を説明するもので、文明発展全体を支配してきたものだった。
 マルクーゼは、<エロスと文明>やフロイトの歴史理論を分析して批判する三つの講義録で、この対立は必然的なのか否か、そしてどの程度にそうなのかを考究する。
 彼の議論は、つぎのように要約することができるだろう。//
 (2)フロイトによると、文明化した諸価値と人間の本能の要求との間には永遠の、避け難い衝突がある。
 全ての文明は、諸個人の本能的欲求を抑える社会の努力の結果として、発展してきた。
 エロスまたは生存本能は、生殖の意味での性的性質に限られるのではない。性的性質は人間という有機体全体の普遍的な特性だ。
 しかし、それ自体は愉楽を与えない生産的作業に従事するために、人間という種は性的経験の範囲を生殖の分野に限定し、この狭く制限された性的性質ですら最小限のものにするのが必要だと考えた。
 こうして、解放された活力の蓄積は、愉楽のためにではなく人間の環境と闘うことに向けられた。
 同じように生命上のその他の根本的に決定的な部分、Thanatos(死の本能)または死への本能も、外へと攻撃的な形態で向けられる活力が物理的性質を克服して労働の効率性を増大させることができるように、変形させられた。
 しかしながら、その結果として、文明は必然的に抑圧的な性格をもった。本能は、人間にとっては「自然な」ものではない仕事のために統制されたのだから。
 抑圧と昇華は、文化の発展の条件だった。しかし同時に、フロイトによれば、抑圧は悪意に満ちた円環の原因になった。
 労働はそれ自体が善と見なされ、「快楽原理」は労働の効率性を増大させるために完全に従属したので、人間存在は、そうした価値のために絶えずその本能と闘わなければならなかった。そして、抑圧の総量が、文明の発展とともに増大した。
 抑圧は自己推進のための機構であり、抑圧それ自体に由来する苦痛を減少させるために文明が生み出した装置は、さらに高次の程度の抑圧のための機関になった。
 このようにして、文明が生んだ利点と自由は、自由の喪失を増大させるために利用された。とりわけ疎外された労働の量が大きくなることによって。-疎外労働こそが、我々の文明が許容する唯一の種類の労働なのだ。//
 (3)マルクーゼはこの理論に着目したが、本質的な点でこれを修正した。そして、フロイトの悲観的予言に反駁するようになった。
 マルクーゼは、こう語る。文明は、抑圧された本能が発展させたものではある。しかし、それが永遠に続くことを要求する生物学や歴史学の法則は存在しない。
 抑圧の過程が「合理的」だったのは、基本的な生活必需品が稀少で、人間がその本能的活力を「不自然な」方向へと逸らすことでのみ条件を改善して生きることができる、という意味においてだった。
 しかし、抑圧なくして人間が技術によってその必要を満足させることがいったん可能になると、上のようなことは非合理な時代錯誤(anachronism)になった。
 不愉快な労働は最小限度に減らされ、生活必需品の窮乏という脅威が存在しなくなったので、文明は我々が本能に反対することをもはや要求していない。
 我々は、本能が適切な機能を果たすことを許容することができる。その機能は、人間の幸福のための一条件だ。
 「自由な時間は生活の内容になり、労働は人間の潜在能力を発揮する自由な仕業になることができる。
 このようにして、本能にかかる抑圧構造は急激に変革されるだろう。すなわち、もはや喜ばしくない労働に囚われることのない本能的活力は自由になり、エロスのように、普遍化されたリビドー的(libidinous)関係を駆動させ、リビドー的文明を発展させるだろう。」
 (<五つの講義>〔Five Lectures, Boston, 1970-試訳者〕, p.22.)
 生産は、価値そのものだと見なされるだろう。
 生産増大という悪意ある円環と抑圧の増大は、破壊されるだろう。
 快楽原理と愉楽のもつ固有の価値は実現され、疎外された労働は存在しなくなるだろう。//
 (4)しかしながら、マルクーゼは、「リビドー的文明」と本能的活力の適切な機能への回帰について語る際に、「汎性論」(pansexualism)または昇華(sublimation)の廃棄を意識してはいない。フロイトによれば、これによって、文化的創造活動で人間は、充たされない欲求を幻想的に満足させるのだった。
 自由になった活力は、それ自体が純粋に性的な形態をとるのではなく、全ての人間活動をエロス化(eroticize)するだろう。そうした活動の全ては愉楽であり、愉楽はそれ自体が目標であると承認されるだろう。
 「労働のための刺激は、もう必要がない。
 なぜならば、労働それ自体が人間の能力を示す自由な仕業になるとすれば、人々が『労働する』ように仕向ける苦痛はもはや必要とされないからだ。」
 (上掲, p.41.)
 一般的に言って、制度を通じてであれ内部化されたやり方であれ、諸個人を社会的に統制する必要は、もう存在しないだろう。-そして、制度や内部化された様式は、マルクーゼによれば、いずれも全体主義の特質だ。
 かくして、自我(ego)のいかなる集団化も、もはや存在しないだろう。生活は合理的になり、個人は再び完全に自立的になるだろう。//
 (5)マルクーゼのユートピアが示す、こうした「フロイト主義」の側面は、その全ての重要な点について不明確さを呈示している。
 フロイトの理論は、本能の抑圧は生産のために必要な活力を解放するためだけではなく、人間に特有の意味での全ての社会的生活の存在を可能にするためにも必要だ、というものだった。
 本能は、純粋に個人的な欲求の充足へと向かう。
 そして、フロイトによれば、死への本能は、自己破壊に向かって作動することもあるが、外部への攻撃へと変形されることもある。
 人間は自分が他者に対する敵となる場合に限って、自分自身に対する敵であるのをやめる。
 各人間とその仲間の人間たちとの間の永続的な敵対の根源となる死への本能をなくする唯一の方法は、その活力を別の方向へと強いて向かわせることだ。
 リビドーは、他者たる人間を性的な満足のあり得る対象としてのみ扱うので、同じように社会的なものだ。
 要するに、本能は人間社会を創出する力を、または共同体の基礎を形成する力を持っていないばかりではない。本能の自然の効果は、そのような共同社会を不可能にすることだ。
 その場合にいかにして社会は存在することができるのかという、困難な問題は別に措くとして、フロイトの見解では、既存の社会は多数の禁忌、命令および禁止でもってのみ維持することができる、ということなのだ。これらは、避け得ない苦痛を犠牲にして本能を統制下に置いたままにする。//
 (6)マルクーゼは、この問題について自説を明確にしていない。
 彼は、本能の抑圧は「現在まで」は必要だった、というフロイトに同意しているように見える。しかし、〔必需品の〕希少性の廃棄以降はそれは時代錯誤だ、と考えている。
 しかしながら、本能と文明の間の永続的対立に関するフロイト理論に反論する一方で、彼は、本能は本質的に諸個人の「快楽原理」を充足するために貢献している、という見方を、受容している。
 この見方では、「リビドー的文明」はどのようにして維持することができるのか、いったいどのような力が現在ある社会を保持することができるのか、が明瞭ではない。
 フロイトとは反対に、マルクーゼは、人間は自然的に善であって他者と調和して生活する性向をもつと、そして、攻撃は疎外労働とともに消失する、歴史上の偶然的な逸脱だと、考えているのか?
 マルクーゼはそのようには語らない。だが、フロイト主義による本能の観念や階層化を受容しているのではあるけれども、彼は明白に逆のことを示唆している。
 人類は「原理的に」十分に多数のものを有している、物質的な要求の充足について本質的な問題は何もない、と主張する点で彼は正当だとかりにしてすら、どのような力があれば、全ての本能が解放されて生来の方向へと向きを変えることが許容される、そのような新しい文明を維持することができるのか、に関しては、まだ全く明瞭でない。
 マルクーゼは、この問題については関心がなかったように見える。彼が社会に関心をもつのは、主として、社会は本能を、つまりは個人的な満足を、妨害するものだ、という限りにおいてなのだ。
 彼は、物質的な存在に関する全ての問題が解決されてきたので、道徳的な命令や禁止はもはや重要ではない、と考えているように見える。
 かくして、アメリカのヒッピー・イデオローグ、Jerry Rubin がその著の中で、今日以降は機械が全ての仕事をこなし、人々には好むときにいつでも好む場所でどこでもセックスをする(copulate)自由がある、と語るとき、彼はマルクーゼの夢想郷〔ユートピア〕の真の本質を、未熟で幼稚にではあっても、明確に述べている。
 マルクーゼによるエロチシズム(eroticism)の性質づけは、あまりに漠然としていて、何らかの感知することのできる意味を伝えていない。
 人間全体のエロチシズム化(eroticization)は、官能的快楽への彼の完璧な熱心さを除いて、何かを意味することができるのだろうか?
 ユートピア的標語には、中身が全くない。
 また、我々はつぎの点も、理解することができない。マルクーゼは、昇華を生んだ全ての要因がそれらの働きを止めた後で、フロイト主義のいう昇華行為が力を保ち続けると、どのように想像しているのか?
 フロイトによると、文化的創造活動で表現される昇華行為は、本能的欲望を幻想的にまたは代用的に充足させるものにすぎず、文明は我々が満足するのを許しはしない。
 この理論は批判することができるし、批判されもしてきた。しかし、マルクーゼはそうしようと試みはしない。
 彼は、過去の文化的創造活動はフロイトが述べるように代用物だ、だが、それにもかかわらず、そのような昇華行為を必要としなくなってもなお将来に残り続ける、と考えているように見える。//
 (7)フロイト理論に関するマルクーゼの完全な倒錯(inversion)は、前社会的実存への回帰以外には、いかなる感知し得る目的をも有していないように見える。
 むろん、マルクーゼはそのような結論を明言しはしない。しかし、彼はどのようにして、矛盾なくしてその結論を回避することができるのか、は明瞭でない。
 彼によるこの点でのマルクスへの信頼は、きわめて疑わしい。
 マルクスは、未来の完璧な社会は諸個人が自分の力や才能を直接的な社会的な力だととして扱うように構成されるだろう、と考えた。そうすることで、個人の願望と共同社会の要求の間の矛盾を除去することができるのだ。
 しかし、マルクスは他方で、本能の性質に関するフロイトの見解を支持しなかった。
 人間は本能的にかつ不可避的に相互に敵対する、しかしまた、人間の本能はお互いが平穏かつ調和してともに生きることができるように解放されなければならない、とは、誰も、矛盾することなくしては、主張することができない。//
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 第2節、終わり。次節の表題は<一次元的人間>(<One-dimensional man>)。

2040/L・コワコフスキ著第三巻第11章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進んでいる。分冊版、p.399-p.402。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義②。
 (5)実証主義というものは、哲学一般はもとより批判的弁証法哲学をさほど否定するものではないのだが(真の意味での哲学はつねに反実証主義的なのだから)、経験による事実を受容すること、そうして現実に生起する全ての状況の有効性を肯定すること、を基礎にしている。
 実証主義の観点からすると、どんな客体であれ、それを合理的に指し示す(designate)のは不可能だ。すなわち、客体は、恣意的な決定の結果であり、理性に基礎があるのではない。
 しかし、真実を探求するのが任務である哲学は、ユートピアを怖れない。なぜならば、真実は、現存する社会秩序では実現することができないかぎり、ユートピアであるのだから。
 批判的哲学は、未来へと訴えなければならない。ゆえに、事実にもとづくのではなく、理性の要求のみを基礎にしなければならない。批判的哲学は、人間の経験的状態ではなくて、人間がそうなることができるもの、人間の本質的な存在にこそ、関係しているのだ。
 実証主義は、対照的に、現存する秩序とのあらゆる妥協を是認し、社会的諸条件を判断する権利を投げ棄てる。//
 (6)実証主義の精神は、社会学によく例証されている。-特定の学派ではなくて、コントの規準に則る知識の一部門としての社会学それ自体だ。
 この種の社会学は、意識的に対象を何も限定せず、社会現象を描写する。そして、共同的生活の法則を考察するまでに進んだとすれば、現実に作動している法則を超えてさらに進むのを拒否する。
 このことから、社会学は、受動的な適応の道具だ。その一方で、批判的合理主義は、理性自体にその力の淵源をもつのであり、その力でもって、世界が理性に従うことを要求する。//
 (7)さらに、実証主義は順応主義と同じであるばかりか、全体主義的教理や社会運動の全てとの同盟者だ。その主要な原理は秩序の原理であり、権威主義的システムが提供する秩序のために自由を犠牲にする用意が、いつでもある。//
 (8)マルクーゼの主張全体が、我々は経験的データとは無関係に合理性がもつ先験的の要求を認識することができる、という信念に依拠していることは明らかだ。その合理性の要求に従って、世界は判断されなければならない。
 そしてまた、人間性の本質を我々は認識している、あるいは、「真の」人間存在は経験的なそれとは真反対のものだろう、という信念にも。
 マルクーゼの哲学は、理性の超越性にもとづいてのみ、理解することができる。但し、理性は歴史的過程のうちでのみ「明らかになる」。 
 しかしながら、この教理は、歴史的誤謬と論理的誤謬の、いずれにももとづいている。//
 (9)ヘーゲルに関するマルクーゼの解釈は、ほとんど正確に、マルクスが攻撃した青年ヘーゲル主義者たちと同じだ。
 ヘーゲルはたんに、事実をそれ自体の規準で評価する、超歴史的理性の主張者だとして提示されている。
 我々は、この点に関するヘーゲルの思考の曖昧さを、一度ならず叙述してきた。
 しかし、反ユートピア的特質を完全に無視して、ヘーゲルの教理を人間に「至福」(happiness)を達成する方途を語る超越的理性への信念へと還元してしまうのは、ヘーゲル思想のパロディだ。
 付け加えるに、マルクスをヘーゲル主義論理の範疇を政治の領域へと変換する哲学者だと叙述するのは、誤導的(misleading)どころではない。
 マルクーゼの議論は、マルクスのヘーゲル、そしてヘーゲル左派に対する批判の本質的特徴の全てを無視している。
 全ての種の権威主義的体制に対する自由の擁護者だとヘーゲルを描こうとマルクーゼは熱中して、マルクスによる、ヘーゲルの主体と叙述されたものの反転(reversal)に対する批判には全く言及していない。その反転によって、個人の生活の諸価値は、普遍的な理性の要件に依存するようになるのだ。
 だがなお、正しい解釈にどの程度に依拠しているかに関係なく、この批判は、マルクスのユートピアにとっての出発地点だった。そして、ヘーゲルからマルクスへの調和的移行を叙述するためにこの点を無視するのは、歴史を侮辱している。
 マルクーゼによる描写は、青年ヘーゲル主義やヘーゲルについての彼らのフィヒテ解釈に対するマルクスの批判を軽視することで、さらに歪んでいる。
 自分自身の哲学上の位置に関するマルクスの説明は、まず第一には、超歴史的理性の至高性への青年ヘーゲルの信念から解放されていることにもとづいていた。-これはまさに、マルクーゼがマルクスに帰そうとしている信念だ。//
 (10)このような歪曲にもとづいて、マルクーゼは、現代の全体主義的教理はヘーゲル的伝統とは何の関係もない、実証主義を具現化したものだ、と主張することができる。
 しかしながら、実証主義にいったい何があるのか?
 マルクーゼは、「事実崇拝」というラベルに同意し、その主要な構成者として、Comte、Friedrich Stahl、Lorenz von Stein、を、そしてSchelling すらも、挙げる。
 しかしながら、これは、恣意的で非歴史的な陳述を行うための、諸思想の混乱だ。
 Schelling の「実証主義哲学」は、「歴史的実証主義」と一致する名前以外には何もない。
 Stahl とvon Stein は実際に保守主義者で、ある意味ではComte だった。
 しかし、マルクーゼは所与の秩序の支持者の全てを「実証主義者」だと叙述し始める。そして、明白な事実に逆らって、全ての経験論者は、つまり理論を事実で吟味させようと望む全ての者は、自動的に保守論者だと、主張し始める。
 歴史的意味での実証主義は-Schelling とHume をほとんど区別することができないという意味とは反対に-、とりわけ、知識の認識上の価値はその経験的な背景に依存するという原理を具現化するものだ。したがって、科学はプラトンやヘーゲルのやり方で本質的なものと現象的なものの区別をすることができず、事物の所与の経験的状態はそれら事物の真の観念とは一致していないなどと我々は語ることもできない、ということになる。
 実証主義は「真の」人間存在または「真の」社会の規範を決定する方法を我々に提示してくれない、というのは本当のことだ。
 しかし、経験論は決して、現存する「事実」または社会的諸制度はたんにそれらが存在するという理由だけで支持されなければならない、と我々が結論づけることを強いはしない。それとは反対に、叙述的判断から規範的判断を帰結させるのを我々に禁止するのと同じ根拠でもって、そのような結論づけを論理的に馬鹿げたものだと見なして、明瞭に拒否するのだ。//
 (11)マルクーゼは実証主義と全体主義的制度との間の論理的連結関係を主張する点で間違っているのみならず、歴史的連環に関する彼の主張も、事実に全く反している。
 中世後半以降にイギリスで発展して人気を博した実証主義の思想は、それなくしては我々は現代科学、民主主義的法制あるいは人間の権利に関する考えを持ち得なかったもので、最初から、消極的自由や民主主義的諸制度の観念と分かち難く連結していた。
 経験主義の原理にもとづいて人間の平等という教理を設定して伝搬させたのは、また、法のもとでの個人の自由の価値という教理についてもそうしたのは、ヘーゲルではなく、ロック(Locke)やその継承者たちだった。
 20世紀の実証主義と経験論は、とくに分析学派といわゆる論理経験主義者は、ファシストという動向とは何の関係もないばかりか、例外はあるものの、全く明瞭な用語でもってその動向に反対している。
 かくして、実証主義と全体主義的政治の間には、いかなる論理的連結関係も歴史的連結関係もない。-マルクーゼの若干の言及が示唆するように、「全体主義的」という語が「実証主義」という語のもつ通常の意味とは離れた意味で理解されているのでないかぎりは。
 (12)他方で、論理的および歴史的論拠のいずれも、ヘーゲル主義と全体主義思想との間の積極的関係を、有力に示している。
 もちろん、ヘーゲルの教理は現代の全体主義国家を推奨することになる、と言うのは馬鹿げているだろう。しかし、同じことを実証主義について言うのと比べると、馬鹿さ加減は少ないだろう。
 このような推論は、ヘーゲル主義から多数の重要な特質を剥ぎ取ってこそ行うことができる。しかし、実証主義からは、このような推論を全く行うことができない。
 マルクーゼが行うように証拠を何ら示すことなく主張することができるのは、実証主義とは事実崇拝だ、ゆえにそれは保守的だ、ゆえにそれは全体主義的だ、ということなのだ。
 ヘーゲル主義の伝統が非共産主義的全体主義の哲学上の根拠としては何ら重要な役割を果たさなかった、というのは本当だ(マルクーゼは、この論脈では共産主義の多様さについては何も語らない)。
 しかし、マルクーゼがGiovanni Gentile 〔イタリア哲学者〕の事例に至るとき、彼は単直に、Gentile はヘーゲルの名前を用いたけれども、実際にはヘーゲルと一致するところは何もなく、実証主義者にきわめて近かった、と宣告している。
 ここで我々は、「正当性に関する疑問」と「事実に関する疑問」について混乱する。なぜならば、マルクーゼは、ヘーゲル主義は事実の問題としてファシズムを正当化するものとして利用された、というあり得る異論に対して反駁しようとしているのだから。
 ヘーゲル主義は不適切に利用されたと語るのは、この異論に対する回答になっていない。//
 (13)簡潔に言えば、実証主義に対するマルクーゼの批判全体は、そしてヘーゲルとマルクスに関する彼の解釈のほとんどは、論理的にも歴史的にも、恣意的な言明の寄せ集め(farrago)だ。
 さらに加えて、これらの言明は、人類の地球的解放に関するマルクーゼの明確な見解や至福、自由および革命に関する彼の思想と統合して、結び合わされている。
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 第1節は終わり。第2節の表題は、<現代文明批判>。

2039/L・コワコフスキ著第三巻第11章<マルクーゼ>①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進む。分冊版、p.396-。合冊版、p.1104-。
 第1節の前の見出しがない部分を「(序)」とする。
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 第11章・マルクーゼ-新左翼の全体主義ユートピアとしてのマルクス主義。
  (序)
 (1)マルクーゼは、1960年代遅くまでは学界の外部では著名にはなっていなかつた。その1960年代遅くに彼は、アメリカ合衆国、ドイツおよびフランスでの反乱する学生運動によってイデオロギー上の指導者として喝采を浴びた。
 マルクーゼが「学生革命」の精神的指導者になろうと追求したと想定する、いかなる根拠もない。しかし、その役割が自分に与えられたとき、彼は拒まなかった。
 彼のマルクス主義は、かりにマルクス主義の名に値するとすればだが、イデオロギー上の奇妙な混合物だった。
 合理主義的ユートピアの予言者としてのヘーゲルとマルクスを独自に解釈して、彼のマルクス主義は、「学生革命」の人気あるイデオロギーへと進化した。そのイデオロギーでは、性の自由化が大きな役割を担い、学生たち、過激な少数派およびルンペン・プロレタリアートに譲るために、労働者階級は注意が向かう中心から追い出された。
 マルクーゼの重要さは、1970年代には相当に弱まった。しかし、彼の哲学は、論議するになおも値する。その本来の長所が理由なのではなく、おそらくは一時的なものだけれども、重要な、我々の時代でのイデオロギーの変化の趨勢と合致しているからだ。
 マルクーゼの哲学は、マルクス主義の教理で成り立ち得る、驚くべき多様な用い方があることを例証することにも役立つ。//
 (2)マルクス主義の解釈に関するかぎりでは、マルクーゼは一般に、フランクフルト学派の一員だと見なされている。彼はその否定の弁証法でもってこの学派と連携し、合理性という超越的規範を信じていた。
 マルクーゼは1898年にベルリンで生まれ、1917-18年には社会民主党の党員だった。しかし、のちに彼が書いたように、Liebknecht とRosa Luxemburg の虐殺のあとで、社会民主党を離れた。それ以降、どの政党にも加入しなかった。
 彼はベルリンとフライブルク(im Breisgau〔南西部〕)で勉強して、ヘーゲルに関する論文で博士の学位を取った(ハイデガーが指導した)。
 その<ヘーゲル存在論と歴史性理論の綱要>は、は1931年に出版された。
 彼はまた、ドイツを出国する前に、その思考の将来の行く末を明らかに予兆する多数の論文を執筆した。
 彼は、それらを発表したあとですぐに、マルクスのパリ草稿の重要性に注意を喚起した最初の者たちの一人になった。
 ヒトラーの権力継承のあとで出国し、一年をスイスで過ごし、そのあとはアメリカ合衆国に移って、ずっとそこで生きた。
 ニューヨークのドイツ人<エミグレ>が設立した社会研究所で、1940年まで仕事をした。そして、戦争中は、国家戦略情報局(OSS)に勤務した。-のちに知られたこの事実は、学生運動での彼の人気を落とすのを助けた。
 マルクーゼは多数のアメリカの大学で教育し(Columbia、Harvard、Brandies、そして1965年からSan Diego)、1970年に引退した。
 1941年に<理性と革命>を刊行した。これは、実証主義批判にとくに着目してヘーゲルとマルクスを解釈するものだった。
 <エロスと文明>(1955年)は、フロイトの文明理論にもとづいて新しいユートピアを設定し、「内部から」精神分析学を論駁しようとする試みだった。
 1958年に<ソヴィエト・マルクス主義>を刊行したあと、1964年に、彼の書物のうちおそらく最も広く読まれた、<一次元的(One-Dimensional)人間>と題する技術文明に対する一般的批判書を出版した。
 他の短い諸著作のいくつかも、多くの注目を惹いた。とくに、1965年の「抑圧的寛容」、1950年代から60年代の日付で書かれてのちの1970年に<五つの講義-精神分析・政治・ユートピア>と題して刊行された一連の小考集だ。//
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 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義。
 (1)マルクーゼが継続的な攻撃対象としたのは、きわめて個人的な態様で定義する「実証主義」、(消費と贅沢への崇拝ではなく)労働と生産への崇拝にもとづく技術文明、アメリカ的中産階級の諸価値、(アメリカ合衆国をその顕著な例とするために定義される)「全体主義」、およびリベラル民主主義と寛容と結びつく全ての価値や制度だ。
 マルクーゼによれば、これら全ての攻撃対象は、統合された全体物を構成する。そして、彼は、この基礎的な統合状態を説明しようと努力する。//
 (2)マルクーゼは、実証主義を「事実を崇拝する」ものだとして攻撃する点で、ルカチに従う。実証主義は歴史の「否定性」を感知するのを妨げるのだ。
 しかし、ルカチのマルクス主義は主体と客体の間の弁証法や「理論と実践の統合」に集中していたが、そうしたルカチとは異なってマルクーゼは、理性の否定的、批判的な機能を最も強調する。理性は、社会的現実を判断することのできる規準を提供するのだ。
 マルクス主義とヘーゲルの伝統との間の連結関係を強調する点では、ルカチに同意する。
 しかし、その連結の性質に関しては、ルカチとは完全に異なっている。すなわち、マルクーゼによれば、ヘーゲルとマルクスの本質的な基礎は、主体と客体の一体化に向かう運動にではなく、理性の実現に向かう運動にある。理性の実現は同時に、自由と至福の実現でもある。//
 (3)マルクーゼは、1930年の論考で、理性(reason)は哲学と人間の宿命の間に連環を与える基礎的な範疇だ、という見方を採用していた。
 理性に関するこの考えは、現実は直接に「合理的」なのではなく合理性へと還元することができるものなのだ、という確信にもとづいて展開していた。
 ドイツ観念論哲学は、経験的現実を非経験的規準で判断することによって、理性を論証のための最高法廷にした。
 この意味での理性が前提とする自由は、人間が生きる世界を人々が完全に自由に判断することができないとすれば、それを宣明したところで無意味だろうような自由だ。
 しかしながら、カントは、現実を内部領域へと転位させ、それを道徳的な要求(imperative)にした。ヘーゲルは一方で、それを必然性という拘束の範囲内へと限定した。
 しかし、ヘーゲルの自由は、人間がその現実的宿命を自覚することのできる理性の働きの助けを借りてのみ可能だ。
 かくしてヘーゲルは、哲学の歴史上は、人間存在に自分たち自身の真実を明らかにする理性、換言すると真正な人間性の命令的要求、というものの正当性を戦闘的に擁護する者として立ち現れる。
 理性の自己変革的作用は、歴史の全ての段階に新しい地平を切り拓く否定の弁証法を生む。そして、経験的に知られるその段階の可能性をさらに超えて前進する。
 このようにして、ヘーゲルの著作は永続的な非妥協性を呼び起こすものであり、革命を擁護するものだ。//
 (4)しかしながら-そしてこれが<理性と革命>の主要な主張の一つだが-、理性は世界を支配しなければならないとする要求は、観念論の特権ではない。
 ドイツ観念論は、イギリス経験論と闘うことで文明に寄与した。その経験論は、「事実」を超えて進んだり<先験的に>合理的な観念に訴えかけることを禁止し、その結果として大勢順応主義や社会的保守主義を支持していた。
 しかし、批判的観念論は、理性は思考する主体のうちにだけ存在するものと考え、物質的で社会的な諸条件の領域へとそれを関係づけることに成功しなかった。そして、それを達成することが、マルクスに残された。
 マルクスのおかげで、理性の実現という命題は、「真の」観念または人間性の真の本質と合致する社会的諸条件の合理化という要求となった。
 理性の実現は、同時に、哲学の優越であり、その批判的機能が十分に発揮されることだ。//
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 ②へとつづく。 

2033/池田信夫のブログ013-A・R・ダマシオ①。

 日本共産党の機関紙や同党出版物、同党員学者等の書物、その他「容共」であることが明確な学者・評論家類の本ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
 西尾幹二が例えば、①日本会議・櫻井よしこを批判するのは結構ではあるものの、日本会議・櫻井よしこをなおも当然に?「保守」と理解しているようでは、②かつての日本文化フォーラム・日本文化会議に集まっていた学者・知識人は「親米反共」の中核であっても「保守」ではないと認識しているようでは(例、同・保守の真贋(徳間書店、2017))p.160)、むろん改めてきちんと指摘するつもりだが、「保守」概念に混濁がある。そして、西尾が「保守」系の雑誌だとする月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 等やそれらに頻繁に執筆している評論家類の書物ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
 池田信夫の博識ぶりはなかなかのもので、デカルト、ニュートン、ダーウィン、カント等々に平気で言及しているのには感心する。むろん、その理解・把握の正確さを検証できる資格・能力は当方にはないのだけれど。
 進化・淘汰に強い関心を示したものを近年にいくつか書いていたが、もっと前に、 アントニオ・R・ダマシオの本を紹介していた。
 2011年6月26日付/アゴラ「感情は理性に先立つ」だ。
 ここでは反原発派の主張に関連して<論理と感情>の差違・関係を問題設定しつつ、つぎに、紹介的に言及している。
 アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
 「感情はいろいろな感覚や行動を統合し、人間関係を調節する役割を持っているのだ。
 感情を理性の派生物と考えるデカルト的合理主義とは逆に、感情による人格の統一が合理的な判断に先立つ、というのが著者の理論である」。
 「この場合の感情は個々の刺激によって生まれる情動とは違い、いろいろな情動を統合して『原発=恐い』といったイメージを形成する」。
 「…感情は身体と結びついて反射的行動を呼び起こす、というのが…『ソマティック・マーカー仮説』である」。
 「感情が合理的判断の基礎になるという考え方は、カントのカテゴリーを感情で置き換えたものとも解釈できるが、著者は近著ではスピノザがその元祖だとしている。
 身体が超越論的主観性の機能を果たしているというのはメルロ=ポンティが指摘したことで、最近ではレイコフが強調している」。
 原発問題を絡めているのでやや不透明になっているが、それを差し引いても、上をすんなりと理解することのできる読者は多くはないだろう(「近著」というのはダマシオ/田中三彦訳・感じる脳-情動と感情の脳科学・よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005))。
 この2010年刊の新訳文庫を計400頁ほどのうち1/4を読み了えた。その限度でだが、上はダマシオ説の正確で厳密な紹介にはなっていない、と見られる。
 但し、池田のいう<感情と理性>、<感情と合理的判断>の差違・関係にかかわるものであることは間違いない。
 そして、人間関係における個人的<好み・嫌悪感>や「対抗」意識が、あるいは<怨念>が「理屈」・「理論」を左右する、あるいは物事は<綺麗事>では決まらない、といった、実際にしばしば発生している(・発生してきた)と感じられる人間の行動や決定の過程にかかわっている。
 (この例のように、「感情」と「理論」・「判断」の関係は一様ではない。つまり、前者の内容・態様によって、後者を「良く」もするし、「悪く」もする。)
 ややむつかしく言うと、<感性と理性>、<情動と合理性>といった問題になる。
 まだよく理解していないし、読了すらしていないが、アントニオ・R・ダマシオの上の著の意図は、池田の文を受けて私なりに文章化すると、このようになる。
 この問題を脳科学的ないし神経生理学的に解明すると-つまりは「自然科学」の立場からは、あるいは「実証」科学的・「実験」科学的には-、いったいどのようなことが言えるのか。
 著者自体は「新版へのまえ書き」で、こう明記する。文庫、p.13.
 「『デカルトの誤り』の主題は情動と理性の関係である。
 …、情動は理性のループの中にあり、また情動は通常想定されているように推論のプロセスを必然的に阻害するのではなく、そのプロセスを助けることができるという仮説(ソマティック・マーカー仮説として知られている)を提唱した」。
 ここで、「通常想定されている」というのは、感情・情動は理性的・合理的判断を妨げる、<気分>で理性的であるべき決定してはいけない、という、通念的かもしれないような見方を意味させていると解される。
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 ところで、上にすでに、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理」という語が出てきている。
 第四章の冒頭の一文、文庫p.104は、「ある条件下では、情動により推論の働きが妨げられる-これまでこのことが疑われたことはない」、だ。
 こうした語・概念の意味がそもそも問題になるのだが、秋月瑛二の印象では、人文社会系の論者(哲学者・思想家)では基礎的な観念・概念の使い方が多様で、たとえ「言葉」としては同じであっても、論者それぞれの意味・ニュアンス・趣旨をきちんと把握することができなければ、本当に「理解」することはできない。
 つい最近では、ルカチとハーバマスでは「実践」の意味が同じではない、というようなことをL・コワコフスキが書いていたのを試訳した。試訳しながらいちおうはつねに感じるのは、「認識」とか「主体」とか「外部」とかを、L・コワコフスキが言及している論者たちは厳密にはどういう意味で使っているのだろうということだ(それらをある程度は解き明かしているのがL・コワコフスキ著だということにはなるが、すでに十数人以上も種々の「哲学者」たちが登場してくると、いちおう「試訳」することはできても、専門家でない者には「理解」はむつかしい)。
 これに対して、あくまで印象だが、自然科学系の著書の方が、一言でいうと<知的に誠実>だ。あるいは<共通の土俵>の程度が高い。
 つまり、それぞれの学問分野(医学(病理学・生理学、解剖学等々)、物理学、化学、数学等々)で、欧米を中心とするにせよ、ほぼ世界的に共通する「専門用語」の存在の程度が、人文系に比べてはるかに多く、(独自の説・概念については「ソマティック・マーカー仮説」だとか「統合情報理論」とか言われるようなものがあっても)、自分だけはアカデミズム内で通用しないような言葉遣いを、少なくとも基礎的概念についてしない、という<ルール>が守られているような感がある。
 したがって、日本で、すなわち日本の(自然科学)アカデミズムが翻訳語として用いる場合も、一定の(例えば)英語概念には特定の日本語概念が対応する訳語として定着しているように見られる。
 「意識」=conciousness、というのもそうだ。Brain は「脳」としか訳せないし、それが表象している対象も基本的には同じはずだろう。
 では、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理(性)」等々の、もともとの英語は何なのか。
 なお、アントニオ・R・ダマシオはポルトガル人のようだが、若いときからアメリカで研究しているので、英語で執筆しているのではないかと推察される(ジュリオ・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)の原著はイタリア語のようだ)。

2032/L・コワコフスキ著第三巻第10章第7節②・第8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.392-p.395。合冊版、p.1100-p.1103. 第8節・結語、へも進む。
 ごく一部の下線は、試訳者による。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第7節・批判理論(つづき)-ユルゲン・ハーバマス(Jürgen Habermas)②。
 (8)<知識と利益>でのマルクス批判は、おそらくはさらに進んでいる。
 ハーバマスは、マルクスは人間の自己創造を最終的には生産労働に還元し、そうすることで彼自身の批判活動を理解しなかった、とする。
 考察(reflection)それ自体が、彼の理論では自然科学が関係するのと同じ意味での科学的作業の一要素であるように思える。言ってみれば、物質的生産の様式をモデルにしているのだ。
 かくして、実践としての、自己省察にもとづく主体的活動としての批判は、マルクスの著作では社会的活動の分離した形態を十分にはとらなかつた。
 ハーバマスは、同じ書物で、科学主義、Mach、PeirceおよびDilthey を批判し、自然科学または歴史科学の方法論的自己知識の形態も、それらの認識上の立場やそれらの背後にある利益に関する理解を反映している、と論じる。
 しかしながら、彼は、その見解では理性の活動と利益や解放が合致する観点を獲得させる、そのような「解放」への潜在的能力を精神分析はもつことを指摘する。かりにそうでなくとも、認識上の利益と実践上の利益が同一になるようにさせる。
 マルクスの図式は、そのような統合の基礎を提供することができない。マルクスはヒトの種の独特の特徴を(純粋に順応的なそれとは区別される)道具的行動をする能力に還元したのだから。そのことは彼が、イデオロギーと歪んだ意思交流という趣旨での権威の間の関係を解釈することができないことを意味した。そうできないで、人間の労働や自然との闘いに由来する関係へとそれを還元したのだ。
 (ハーバマスの考えはこの点で全く明確なのではなく、精神分析では聴診も治療法だと明らかに思っていた。-患者が自分の状況を理解することは同時に、治療になる。)
 しかしながら、理解する行為が治療全体を指すのだとすると、これは正しくない。
 フロイトによれば、治療過程の本質は移転(transference)にあり、これは実存的行為であって、知的な行為ではないのだから。
 マルクスの理論では、合致は生じない。すなわち、理性の利益と解放が結びついて単一の実践知の能力となることはない。
 かりにこれがハーバマスの論拠だとすれば、彼のマルクス解釈は、(私は適切だと考えている)ルカチの判断、すなわちマルクス主義の最重要の特質は世界を理解する行為とそれを変革する行為はプロレタリアートの特権的状況において一体化を達成するという教理にあるという判断とは、一致していない。//
 (9)ハーバマスは、その鍵となる「解放」(emancipation)という概念を明瞭には定義していない。
 明確なのは、ドイツ観念論の全伝統の精神からして、実践的理性と理論的理性、認識と意思、世界に関する知識と世界を変革する運動、これらの全てが一つ(identical)になる焦点を、彼は探求している、ということだ。
 しかし、そのような点を彼が実際に見出したとは、あるいは、そこに到達する方途を我々に示しているとは、思えない。
 認識論上の評価の規準は、技術的進歩の過程と意思交流の形態とがともに自立した変数として現れる、そのような人間の歴史の一要素でなければならない、と彼が言うのは正しい。
 我々が認識上何が有効であるかを決定する規則のいずれも、(フッサールの意味で)先験的に(transcendentally)基礎づけられてはいない。
 また、知識の有効性に関する実証主義的規準は、人間の技術的能力に関係する評価を基礎にしている。
 しかし、こうしたことから、知識と意思の区別が排除されたと認めることのできる、そのような優位点(vantage-point)がある、またはあり得る、ということが導き出されはしない。
 ある場合には、諸個人や社会による自己理解の行為はそれ自体は、この語が何を意味していようと「解放」へと導く実践的な行動の一部だ、ということが言えるかもしれない。
 しかし、疑問はつねに残ったままだろう。すなわち、どのような規準によれば、その自己理解の正確さを判断することができるのか? また、どのような原理にもとづいて、別のそれではなくてある特定の情況では「解放」が存在する、と決定するのか?
 この第二点について、世界に関して我々がもつ知識を超える決定を下すのを、我々は避けることができない。
 善と悪を区別する、そしてそれと同じ行為で真か偽かを決定する、そのような高次の霊的な何らかの能力を我々がもつようになると信じるとすれば、我々は、いかなる統合にも影響を与えないで、恣意的に設定された善の規準でもって真の規準を単直に置き代えている。換言すれば、我々は、個人的または集団的な実用主義(pragmatism)へと回帰している。
 分析的理性と実践的理性の間を統合するものという意味での「解放」は、上に述べたように、宗教的な解明(illumination)の場合にのみ可能だ。その場合にじつに、知識と「関与」する実存的行為が一つのものになる。
 しかし、理性の活動をそのような行為で基礎づけることができると想定することほど、文明にとって危険なものはない。
 分析的理性、あるいは科学が機能するための諸規準の全体、はそれ自体の根拠を提示することができない、というのは実際に本当のことだ。
 諸規準は、道具として有効であるがゆえに受容されている。そして、合理性についてかりに何らかの先験的規範があるとしても、それは我々にはまだ知られていない。
 科学は、そのような規範の存在とは無関係に機能することができる。科学は、科学的哲学と混同されてはならないらだ。
 善や悪および普遍的なものの意味に関する決定は、いかなる科学的な基礎ももち得ない。
 我々はそのような決定をするのを余儀なくされるが、その諸決定を知的に理解する行為に変えることはできない。
 生活上のこれら二側面を統合する高次の理性という観念は、神話の世界でのみ実現することができる。あるいは、ドイツ形而上学の敬虔な願望にとどまり続けるだろう。
   <一行あけ-秋月>
 (10)フランクフルト学派の若い世代のうちの別の人物は、Alfred Schmidt だ。自然に関するマルクスの観念についての彼の書物(1964年)は、この複雑な問題の研究に興味深くかつ貴重な貢献をなした。
 彼が論じるところでは、マルクスの観念には曖昧さがあり、そのことが原因となって、矛盾する方途で解釈されてきた(人間の継続物としての自然、統合への回帰等々。反対に、自然の創造物としての人間。ここで自然は外部諸力に対処する人間の試みによって明確になる)。
 Schmidt は、マルクスの教理は疑いの余地のない単一の「システム」だと最終的には理解することはできず、エンゲルスの唯物論がマルクスの思想と本質的部分で合致している、と強く主張する。//
 (11)Iring Fetscher は、疑いなく優れたマルクス主義に関する歴史研究者の一人だ。この人物をフランクフルト学派の一員だと見なすことができるのは、この学派の著者たちが関心をもったマルクス主義の諸観点に受容的であることを彼の著作が示している、というきわめて広い意味でだ。
 彼の大きな業績は、マルクスが遺したものの多様な範型やあり得る解釈を明瞭に解説したことだ。しかし、彼自身の哲学上の立場は、否定弁証法や解放的理性のような、フランクフルト学派の典型的な思考にもとづいていたとは思われない。
 歓迎されるべき明晰さを別とすれば、彼の著作は、歴史研究者としての抑制と寛容を特徴としている。
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 第8節・結語(Conclusion)。
 (1)マルクス主義の歴史でのフランクフルト学派の位置について考察すると分かるのは、この学派の長所は哲学上の反教条主義、理論的推論の自立の擁護にあった、ということだ。
 フランクフルト学派は、誤謬なきプロレタリアートという神話から自由で、マルクスの諸範疇は現代社会の状態と諸問題について適切だという信仰からも解放されていた。
 フランクフルト学派はまた、知識と実践の絶対的で始原的な根拠があると想定するマルクス主義の全ての要素または変種を拒絶しようと努めた。
 それは、マルクスが理解したような階級の諸範疇では解釈することのできない現象としての「大衆文化」の分析に寄与した。
 また、(かなり一般的で、方法論のない用語でだったけれども)科学者的プログラムに潜在している規範的な前提命題に注意を引くことによって、科学的哲学を批判することにも貢献した。//
 (2)他方で、フランクフルト学派の哲学者たちには、理想的「解放」についての一貫した見解表明に弱点があった。それは決して適切には説明されなかった。
 このことは、「物象化」、交換価値、商業化した文化および科学主義を非難しつつ、それらに代わる何かを提示している、という幻想を生み出した。
 ところが実際には、彼らが現実に提示しているのはほとんど、エリート(élite)がもつ前資本主義社会の文化へのノスタルジア(郷愁、nostalgia)だった。
 彼らは、今日の文明から一般的に逃亡するという曖昧な展望の音色を奏でることによって、知らず知らずのうちに、無知で破壊的な抗議行動を激励した。//
 (3)要約すれば、フランクフルト学派の強さは純粋な否定にあり、その危険な曖昧さは、それを明確に認めようとしないで、しばしば反対のことを示唆したことにあった。
 それは、いかなる方向であってもマルクス主義の継続物ではなく、マルクス主義の解体とその麻痺化の一例だった。//
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 第7節・第8節、そして、第10章が終わり。

2030/L・コワコフスキ著第三巻第10章第7節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.387-p.392。合冊版、p.1096-1100.
 一部について、ドイツ語訳書の該当部分を参照した。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第7節・批判理論(つづき)-ユルゲン・ハーバマス(Jürgen Habermas)。
 (1)ハーバマス(Habermas)(1929年生れ)は現役ドイツ哲学者の代表者の一人に位置づけられる。
 彼の主要な書物の表題-<理論と実践>(1963年)、<認識と利益>(1968年)、<「イデオロギー」としての技術と科学>(1970年)-は、その主要な哲学的関心を示している。
 彼の著作は、理論的推論-歴史学および社会科学の意味のみならず自然史の意味での-と人間の実践的必要、利益および行動の間のあらゆる種類の連結関係を、反実証主義的に分析することで成っている。
 しかしながら、それは知識に関する社会学ではなくむしろ認識論的批判であり、この批判が示そうと意図しているのは、いずれの理論も実証主義および分析主義学派で案出された規準では適切な根拠を見出すことができず、また実証主義はつねに非理論的な関心に従った想定をしているけれども、実践的な関心と理論的な研究とを合致させる観点を見出すのは可能だ、ということだ。
 こうした見解には、フランクフルト学派の関心領域にたしかに入る主題がある。
 しかし、ハーバマスは、彼の前世代の指導者たちに比べて、より分析的に厳密化したものを提示する。
 (2)ハーバマスは、「啓蒙の弁証法」というホルクハイマーとアドルノの主題を採り上げる。-人類を偏見から解放するのに寄与する理性がその内在的な論理に従ってそれ自体に反発し、偏見と権威を維持するのに奉仕する、という過程のことだ。
 Hollbach によって代表される啓蒙主義の古典的時代には、理性は既存の秩序に対する社会的かつ知的な闘いの武器だった。そして、闘う際の大胆さという重要な美徳を維持するものでもあった。
 啓蒙主義からすると邪悪と偽善は同一のもので、解放と真実もまたそうだった。
 それは価値評価をなくしてしまおうとは考えなかったけれども、導かれるべき諸価値を公然と宣言した。
 フィヒテ(Fichte)の理性は、カント的批判にもとづくもので、ゆえに経験論のご託宣を呼び込むことはなかった。それにもかかわらず、それ自体がもつ実践的性格を意識していた。
 理解するという行為と世界を構成するという行為は、同時に行われる。理性と意思がそうであるのと同じく。
 自己を解放する自我の実践的利益は、理性の理論的活動ともはや分離することができない。
 マルクスにとっても、理性は批判的な力だ。しかし、フィヒテの見方とは対照的に、その理性の強さの根源は道徳的意識にあるのではなく、その解放する活動が社会的な解放の過程と同時進行することにある。
 虚偽の意識を批判することは、同時に虚偽の意識が由来している社会的諸条件を廃棄するという実践的行為だ。
 かくして、マルクスの範型での啓蒙主義は、理性と利益の連結関係を明瞭に維持している。
 しかしながら、科学、技術および組織の進展でもって、この連環は破壊された。
 理性は、次第にその解放機能を喪失した。一方では、合理性はますます技術的効率性に限定され、たんなる組織上の手段以外の目標を提示していない。
 理性は道具的な性格をおび、物質的または社会的技術の廃止に役立つ意味発生機能を放棄している。
 啓蒙主義は、それ自体に反抗している。
 理性は人間の利益から自立しているという妄想は、実証主義の認識論のように、また価値判断から自由な科学的プログラムのように是認されており、そうして、解放機能を遂行することができなくなった。//
 (3)しかしながら、ハーバマスは、フランクフルト学派の他の者たちと同様に、ルカチの意味での、または実用主義の意味での「実践の優位」に関心はない。
 彼が関心をもつのは、技術とは異なるものとしての実践という観念への回帰だ。言い換えれば、実践的機能を意識した、かつ「外部から」課されたいかなる目的にも従属しないで何とかしてそれ自体の合理性によって社会的な目的を構成する、そのような理性の観念の回復だ。
 ハーバマスは、そのゆえに、実践的でかつ理論的な理性を統合することのできる知的な能力(faculty)を得ようとする。それは、目標の意味を見極めることができ、従って目的に関して中立であることができず、また中立ではないだろうからだ。//
 (4)しかしながら、ハーバマスの批判の最重要点は、そのような中立性は存在しなかったし、あり得なかったし、実際にも達成されないものだ、そして、実証主義者の基本的考え方や価値から自由だとする理論の考え方は自己破壊の段階での啓蒙主義の幻想だ、と主張することにある。
 フッサール(Fusserl)は、正当に、こう論じた。自然科学が既製の現実、未構成の事物それ自体だとして提示するいわゆる事実または客体は、実際には、始原的な、自発的に創造された<生界(Lebenswelt)>だ。また、全ての科学は、前思考的な(pre-reflective)理性から、多様な実践的な人間の利益に従う一連の形態を継受している、と。
 しかしながら、フッサールは、理論に関する、実践の後滓がないとする自分自身の考えがのちには実践的目的のために使われることはない、と想定している点で、間違っていた。
 なぜならば、理論が実践的目的をもつのだとかりにすれば、現象学はいかなる宇宙論(cosmology)も、いかなる普遍的秩序に関する観念も、前提とすることができないのだから。
 ハーバマスは、つづける。自然科学は、技術という利益を基礎にして形成されている。
 自然科学は、その内容は実践的考慮に影響されないという意味で中立的なのではない。
 自然科学がその貯蔵物として用意している素材は、世界に存在するがままの事実の反射物ではなく、実践的な技術活動の有効性を表現したものだ。
 歴史的解釈(historico-hermeneutic)学もまた、別の形態によってではあるが、実践的利益によって部分的には決定されている。つまり、この場合は、「利益」とは、意思疎通を改善するために、人間界での理解可能領域を維持し拡大することにある。
 理論的活動は、実践的な利益から逃れることはできない。すなわち、主体・客体関係は、それ自体が何がしかの程度の利益を包含していなければならない。そして、人間の知識のどれ一つとして、人類の歴史との関係を除外してしまえば知的(intelligible)なものではない。人類の歴史には、そうした実践的利益が結晶化しているのだ。
 全ての認識上の規準の有効性は、その認識を支配している利益に依存している。
 利益は、-労働、言語、権威という-三つの分野または「媒介物」で作動する。そして、利益のこれら三類型に、それぞれ、自然科学、歴史的解釈学、社会科学が対応する。
 しかしながら、自己省察または「省察に関する省察」を行えば、利益と認識は合致する。そして、「解放する理性」が形を成すのは、この分野でこそなのだ。
 かりに、理性と意思、あるいは目的決定と手段分析、が一致する地点を発見することができないとすれば、我々は、つぎのように咎められることになるだろう。すなわち、先ずは表向きは中立的な科学がある、と。次には目標に関して根本的に非合理的な決定をしている、と。この後者の場合に合理的でないとは決して批判することはできず、どの目標も同等程度のものであるにもかかわらず。//
 (5)ハーバマスは、マルクーゼ(Marcuse)のようには、科学を批判することまでは進まなかった。すなわち、現代科学のまさにその内容が、技術的応用とは反対に、反人間的な目的に奉仕しているとは、あるいは、現代の技術は本来的に破壊的なもので人間性の善のために用いることができず、異なる性格の技術に変えられなければならないとは、主張しない。
 このように語ることは、現存する科学と技術に代わる選択肢を提示することができてのみ、意味があるだろう。マルクーゼは、そうすることができない。
 全く同じように、科学と技術は、それらの応用という点でも完全に潔白であるのではない。これらが大衆の破壊と僭政体制の組織化のための武器になる場合のあることを考えるならば。
 重要なのは、現代の生産諸力と科学が現代の産業社会を政治的に正当化する要素になった、ということだ。
 「伝統的社会」は、世界に関する神話的、宗教的および形而上学的解釈にもとづく諸装置によって、正統化されていた。
 資本主義は、生産諸力の発展のための自己推進機構を作動させて、変化と革新の現象を制度化し、権威の正統化のための伝統的諸原理を投げ棄てた。そして、等価の商業的交換に対応する諸規範-社会的組織化の根拠としての相関性(mutuality)という規則-へと置き代えた。
 このようにして、所有関係は直接的に政治的な意味を失い、市場の法則が支配する生産関係になった。
 自然科学は、技術的応用の観点からその射程範囲を定義し始めた。
 同時に、資本主義の進展につれて、生産と交換の分野への国家介入がますます重要になり、その結果として、政治はたんなる「上部構造」の一部ではなくなった。
 国家の政治活動-公的生活の組織化を改善する純粋に技術的な手段だと見られたもの-は、同じ目的のために役立つと想定された科学や技術と融合する傾向をおびた。
 生産諸力と権力の正統化を区別する線は曖昧になった。このことは、生産機能と政治機能が明瞭に分離していたマルクスの時代の資本主義とは異なっている。
 かくして、土台と上部構造に関するマルクスの理論は、時代遅れになり始めた。同じことが、(科学の巨大な重要性を生産力の一つと考えた)マルクスの価値に関する理論についても言えた。
 科学と技術は、技術モデルにもとづく社会像や人々から政治的意識、つまり社会的目標に関する自覚、を剥奪する技術政的(technocratic)イデオロギーを生み出したという意味で、「イデオロギー的」機能をもった。それは、人間の全諸問題は技術的、組織的な性格のもので、科学の手段によって解決することができる、という意味を含むものだった。
 技術政的心性(mentality)は、暴力を行使しないで人々を操作することを容易にする。また、「物象化」へと進むさらなる一歩なのであって、それ自体は目標について何も語らない技術的活動と人間に特有の関係性の間の区別を曖昧にする。
 経済に対する強い影響力を国家諸制度がもつ状況では、社会的対立もまたその性格を変え、マルクスが理解したような階級対立とはますます遠ざかる。
 新しいイデオロギーはもはやたんなるイデオロギーではなく、技術的進歩のまさにその過程と溶け合ってしまう。
 それを見分けるのは困難になり、その結果として、イデオロギーと現実の社会的諸条件はもはや、マルクスがそうしたようには、区別することができない。//
 (6)生産諸力の増大は、それ自体が解放の効果をもつのではない。
 そうではなく反対に、その諸力の「イデオロギー化された」形態をとって、人々が自分たちを事物(things)だと理解するようにさせ、技術と実践の区別を抹消する傾向にある。-この実践という用語が意味するのは、行為主体がその目標を決定する自発的活動だ。//
 (7)マルクスの批判の目的は、人々は真に主体にならなければならないということ、換言すると、自分たち自身の生活を合理的かつ意識的に統御しなければならない、ということだった。
 しかし、社会生活による自主規制は実際的または技術的な問題のいずれかだと理解することができるかぎりで、この批判の意味するところは不明確だった。そして、技術的な問題の場合は、無生物の客体を技術的に扱うのに似た操作の過程だと考えることができた。
 こうして、物象化は無くなりはせず、さらに悪化した。
 他方で、真の解放は、全ての者が社会的諸現象の統御に能動的に関与することを意味する範疇である「実践」へと回帰することとなった。言い換えれば、人々は客体であってはならず、主体でなければならない。
 この目的を達成するためには、ハーバマスは考察するのだが、人間の意思交流(communication)や現存する権力システムに関する自由な討議の改善、および生活の脱政治化(de-politicization)に反対する闘いが存在しなければならない。//
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 ②へとつづく。

2029/L・コワコフスキ著第三巻第10章第6節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.383-p.387。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)②。
 (8)この数百年の間にヨーロッパで発展した資本主義社会は、人間存在にある巨大な創造的可能性を解き放った。しかし、強力な破壊的要素も生み出した。
 人間は、個人の威厳と責任を自覚するようになった。しかし、普遍的な競争と利害対立が支配する状況の中に置かれていることも知った。
 個人的な主導性は、生活上の決定的な要因になった。しかし、攻撃や利己的活用がますます重要になった。
 孤独と孤立の総量は、測り知れないものになった。他方で、社会的諸条件によって人々は、お互いを人間としてではなく事物だと見なすようになった。
 孤立しないようにする幻惑的で危険な対処法の一つは、ファシズムのような、非理性的で権威的なシステムに保護を求めることだった。//
 (9)フロムの見解では、彼のフロイト主義からの激しい離反には、マルクス主義の様相があった。なぜなら、人間関係を防衛的機構や本能的衝動ではなく歴史の用語で説明し、また、マルクスの思想と調和する価値判断を基礎にしているからだ。
 フロムによれば、〔マルクスの〕1844年草稿はマルクスの教理を基礎的に表示するものだった、
 彼は、その著作と<資本論>との間には本質的差違はない、と強く主張する(この点で、Daniel Bell と論争した)。しかし、のちの諸作では初期の文章の<精神(élan)>がいくぶんか失われた、と考える。
 フロムは強く主張する。主要な問題は疎外であって、それは人間の束縛、孤立、不幸および不運の全てを示している、と。
 全体主義的教理と共産主義体制は、彼によれば、マルクスの人間主義的見方と何の関係もない。マルクスの見方の主要な価値は、自発的な連帯、人間の創造力の拡張、束縛と非理性的権威からの自由、にある。//
 (10)マルクスの思想は、男女が人間性を喪失して商品に転化する、そのような条件に対する対抗だ。また、人間がかつてそうだったものに再び戻る能力、貧困からの自由だけではなくて創造力をも発展させる自由を獲得する能力、をもつことを強く信じていることを楽観的に表明したものだ。
 マルクスの歴史的唯物論を人間はつねに物質的利益によって行動することを意味すると解釈するのは、馬鹿げている。
 反対に、マルクスが考えたのは、たんにそのような利益を好むように環境が人間に強いるときには、人間はその本性を喪失する、ということだった。
 マルクスにとっての主要な問題は、どのようにして、依存という拘束から個々人を自由にし、もう一度友好的に一緒に生きていくのを可能にさせるか、だった。
 マルクスは、人間は永遠にその支配の及ばない非理性的諸力の玩弄物でなければならないとは考えなかった。
 反対に、自分の運命の主人になることができる、と主張した。
 かりに実際に人間の労働の疎外された産物が反人間的力に転化するとすれば、かりに人間が虚偽の意識と虚偽の必要性の虜になるならば、かりに(フロイトとマルクスは同じように考えたのだが)人間が自分自身の真の動機(motives)を理解しないならば、これらは全て、自然が永遠にそのように支配しているからでは全くない。
 反対に、競争、孤立、搾取および害意が支配する社会は、人間の本性とは矛盾している。人間の本性は-ヘーゲルやゲーテ(Goethe)と同じようにマルクスも考えたのだが-攻撃や受動的な適応にではなく、創造的な仕事と友愛のうちに真の満足を見出すのだ。
 マルクスは、人間が自然とのかつ人間相互間の統合を回復し、そうして主体と客体との懸隔を埋めることを望んだ。
 フロムはこの主題を1844年草稿からとくに強調し、マルクスはこの点で、ドイツの人間主義の全伝統や禅仏教と一致している、と観察する。
 マルクスはもちろん、貧困がなくなることを望んだ。しかし、消費が際限なく増大することを望みはしなかった。
 彼は人間の尊厳と自由に関心があったのだ。
 彼の社会主義は、人間が物質的要求を満足させるという問題ではなく、自分たちの個性が実現されて自然や相互間の調和が達成される、そのような諸条件を生み出す、という事柄だった。
 マルクスの主題は労働の疎外、労働過程での意味の喪失、人間存在の商品への変形だった。
 彼の見方では、資本主義の根本的な悪は、物品の不公正な配分ではなく、人類の頽廃、人間性の「本質」の破壊にあった。
 この退廃は労働者だけではなくて誰にも影響を与えており、従って、マルクスの人間解放の主張は普遍的なものであって、プロレタリアートだけに適用されるのではない。
 マルクスは、人間は自分たち自身の本性を理性的に理解することができ、そうすることでその本性と対立する虚偽の要求から自由になることができる、と考えた。
 人間は、歴史過程の範囲内で、超歴史的な淵源からの助力なくして、そのことを自分たちで行うことができる、と。
 マルクスは、こう主張して、ルネサンスや啓蒙主義のユートピア的思想家たちばかりではなく、千年王国的(chiliastic)宗派、ヘブライの予言者と、そしてトーマス〔・アキナス〕主義者とすらも、一致していた、とフロムは考える。//
 (11)フロムの見解によれば、人間解放の全ての問題は、「愛」という言葉で要約される。「愛」という語は、他者を手段ではなく目的だと見なすことを意味する。
 それはまた、個々人はそれ自身の創造性を放棄したり、他者の個性のうちに自分自身を喪失したりするということはないということも、意味する。
 攻撃性と受動性は、同じ退廃現象の両側面だ。そして、いずれも、順応意識のない仲間感情と攻撃性のない創造性にもとづく関係のシステムに置き代えられなければならない。//
 (12)この要約が示すように、フロムがマルクスを称賛するのは、マルクスの人間主義的見方に関する真の解釈に依拠している。しかし、にもかかわらず、それはきわめて選択的だ。
 フロムは、疎外の積極的な機能あるいは歴史上の悪の役割を考察しない。彼にとって、フォイエルバハにとってと同じく、疎外は単純に悪いものなのだ。
 さらに加えて、フロムがマルクスから採用するのは、「人間存在の全体」という基本的な思想、自然との再統合というユートピア、および個人の創造性によって助けられて妨げられることのない、人類間の完璧な連帯だ。
 彼はこのユートピアを称賛するが、それを生み出す方法を我々に教えるマルクスの教理の全ての部分を無視する。-つまり、国家、プロレタリアートおよび革命に関するマルクスの理論を。
 そうすることでフロムは、マルクス主義のうちの最も受容しやすくて最も対立が少ない諸点を選択した。なぜならば、誰もが全て、人間が良好な条件のもとで生きるべきでお互いの喉を切り裂き合ってはならないということ、そして窒息して抑圧されるよりも自由で創造的であることを好むということ、に合意するだろうからだ。
 要するに、フロムにとってのマルクス主義は、ありふれた一連の願望とほとんど変わらなかった。
 彼の分析からは、どのようにして人間は悪と疎外に支配されるに至ったのかが明瞭でなく、また、健全な傾向が結局は破壊的なそれを覆ってしまうという希望のどこに根拠があるのかも、明瞭ではない。
 フロムに見られる曖昧さは、ユートピア思想一般に典型的なものだ。
 他方で彼は、現にある人間の本性から彼の理想を導き出すことを宣明する。しかし、その本性は現在のところは実現されていない。-換言すると、他者と調和しながら生きて自分の個性を発展させることこそが人間の本当の運命なのだ。
 しかし他方で、「人間の本性」は規範的な観念であることにも彼は気づいている。
 明らかに、疎外(または人間の非人間化)という観念や虚偽の意識と本当の必要との間の区別は、かりにそれがたんなる恣意的な規範として表現されているのだとすれば、我々がたとえ「発展途上の」国家であっても経験から知る人間の本性に関する何らかの理論にもとづいていなければならない。
 しかし、フロムは、我々はどのようにして人間の本性が必要としているものを、例えばより多い連帯意識やより少ない攻撃性を、知るのか、について説明しはしない。
 人々が実際に連帯、愛、友情および自己犠牲の能力をもつというのは、正しい。しかし、そのことから、これらの諸性質を提示する者が対立者よりも「人間的」だという帰結が導かれるわけではない。
 人間の本性に関するフロムの説明は、かくして、記述的(descriptive)な観念と規範的(normative)な観念を曖昧に混合したものであることを示している。このことは、マルクスとその多数の支持者たちに同様に特徴的なものだ。//
 (13)フロムは、人間主義者としてのマルクスの思想を民衆に広げるべく多くのことを行った。そして、疑いなく正しく、人間の動機の「唯物論」理論と僭政主義への短絡という粗雑で原始的な解釈をマルクス主義について行うことに対抗した。
 しかし、彼は、マルクス主義と現代共産主義の関係について議論しなかった。たんに、共産主義的全体主義は1844年草稿と一致していない、と語っただけだった。
 かくして、フロムの描くマルクスの像はほとんど一面的で、彼が批判するマルクス主義をスターリニズムの青写真だとする見方と同様に単純だった。
 マルクス主義と禅仏教の間の先に定立されていた調和に関しては、自然との統合への回帰に関する草稿上の数少ない文章にのみもとづいていた。
 それは疑いなく、初期のマルクスの、全てのものの他の全てのものとの間の全体的かつ絶対的な調和とい黙示録的(apocalyptic)思想と合致していた。しかし、それをマルクス主義の諸教理の核心部分だと考えてしまうのは、行き過ぎだ。
 フロムが実際に保持するのは、彼がルソー(Rousseau)と共通していると考えるマルクスの教理の一部にすぎない。//
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 第7節の表題は、<批判理論(つづき)。ユルゲン・ハーバマス。>

2027/L・コワコフスキ著第三巻第10章第6節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.380-p.383。合冊版、p.1091-3。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)①。

 (1)エーリヒ・フロム(Erich Fromm)(1900年生れ)は、1932年以降はアメリカ合衆国で生活した。最初は正統派フロイト主義者だったが、Karen Horney やHarry Sullivan とともに、精神分析の「文化主義」学派の創立者としてまずは知られた。
 この学派はフロイト主義の伝統から大きく離れたので(同じ関心領域を共有したことを除く)、精神分析的人類学、文化の理論という最初の基礎をほとんど残さなかった。ノイローゼ(neurose)理論についてすら、これは言えた。
 フロムはフランクフルト学派の従兄弟だと見なすことができるかもしれない。社会研究所の一員で、<雑誌>に論文を発表したことだけがその理由ではなく、その著作の内容という観点からしてもだ。
 マルクスの物象化と疎外に関する分析はまだ有効で現代文明の根本的諸問題の解決にとって決定的に重要だという確信を、フランクフルトの仲間たちとともに抱いていた。
 他の仲間たちと同じく、プロレタリアートがもつ解放に対する役割についてはマルクスに同意しなかった。
 彼がとくに関心をもった疎外は、全ての社会階層に影響を与えている現象だった。
 しかしながら、アドルノの否定論や悲観主義にも共感しなかった。
 フロムは歴史的決定論への忠誠心を持たず、より良き社会秩序をもたらす歴史の発展法則に期待もしなかったけれども、人類には無限の潜在的能力があると強く信じていた。自然や人間相互からの疎外を克服し、友愛にもとづく社会秩序を確立することができる、そのような潜在的な力だ。
 アドルノとは異なり、人間の本性と調和した社会生活の概略を明確にすることは可能だと考えた。
 その書物が自負と傲慢さで溢れているアドルノとは再び異なり、フロムの著作は善意および友愛と協力に向かう人間の潜在性への信頼で充ちている。
おそらくはこの理由で、彼にはフロイト主義が受け容れ難かったのだろう。
 フロムは、我々の時代のフォイエルバハだと称し得るかもしれない。
 彼の書物は簡潔で、読みやすい。
 説教ぶった道徳的な意図は隠されていないけれども、その表現は平易で率直だ。
 直接の主題が何であれ-性格理論、禅・仏教、マルクスあるいはフロイト-、全てが批判的で建設的な思考が語られている。
 著書の表題を見ると、とりわけ、<自由からの逃亡>(1941年)、<自分自身のための人間>(1947年)、<健全な社会>(1955年)、<禅仏教と精神分析>(鈴木大拙、R. de Martinoと共著)、<マルクスの人間観念>(1961年)がある。//
 (2)フロムは、無意識に関するフロイト理論はきわめて豊かな研究分野を切り開いたと考えた。しかし、性的衝動(リビドー, libido)と文化のもつ純然たる抑圧機能にもとづく人類学理論を、ほとんど完全に拒否した。
 フロイトは、人間個人を不可避的に他者と対立する本能的衝動によって定義することができる、と考えた。個人はその本性上反社会的だが、社会は個人にその本能的欲求を制限し抑制する代わりに安全確保の手段を提供する。
 充たされない欲求は他の社会的に許容された領域に流れ込み、文化活動に昇華する。
 しかしながら、文化と社会生活は、破壊されることのない衝動を監視しつづけ、充たされない欲求の代用品として創出された文化作品は、諸衝動がさらに大きくなるのを抑制する。
 世界での人間の地位は、自分の自然の願望を充足させるのは文化の破滅であって人間種の破壊を意味するだろうので、希望なきものだ。
 本能と人間存在にとって必要な共同生活の間の矛盾は、決して解消することができない。神経症になることに絶えず追い込んでいる複合的な諸原因も、解消されない。
 創造的諸活動の形態による昇華はたんなる代用にすぎない。さらには、少数の者のみがそれを行うことができる。
 (3)こうした議論に対して、フロムは答える。
 フロイトの教理は、特定の限定された歴史的経験を不当に普遍化するものだ。さらには、人間の本性に関する誤った理論にもとづいている。
 自己のための充足とその結果としての他者への敵対にもっぱら向かう、その本能的な欲求の総量によって個々人を定義することができる、というのは通例のことではない。
 フロイトは、ある人間が他人に何かを与えれば自分がもち続けた可能性のある富の一片を失うがごとく、語る。
 しかし、愛と友情は、豊かにするものであって、犠牲ではない。
 フロイトの見方は、諸個人の利益を相互に対立し合わせた特定の歴史的条件を反映したものだ。
 だが、それは一つの歴史的局面であって、人間の本性の必然的な効果ではない。
 エゴイズムと自己中心主義(egocentricity)は、個々人の利益にとって防衛的なものではなく、破壊的なものだ。そして、これらは、自己愛からではなくてむしろ、自己憎悪(self-hatred)から発生する。//
 (4)フロムは、人間は確実に永続的な本能をもつこと、その意味で不変の人間の本性があること、を認める。
 彼はつぎのようにすら考える。人類学的に恒常的なものなどは存在しないとする逆の考え方は危険だ。なぜならば、人間は際限なく塑形可能で、いかなる条件にも適合することができると想定しているのであって、その結果として、適切に組織されるならば隷従制が永遠に続いてしまうことになる、と。
 人々が現存する条件に反抗するということは、人々は際限なく適応可能ではないことを示している。これは、楽観論の根拠だ。
 しかし、大切なことは、いずれの人間の特性が実際に恒常的であり、いずれが歴史の問題なのかを、確定することだ。
 ここでフロイトは、資本主義文明の影響をヒトという種の普遍の特性だと見誤ることによって、間違った。//
 (5)フロムは、つづける。一般的に言って、人間の欲求は個人的な充足に限定されはしない。
 人々は、自然との、そしてお互いの間の連環(link)を必要としている。-その連環は何であってもよいというのではなく、目的意識と共同体への帰属意識を与えてくれるような連環だ。
 人々には、愛と理解が必要だ。孤立して、接触を奪われれば苦しむ。
 人間はまた、自分の能力を十分に活用することのできる社会的条件を必要とする。すなわち、人間は、諸条件や危険性に何とか対処するためにではなく、創造的な仕事をするために生まれたのだ。//
 (6)この理由で、ヒトという種の発展あるいは人間の自己創造は、特定の諸傾向との闘いの歴史だった。
 人間が自然秩序から解放されて真の人間になって以降ですら、安全確保と創造性を求める欲求は、しばしば対立し合ってきた。
 我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。
 従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。
 これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。
 逃亡のもう一つの形態は、憎悪だ。人間はそれで、盲目的破壊によって自分の孤立を克服しようとする。//
 (7)フロムは、このような諸観点に立って、フロイトとは異なって心理のタイプまたは志向性を区別する。社会的条件や家族関係の用語でもって説明し、たんにリビドーの寄与分によってではない点で、フロイトと異なる。さらには、フロムはフロイトと違って、明瞭に善か悪かを分類する。
 性格が形成されるのは、幼児の時期からで、その子どもの環境およびその子が出くわす制裁と褒賞のシステムによってだ。
 「受容(receptive)」型の特徴は、応諾、楽観および受動的な博愛心だ。
 この性格の人々は、適応力があるが、創造力に欠けている。
 「利用(exploitative)」型は、これと反対に、攻撃的で嫉妬深く、他者をたんに自分の利得のための源泉として扱う傾向がある。
 「蓄積(hoarding))型は、積極的攻撃心はより小さく、敵対的猜疑心はより大きい。
  この性格の人々は、吝嗇で、自己中心的で、不毛な潔癖さに傾きがちだ。
 もう一つの非生産的な型は「市場(marketing)」志向で、支配的な様式や習俗に適合することで満足を得る。
 他方で、創造的(creative)な性格は、攻撃的でも適合的でもなく、自発性のある親切心と順応主義ではない方法でもって、他者との接触を追求する。
 この性格は全ての最良部分を集めたものだ。その非順応性は攻撃性へと退廃化することはないし、その協力を願う気持ちや愛への包容力は受動的な適応性に落ち込むこともない。
 これらの異なる諸性格は、従前にフロイト主義者、とくにAbraham が作成した分類に対応している。しかし、それらの原因に関するフロムの説明は、幼児期の継続的な性的固着性(fixation)ではなく、家庭環境と社会で通用力をもつ諸価値が果たす役割を強調する。//
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 ②へとつづく。

2026/池田信夫のブログ012-小堀桂一郎。

 小堀桂一郎、1933~。日本会議副会長。
 櫻井よしこや江崎道朗等々は「日本」やその歴史を、聖徳太子も含めて、語る。
 その場合に、参考文献として明記していなくとも、日本会議の要職にずっとある小堀桂一郎の書物を読んでいないはずはない、と想定している。
 櫻井よしこは日本会議現会長の田久保忠衛について、「日本会議会長」とも「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の(櫻井と並ぶ)「共同代表」とも明記せず、平然と「外交評論家の田久保忠衛氏は…」とか「田久保忠衛氏(杏林大学名誉教授)は…」とかと書いて頻繁に(週刊新潮等で)言及している。
 このような「欺瞞」ぶりだから、日本会議の「設立宣言」や「設立趣意書」、あるいは日本会議の要職者・役員が執筆した文献を文字どおりに<座右に>置いて文章を「加工作成」しつつも、本当の参照文献としてそれらを明示することはない、ということは当然に容易に推測できることだ。
 このことは、例えば聖徳太子についての、元日本会議専任研究員の江崎道朗の文章についても言えるだろう。
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 池田信夫ブログマガジン2017年10月30日号「皇国史観の心情倫理」。
 小堀桂一郎・和辻哲郎と昭和の悲劇(PHP新書、2017)に、つぎのように論及している。
 ・「右翼にも心情倫理がある」。小堀桂一郎は「それを語り継ぐ数少ない戦中世代だが、その中核にあるのは皇国史観」だ。
 ・<皇室のご先祖である初代の神武天皇>から説き起こす歴史は「学問的には問題外」だ。だが、「心情としては理解できる」。
 ・小堀は和辻哲郎の考え方(の一端)を「敷衍」して、「『万世一系』の天皇家が続いていること自体が正統性の根拠だという考え方が、日本人の自然な歴史認識だという」。
 「このような美意識」は戦前の「立憲主義」で、「天皇中心の憲法を守るという意味」だが、これは「明らかに明治以降の制度であり、日本の伝統ではない」。
 ・小堀は和辻を「援用」して、「明治憲法は鎌倉時代までの天皇中心の『国体』に戻った」、鎌倉「幕府」以降の「700年近く、日本の伝統が失われてきた」とする。
 「これは歴史学的にも無理がある」。「万世一系というのも幻想にすぎない」。
 ・「明治の日本人を統合したのが天皇への敬意だったという心情倫理は、その通りだろう」。和辻のいう「集合的無意識」のようなものだったかもしれない。
 以上。
 上に出てくる「心情倫理」は丸山真男が「責任倫理」とともに使った語のようで、池田のいう「心情としては理解できる」という文章も、厳密には「心情倫理」概念にかかわってくるのだろう。
 上の点はともかく、ここでも感じさせられるのは、「歴史学」という「学問」または広く「人文社会科学」ないし「科学」と、上に出てきた言葉を借りれば「心情」・「美意識」の違いだ。あるいは、<歴史>や<伝統>に関する「学問」と「物語」・「叙情詩」・「思い込み」の違いだ。
 小堀桂一郎もむろんそうだろうが、長谷川三千子も櫻井よしこも、もちろん江崎道朗も、「学問」として日本の<歴史>や<伝統>を追求するのではなく、<物語・お話>として美しくかつ単純に「観念」上(自分なりに)構成できればそれでよい、と考えているように見える。
 人文社会科学の「学問」性・「科学」性あるいは歴史叙述に際しての「主観」的と「客観」的の区別などは、おそらくどうでもよいのだろう。
 日本の<歴史>や<伝統>に関して、賀茂真淵でも本居宣長でも和辻哲郎等の誰でもよいが「先人」・「先哲」の文献・文章を重要な<手がかり>として理解しようとしても、それは、その各人の観念の中にあった、やはり<観念世界>なのであって、<観念の歴史>の研究にはなるかもしれないが、<歴史>そのものの研究にはならない。
 <観念の歴史>の研究が無意味だとは、全く考えていない。
 「神」・「神道」意識も「天皇」意識も、あるいは日本での又は日本人の「怨霊」・「魔界」意識等々にも、おそらくは強い関心をもっている。
 「意識」・「観念」が現実を変えてきた側面があったことも、認めよう。
 だが、「日本の神々」・「天皇」等々が独り歩きして現実の日本を作ってきたような歴史観をもつのは、あるいは<本来の、正しい>歴史がある時期に喪失したとか回復したとか論じるのは、観念・意識と「現実」の区別を(無意識にせよ)曖昧にしがちな、ひどく「文学」的、あるいは「文学部」的な発想だ。
 なお、池田信夫ブログマガジンの上の2017年の号には、①「スターリン批判を批判した丸山真男」、L・コワコフスキの大著に紹介・論及する②「マルクス主義はなぜ成功したのか」もあって、なかなか密度が濃い。

2025/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.376-p.380.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判②。
 (8)一般的に言って著者たちの「啓蒙」概念は風変わりで、彼らが嫌悪する全てのものを非歴史的に構成した混合物だ。実証主義、論理、演繹と経験科学、資本主義、貨幣の権力、大衆文化、リベラリズム、およびファシズム。
 彼らの文化についての批判は-商業化された芸術の有害さについてそれ以来常識的なものになってきた正しい観察は別として-、文化の享受がエリートたちに留保されてきた時代への郷愁に満ちている。つまりそれは、大衆に対する封建的軽侮の気分をもつ、「ふつうの人間の時代」に対する攻撃だ。
 大衆社会は前世紀に、多様な地域から攻撃された。とりわけ、Tocqueville、Renan、Burkhardt およびNietzsche によって。
 ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を労働の分化、「物象化」および交換価値の支配のうちに感知することだ。
 しかしながら、彼らは、マルクスよりもさらに進んだ。彼らによれば、啓蒙主義の原罪は、人間を自然から切り離し、自然をたんなる利用の対象だとして扱い、その結果として、人間が自然秩序と同質化され、それと同じように人間が利用されている、ということにある。
 このような過程は、性質ではなく量的に表現することができるもののみにに関心を持ち、技術的目的に役立つようにした、科学にあるイデオロギーの反映だ。//
 (9)こう理解することのできる攻撃は、本質的にはロマン派的伝統のうちにある。
 しかし、著者たちは、頽廃状態から脱するいかなる方法も提示しない。どうすれば再び自然と親しい友人になることができるかを、あるいはどうすれば交換価値を排除して貨幣や計算なしで生活することができるかを、語らない。
 彼らが提示しなければならない唯一の解決策は、理論的な推論だ。そして、我々は、彼らがその主要な長所だと想定しているのは論理と数学による僭政からの解放なのではないか、と推察できるかもしれない(彼らは、論理は諸個人に対する侮蔑を意味する、と語る)。//
 (10)つぎのことは注目に値する。すなわち、社会主義者は資本主義は貧困を生み出すと公式には非難するけれども、フランクフルト学派がもつ主要な不満は、資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ、そうして文化の高次の(higher)形態にとって有害だ、ということにある。//
 (11)<啓蒙の弁証法>は、現代哲学に対するマルクーゼ(Marcuse)ののちの攻撃の全ての要素を含んでいる。価値の世界に関する実証主義的「中立主義」を主張し、人間の知識は「事実」によって統御されなければならないと強調することによって、全体主義に味方している、とする攻撃だ。
 この奇妙な反理(paralogism)は、経験的で論理的な規準の遵守を現状<status quo>への忠誠やあらゆる挑戦の峻拒と同一視するもので、フランクフルト学派の諸著作に繰り返して何度も現れる。
 かりにその想定する実証主義と社会的保守主義または全体主義(この著者たちはこの二つを同一のものだと見なす!)の間の連結関係を歴史に照らして検討するならば、明らかになってくる証拠は全く異なっている。すなわち、実証主義者たちはヒューム(Hume)以降、リベラルな伝統との親愛関係に入ったのだ。
 明らかに、上の両者の間には論理的関係はない。
 かりに科学的観察がその客体に対する「中立」性を保ち評価を抑制することが<現状>を擁護するということを意味するとすれば、精神病理学的観察は疾病の肯定を意味すると、そしてその疾病と闘ってはならないと、我々は主張しなければならなくなるはずだろう。
 医学と社会科学との間に重要な違いがあることは、認めよう(この論脈でのフランクフルト学派の者たちの論述は人間の知識の全てに当てはまるのだけれども)。
 社会科学では、観察それ自体が、それが社会の像全体を含めて行われるかぎり、主観性をもつ事柄(subject-matter)の一部だ。
 しかし、だからと言って、できる限り価値判断を抑制している科学者は社会的固定主義または社会順応主義者の代理人だ、ということになるわけではない。その科学者はそうであるかもしれないが、そうでないかもしれない。
 そうではなくて、科学者の観察が「外部的」だとか中立的だということからは、何も推論することはできない。
 一方でかりに、観察者が見方について何らかの実践的関心をもつという意味でのみならず、自分の認識活動を一定の社会的実践の一部だと見なしているという意味で「関係して」いても、その科学者は、多かれ少なかれ、特定の関心には通用力のあると見えるものは何であっても、真実だと理解するよう余儀なくされている。特定の関心とは、自分が一体化する、換言すれば発生論的で実用主義的な真実の規準を用いるような関心だ。
 かりに上の原理が適用されるならば、我々が知るような科学は消失し、政治的なプロパガンダに置き代えられてしまうだろう。
 疑いなく、多様な政治的利益と選好は、多様なかたちで社会科学に反映される。
 しかし、これを最小化するのではなくそうした影響を一般化しようとする規準的考え方は、科学を政治の道具に変えてしまうだろう。全体主義諸国家の社会科学について生じたように。
 理論的な観察と討議は、その自律性を完全に喪失するだろう。これは、別の箇所に示されているような、フランクフルト学派の執筆者たちが望んでいるだろうこととは反対のことだ。//
 (12)科学的な観察それ自体は目的(aims)を生み出さない、ということも本当のことだ。
 一定の言明または仮定が科学の一部になる条件を記述する規準の中に、すでに何らかの価値判断が暗黙に示されているとしてすら、このことは言える。
 科学的手続という神聖な規範は、もちろん、探求者が実際的な目的に役立つ何かを発見しようと欲していることによって、あるいは、彼の関心が何らかの実際的関係によって喚起されているということによって、侵害されることはない。
 しかし、事実と価値の二元論を「克服する」というふりをしつつ(多数のマルクス主義者と同じくフランクフルト学派の執筆者たちは絶えずこれを克服していると自負した)、科学の真実がそれが何であれ何らかの利益に従属しているならば、その規範は侵害されている。
これが単直に意味するのは、科学者が自分自身と一体化する利益に適合するものは何であっても正しい(right)、ということだ。//
 (13)経験的観察の規準は、中世遅くから以降のヨーロッパの精神世界で、数世紀の間に進化してきた。
 そうした発展は何がしかの程度で市場経済の広がりと結びついていた、ということは、確実には証明されていないけれども、あり得る。
 他のほとんどの主題と同様にこれにもとづいて、「批判理論」の支持者たちは、歴史的分析を欠いた、剥き出しの主張のみを行う。
 実際に歴史的な連結関係があるならば、そうした経験的観察規準は「商品フェティシズム」の道具であって資本主義の拠り所だ、ということにはまだ決してならないだろう。
 このような前提は全て、実際には本当に馬鹿げたものだ。
 我々がいま考察している執筆者たちは、ともかくも潜在的には、人間の本性からの需要を充足させる何らかの科学上のもう一つの選択肢がある、と考えたように見える。
 しかし、彼らはそれに関しては、何も語ることができない。
 彼らの「批判理論」は実際のところ、理論には誰も否定しようとはしない大きな重要性があるというだけの一般的言明にすぎない。あるいは、思考でもって「超越する」よう我々を誘導しようとする、そのような現存する社会に対する批判的態度のための釈明物と大した変わりがない。
 しかしながら、超越せよとの命令は、どの方向へと現存秩序は超越されるべきなのかを彼らが語ることができないかぎりは、無意味だ。
 この観点からすれば、すでに記述したように、正統派マルクス主義にはもっと独自性がある。正統派マルクス主義は少なくとも、いったん生産手段が公的に所有され、共産主義政党が権力を掌握するならば、わずかに若干の技術的な問題だけが普遍的な自由と幸福の前に立ちはだかるだろう、と主張しているのだから。
 このようなマルクス主義者による保障は、経験によって完璧に否定されている。しかし、我々は少なくとも、彼らが何を言いたいかがが分かる。//
 (14)フランクフルト学派の<啓蒙の弁証法>その他の書物は、産業社会での芸術の商業化や文化的産物の市場への依存という弱さに関して、多数の健全な指摘を含んでいる。
 しかし、著者たちがこのことが芸術全体や人々開かれた芸術の享受一般を頽廃させると主張するとき、彼らはきわめて疑わしい根拠しか持っていない。
 かりに主張がそのとおりだとすれば、例えば、18世紀のカントリー・フォークはある程度の高次の文化形態をもったが、資本主義が徐々にその形態を奪い、粗野で大量生産の対象物と娯楽へと変化させた、ということを意味するだろう。
 しかしながら、18世紀の田舎者たちが、現在の労働者たちがテレヴィジョンから提供される以上に、教会の儀式、民衆スポーツや舞踊のかたちで高次の文化形態を享受していた、というのは明瞭ではない。
 いわゆる「高次の」文化は消失していないが、かつて以上に、比べものにならないほどに入手しやすくなった。20世紀の劇的で形式的な変化を交換価値の支配によって全て説明することができる、と論じるのは、きわめて納得し難い。//
 (15)アドルノはその多数の書物で芸術の頽廃に言及し、現在の状況には希望がないと考えているように思える。つまり、芸術を再活性化してその適切な機能を果たさせることのできる力の淵源は存在していない、と考えているようだ。
 他方で、「肯定的」芸術があり、現在の状況を受け入れて、混沌しかないところに調和を見出すふりをしている(例えば、Stravinsky)。
 また一方には、抵抗する試みもあるが、現実世界に根ざしていないので、非凡な者たち(例えば、Schönberg)ですら現実逃避に走り、自分たち自身の芸術素材の自己満足的王国に閉じこもっている。
<アヴァン・ギャルド>運動は否定の運動だが、さしあたりは少なくとも、それ以上の何も生み出すことができない。
 それが我々の時代の本当のことだと言うのならば、大衆文化や偽の「肯定的」芸術とは違って、文化の破産を表現する、か弱くて気の滅入る真実なのだ。
 アドルノの文化理論の最後の言葉は、明らかに、我々は異議を申し立てなければならない、だがその申し立ては無駄になるだろう、というものだ。
 我々は過去の諸価値を取り戻すことができない。現在の諸価値は堕落して野蛮だ。そして、未来は何も与えてくれない。
 我々に残されているのは、全体的に否定する素振りをすることだけだ。そのまさに全体性によって、内容が剥奪される。//
 (16)これまで述べたことがアドルノの著作についての適切な説明であるならば、我々はそれをマルクスの思想を継承したものと見なすことはできない、というばかりではない。
 アドルノは、その悲観主義という動機でもって、マルクスと真反対に対立している。
 明確なユートピア像を描くのに失敗して、人間の条件に対する最終的な反応は、言葉にならないほどの嘆き声(inarticulate cry)でのみあり得るだろう。
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 第6節の表題は、<エーリヒ・フロム(Erich Fromm)>。

2023/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.372-p.376.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判①。

 (1)ホルクハイマーとアドルノの<啓蒙の弁証法>(Dialectic of Enlightenment)はばらばらでまとまりのない考察から成っているが、一種のシステムに還元することのできる若干の基礎的な思想を含んでいる。
 この書物は第二次大戦の末期に書かれ、ナツィズムの問題を中心にしている。著者たちの見方では、ナツィズムはたんなる悪魔的奇形物ではなく、人類が落ち込んでいる普遍的な野蛮状態を劇的に表現するものだった。
 彼らは、この頽廃状態の原因をまさに同一の価値、理想が恒常的に機能したことに求めた。また、人類をかつて野蛮さから脱出させた、「啓蒙主義」(enlightenment)という概念で要約される規準のそれにも。
 彼らはこれによって、この概念が通常は用いられる18世紀に特有の運動を意味させなかった。そうではなく、「人間の恐怖からの解放と人間の主権性の確立を意図する…進歩的思考という一般的意味」で用いた(<啓蒙の弁証法>p.3.)。
 「弁証法」は、ここではつぎのことに存した。すなわち、自然を制圧して神話の足枷から理性を解放する運動は、その内在的な論理によって、その反対物に転化する、ということ。
 それは実証主義、実用主義および功利主義のイデオロギーを生み、世界を純粋に量的な側面にのみ帰することによって意味を絶滅させ、芸術と科学を野蛮化させ、人類をますます「商品フェティシズム」に従属させてきた。
 <啓蒙の弁証法>は、歴史に関する論述書ではなく、多様な形態での「啓蒙的」理想の失墜を証明するための、手当たり次第に集められたかつ説明のない諸例の収集物だ。
 啓蒙主義に関する若干の序論的論及のあと、この書物には、オデッセイ、マルキ・ド・サド、娯楽産業および反ユダヤ主義に関する諸章が続いている。
 (2)啓蒙主義は世界にある神秘的なものからの人間の解放を追求し、神秘的なものは存在しないと宣言したにすぎない。
 それは、人間が自然を支配することを可能にする知識の形態を追い求め、そのために知識から意味を剥奪し、実質、性質、因果律といった観念を投げ棄て、事物を弄ぶという目的に役立つかもしれないもののみを維持した。
 啓蒙主義は、知識と文化の全体を統合し、全ての性質を共通の測量基準に貶めることを意図した。 
 そうして、その責任によって、科学に対する数学的基準の賦課や交換価値にもとづく経済、すなわち全種類の商品の抽象的な労働時間の総量への変形、の創出が生じた。
 自然に対する支配の増大は自然からの疎外を意味した。そして同様に、人間存在に対する支配の増大を意味した。
 啓蒙主義が生んだ知識の理論は、事物を支配しているかぎりで我々はその事物を知る、このことは物理の世界と社会の世界のいずれについてもあてはまる、ということを意味した。
 啓蒙主義が意味したのはまた、現実はそれ自体では意味を持たず、主体によってのみその意味を取り出すことができる、そして同時に、主体と客体は互いに完全に別々のものだ、ということだった。
 科学は、現実が生じる原因を-まるで神話的思考を掌る「反復の原理」を模倣するがごとく-一度ならず頻繁に発生する可能性をもつものに帰する。
 科学は、範疇のシステムの内部に世界を包み込み、個々の事物と人間を抽象物に転化させ、そうして全体主義のイデオロギー上の基礎を産み出す。
 思考の抽象性は、人間による人間の支配と手を携えて歩んだ。
「散漫な論理、観念領域での支配、が発展させた思想の普遍性は、現実的な支配にもとづいて打ち立てられている」(p.14.)。
 啓蒙主義はその発展形態では、全ての客体は自己認識できる(self-identical)と考える。 ある事物がまだそれではないものの可能性があるとの考えは、神話の痕跡だとして却下される。
 (3)世界を単一の観念システムで、そして生来の演繹的思考で包み込もうとする強い意欲は、啓蒙主義の最も有害な側面であり、自由に対する脅威だ。
 「なぜならば、啓蒙主義は他のシステムと同じく全体主義的(totalitarian)だからだ。
 それが真実ではないことは、ロマン派の対敵たちがつねに非難してきた点にあるのではない。分析的方法、要素への回帰、反射的思考による解体。
 そうではなく、啓蒙主義にとっては最初から過程(<Prozess>)がつねに決まっているということにある。
 数学的過程では未知のものがある等号上の未知の量になるとき、何らかの価値が差し挿まれる前ですら、そのことは未知のものをよく知られたものにしてしまう。
 自然は、量子論の前も後も、数学的に把握することができるものだ。<中略>
 全体として把握されかつ数式化された世界を予期されるように真実と同一視して、啓蒙主義は、神話に回帰することに対抗して身を守ろうと意図する。
 啓蒙主義は、思考と数学を混同している。<中略>
 思考はそれ自体を客観化して、自動的な、自己活性力のある(self-activating)過程になる。<中略>
 数学的過程は、いわば、思考の儀礼になる。<中略> そして、思考を事物、道具に変える。」
 (<啓蒙の弁証法>,p.24-p.25.)
 要するに、啓蒙主義は、新しいものを把握するつもりがないし、そうすることもできない。
 現在にあり、すでに知られているものについてのみ関心をもつ。
 しかし、啓蒙主義の思考規準とは反対に、思考とは、感知、分類および計算という実体のものではない。
 思考は、「連続的な即時物のそれぞれを決定的に否定すること」にある(<そのつどの即時的なものの明確な否定〔独語-試訳者〕>)(同上、p.27.)。-これを換言すれば、推察するに、存在するものを超えて存在する可能性があるものへと進むことに、ある。
 啓蒙主義は、世界を同義反復のものに変える。そうして、もともと破壊しようとしていた神話へと転換させる。
 思考を抽象的「システム」に編成されなければならない「事実」に関するものに限定することによって、啓蒙主義は現在あるものを、つまりは社会的不公正を、神聖化する。
 産業主義は人間的主体を「物象化」し、商品フェティシズムが全ての生活分野を覆っている。//
 (4)啓蒙主義の合理主義は、自然に対する人間の力を増大させる一方で、一定の人間の他者に対する力をも増大させた。そしてさらには、その有用性を長続きさせてきた。
 悪の根源は労働の分割で、それに伴った人間の自然からの疎外だった。
 支配することが思考の一つの目的になった。そして思考それ自体は、そのことによって破壊された。
 社会主義は、自然を完全に外部のものと見なすブルジョア的思考様式を採用し、それを全体主義的なものにした。
 このようにして、啓蒙主義は自殺的行路へと乗り出した。そして、救済の唯一の希望は、理論のうちにあるように見える。すなわち、「真の革命的実践<独語略-試訳者>は、社会が思考に対して許容する無意識状態(<Bewusstlosigkeit>)を物ともしない非妥協性にかかっている」(p.41)という考え方。//
 (5)<啓蒙の弁証法>によれば、オデッセイ伝説は、正確には完全に社会化されるがゆえに個人が孤立することの原型または象徴だ。
 主人公は自分を「Noman」と称することでCyclops から逃げ出す。すなわち、自分を殺すことで、その存在を維持する。
 著者たちは述べるのだが、「こうした死への言葉上の適応は、現代数学の図式を包含している」(p.60.)。
 一般的に言って、この伝説が示すのは、人間が自分自身を肯定しようとする文明は自己否定と抑圧によってのみ可能なものになる、ということだ。
 かくして、弁証法は、啓蒙主義のうちにフロイト主義の側面を持つようになる。//
 (6)18世紀の啓蒙主義の完全な縮図は、マルキ・ド・サド(the marquis de Sade)だった。この人物は、支配のイデオロギーを最高度の論理的帰結とした。
 啓蒙主義は人間を、抽象的「システム」の中にある反復可能で代替可能な(それによって「物象化」された)要素だとして扱う。これはまた、Sade の生き方が意味するところだ。
 啓蒙主義哲学のうちに潜在している全体主義思想は、人間の特性を交換可能な商品と同質化させる。
 理性と感情は、非人格的な次元にまでと貶められる。
合理主義的計画化は、全体主義のテロルへと退廃する。
 道徳性は、弱者が強者に対して自らを守るために、弱者によって策略(manoeuvre)だとして嘲弄され、侮蔑される(これはニーチェが予想したことだ)。
 伝統的価値は、理性と反目している、幻想だ、と宣告される。これは、デカルト(Descarte)による延長された実在と思考する実在への人間の二分にすでに暗示されている見方だ。//
 (7)理性、感情、主体性、性質および自然自体を数学、論理および交換価値という罪深い結合でもって破壊することは、文化の頽廃のうちにとくに看取される。その甚だしい例は、現代娯楽産業だ。
 商業的価値が支配する単一のシステムは、大衆文化の全ての分野を奪取してきた。
 全てのものが、資本の力を永続化することに奉仕している。-労働者が公平で高い生活水準を達成したり、人々が清潔な住居を見出すことができる、といったことですら。
 大量に生み出される文化は、創造性を殺している。
 そのことはそれへの需要によって正当化されはしない。需要それ自体が、システムの一部なのだから。
 ある時期のドイツでは、国家は少なくとも市場の作用に対する高度の文化形態を保護した。しかし、その時代は過ぎ去り、芸術家たちは消費者の奴隷になっている。
 目新しいもの(novelty)は呪いの対象だ。
 芸術作品の製作も享受も、あらかじめ計画されている。芸術が市場競争を生き延びるためには、そうされなければならないかのごとくに。
 このようにして芸術それ自体が、それがもつ生来の機能とは逆に、個人性を破壊したり、人間存在を個性を欠く画一的なもの(stereotype)へと変化させるのに、役立っている。
 著者たちは、慨嘆する。芸術はきわめて安価で入手しやすいものになった、その不可避性が意味するのは、芸術の頽廃だ、と。//
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 ②へとつづく。

2022/茂木健一郎・生きて死ぬ私(1998年)。

 茂木健一郎・生きて死ぬ私(徳間書店・1998年/ちくま文庫・2006年)
 全て読了した。文庫版で計223頁(文庫版あとがきを除く)。
 著者が33歳のときに、原書は出版されたらしい。原書の編集者は石井健資、文庫の担当編集者は増田健史。
 きわめて失礼ながら、現在70歳を超えていると思われる櫻井よしこの書物・文章や60歳近い江崎道朗の書物や文章よりも、はるかに面白い。むしろ、比較という対象・次元の問題にならない。
 面白い、というだけでは適切ではなく、「論理」があり「筋」がある。
 「論理」、「筋」や「基調」がある、というだけでは適切ではなく、ヒト・人間(そして歴史・社会)の<本質>に迫ろうとする<深さ>があり<洞察>があるだろう。
 櫻井よしこや江崎道朗等々の「作文」・「レポート」類のひどさ(・無惨さ)についてはこれからも触れる。要するにこの人たちは、例えば、「観念」・「言葉」と「現実」(・その総体としての「歴史」)の関係についての基礎的な教養に全く欠けているのだ。江崎道朗については、基礎的な<論理展開力>すらないことが歴然としている。
 ***
 脳科学者に近いところにいなくとも、専門書ではないので、現在の私には、相当に理解できる。しかし、33歳くらいのときであれば、知っても書名に関心を持たないことから、間違いなく、読もうとすらしなかっただろう。
 人文社会科学と脳科学・精神科学・生物学等に重なるところがあることは、すでに知っている。
 だからこそ、例えば、福岡伸一や養老孟司の本も捲ってきたし、池田信夫ブログの<進化・淘汰>・<遺伝>等に関する文章にも関心を持ってきた。
 「人間の心は、脳内現象にすぎない」。
 「脳内現象である人間の心とは、いったい何なのか?」
 「物質である脳に、どうして心という精神現象が宿るのか?」
 上の問いは「人間とは何か?」という「普遍的な問い」に「脳科学者として切り込んでいく」ことを意味する。
 以上はp.23までに出てくる。
 目次のうち章名だけをそのまま書き写すと、つぎのとおり。
 第一章/人生のすべては、脳の中にある
 第二章/存在と時間
 第三章/オルタード・ステイツ
 第四章/もの言わぬものへの思い
 第五章/救済と癒し
 第六章/素晴らしすぎるからといって
 以上
 下記を除いて、要約・引用等を避ける。
 要するに、ヒト・人間、こころ・精神・意識・「質感」、物質・外部、世俗・宗教、生・死等々に関係している。
 L・コワコフスキの哲学・マルクス主義等に関する書にしばしば「観念」・「意識」とか「外部」・「客体」、「主体」・「主観」等が出てくる。唯物論・観念論の対立らしきものも、勿論関係する。
 上の目次の中にある「存在と時間」はM・ハイデガーの主著の表題と同じ。「存在と無」はJ=P・サルトルの代表的書物のタイトルだ。
 「ある」、「現に存在している」とは、あるいはそのことを「感知する」・「認識する」(理解・把握等々…)とはそもそも、いったいいかなる意味のものなのか?
 あるいは「知覚」し、「認識」・「理解」・「把握」等々をするヒト・人間とは、そして究極的にはその一部である「私」・「自己」とは、いったい何なのか?
 ****
 面白いと感じた<論理展開>を一つだけ紹介しておこう。p.197あたり以降。
 ・「神が本当にいる」のなら、なぜ神は、現世の「社会的不正」、「暴力や矛盾」等を放置し、「沈黙しているのか」?
 ・「神」の存在を否認する者にはこの問いはほとんど無意味かもしれない。
 しかし、「信仰者」には「いつか神が沈黙を破るだろうという思いがある」。
 私(茂木)のような「外部」者にも「神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある」。
 この問題は「神の存在、不存在」に関係するというよりも「人間という存在のもつ精神性」とそれに無頓着な「宇宙の成り立ち」の間のずれに「その本質があるように思う」。
 ・「神」から啓示・メッセージを受け取ったとして、それが「悪魔」ではなくて「神」からのものであることは「どのように保証される」のか?
 「神が沈黙を破った」としても、それを受け取る人間にとつて「それが神の行為だと確実にわかる方法がない限り、意味がない」。
 上を「完全に保証することが不可能である以上、神は沈黙せざるをえない」-「そのように考えることもできるのではないか?」
 以上。
 こうした論述は、ここでもL・コワコフスキに関連させると、彼の<神は幸せか?>という小論を想起させる(この欄で試訳紹介済み。茂木はキリスト教を念頭に置いているようだが、このコワコフスキ論考は「シッダールタ」から始まる)。
 内容の類似性というよりも、<論理>の組み立て方・<思考の深さ>の程度だ(L・コワコフスキは「神の沈黙」の問題を直接には扱っていない(はずだ))。
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 茂木健一郎や福岡伸一といった人々は現実・世俗世界(歴史を含む)を、とくに日本の<政治・社会>をどう見るのだろうか、という関心がある。
 本来は、あまりこうした問題に立ち入らない方が「科学」者である著者にはよいのではないかと思うが、あるいは出版社・編集者には少しは触れてもらって読者の関心を惹きたいという気分が少しはあるのではないか、という気もする(茂木著・福岡著について語っているのではない)。
 したがって、本筋からすると瑣末な問題だが、つぎの叙述があった。
 「原爆、ナチス、環境破壊、このような厄災を経験した20世紀の人々は…」。
 「…後の大江健三郎の作品は、一貫して『癒し』をテーマにしている。…20世紀を象徴するような文学的テーマを追い掛けているのだ」。p.177。
 以上は、「科学」の限界またはその行き着き先と「人間の魂の問題、広くいえば、宗教的な問題」への関心(例えばp.162)を語る中で記されている。
 1960年代後半にWe Shall Overcome で歌われたような理想社会の実現については、「今世紀のさまざまな国家、地域でのコミュニズムの失敗を見る時」、その「可能性に対して皮肉屋にならざるをえない」。だが、「不可能性が証明されていない以上、私たちは革命の可能性について希望を持ち続ける権利を持っていることになるだろう」。p.222-3。
 この辺りは多分に読者への(なくてもよい)「サービス」なのではないか、との印象もあるが…。
 この最後の段落は本当に余計かもしれない。

2021/L・コワコフスキ著第三巻第10章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.369-372.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第4節・実存的「真性主義」(existential 'authenticism')批判。
 (1)実存主義(existentialism)は「物象化」批判に関してはフランクフルト学派の主要な競争相手で、哲学としてははるかに影響力をもった。
 ドイツの思想家はほとんどこの語を用いなかったが、それにもかかわらず、彼らの人類学的理論の意図は同じだった。すなわち、個人の自己決定意識とそれ独自の規範に適合させようとする殺伐とした社会的紐帯の間の対照さを、哲学的用語を用いて表現すること。
 かくして、マルクスによるヘーゲル攻撃と同様に、KierkegaardおよびStirnerには共通する要素、つまり現実の主観性(subjectivity)に対する非人格的「一般性」の優越に対する批判、があったので、マルクス主義者と実存主義者は、人間存在を社会的に決定された役割に限定して擬似自然的な諸力に従属させる社会システムを批判する点で、共通する基盤に立った。
 マルクス主義者たちは、ルカチに従って、事物のこういう状態を「物象化」と呼び、マルクスが行ったように、その原因は資本主義諸条件の平準器である貨幣がもつ全能的な効力にあると見なした。
 実存主義それ自体は階級闘争や所有関係のようなものの説明を行わなかったが、やはり基本的には発展産業社会の文化に対する抗議であり、その文化は人間諸個人を社会機能の総体に貶めてしまうと考えていた。
 「真性」(authenticity)または「本当の存在」(authentic being)(<本来性(Eigentlichkeit)>)という範疇はハイデガーの初期の著作では重要な位置を占めるもので、還元不能な個々の主体を、「非人格的な」(impersonal)という言葉で要約される殺伐とした社会的諸力に対抗するものとして、擁護しようとする試みだった(<人(das Man)>)。//
 (2)ドイツの実存主義者に対するアドルノの攻撃は、したがって完全に理解可能なものだ。すなわち、彼は、フランクフルト学派は「物象化」に対する唯一の闘争者だと主張し、「物象化」を批判しているように見える実存主義は実際にはそれを是認していることを証明しようとした。
 これは、<本来性(Eigentlichkeit)という術語: ドイツのイデオロギーについて>(1964年)の目的だった。彼はこの書物で、ハイデガーと、またヤスパースや場合によってはBuber 等々とも原理的に論争した。
 アドルノは、「物象化」という概念とそれが人間の交換価値への従属から帰結したものだとするマルクス主義者の見方を受け入れた。しかし、プロレタリアートを人類の救済者だとする考えは拒絶し、「物象化」を生産手段の国有化によって除去するこができると考えもしなかった。//
 (3)実存主義に対するアドルノの攻撃の主要な点は、つぎのとおりだ。
 (4)第一に、実存主義者は、特有の「霊力」でもって言葉の独立した力に対する魔術的な確信を掻き立てる、そのような欺瞞的な用語法を創り出した。
 これは内容に先立つ修辞上の技術であり、たんに深遠だと思われるために考案されたものだ。
 言葉の魔術は、「物象化」の真の淵源を分析することに代わるもので、まじない言葉でもってそれを除去することができることを示すものだと考えられている。
 しかしながら、言葉は現実には、還元不能な主観性を直接に表現することはできず、「本当の存在」を一般化することもできない。すなわち、「真性主義」という惹句を採用して、物象化から逃れたと信じることは全く可能だが、実際にはそれに従属したままだ。
 さらに加えて-これが本質的だと思われるが-、「真性主義」はきわめて形式的な惹句またはまじない言葉だ。
 実存主義者たちは、どのようにして我々は「真性的」になることができるのかを語らない。すなわち、我々は何であるかに満足しているのみだとすれば、抑圧者や殺人者はまさにそれであることによってその任務を履行している。
 要するに(アドルノはこうした言葉で表現しなかったけれども)、「真性主義」は何らかの特有の価値を意味してはおらず、それが何であれ何らかの行動で表現され得るものだ。
 もう一つの欺瞞的な観念は、決まり文句の機械的な交換に対抗するものとしての、「本当の意思疎通(communication)」という観念だ。
 真性の意思疎通を語ることによって、実存主義者たちは、思考を他者に表現することだけで社会的抑圧を是正することができる、こうして会話はその後に生ずべきこと(アドルノは、これが何であるかを説明しない)の代わりになる、と人々を説得しようとしている。//
 (5)第二に、「真性主義」は、いかなる場合でも物象化の救済方策にはなり得ない。なぜなら、その淵源、つまり商品崇拝主義(fetishism)と交換価値の支配に関心を持っていないからだ。
 「真性主義」は、誰もが自分の生活を真性的にすることができると提示する。しかし、全体としての社会は、物象化の魔術のもとにあり続けている。
 これは、共同的生活の条件に変化を何ら生じさせることなく個人の意識のうちに自由を実現することができるという幻想を魔術的に取り出すことによって、人々の注意をその隷属状態から本当の原因を逸らす、古典的な形態だ。//
 (6)第三に、実存主義の効果は、「非真性」の生活の全領域を、排除できないが自分自身の存在に限定された努力でのみ抵抗することのできる、そのような形而上学的実体として硬直化することにある。
 例えば、ハイデガーは、物象化された世界としての空虚で日常的な雑談について語る。しかし、彼はそれを永続的な特質だと見なしており、宣伝広告のために金銭を浪費しない理性的な経済では存在しないだろうということに気づいていない。//
 (7)第四に、実存主義は、注意を社会的条件から逸らすことによってのみならず存在を定義する態様によって、物象化を永続化させがちだ。
 ハイデガーによれば、個々の人間存在(<Dasein>)は自己所有と自己参照の問題だ。
 全ての社会的内容は真性さの観念からは排除され、その真性さは自分自身を所有したいとの意思から成り立つ。
 このようにして、ハイデガーは、現実には、人間の主観性を物象化し、外部世界とは関連性のない「自分自身である」という同義反復的状態へと貶める。//
 (8)アドルノはまた、言語の起源を探求しようとするハイデガーの試みも攻撃する。
 彼はこれを、過ぎ去った時代、田園的素朴さ等を称賛する一般的傾向の一部で、その結果として「血と土」のナツィ・イデオロギーと連関したものだ見なす。
 (9)アドルノの批判は、「ブルジョア哲学」に対するマルクス主義者の伝来的批判の線に沿ったものだ。つまり、実存主義は、物象化を批判するふりをしつつ、実際には、社会的諸問題を考慮の外に置き、「自分自身である」とたんに決定することで「本当の生活」を達成することができると個々人に約束することによって、物象化をさらにひどくする。
 換言すれば、反対しているのは、<本来性という術語>は何の政治綱領も含まない、ということに対してだ。
 これは正しい。しかし、同じことは、アドルノ自身の物象化や否定いう術語についても言えるだろう。
 我々は交換価値を平準化する圧力に従属した文明に対してつねに断固として抵抗しなければならないという前提命題は、社会的行動に関するいかなる特有の規則をも意味包含していない。
 正統派マルクス主義者については、事情は異なっている。彼らは、有害な諸帰結を伴う物象化は全工場を国家が奪取するならば終わるだろう、と主張する。
 しかし、アドルノは、このような結論をとくに拒否する。
 彼は、代替可能な社会はどんなものかに関する示唆を何ら与えないままで、交換価値にもとづく社会を非難する。
 そして、将来に関する青写真を提示することができない実存主義者たちに対する彼の憤激には、何か偽善的なところがある。//
 (10)アドルノはたしかに正当に、「真性主義」は結論や道徳的規則を導くことのできないきわめて形式的な価値だと語る。
 さらには、それを最高に価値があるものとして設定するのは危険だ。例えば、強制収容所の所長はそれとして行動することで、人間存在を完全に達成することができる、という考えに対抗する道徳的な保護策を、それは提供しない。
 言い換えると、ハイデガーの人類学は、価値の定義を何ら含んでいないかぎりで、非道徳的だ。
 しかし、「批判理論」は、よりよい状況にあるのか?
 たしかにそれは、基礎的諸観念のうちにとりわけ「理性」と「自由」を含んでいる。
 しかし、「理性」は些細な論理または経験的情報崇拝に拘束されることはない、ということ以外には、より高次の弁証法的形式での「理性」については、ほとんど何も語っていない。
 そして、「自由」に関しては、自由ではないものを主としては語るだけだ。
 その自由は、物象化を排除しないで悪化させるブルジョア的自由でも、マルクス=レーニン主義によって約束され、実現される自由でもない。その自由は、隷属だからだ。
 明らかに、これら以外の何か良いものがなければならない。しかし、それが何かを語るのはむつかしい。
 我々は、積極的意味でのユートピアを予期することはできない。
 我々が行うことができる最大のことは、否定的に現存する社会を超越することだ。
 かくして、批判理論が教えるものは、特定されない行動の呼びかけにすぎず、ハイデガーの「真性主義」と全く同様に形式的なものだ。//
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 つぎの第5節の表題は、<「啓蒙」批判>。

2019/茂木健一郎・生命と偶有性(2010年)。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書1978年、独訳書1977-79年)は、全体に関するPreface、第一巻(・創生者たち)のIntroduction に続いて、第一章(・弁証法の起源)の、見出しのない序説らしきものの後の第一節(数字つき大段落)の見出しを「人間存在の偶然性(contingency of human existence, Zufälligkeit des menschlichen Daseins)」としていた。
 <マルクス主義の歴史>に関する長い叙述の本文を、人間の、又は人間にとっての<偶然性と必然性>という主題から開始していたわけだ。
 ちなみに、その最初の段落の文章は、つぎのとおりだった。合冊版、p.12.
 「存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、現在でもそうだが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)に関する知覚だった。
 哲学的思考を刺激して作動させたこの人間の不完全さという感覚、および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。」
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 茂木健一郎・生命と偶有性(新潮選書、2015年/原書2010年)。
 この書の「目次」をそのまま書き写すと、以下のとおり。
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 まえがき
 第一章/偶有性の自然誌
 第二章/何も死ぬことはない
 第三章/新しき人
 第四章/偶有性の運動学
 第五章/バブル賛歌
 第六章/サンタクロース再び
 第七章/かくも長い孤独
 第八章/遊びの至上
 第九章/スピノザの神学
 第十章/無私を得る道
 あとがき
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 茂木健一郎とは「脳科学者」として知られる人物だが(1962~)、この書の構成・見出しだけからしても、「生命と偶有性」をタイトルとするこの書は「哲学書」でもあるのではないか。
 「まえがき」の中にはこんな一文がある。
 偶有性とはまた、「現在置かれている状況に、何の必然性もないということ」だ。「たまたま、このような姿をして、このような素質をもち、このような両親のもとに生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた」。
 「そのような『偶有的』な存在として、私たちはこの世に投げ出されている」。
 わざわざ引用するほどの珍しい感覚または認識では全くないだろうが、上のようなことを忘れてしまって、当面・直面する、とりあえずの<自分の役割>を果たそうとするだけに終始している人々も多いだろう。
 また、自分がヒト・人間であり、「偶有性」があることも完全に忘却して、当面・直面する<文字のつながる文章作成>作業、つまりは「言葉」世界での加工業にいそしんでいる、とりわけ<文学>畑の評論家類もいるに違いない。 
 やや唐突だろうが、「論壇」人であり、あるいは思想家・哲学者であるためには、「論ずる」こと、思考することも<脳内作業>であること、各人の神経細胞(ニューロン)の連続的「発火」作業であることを、深いレベルで知覚しておく必要があると思われる。
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 L・コワコフスキに戻ると、この人はときどき<人間のMisery>という句を用いている。
 勝手な読み方だが、このMisery=悲惨さ、というのは、特定の地域・時代でヒト・人間として生まれることは「偶然」であり、いつか「必然」的に「死」があること、そしてそれまで生きて「意識」をもち続ける間は<食って>、脳・心臓等々を動かしていかざるを得ないこと、といった意味を含んでいるのではないか、と思われる。
 ちなみに、上の「目次」の中にある「スピノザ」は、L・コワコフスキの最初の研究論文(・研究書)の対象人物だった。
 精神医学者(精神病理学者)と「哲学」研究者の対談が成立していることは、この欄の№1856(2018年10月14日)の精神医学者かつ「臨床哲学」者・木村敏に関する項で言及している。

2017/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.366-369.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)④。

 (19)アドルノの見解では、弁証法に関するこれらの教えの全ては、明確な社会的または政治的な目標に役立つはずだ。
 実践的行為の規準は、これらから推論することができる。
 「正しい実践や善それ自体のためには、理論の最も進んだ状態ほどに権威があるものはない。
 善に関する思想が具体的な理性的定義を十分には経ないで意思を導くことが想定されているとすれば、その思想は無意識に、具象化された意識から、社会が是認しているという意識から、秩序を獲得するだろう。」(p.242.)
 我々はかくして、明瞭な実践的規則を得る。すなわち、第一に、進歩した(<fortgeschritten>)理論があるはずだ。第二に、意識は「具体的な理性的定義」によって影響を受けるに違いない。
 このようにして明らかにされる実践の目標は、交換価値に由来する物象化を排除することだ。
 なぜならば、マルクスが教えたように、ブルジョア社会では「個人の自律」は表面的なものにすぎず、生活の偶然性や市場の力への人間の依存を表現するものであるからだ。
 しかしながら、アドルノの論述から、物象化されない自由は何で構成されているのかを集約するのは困難だ。
 我々は、この「完全な自由」を叙述するにあたって、いずれにせよ自己疎外(self-alienation)に関する観念を用いる必要がない。疎外からの自由の状態は、あるいは人間の自分自身との完全な統合は、すでに従前のあるときに存在しており、その結果として自由は出発点に立ち戻ることで獲得することができる、と想定されているからだ。-これは、定義上は反動的な考えだ。
 我々に愉楽の自由と「物象化」の終焉を保障する、何らかの歴史的デザインを知らされる、ということもない。
 現在に至るまで、普遍的な歴史に関する単一の過程というようなものは存在してこなかった。「歴史は、連続と非連続の統合体なのだ」(p.320.)。//
 (20)<否定弁証法>ほどに不毛だという強烈な印象を与える哲学書は、ほとんどあり得ない。
 人間の知識から「究極的な根拠」を奪おうとしているのが理由ではない。それは、懐疑主義の教理だからだ。
 哲学の歴史には尊重に値する懐疑主義の著作があって、それらは破壊的熱情とともに優れた洞察に充ちていた。
 しかし、アドルノは、懐疑主義者ではない。
 彼は、真実に関する規準は存在しない、全ての理論は不可能だ、あるいは、理性は無力だ、とは言わない。
 彼は反対に、理論は可能で、不可欠だ、我々は理性に導かれなければならない、と語る。
 しかしながら、アドルノの議論は全て、「物象化」に陥らなくしては理論は最初の一歩を進むことができない、ということを示すに至る。そうして、どうすれば第二またはそれ以上の歩みを進むことができるのかが明瞭でない。
 単直に言って出発地点がない。そして、そのことを承認することが弁証法の最高の達成物であるかのごとく主張されている。
 しかし、アドルノはこのような重大な言明を明確に定式化してはおらず、また、諸観念や格言類を分析することで、このことを支持してもいない。
 他の多数のマルクス主義者たちによくあるように、彼の著作は論拠を示してはおらず、どこでも説明していない観念を使って<権威的に(ex cathedra)>論述しているだけだ。
 じつに、彼は、経験的であれ論理的であれ、何らかの究極的な「データ」は哲学に出発地点を与えることができるという趣旨の実証主義的偏見を明確に示すものとして、観念上の分析を非難する。//
 (21)結局のところ、アドルノの議論は、マルクス、ヘーゲル、ニーチェ、ルカチ、ベルクソンおよびブロッホ(Bloch)から無批判に借用した諸思想の雑多な集合物に行き着いている。
 ブルジョア社会の全機構は交換価値を基礎にしている、それは全ての質的相違を貨幣という共通の分母に還元している、という言明は、マルクスから取っている(これは、マルクスのロマン派的反資本主義の形式だ)。
 マルクスに由来するのはまた、歴史を超歴史的な<世界精神(Weltgeist)>に従属させ、人間個人に対する「一般的なもの」の優越を主張し、現実を抽象物に取り替え、そうして人間の奴隷化を永続させるものだ、とするヘーゲル哲学に対する攻撃だ。
 主体と客体というヘーゲルの理論に対する攻撃も、再びマルクスから来ている。その理論では、主体は客体を明確にするものと定義され、客体は主体的な構成物だとされ、そうして悪性の円環が生み出されてしまうのだ。
 (しかし、アドルノがこの円環からどう抜け出すのかは明瞭でない。彼は主体と客体のいずれについても絶対的な「優越性」を否定するのだから。)。
 他方で、進歩と歴史的必然性の理論およびのプロレタリアートを壮大なユートピアの基礎的な担い手だとする発想を拒否する点では、マルクスから離れている。
 ルカチに由来しているのは、世界の悪の全ては「物象化」という語で要約することができ、完全な人間は「事物」の存在論的地位を投げ棄てるだろうという見方だ。
 (しかし、アドルノは、「脱物象化」した状態とはどのようなものかを、ましてやそれをどうやって達成するのかを、語らない。)
 プロメテウス的主題と科学的主題はいずれも放棄されており、曖昧でロマン派的なユートピアしか残っていない。そのユートピアでは、人間は彼自身となり、「機構的な」社会的諸力に依存することがない。
 アドルノがブロッホから借用しているのは、我々は現実の世界を「超越する」ユートピアという考えを抱いており、この超越性の特別の利点は原理的に、現時点ではいかなる明確な内容ももち得ないことだ、という見方だ。
 ニーチェから来ているのは、「システムの精神」に対する一般的な敵愾心、真の賢人は矛盾を恐れず、矛盾のうちに知を表現する、そして論理的批判に予め備えている、という便宜的な考え、だ。
 抽象的な観念は変化し得る事物を硬直化させるという考えは、ベルクソンから来ている(アドルノはあるいは、そうした事物を「物象化」すると言うだろう)。
 アドルノ自身は他方で、何ものをも硬直化しない「流動的な」観念を我々は創ることができるという望みを与えている。
 アドルノがヘーゲルから取っている一般的考えは、認識過程には主体と客体、観念と感知、個別的なものと一般的なものとのそれぞれの間の恒常的な「媒介」がある、ということだ。
 アドルノは、これらの要素全てに、ほとんど並ぶものがない曖昧な解説を付け加える。すなわち、彼は、自分の考えを明瞭に説明しようと全く望まず、勿体ぶった一般的叙述で覆ってしまう。
 <否定弁証法>は、思考の貧困さを覆い隠す職業的な大言壮語の、模範となるべきものだ。
 (22)人間の理性的推論には絶対的な根拠はないという見方は、たしかに擁護することができる。多様な形態でこれを深めた懐疑主義者や相対主義者によって示されてきたように。
 しかし、アドルノは伝統的考えに何も付け加えないどころか、彼独特の用語法でもってそれを曖昧化している(主体も客体も「絶対化」することができない、絶対的な「優越性」はない、等々。)
 彼は一方では同時に、「否定弁証法」は社会的行動のための何らかの実践的帰結を生むことができる、と想定している。
 かりにアドルノの哲学から知的または実践的な規則を抽出しようとすれば、結局はつぎの教訓となるだろう。すなわち、「我々は、より集中的に思考しなければならない。だが、思考の出発地点は存在しないこともまた忘れてはならない」。そして、「我々は、物象化と交換価値に反対しなければならない」。
 我々が何ら肯定的なことを言えないことは、我々の過失でもアドルノの失敗でもない。そうではなく、交換価値の支配に原因がある。
 したがって、今のところは、我々は否定的にのみ、全体としての現存する文明を「超越する」ことができる。
 「否定弁証法」はこのようにして、左翼集団(left-wing groups)のための好都合なスローガンを提供した。彼ら左翼集団は、政治的綱領としての完全な破壊のための口実を探し求め、弁証法という秘伝の最高の形態だとしてその知的原始性を高く評価するのだ。
 しかしながら、このような態度を激励する意図をアドルノは持っていた、と責めるのは不公正だろう。
 彼の哲学は、普遍的な反乱を表現するものではなく、無力さと絶望の表現だ。//
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 第3節終わり。第4節の表題は、<実存的「真正主義」批判>。

2016/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.363-p.366.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)③。

 (15)ハイデガー(Heidegger)の存在論はこの状況を解消しないし、むしろさらに悪いものを提示する。
 哲学から経験論とフッサールの<形相(eidos)>を排除して、ハイデガーは、存在(Being)を把握しようとしている。-その存在は、彼の理解によれば、純然たる無(nothingness)だ。
 彼はまた、現象を「分離」し、それを明確化に至る過程の諸要素(aspects, <Momente>)だと考えることができない。そのようにして、現象は「物象化」されるのだ。
 フッサールに似てハイデガーは、「媒介」なくして個別的なものから普遍的なものへと進むことができる、あるいは省察することに影響を受けない形式で存在を理解することができる、と考える。
 しかしながら、これは不可能だ。すなわち、存在は主体によって「媒介される」のだ。
 ハイデガーの「存在」は構成されたもので、たんに「与えられた」ものではない。
 「我々は、思考による場合に、主体と客体の分離がただちに消失するいかなる立場も採用することができない。なぜならば、全ての思考において、この分離は本来的なものだからだ。分離は、思考それ自体の中に内在している。」(p.85.)
 自由は、生活の両極の間に生起する緊張関係を観察してのみ、探し出すことができる。しかし、ハイデガーは、この両極を絶対的な現実だと見なし、それらをそれぞれの宿命に委ねるのだ。
 彼は一方で、社会は「物象化」されなければならないと認める。換言すると、<現状>をそのまま承認する。
 他方でしかし、人間にとっての自由は既に得られているものであるかのように叙述し、そうして、隷属状態を承認する。
 彼は形而上学を救おうと試みているが、救済を目指しているのは「直近に現存するもの」だと間違って想定している。
 概して言えば、ハイデガーの哲学は、抑圧的社会に役立つ<支配学(Herrschaftswissen)>の一例だ。
 存在するものとの間の約束した聖餐式を行うために、諸観念を放棄しようと呼びかけている。-しかし、この存在には内容がない。その正確な理由は、諸観念の「媒介」なくしてもそれを把握することができる、と想定されていることにある。
 彼の哲学は、根本的には、「である(is)」という連結詞を実在化したもの(substantivization)にすぎない。//
 (16)可能なかぎり一般的な用語で語れば、〔上のような〕ハイデガーの存在論に対するアドルノの攻撃の主要点は、つぎのヘーゲルの主張にある。第一に、主体を形而上学的考究の結果から完全に排除することは決してできない。第二に、かりにこのことを忘れて主体と客体を両側に位置づけようとすれば、そのいずれをも理解することが絶対にできない。
 いずれもが、分離できない考察の一部だ。いずれにも、認識論上の優越性はない。それぞれが、他者によって「媒介」される。
 同様に、いずれかが絶対的に個別的なものだとする認識-これをハイデガーは<存在とJemeinigkeit(自己帰属性)>と呼ぶ-によって理解する方策は存在しない。
 一般的な諸観念の「媒介」なくしては、純然たる「ここにあるこの物」は、抽象物だ。
 それを考察から「引き離す」ことはできない。
 「しかし、真実は、つまり主体と客体とが相互に浸透し合う集合体は、ハイデガーが曖昧にしがちな主体性との弁証法的関係をもつ存在へと還元する以上には、主体性に切り縮めることができない」(p.127.)。//
 (17)アドルノが「否定弁証法」という語で意味させたいものを説明するのに最も役立つ文章は、つぎのものだ。
 「弁証法的論理は、ある意味では、それを排除する実証主義以上に実証主義的だ。
 思考しているとき、弁証法的論理は、その客体が思考(thinking)の規則を気に掛けない場合であってもいずれが思考されるべきもの-客体-なのかを尊重している。
 客体を分析するのは、思考の規則から脱するということだ。
 思考は、それ自体の規則適合性に甘んじている必要はない。それを放棄しても、我々は様々に思考することができる。かりに弁証法を定義するのが可能ならば、これは提示するに値する定義になるだろう。」(p.141.)
 弁証法は論理の規則に束縛される必要はないということ以上を、我々がこの定義から導出できる、とは思えない。
 我々は実際に別の文章で、もっと自由につぎのように語られる。
 「哲学は理性の真実(vérité de raison)から成るのでも、事実の真実(vérité de fait)から成るのでもない。
 哲学が語る何も、『存在する事実(being the case)』に関する感知可能な規準に屈従しはしないだろう。
 構成観念に関する諸命題は、事実性に関する諸命題が経験科学の規準に従属しているほどには、事実の論理的状態に関する規準に従属していない。」(p.109.)
 もっとよく分かる立場表明を想定するのは、実際のところ困難だろう。
 否定弁証法論者は、第一に、論理の観点からも事実の観点からも批判されることはあり得ない、と明確に述べる。それらの規準は自分たちとは関係がないと断定しているのだから。
 第二に、自分たちの知的および道徳的な優越性は、これらの規準をまさに無視していることにもとづく、と宣言する。
 そして第三に、この無視こそが実際に、「否定弁証法」の本質(essence)だ、と主張する。
 「否定弁証法」は単直に言って白紙の小切手であり、歴史によって署名され、裏書きされる。
 存在、主体および客体は、アドルノとその支持者たちのためにある。
 いかなる金額も書き込むことが可能で、何であっても有効で、論理の「実証主義的偏愛」や経験主義から絶対的に自由だ。
 思考は、弁証法的にその反対物へと変転する。
 このことを否定する者は、「一体性原理」の奴隷となる。これは、交換価値に支配された、ゆえに「質的な相違」を知らない社会を受容することをその意味に包含している。//
 (18)アドルノによると、「一体性原理」がきわめて危険な理由は、それがつぎのことを意味することにある。
 それは、第一に、分離されたものは全て経験的に存在するものだ、第二に、個別的な客体は一般的諸概念でもって見極めることができる、つまり抽象化に向かって分析することができる(これはアドルノは言及していないが、Bergson の考えだ)、ということを意味する。
 一方では、哲学の任務は、第一に、事物は現実に何であるかを確定することであって、たんにそれがどの範疇に帰属するかを確定することにあるのではない(アドルノはこの種を分析した例を挙げていない)。
 第二に、それ独自の観念に従えば、まだ存在に至っていなくともそれは何であるべきかを説明することだ(これはアドルノはこの論脈では言及していないが、Bloch の考えだ)。
 人間は自分を定義する方法を知っている。だが、社会は、人間にあてがう機能に一致するように様々に人間を定義する。
 これら二つの定義の仕方の間には、「客観的な矛盾」がある(ここでも例示はない)。
 弁証法の目的は、観念による事物の固定化に反対することにある。
 弁証法は、事物は決してそれらと同一視されない、という立場をとる。 
 弁証法は、否定の否定は肯定的なものへの回帰を意味すると想定することをしないで、否定を探し出す。
 弁証法は個別性を承認するが、一般性によって「媒介された」ものとしてのみそうするのであり、個別性の要素(aspect, <Moment>としてのみ一般性を承認する。
 弁証法は、客体のうちに主体を見る。逆もまた同様であり、理論のうちに実践を、実践のうちに理論を、現象のうちに本質を、本質のうちに現象を見る。
 弁証法は差違を理解しなければならないが、それを「絶対化」することはない。そして、何らかの特定の事物を最も優れた(par excellence )出発点だと見なすことはあり得ない。
 フッサールの先験的主体のような、一切何も前提としない見方というものは、存在し得ない。
 全てのものを含み、かつ全体と一体となる一つの精神(spirit)があり得るという思想は、全体主義体制における単一党という思想と同じく、馬鹿げた(nonsensical)ものだ。
 精神と物質のいずれに優越性があるかに関する論争は、弁証法的思考では無意味だ。なぜならば、精神や物質という観念はそれら自体が経験から抽象化されたものであり、それら二つの間の「根本的相違」なるものは、因習的約束事(convention)に他ならない。
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 ④へとつづく。

2014/L・コワコフスキ著第三巻第10節第3節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.360-3.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)②。
 (6)同じように、認識論上の絶対的なものはなく、挑戦不可能なただ一つの知の源泉もない。
 認識行為の「純粋な即時性」は、かりに存在するとすれば、言葉による以外には表現することができず、そしてその言葉は不可避的に、抽象的で合理化された形式をそれに付与する。
 しかし、フッサール(Husserl)の先験的エゴも、間違って構成されたものだ。なぜなら、知識の社会的起源から自由な直観的行為など存在しないのだから。
 全ての観念は究極的には非観念的なものに、自然を制御しようとする人間の努力に、根源がある。  どの観念も、客体の全内容を表現することはできないし、それと一体化することもできない。
 ヘーゲルの純粋な「存在」は、最後には「無」(nothingness)であることが分かる。//
 (7)アドルノが言うように、否定弁証法は一つの反システム(anti-system)だと称することができる。その意味では、ニーチェの立場と一致するように思われる。
 しかしながら、アドルノはさらに進んで、全ての実体の加工は我々に示されているその形式の「否定」であるのとまさに同じく、思考それ自体が「否定」だ、と語る。
 何かあるものは一定の性格のものだ、という言明ですら、その何かは別の性格のものではないと意味するかぎりで、否定的なものだ。
 しかしながら、これは、「否定性」を自明のこと(truism)に還元している。
 その意味で「否定的」でない哲学はどのようにして存在し得るのか、あるいはアドルノは誰に反対して議論しているのか、が明瞭でない。
 しかしながら、彼の主要な意図は、さほどに自明のことではないように見える。つまり、哲学の伝統的諸問題に明確な回答を与えるのではなく、現在あるような哲学を破裂させることに自らを限定することを目指しているように見える。その「実証主義」に対する力説によっては、それは<現状(status quo)>の、すなわち人に対する人による支配の受容に堕してしまうからだ。
 解放されるときのブルジョア的意識は、「封建的」思考様式と闘った。しかし、あらゆる種類の「システム」の破裂をもたらすことはできなかった。「完全な自由」を代表していると感じていなかったからだ。
-このようなアドルノの見方の観察からすると、彼は「システム」に対抗する「完全な自由」を支持している、と集約することができる。//
 (8)アドルノは、「一体性」および「実証性」を批判して、フランクフルト学派がマルクスから継承した伝統的な主題を継続する。
 すなわち、「交換価値」による支配に従属している個人と事物を共通する次元と等質的な無名さへと貶めている、そのような社会に対する批判だ。
 このような社会を表現して肯定している哲学は、現象の多様さ、あるいは生活の多様な諸側面の相互依存性を、公正に論じることができない。
 そのような哲学は一方では社会を等質化し、他方では人々と事物を「原子」へと貶めている。
 -これは、アドルノが観察するところの、論理がその役割を果たす過程だ。この点で彼は、今日的な論理の発展を無視する一方で論理を痛烈に非難する、近年のマルクス主義の伝統に忠実だ。//
 (9)科学も人間に対する一般的共謀の当事者だと思われる。科学は理性を可測性(measurability)と同一視し、全てのものを「量」に還元し、知識の射程範囲から質的な相違を排除しているからだ。
 しかしながら、アドルノは、用意されているまたは採用されるのを待っている、新しい「質的な」科学を提案することはない。//
 (10)彼の批判の結論は、相対主義を守ることではない。これもまた、「ブルジョア意識」の一つだからだ。
 相対主義は、反知性的(<geistesfeindlich>)で、抽象的で、間違っている。なぜならば、それが相対的だと見なすもの自体が資本主義社会の条件に根ざしているのだから。
 「言われるところの社会的相対性という見方は、生産手段の私的所有のもとでの社会的生産という客観的法則に従って動いている」(p.37.)。
 アドルノは、いかなる「法則」のことを指しているのかを語らないし、ブルジョア的論理に対する自分の侮蔑心に忠実に、彼の批判の論理的有効性を考察することもしない。//
 (11)彼は、「システム」の意味での哲学は不可能だ、全てのものは変化するのだから、と論じる。-これは、つぎのように詳論される言明だ。
 「まるで全ての真実を我々が保持しているがごとくに、その独自の不変性(invariance)が産み出されたものである(<ein Produziertes ist>)不変のものを、可変的なものから剝き外すことはできない。
 真実は実体と合体しており、それが変化していくのだ。
 真実の不変性(immutability)なるものは、<最初の哲学(prima philosophia)>の妄想だ。」(p.40.)//
 (12)一方で、諸概念は一定の自立性をもち、事物を複写したものとして出現しはしない。
 他方で、諸概念は事物と比較しての「優越性」をもつことはない。-これに同意するのは、諸概念は官僚制によるまたは資本主義的な統治を受け入れることを意味するだろう。
 「人間社会を敵対的に引き裂く支配の原理は、精神的に言えば、概念とその服従者(<dem ihm Unterworfenen>)の間の相違を引き起こすのと同じ原理だ。」(p.48.)
 そのゆえに、唯名論(nominalism)は間違いだ(「資本主義社会という観念は<気息(flatus vocis)>ではない」。-p.50n.)。
 観念上の実在論(realism)も、同様だ。
 観念とその客体は恒常的に「弁証法的」に関連しているのであり、そこでは「優越性」は抹消されている。
 同様に、知識をたんに「与えられた」ものとへと還元してしまう実証主義者の試みは誤っている。「思考の内容を脱歴史化(dehistoricize)」しようとしているのだから(p.53.)。//
 (13)反実証主義者たちによる存在論(ontology)を再構築する試みも、同様に疑わしい。なぜなら、そのような存在論は、-特定の存在論の教理では全くなく-<現状>のための釈明であり、「秩序」の道具だからだ。
 存在論の必要性は十分にある。ブルジョア意識は「実体的」観念を「機能的」観念に置き代えて、全てのものが他者に対して相対的でそれ自身の一貫したものがない諸機能の複合体だと社会を見なしてきたからだ。
 それにもかかわらず、存在論を再構築することはできない。//
 (14)読者はこの点で、他の多くの諸点でと同様に、アドルノはどのようにその諸命題を適用するつもりなのか、と不思議に思うかもしれない。
 かりに存在論とその欠如がともに悪いことで、いずれもが交換価値の擁護へと我々を巻き込みそうであるとすれば、我々はいったいどうすべきなのか?
 おそらくは、我々は決してこのような疑問を思いついてはならないのだ。だが、哲学的諸問題に我々は中立だと宣言しなければならないのか?
 アドルノはしかし、このいずれをも選択しないだろう。そうすることは新しい種類の屈服であり、理性の放棄なのだ。
 科学はそれ自身を信頼し、それ独自のではない他の方法を用いた自己に関する知識(self-knowledge)を探求するのを拒むがゆえにこそ、現存する世界のための釈明物にそれがなることを非難する。
 「科学の自己解釈は、科学の<自己原因(causa sui)>となる。
 科学は所与のものであって、そのゆえに現時点で存在する形式、作業の分割もまた承認する。長期的にはその形式が十分ではないことを覆い隠すことはできないけれども。」(p.73.)
 人文社会科学は、個別の諸研究に分散して、認識への関心を喪失し、観念という外装を剥ぎ取られている。
 科学に対して「外部から」来る存在論は、(ヘーゲルの句では)銃弾のごとく突然に出現する。そして、科学の自己知識を獲得する助けにはならない。
 結局のところ、我々は悪性の円環から逃れる方法を知ることがない。//
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 ③へとつづく。

2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
 Identity は、原則として「一体性」と試訳している。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)①。
 (1)私が知るかぎり、アドルノの思想、つまり<否定弁証法>を完全にかつ一般的に叙述し、また疑いなく適切に要約したものは存在しない。
 そのような要約はおそらく不可能で、アドルノはおそらくそのことをよく知っていて、意識的にそうしたのだろう。
 その書物は、二律背反を具現した物と称し得るかもしれない。
 それは、挙げられる例または論拠によって哲学的著作の執筆は不可能だと分かってしまう、そのような哲学作品だ。
 その内容を説明するのが困難なのは、明らかに意図的なきわめて難解な統語論(syntax)や、ヘーゲルと新ヘーゲル派の術語を世界で最も明瞭な言語であるかのごとく使いつつ説明しようとは全く試みていないこと、によるばかりではない。
 かりにその書物が文章的形式も完全に欠いていないとすれば、様式の意図的な曖昧さと読者に示す侮蔑感はまだ耐えられるものであるかもしれない。
 この点に、アドルノが初期のあるときは塑形的芸術に、のちに音楽と文学で示した無形式性が、哲学の分野に現れている。
 アドルノの著作を要約するのは、「反小説」の筋または行動絵画の主題を叙述する以上に不可能だ。
 絵画での様式の放棄は芸術の破壊につながらなかった、と疑いなく語ることができる。そうでなくて、実際には「逸話」に関連した作品から純粋な絵画を解き放った。
 そして同様に、言葉で成るものではあるが、小説や戯曲は、我々がJoyce 、Musil およびGombrowiczを何とか理解して読むことができる程度に、(決して完全にはなり得なかった)様式の喪失を乗り越えた。
 しかし、哲学的な叙述では、彼による形式の解体はきわめて高い程度に破壊的だ。
 Gabriel Marcel のように、言葉でもって瞬時に過ぎ去る「経験」を把握しようと著者が試みているのならば、耐えられるかもしれない。
 しかし、抽象化を行いつづけつつ、一方では同時に言説の無意味な形態だと強く主張している、そういう哲学者に耐えて読み続けるのは困難だ。//
 (2)このように留保したうえで、アドルノの議論に関する〔私の〕考えを提示してみよう。
 彼の書物を支配して表現されている主要なテーマは、例えば、つぎのような、カント、ヘーゲルおよび現象主義の論調に対する批判だ。
 哲学を支配するのはつねに、形而上学的にも認識論的にも、絶対的な出発地点の探求精神だ。その結果として哲学者自身の意図にもかかわらず、「一体性(identity)」、すなわち他の全てのものが究極的には還元される、ある種の本源的な存在の探求へと知らぬ間に巻き込まれてきた。
 ドイツ観念論や実証主義、実存主義や先験的現象主義も似たようなものだった。
 哲学者たちは、反対物の典型的で伝統的な「一対」-客体と主体、一般と個別、経験と観念、連続と不連続、理論と実践-を考察する際に、これかあれかの概念に優越性を認め、全てを叙述することができる様式的言語を生み出す、そのような方法でもって、それらを解釈しようとしてきた。全てのものが派生してくる普遍的なものの諸側面を見極める(identify)ために。
 しかし、これを行うことはできない。
 絶対的な「優越性」などは存在しない。哲学がかかわる全てのものは反対物に相互依存したものとして表れるのだ。
 (これはもちろんヘーゲルの考えだったが、アドルノはヘーゲルはのちにこれに忠実ではなくなったと主張した。)
 伝統的な様式で「優先的な」事物または観念を発見しようとし続ける哲学は、間違った路線上にあり、さらに加えて、我々の文明では全体主義的かつ順応主義的な傾向を強めている。何を犠牲にしても秩序と不変性を獲得しようと努めることによって。
 哲学は、実際には不可能だ。
 可能であるのは、恒常的な否定だけだ。すなわち、「一体性」を付与する単一の原理の範囲内に世界を限定しようとする全ての試みに対する、完全に破壊的な抵抗だ。//
 (3)このように概括すると、アドルノの思考は絶望的で不毛だと思われるかもしれない。しかし、不公正にそうしたとは〔私は〕思っていない。
 否定の弁証法(これは形而上学的理論になるだろう)ではなく、形而上学と認識論を明確に否定するものだ。
 アドルノの意図は、反全体主義だ。すなわち、特定の形態の支配を永続させるのに役立ち、人間という主体を「物象化」された形式へと貶める、そのような全ての思想に、彼は反対している。
 彼は、このような試みは逆説的な「主体性」をもつ、とくに実存主義の哲学では、と主張する。実存主義哲学は、絶対的な個人的主体を還元不能な実体として凝固させることによって、ますます人間の隷属化を進める社会関係の全てに対する無関心を生じさせる、と。
 外部にある全てのものを暗黙裡に受容することなくしては、単項的実存が優越性をもっているとは、誰も主張することができないのだ。//
 (4)しかし、マルクス主義もまた-この論脈ではその名は言及されていないけれども、とくにルカチの解釈では-、「物象化」批判という色彩のもとで、同じ全体主義的(totalitarian)傾向をもつ。
 「ヘーゲルおよびマルクスに残っている理論的不適切さは歴史的実践の一部になっており、かくして、実践の優越性に対して思想が非理性的に屈服するのではなく、改めて理論の中へと反映させることができる。
 実践それ自体が、著しく理論上の概念だった。」
 (<否定弁証法>, p.144.)
 アドルノはこうして、理論が解体されてその自立性を喪失させるものとして、マルクス主義=ルカチ主義の「実践の優越」を攻撃する。
 「一体性の哲学」に対する反対論がマルクス主義の反知性主義とその全てを吸い込む「実践」に向けられているかぎりで、彼は、哲学が存在する権利を擁護する。
 彼は、「いったん時代遅れになったと見えた哲学は、それが存在しないと気づかれたときに生きつづける」との言明でもって書物の最初を始めすらする(p.3.)。
 この点で、アドルノは明らかにマルクス主義から離れている。
 彼は、マルクスがプロレタリアートによる人間の解放と「生活」との一体化による哲学の廃棄を望んだのは現実的だったかもしれないが、そのときはもう過ぎた、と論じる。
 理論はその自立性を維持しなければならない。これはむろん、理論は絶対的な優越性を保持することを意味していない。
 「優越性」を持つものは何もなく、全てのものが他の全てに依存している。そして、同様の理由によって、全てのものが「実体性(substantiality)」に関するそれ自体の判断基準をもつのだ。
 「実践」は理論の任務を遂行することができない。そして、かりにそう求めるならば、実践はすぐに思考の敵になる。//
 (5)かりに絶対的な優越性をもつものがないとすれば、アドルノの見解では、理性を用いて「全体(the whole)」を包摂しようとする全ての試みは非生産的で、神秘化という教条に奉仕することになる。
 このことは、実証主義者ならば主張したかもしれないが、理論は個別の科学へと解消しなければならないことを意味していない。
 理論は不可欠のものだ。しかし、さしあたりはそれは否定(negation)以外の何ものにもなり得ない。
 「全体」を把握しようとする試みは、全てのものの究極的な一体性という同じ信仰的忠誠精神にもとづくものだ。
 哲学が全体は「矛盾している」と主張するとき、哲学は、「一体性」に関する間違った見方をしている。そして、それはきわめて強力なので、「矛盾」は、普遍的世界の最終的な創造が主張されるときにはその道具にすらなってしまう。
 真の意味での弁証法は、かくして、たんに「矛盾」を探求することではなく、全ての事物を説明する図式(schema)だと見なしてそれを受け入れることを拒否することだ。
 厳密に言えば、弁証法は方法でも世界の描写でもなく、存在する記述的図式の全てに、そして普遍性を装っている方法の全てに、繰り返して反対する行為だ。
 「矛盾の全体は、一体化の全体が真実ではないことを明らかにしているものに他ならない」(p.6.)。//
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 ②以降へとつづく。
 下は、L・コワコフスキ著第三巻分冊版のドイツ語Paperback版訳書(1979年初版の1989年印刷版)の表紙。

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2011/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)②。
 (7)分かるだろうように、「批判理論」の主要な原理はルカチ(Lukács)のマルクス主義だ。但し、プロレタリアートがない。
 この相違は、この理論をより柔軟でかつ教条的でないものにしているが、それを曖昧でかつ一貫していないものにもしている。
 ルカチは、理論をプロレタリアートの階級意識と同一視し、ついでそれを共産党の知見と同一視することによって、彼の真実に関する規準を明確に定めた。すなわち、社会を観察する際には、真理は自然科学にも有効な一般的科学の規準を適用すること以上に進んではならず、その発生源でもって明らかにされるものだ。
 共産党が誤謬に陥ることは、あり得ない。
 このような発生起源論は少なくとも、真理が一貫しており完全に明確だ、という長所をもつ。
 しかし、発生論的規準がどのようにして理論の知的自立性と結合されるのか、どこからその正しさを統御する規則が生じてくるのか、を批判理論から知ることはできない。なぜなら、批判理論は「実証主義」的規準を拒み、かつプロレタリアートとの自己一体視も拒否しているからだ。
 一方では、Horkheimer は、思考するのは人間であってエゴ(自我)や理性ではないというフォイエルバハ(Feurebach)の言明を繰り返す(「現在の哲学での合理性論争」1934年で)。
 そうすることで彼は、科学的手続に関する規準と科学で用いられる蓄積された観念はいずれも歴史の創造物であって実際的な必要性の所産だ、そして知識の内容はその発生起源と分離することができない-換言すれば、先験論的主体は存在しない-、ということを強調する。
 これにもとづけば、理論は「社会進歩」のためにあるならば「善」だまたは正しい、あるいは、知的な価値はその社会的機能によって明らかになる、ということになりそうに見える。
 他方で、しかし、この理論は現実<に対する>自立性を維持するものと想定されている。
 その理論の内容は、現存するある運動との何らかの一体視に由来するものであってはならず、社会階級は言うまでもなく、人間という種の観点からすらしても、実用主義的(pragmatistic)であってはならない。
 ゆえに、どのような意味で「真実だ」と主張しているのかは、明瞭ではない。現実をそのままに叙述するがゆえになのか、あるいは「人間の解放のために奉仕する」がゆえにか?
 Horkheimer が提示する最も明確な回答は、おそらく、つぎの文章のようなものだろう。
 「しかし、開かれた弁証法は真実の痕跡を失うことがない。
 人が自分の思考、あるいは他人の思考に限界や一方性のあることに気づくことは、知的な過程の重要な側面だ。
 ヘーゲルも唯物論者の彼の継承者も、批判的で相対主義的接近方法は知識の一部だということを正しく強調した。
 しかし、自分自身の確信は確かだとか肯定できるとか考えるためには、観念と客体の統合が達成された、あるいは思考は終点に到達することができる、と想定する必要はない。
 観察と推論、方法論的検討や歴史的出来事、全ての作業と政治的闘争、こうしたものから得られる結果は、我々が用いることのできる認識手法に耐えることができるならば〔この句のドイツ語原語は省略-試訳者〕、真実だ。」
 (「真実の問題について」同上、第一巻p.246.)
 この説明には不明瞭なところがない、というわけでは全くない。
 社会環境がどのようなものであれ、批判理論は最終的には経験的な正当性証明の規準に従うものであり、それに従ってその真偽が判断される、ということをかりに意味しているとすれば、認識論的には、この理論が「伝統的」と非難する諸理論と何ら異ならない。
 しかしながら、かりに何かそれ以上のことを、すなわち理論が真実であるためには経験上の吟味に耐え、かつ同様に「社会的に進歩的」でなければならない、ということを意味しているのだとすれば、Horkheimer は、二つの規準が衝突している場合にはどうすべきかを我々に語ることができない。
 彼はたんに、「前(supra)歴史的」なものではない真実や知識の社会的条件、あるいは観念とその客体の間の「社会的媒介項」と彼が称するもの、に関する一般論を繰り返しているにすぎない。 
 Horkheimer は、この理論は「静態的」でない、主体と客体のいずれも絶対化しない、等々と請け負う。
 全く明らかなのは、「批判理論」はルカチの党教条主義を拒み、正当性証明に関する経験的規準を承認することも一方では拒んで、理論としてのその地位を主張しようとしていることだ。
 言い換えると、批判理論は、それ自体の曖昧さのおかげで存立している。//
 (8)このように理解される批判理論は、明確なユートピアを構成することはない。
 Horkheimer の予言は、ありふれた一般論に限定されている。すなわち、普遍的な幸福と自由、自分の主人となる人間、利潤と搾取の廃棄、等々。
 「全てのもの」は変化しなければならない、社会改良ではなく社会変革の問題だ、と語るが、どのようにしてこれを行うのか、あるいは何が実際に生じるのだろうか、については語らない。
 プロレタリアートはもはや歴史の無謬の主体とは位置づけられない。その解放は依然として、この理論の目標であるけれども。
 しかしながら、この理論は一般的解放のための有効な梃子だと自らを主張しないがゆえに、思考の高次の様式であって人類の解放に寄与するだろうという確信だけを除いて、明瞭に残されているものは何もない。//
 (9)社会の選好と関心に関してHorkheimer が述べていることは、社会に関する多様な理論が用いる観念上の諸装置にすでに含まれていた。そして、確かに本当のことだが、彼の時代ですら新しくはなかった。
 しかし、社会科学は異なる利益と価値を反映する、ということは、Horkheimer がそう(ルカチ、コルシュおよびマルクスに従って)考えたと思われるように、経験的判断と評価的判断の相違は超越された(transcended)ということを意味していない。
 (10)「批判理論」は、このような意味で、プロレタリアートとの自己一体視を受け入れることなくして、真実に関する階級または党の規準を承認することなくして、マルクス主義を保持しようという一貫した試みだった。また、このようにマルクス主義を縮減すれば生じる困難さを、解消しようともしなかった。
 批判理論はマルクス主義の部分的な形態であり、それが無視したものを補充することがなかった。//
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 第2節おわり。次節・第3節の表題は、<否定弁証法>。

2010/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.352-p.355.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)①。
 (1)「伝統的」理論に対する意味での「批判的」理論の規準は、Horkheimer の1937年の綱領的論考で定式化された。その主要なものは、以下のとおりだ。
 (2)現在までの社会現象の研究では、つぎのいずれかを前提として想定するのがふつうだった。第一は、社会現象研究は推論に関する通常の規則にもとづかなければならず、可能なかぎり量的に表現される、一般的観念や法則を公式化することを意図しなければならない、というものだ。第二は、現象主義者たちが考えるもので、経験的な結果から独立した「本質的」法則を発見するのは可能だ、というものだ。
 上のいずれの場合も、観察の対象となる事物の状態は、それに関する我々の知識から切り離されている。ちょうど、自然科学の研究主題が「外部から」与えられるように。
 知識(knowlege)の発展はそれ自体の内在的論理によって統御される、そして何らかの理論が他の理論のために無視されるとすれば、前者には論理的困難さがあるか、経験上の新しいデータと合致しないことが分かったからだ、とも想定されてきた。
 しかしながら、現実には、社会的変化は理論に変化を与える最も強力な要因だ。
 科学は、生産に関する社会過程の一部であり、その変化に応じて変化を受けざるを得なかった。
 ブルジョア哲学は、人々が知識の社会的由来や社会的機能を認識することを妨げる、そのような多様な先験論的(transcendentalist)諸教理でもって、科学とは別個に、誤りへと導く信念を表現してきた。
 ブルジョア哲学はまた、科学が与えることのできない評価的判断を要するがゆえに、凌いだり批判したりするのではなくて世界を叙述する、そのような活動だとして、知識に関する像を主張した。
 科学の世界は、観察者が一定の秩序へと切り縮めようとする、既製の事実の世界だった。まるで、そうした事実を感知すること(perception)は、その内部で生起する社会的外殻とは全く独立しているかのごとくに。//
 (3)しかしながら、批判理論にとって、そのような意味での「事実」は存在しない。
 感知を、その社会的発生源から切り離すことはできない。
 感知もその対象のいずれも、社会的で歴史的な産物だ。
 個々の観察者は客体<に対して>受動的だが、しかし、全体としての社会は過程のうちにある能動的な要素だ。無意識にそうであるかもしれないけれども。
 確定される事実は、考察者が用いる観念上の諸道具を修繕する人間たちの集団的な実践によって、部分的には決定される。
我々が知る対象たる客体は、部分的には諸観念と集団的諸実践の産物だ。そうした起源に気づいていない哲学者たちは、前個人的で先験論的な意識へと自らを間違って硬直化させている。//
 (4)批判理論は、社会観察者の一形態だと自らを見なし、そのような自分たちの機能と起源を自覚している。しかし、そうであっても、言葉の真の意味での理論ではない、と意味させているのではない。
 この理論の特有の機能は、つぎのことにある。すなわち、現存する社会-労働の分割、知的活動に割り当てられる場所、個人と社会の区別等々-にある規準は、自然で不可避のものだと、伝統的理論がそうするようには、単純に理解することを拒否すること。
 批判理論は、社会を全体として理解しようと追究する。そしてその目的のためには、ある意味では社会の外部の立場をとらなければならない。一方では、自らを社会の産物だと見なすのだけれども。
 現存社会は、その社会の構成員の意思とは別個の「自然の」所産のごとく行動する。そして、このことを理解することは、構成員たちが被っている「疎外」を認識することだ。
 「批判思考は、本当に緊張状態を超越し、かつ個人の合目的性、自発性および合理性と社会の基礎である労働の条件の間の対立を除去すべく努める、という動機をいまや有している。
 これは、人間はこの自己一体性(identity)を回復するまでは自分自身と対立する、という観念をもつことを、その意味に包含する。」
 (A. Schmidt 編, <批判理論>第二巻, p.159.)
 (5)批判理論は、知識に関する絶対的な主体は存在しないこと、その過程は実際には社会の自分に関する知識なのだが、主体と客体は社会に関するその思考の過程でまだ合致していないこと、を承認する。
 この合致は、将来のことだ。しかし、それは将来のたんなる知的な進歩の結果ではなくて、社会生活から擬似自然的な「外部」性を剥ぎ取ることによって人間を再びその運命を宰どる主人に変える、そのような唯一の社会過程の結果だ。
 この過程は、理論の性質に、また思考の機能およびその客体との関係に生じる変化を含んでいる。//
 (6)これから見るように、ここでのHorkheimer の見解は、ルカチ(Lukács)のそれに近い。すなわち、社会に関する思考はそれ自体が社会的事実であり、理論は不可避的にそれが叙述する過程の一部になる。
 しかし、重要な違いは、つぎのことにある。
 ルカチは、歴史に関する主体と客体の完全な統合は、したがってまた社会的実践とそれを「表現する」理論の統合は、プロレタリアートの階級意識の中で実現される、そのことからして、観察者のプロレタリアートの階級観(つまり共産党の方針)との自己一体化は理論的な正しさ(correctness)の保障となるということになる、と考えた。
 Horkheimer は、プロレタリアートの状態は知識の問題では何の保障をも提供しないと宣告して、これを明示的に拒否する。
 批判理論はプロレタリアートの解放に賛成だが、プロレタリアートが自立性を保持するのも望む。そして、プロレタリアートの見地を受動的に受容すると決することを拒む。
 そうでなければ、批判理論は社会心理学に、所与のときに労働者が考えたり感じたりすることをたんに記録することに、変質するだろう。
 正確にいえば「批判的」であるがゆえにこそ、理論は、全ての現存する社会意識の諸形態<に向かいあって>自立したままでなければならない。
 理論は、より良き社会を創造しようとする実践の一側面だ。
 理論は戦闘的性格をもつが、単純に現存の闘争によって作動するのではない。
 社会システムの「全体性」に対するそれの批判的態度は、理論上の発見物に重ねられた価値判断の問題ではなく、暗黙のうちにマルクスから継承されている、観念上の諸装置のうちにある。つまり、階級、搾取、剰余価値、利潤、貧困化のような諸範疇は、「その目的が社会を現状のままに再生産することではなく正しい(right)方向へと変革することである観念体系全体のうちの諸要素だ」(同上、p.167.)。
 理論はかくしてそれ自体の観念上の枠組みにおいて、能動的で破壊的な性格をもつ。しかし、現実のプロレタリアートの意識とは反対になり得るということを考慮しなければならない。
 批判理論は、マルクスに従って、抽象的諸範疇を用いて社会を分析する。しかし、いかなるときでも批判理論は、理論<として(qua)>、それが描写する世界の批判論であり、その知的行為は同時に社会的行為であり、かくしてマルクスの意味での「批判」である、ということを忘却していない。
 それの研究主題は、単一の歴史社会だ。すなわち、人間の発展を妨害し、世界を野蛮さへの回帰でもって脅かしている現在の形態での、資本主義世界だ。
 批判理論は、人間男女が自分自身の運命を決定し、外部的な必然性に服従しないもう一つの社会を展望する。
 そのようにして、批判理論は、そのような社会が出現する蓋然性を増大させるのであり、かつこのことに気づいている。
 将来の社会では、必然性と自由の間には何の違いも存在しなくなるだろう。
 この理論は人間の解放と幸福および人間の能力と必要に適応した世界の創造に奉仕する。そして、人類は現存する世界で他の者たちが表明している以上の潜在的能力をもつ、と宣言する。//
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 第2節②につづく。

2009/L・コワコフスキ著第三巻第10章第1節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章・第1節の試訳のつづき。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート③。
 (11)ドイツ文化に対して惨憺たる影響を与えたナツィズムの勝利によって、当然のこととしてフランクフルト学派の関心は、全体主義の驚くべき成功の心理学的および社会的な原因を考究することへと向かうことになった。
 ドイツとのちのアメリカ合衆国のいずれでも、研究所は、権威を望みその権威に服従する用意のあることを示した民衆の心理を研究する目的で、経験的な研究を行った。
 1936年の共著<権威と家族に関する研究>はパリで出版されたが、経験的観察とともに理論的な検討にもとづくものだった。
 これの主要な執筆者は、Horkheimer とFromm だった。
 Horkheimer は、家族の権威の消失と転移およびそれに対応した個人の「社会化」過程での政治制度の重要性の増大という趣旨で、権威主義的諸装置の成長を説明しようとした。
 Fromm は、心理分析の観点から権威への欲求を解釈した(サドマゾヒズム性)。
 しかしながら、Fromm は、本能と共同的生活の必要の間の不可避の対立あるいは文化の永続的な抑圧的役割に関する、フロイトの悲観主義を共有しなかった。
 フランクフルト学派の執筆者たちは、ナツィズムという現象に多様な側面から光を照らし、その心理学的、経済的および文化的根源を発見しようとした。
 Polleck は、国家資本主義という観点でナツィズムを議論した。彼はこれのもう一つの例を、ソヴィエト体制に見ていた。すなわち、この二つの体制は、国家が指令する経済、国家主義傾向、および強制力による失業の排除にもとづく支配と抑圧という、新しい時代を予兆している、と。
 ナツィズムは従来の資本主義を継続させたものではなく、経済が自立性を剥奪されて政治に従属する、新しい形成物だ。
 この学派のほとんどの執筆者たちは、現今の趨勢、つまり個人に対する国家支配の増大、社会関係の官僚主義化を見ると、個人の自由と本当の文化の見込みは乏しい、と考えた。
 ナツィとソヴィエトは歴史の逸脱ではなく、世界的な動向の兆候だ、と彼らは考えた。
 しかしながら、Franz Neumann は1944年の書物で、より伝統的なマルクス主義的見方を採用した。すなわち、ナツィズムは独占資本主義の一形態であり、その〔独占資本主義〕システムとの典型的な「矛盾」に巧妙に対処することはできないので、その存続期間は必然的に限られている。//
 (12)フランクフルト学派はアメリカで、全体主義体制の特徴である心理、信条および神話を生み出して維持する原因を明らかにすべく、社会心理分析の研究書を出版し続けた。
 これらの中に、反ユダヤ主義に関する一巻本やAdornoらの投影検査法や質問書にもとづく共著<権威主義的人格(The Authoritarian Personality)>(1950年)も含まれていた。
 これは権威を歓迎し崇敬する傾向にある異なる人格的特質の相互関係、およびこれらの特質や階級、養育、宗教のような社会的変数の存在と強さの連結関係に関する研究書だった。//
 (13)Adorno とHorkheimer は生涯にわたってきわめて活動的で、戦後のアメリカとドイツで諸著作を出版し、フランクフルト学派の古典的な文書だと見なされている。
 それらの中には、共著<啓蒙の弁証法>(1947年)、Horkheimer の<理性の腐食>(1947年)および<道具的理性批判について>(1967年)がある。
 Adorno には音楽学に関する多数の書物があるが(<新しい音楽の哲学>1949年、<不協和音-管理社会の音楽>1956年、<楽興の瞬>1966年)、この学派の哲学的概括書である<否定弁証法>(1966年)、実存主義批判書(<本来性という術語-ドイツのイデオロギーについて>1964年)、さらにはそのうちいくつかが<プリズメン(Prismen)>(1955年)に収載された文化理論に関する小論考も、出版した。
 彼はまたScholem と一緒に、二巻本のベンヤミン著作集(1955年)を編集した。
 Adorno の未完の<美の理論>は、死後の1973年に刊行された。
 上記のうち三つの英訳書(<啓蒙の弁証法>、<否定弁証法>、<本来性という術語>)も、1973年に出版された。//
 (14)私は、以下の諸節では、「批判理論」の主要点のいくつかを、年次的順序と無関係に、もっと十分に叙述する。
 Adorno の音楽理論は考慮外にしよう。重要でないという理由によってではなく、この分野についての私の能力のなさによる。//
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 第2節につづく。表題は、<批判理論の基本的考え方(principles)>。

2008/L・コワコフスキ著第三巻第10章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章・第1節の試訳のつづき。
 分冊版、p.347-p.350.  合冊版p.1065-1067. 一部について、ドイツ語版も参照した。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート②。
 (7)実証主義の現象主義的立場と闘う際に、フランクフルト学派は青年マルクスの歩みをたどり、同じ関心によって刺激されていた。
 彼らの目的は、人は実際に何であり、真の人間性(humanity)のための必要条件は何であるかを確認することだった。-これは経験的に観察することも恣意的に決定することもできない、そして発見しなければならない、本質的な目標だった。
 この学派のメンバーたちは、人間のまさにその人間性という理性によって何かのある物の原因は人間に由来すると、そしてとくに、人間は幸福と自由へと至る資格があると、考えたように見える。
 しかしながら、彼らは、人間性は労働の過程で実現される、あるいは労働それ自体が現在または将来に「人間性の本質」を明らかにしてそれを完璧なものにする、という青年マルクスの考え方を、拒む傾向にあった。
 こうした議論では、人間性というパラダイム(paradigm)を忠実に追求することがどのようにして人間は歴史でのその自己創造によって決定されるという考えと調和することになるのかが、いっさい明瞭ではない。
 知的な活動は歴史的実践という束縛を超えることができないという言明がどのようにして、「全世界的(global)な」批判を要求することと一致するのかも、明らかではない。そのような批判では、実践の全体性は理論または理性と対立するのだ。//
 (8)批判的理論のこうした全ての要素は、すでに1930年代にHorkheimerに存在している。Marcuse やAdorno におけると同じように。
 Adorno は、主体性と客体の問題を、そしてとりわけKierkgaard の哲学分析や音楽批判の論脈で、「物象化」の問題を研究した。
 独占資本主義のもとでの芸術の商品性は、彼につねにあった研究主題だった。
 彼には、ジャズ音楽は全体として、頽廃の兆候であると思えた。
 主要な論点は、大衆文化での芸術は「否定的」機能を、すなわち現存する社会の上にありかつそれを超えるユートピアを再現するという機能を喪失している、ということだった。
 彼が反対したのは芸術の政治化というよりもむしろ、それとは逆に、受動的で無神経な娯楽のために芸術の政治的機能が減少することにあった。//
 (9)Walter Benjamin の著作を、マルクス主義の歴史の観点から完全に要約することは不可能だ。
 哲学および文学批判に関するその多数の著作の中には、マルクス主義の系譜を示すものはほとんどない。
 にもかかわらず、彼は長きにわたって、彼が独特に理解した意味での歴史的唯物論の支持者だった。そしてときには、共産主義にも共感を示した。共産党には加入しなかったけれども。
 Benjamin は、マルクス主義とは何の共通性もない、あらかじめ作り上げていた彼自身の文化に関する理論にもとづいて、歴史的唯物論を把握しようとしたと思える。
 彼の親友でユダヤ教の歴史に関する当時の最大の権威の一人だったGershom Scholem は、Benjamin はきわめて強い神秘的性向の持ち主で、終生にわたってマルクスをほとんど読まなかった、と強調している。
 Benjamin はつねに言葉の隠された意味に関心をもち、これに関連して、秘儀(cabbala)や魔術の言葉、および言葉の起源と作用に関して、関心を強めた。
 彼は、歴史的唯物論を歴史の秘密の意味を解くことのできる暗号符だと捉えたように見える。しかし彼は、自分が考察する際の歴史的唯物論の教理は、人間の行動を自然のうちに存在する一般的な「擬態的」衝動と結びつける、そういうもっと一般的な理論の特殊な場合または一つの適用例だと考えた。
 いずれにせよ、彼の歴史に関する考察は一般的な進歩理論あるいは歴史的決定論とは何の関係もなかった。
 それに対して彼を魅惑したのは、歴史、神話学および芸術のそれぞれにある一回性と頻出性の弁証法だった。
 共産主義が彼を惹き付けたと思われるものは、歴史の規則性という信条ではなく、むしろ歴史の非連続性の思想だった(そのゆえに彼のSorel への関心も生じた)。
 死の数カ月前に書いた<歴史概念論(Thesen über den Begriff der Geschichte)>で、彼は、歴史という河の流れに沿って泳いでいるという確信ほどにドイツ労働者運動にとって破壊的なものものはない、と述べた。
 彼の見解によると、とくに有害で疑わしいのは、利用する対象だと自然を見てそれを進歩的に制圧する過程が歴史だとするすマルクス主義の諸範型だった。-これに彼は、技術者支配(テクノクラート、tecnocratic)のイデオロギーの匂いを嗅いだ。
 同じ上の書物で、彼は、歴史は構成物であり、その意味で空虚な、未分化の時間ではなく、<今(Jetztzeit)>で充ち満ちたものだ、と書いた。-現在に絶えず再生される、過ぎ去ったものの出現だ。
 消え去らない「現在性」(presentness)というこの問題は、彼の著作のいくつかの箇所で現れる。
 Benjamin は、過去の永続性について強く保守的な感情をもち、その感情を歴史の非連続性という革命的信条と合致させようと努めた。
 彼はこの後者の歴史の非連続性の考えを、マルクス主義の教理とは反対に、真に内在的な終末(eschatology)は不可能だと考えて、ユダヤ的救世主(Messianic)伝統と結びつけた。
 そして、<終末日>(eschaton)は出来事の推移の自然な継続として現在に出現するのではなく、時間の空隙を通じて救世主(Messiah)の降臨として出現する、という見解を抱いた。
 しかし、歴史の非連続的で厄災的な性格は、意味を生む力を過去から取り去ることはできない。
 Benjamin の、芸術と神話や礼拝の間の古代的な連結の消失に関する多様な両義的で曖昧な考察から読み取ることができるのは、この空隙という断絶が本当の収穫物(pure gain)だとは決して考えなかった、ということだ。
 彼は、かりに文化が存続し続けるとすれば、何がしか本質的なものは人類の神話的な伝来遺産でもって救われて残される、と考えたように見える。
 彼はまた、人間の言語や芸術では創造されないが明示されはする人間の諸感覚(the senses)がもともと存在している、と明らかに考えたように見える。
 彼によれば、言語が意味を伝えるのは、慣習や状況でもってではなく、客体や経験との一種の錬金術師的な親和性によってだ(これとの関係で彼は、言語の起源に関するMarr の考察に関心をもった)。
 実証主義には特徴的な、言語はたんに道具にすぎないという見方は、彼には、技術支配政(technocracy、テクノクラシー)へと向かっている文明の中で、継承した意味を全体的に瓦解させた断片だと思えた。
 (10)Benjamin はときおりマルクス主義者だと告白したが、それにもかかわらず、彼は相当の部分でマルクス主義と一致していたとは思えない。
 芸術の商品化から帰結する多様な形態での文化の退廃に関心をもった点では、彼はたしかにフランクフルト学派と結びついていた。
 彼はしばらくの間はこの学派の他のメンバーたち以上に、プロレタリアートの解放に向かう潜在的能力を信じた。しかし、彼の見方によれば、プロレタリアートは新しい生産様式の組織者というよりもむしろ、神話の影響が衰退するにつれて消滅していった諸価値をいつか回復する、そのような文化の標準的な担い手だった。//
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 第1節③へとつづく。

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