秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

KKベストセラーズ

1115/福島みずほ(社民党・弁護士)の暗愚と憲法改正。

 〇福島みずほ(社民党)は東京大学法学部出身でかつ弁護士(旧司法試験合格者)でもあるはずだが、政治活動をしているうちに、憲法や人権に関する基礎的なことも忘れてしまっているのではないか。
 憲法9条に関する、(アメリカとともに)「戦争をできる国」にするための改正反対という議論は、妄想のごときものなので、ここでは触れない(なお、「防衛戦争」もしてはいけないのか、というのが、「戦争」という語を使えば、基本的な論点になろう)。
 福島みずほは、月刊一個人6月号(KKベストセラーズ)の憲法特集の中で、「国家権力に対して『勝手に個人の権利を制限するな』と縛るのが憲法の本来の目的だった」と、いちおうは適切に書いている。G・イェリネックのいう国民の国家に対する「消極的地位」だ。
 これは国家に対する国民の「自由」(国家からの自由)の保障のことだが、福島はつづけて、「だからこそ」「『国家はしっかり我々の生存権を守りなさい』とも言える」と続けている(p.93)。
 生存権保障は自由権とは異なる社会権保障とも言われるように、国家に対して作為・給付を要求する権利の保障で、G・イェリネックは国民の国家に対する「積極的地位」と言っているように、「自由」(消極的地位)とは異なる。
 「だからこそ」などとの簡単な接続詞でつないでもらっては困る。
 それにまた、福島は東日本大震災で、憲法一三条の「幸福追及権」や憲法二五条の「生存権」が「著しく侵害されている状態」だというが(p.93)、第一に、憲法の人権条項は何よりも国家との関係で意味をもつはずなのに(これを福島も否定できないはずだろうが)、国家(日本政府等)のいかなる作為・不作為によって上記の「著しい」人権侵害状態が生じているのかを、ひとことも述べていない。困った状態=「国家による人権侵害」ではない。
 第二に、生存権にも「自由権」的側面があり、「幸福追求権」は自由権的性格を基礎にしつつ「給付(国務)請求権」性格ももちうることがありうるものだと思われるが(この二つを同種のものとし単純に並べてはいけない)、そのような自由権と給付請求権の区分けを何もしていない。
 ほとんど法学的議論・論述になっていないのだ。
 ついでにいえば、「生存権」にせよ「幸福追求権」にせよ、憲法上の人権であることの法的意味、正確には、それらの<具体的権利性>について議論があり疑問があり、最高裁判決もあることを、よもや弁護士資格取得者が知らないわけはないだろう。
 憲法に素人の読者に対して、震災は憲法上の「幸福追求権」や「生存権」と関係があるのよ、とだけ言いたいのだとすれば、ほとんどバカだ。
 〇阿比留瑠比ブログ5/04によると、福島みずほは、この月刊一個人6月号の文章とかなり似たことを、5/03にJR上野駅前で喋ったようだ。
 こちらを先に引用すると、上のようなことの他に、福島はこうも言っている(阿比留ブログより引用)。
 「先日発表された自民党の憲法改正案は、逆です。国民のみなさんの基本的人権をどのように、どのようにも剥奪できる中身になっています。国民は公益、公共の福祉に常にしたがわなければならない。そうなっています。」
 上記雑誌ではこう書いている。
 「自民党の憲法改正草案には、『この憲法が国民に保障する権利を乱用してはならない。常に公益及び公の秩序に反しない範囲で自由を享受せよ』と書かれています。つまり権力者が国民に対して自由や人権を制限するという意味で、ベクトルが完全に反対になってしまっています。これは、ある意味もう憲法ではないとさえわたしは思います」(p.93)。
 福島みずほの頭自体が「逆に」または「ベクトルが完全に反対に」できているからこそ、このような罵倒になるのだろう。
 自民党改正草案の当該条文は、以下のとおり。
 11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」。
 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
 現憲法の条文は、次のとおり。
 11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
 12条「
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
 このように、第一に、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」等の制約も、前条による基本的人権の保障を前提としたものだ。
 第二に、福島らが護持しようとする現憲法においてすら、
「…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。
 いったい本質的にどこが違うのか。福島が自民党案を「逆」だ、国家権力による人権制限容認案だとののしるのならば、現憲法についても同様のことが言えるはずなのだ。現憲法においても基本的人権を「濫用してはならない」し、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のだ。
 福島みずほの改憲案憎し、自民党憎しは、この人物の頭の中の「ベクトルを完全に反対に」してしまっているようだ。
 この人物に客観さとか冷静さを求めても無駄なのだろう。あらためて、呆れる。
 〇なお、自民党草案は、上に見られるように現憲法の微修正で、マッカーサー憲法ないしGHQ憲法の抜本的な見直しになってはいない。
 九条改正・新九条の二設定はこれらでとりあえずはよいとしても、全体としてはもっと本格的な改正案(新憲法制定と言えるもの)が出されることが本来は望ましいだろう(改正の現実的可能性・戦略等々にもよる)。
 そして、私は上のような二カ条は、とくに(現11条の後半と)12条は、なくともよいと考えている。自民党、立案担当者は、もっと思い切った改憲案をさらに検討してもよいのではないか。
 このあたりは、憲法改正手続法の内容にも関係し、現憲法の条文名(数)を基本的には変えない(加える場合には九条の二のような枝番号つきの新条文にする)という出発点に立っていることによるようだ。
 あらためて調べてみたいが、番号(条文名)も抜本的に並び替える、という抜本的・全面的な改正は全く不可能なのだろうか。このあたりの問題は、産経新聞社の新憲法起草委員たちはどう考えているのだろうか。

0594/勢古浩爾・いやな世の中―<自分様の時代>(ベスト新書、2008)を読了。

 二夜ほどかけて一昨日(15日)に、勢古浩爾・いやな世の中―<自分様の時代>(ベスト新書、2008.04)を全読了。この人のものはたぶん初めて。
 8割程度に異論はない。あるいは、8割程度の叙述に同感する。
 <ミーイズム>と表現した者もいたが、―著者・勢古浩爾(1947年生)は明確に論じているいるわけではないものの―「戦後民主主義(個人主義)」の生み出したのは、<自分教>・<自分病>・<自分様の時代>だったと思われる。
 勢古が「権利と自由」との関係に言及しているのはおそらく次の部分だけだ。
 <「弱肉弱食」の時代になっている。「『食う』弱い者は、自分病の人間である。『食われる』弱い者はまともに暮らそうとする人間…。近代的権利と自由が、前近代的人情と和を求めるこころを食うのである。自分様はのさばり、まともな人間はうつになる…」>(p.121)。この部分は「近代」(主義)批判とも読める。
 こんな文も「あとがき」の中にある。
 「筋金入りの『自分様』たちは、信用や信頼など歯牙にもかけない。それゆえ怖いものなし…。かれらの行動原理は自分の感情の快不快とごね得と損得勘定である」(p.207)。
 かかる「自分様」たちを大量に生み出したのは、憲法学者・樋口陽一が現憲法上の最大の価値理念だとする「個人の尊重」→「個人主義」に他ならないだろう。
 繰り返しているように、樋口陽一を代表者とする戦後の「民主(主義)的」・「進歩(主義)的」憲法学者たちの<罪>はきわめて大きい。そのような憲法理念を学んだ者たちが学校教員になり児童・生徒を教育しているのだ。公務員もまた「戦後憲法学」を学んで仕事をしているのだ。マスコミ人間も同様。

 もっとも、勢古浩爾は、「自分」中心主義→「自分の家族」・「自分の会社」中心主義の「果ては『自分の国』にまで広がる」と書いているが(p.37)、最後の点は留保が必要だ。
 『自分の国』意識=ナショナリズムの希薄さこそが戦後日本の特徴だ、とも言えるからだ。
 但し、必要な国際協力をしない、<自分の国さえよければ(平和であれば)よい>という考え方の広がりも<自分病>の一種だと言えるのかもしれない。

 なお、ついでに書くと、「思い上がった」、「八ケ岳南麓」に「60m2ワンルームの生活空間」たる「仕事部屋」をもつ、単著「おひとり様の老後」で「老後の資金はまたさらに潤沢になった」、「女森永卓郎」らしき(p.78~p.83)、「自分様」上野千鶴子に対する皮肉と批判をもっと多くかつ体系的に叙述してほしかったものだ。

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