秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Figes

2761/レフとスヴェータ31—第11章②。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag- (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
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 第11章②。
 (06) レフは恩赦が「政治的」犯罪者へと拡大されることを望んだ。
 発電施設の技術者たちの中には、内務省から釈放申請をするように言われた者もいた。
 彼らはみな58条11号(反ソヴィエト組織への加入)にもとづく判決を受けていたのだが、これはレフの場合ほど重大でなかった。にもかかわらず、彼らに恩赦が与えられればレフも解放されるだろうという希望を抱かせるのに十分だった。
 彼は4月14日に、スヴェータにこう書き送った。
 「現地の警護官が間違いをしていたと分かった。
 恩赦の対象の拡大なんてないだろう。…。
 なんと残酷な手違いであることか!
 みんな希望で胸をいっぱいにし、家族たちも彼らの解放を期待していたというのに。」//
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 (07) 受刑者の人数の減少によって、木材工場で働く労働者の数が徐々に少なくなっていった。
 材木を切って引き摺り出す収監者が満足にいなかったので、燃料や原材料の供給が劇的に低下した。
 1953年5月に収容所から輸送省へと移管されていた労働収容所当局は、ペチョラで新たに解放された収監者をそのまま雇用することで、人力の損失を埋め合わせようとした。
 受刑者の釈放を監理していた内務省の官僚たちは、いくつかの戦略を使った。
 釈放用書類を与えるのを拒み、鉄道切符を買う金を与えるのを拒んだ。また、どこへ行っても職を見つけられないと警告して、雇用労働者としてとどまり続けることができる誘引材料を提示した。
 彼らのうち何人かは、恩赦によって釈放された熟練工、職人、技術者の後継者となる訓練を受けた。
 この年の末まで、従前の受刑者たちは、運転手、大工、機械操作者、機械工および電気工として訓練を受けていた(レフは、発電施設での仕事を交替して行って、彼らの仕事の一部を行なうよう余儀なくされた。
 しかし、こうして努力してみても、木材工場の生産は急激に減少した。
 計画は達成されず。賃金や手当は減り、ほかの(同様の問題を抱えていた)労働収容施設でのよりよい条件を求めて、自由労働者たちは消え失せていった。
 レフは。こう書いた。
 「ここペチョラでは全体に減少した。とくに手荷物に古いレインコートをもつ者(すなわち従前の受刑者)は、どうすればよいか分からなかった。」(注50)
 (注50) レフとスヴェータは、雨に関係する言葉(例えば「傘」、「レインコート(Mackintosh)」)を強制労働収容所(Gulag)の暗号として用いていた。//
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 (08) 故郷に帰った新しい釈放者たちは、仕事を見つけるのにじつに苦労した。
 ソヴィエトの役人たちは一般に以前の受刑者を信頼していなかった。また、多くの雇用者たちは依然として、潜在的な問題惹起者で「人民の敵」だという疑念をもって彼らを判断し続けた。
 失業の問題は切実だったので、従前の受刑者の中には、あきらめて労働収容所に戻る者もいた。
 自力で何とかやっていくのを助けてくれる家族や友人がいない場合には、彼らに残された選択の余地はほとんどなかった。
 労働収容所は、自由なまたはそれに準じた労働者(賃金が払われるが区画を離れることは認められない)として仕事を確実に得ることのできる、唯一の場所だった。
 1953年の7月頃までに、100人以上の従前の受刑者が準自由労働者として木材工場に雇用されていた。
 1954年の末には、この人数は456人にまで増えた。
 多くは、工業区域の垣根のすぐ外側にある、以前の第一居留区の営舎で生活していた。
 彼らには一月あたり約200ルーブルが支払われた。これは、極北地帯へと自由労働者を呼び寄せるための「北方特別手当」を含まない、最低限の賃金だった。だが、労働収容所の管理機関に週に二度報告した場合にだけ、この手当を受け取った。
 このような労働者の一人は、Pavel Bannikov だった。レフと同じ営舎にいて、モスクワ地方で仕事を見つけられないで木材工場に戻ってきていた。
 レフはスヴェータにこう書いた。
 「彼はここを一時的な停留地と考えていて、この秋に再びよりよい場所を求めて出ていくことを計画している。
 彼は僕にモスクワの印象を語ったよ。記憶で飾られた細々としたことの思い出として、そして新しいものの描写物として。」//
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 (09) Bannikov はスヴェータに会ったことがあった。
 スヴェータはペチョラから釈放されてモスクワへ来る多数の受刑者たちを宿泊させてやった。
 レフは彼らにスヴェータの住所を知らせ、彼女にはモスクワで彼らを助けてやってほしいと告げたものだ。
 6月12日に彼は書き送った。
 「愛しいSvetloe、きみにKonon Sidorovich〔Thachenko〕は、Vitaly Ivanovich Kuzora がきみの家を訪れると言っただろう。—そうでないとしても、僕がきっとそうした。
 そう、ここに彼はいる。彼はとてもきちんとしていて、穏やかでもある。
 僕には、モスクワの事態がどうなっていくのか分からない。
 彼には一晩か二晩の宿泊が必要かもしれない。
 とくに今の時点では、それがきみには不便なことだと分かっている。
 でも、そう長くは続かないだろう。もう一年か、せいぜいあと一年半のことだ。」
 レフには、判決で宣せられた服役期間があとまだ18ヶ月あった。そんなときに収容所からの見知らぬ人々を受け入れるのは、スヴェータには当惑と困惑が増大することに間違いなかった。
 スヴェータはレフと、二年間会っていなかった。これは、1946年に再会したあとでの、最も長い別離の期間だった。//
 ——
 つづく。

2760/レフとスヴェータ30—第11章①。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。 
 これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
 第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。  
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 第11章①。
 (01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
 彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
 その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
 レフは2日後、スヴェータに書き送った。
 「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
 このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
 重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
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 (02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
 3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
 巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
 首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
 数百人が、押しつぶされて死んだ。
 スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
 ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
 スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
 人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
 スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
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 (03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
 大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
 レフは3月8日に、こう書いた。
 「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
 そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
 重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
 スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
 3月11日に、レフにあてて書き送った。
 「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
 そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
 新聞があるのも、よいことです。
 今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
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 (04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
 もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
 レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
 収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
 レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
 候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
 収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
 誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
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 (05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
 3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
 木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
 釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
 レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
 「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
 彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
 最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
 髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
 Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
 そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
 でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
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 第11章②((06)〜)へとつづく。 

2294/レフとスヴェトラーナ19—第5章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.19。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.98-p.105。
 ——
 第5章②。
 (12) レフや他の収監者のために木材工場の内外に密かに手紙を出し入れする自由労働者が、他にも数人いた。
 一人は、Aleksandr Aleksandrovsky だった。食糧供給部に勤務していた、灰色の毛髪の50歳代半ばの人物で、1892年に、Voronezh の近傍で生まれた。
 Aleksandr は第一次大戦を戦い、ロシアの内戦時に赤軍に入隊した。
 1937年、彼は内戦の英雄のTukhachevsky元帥による弾圧に反対して公衆の面前で演説した後で、逮捕された。
 ペチョラでの5年の判決に服したあと、釈放後も、年下の妻のMaria とともに自由労働者としてとどまった。Maria は、戦争中にカリーニンの町からペチョラに避難していた。
 彼女は、ソヴィエト通りにある電話交換所で働いていた。
 二人は二人の小さい息子たちと一緒に川そばの待避壕に住んでいたが、1946年に、工業地帯の中にある住居地区へと移った。
 その家屋は、内部はきわめて窮屈だった。
 壁は、ベニヤ板でできていた。
 小さな(上水道なしの)台所があり、二つの小さな部屋があったが、シングル・ベッドは一つだつた。
 男の子たちは、床で寝た。
 家屋の裏には庭があり、そこで彼らは何羽かのニワトリと一頭の豚を飼った。
 (13)  Aleksandr とMaria は、Strelkov の親しい友人だった。
 二人はしばしば、彼と電気グループの彼の門下生たちを、家でもてなした。
 二人は政治的収監者たちに同情し、彼らを助け、支えることのできる全てのことを行なった。
 Maria は、電話交換所で当局の会話に耳を傾けた。そして、計画されている移送やその他の制裁について収監者たちに警告を発することができた。
 二人はどちらも、収監者たちのために手紙類を送り、受け取った。
 子息のIgol は、「父は、シャツの中に手紙類を隠し、それらを刑務所地帯の内外へと出し入れしたものだ」と、思い出す。Igol は、切手を収集するのが好きだった。
 (レフはスヴェータと叔母たちに、「ここには熱心な切手収集者がいる」ので、違う種類の「面白い切手」を送ってくれるよう頼んだ。)
 Igol はつづける。
 「父は工業地帯のための通行証を持っており、一度も探索されなかった。
 誰も恐れていなかった。父はよく言っていたものだ。『私を処罰しようとさせてみろ!! 』」
 (14) Stanislav Yakhovich は木材工場の機械操作者で、収監者のための手紙密送に関与したもう一人の自発的労働者(voluntary worker)だった。
 レフはこの人物に発電施設で初めて会い、ほとんど取っ組み合いの喧嘩になった。 
 Yakhovich がレフのさらの手袋を取り去り、泥と油脂を付けて返した。
 これはレフが発電施設に来て最初の週に起きたことで、レフは、自分はこき使われるような人間ではないと示したくなった。
 レフは軍隊にいたことがあり、剛強だった。
 彼は、自分が生き延びたのは自分を防御する能力があったからだと思っていた。
 それでレフはYakhovich に跳びかかり、もう一度手袋を取っていけば「顔を強く殴るぞ」と威嚇した。 
 Yakhovich は何も言わず、微笑んでいた。
 彼はレフよりもかなり大きかったが、その喧嘩ごしの言葉にもかかわらず、レフは乱暴な人物ではないと理解することができた。
 二人は、互いに友人になった。
 (15) Yakhovich はLodz〔ウッジ〕出身のポーランド人で、微かな訛りのあるロシア語を話した。
 彼は工業学校を卒業しており、Orel 出身のロシア人と結婚し、二人の子どもがいた。息子は1927年生まれ、娘は1935年生まれだった。
 1937年まで、機械操作者として働いたが、その年に逮捕された。それはほとんど確実に、ポーランド出自が理由だった(彼を「ポーランド民族主義者」とするので十分だった)。
 Yakhovich は、ペチョラ労働収容所での8年の判決に服し、1945年の釈放の後もとどまった。そして今は、工業地帯の鉄条網の垣根のすぐそばの工場通りにある粗末な家屋の一つの中の一部屋で、もう一人のかつての収監者であるLiuskaという名の女性と一緒に生活していた。
 (16) ペチョラで長く過ごしていたので、Yakhovich は、収監者たちに深い同情の気持ちをもち、彼らを助けるために、できることなら何でもした。—使い走り、食糧提供、手紙配達。自分自身にとって大きな危険となるものだったが。
 自分のように妻と離れさせられた収監者には、特別の感情をもった。
 彼は1947年にOrel へと旅をして、妻と娘にペチョラに来て一緒に生活しようと説得したものだ。
 (17) あるとき、レフはYakhovich に、一束のスヴェータの手紙類を渡した。それは、営舎の厚板の床の下に保蔵していたものだった。
 レフはYakhovich に、モスクワまで運んでくれる者が見つかるまでそれを預かって欲しいと頼んだ。モスクワにはスヴェータがいて、彼女が回収する。
 収容所による検印が捺されていないためにその手紙類は非合法で、監視員の探索で発見されれば、没収され、廃棄されただろう。
 レフは分離地区へと入れられて制裁を受けるか、第三コロニー〔植民地域〕へと移送されるだろう。第三コロニーの生活条件はぞっとするようなもので、規則にもう一度違反すれば、懲罰警護車両で送られた。
 Yakhovich は手紙類の束をきつく詰めて上着の内部に隠し、収容所を出る途中にある主要監視小屋へと向かった。
 しかし、監視員は上着のふくらみに気づいた。
 監視員はYakhovich を止めて、それは何かと訊ねた。 
 Yakhovich は答えた。「何て?、これ? ただの紙だよ」。
 監視員は「見せろ」と言った。 
 Yakhovich は、手紙類の束を取り出した。
 監視員は「いや、手紙じゃないか」と言った。 
 Yakhovich は言った。「そうだ。それで何か(so what)?」
 「誰かがこれを投げ捨てた。それで、私はこれを掴んでトイレ区画へ行って、紙として使うつもりなんだ」。
 監視員は手で合図して、通過させた。
 (18) 密送者のネットワークが大きくなるにつれて、レフは、検閲を避ける自信をいっそうもち、ますます率直に手紙を書き始めた。
 この新しいやり方で彼が書いた最初の問題は、数ヶ月間悩んでいた事案に関係していた。すなわち、Strelkov に対する確執で、これは、収容所での人間の性質の暗い側面を晒け出すものだった。
 鉱山技師としての専門的能力によって、Strelkov は実験室の長としての高い地位を得た。実験室で木材工場での生産方法を試験し、制御した。
 他の誰も、彼の仕事をすることができなかった。
 しかし、自分の道を進む彼の「頑固な粘り強さ」(レフの言葉)によって、収容所幹部の何人かが彼から遠ざかった。彼らは、自分たちが生産計画を達成する圧力をかけられているときに、たんなる一収監者によって可能なこと、または不可能なことを告げられることが不愉快だった。
 1943年、Strelkov は、ペチョラ鉄道森林部の副部長だったAnatoly Shekhter と衝突した。Strelkov は、技術基準に適合していない資材を使って建設することを止めさせた。
 この問題はついには収容所当局の最上部にまで達したが、Strelkov が支持された。
 しかし、Shekhter はこの事件を忘れず、それ以来ずっと、Strelkov が行なった全てについて落ち度を見出そうとして、迫害した。
 (19) 1946年12月、Shekhter は作業を監察するために木材工場で数週間を過ごした。
 乾燥室の長—Gibash という名の収監者で、レフによると「嘘つきでペテン師」だとみんなが知っていた—は、自分の経歴のためにこの機会を利用しようとし、悪意をもってStrelkov を非難し咎める文書を書いた。それによると、実際には乾燥しているのに乾燥していないという理由で、作業のために材木を提供することを、Strelkov は拒んでいる。 
 Gibash は検査を求めて近傍の実験所に材木の見本を送り、その実験室は乾燥していると認定した。送る前に彼が自分で乾燥させた、と広く疑われたけれども。 
 Strelkov は、この非難—大テロル時代の用語法では、彼は乾燥した材木の供出を破滅的に遅延させて、工場の計画を破壊した、という非難—にもとづいて解任され、「怠慢(sabotage)」の罪を問われて、MDVの前に引っ張りだされた。 
 Strelkov は技術統制部に対して異議を申し立て、多数の材木標本が試験され、その結果として、自分の地位を回復した。
 しかし、Gibash は、別の訴追原因を見つけた。そしてこの事件は1947年の初めの数週にまで引き摺られた。
 この当時、レフはスヴェータにこう書き送った。
 「これについて、書きたくはありません。とても悲しいことです。でも、これを分ち合えるただ一人はきみです。…
 いったい何が、同じような地位にいる他人の破滅を望ませるのでしょうか? 
 Gibash は絶対に人間ではない。彼はとっくに、そのような言明をする権利を失っている。…
 この長い期間ずっと、僕はStrelkov の平静さと自己抑制を本当に尊敬していた。
 ときどき僕は、彼の妻か娘さんに手紙を出して、彼女らには何と素晴らしい人がいるのかと語りたくなる。
 もちろん、そんなことは馬鹿げている。彼女たちは誰よりもそれを知っている。だから、無分別なくしてそんなことをやり遂げないだろう。
 でも、僕はやはりそうしてしまうのではないか、と怖れています。 
 Strelkov の娘さんは、鉄道技術モスクワ国立大学の学生で、その夫、赤ん坊の子息、母親と一緒にプラウダ通りに住んでいます。
 当局はStrelkov に関して何かをするでしょう。でもゆっくりすぎて、誰に有利に決定するのかを知っているのは神だけです。
 最も理想的な人々がときには、最も暗い道へと入り込むのを強いられます。—僕は全く懐疑的になって、過去だけを信頼しています。」
 良い知らせが1月28日にやって来た。ペチョラ収容所管理機関がAbezで、Strelkov を復職させる決定を下したのだ。
 数週間後、Gibash は、さらに北方にある石炭地域であるVolkuta へと送られた。
 (20) Strelkov 事件は、レフの心の内部に何かを解き放った。
 彼はスヴェータに、より率直に収容所の生活条件について考えていることを書き記し始めた。
 レフを最も動揺させたのは、収容所システムがほとんど全員に対して最悪のものを生じさせた、そのあり様だつた。小さな対立関係や敵愾心が、窮屈な生活条件と生き残ろうとする闘いによって増幅した。
 悪意がわだかまり、容易に暴力へと転化した。
 レフは3月1日に、こう書き送った。
 「僕の大切なスヴェータ、事態の全てについて語る必要がある。
 スヴェータ、きみを愉しませるものを多くはもっていない。たぶん、これを決して書くべきではないのだろう。
 きみはかつて、不快な文章をお終いにするのは必ずしも良くはなく、その必要もない、と言った。
 でも、書き始めたので、書いて終えてしまう必要がある。
 耐えるのが最も困難なのは決して物質的な苦難ではない、ということが分かりますか?
 二つの別のことだ。—外部の世界と接触できないということと、僕たちの個人的な状況の変化は、いつでも予期せぬかたちで生じ得るということ。
 明日何が起きるのか、僕たちには分からない。一時間後のことについてすら。
 きみの公的な地位は変化し得る。あるいは、いつの瞬間にでもどこか別の場所に、ほんの些細な理由でもって、送られるということがあり得る。ときには、何の理由も全く存在しないかもしれない。 
 Strelkov 、Sinkevich(この人は今日去った)、そして多数の他の者たちに起こったことが、このことの証拠だ。
 ふつうの生活では全てのことが誇張されるのだから、これは興味深い(悲劇的な意味で)。
 人間の欠点や弱所と人々の諸行為の結果は、莫大な重みをもつ。
 もちろん美点もある。でも、それはふつうの状況では始めるのに大きな役割を果たさないのだから、ここでは美点ははるかに稀少になって、消失し始めるほどだ。
 悪意は敵愾心に変わり、敵愾心は激しい憎悪のかたちをとる。そして、慈悲深さは無意味なものになり、ひいては何らかの罪へと導く。
 ぶっきらぼうが侮辱となり、疑念は中傷となり、金銭横領は強盗になる。義憤は憤激となり、ときには殺人にまで至る。
 どんな少しでも明確な活動であれ、利己的な視点と世間的な視点のいずれからも、不適切かつ不必要なものになる。
 人が望むことのできる最大のものは、全く退屈な何かだ。辺鄙な片田舎の劇場の案内係の職務のような。その仕事は、個人的生活のために一日あたり少なくとも16時間をきみに残し、少しばかりの金銭も与える。…
 ああ、スヴェータ、今日はとても日射しの好い日なので、僕が書いた馬鹿げたことなど全て、誰の役にも立たない。」
 (21) 「どこか別の場所に移送されること」、これがレフの大きな恐怖だった。
 これは、条件がもっと悪い別の収容所または森林植民地区へと出発する懲罰車両によるものを意味した。
 レフは、「物質的苦難」ではなく、「外部の世界との接触」ができなくなることを怖れた。後者は、スヴェータを意味した。
 警護車両では、監視員は必ず彼の物(「全てが消失する。—印刷物、文書資料、手紙、写真」と彼は彼女に説明した)を奪う。そして、彼は何も書くことができない場所で最後を迎えるかもしれなかった。
 これは、スヴェータが恐れたことでもあった。—いつどの瞬間にでも、レフが消えるかもしれない。そうなれば、彼女はレフと接触できなくなる。
 毎月、木材工場を出発する警護車両があった。
 収容所運営者はその車両を、特定の収監者たちを懲罰し、危険だと判断した集団を破壊するために用いた。
 ある収監者が車両移送へと選抜されるか否かは、通常は恣意的に決定された。また、しばしば監視員または管理員がその者を嫌ったことによるにすぎなかった。
 (22)  病気になること、これがレフのもう一つの恐怖だった。
 他の収容所またはコロニーから収監者たちが到着することは—彼らは「ほとんどつねに体調がはるかに悪く見え、おそろしく不健康だった—、簡単に病気になることがあることを、彼に思い起こさせるのに役立った。
 「栄養障害—衰弱—は、我々の収容所でふつうのことです。
 壊血病もあります。でも、ある程度の対処法と経験があり、夏は緑に覆われますから、相当に御し易い。きみがレモンを齧ってビタミンCを摂れなければ、松葉やいろいろな種類のハーブに十分な量があります。きみは、このことを憶えておく必要がある。
 冬の間は、きみのタブレットをよく服用し、何人かの友人にあげます。
 Anisimov は残りを使い果たしてしまっています。彼は少し壊血病でしたが、今は良くなりました。
 きみのタブレットがどれほど助けになっているか、分かって!! 」
 もしレフが病気になれば、すみやかには回復しそうになかった。かりにもしも、工場の診療所に入ったとしても。
 診療所には一人の医師しかおらず、薬品や食料はほとんどなかった。病気患者用の供給品は、監視員によって決まって盗まれたからだ。
 ——
 第5章②、終わり。

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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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