秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

F・フュレ

2450/F. フュレ・全体主義論⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第6節。
 (1)ヒトラーは疑いなく、ドイツの支配階層、右翼の政界によって権力を与えられた。だが、彼がそこにいたという理由だけで、権力を掌握した。
 彼は右派にいる目的をもって、大衆の大部分を納得させなければならなかった。
 言い換えると、ドイツの支配階層によって操り人形のごとく権力を与えられたのではなかった。
 現実には、彼は長い間、権力の門を叩いてきていた。
 仲間の党員たちがおり、財源等々を持っていた。
 そして、全ての対抗者たちを消滅させるこの機会を得た。
 ドイツでの公然たる異論が封じられたのは、ほとんどは1934年と1935年に起きたことだった。
 私はこれを、ナツィ革命または全体主義の始まりと呼んでいる。
 権力掌握以前からヒトラーには大衆に対する魅力があり、政治的エリートたちとは関係がなかった。
 しかしながら、ドイツ議会の右派の無知のおかげの権力掌握後に、ヒトラーの革命は起きた。その右派を、彼は左翼に対して行ったように壊滅させることになる。
 革命が行なったのは社会全体を服従と沈黙へと縮減することであり、ナツィ体制への忠誠を声明するのを義務づけることで、社会は破壊された。
 ヒトラー・ドイツをスターリン・ロシアに最も似たものにしたのは、この特徴だ。すなわち、イデオロギー的な一党国家。完全であるために、私的生活すら、家族内であってすら、被支配者は制約のもとに置かれるという専制体制。//
 (2)このような体制の最も重要な特質は、社会生活の全体的な統制、完全に自律性がなくなるまでの市民社会の縮小だ。
 だから私は、イタリアは特殊な例だと思う。ファシスト・イタリアは、ナツィ・ドイツが経験したような政治的隷属の程度には全く達しなかったのだから。
 ロシアとドイツには、一つの大衆政党、イデオロギーの絶対的優位性があった、とされる。
 ファシストと共産主義者では国家の長の役割にわずかな違いがある、とも言われる。共産主義体制の場合よりもファシスト体制の場合に、長の役割はより重要だ。一方、共産主義体制での国家の長の機能的側面は、ナツィ体制に比べて、より強調されてはいる。
 そうして、日常生活に関するかぎりでは、二つの体制はお互いによく似ていた。また、両体制はともに、専制政(despotism)の伝統的形態と比べて、全く新しいものだった。
 厳密に用いるかぎりで「全体主義」という言葉が好ましく響くのは、これら両体制は新しいからだ。
 それらに相応しい言葉は、以前には存在しなかった。
 事物が存在して名前が必要となったがゆえに「個人主義」という言葉が1820年と1830年の間にフランスで出現したのと全く同様に、「全体主義」という言葉が、事物が存在するがゆえに作り出されなければならなかった。そしてこの言葉は、ナツィズムとスターリニズムを正確に特徴づけるものとして考案された。
 この言葉なくして我々は何をできるのか、私には分からない。
 この観念を受け入れようとしない者たちは、まともではない党派的な理由でそうしている、と私は思う。
 そのような者たちが代わりにどんな用語を使うのか、私は知らない。//
 (3)「暴政(tyranny)」は、古典的古さをもつ典型的な用語だ。
 この用語は、全体主義の現象がもつ民主主義的側面を考慮に入れていない。
 民主主義的側面とは、イデオロギーの観点を生むということだ。というのは、大衆の間に連帯意識を生み出すために、共通する考えの一体が必要とされ、党または国家の長により宣伝された。そしてこれは、新しい種類の君主政、全体主義的王政、の特徴だった。
 全体主義とは民主主義の産物であり、大衆が歴史に参加することだ。これは、H・アレントに見られるが、他の重要でない思想家にはほとんどない理論だ。
 西側の政治学は、トクヴィルの民主主義思想を理解していないように思える。—個人の平等は自由への途を開けるだけではなく、専制体制への途も開く。
 そして、政治的自由を「民主主義」という言葉と結びつける傾向がいつもある。//
 (4)トクヴィルに関して素晴らしいのは、ともに出逢う人々が自分たちを対等だと考えるときに人間性へと向かう新しい時代が始まった、という彼の確信だ。
 条件の平等は、人々が平等であることを意味しない。そうではなく、仲間である人間に遭遇するときに近代の人間は自分自身がその人と平等だと思う、ということを人類学的に明らかにしている。
 そしてトクヴィルは、これは人間性の歴史における革命だ、と理解した。//
 ——
 第8章、全体主義論、終わり。

2448/F. フュレ・全体主義論⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第8章/第3節。
 Renzo De Felice は、実証主義的歴史家だった。ノルテと違って、哲学を嫌い、事実こそが自分で物語ると主張した。
 彼は認識論的にはいくぶん無頓着で、歴史叙述に必要な莫大な量の予備作業を好まなかった。
 彼の人生は、私のそれに似ている。彼は1956年まで、共産党員だった。
 悲しいことに、最近逝去した。—私はイタリアの新聞のために、追悼文を書いている。
 共産党を離れるときにはよくある瞬間があった、と思う。彼はイデオロギーの眼鏡を外し、物事を違って、真実に即して見たのだ。そして、目を開いた。
 De Felice は、私より以前から共産党の反ファシズムを疑問視していて、面向きの反ファシズムは共産主義を民主主義と分かつものを覆い隠す手段だと正しく見ていた。
 彼はまたイタリアのファシズムに関する著作を書いた。それは、イタリアでは右よりも左に傾斜していた運動に政治的および知的な起源があることを精査した研究書だった。左の運動とは〈Risorgimento〉という社会主義者の極左の伝統のことだ。
 彼の著作のうち最も大きな話題となったのは、ムッソリーニの伝記の第三巻だった。そこでは、ムッソリーニはイタリア史上、かつ1929年と1936年の間はヨーロッパ史上一般で、最も有名な人物の一人だと説明されている。//
 --------
 第4節。
 (1)全体主義の定義自体に議論があるが、私は、イタリア・ファシズムはこの枠に一部だけ適合していた、と考えたい。と言うのは、君主政とカトリック教会の力は強いまま残っていて、たいていの部分でムッソリーニと宥和し、また、彼から敬意を払われていたからだ。
 その体制は、1938年まで反ユダヤ的ではなかった。
 ヒトラーからの類推でのみ、そうなった。
 1920年代や1930年代のファシスト党には、多数のユダヤ人が存在すらした。//
 (2)イタリアの歴史では、ファシズムは一つの黙示録ではなかった。体制は1943年に終末を迎え、ファシスト評議会はムッソリーニを解任したが、これはきわめて異様なことだった。
 イタリア人が決して言わず、De Felice が十分に明らかにしたのは、従前のイタリア・ファシストの多くが1943年と1945年の間に共産主義者になっていて、レジスタンス運動に現れ、サロ共和国(イタリア社会共和国〔ヒトラー・ドイツの傀儡国家とされる—試訳者〕)に敵対した、ということだ。
 これはイタリアでは公然たる秘密だ。戦後のイタリア共産党の多数の党員は、ファシズムから来ていた。
 さらに加えて、これもDe Felice がその書物で説明していることだが、戦後のイタリア民主主義の特徴の多くは、ファシズムから継承している。—労働組合や大衆政党の役割、国家の産業部門。//
 (3)De Felice は非凡な歴史家で、哲学的にはいくぶん狭量だが、素晴らしい洞察力を持っていた。
 彼が書いたムッソリーニの伝記は、権威あるものとして長く残りつづけるだろう。
 実証主義歴史家のように短く散文的に、彼は、イタリア・ファシズムの年代的歴史を提示する。
 彼はこれを、無比の公平さでもって行う。むろんそれによって、彼は20年間、誤解され、侮蔑されたのだった。
 最終的には、良い書物の全てについて言えることだが、彼は成功した人物になった。//
 --------
 第5節。
 追放されたフランスのユダヤ人たちの帰還を、私はよく憶えている。
 きわめて鮮明な記憶だ。
 私は、18歳だった。
 強制収容所の実態は、私にきわめて強い印象を与えた。
 フランスのユダヤ人はユダヤ人犠牲者としてではなく、フランス人犠牲者として帰還してきた。
 (この主題については、ちなみに挙げればAnette Wieworka のもののような、良書がある。)
 彼らはフランス・ユダヤ人社会に同化して、全く自然に、迫害されたのはフランス国民としてだった、と感じた。
 しかし、もっと重要な点は、共産主義者たちがこの時期に、自分たちがナツィズムの主要な犠牲者だ、と考えられるのを欲したということだ。
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようとした。彼らは戦争後に、犠牲者だとする恐るべき作戦に着手した。
 私はこれが全くの作り事で、共産主義者たちは実際にはファシズムによって迫害されなかった、と示唆しているのではない。
 そんなことは、馬鹿げているだろう。
 私が言いたいのは、1939年と1941年の間に断続的に覆い隠されたがゆえにそれだけ一層大がかりに、彼らは自分たちの反ファシズム闘争を利用した、ということだ。
 東ヨーロッパでは、積極的共産主義者あるいは反ファシストたる「ソヴィエト」人民が果たした役割を小さく見せないように、ユダヤ人の苦難は系統的に隠蔽された。
 今では状況は逆になり、我々と同世代の者がナツィズムの犯罪を考えるときにもっぱらユダヤ人大虐殺に焦点を当てがちであるのは、想定するのがかなり困難だ。//
 ——
 全体主義論⑤(第3節〜第5節)、終わり。次節へとつづく。

2443/F・フュレ、全体主義論④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
 ——
 第8章第2節②。
 (7)ファシズムと共産主義を現実に生み出した熱情は、第三者に対するそれらの憎悪だ。
 これとの関係で言うと、E・ノルテ(Ernst Nolte)には、私が基本的に同意する直観があった。これら二つは一緒に扱われなければならないという直観だ。
 近代民主主義のこれら二つの奇怪な申し子について、これ以外に歴史的に考察する方法はない。
 私は、一続きの年代的連鎖でもってこれらは相互に生み合った、とたんに言いたいのではない。
 言いたいのは、もっと深い意味で、共同社会(community)についての二つの民主主義的展望は一方は人類の普遍性であり、他方はネイションだということだ。
 そしてこのことは、フランス革命以来今までがどうだったかを示している。//
 (8)E・ノルテの見方では基本的には技術がもたらした二種の厄災があった、ということを理解しないままでノルテを理解できるとは、私は思わない。二種とは、ナツィと、共産主義だ。
 共産主義は、ノルテが「超越」と呼んだものだ。つまり、人々の熱情は自分たちを超え、自分たちの有限性から自由になる。彼が狂気と考えた熱情だ。
 一方、ナツィズムは有限性に全体的に浸ることであり、超越が不可能であることに対する制裁だ。 
 ノルテにとっては、これら二つの体制は同じ問題の二つの形態だ。//
 (9)ノルテの歴史的考察はハイデガー(Heidegger)の強い影響を受けている、と私は思う。ハイデガーは彼の教師だった。私は、表面的にだけハイデガーを知っている。
 〈幻想の終わり〉の第一章で明らかなように、私の哲学的着想はトクヴィル(Tocqueville)から得ている。
 私はトクヴィル的だ。共産主義とファシズムの現象を、トクヴィルが用いた意味での「民主主義」の発展と関係づけている。
 20世紀は、民主主義の最初の世紀だった—19世紀はまだ貴族政に浸されていた。そして、二つの過激な民主主義批判者を生んだ。一つは、普遍主義過剰の形態の、もう一つはナショナルなまたは人種的な共同社会の名前をもつ批判者だ。//
 (10)このことは、平等という世界観の骨格上の曖昧さを、私に思い起こさせる。それは、自由をもたらしたばかりではなく、前例のない専制体制(despotism)の二つの形態をも生んだ。
 暴露されたように、ああ、後者の形態は、人間の自由の悲劇的な実例を提供したのだ。
 道徳の側面では、あるいは神学の観点からしてすら、自由の実践は20世紀には、悪(evil)の問題によって劇的に行われた。
 これは、我々の歴史の神秘的な部分だ。アウシュヴィッツで絶頂に達することになる部分だ。
 私は、E・ノルテが示す前提条件に従ってはいない。
 しかし、彼は依然として偉大な歴史家であり、実際、哲学者以上にはるかに歴史家だ。 
 彼は初めて、1963年の〈ファシズムとその時代(Der Fachismus in seiner Epoche)〉で、ファシズムの基盤を形成し極左と共通する要素を含む、今日では忘れられるか検閲に引っかかる思想の大風景を論述し始めた。
 私の見解では、当時では、共産主義とファシズムを連結させるのはせっかちすぎた。これらとムッソリーニの関係を通じてであれ、ボルシェヴィズムにたいするファシズムの反動関係を通じてであれ。
 しかし、彼は、第一次大戦のあとのヨーロッパの全光景に関する知識という収集物を用いる。そして、それについて、何が新しいものかを示す。
 ドイツでの彼に対する侮蔑的運動を、当惑なしで理解することはできない。
 E・ノルテはたしかに保守派で、20世紀のドイツの運命に苦しんでいる。しかし彼は反ナツィの保守派で、急進的な反ナツィですらある。彼は、ヒトラーがドイツの伝統と文化を破壊したと考えているのだから。
 ユダヤ人に関して言うと、彼は決して、ときに婉曲に指摘されたようには、ホロコースト否定論に傾斜してはいない。
 彼は反対に、この問題については完璧に明確だ。//
 (11)ドイツ人を免罪したことについて、我々はたぶん、彼を非難できるだろう。
 ドイツ人の側には〈特別の〉責任(responsibility)はない、ユダヤ人大虐殺は他者によって行われ得ただろう、さらに、ソヴィエトの犯罪の方が先行していた、といった考え方が明らかにしているのは、理解し難く感じられる思い込み(preoccupation)だ。
 先に言及したファシズムに関する彼の書物の第一巻は、モーラス(Maurras)についてだ。
 E・ノルテがファシズムの先駆者としてフランスの政治思想家を選んだのは偶然ではない、と考えざるをえない。実際には、モーラスの実証主義はファシスト思想の特徴である非合理性とはほとんど比較し得ないのだけれども。//
 (12)ノルテとの最近の会話で、私は、自分の見方では誤っている、ナツィズムとファシズムはボルシェヴィズムの帰結にすぎないとする考え方、に立ち戻った。
 ノルテにとって、ナツィズムの基本的要素は反マルクス主義であり、反共産主義だ。そして彼は、年代的連続関係を因果関係にまでした。すなわち、ヒトラーはレーニンの産物であり、スターリンのそれでもある。
 このことで彼は、内在的な起源を、ナツィズムのドイツ的起源を、消去しようとする。
 ナツィズムをドイツ的根源から切り離そうとするのだ。
 しかし、彼は少なくも、ナツィズムの歴史という問題を取り上げる。この問題は今日では、過去を理解するために抽象的な教訓主義で埋め合わせることによって、軽視されている。//
 ——
 第8章第2節、終わり

2440/F・フュレ、全体主義論③。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
 ——
 第8章第2節①。
 (1)三方ゲームというだけではない。ファシズム、自由(liberal)民主主義、ボルシェヴィズムの三つ全ては、歴史上の比較し得る意義を分け持った。
 ファシストにとって、ボルシェヴィズムは自由民主主義の未来だった。ファシストは自由民主主義を、ボルシェヴィズムを培養する基盤と見なしていたのだから。
 反対にボルシェヴィキにとって、自由民主主義は、ファシズムを培養する基盤だった。彼らは、自由民主主義は必然的にファシズムになると考えていたのだから。
 結局のところ、これらは三つの陣営だった。そして、中間にいる一つは、他の二つへと導く経路にすぎなかった。
 要するに、ファシストにとっては、自由民主主義の真実はボルシェヴィズムであり、ボルシェヴィキにとっては、それはファシズムだった。
 ファシストとボルシェヴィキのいずれも、相手が聴こうとすることを多く語った。
 そして、両者ともに、ブルジョア民主主義を一緒になって攻撃するができるようになった。かつ、両者ともに、ブルジョア民主主義の最終的な継承者だと主張したのだ。//
 (2)神秘的であるのは、人々がブルジョアジーを嫌悪していることではない。
 民主主義者にとって、ブルジョアジーを嫌悪するのは「ふつう」(normal)のことだ。
 ブルジョアジーは、その正統性が全て富に由来する階級だ。したがって、象徴的価値を待たず、正統性がない。
 ブルジョアジーを好ましい階級にするのはむろんのこと、尊敬できる階級にすることは決してできないだろう。
 ブルジョアジーを侮蔑することは、現代社会の夢の一つだ。
 しかし、そのことは必ずしも、20世紀に充満した恐怖につながるわけではない。
 神秘的であるのは、物事がひどく悪く進行し、体制がひどく犯罪的で、そして反ブルジョア感情があのような集団的狂気(collective madness)にまで至った、ということだ。
 近代世界はこの300年間、ブルジョアジーへの憎悪を引き摺ってきている。
 そしてついには、その憎悪とともに生きている。
 その憎悪から、芸術や思想を作り出してすらいる。
 だが、正統性のない地点から我々はどうやって、あの収容所に、数百万の死に、肉体と精神に対して向けられた暴力に至ったのか?
 私の問題は、これを「神秘」と呼んでいるのだが、20世紀の悲劇的性格だ。//
 (3)我々は、全てを理解したとか、説明したとか、そういう自惚れには抵抗しなければならない。
 とっくに時代の政治的熱情の底に到達し、それを育てた複雑な条件をもう一度作った。
 しかし、20世紀のヨーロッパの文明化の程度とその歴史の特徴である残虐な狂気の間にある対照さについては、理性的な説明が行われていないままだ。
 制服を着たドイツ人の集団的加虐性は、Daniel Goldhagen が叙述したけれども解明しなかった神秘のままだ。//
 (4)H・アレントはたしかに、20世紀の偉大な目撃者の一人だった。その著作への私の敬意には留保がつくけれども。
 彼女の思考はしばしば混乱していて、ときには矛盾しており、少しばかり煽動的だ。同時に反モダン、反ブルジョアジー、反共産主義者、反ファシスト、反シオニストでいることはできない。そして、これらを全て拒否したとしてもまだ、20世紀の政治の歴史に関して明瞭に思考することはできない。//
 (5)分かるだろう。H・アレントの歴史の仕事は弱い。—例えば、彼女は〈全体主義について〉の最初の二巻で、深い専門的知識をとくには示していない。
 彼女のドレフュス事件(Dreyfus Affair)の知識は大雑把なもので、同じことはファシズムの由来に関する彼女の知識についても言える。
 彼女のあの大著の歴史の部分は、むしろ総じて弱い。
 素晴らしいのは、悲劇、収容所に関する彼女の知覚力だ。
 H・アレントは、このようなことが起きたのは人間の歴史上初めてだと主張する。
 そして、彼女は、Vassily Grossmann とともに、だが別個に—もう一度言う、彼らだけであり、二人ともにユダヤ人で、彼はソヴィエト軍におり、彼女はアメリカへの亡命者だった—、アリストテレス、モンテスキュ—、あるいはマックス・ウェーバーが説明することのできない恐ろしい仕組みにある何かを見た、その何かを理解するには我々には新しい道具が必要であるものを見た、最初の人物だった。
 私が彼女に対して最も敬意を払うのは、近代民主主義の観点から、個人で成る社会や民主主義的細分化と技術の射程から、彼女はファシズムと共産主義を論述しようとしたことだ。
 彼女は哲学者として、「全体主義」という観念を再び作出した。
 私が示そうとしたのは、H・アレントよりも前に何人かの20世紀の思考者はすでにこの観念を探究しており、部分的には発展させていた、ということだ。
 彼女はほとんど極端なほどに、その観念を利用した。//
 (6)全体主義という観念は、ナツィズムとスターリニズムにある比較対照することのできない側面を持ち出して、つねに反駁され得る。また、両者にある比較対照することのできるものを用いて、つねに擁護することができる。
 別言すると、私はこの観念に執着しないけれども、スターリンのソヴィエト同盟とヒトラーのドイツにある比較対照可能な要素を的確に指し示すために、なおも私はこの観念を用いることができる。
 しかし、全体主義という思想が最も厳格な形態を持たされ、ナツィ・ドイツとスターリン体制にはともに新しい政治的観念があり、同じ経験的実体が組成されていると理解するのは、行き過ぎているだろう。//
 ——
 ②へとつづく。

2435/F・フュレ、全体主義論②。

 表題を書名から、章名の〈全体主義論〉に改めた。
 「F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬」=「全体主義論①」だったことになる。
 ——
 第8章/全体主義論・第1節②。
 (6)そのような本の一つは、Waldemar Gurian の〈ボルシェヴィズムの将来〉だ。この書物は、実際にナショナル(国家)社会主義に関するものだ。そして、ロシア人起源のドイツのユダヤ人がこのタイトルの本を1934年に執筆したというのは、驚くべきことだ。彼はこの書物で、ボルシェヴィズムの最も完璧な形態は技術的支配力を理由にドイツ人が見出すだろう、と言っている。
 彼はすでにカトリックになっていた。
 カトリシズムに転宗したペテルブルクの法律家の子息だった。
 Waldemar がまだ幼かったときに父親が死んだあと、母親がドイツに移住し、彼はドイツで育った。
 全く入り組んだことだった。彼はロシア系ユダヤ人で、カトリック転宗者で、執筆した最初の本はMaurras と〈Action française〉に関するものだった。
 私は偶然に、シカゴ大学図書館の書架を周っていて、〈ボルシェヴィズムの将来〉を発見した。シカゴ大学図書館は、主題で分類された書物のある、アメリカの諸図書館により探索者が利用する自由を認められた有り難い施設の一つだった。
 私は熱心にこの本を読んだことを憶えている。このWaldemar Gurian とはいったい誰なのかと不思議に思いながら。
 何人かの同僚に尋ねてみたが、誰も知らない。そして結局、戦後のアメリカでの経歴にもかかわらず急速に忘れられていたこの著者への鍵を電話で教えてくれたのは、友人のReinhart Koselleck だった。
 さて、Gurian は1934年に、ボルシェヴィキの企図はその最大の具現化をヒトラー・ドイツに見出すだろうと、想定していた。//
 (7)同じ考えは、その時期のトーマス・マンの〈ジャーナル〉に見られる。ロシアとドイツの比較が多数掲載されていて、共産主義ロシアはドイツ・ナツィズムの原始的範型として現れる、とする。
 同じ年代にフランスでは、両者の比較はつぎのように進められた。Simone Weil の1936年の諸著作、Élie Halévy の〈L’ère de tyrannies〉(1937年)、そして、共産主義との決裂後のA・ジッド(André Gide)の〈1937-1938年のジャーナル〉。
 1938年にJacques Bainville は〈独裁者〉というタイトルの書物を刊行した。その本で彼は、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンを並列させた。
 要するに、「全体主義」という言葉と関連させているか否かは別として、この主題は両大戦の間の時期に、決して稀なものではなかった。
 むろんのことだが、1939年と1941年のあいだに、盛んになった。ドイツ・ソヴェト協定の時期だ。
 私は〈幻想の終わり〉の執筆中に、全体主義を主題として1940年に催されたアメリカの学会の会議録を掘り出した。その会議での議論は、ヒトラーとスターリンの両人を中心に据えていた。
 こうした議論があったことは、つぎのことを示している。すなわち、H・アレント(Hannah Arendt)は出典を参照要求していないのだが、彼女はファシズム・共産主義の比較対照をした最初の人物ではなく、1950年の著名な書物でこれを再び行ったにとどまる。この当時は、第二次大戦の最終的な過程のおかげで、この比較対照をするのが憚られるようになっていたのではあった。
 タブーは、ヨーロッパできわめて長くつづいた。フランスで、ドイツで、イタリアで。それは、例えばアメリカ合衆国でそうだったよりも長く、強かった。
 今なおドイツでは、このタブーが持ち出されなければならない。
 きわめて不思議なことに、1960年代の左翼運動の波の中で、アメリカの諸大学でこれが復活した。//
 (8)私はたぶん、それを説明するよりもましな叙述するという作業をしたのだが、それとは、20世紀の民主主義的な男女の政治的熱情、その情動の大きさが原因となって、自分たちが生きているブルジョア社会を忌み嫌い、ファシズムや共産主義のような極端なイデオロギーの有利に働いている、ということの神秘さ(mystery)、だ。
 ブルジョア社会に対するこの憎悪、これと結びついているその矛盾への批判により生じる恥ずかしさの感覚は、ブルジョアジーそれ自体と同じくらい古い。
 これらは、2世紀にまたがってドイツとフランスの思想と文学の糧(fodder)となった。
 いったいどのようにして、この熱情は、幼稚だろうと教養があろうと、多数の人々のこころと意識を、多様な分野からファシスト革命または共産主義ユートピアを抱擁するまでにいたらせたのか。これが、私が理解しようとしている謎(enigma)だ。
 これは、我々の時代が避けようとしている疑問だ。なぜなら、一方では、ファシズムはその犯罪性にだけ光が当てられて理解され、なぜ魅力的だったのかを我々が問うのを封じている(実際に魅力的だったのだ)。そして他方では、反ファシズムを言い訳にして、我々はソヴィエト体制の犯罪を覆い隠しつづけている。//
 ——
 第8章第1節、終わり。原英訳書、p.53〜p.57。

2434/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第8章へ。この章は、本文総計81頁のうち計26頁を占め、最も長い。中途に1行の空白のある場合は、意味ある区切りだろうと判断して、試訳者において「節」に分けている。
 ——
 第8章・全体主義論(Critique of Totalitarianism)①。
 第1節。
 (1)私の意図は全体主義の歴史を研究することだった。この全体主義の言葉と思想は、1920年代早くに、社会生活の全領域の国家による絶対的掌握を表現するために—イタリアでムッソリーニのファシズムとともに、そしてフランスとドイツで—出現した。
 しかし、私はレーニンとスターリンの間の移行の時期に関する章を、「一国社会主義」の考えがどのようにしてボルシェヴィズムの普遍主義的な野望についての移行を惹起したかを検証すべく、執筆した。この移行は、ボルシェヴィズムをいくぶんかファシズムへと接近させた。
 私の分析では、この時期に、全体主義思想のソヴィエトの経験への拡張が時代の語彙の中に現れる。
 (2)「全体主義的」(totaritarian)という形容詞は、イタリアで生まれた。
 私の知る範囲では、これを生んだのは、ムッソリーニだった。
 歴史学上の意味論では、我々はいつも、概念が生まれたときに立ち戻っている。
 特定の言葉について、その最初の使用を発見した、というのが確実なことはない。
 だがなおも、「全体主義的」はイタリアのファシストが考案したのだと思える。諸個人の生活の全ての側面が集合体と国家に連結している、ということを表現するためにだ。むろん、諸個人の生活の全ての側面をについて個人を包み込む(encompass)「全体的」(total)国家の存在を表現するためにも。
 この言葉のもう一つの起源は、〈全面戦争〉、「totaler Krieg」のようなドイツの右派による「total」という形容詞の使用だ、と私は考える。
 E・ユンガー(Ernst Jünger)は「全的軍事動員」(total mobilization)という語を用いた。
 ドイツ右派の構成員のあいだに、第一次大戦は、紛争が「全面戦争」になったという意味深い考え方を生んだ。これは、重要なのは生や死ではなく全体としての交戦国家の力(forces)だ—戦闘員の軍事意識だけではなく全ての政治的熱情、労働の全能力だ—ということを意味した。 
 ユンガーは、戦争への労働力の投入、生産力としての労働、を強調した。//
 (3)第一次大戦の間は、「total」や「totalitarian」という言葉は共産主義の世界とは何の関係もなかった。
 私の見解では、これらの言葉がファシズムと共産主義の両方を指し示す二重の意味を持つのは、ナツィズムとスターリンのソヴィエト同盟のあいだに比較し得る特性が現れた、1930年代だった。
 しかし、1925年と1930年の間のドイツの「ナショナル・ボルシェヴィズム」は特殊な場合だと見ることができた。つまり、スターリンの勝利を利用した移行であり、ドイツの極右に対して例示するための構築の真ん中にスターリンがいる状態だった。
 「total」や「totalitarian」が二重の意味を持つのはこの時期に始まった、と私は思う。
 そして、いつものことだが、新しい言葉の考案は、何か重要なことを知らせることになる。//
 (4)共産主義を本質的に反ファシズムだと定義するのは、たんなる消極的定義であり、その本来の敵とは正反対の特質を定義するものだ。すなわち、ファシズムが自由に敵対的ならば、共産主義は定義上、自由を好ましいものと見なすものだ、等々。 
 この言葉の対比は、マルクスならば「観念論的」と称しただろう。イデオロギーと意図の次元にのみ存在するものだからだ。しかし、ヨーロッパの左翼の想像力をふくらませた。
  この対比に何がしかの「唯物論的」重みを加えるために、共産主義者は経済へもこれを利用しようとした。いわく、ファシズムは金融資本主義の産物だ。ゆえに、唯一の真の反ファシストは必然的に反資本主義者であり、つまりは共産主義者だ。
 このテーゼは、馬鹿げている。しかし、20世紀に広範に流布されて、しばしば正しいものとして受容された(今日では利用できる歴史的反証があるにもかかわらず、一定の範囲ではまだ残っている)。正しいと受けとめられたということは、知的な首尾一貫性ではなく、政治的熱情からその力を得た、ということを示している。
 もう一度、オーウェルの判断に戻ろう。20世紀の左翼は、反ファシストだが、反全体主義者ではなかった。—これは、共産主義思想が果たした顕著な役割に関する、卓越した要約だ。//
 (5)戦争があり、数千万の死があった—反ファシズムの名のもとで死んだ共産主義者がいた。そのために、ファシズムと共産主義を比較対照することがタブーになった。
 第二次大戦が終焉して以降は、流された血の威嚇的効果は決定的だった。
 そして、誰もあえてナツィズムと共産主義と比較しようとしなかった。なぜなら、両者は戦場で顔を向け合って対決したのであり、赤軍はヨーロッパをナツィの抑圧から解放するに際して力強い、指導的ですらある役割を果たしたのだから。
 つぎの者を除いて、誰も比較対照をしなかった。当時はまだ無名だったV・グロスマン(Vassily Grossman)とH・アレント(Hannah Arendt)。後者は、収容所の視点から、戦争後すみやかに類似性を感知した。
 しかし、戦後すぐにタブーだったことは、1930年代にはそうではなかった。
 当時では、ファシズムと共産主義を全体主義という概念のもとで比較することは、全くふつうのことだった。
 私が歴史学に寄与したと思う一つは、全体主義は決して第二次大戦後の思想ではなく、1930年代の多数の著作者の文献に見出され得ることを、明らかにしたことだ。//
 ——
 第8章第1節①、終わり。

2433/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑫。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第7章へ。途中に「+」のついた空白の1行があるので、短いながら、節を分ける。下線は、試訳者。
 ——
 第7章・ボルシェヴィズムの魅惑(The Seduction of Bolshevism)。
 第1節。
 (1)私は明らかにしたいのだが、ボルシェヴィズムに関する尋常ではないものは、その魅惑(seduction)の可塑性だ。
 これの三つの類型を挙げる。第一に、B・スヴァーリン(Boris Souvarine)は、フランスの伝統でのジャコバンであるがゆえに、最も単純だ。
 第二に、P・パスカル(Pierre Pascal)は、ロシアと教会連合を熱愛した、反マルクス主義キリスト教者だ。
 彼の場合はすでに、理解するのがむつかしい。
 第三は、G・ルカーチ(Georg Lukács)で、より突飛ですらある。この人物の出身は、ニーチェ、キルケゴール、およびその種の著作者だ
 彼は、芸術愛好家、ユダヤ人銀行家の息子、オーストリア=ハンガリーの伊達男で、ブダペストのカフェやウィーンでよく知られていた。
 換言すると、知識人には、可能なかぎり異なっている、三タイプがある。
 そして、少しのちに、イギリスのファビアン派(Fabians)が現れた。
 ボルシェヴィズムは、ヨーロッパの全ての知識人界を揺さぶった。
 ボルシェヴィキ思想はどのようにして、かくも多くの文化的伝統—シュール・リアリスト、ニーチェ主義者、フランス・ジャコバン、イギリス・ファビアン派—をその周りに集めることができたのか?
 社会民主主義者たちは、少し大きい抵抗を示した。彼らはボルシェヴィキ・ボルシェヴィズムと同じ宗派育ちであり、通暁していたからだ。
 しかし、反共主義者と呼ばれるのを恐れて、おとなしくしていた。//
 (2)イギリスの場合は独特だ。プロテスタントの国民と文化を巻き込んでいるのだから。
 ブルームズベリー・グループ(the Bloomsbury Group)の特徴は、反既得権益層、フランスのシュール・リアリストのそれに似た反ブルジョア的耽美主義だった。
 耽美的反応による親共産主義者というこの流れは、この世紀中ずっとイギリスの知識人界を貫いた。
 1930年代のCambridge は、その一例だ。
 しかし、イギリスの共産党は、フランス共産党と違って、議員が選出されたりする現実的にナショナルな存在となることができなかった。
 おそらくその理由は、フランスでは多数の例が提示されたような、演劇的かつ悲劇的な解体の場面をイギリスの国民は露骨に見ることがなかった、ということだ。
 忠実な活動家は、全ゆる罵倒を浴びせられる「背教者」に変わった。
 --------
 第2節。
 (1)共産主義者の最大の犯罪は、先ずロシア人に対して、次いでポーランド人—西ヨーロッパにとって忘れられた人々—に対して、冒された。
 パリ、ローマ、あるいはロンドンではしばしば、共産主義に関する歴史的判断はロシアやウクライナの農民層の廃絶、殺戮または追放された数百万の人々、強制収容所(the Gulag)、カティン(Katyn)に基づいている。
 トゥール(Tours)大会での分裂や共産党とのつながりがなければ、左翼はもっと早くもっと頻繁にフランスを支配していただろう。このことを忘れて、フランス人は、人民戦線や有給休暇の名前でもって共産主義を理解してきた、としばしば言われる。//
 (2)共産主義者が最も非難されるべき行為は、ソヴィエト体制に関してうそをついていたことだ。
 我々は、彼らが行ったことよりも—結局はフランスのような国では彼らはたいていは天使の側にいたのだ—、むしろ彼らが言ったこと、あるいは逆に言わなかったことを、非難することができる。
 彼らは決して、うそをつくことを止めなかった。
 今日ではあまりに巨大で、あまりにも明瞭だと見えるこのうそは、意図された欺瞞であったことだけで、あれほどにまで共有され、信じられたのではなかった。
 このうそは、20世紀に、ソヴィエト同盟がその歴史的伝説の一つだと想定される、民主主義的普遍主義を求める熱情に、遭遇したのだ。
 このことが理由となって、共産主義は、暴力や独裁に反対する勢力から狂信的に守られなければならなかった。//
 (3)普遍的なものを求めるこの熱情が我々の同時代人たちに対して及ぼした力に、私は衝撃を受けている。
 今日の豊かで平和な国々で、若い世代のための政治の大路は、人道主義(humanitarianism)だ。
 人間の諸権利は、階級闘争に置き代わった。そして今のところ、同一の目標、人間性の解放に役立っている。
 しかし私は、 それは政治を明晰に判断するのを回避するもう一つの路にすぎないのではないかと、不思議に思って(wonder)いる。//
 ——
 第7章、終わり。


2432/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑪。

 試訳、つづき。下線は試訳者。
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事②。
 (4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
 私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
 私は哲学者ではない。
 歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
 歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
 実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
 ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある
 どこでも、そういう声を聞く。
 出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
 相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
 しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
 (5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
 ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
 アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
 これは全く印象的だ。
 アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
 多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
 (6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
 私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
 その作業は、すでになされている。
 私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
 サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
 彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
 私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
 しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
 今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
 これは、全く正しくない。
 フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
 かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
 ——
 第6章、終わり。
 

2429/F・フュレ、うそ・熱情、幻想⑨。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
 ——
 第5章・革命の過去と未来②。
 (6)ソルボンヌの学生たちは、70年間、フランス革命はロシア革命のための控えの間(antechamber)だった、と教えられた。
 博識溢れる大学—Georges Lefebvre はフランス革命に関する素晴らしい学者なのだから—にいた世代は、ほとんど比較不能であるこれらの事件を、比較できたのだろう。
 フランス革命は社会を創設し、農民とブルジョアジーを豊かにし、ネイションの中にすぐに著しく堅固な社会的基盤を見出した。
 ロシア革命は、社会全体を粉砕し、農民層を破壊し、単一党を打ち立てた。
 ジャコバンを除いて、二つの革命に関して比較し得るものは何もない。//
 (7)これとの関係で、イギリス史とフランス史を比較してみよう。
 イギリス人は17世紀に革命をもち、彼らの王を処刑し、短期間の共和制のあと、正統な王朝の復古があった。この王朝はすみやかに1688年に、新しい王室の招聘によって遮られた。
 少なくとも部分的にフランス革命と比較することのできる一連の出来事。—これは、テルミドール9日から今日まで、行われてきた。
 それにもかかわらず、イギリスの歴史学の伝統は、マルクス主義者を除いて、イギリス革命を祝福しないで、それを抹消する傾向にあった。
 Tory であれLiberal であれ、歴史家が祝福するのは1688年、革命の終焉だ。これは、先行した大反乱(Great Rebellion)と名づけられたものと区別するために名誉革命(Glorious Revolution)と称されることになる。
 一方、フランスの歴史家は2世紀の間一貫して、フランス革命を創設的事件たる地位にまで昇らせてきた。
 フランス革命を呪詛するときですら、歴史家たちは、その例外的性格だけを強調する。
 そうして、右であれ左であれフランスの人々は、その時期のきわめてナショナルな冒険譚でもって、動じることなく過ごすことができ、フランスの文学で継続的に英雄視した。
 なぜ、こんなにも対照的なのか?//
 (8)いくつかの要因が、考慮されなければならない。
 17世紀のイギリス革命は、宗教に傾斜していた。
 それは、聖書文化が染み込んだ闘士によって起こされたもので、きわめて平等主義的な特徴をもつにまで至った。
 1789年のフランス革命とは異なり、イギリスの革命家たちは、伝統に直面した際に白紙(tabula rasa) を提示しようとはしなかった。そうではなく反対に、聖典の黄金時代への回帰を追求した。
 イギリスの歴史の中で、革命はノルマン人の侵略に先立つ時代からその方向を見出した。かくして、フランスの1789年とは違って、起源についての卓越した威厳がなかった。
 イギリス人は一つに、O・クロムウェル(Oliver Cromwell)以前の彼らの歴史を奪われなかった。
 二つに、彼らは国家プロテスタント教(state Protestantism)のかたちで自分たちの宗教的基盤を再確認し、更新してきた。
 さらに、1688年に彼らの革命は幸運な結末を迎え、その時代にあった暴力と内戦を消滅させた。
 1649年の国王殺しの記憶ですら、新しい王朝によるネイションの再統合によって抹消されたことだろう。
 イギリスは、革命を手段として、咎めるというよりもむしろ、その伝統を強固なものにすることができた。//
 (9)フランスの歴史では、革命思想は民主主義思想と不可分だ。
 これらを分離することはできない。
 民主主義思想、構築主義思想、人間の自己創造という思想。
 これらは全て、革命思想の中に刻み込まれている。
 我々が今日に不幸であるのは、もはや革命思想を有していないことが理由だ。
 まるで我々の政治的文明は切り取られたかのごとくだ。
 社会主義者たちは、革命を実現することができなかったために、20世紀のあいだずっと、共産主義者たちよりも劣っていると見なされた。
 第二次大戦が終わり、私が青年だったとき、改良主義者であり得るという考え方は、私には理解不能だった。我々が経験している諸事態と対比して、不適切だと思われたからだ。—あまりにも狭隘で、平凡で、魅力に欠ける考え方のように思えた。
 赤軍がベルリンを奪取してナツィズムを粉砕したとき、ボルシェヴィキの革命思想には比類のない、真に普遍的な輝きが、復活されなければならない想像力が、あった。それは、歴史家へも求められるべきものだろう。そのような想像力は、我々のソルジェニーツィン(Solzhenitsyn)後の時代には、もはや考え難いのだから。//
 ——
 第5章、終わり。

2428/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑧。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)  第5章・革命の過去と未来①。
 本文はつぎの9の主題・表題からなる。順に、①思想と情動、②世界の終わり?、③ネイション—普遍的なものと個別的なもの、④社会主義運動・ネイション・戦争、⑤革命の過去と未来、⑥歴史家による追求、⑦ボルシェヴィズムの魅惑、⑧全体主義論、⑨過去から学ぶ。
 連続しているのではないが、便宜的に各「章」として、さしあたりまず、第5章を試訳する。2回で完了の予定。
 ——
 第5章・革命の過去と未来①。
 (序)ロシアの社会は、1917年と1921年の間に粉々に破壊された。
 テロルと強制収容所を考案したのは、スターリンではなかった。
 党内の分派が禁止されたのは、1921年の第10回党大会でだった。
 我々は、レーニンがほとんど絶望の中で死んだことを、知っている。
 このことは、彼の著作物、最後の論考、病気が緩和していた間の考えから知られる。
 つまり、レーニンは状況を多大なる悲しさをもって見ていた。そして、たしかに、レーニンとスターリンとの間には、違いがあった。
 しかし、レーニンが先にいなかったとするなら、いったい誰がスターリンのことを考え得るだろうか。
 (1)「うそ」という言葉の意味について、一致はない。
 ソヴィエトのうそについて語るとき、私は、レーニンまたはトロツキーにあるどんな積極的なうそについても語ってはいない。
 私は、客観的なうそについて語っている。
 ソヴィエトと労働者の権力に関するうそは、ソヴィエトはいやしくも労働者の権力だとか、あるいは民主主義的な権力ですらあるという、間違った考え(false idea)だ。
 このうそは、言葉と事実のあいだの、公式に裁可された矛盾を指し示す。//
 (2)ジャコバン主義(Jacobinism)は、ソヴィエトに先行した超革命的経験だった。しかし、ソヴィエトは、まるで自分たち自身の革命の初期の形態のごとく、それを取り込んだ。
 ボルシェヴィズムの魔術の一つは、ブルジョアジーを廃絶したがゆえに急進的で新しい革命は、革命的主意主義(voluntarism)の歴史に先行者を持つ、というものだった。
 そうして、ボルシェヴィキは両面の役割を果たした。まず、過激で新しいけれども、伝統に則っていると主張する。そして、ジャコバン主義は独裁、テロル、主意主義、新しい人間の称揚、等々をボルシェヴィキが見出したところだったので、その伝統はジャコバン主義にのみあり得た、と主張する。
 魅惑的なことは、フランス革命以降の革命は政治的な伝統になってもいた、ということだ。それは、1917年十月のために役立った。//
 (3)十月とレーニンは復活するだろうと、私は思う。
 スターリンは消滅し、捨てられるだろう。
 しかし、レーニンはなおも、輝かしい将来を当てにすることができる。とくに、トロツキストの途を通じて。トロツキーは、スターリンの犠牲者としての立場によって—最終的には—利益を得た。
 テロルの犠牲となったテロリストたちの処刑は、処刑者としての彼らの役割を拭い去ることだろう。
 フランス革命期のダントン(Danton)に、少し似ている。
 我々はいま、彼らが再生されるのを見ている。彼らは、最終的にスターリニストたることを免れ、神話を再び新しく作っているがゆえに、姿を大きくしている瞬間にある。
 十月はつねに、その最初にあった魔術の何がしかを維持し続けるだろう、と私は思う。そして、創建の契機、夢、歴史から引き裂かれた一瞬にとどまり続けるだろう。//
 (4)これら全ての背後には構築主義思想(constructivist idea)があることを、忘れてはいけない。
 永続的に作出される対象としての社会、という考え方。
 驚くべきことは、この思想はその起源をロシアにもったに違いない、ということだ。驚くべきというのは、ロシアは、その思想が具現化されるのに最も適していない国だからだ。
 これはロシアの異質性(foreignness)に関係がある、と私は思う。
 西側は数世紀にわたって、ロシアは何かが出現しそうな、神秘的な国だという考えを抱いて生きてきた。
 このような感覚は、近代の始まりの時期にあった。
 ソヴィエトの神話が誕生するに際して、この神秘さは少なからぬ役割を果たした。
 全ての出来事ははるか遠くで起きた、奇妙なものだった。
 西側には、ロシアについての、一種の終末論的見方があった。共産主義よりも古い見方だ。//
 (5)もっと注目すべきなのは、多数の人々が共産主義思想を理由として、ロシアはヨーロッパの一国であるばかりかヨーロッパ文明の前衛(avant-garde)だと想像している、ということだ。
 ロシアが共産主義の覆面を剥ぎ取られた今日ですら、ヨーロッパの人々にはロシアをどう理解すればよいかが分からない。 
 ヨーロッパ人は、習慣と対比の両方から、もう共産主義でないのだから「リベラル」だ、と見なす。
 これは明らかに、馬鹿げている。
 我々が痛々しく再発見しているのは、ロシアはヨーロッパにとっていかに異質(foreign)か、ということだ。//
 ——
 第5章①、終わり。英訳書本文、p.31〜p.34。
 

2427/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑦。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 〈 〉は原文中で、斜字体(イタリック)の部分であることを示す。この欄の他の「試訳」でも同じ。
 ——
 序文・第3節②。
 (8)<省略>
 (9)本書が以下で示すとくに興味深いのは、〈幻想の終わり〉についてのフュレの最終的な考察を全て集めていることだ。この書物は彼の最後の本であり、彼に国際的な高名をもたらした。
 かくして、この考察は、知的な遺書だと見なされ得る。
 政治的な遺書でもある。民主主義の将来に関する著者の最後の怖れを再び述べているからだ。
 この主題に関する多数の他の著作を考えれば、本当に新しいものはない。しかし、若干の補正部分を発見することはできる。その部分はこの考察に感動的な次元を与えている。
 さらに加えて、この考察には、〈幻想の終わり〉がつねに論評の対象だった数ヶ月のあいだにフュレが決まって用いていた表現が見られない。
 わずかな違いは看取し得る。自己批判の途を開いており、あの書物の中心にあった一定の章の調子を弱めている。
 我々は、ノルテ(Ernst Nolte)に関連していると見た。
 それを、この書の全体主義に関する節に認め得るだろう。すなわち、フュレはつねにこの観念には批判的な距離をおいていた。一定の著述者がこの観念で持ち込んでいる濫用ぶりと怠惰さに、気づいていたのだ。
 彼は、最後に意を決して、その観念へと戻る。//
 (10)これで、読者には助言が与えられた。
 編集された文章の全てがそうであるように、以下のページは直接に過去から来ているのではない。 
 <1文、略>
 一つの見方からすると、喪失を伴うがゆえに、<口語から文語への>変更は痛ましい。
 彼の言い回し、長く抑制されている肺結核の負担のある息使いは、彼の会話に特殊な調子を与えている。
 他方で、口語から文語への変化が必要とする批判的な荷重は、くだけた口語体の文章にはしばしば欠ける主題を明確にしている。
 編集者として、とりとめもなく不完全に書いてきた。
 このことを明確にしておくことで、私は困惑作成者ではなく〈文章の演出者〉だと見なされることを望んでいる。//
 ——
 序文、終わり。
 なお、この本の成り立ちのほかF・フュレはすでに故人であることが背景的理由の一つだと思われるが、フュレによる本文計81頁(後注を除く)に対して、以上の「序文」だけで計27頁もある。通常の書物に比べて、やや多すぎるだろう(以上、試訳者)。

2426/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 ——
 序文・第3節①。
 (1)(2)<省略>
 (3)1970年代以降リクールの近くで仕事をし(シカゴ大学でやはり教えていた)、またFrançois Azoubi が討論を仕切るよう頼んだJeffrey Barash (Barash は議論のあいだときには長々と喋った)のように、リクールは見えざる会話者になった。
 本書が示すように、リクールは全体に不在だったのではない。
 歴史家(フュレ)は哲学者(リクール)の論及、分析、回答、そしてときには異論に、反応している。
 近くで聴いている読者は、リクールの声をときどきは聞き分け、少なくとも考えを理解し、そうしてインタビューの様子、あるいはもっと正確にその調子を想像することができる。//
 (4)<省略>
 (5)指針は、可能なかぎり簡単だった。すなわち、1997年のフュレの草稿で使われている元々の言葉を尊重すること。
 フュレは著述の文体にとても注意を払っていたので、対話の過程を示す文章の順序は、二つだけの例外を除いて尊重された。
 二つのわずかな移動はフュレの論旨の一貫性を補強するためのもので、 私がカセットの番号と面を示した注記となって、この書物のフランス語版(この翻訳書ではない)の特徴になった。
 私はまた、フュレがリクールに宛てた1997年3月6日の長い手紙の主題に則した見出しを挿入するのが有益だと考えた。
 最後に、公刊される文章の会話での起源を想起させる、ときにある口語的表現の大部分は、そのまま残した。自分の著作で話し言葉を嫌うフュレを尊重して、一部は除去したけれども。//
 (6)<1文、略>
 フュレはときどき、うまく表現されていないと感じた文章を削除した。
 一つの例は、彼がどのように話し言葉を書き言葉に変えるかを示すに十分だ。
 最初のインタビューの第一ページで、フュレは、共産主義思想のソヴィエト同盟による具現化を、こう述べていた。
 「ソヴィエト同盟の歴史は共産主義思想とは何の関係もない、と容易に言うことができるがゆえだ—実際に人々は私にそう言った—。
 そして、その結果として、共産主義思想は、なおも無傷のままだ。
 私は全面的に同意する。
 政治では、これは完全に防御的な観点だ。
 しかし、歴史家はこれを防衛することはできない。なぜなら、私は、50年前に共産主義思想とはソヴィエト同盟だったことを示すことができるからだ。
 30年前、共産主義思想とはソヴィエト同盟だった。
 そして今日では、我々はソヴィエト同盟の経験を忘却することによって、またはソヴィエト同盟は共産主義と何の関係もないと言うことによって、歴史を粉飾することができる。しかし、これは歴史的には、防衛できるものではない。
 政治的には、正当化し得る。」//
 (7)フュレはこの文章を放擲し、つぎの段落の文章でもって補填した。
 「共産主義思想は、一つの抽象的思想として、ソヴィエト同盟の消失とは関係がない。
 共産主義思想は、資本主義社会と分ち難い欲求不満から、金銭が支配する世界への憎悪から、生まれたというかぎりで、その思想の「現実化」に依存していない。
 それが必要とするのはただ、ポスト資本主義世界の抽象的な希望だ。
 それにもかかわらず、そのときから、それの喪失を帳消しするのは不可能な歴史を持った。帳消し行為は左翼のあちこちで試みられているけれども。
 しかし、ソヴィエト同盟は社会主義や共産主義と何の関係もなかったと言うことで、たしかにこの歴史を取り消すことができた。あるいは、1924年までは全ては素晴らしかったが、その年に全てが悪くなったと言って、トロツキストの見方へと元戻りすることで。
 しかし、いったい誰が、こうした否認を信じることができただろうか?
 歴史の真実は、全員が記憶喪失者でない筈の多くの人々が目撃した真実は、ソヴィエト同盟はその歴史の全てを通じて、共産主義の希望を何とか具現化することができた、ということだ。その体制が存在しているあいだずっと、我々と時代をともに生きた多数の人々の心にあった希望を。
 私が理解しようとしているのは、この具現化の神秘であり、あんなにも特別で悲劇的な歴史の普遍的な不思議さだ。」//
 ——
 序文・第3節①、終わり。

2425/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ④。
 ——
 「序文」第2節②。
 (7〉どんな文章を、フュレは指し示したのか?
 <3文、省略>
 彼の第一の関心は、美しさがその内容の適切さから浮かび上がってくるような正しい言葉を見出すことにあった。
 かくして、彼はインタビューの最初の部分で、「幻想」と「ウソ」という言葉に関して整理することになる。
 「この二つの観念は重なり合っていない。ウソは策略のための意図的行為であり、幻想とは、想像に基づく熱情が発生させる過ちだからだ。
 共産主義は、体系的なウソで成るものだ。例えば無知な観光者のために組織された旅行や、より一般的には運動において〈agi-prop〉(煽動的プロパガンダ)が果たした役割が証明しているように。だが、その主な力は何か別のものに由来する。つまり、20世紀の人々の政治的想像力に対する影響。
 それは、ウソだけでは覆い隠すことのできない、共産主義がもつ神秘的な普遍性の根源にあるものだ。
 私が研究したいのは、まさにこの側面だ。すなわち、信念(belief)の歴史。
 この歴史を不思議なものにしているのは、(1) その信念が裁きの場としての「本当の(real)」歴史を認知していること、(2) それにもかかわらず、その信念はいわゆる「本当の」歴史によるきわめて激しい論難を生き延びた、ということだ。
 要するに、歴史家は、悲劇へと接合された希望をどのようにすれば説明することができるのか?」
 (8)第二の部分は、この最初の考察から容易に派生してくる。 
 フュレはかくして、政治的信念と宗教的信念の比較をすることをリクールに提案した。
 このような試みをすることは、対話の順序の全体的な変更を意味した。最初のインタビューでは、かなり表面的な形式でのやりとりがあって初めて現れるだろうこの問題は、無視されていたのだから。
 我々はここに、口頭での対話を生の素材だとフュレが理解していたことを知ることができる。その素材は、聴取者ではなく読者に提示する価値のある最終的な作品に変えられなければならないものだった。//
 (9)そして、第三の段階へといたった。
 二人の対話者はどちらも、分析を好んだ。フュレが十月の「魔法」と呼んだものについて彼は〈幻想の終わり〉の長くて密度の濃い章を使うことになるのだが、これが、会話の中心となった。
 「これに関して言うと、一定の文脈から掴み出して、討論の筋を取り戻す問題にすぎない(例えば、我々があまりに早く通り過ぎている問題だが、民主主義文化における普遍的なものとナショナルなものの間の関係)。
 この主題は、我々の議論の中核部分を構成する。」//
 (10)「幻想」の検証から厳密に言えば「全体主義という観念、その射程と限界、の分析」へと進むのは容易だっただろう。
 全体主義の観念はフュレには馴染みがないものだ。彼はこれをほとんど用いず、濫用を遺憾に思いつつ、この観念の利用を非難したくなるような政治的主題のあることを、しばしば指摘してきた。
 この部分で彼は、予期されなくもなかったが、ナツィとソヴィエト体制の関係や民主主義的Modernity はむろんのこと、ナツィとソヴィエト体制の比較の可能性のような、多くの関連する問題を持ち出すことになる。
 フュレはまた、Claud Lafort の全体主義権力に関するテーゼについての議論も予告した。そのテーゼでは、「多数の者を一つにすることによる集団的存在の中での、政治的団体思想への一種のギリシア芸術的回帰をしての、民主主義的諸個人の再統合」と把握される。//
 (11)フュレはこう書いた。「不可欠の叡智を用いる」ポスト共産主義の民主主義の将来でもって、公刊されるインタビューは終えることができた、と。
 こうした関心は、生涯の末でのフュレの「物悲しい」心の裡にあった。そして、リクールとの対話の間にしばしば浮かび上がったように見える。
 フュレの死の数週間前、1997年に撮られたインタビューの映像で、哲学者(リクール)は二つの全体主義の比較へと、そして彼が「留保」していた観念へと、戻っている。
 リクールにとって、二つのユートピアは、それらが採用した手段に多くの類似性はあるけれども、「比較不能な」ものだ。
 そして、西側文明を組成した偉大なるユートピアを殺してしまうことで、啓蒙主義的な楽観的見方は人類に未来を残さないäままで終焉した、とフュレは正しく考えてきた、と語って、リクールはフュレとの対話を再開していた。
 それ以降、民主主義によって惹起された革命的熱情は、いったいどうなったのか? 民主主義はいつも手続き的で、その熱情を満足させられなかった。
 二人がやり取りした文通には、この疑問が漂っていた、とリクールは肯定した。—悲しくも不完全になった—その文通はインタビューの書物化を準備していた数ヶ月のあいだ行われたが、その書物は日の目を見ることがなかった。//
 ——
 序文・第2節②、終わり。

2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ③。
 ——
 「序文」第2節。
 (1)ノルテとフュレが歩んだ途の交錯が全くの驚きではないとすれば、フュレと哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)の遭遇は、さらに予期され得ないものだった。
 たしかにこの二人のフランスの学者は、ともにシカゴ大学と関係があり、リクールは1970年以降、フュレは1980年以降、この大学で定期的に教えていた。
 しかしながら、この近接さだけでは結果を生まなかった。
 二人は大学で会っていたけれども、交際関係はなかった。
 彼らの知的および政治的行路が遠く離れているということはなかった。
 彼らの仕事の内容が全く似ていないということもなかった。
 そして二人は際限のない好奇心をもつ知識人だったけれども、誰も二人は異なる感受性または関心の対象をもっているとは考えなかっただろう。//
 (2)フュレとリクールが1989年3月4日に出会った証拠はある。その日、フュレはフランス革命に関する歴史叙述の変化についてSociété française de philosophie で講演をしていた。
 討議の中で—注目すべきことに、Maurics de Gandillac、Andre Sernin、Jacques Merleau Ponty も参加していた—、リクールはつぎのように質問した。
 「<省略—試訳者>」 
 フュレの回答は簡潔だったが、哲学者の仕事からするといくぶん陳腐だったとしても、褒め言葉を含んでいた。
 「あなたの書物に、とくにそこに示されている規律についてのあなたの考えに、歴史家たちは何と多大な関心を寄せてきたことでしょうか。」
 フュレは残りの時間を、若干の文章で反応した。フランス革命史でDenis Richet とともに展開した分析にある修正を付けて。会話は終わった。//
 (3)フュレとリクールが一緒に語り合い、共産主義の世紀の検証に取りかかるには、いくばくかの奇跡が必要だった。
 それは哲学者のFrançois Azoubi から生まれることになる。当時、Calmann-Levi の編集者だった。Robert Laffont のほか、この出版社によって、フュレは〈幻想の終わり〉の成功を獲得した。
 同じ年にポール・リクールによるインタビュー・シリーズである〈La critique et la convention〉を刊行していたので、Azoubi は、哲学者と歴史家の同様の遭遇を企画しようとした。
 フュレの本の重要さ、その稀に見る成功、その性質—歴史と哲学の中間—からすれば、ポール・リクールのような哲学者の注目を惹かないはずはなかっただろう。リクールは、思考と著述の方法に関して、歴史家たちに絶えず問いかける人物だった。
 Azoubi は、リクールが〈幻想の終わり〉を賞賛しているのを聞いた。リクールはその書物を、ペンを手に取りながら読んでいた。//
 (4)さらに、フュレの大著は、歴史家や自分自身の著作について叙述する際に、リクールが依拠することできるような類のものではなかった。
 それとは反対に、歴史認識というのは、フュレが科学的な考察をしようとはほとんどしなかった、むしろ懐疑的なものだった。
 だがなお、〈幻想の終わり〉はリクールの書棚の目立つ場所に置かれており、その書物の数十頁には彼自身の手によるメモが書かれていた。
 そうした頁には、率直な興奮の中に、疑問をもっての当惑も見られた。
 「どうしてこんなに断定的なのか?」
 「歴史的論拠は本当に十分なのか?」
 「どんな種類の歴史なのか?」
 「Pensr la Revolution française に関係」
 「イデオロギー的熱情の盟約」
 「だが、この終結で全部なのか?」
 「ブルジョアの素晴らしい素描」、等々。//
 (5)フュレとリクールの会話は、1996年5月27日に行われた。
 それは録音された。—テープは保存されなかったけれども。そしてすぐに、文字に起こされた。
 この最初の対談の痕跡は、Ecole des hautes etudes en sciences sociales(EHESS)のCentre d'etudes sociologiques et politiques Raymond Aron(CESPRA)のフュレ資料庫に残っている。
 最初の状態では公刊できないもので、体系的でなく、話し言葉ばかりで、多くを草稿化することが望ましかった。しかし、たぶん編集者だったAzoubi によると、将来の見込みが十分にあった。
 こうして、フュレとリクールは対談をできるだけすみやかに再開するよう、要請された。
 「François Azoubi は我々が会話をつづけて深化せることに賛成でした。このことで少なくとも、あなたとも一度、この冬に会うことが愉しみになりました。」(フュレ)
 すぐれた二人の知識人は忙しい生活を送っていたので、関係文書は数ヶ月の間、閉じられたままだった。
 再び開けられたのはつぎの春で、1997年3月19日に二人は再会した。//
 (6)その数日前の3月6日、フュレは対話者(リクール)に手紙を送った。
 この手紙は、言葉のやり取りの仕方を設定しようとし、素材を改めて調整することを提案していた。
 実際的に見ると、これは、録音から文字起こしした文書から、くだけた部分を全部削除することを意味していた。
 フュレが怖れた、間違って選んだ表現はむろんのこと、曖昧で自然に任せた部分は全て、思考が進行する動きを反映した構成をもつ、滑らかでよくこなれた文章に置き換えられなければならなかった。
 これは、とても興味深い手紙だ。口頭での言葉を書き言葉に変える作業を率直に明らかにしている。また、フュレがほとんど下品はお喋りだと考えたものを公にすることを歴史家や哲学者が受容しなければならないことの一種の暴露または欺瞞すらも、明らかにしている。
 フュレは、9月22日に、リクールにあててこう書いた。
 「こうした頁を読むとき、ぞっとするでしょう(私が語った言葉の全ての間違いのゆえにです)。」
 以下が示しているように、フュレの厳格さは過剰なものだった。//
 ——
 第2節②へとつづく。


 furet

2420/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)③。

 フランソワ.フュレ、うそ・情熱・幻想。
 =François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ②。
 ——
 (6)この成功の理由を、どう説明することができるか?
 共産主義について明らかにすべきことは、大して多くは残っていなかった。
 反共産主義文学の偉大な伝統を支えた気持ちの悪い記録は、もう消え去ったように思われた。
 フュレの貢献は、弾劾にあるのではなかった。
 彼もまた、前の世代の共産主義経験はつぎの世代のためには何のためにもなっておらず、同じ幻想を抱かせることはないことを知っていたし、しばしば悔恨をもって肯定した。
 じつにこのことこそがその書物の目的だったのだから。目的は、歴史の叙述をすることではなく、20世紀の共産主義思想が作り出した革命的熱情の力強さを説明することにあった。
 非難することではなく、理解することだった。
 諸現象、というよりもむしろ共産主義の消失の「謎(enigma)」の対象化が、この書物を有用にしたものであり、結論を異にする人々にとってはひどく苛立たせるものだった。//
 (7)こうした視覚からの著作が好ましく受けとめられたことには、たしかに、20年前にSolzhenitsyn の〈The Gulag Archipelago(収容所群島)〉が華々しい成功を収めたのに似た状況が有利に働いていた。
 二つの書物には一世代の違いはあるが、同じイデオロギー上の潮流に属している。
 共産主義を捨て去っていく長い過程は1970年代半ばまでには始まっており、通常は知識人界に含まれるいくつかの個人の集団ばかりではなく広く「左翼(Left-Wingers)」階層全体に影響を与えていた。その過程は、世紀の終焉とともに終わった。
 フランソワ・フュレが関心を持ったのは、この最終的な段階だった。
 彼の書物は死亡確認書であるとともに、解剖診断書でもある。
 激情が彼の大胆さを正当化している。犯罪科学の外科医には、死体を無慈悲に扱うことが許されているように。
 ナツィズムと共産主義の比較、さらに悪いことにこれら二つに共通するように見える頑迷な思考方法こそが、フュレが最も挑発的に論争対象にしようとしたものだった。
 (8)この点で多くの者は、ファシズムに関する三巻の大著の著者であるドイツの歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)との対話を行なったとして、フュレを非難した。
 ノルテがドイツの右翼(Right)と親近的だったことは、彼(ノルテ)をほとんど異端者にした。とくに、国家社会主義とファシズムについてのドイツの歴史家たちが対立した1980年代の〈歴史家論争〉以降のことだが。
 ナツィズム、ファシズム、および共産主義の比較可能性は、ノルテが最も論争主題としたもの一つだった。
 フュレは、この種の禁忌に煩わされるような人物ではなかった。彼にはつねに、その見解ではとくに左翼は安易すぎるとして、知識人の知的順応性を批判する用意があったのだ。
 〈歴史家論争〉はおそらく、彼自身のフランス革命解釈をめぐっての騒然とした歴史的かつ政治的な論争を、生々しく思い起こさせるものだったに違いない。//
 (9)彼は、〈幻想の終わり〉の長い脚注の中で初めて、ノルテに対する異論を明らかにした。それは、その書物にはほとんど脚注がないことからしても、驚くべきことだった。
 彼は、20世紀の二つの形態の全体主義を並置させるのを禁じる、歴史の「反ファシスト」解釈を打ち破ったことについてノルテを称賛しつつも、ノルテによる反ユダヤ主義(anti-Semitism)の解釈には同意できないと表明した。
 フュレによると、ナツィの反ユダヤ主義を「理性的」に正当視するのは、きわめて「衝撃的でかつ間違った」ものだった。//
 (10)イタリアの雑誌の〈Liberal〉が、遠く隔たっている二人の主唱者が手紙を交換したらどうかと提案した。
 二人の歴史家は、1995年の末から書簡交換を始め、1996年じゅうずっと続いた。
 各手紙は、フランスの〈Commentaire〉とイタリアの〈Liberal〉で、1997年のあいだに公表された。
 文通の全体はイタリアで同年に公刊されたのだが、二人はその数ヶ月前の1996年に、ナポリのFondazione Ugo Spirito で開かれた会合で初めて出会った。
 彼ら二人は、1997年6月にナポリで開催されたリベラリズムに関する会合で、もう一度だけ逢うことになる。それは、7月12日のフュレの突然の死の、わずか数週間前のことだった。//
 (11)フュレはおそらく、この議論の後半でしばしば文通の相手に対して、フランス革命の歴史家は動揺している、または最終的には保守的立場へと転じた、という印象を与えたことを後悔していただろう。
 いずれにせよ、(本書で)つづくインタビューを読むと、フュレがノルテと遭遇したことが影響を与えている部分をいくつか看取することができる。ちなみに、ポール・リクール(Paul Ricoeur)は、ノルテと書簡交換したことを、少しも咎めてはいない。
 このインタビューは、ノルテとの遭遇を正当化する最後の機会だったように見える。
 フュレは威嚇されたのではない。それにもかかわらず、自分の選択に責任を取っている。——死の数日前に彼がノルテに書き送った最後の手紙で、リベラリズムに関するノルテの歴史的分析の「幅広さと聡明な寛容さ」を称賛した。——彼はときおり、苦い味が残ったと感じていた。//
 ——
 「序文」第1節、終わり。

2419/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)②。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 <試訳者注>つぎの「序文」は「+」を付けて一行空けている部分が二箇所あるので、便宜的に三つの節に区切る。
 ********
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ①。
 第1節
 (1)フランソワ・フュレはかつてフランス共産党の活動家で、1949年に入党し、1956年のハンガリー蜂起に対する弾圧のあとで徐々に遠ざかった。彼はつねに、自分自身の過去に染み込んだ政治に関する考察を活発に行なってきた。
 彼は、共産主義の魔術に関して思考することを決して止めなかった。そして、彼によれば、共産主義は我々の物事に対する理解を曖昧にするものだった。—フランス革命についてそうであるように歴史についても、ソヴィエト同盟についてそうであるように厳密に政治についても。あるいはこれらは、歴史的具現物としての共産主義と、より一般的に関係していた。
 彼は休みなく、フランス革命に関する共産主義的歴史理解と闘った。そして、この最初の闘いを継続しつつ、革命の200年記念日が過ぎてベルリンの壁が崩壊したあとでは『共産主義という幻想』の歴史を含めて、分析の範囲を拡大した。//
 (2)彼は1990年代のまさに最初に仕事を開始し、共産主義に関する資料を集め、よく使われた書類をもう一度開き、新しい研究を古い考察や先入観念と結びつけた。
 彼の歴史研究上の転換点は、評論雑誌の〈Le Debat〉に公刊した長い論文で明確になった。
 そして、1990年10月、この歴史家は〈L'enigme de la desagregation communiste〉と題する論文を〈Note de la Fondation Saint-Simon〉に発表した。
 これは、数年後に〈幻想の終わり〉となったものの萌芽だった。//
 (3)1990年11月21日と22日に二つの記事のかたちで〈Le Figaro〉に掲載され、また11-12月号での〈Le Debat〉により、この『Note』は、フランソワ・フュレを共産主義の終焉に関する偉大な分析者の一人としての地位を確立することになる。
 Robert Laffont 出版社のCharles Ronsac はたまたま南西フランスのSaint Pierre-Toirac でのフランソワとデボラ・フュレの隣人だったのだが、論文をより実質的な書物にするよう彼を激励した。
 こうして、〈フランス革命の省察〉の著者は、彼が長年にわたって研究した革命的メッセージに含まれている約束実行の悲劇と共鳴するように思える別の世紀へと関心を移した。
 フランス革命に関する歴史家として賞賛したにもかかわらず「おぞましい書物」だと映画監督のJean-Luc Godardが見なした書物が、まさに生まれようとしていた。//
 (4)このこと(おぞましさ)は、書物の冒頭に置かれて「革命的熱情」と題された最も辛辣な章の一つの新しい〈Note de la Fondation Saint-Simon〉での事前出版によって確認された。
 1995年1月、〈Le Passe d'une illusion(幻想の終わり)〉が出版された。
 初回の注文は出版上の成功だった。すなわち、1ヶ月半の間に7万部が売れた。
 6ヶ月後、〈Le Nouvel Observateur〉でのベストセラーリストの上位にあった。
 1996年6月、10万部が売れた。そしてすみやかに、18言語へと翻訳されることになった。//
 (5)批判的な反応は、想定され得た。
 この書物は一般メデイア、テレビやラジオの文芸番組、文書媒体の主要な公刊物の注目するところとなった。むろん、政治家たちや著名なヨーロッパの知識人の注意も惹いた。この人々に対して、評論雑誌の〈Le Debat〉は、雑誌の特別号で議論の場を提供することになる。 
 反応の多くは、この書物の基本的主張(theses)を支持した。さらに重要なことに、力作(tour de force)だとして、この著作を賞賛した。
 実際に、Jean-François Kahnが何度もテレビで表明したように、確かな成功だと感じざるをえなかったことで、ある程度の人々は苛立った。
 最も信頼できるこの書物の対抗者たちですら、堂々たるこの著作に対する知的敬意を否定することができなかった。
 Denis Berger とHenri Malerは、いずれもトロツキー主義派なのだが、こう書いた。
 「〈Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle〉の良質さは、まさに衝撃的だ。
 激しく流れる語り口が印象的で、事象の再現は力強く、教示的だ。分析は、刺激的かつ鋭い。
 筆致は濃密であるとともに痛烈だ。」
 唯一の激しい否定的反応があったのは、極左(Far Left)の知識人たちだった。
 他の者たちも、とくに20世紀の最初の10年にならば、1980年代や1990年代に対する深刻な反発の間に、彼らの意見を付け加えたことだろう。
 Furetは、終わりを迎えようとしている世紀に左翼(the Left)を僭称する偉大な伝統に始末を付けたとして、責任追求され、有罪の判断を下される者に含まれることとなるだろう。//
 ——
 序文②へとつづく。

2418/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)①。

  François Furet(フランソワ・フュレ,1927-1997)には、20世紀の共産主義に関するつぎの大著があり、邦訳書が(いちおう)あるので「試訳」を掲載したことはないが、言及はときどきしてきた。ドイツのE・ノルテ、アメリカのT・ジャット等に関連していたからでもある。
 François Furet, Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle (1995).
 =(英語飯) The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the 20th Century (1999). 総計約600頁。
 =(独語版) Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).  総計約720頁。
 =(邦語版) 幻想の過去 -20世紀の全体主義(楠瀬正浩訳,バジリコ,2007). 総計,約720頁。
 なお、最後の邦訳書の表題は「過去」→「終わり(終焉)」、「全体主義」→「共産主義」と訂正されるべき旨は、何度か記した。
 --------
  François Furetには没後のつぎの書物もあり、主題について、上の大著と関係が深い。
 邦訳書はない、と見られる。
 以下、何回かに分けて、「試訳」する。全部は不可能だろうが、上の大著に関連する、著者以外による〈序文〉等も含める。
 ********
 フランソワ.フュレ、うそ・熱情・幻想—20世紀の民主主義的想像力。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 ********
 
 訳者はしがき/Deborah Furet。
 あなたが読もうとしている書物は、たんにFrançois Furetが出版する最後の作品であるかもしれないというだけではない。
 この書物は、出版事業での小さな冒険でもある。
 この書物は、対話で生まれた。"Audiographie" シリーズは、Artieres とJean-François Bert がEdition de l'EHESSのために考案した。それは、文字となった話し言葉は著作者の考えだけではなく、思考の方法や過程にも光を当てることがありうる、という発想に基づいていた。この書物はそのシリーズの最初の一冊だ。
 この書物は、Furetが長時間一人で机に向かって仕事をして用箋に執筆した彼の他の著作とは違って、二人の人物の誠心誠意からの会話からできあがった。二人ともに、生涯にわたる思考を具体的に表明していた。//
 このシリーズの監修者のChristophe Prochasson は、この文章を綿密に吟味して編集しつつ、Furetの伝記を執筆した。そして優しくも、この冒険を少しばかり前進させるのを私に許してくれた。
 彼の序文は、この書物の区分けや区分けする過程での追加・変更を記して、読者を誘導するだろう。
 University of Chicago Press の編集者たちとともに私は、説明的な翻訳ではなくより適切で流暢な論考になるよう努めた。
 こうして我々は、付着した虚飾、テープに録られた部分と訂正された部分の印刷上の違い、テープ録音への全ての注記を含む一定の脚注を除外した。
 最初の出版は、もちろん、フランス語版で見ることができる。//
 1987年以降にFuretとともに仕事をしたMargarett Mahan に、真摯かつ心のこもった感謝を捧げる。民主主義の情熱へのこの宝石のごとき考察をするに際しての彼女の役割に対して。//
 ——
 ②「序文」へと続く。

1854/左翼は「ファシスト」の存在・ファシズムの再来可能性を必要とする。

 この欄で2016年に、青木理が同年7/24夜のテレビ番組で「歪んだ民主主義からファシズムは生まれるとか言いますからね」とか言い放った、と紹介している。
 日本の左翼にとって、その歴史観・政治観の形成にとって、「ファシズム」・「ファシスト」=絶対の悪という公式は不可欠なのだ。
 もっと幅広く、歴史的または欧州史または欧米思想の観点から、この欄ですでに紹介して言及したように、François Furet, The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentieth Century - (原仏語版1995年) は、<第6章/共産主義とファシズム>の中で、つぎのように述べていた。
 前回の投稿の補足として掲載する。すでに掲載した部分をあらためてできるかぎり全文に近くなるように、邦訳書と原英訳書を見て、紹介・掲載し直す。邦訳書は、以下。なお、この邦題は「過去」と「全体主義」の二カ所ですでに適切ではないと指摘した。<幻想の終わり-20世紀の共産主義>が原書(フランス語版)の意味にも添う。
 楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。 p.244-。 
 ・「20世紀の歴史を織り成しているのは、…全く新たな政治体制であり、また20世紀が特異な性格を示すようになったのは、まさにそうした政治体制の出現のゆえにだった。そのために、歴史家は20世紀を19世紀の眼鏡を通して理解する誘惑を避けられなかった。彼らはあくまで、民主主義対反民主主義という闘いの図式を繰り返し、ファシズム対反ファシズムという対立の構図に固執した。こうした傾向は、…第二次大戦終結以降、ほとんど神聖にして犯すべからざる思想上の観点とさえ見なされるようになった。」
 ・「こうした精神的束縛にはきわめて強力なものがあり、ゆえに欧州で最も大きな力を獲得した国々-フランスとイタリア-で、コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示すものだと考えられ、そのため長い間、コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる結果になってしまった。かつまた、ファシズムの歴史を語ることすら、相当に困難になってしまった。」
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには、≪ファシズム≫が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ! 栄光から見離された政治体制が、これらの政治体制を打倒した人々の空想の世界でこれほどまでに長く後世の摸倣者を輩出したという例は、決して見られなかった現象だろう。」
 ・「我々は今日なお、ファシズムに対する偏った見方によって積み重ねられてきた廃墟の中から完全には脱し切れていない。ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかった欧州の政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上、神谷匠蔵の一文での指摘はF・フュレの叙述や秋月の理解と大きくは違っていないだろう、ということの例証で、さして大きな意味はない。

1834/T・ジャットによるL・コワコフスキ死後の追悼文。

 産まれて、生きて、死んでゆく。
 In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
 TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
 このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
 いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
 S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
 R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
 (S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
 この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
 また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
 上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
 こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
 しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
 また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
 以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
 なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
 ---
 レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
 私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
 それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
 <マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
 あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
 私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
 誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
 しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
 コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
 しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述についていくのが困難になった。
 いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
 多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
 そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
 彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
 そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
 悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
 彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
 マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
 あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
 ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
 近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
 これは何ら、驚くべきことではない。
 世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
 宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
 コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
 コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
 キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
 レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
 彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
 一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
 他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
 『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
 しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
 マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
 しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
 『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
 過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
 社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはならない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
 東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
 コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
 彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
 ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
 もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
 レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
 しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
 共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
 1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
 1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
 予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
 コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
 レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
 第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
 『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
 責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
 この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
 他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
 上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
 しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
 カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
 その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
 コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
 というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在しない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
 現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
 例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
 どこかにいなくとも、どこかの外に完全にいないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
 だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
 骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
 多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
 コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
 アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
 (彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
 しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
 彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
 1890年と1930年の間に生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
 正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
 失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
 しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
 このことを、簡単に忘却することはできない。//
 生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
 大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
 20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
 我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
 そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
 --------
 (1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
 (2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
 (3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
 (4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
 (5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
 (6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
 (7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
 (8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
 (9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
 (10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。 
 ----
 以上

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1457/歴史叙述とは。櫻井よしこら「観念保守」の悲惨と悪害。

 ○ 歴史、歴史認識、歴史叙述とは何か、ということを考える。西尾幹二、高坂正堯、山内昌之等々のかなり多くの歴史関係文献を通じて、考えてもきた。
 歴史(学)の専門家・研究者は誰でもきっと、程度の差はあれ、これを思考したに違いない。だが、歴史叙述も人間の知的営為の一つなので、素人である秋月瑛二が人間の一人として、これについて何かを語っても許されるだろう。
 いや、自らの言葉と文章で語るのはやはりむづかしい。すでに坂本多加雄らのこの問題についての記述に言及したような気もするが、あらためて、歴史家・歴史研究者である他人の言葉・文章のいくつかを手がかりにしてみよう。
 ○ 一つはすでに紹介、言及した(昨2016年10月16日、№1408)。
 西山克典の訳書を手がかりにすると、リチャード・パイプスはこんなことを書いていた。ロシア革命に関する叙述を念頭に置いているとみられる。パイプス・ロシア革命史 = A Concice History of the Russian Revolution (試訳している書物とは別の、簡潔版のもの)による。
 「激情のさなかに生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに理解することができるというのであろうか」。
 「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然なことであり、従って正しいという暗黙の前提であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明に帰すことになる」。
 櫻井よしこの歴史記述は「政治的」だという批判は、厳密にはあたらない、とも言える。
 つまり、R・パイプスも言うように、歴史は「感情」をもってこそ叙述できるとも言える。何らかの「思い込み」があってのみ歴史叙述は可能であるのかもしれない。おそらく究極的には、そうだろう。
 だが一方で、「生起したこと」は「正しい」という前提で歴史叙述をするのは、「勝利を得ることになった人々の弁明に帰す」る、というのも鋭い指摘だろう。
 つまり、「明治天皇を中心とし」た明治時代はよかった、という前提で歴史叙述をするのは、勝利者である「西南雄藩」、とくに「薩長」両藩のために<弁明>しているのであり、典型的な<勝利者史観>に嵌まっているのだ。
 「観念保守」の<隠されたイデオロギー>はここにある、ということに(ようやく ?)最近は気づいてきた。
 もちろん一方で、日本共産党ら共産主義者の歴史認識と歴史叙述が、<公然たるイデアロギー>にもとづく、きわめて政治的で、思い込みの激しい、観念的なものであることは、すでに明らかになている、ごく常識的なことだ。
 ○S・A・スミス(Smith)というイギリスの若い学者による、The Russian Revolution: A Very Short Introduction (2002)は簡単な紹介のような本だが、内容的には面白いものがあった。
 スターリンだけを貶めレーニンは救う、という日本共産党的なロシア革命史観に立たず、スターリンをレーニンの後にきちんとつなげているのは、ごく普通だ。、
 一方で、マルクス又はマルクス主義にソ連社会主義崩壊の根源を見つつ、いったいマルクス主義の又はマルクスの諸原理の具体的にはどこに、欠陥又は「誤り」があったのかと問う姿勢が興味深く、その部分だけでも邦訳しようかとも思った。
 だが、これを読んだ時点では、この人にロシア革命に関する本格的な書物はなかった。他のテーマが専門の研究者かとも思った。
 そのS・A・スミスが、S. A. Smith, RUSSIA in Revolution, -An Empire in Crisis- 1890-1928 (2017) という書物を刊行する(した)ようで、すでに Kindle を通じて読める。
 その序文(まえがき)に、じつに興味深い記述がある。フランスのF・フュレの名も出てくる。以下のとおり。
 「フュレは正しく、特有の熱情(passion)をよび起こす歴史的事件や歴史的人物がたしかにある。そのような場合には、歴史の記述(writing)は、独特に政治的な企て(enterprise)だ、と述べる。」
 これも、上のパイプスの言葉に似ている。そのあとにスミスは続ける。
 「ロシア革命は、100年経っても、なおそのような事件だ。/
 そのゆえにこそ、私はこの本でできるかぎり感情を抑えて(=非熱情的に)、皇帝専制体制の危機、1917年の議会制民主主義の失敗、ボルシェヴィキの権力への上昇に関して書くようにした。/
 私は、教訓を引き出すこと(道徳化すること=moralizing)を避けること、嫌悪や反駁を感じる者たちについて共感をもって記述すること、積極的に好感をもつ者たちに対して批判的に記述すること、をしようとした」。
 これに続く文章も、ある意味で刺激的なので、分けて引用する。以下のとおり。
 「しかし、私に最初にレッテルを貼りたい読者に対しては-読者にはたしかに著者の立場を知る権利がある-、その読者は、結論を出してから始めている、と言おう」。
 他にも興味深い文章はあるが、長くなるので、このくらいにする。
 ○ 秋月瑛二についても、どのような、どのグループの「保守」かと、あるいは櫻井よしこ・八木秀次らを批判するとは「左翼」ではないかとすぐに分類や「レッテル貼り」をしようとし、それが判ったつもりになれば簡単に立ち去っていく人々もいるかもしれない。(なお、このような発想法は容易に、「真正保守」は何で誰か、安倍内閣の味方か敵かといった関心、分類思考・二項対立思考につながるだろう。)
 いや、問題は「観念保守」の人々の歴史叙述の方法または<歴史観>だ。
 究極的には「政治的企て」なのかもしれないが(それは<実践>の一つだということでもある)、上のようなパイプスやスミスのような歴史記述についての思索あるいは煩悩 ?をきちんと経たうえで、つまりできるだけ非熱情的に、冷静に歴史を見たうえで、最後のところでギリギリの価値判断を結果として行う、という作業を彼らはしているのかどうか。
 最初から特定の価値観・特定の歴史評価にもとづいているとすれば、その歴史記述は信用できないし、悲惨なものになるだろう。
 もちろん、マルクス主義者、あるいは日本共産党の歴史叙述も、最初から特定の価値観・政治観・特定の歴史評価にもとづいているので、悲惨なものだ。
 <自虐史観>に反対し、これを批判するのはよいが、その<裏返し>の歴史記述をするのは、「左翼」のそれと同じ「観念」論による歴史叙述だ、ということを知らなければならない。

1392/共産主義とファシズムに関する「強迫観念」。

 市販本・新しい歴史教科書/中学社会(自由社、2015)の通算項目番号74は「共産主義とファシズムの台頭」というタイトルのもとに、さらに「2つの全体主義」との小項を立て、「欧州で生まれた二つの政治思想」、すなわち「共産主義」と「ファシズム」の二つは「国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義とよばれた」と書く。そして、「全体主義は…、…、20世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした」と続ける(p.226)。
 また、同書は、「2つの全体主義の犠牲者数」は「2つの世界大戦の戦死者数」を「はるかに上回り、…」とも書いている(p.271)。
 しかし、同教科書の採択率等からして、上のような世界歴史観がどの程度の中学生たちの意識に影響を与えているのかは、疑わしいところがある。立ち入らないが、ファシズム(またはヒトラー・ナチズム)の残虐さを強調しつつ、社会主義・共産主義を(例えばロシア革命を)美化して描き、ソ連の崩壊を最大級の事件としては全く扱っていない、山川出版社の高校・世界史教科書を一瞥したことがある。
 日本にはかつて民社党という政党があり、「左右の全体主義を排する」ことを綱領に掲げていた。共産主義とファシズムを「全体主義」で括るという歴史観だったとみられ、鋭くかつ正しいものを含んでいた、というべきだろう。
 しかし、同党の歴史観、考え方は、日本人全体や、政治にかかわる多くの人々に受容されていたかというと、疑わしいと思われる。
 つまり、圧倒的に、または大勢としては、ファシズムとコミュニズム(共産主義)は、対立するものとして、あるいは真反対の対極にある ものとしてすら、理解されたし、理解されているのだ。
 二 この欄で、エルンスト・ノルテが歴史把握についての「イデオロギーの障壁」について語っている部分を邦訳した。
 分かりやすい文章ではないが、ノルテのいう<二つのイデオロギーの障壁>とは、秋月の理解では、つぎの二つをいう。
 ①関心と警戒を、ファシズム(ナツィス)に集中させなければならない。
 ②共産主義(コミュニズム)を批判してはならず、それとファシズムとを比較して(例えば類似性を語って)はならない。
 ドイツでは、②のようなことをすれば、大切な①を没却してしまう、という考えが少なくとも有力にあるようだ。
上のような状況は日本にもあるのであり、日本共産党や「左翼」はしきりと<反ファシズム>または<反軍国主義>を主張する。
 日本の軍国主義・ファシズムに関心と警戒を集中させる。そして、「共産主義」の脅威・危険性にはできるかぎり触れない。
 戦時中の日本を「ファシズム」(の一種)と規定するのが一般的かどうかは不分明だが(丸山真男や上の山川教科書は日本の「ファシズム」を語る)、中国と中国共産党が日本について「軍国主義(者)」という語を使っているためか、反「軍国主義」、「反軍」の「左翼的」意識・主張はかなり一般化しているだろう。
 最近にフュレの著書(幻想の終わり)の一部を紹介して書いたように、また次回に「敵対的近接」を訳出する際のフュレも語っているが、ファシズム・ナチィスはとっくに消滅しているはずなのに、「左翼」は、日本共産党も、「ファシズム」のあるいは「軍国主義」の再来をしきりと警戒し、ファシズム・軍国主義の体現者を「ファシスト」とか「ヒトラー」とか「好戦者」とレッテルづける。
 昨年の「戦争法案」というレッテル貼りもそうだが、安倍晋三がヒトラー呼ばわりされたり(鼻の下にヒゲのあるヒトラーの似顔絵を模して描かれたり)、橋下徹が「ハシスト」と呼ばれたりする。大阪府の共産党委員会幹部は、対「維新の会」の、自民党を含む共闘を「反ファッショ統一戦線」だと述べたことがあった。
 彼ら「左翼」にとっては、反ファシズム、反軍国主義と主張しておけば自らの立場を正当化でき、有権者多数の維持を獲得できる(かもしれない)、のだ。
 その際の彼ら「左翼」、日本共産党を含む、の<標語>は、「平和」であり、「民主主義」だ。また、ファシズムによる人権抑圧に着目して「自由」も用いられる。ファシズム・独裁に対する、個人的「自由」ということになる。
 かつてこの欄で<民主主義とは、「左翼」の標語だ>と書いたことがあるのは、このような脈絡による。
 しかし、上のような論法、思考方法、思考図式は「誤り」だ、少なくとも日本共産党という日本の共産主義者たちが「戦略」的に採用しているものだ、と言わなければならない。
 日本共産党は当面は「民主主義革命」を目指しているのであり、それを達成するための論法・戦略として、「民主主義・平和・自由」を語っている。これは1935年のコミンテルンも、その後のアメリカ共産党も採用した戦略であって、社会主義・共産主義を明確に支持する者ではなくとも(そんな日本人は少ないに決まっている)、当面、「民主主義(の徹底)」とか「平和(・九条2項の維持)」とか「自由(侵害の防止)」で一致する者たちを、緩やかにでも日本共産党の支持者にして、党勢を拡大して、「民主主義革命」に一歩でも近づけようとしているわけだ(国民連合政府とかはその一里塚)。その目的だけではなく、ともかく政権・政治・政情を混乱させたい、という本能にもよっているが。
 ファシズム(・軍国主義)対民主主義。この思考図式で世界・国家・社会を見ている者は少なくない。それこそが、日本の「左翼」だ。その背後には、日本共産党がいる。
 この図式によるとかつての社会主義諸国は「民主主義」の側になつてしまう。何と、ドイツ「民主」共和国(東ドイツ)という国があったし、朝鮮「民主主義」人民共和国という国が現在でもある。
 ソ連崩壊後は、日本共産党も「左翼」も、表向きは現実にあった「社会主義」と「民主主義」との関係について、口を少しは噤んでいるようだ。しかし、「真の民主主義」、「民主主義の徹底」を主張し、現在の政権与党・安倍政権を<反民主主義>と見なしている点では、教条的な図式に乗っかったままだ。
 上の二つの「障壁」は歴史認識にも大きな影響を与えている。ファシズムあるいは日本軍国主義に「悪」があったのであり、その再来を防止するためには、その「罪業」を繰り返し暴き出し、記憶にとどめ、かつつねに覚醒させなければならないのだ。
 ここに産経新聞のいう「歴史戦」があったはずだ。しかし、昨年の安倍70年談話は「過去の歴代の内閣の立場〔村山談話を含む〕を踏襲する」、<事変、侵略、戦争>は<もはや決して行わない>と明言することによって(主語は明らかだ)、少なくとも数十年間、日本国家としての歴史認識を固定してしまった(むろん個々の国民の歴史観・歴史認識がそれに拘束されるいわれはない)。
 産経新聞も、おそらくは月刊正論編集部も、この談話を基本的に擁護することによって、自らが掲げていた「歴史戦」に敗北したことを自白したに等しく、<骨が抜かれた> 報道・出版媒体であることを明らかにした。
 三 Richard Pipes, Drei Fragen der Russischen Revolution (Passagen Verlag、1995/ドイツ語版1999、ドイツ語訳者・Udo Rennert、たぶん未邦訳ー「ロシア革命の三つの問題」)は冒頭で、<ロシア革命がなければ、きわめて高い蓋然性で、国家社会主義(ナツィス)はなかった、おそらく第二次大戦はなかった、たぶん冷戦もなかった>と言っている(p.11。この本はウィーンでの講演記録)。
 エルンスト・ノルテもロシア革命とドイツ・ファシズムとの関係に注目していて、基本的に同意するF・フュレも、前者の結果が後者だとする単純な理解を疑問しつつ、両者の間に関係があることを率直に認めている。
 アメリカ人のリチャード・パイプスも似たようなことを言っているので、やや驚いた。
 国は変わって日本では、共産主義一般でなくとも少なくともロシア「革命」を成功させたロシア・共産主義(ボルシェヴィズム)とドイツ・ファシズム(なお、ノルテは、「ファシズム」はイタリアについてのみ、「ナツィズム」をドイツについて使うことがある)の関係・「近接性」について考察することがほとんどないように見える。
 ファシズムと共産主義を比較してはいけないという「タブー(禁忌)」がまだ強く生きているようだ。反ファシズム論がもつ「強迫観念」かもしれない。
 なお、上のノルテの①に対して、いや日本の軍部は「よいことを(も)した」、日本の戦争は「正義」の戦争だった(そういう面もあった)とだけ<保守>の側が反発するのは、最近感じることだが、日本共産党・「左翼」の土俵に乗っかっている面がないではないと思われる。かつての歴史を同じ次元で、反対から見ているだけではないか、という気がしないでもない。つまり、②の視点、つまり「共産主義」という観点からもかつての歴史を理解しようとしなければならないのではないか。この観点からの歴史研究が必要だ。
 もっとも、南京事件、中国共産党の動きなど、「共産主義」という観点を含めないと理解できない事象、歴史問題があり、すでに研究されてはいるのだが。
 元に戻っていうと、ロシア革命は1917年(大正6年)でヒトラー・ナツィスの政権掌握は1933年という時期的差違はあるが、いずれも第一次大戦の影響を受けたものであることに変わりはない。ロシア革命は第一次大戦の途中で厭戦気分とともに起きており、その10月革命は第一次大戦の当事者・ドイツ帝国がレーニンの国内通過を許容しなければ起こらなかっただろう。ドイツは対ロシアの戦争を有利にするためにレーニンを利用した、そのレーニンは大戦後にドイツを敵視し、ワイマール・ドイツを怯えさせるようなソ連を作ってしまった、というわけだ(但し、ラパッロ秘密条約、独ソ不可侵条約など、両国の関係は複雑だ)。
 ボルシェヴィズム(ロシア・共産主義)とヒトラー・ナツィスの「暴虐」は、世界大戦による「殺戮」の日常化の記憶と無関係ではないともいわれることがある。その当否は別として、ヨーロッパ文明の行き着いた先、その二つの鬼子だとロシア共産主義とナツィズムが言われることもあるように、第一次大戦やそれを生んだ「ヨーロッパ」という母胎をもつことですでに、両者には共通性・類似性があるのではないか。
 また、ノルテらも言及しているように、ロシア革命の成功とレーニン・スターリンの「ボルシェヴィキ」帝国の存在なくして、ヒトラー・ナツィスは誕生しなかったにも見える。詳しくは知らないが、ヒトラーがある程度は「共産主義」の脅威・恐怖を利用したのはたしかだろうし、一方では「国家社会主義労働者党」というナツィス党の名称にも見られるように、反現状・反西欧資本主義気分によって支えられていたかにも見える。ここで、ヒトラー・ナツィスの政権奪取を社会主義者(社会民主党)と手を組んで断固阻止しようとはしなかったドイツ共産党も、視野に入れる必要がある。
 書くのに疲れてきた。さらに「勉強」はしよう。いずれにせよ、共産主義(コミュニズム)とファシズムの関係は、日本共産党や日本の「左翼」が図式的かつ単純に理解しているようなものではない、と断言することができる。それはまた、日本の戦前あるいは昭和戦前の北一輝等々の「思想」の性格づけ・位置づけがたやすくはないことと同様だと思われる。
 <イデオロギーの障壁を超えて>、<強迫観念から自由に>、歴史は総合的にかつ多面的に把握されなければならない。

1385/共産主義・全体主義…、トラヴェルソ・平凡社新書。

 日本共産党関係の文献は100冊近く、同党と無関係ではないがレーニン、ロシア革命、共産主義等々に関する文献は間違いなく100冊以上、この一年間に入手した。
 かつては購入・入手図書のリストをパソコン内に記録していたのだが-二重購入の回避のためにも-、その習慣を失ったので、上の大きな二分野だけでも、所持文献リストをこの欄に残しておこうかとも思っていた。但し、これも入力の手間が大変だ。
 このようにとりあえずの大関心であるレーニン/スターリン関係文献だけでも多数にのぼり、スターリンから過ったという日本共産党の大ウソ、可哀想なほどに貧弱で皮相的な謬論という結論はとっくにはっきりしていても、日本・外国の文献にこれまでいちいちこの欄で言及しているわけではない。
 フュレとノルテの本を和訳したりしているのも、リチャード・パイプスに言及したりしているのも、もともとは<共産主義>への関心にもとづく付随的なものだ。
 したがって、以下の叙述もたまたま新たに手にとってみた本に興味を惹いたというだけのことで、このレベルの本は(日本共産党・レーニン関連でも早く紹介・言及したいのだが)他にも少なからずある。
 9/06に初めて、エンツォ・トラヴェルソ(柱本元彦訳)・全体主義(平凡社新書、2010/原著2002)を一瞥した。
 平凡社新書というだけで少しは抵抗があったのだろう。また、このイタリア人歴史家は、感覚的な印象では「左翼」的だ。
 だが、そのような学者ですら、「共産主義」をいかなる意味でも擁護しようとはしていない。反・反共主義者ではない。これが第一点。
 最後の方に目を通しただけだが、この書の結論は「全体主義」概念を安易に用いるな、ボルシェヴィズム・共産主義とファシズム・ナチズムの違いをわきまえよ、ということだろう。
 これはこれでよく分かる。重要なことは、「全体主義」という、この著者が強調するように、曖昧な概念で括られることがあるような、上の両者の共通性・類似性を、この著者もまた否定はしていないことだ。これが第二点め。
 なお、「ボルシェヴィズム」と「共産主義」、「ファシズム」と「ナチズム」は、それぞれ厳密に区別されていない、と見られる。前者について「スターリニズム」という概念も用いられているが、それが(日本共産党・不破哲三らが期待するように ?)レーニンを排除するものではないことは読んでいて明らかだ。
 なお、上の著から離れるが、ハンナ・アレントの著において「全体主義」とはほとんどナチズムと「スターリニズム」の両者を意味させている、と見られる(すでに一読しているし、原著もドイツ語版と英語版の二つ持っている。確認しないが、communism ではなくstalinismという語が使われているはずだ)。だが、彼女にとって現実的だったのはヒトラー・ナチズムと「スターリン」だったからだと見られ、レーニンを「スターリニズム」と無縁なものと理解しているわけではないはずだ。 
 第三に、フュレとノルテに論及がある。
 フランソワ・フュレは「自由主義の大歴史家」とされ(p.160)、その大著「幻想の過去(終わり)」への言及と一部引用等がある。
 エルンスト・ノルテは「ドイツの保守的歴史家」とされ、「1917年のロシア革命にはじまる圧政の時代の内に全体主義を位置づける「歴史的・発生学的」解釈」を提案する、とされる(p.177)。
 立ち入った紹介は避けるが、著者はこの二人に全面的に同意しているわけでは、むろんない。フュレとノルテに見解の差違があることも述べている。
 それよりも、フュレとノルテについての欧米( ?)歴史家内での評価が参考にはなる。この秋月の感覚は誤ってはいない、ということだろう。この二人は「共産主義」を正面から論じていることからも明らかなことだが。
 第四に、「左翼的」かもしれないが、トラヴェルソというイタリア人は日本の「左翼」歴史学者に比べれば、はるかに普通の学者だろう。印象に残る文章もある。
 オーウェルの著は「記憶の空虚」を発掘する特殊な機械で「歴史を書き換えようとする全体主義体制が、懸命になって過去を管理する姿」を描いた。
 「歴史学の目的は、閉じた知識の蓄積ではなく、-、現在の指針となるような過去を構築することだ」。以上、p.188-9。
 全体主義、自由主義・リベラリズム、共産主義、民主主義等の観念・概念の利用には慎重でなければならないところは確かにある。ついでながら、不破哲三は「市場経済を通じて社会主義へ」というとき、「市場経済」という語で何を意味させているだろう。
 それはともかく、「記憶の空虚」を無理やり作られ、「過去を管理」されてはたまらない。それぞれの国民は、みずから「過去を構築」できなければならないだろう。
 日本の歴史に関して、2015年の8月に安倍晋三は、いずれ禍根と災厄が明らかになるだろう「犯罪」的談話を発した、と思っている。それを渡部昇一は「戦後体制を脱却」する名宰相の談話だと評するのだから、ほとんど発狂している。

1384/試訳-共産主義とファシズム・「敵対的近接」03。

  F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)の試訳03
 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)の「試訳」の3回目。
 この往復書簡には、英語版もある。Francoir Furet = Ernst Nolte, Fascism & Communism (Uni. of Nebraska Press、2004/Katherine Golsan 英訳)だ。
 この英語訳書は計8通の二人の書簡を収載している点ではドイツ語版と同じだが、Tzvetan Todorovによる序言(「英語版へのPreface」)および雑誌Commentaire編集者によるはしがき(Foreword)が付いていること、および「ノルテのファシズム解釈について」と題するフュレの文章が第1節にあること(したがって、書簡を含めて第9節までの数字が振られている)で異なる。但し、この第1節のフュレの文章は、フュレの大著〔幻想の終わり-〕の中のノルテに関する「長い注釈」の前に1頁余りを追加したものだ。雑誌編集者による上記は、フュレの突然の死についても触れている。
 また、英語訳書には、ドイツ語版とは違って、各節に表題と中見出しがある。
 番号数字すらなく素っ気ないドイツ語版と比べて分かりやすいとは言えるが、そうした表題をつけて手紙は書かれたわけではないと思われるので、ドイツ語版のシンプルさも捨て難い。だが、せっかくの表題、中見出しなので、以下では、その部分だけは英語版から和訳しておく。
 ---------------
p.17-p.25.
 イデオロギーの障壁を超えて
 エルンスト・ノルテ <第一信> 1996年02月20日  
 敬愛する同僚氏へ
 貴方の著書、Le passe d'une illusion につい若干の感想をお伝えしたい。ピエール・ノラの申し出により雑誌 Debate で述べた意見よりも個人的で、かつ詳細ではありませんが。
 この本のことを、私はほぼ一年前にフランクフルト・アルゲマイネ新聞の記事で知りました。その記事は貴著の意義を述べているほか、貴方が私の本に論及していた195-6頁の長い注釈にもはっきりと言及していました。ふつうの〔健康〕状態であれば、もっと早く気づいていたでしょう。 
 私は貴方の本のすべてを、一行、一行と、強い関心と、さらには魅惑される愉しみとともに、読みました。
 貴方の本は二つの障害または妨害から自由だ、とすぐに分かりました。
 この障害または妨害によって、ドイツの〔歴史家の〕20世紀に関するすべての考察は狭い空間に閉じ込められており、個々には優れた業績はあっても無力です。
 ドイツではこの20世紀に関する考察は、最初からもっぱら国家社会主義に向けられました。また、その破滅的な結末は明白でしたので、思索の代わりをしたのは、「妄想」、「ドイツの特別の途」あるいは「犯罪国民」のごとき公式的言辞でした。
 ドイツの歴史を概観する、二つの思考方法がありました。
 一つは、全体主義理論です。これは、1960年代半ば以降、すべての「進歩主義者」にとっては旧くなっているか、あるいは冷戦を闘うための手段だと考えられました。
 もう一つは、マルクス主義思考方法です。これの結論は、第三帝国は、偉大でかつそのゆえに罪責ある全体のたんなる一部だ、例えば西洋帝国主義あるいは資本主義的世界市場経済の一部だ、というものでした。
 ドイツとフランスの左翼
ドイツの左翼は、彼ら自身の歴史についての一義的に明白な観点を持ちませんでした。その歴史自体が一義的ではなかったのですから。ナポレオン・フランスに対する自由主義戦争は「反動的な」動機を持ったとされ、1848年の革命は「挫折」でしたから、彼らが何らの留保を付けることなく自らを一体化できるような事象は存在しなかったのです。
 ドイツ左翼の小さな一派のみは、ロシア革命と自らを一体化したでしょう。大部分の左翼は、つまり多数派の社会民主主義者は、実際にも理論的にも〔ロシア革命を〕ドイツへと拡張する試みに断固として反対しました。
 左翼内部の狂熱と忠誠心を定量化できるとすれば、ドイツ共産党は十分に過半に達していたでしょう。なぜなら、社会民主主義者は、いわば「拙劣な社会主義者の確信」でもって共産主義者と闘い、国家社会主義者が大きな敗北を喫した1932年10月の選挙においてすら、ドイツ共産党は選挙のたびに勢力を増大させていたドイツでの唯一の政党でした。
 しかし、1970年代の初期のネオ・マルクス主義においてすら、1932-33年での共産主義者の勝利は可能だったと考えたり、社会民主主義者を「裏切り者」と非難したりする見解は、さほど多数ではありませんでした。
 反対意見もありましたが、まさにこのような見解が、「右派」反共産主義のテーゼ、すなわち、共産主義は現実的危険であり、「そのゆえにこそ」国家社会主義は多数派を獲得したのだ、というテーゼだったのです。
 だが、1945年以降にボンで再興された「ヴァイマール民主主義」の諸大政党にとっても、このような見解は誤りでありかつ危険であると思えたに違いありません。なぜなら、その見解は「ボルシェヴィズムからドイツを救う」という国家社会主義のテーゼときわめて似ていましたので。また、アメリカ合衆国との同盟によって「全体主義的スターリニズム」や東ベルリンにいるそのドイツ人支持者による攻撃を排斥する、というつもりでしたので。
 全体主義理論はたしかに、「全体的」反共産主義と区別される「民主主義的」反共産主義を際立たせる逃げ道を示しました。
 しかし、全体主義理論が優勢だった時期は長くは続かず、のちには右から左まで、かつ出版界から学界まで、ほとんど全ての発言者はつぎの点で一致しました。
 すなわち、注目のすべてを国家社会主義(ナツィス)に集中させなければならない。「スターリニズム」については副次的に言及するので足り、かつ決して「国際共産主義運動」について語ってはならない。
 まさにこの点にこそ、私が先に語った二つの「障壁」があったのです。
 貴方は著書において、「共産主義という理想」から出発し、それに今世紀の最大のイデオロギー的現実を見ています。急速に実際上の外交政策にとって重要になったロシアに限定しないで、フランスでもかつそこでこそ多くの知識人を熱狂させた「10月革命の普遍的な魅力(charme universal d'Octobre)」を語っています。
 貴方がそれをできるのは、ドイツの相手方[私=ノルテ]とは違って、フランス左翼の出身だからです。フランスの左翼は、つねに参照される大きな事象、すなわちフランス革命を国民の歴史としてもっています。フランスの左翼はさらに、ロシア革命を徹底したものおよび相応したものと理解することができ、つねに熱狂的に同一視することなく、ロシア革命に、何らのやましさなく少なくとも共感を覚えることができるからです。
 したがって、つぎのことは全くの偶然ではありませんでした。社会党のほとんどが1920年のトゥールズでの党大会で第三インターナショナルに移行したこと、Aulard やMathies のようなフランス革命についての著名な歴史家がこの世界運動に共感を示し、支持者にすらなったこと。
 貴方が特記している他の人たち、 Pierre Pascal、Boris Souvarine、あるいはGeorge Lukas のような人たちもまた、狂信者であり確信者でした。そして、貴方自身も明らかに、この熱狂に対する関心と共感を否定していません。
 歴史の現実はたしかに、Pierre Pascal、Boris Souvarine およびその他の多くの人々の信仰を打ち砕きました。貴方自身もこの離宗の流れに従っています。しかし、距離を置いたにもかかわらず、貴方は依然として、20世紀の基礎的な政治事象を、ロシア10月革命およびその世界中への拡張に見ています。
 貴方はこの拡張を検証し、それが多様な現実との格闘に消耗して内的な力を喪失し、ついには最初からユートピアたる性格をもつもの、つまり「幻想」であったことが今や決定的になるまでを、追跡しています。
 私から見ると重要でなくはないさらなる一歩を、貴方は進みました。
 今世紀の基礎的事象が結局は幻想だったことが判明してしまったとすれば、それが惹起した好戦的な反応は全く理解できませんし、完全に歴史的な正当性を欠いたものでしょう。また、「犯罪にすぎないものとしてのみ今世紀のもう一つの魅惑的な力」を認識するのは、共産主義者の見解の不当な残滓でなければなりません。
 「今世紀のもう一つの大きな神話」、すなわちファシズムという神話をこのように評価することによって、貴方はフランスですら多くの異論に出くわすでしょう。今日のドイツでは、すぐに「人でなし」になってしまうでしょう。
 しかしながら、私の意見では、貴方は完全に正しい。共産主義思想とファシズムという抵抗思想の対立は、1917年から1989-91年までの今世紀の歴史の「唯一の」内容だった、そして「その」ファシズムは、歴史的現実と共産主義運動の現実とを決定した雑多な差違や前提条件を無視して言えば、一種のプラトン思想だと考えられるべきだ、という貴方の考察を、誰も合理的には疑問視することができないのですから。
 私は貴方とは全く別の途を通って、先の二つの「障壁」を乗り越え、イデオロギーの世界内戦という(概略はずっと以前にあった)考え方に辿り着きました。
 若きムッソリーニ、彼の社会主義思想に対するマルクスやニーチェの影響に偶然の事情によって遭遇していなかったならば、国家社会主義やその「ドイツ的根源」に集中する思考は、私にも付着したままだったでしょう。
 そのゆえにこそ、「ファシズム」は私の1963年の本の対象になりえたのであり、反マルクス主義の好戦的な形態だとする一般的なファシズムの規定や、「過激なファシズム」だとする国家社会主義の特殊な定義は、私がそれ以降に思考し記述したすべてのものを潜在的に含んでいます。
 貴方の出発点である「共産主義思想」は、私には長い間顕在化していない背景のようなものでした。しかし、その状況は、1983年の「マルクス主義と産業革命」によって初めて、1987年の「1917-1945の欧州内戦」でもって顕著に、変わりました。
 全体主義の発生学的・歴史的範型
 そうして我々は、私に誤解がなければ、異なる出発点と異なる途を経て、同じ考え方に到達しています。それは、全体主義理論の歴史・発生学的範型(Version)と私が名づけたもので、ハンナ・アレントやカール・F・フリートリヒの政治・構造的範型とは、マルクス主義・共産主義理論と区別されるのとほとんど同じように区別されます。
 我々の間にはきわめて重大な違いがあるかのように見える可能性があります。貴方は上記の注釈で、私が解釈をおし進めすぎてヒトラーの「反ユダヤ人パラノイア」に「一種の理性的な根拠」を与えたのは遺憾だ、と書いています。
 つぎのことを貴方に強調する必要はないでしょう。すなわち、「ユダヤ人問題の最終解決」としてなされた大量虐殺の個別事象に、ドイツ人〔の歴史家〕が国家社会主義に集中した重大な理由があります。
 歴史において個別性は「絶対性」ではなく、そのように論じられてはならないことに、貴方もきっと同意するでしょう。
 付記します。個別の大量犯罪は、それに理性的で理解可能な根拠を与えうるということでもって悪質でなくなったり非難すべきものでなくなったりはしません。むしろ、逆です。
 貴方は1978年の論文でフランス左翼によるほとんど素朴なシオニズムの解釈を批判し、現象の本質はユダヤ人のメシア主義〔救世主信仰〕と分離されるべきではないと述べた、ということを思い出して下さい。貴方は引用記号を用いていません。そして、当然に、「ロシア的」とか「シーア派メシア主義的」とかと述べることができることをよく知っているにもかかわらず、そのような用語法を正当なものと見なしています。
 「ユダヤ人のメシア主義」なるもの自体への言及なくして、またアドルフ・ヒトラーや少なくはない彼の支持者たちが作り上げた観念にもとづいては、「最終解決」なるものも、-「了解できる(verstaendlich)」とは異なる意味で-理解できる(verstehbar)ものにはならない、と考えます。
 したがって、我々の間にある差違は除去できないものではない、と思います。むろん、引用された、フランスに出自をもつドイツの作家、テオドア・フォンターニュの言葉によれば、「広い畑」があります。
 適切な方法で耕すためには、多くの言葉と熟慮が必要でしょう。
 推測するに、ドイツでは、私が貴方の書物の出版について祝辞を述べると言えば、蔑視されるか、あるいは犯罪視すらされるでしょう。だが、貴方の国は、予断や神経過敏症の程度が、私の国よりも大きくない、と信じます。
  エルンスト・ノルテ
 ---------

1381/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」02。

 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismud im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡の「試訳」の2回目。p.11~16.
 大きな段落の区切り後の表題は「(一つの)長い注釈」で、これは、書簡の交換の契機となったフュレの大著・Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)の第6章に付せられた、もっぱらノルテに言及している長い注釈のことだ。
 この著には邦訳書・楠瀬正浩訳/幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)があり、上の注釈部分も訳出されている(p.253-4)。したがって、この邦訳書の一部を読めば、この注釈の内容も分かるので、これを参照すれば足りる。フランス語原文にもとづく翻訳書は、いわば「正訳」書のようなものだろう。
 但し、フランス語文からドイツ語に訳された冒頭掲記の本に少し立ち入り、上記邦訳書と少しばかり対照させてみて、私なりの(ドイツ語文からの)訳も掲載しておこうと考えた。楠瀬正浩訳は一部にせよ間違っている、という理由では全くない。ドイツ人訳者の判断又は思い入れらしきものもあるのだろうか、同じ趣旨だとしても(それは当然だろう)、選択された言葉のニュアンスや意味の理解に、微妙な違いがあるように感じられたからだ。また、文章の構造自体が違っている場合があることも歴然としている。
 なお、英語訳書である、The Passing of an Illsion, The Idea of Communism in the Twentieth Century(Univ. Chicago、1999)ものちに入手したが、これまたかりに直訳すれば同じような感想を抱きそうだったので、これの参照は、ほとんどしていない。
 -----------------
 <(一つの)長い注釈>
 この20年、とくに1987年にドイツの歴史家が議論した国家社会主義(ナツィス)の解釈に関する論争(歴史家論争〔注12/秋月注、フュレの原本の数字〕)以来、エルンスト・ノルテの見解はドイツおよび全西欧で異口同音に批判されたので、特別の注釈を施しておく価値があると思われる。
 エルンスト・ノルテの功績は、とりわけ、きわめて早い時期にコミュニズムとファシズムを比較してはいけないという禁止を打ち破ったことにある。この禁止は西欧では多かれ少なかれ一般的であり、理解しうるまだきわめて生々しい理由でとくにイタリアとフランスで、またドイツでは特別に厳しく遵守された。
 エルンスト・ノルテはすでに1963年にその著「ファシズムとその時代(Der Faschismus in einer Epoche 〔秋月注-in seiner が正しいと見られる〕)で、新ヘーゲル派とともにハイデガー(Heidegger)の影響を受けた、彼の歴史哲学的な20世紀の解釈を、概述した。
 自由主義の制度(liberales System)はそれがもつ矛盾性と将来に対する開放性によって、コミュニズムとファシズムという二つの大イデオロギーを生んだ。マルクスが道を拓いたコミュニズムは、近代社会の「超越性」を極端にまで狩り立てた。著者はそれを、人間の思考と行動から本性と伝統の領域を奪い去る、民主政的な普遍性の抽象化と理解する。
 ファシズムは、これに対して、予め決定されていない自由な存在に対する不安を除去して安心を与えようと意図した。それは遠くは、ニーチェおよび「生」と「文化」を「超越性」から守ろうとする彼の「意思」に着想を得ていた。
 こうして導き出される帰結は、二つのイデオロギーを別々に切り離して考察することはできない、ということだ。これらは、一緒になって、ラディカルな方法で自由主義の矛盾を明らかにする。そして、我々の世紀全体が、これらの相互補完性・対立性の影響のもとにあった。
 年代史的な時系列でもって、それらを整序することもできる。レーニンの勝利はムッソリーニのそれに先行し、言うまでもなくヒトラーのそれに先行した。
 ノルテの見解によれば、最初のものが後続の二つの誘発原因になった。そしてノルテは後続の諸著作で、このような関係を強調している(1966年「ファシズム運動」、1974年「ドイツと冷戦」、中でも1987年「欧州の内戦 1917-1945」)。
 イデオロギーの面から見れば、ボルシェヴィズムという普遍主義的な過激主義は、ナツィズムにおける特殊性の増大を誘発した。実際の面から見ると、レーニンによって行われた階級なき社会という抽象化を掲げてのブルジョア階層の抹殺は、ヨーロッパはコミュニズムの脅威に対して最も弱いので、忽ちのうちにパニックをもたらした。これは、ヒトラーの、およびナショナリストによる逆テロルの勝利を導いた。
 ヒトラーですら彼の敵に対して、最初から敗北するはずの闘争を遂行した。彼も「技術」の普遍的な魅力に惹かれ、同じ方法を彼の敵対者に対しても適用した。スターリンと全く同様に彼は工業化を好み、社会的「超越性」をもつ、ユダヤ・ボルシェヴィキという双頭体の怪物と闘う、と彼は称した。だが実は、ゲルマン種族の支配のもとに人類を一つにするつもりだった。このようにして準備された戦争には、勝利できる根拠は何もなかった。
 ナツィズムは、その発展とともにその元来の論理に忠実ではなくなる。この観点からノルテは、彼の最近の著書(1992年「ハイデガー-人生と思索における政治と歴史」)で、ナツィズムに味方したハイデガーの短い活動家時代を擁護しかつ釈明している。
 ノルテによれば、のちに彼の師となった哲学者には、国家社会主義に対して初めに熱狂しのちに速やかに幻滅するだけの理由があった。
 以上のように見ると、贖罪意識に囚われている者であれ、ファシズムを理解しようとすることでそれへの嫌悪感を弱めるのではないかと怖れる者であれ、あるいはたんに時代の空気に順応しているにすぎない者であれ、戦後世代の人々にとって、ノルテの著作がきわめて衝撃的だったことが十分に理解できる。
 上の前の二つのような振る舞い方は少なくとも高貴な動機によるもので、歴史家はそれを尊重できるし、しなければならない。だが、そのような態度を歴史家がとるならば、ソヴィエトのテロルは1920年代と1930年代にファシズムとナツィズムが大衆性を獲得した重要な要因であることを考察することができなくなってしまうだろう。また、ヒトラーの権力奪取が、先行するボルシェヴィズムの勝利に、およびレーニンが統治のシステムにまで高めた裸の暴力という悪い実例に、いかに条件づけられていたかを、さらには、コミンテルンが共産主義革命をドイツへと拡張しようとしているとの強い印象づけよっていかに条件づけられていたかも、無視してしまうに違いない。
 実際のところ、このような出発点から考察することの禁止は、ファシズムの歴史の徹底的な研究を妨げている。歴史の世界でのこの禁止は、政治の世界でソヴィエトの影響を受けた反ファシズムが発揮しているのと同じ効果を持った。
 反ファシズムに対する批判を禁止することによって、この種の歴史資料編纂的な反ファシズムは、ファシズムを理解することも妨げる。
 ノルテの功績は、何よりも、このタブーを打ち破ったことにある。
 残念なことにノルテは、 ナツィズムに関するドイツの歴史家論争の過程で、彼のテーゼを強調しすぎて、彼の立場の解釈を弱めている。すなわち、彼はユダヤ人について、ヒトラーの組織化された対抗者で、敵と結びついた、と説明しようとした。
 ノルテを「アウシュヴィッツ否認者」[秋月ー邦訳書および英訳書では「ネガ・シオニスト」]と称することはできない。彼は、繰り返しナツィスによるユダヤ人虐殺への嫌悪感を強く表明しているし、一つの人種のかつてない工業的な抹殺だとして、ユダヤ人ジェノサイドの異常性も承認する。
 彼が維持する考え方は、だが、ボルシェヴィキによるブルジョア階級の廃絶がそうしたものへの道を開いた、強制収容所(Gulag)はアウシュヴィッツよりも前にすでに存在した、というものだ。
 しかし、ノルテの眼からすればユダヤ人ジェノサイドは時代風潮を構成する要素だったとしても、勝利のためのたんなる手段だと見なされてはいない。彼は恐るべき特異性を認める。その特異性とは、目標それ自体が目標で、さらに優位する目標が「最終的解決」という勝利の産物だ、というものだ。
 さらにノルテは、彼の最近の文書が示すように、ヒトラーの反ユダヤ主義というパラノイアを考察しようとするに際して、ハイム・ヴァイツマン(Chaim Weizmann)が世界ユダヤ人会議の名前で1939年9月に世界中のユダヤ人に対してイギリス人の側に立って闘うことを呼びかけた宣言に、一種の「理性的な」根拠を見い出したようだ。
 このような議論は、衝撃的であると同時に、誤りだ。
 疑いなく、ノルテは、潜在意識下にある辱められたドイツ・ナショナリズムと関係している。それについて、ノルテの論敵はこの二十年の間、彼を非難してきた。また、それは、彼の諸著作の主要なモティーフだ。
 しかし、ある観点からはこのような批判が適切だとしてすら、彼の全業績と解釈の価値を失わせることはできない。それは、最近の50年間において最も洞察力に富むものの一つだ。
 参照、〔以下、ノルテに関するフランス人の二つの論考が挙げられており、邦訳書にもあるが、省略〕。 
----------------

1376/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」/01

 フランソワ・フュレエルンスト・ノルテの交換書簡である、以下の著を試みに訳しておく。その著は、Francoir Furet = Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)で、仮訳すれば、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(ヘルビッヒ出版社(ミュンヒェン)、1998年)だ。
 フュレのフランス語文章は、Klaus Joeken とKonrad Dietzfelbinger によってドイツ語に訳されている。
 フーバー大統領回顧録の一部を試みに和訳した際と同様のことを記しておかなければならない。筆者・秋月は共産主義・ファシズムあるいは政治思想史・欧州史等の専門家ではないし、ドイツ語の専門家でもない(ましてや翻訳を業とはしていない)。
 だが、この本の邦訳書は未公刊のようであるので、多少の関心を惹くことができれば幸いだ。
 本文は全体で118頁しかないので、全文を訳出する予定で、かつ(フーバー大統領回顧録の場合とは違って)最初から頁数どおりに訳していく。
 以下の第一回めの「序言」でノルテが書いているように、この本には各章または各節のタイトル・見出しはなく、数字番号すらない。
 全体・概要を把握する一助になるだろうと思って、あえて「第1節」というような見出し(表題)を付け、かつ各冒頭の1-2行めの言葉だけを記しておくと、つぎのようになる。
 第1節/序言〔ノルテ〕 p.05-
 第2節/「一つの長い注釈」〔フュレ〕 p.11-
 第3節/エルンスト・ノルテ 1996年02月20日 p.17-
 第4節/フランソワ・フュレ 1996年04月03日 p.27-
 第5節/エルンスト・ノルテ 1996年05月09日 p.39-
 第6節/フランソワ・フュレ 1996年08月 p.49-
 第7節/エルンスト・ノルテ 1996年09月05日 p.61
 第8節/フランソワ・フュレ 1996年09月30日 p.85-
 第9節/エルンスト・ノルテ 1996年12月11日 p.97-
 第10節/フランソワ・フュレ 1997年01月05日 p.109-p.122
 このように4往復の「交換書簡」が主内容だ。「序言」はテーマに直接に論及しているわけではないが、交換書簡に至る経緯等が記されているので、訳しておいた方がよいと判断した。「一つの長い注釈」(フュレ・幻想の終わり第6章の注13)については、その部分の「訳」の際に説明する(「序言」でも何度か触れられている)。
 全体を3~4回程度に分けて掲載するのが元来の予定だったが、それではこのブログサイトの1回分の掲載容量を超えてしまうだろうと思い直して、試訳作業の途中ではあるが、<第1回・「序説」>部分だけを、まずは紹介する(上記のように、数字番号すら、この書の全体を通じて付されていない)。
 なお、読みやすいように、段落の途中でも改行していることが多い。0
 --------------------------
 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)01
 序言 <p.5-p.10>
 この交換書簡の特徴を述べることはしない。これの成立と公刊の事情を記しておこう。
 フランソワ・フュレについては、以前からフランス革命に関する指導的な歴史叙述者であることを知っていた。だが、一人の歴史家が自分の専門分野からすれば「資格」がない他の歴史家の仕事を知っている程度においてにすぎなかった。
 彼の側では事情は少しばかり異なっていたことは、1995年末に二十世紀のコミュニズムに関する彼の大著が公刊されたときに初めて明らかになった。彼の大著とは、Le passe d'une illusion, Essai sur l'idee communiste au XXe" siecle 〔秋月訳-幻想の終わり/20世紀の共産主義者の思想に関する省察〕だ。
 この彼の著作についてフランクフルター・アルゲマイネ新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ)はすぐに詳しい書評を掲載した。その記事が明らかにしたのは、フュレのテーマはコミュニズムのみではなく、少なくとも含意するところでは、今世紀の第二の「大きなイデオロギー」、すなわちファシスムだ、ということだった。また、その記事には、私の著書が彼の著作の195-196頁にある際立って長い注釈〔秋月-次節「一つの長い注釈」)の中で論及されていると、明確に書かれていた。
 1996年の秋にドイツ語訳書がパイパー出版社(Piper Verlag)から出版されたので、その著書を取り寄せた。見てすぐに分かったのは、私のいくつかの著作が一頁半の長さで、ドイツでは長い間読まなかったほどに、力強く論評されていることだった。
 フュレはむろん、つぎの「悲しい事実」を指摘しなければならないと考えていた。私はユダヤ人をヒトラーの「組織された対抗者」だとし、国家社会主義(ナツィス)の反ユダヤ主義(nationalsozialistisches Antisemitismus)を「理性的核心」だと見なした、という事実をだ。
 この注釈では、同じ程度ではなかったが、同意と批判とが一緒になっていた。
 ほどなくして、ピエール・ノラ(Pierre Nora)が、彼の雑誌「討議」(Debat)が企画するフュレの本についての討論に出席して欲しいと言ってきた。そして、その雑誌の1996年3=4月号、第89号が公刊され、そこには、「20世紀のコミュニズムとファシズム」というタイトルのもとで、Renzo De Felice、Eric J. Hobsbawn、Richard Pipes〔リチャード・パイプス〕、Giuliano Procacci、Ian Kershaw そして私の意見表明とフュレの答えが掲載されていた。
 これと比較できるような討論会は、ドイツでは、私の知る限りでは、構造的な範型による全体主義理解〔秋月-とくにハンナ・アレント〕や1963年の「ファシズムとその時代(Der Faschismus in seiner Epoche)」〔秋月-エルンスト・ノルテの著書〕についてはすでに十分に議論されていたにもかかわらず、催されたことがなかった。
 だが今や、個々に見ると多くの意見の違いはあっても、問題設定自体の正当性は、このきわめて国際的な公開討論の場(Forum)で承認された。
 そのすぐ前に、イタリアの雑誌「リベラル(liberal)」が、フュレと私が手紙を交換して、諸問題についてもっと詳細に意見を述べたい、という気持ちを刺激するような提案を二人にしてきていた。
 我々はお互いにまだ個人的な知り合いではなかったので、ミラノ(Mailand)で出逢うことが計画された。そこで、編集部と考え方を相談することになっていた。
 だが、私は健康上の理由で決まっていた時期を守ることができなかったので、心臓手術の期日がすでに決められていた時点の1996年2月に、第一の手紙を書いた。
 私の手紙とフュレの返書は、「リベラル」の5月号に掲載された。そのとき私はまだ、リハビリテーション施設にいた。
 同じ月にもう私は十分に回復することができたので、第二の手紙を書いた。そして1997年4月に、最後の二つの-二人にとって第四の-手紙が、私には適切では全くない「エルンスト・ノルテがフランソワ・フュレと闘う(… a confronto con …)」というタイトルのもとで、その雑誌上に公刊された。
 1996年の末頃にミラノでのある学会で、フュレと個人的に親しくなっており、1997年の6月に、「リベラル」によってナポリ(Neapel)で開催された「20世紀のリベラリズム」というテーマの会議で、我々は再び逢った。そこで、二人で協力して、古く有名な哲学研究所での夜の催し(Abendveranstaltung)を引き受けた。
 そうしている間に、我々の交換書簡集のイタリアでの書物が発行された。
 上の会議のあとで我々が交換していた私的な手紙では、お互いを「Cher ami(親愛なる友!)」あるいは「親愛なる友よ(Lieber Freund)」と話しかけていた。
 7月11日に、「シュタンパ(Stampa)」から電話があった。きわめて不運なことにフュレがテニスをしているときに転倒し、昏睡状態にある、望みはない、追悼文を書いてほしい、と。
 その報せは、私には青天の霹靂だった〔落雷のごとく私に命中した〕。ようやく70歳になったばかりで、ごく最近に「フランス学士院(Academie francaise)」の会員になっていた。ナポリでは、全く健康な様子だった。
 だがしかし、我々はともに8回めの人生10年間を迎えていた。手紙の交換を始めたとき、一方〔私、ノルテ〕には生命の危険があった。他方、彼の最後には、死があった。
 1920年代に生まれた世代は、1991年〔秋月-ソ連崩壊年〕以降に初めてではなく、最初に、20世紀の基本的特徴を包括的に解釈しようと試みることができたが、その世代の者たちは今や別れをを告げている。
 Renzo De Felice は1996年に逝去し、Thomas Nipperdey〔トーマス・ニッパーダイ〕、Martin Broszat そしてAndreas Hillgruber〔アンドレアス・ヒルグルーバー〕 はもう数年前に逝去している。
 この交換書簡は、ひょっとすれば、この世代の者の、最後の非個人的な証言書の一つだ。
 ナポリ(Neapel)で会話していたとき、フュレは、交換書簡は次はパリの雑誌「批評(Commentaire)」で発表される、と語った。そのとおりに、1997年の秋=冬号、第79-80号が公刊された。
 ドイツ語版は、フュレの私あて第一信が、私の「ヨーロッパの内戦(Europaeisches Buergerkrieg)1917-1945」の新版の付録として、1997年の秋に公刊された(ヘルビッヒ出版社、ミュンヒェン)。同じ出版社から、この完全な交換書簡集が出版される。
 パイパー出版社(Piper Verlag)の厚意により、手紙の交換が始まったきっかけになった彼の脚注〔秋月-次節「一つの長い注釈」〕の文章をこの本に収載することが可能になった。
 一つ一つの手紙に表題を付すこと-イタリア語版のように-はやめることにし、中見出しを挿入すること-「批評(Commentaire)」のように-もやめた。その代わり、本文の後に、人名索引の他に事項索引がある。結びの言葉は、すべての手紙について省略した。フランソワ・フュレやエルンスト・ノルテという名前は、人名索引に載せていない。
 どの読者も、この交換書簡には、とくにフュレには、同意と不同意とが密接に一緒になっているという印象を受けるだろう。どの読者も自分で、彼の見解のどこに最も強調したい点があると理解すべきなのか、決定しなければならない。
 しかし、誰もが決して疑ってはいけないのは、先行業績からすれば非常に異なる二人の歴史家の間のこの交換書簡が、論争的にかつお互いを尊敬する精神でもって交わされた、ということだ。これと類似のことは、残念ながらドイツでは、いわゆる歴史家論争の期間でもなされなかった。
   1998年1月、ベルリン(Berlin)にて、エルンスト・ノルテ。 
 ---------------------

1373/F・フュレ・幻想の終わり(1995)等-その2。

 一 フランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)を読んでも、フュレ=ノルテの"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert〔敵対的近接-20世紀のコミュニズムとファシズム〕を読んでも、まずは感じることが二つある(「近似」は「近接」へと少し訳し変えておく)。
 第一は、異論はむろん国内や国外にあれ、フランスとドイツの歴史学の大家がいずれも「コミュニズム」(共産主義)という言葉を平気で用い、これにかかわる諸論点を正面から叙述したり議論したりしていることだ。
 このような知的雰囲気は、残念ながら日本にはほとんどないように見える。ましてや、「日本共産党」を俎上に載せての批判的な学問的研究は、皆無なのではないか。
 実質的に日本共産党の現在の見地を批判しているような場合であっても、「一部には」とか「という説」とか、あるいは共産主義者一般の話として、直接には日本共産党を名指ししていないことも少なくないようだ。
 第二に、フュレのぶ厚い本の題について、幻想の「終わり(終焉)」と「過去」のいずれが適訳かという話題を前回に出したが(英語版のタイトルは、The Passing of an Illusion , The Idea of Communism in the Twentieth Century だった)、共産主義という幻想が日本において「終焉」しているとは、まったく思っていない。
 つまり、もともとフュレの大著は叙述対象を「欧州」に限定しているのだが、フランスやドイツという欧州の学者・知識人にとって(おそらくは一般公衆にとっても)、ソ連の崩壊は同時に「冷戦の終わり」であり欧州人にとっての「コミュニズムの終焉」なのだろう、ということがよく分かる。
 彼らにとっては、中国(・北朝鮮)におけるコミュニズム(共産主義)などは知的関心の対象ではなく、日本にまだあることを知っているのかどうかすら分からない、日本のコミュニズム政党(日本共産党)の存在とその主張(あるいはなぜ今だに存続しているのか)もまた知的興味の対象ではないように見える。
 欧米の文献だけを読んで、日本のことを論じてはならない。
 日本共産党も含めて、日本のことは日本人こそが議論し、研究しなければならない。
 二 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)p.131は、「民主主義=反・反共主義=反ファシズム」という「現代リベラルの公式」は、ソ連崩壊以降に「むしろ純化された」、と書く。
 日本人のほとんどにとって、先の戦争で日本(・日本軍国主義)は<悪い>ことをした、少なくとも<過ち>をした。ほとんどの日本人の意識にとってこの出発点はきわめて強固だと見られ、これが日本に対する勝利者の中にソ連も加わっていた、という紛れもない歴史的事実が結びついて、1990年までは大づかみに言って<反民主主義>の日本・ドイツ等と<民主主義>のアメリカ・ソ連等という対置を基本とする<歴史認識>が(少なくとも「左翼」・日本共産党には)形成されていた。
 この「日本軍国主義」は「ファシズム」に少なくとも近似のものと理解されたので、上の公式・図式は、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=ソ連擁護」ということにつながった。この「ソ連擁護」を「社会主義」に置換すると、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=社会主義」ということになり、「民主主義」者は「反・反共」で親「社会主義」者であるはずだ、あるいは「民主主義」と「社会主義」は対立物ではないはずだ、という倒錯が生まれた。
 朝日新聞岩波書店も、青木理斉藤貴男も、大江健三郎も、鳥越俊太郎も、日本の<左翼>は、<何となく左翼>も含めて、かつての、この大きくて単純な<図式>の意識構造のもとで、かかる観念世界の中で、生きている。
 かくして、ファシズムも日本軍国主義もすでに存在しないのだが、つねにそれらの<再来>を警戒し、<戦後が戦前にならないように>とか<再びきな臭くなってきた>などとじつに教条的な批判・攻撃をし始めるのが、日本共産党を中核とする日本の「左翼」だ。そして、安倍晋三は攻撃しやすい「ネオ・ファシスト」となる
 三 上の後半で述べたのた似た事情が、欧州にもあったことを、フュレの大著は述べている。邦訳書(楠瀬正浩訳)のp.244-5は、「コミュニズムとファシズム」と題する第6章のはじめに、つぎのように書く。
 ・歴史家は19世紀の眼鏡を通して20世紀を見たため、「民主主義対反民主主義」という図式を繰り返し、「ファシズム対反ファシズムという対立に固執した」。この傾向は第二次大戦後「殆ど神聖にして犯すべからざる思想上の観点」とさえ見なされるようになった。
 ・この「精神的束縛」はきわめて強く、フランスとイタリアでは「コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示す」ものと考えられて、「コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる」ことになり、かつまた「ファシズムの歴史を語る」ことも困難になった。
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには<ファシズム>が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ!」
 ・「ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかったヨーロッパの政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上。ここでの「ファシズム」をそのままか又は「日本軍国主義」または「軍国(好戦)主義者」に置き換えて、ほとんど同じことが、日本でも起きてきたし、起きていることが分かる。
 共産主義という「幻想」が生み出した別の「幻想」・「妄想」の図式からまずは脱出し、別の図式を打ち立てる必要がある。
 それはどのようなもので、どのようにして達成されるのか? 長い闘いが知的・意識のうえでも必要であり、この欄も、少しはこれに役立つことを願って記しつづける。

1372/F・フュレの大著・共産主義という「幻想」の終わり(1995)等。

 この欄の2008年5月に言及したことがあるが、フランソワ・フュレはフランス革命の研究で知られるフランスの歴史学者で、フランソワ・フュレ(大津真作訳)・フランス革命を考える(岩波書店、1989)でも知られるように、従来の通説的フランス革命観を批判する「修正主義」派の代表者だともされる。
 一 そのフュレに、Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)という著作がある(フランス文字に独特の記号?は表現できないので悪しからず)。つぎの邦訳書をほとんど読んでいないが、いくつか指摘したいことがある。
 邦訳書はフランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)で、700頁を超える厚い本だ。
 1 訳者(だけ)の責任ではないと思うが、この邦訳書のタイトルは、正確には、<幻想の終わり-20世紀の共産主義(コミュニズム)>でなければならない、と感じる。
 後半部については、もともとフランス語の表現が「20世紀の共産主義〔又は共産主義者の思想〕に関する省察」と訳されるべきものであることは、フランス語に通暁していなくとも、上に示したフランス語の題名から、容易に理解できるだろう。
 前半部については、たしかに「幻想の過去」と日本語訳できそうだ。
 しかし、このフランス語書のドイツ語訳書(1996、Muenchen)の前半部は、Das Ende der Illusion. だ。このドイツ語の意味は「幻想の終わり」または「幻想の終焉」だろう。
 むろん、フランス語のLe passe は「過去」とも訳せるのだろうが、ドイツ語版と照合すると、<過去になってしまったもの>、つまりは<終わったもの>、という意味で、「終わり」または「終焉」の方が適切であるように思われる。
 後半部のドイツ語版の表現はやはり、Der Kommunismus im 20. Jahrhundert. であり、決して日本語訳本のように「20世紀の全体主義」と訳してはいけないものだろう。
 2 さらに翻訳者(1947-)の責任から遠ざかるかもしれないが、この邦訳書のいわゆるオビの背部分には、「コミュニズムとファシズムが繰り広げた血みどろの争いの軌跡。」とかなり大きい文字で書かれている。
 これは、フュレの真意を全く損なっているのではないか、と感じる。後でノルテとの交換書簡集にも触れるが、そのタイトルは日本語に仮訳すれば「敵対的な近似」なのであり、コミュニズム(共産主義)とファシズムの近似性こそが、フュレの(そしてエルンスト・ノルテ)の重要な関心事(の少なくとも大きな一つ)なのだと思われる。
 また、そのオビの表紙部分の最初には、「コミュニズムの『幻想』を通して、20世紀の総括を試みた初めての書」とある。
 これで誤りだとは言えないだろう。しかし、フュレが叙述する前提にあるのは、<コミュニズム(共産主義)とは「幻想」だ(だった)>、ということもまた強調されなければならない、と思われる。
 なぜこのようなオビの文章になり、なぜ明確に「コミュニズム(共産主義)」と書かれている言葉が「全体主義」と翻訳されているのか、を考えると、奇妙な気分になる。
 憶測、仮説なのだが、日本の出版界には、「共産主義」を堂々とタイトルにすることを避けたい<特殊な>事情があるのではないだろうか。
 この憶測、仮説はさらに大きな<仕掛け>があることの想像にもつながるが、その点にはここでは触れない。
 二 少し上で言及したように、半分は本国といえるドイツ語版の書、フランスのフランソワ・フュレとドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の「交換書簡(集)」=Ein Briefwechsel. として、"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert.(1998、Muenchen)が公刊されている。上のフュレの大著のドイツ語訳書と同じく、ミュンヒェンのHerbig Verlag GmbH (ヘルビッヒ書店・有限会社)から出版されている。
 このタイトルの直訳を試みると(既に前半部を記したが)「敵対的近似-20世紀におけるコミュニズム(共産主義)とファシズム」ということになる。
 ほんの少し目を通しただけだが、相当に面白い(ものであるような気がする)。
 だが、この本の日本語訳書は、まだ(なぜか)ないようだ。
 なお、面白くかつ十分に教えられつつ読み了えている、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)の末尾の参考文献として、フュレ=ノルテの上の本は(「敵対的近親関係」と仮訳されて)挙げられている。しかし、先の、フュレ・幻想の終わり(Le passe d'une illusion)を、福井は挙げていないようだ。邦訳本もあるのに、不思議だ。
 三 前者は日本語本の一部を読み、後者はドイツ語本の一部を通読したにとどまるので断定的なことは言えないが、いずれも、少しは知的営為を行なっている日本の<保守>派の人々は、読むべきではないか、と感じている。
 そして、前者については、2007年に日本語への訳書もあるのに、<保守>派論壇人によって紹介・言及・引用等がなされているのを読んだことがない、ということを不思議に思っている(たんに私の怠惰かもしれないが)。
 また、後者については言及されにくいのはある意味では仕方がないかもしれないが、テーマ自体ですでに(私には)魅力的であるのに、日本語への訳書が出版されていないことを不思議に思っている。
 四 なぜ、日本の<知識層>は(左も右も)、「コミュニズム(共産主義)」を(そして日本共産党を)正面から問題にしようとすることがきわめて少ないのか。
 なぜ、日本の出版界は、「コミュニズム(共産主義)」を(そして日本共産党を)正面から問題にしようとすることがきわめて少ないのか。「左翼」出版社がコミュニズム(・日本共産党)批判につながるような書物を出版したくないのは分かる。しかし、「左翼」とは言えない出版社もまた(産経新聞出版も含めて)、なぜ似たような状態にあるのだろう。
 敢えていえば、福井義高の上記の本も、表向きは<世界史>の本になっているが、じつは<反・共産主義>という観点・関心で一貫しているように読める(そう私は読んだ)。
 にもかかわらず、「共産主義(コミュニズム)」とか「共産党」とか「反共」とかを表に直接には出せないのは、日本の戦後に<特殊な>知的風土と出版界の事情があるようにも見える。
 日本人の多くは(福井義高を含めてはいない)、日本とアメリカの戦後<主流派>による<大仕掛けのトリックに嵌められた>ままではないか、ということを最近は感じる。
 報われることのない鱓(ゴマメ)の歯軋りのような作業を、生きているかぎりは、時間的余裕があれば、続けてはいく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー