秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

E・ブロッホ

2017/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.366-369.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)④。

 (19)アドルノの見解では、弁証法に関するこれらの教えの全ては、明確な社会的または政治的な目標に役立つはずだ。
 実践的行為の規準は、これらから推論することができる。
 「正しい実践や善それ自体のためには、理論の最も進んだ状態ほどに権威があるものはない。
 善に関する思想が具体的な理性的定義を十分には経ないで意思を導くことが想定されているとすれば、その思想は無意識に、具象化された意識から、社会が是認しているという意識から、秩序を獲得するだろう。」(p.242.)
 我々はかくして、明瞭な実践的規則を得る。すなわち、第一に、進歩した(<fortgeschritten>)理論があるはずだ。第二に、意識は「具体的な理性的定義」によって影響を受けるに違いない。
 このようにして明らかにされる実践の目標は、交換価値に由来する物象化を排除することだ。
 なぜならば、マルクスが教えたように、ブルジョア社会では「個人の自律」は表面的なものにすぎず、生活の偶然性や市場の力への人間の依存を表現するものであるからだ。
 しかしながら、アドルノの論述から、物象化されない自由は何で構成されているのかを集約するのは困難だ。
 我々は、この「完全な自由」を叙述するにあたって、いずれにせよ自己疎外(self-alienation)に関する観念を用いる必要がない。疎外からの自由の状態は、あるいは人間の自分自身との完全な統合は、すでに従前のあるときに存在しており、その結果として自由は出発点に立ち戻ることで獲得することができる、と想定されているからだ。-これは、定義上は反動的な考えだ。
 我々に愉楽の自由と「物象化」の終焉を保障する、何らかの歴史的デザインを知らされる、ということもない。
 現在に至るまで、普遍的な歴史に関する単一の過程というようなものは存在してこなかった。「歴史は、連続と非連続の統合体なのだ」(p.320.)。//
 (20)<否定弁証法>ほどに不毛だという強烈な印象を与える哲学書は、ほとんどあり得ない。
 人間の知識から「究極的な根拠」を奪おうとしているのが理由ではない。それは、懐疑主義の教理だからだ。
 哲学の歴史には尊重に値する懐疑主義の著作があって、それらは破壊的熱情とともに優れた洞察に充ちていた。
 しかし、アドルノは、懐疑主義者ではない。
 彼は、真実に関する規準は存在しない、全ての理論は不可能だ、あるいは、理性は無力だ、とは言わない。
 彼は反対に、理論は可能で、不可欠だ、我々は理性に導かれなければならない、と語る。
 しかしながら、アドルノの議論は全て、「物象化」に陥らなくしては理論は最初の一歩を進むことができない、ということを示すに至る。そうして、どうすれば第二またはそれ以上の歩みを進むことができるのかが明瞭でない。
 単直に言って出発地点がない。そして、そのことを承認することが弁証法の最高の達成物であるかのごとく主張されている。
 しかし、アドルノはこのような重大な言明を明確に定式化してはおらず、また、諸観念や格言類を分析することで、このことを支持してもいない。
 他の多数のマルクス主義者たちによくあるように、彼の著作は論拠を示してはおらず、どこでも説明していない観念を使って<権威的に(ex cathedra)>論述しているだけだ。
 じつに、彼は、経験的であれ論理的であれ、何らかの究極的な「データ」は哲学に出発地点を与えることができるという趣旨の実証主義的偏見を明確に示すものとして、観念上の分析を非難する。//
 (21)結局のところ、アドルノの議論は、マルクス、ヘーゲル、ニーチェ、ルカチ、ベルクソンおよびブロッホ(Bloch)から無批判に借用した諸思想の雑多な集合物に行き着いている。
 ブルジョア社会の全機構は交換価値を基礎にしている、それは全ての質的相違を貨幣という共通の分母に還元している、という言明は、マルクスから取っている(これは、マルクスのロマン派的反資本主義の形式だ)。
 マルクスに由来するのはまた、歴史を超歴史的な<世界精神(Weltgeist)>に従属させ、人間個人に対する「一般的なもの」の優越を主張し、現実を抽象物に取り替え、そうして人間の奴隷化を永続させるものだ、とするヘーゲル哲学に対する攻撃だ。
 主体と客体というヘーゲルの理論に対する攻撃も、再びマルクスから来ている。その理論では、主体は客体を明確にするものと定義され、客体は主体的な構成物だとされ、そうして悪性の円環が生み出されてしまうのだ。
 (しかし、アドルノがこの円環からどう抜け出すのかは明瞭でない。彼は主体と客体のいずれについても絶対的な「優越性」を否定するのだから。)。
 他方で、進歩と歴史的必然性の理論およびのプロレタリアートを壮大なユートピアの基礎的な担い手だとする発想を拒否する点では、マルクスから離れている。
 ルカチに由来しているのは、世界の悪の全ては「物象化」という語で要約することができ、完全な人間は「事物」の存在論的地位を投げ棄てるだろうという見方だ。
 (しかし、アドルノは、「脱物象化」した状態とはどのようなものかを、ましてやそれをどうやって達成するのかを、語らない。)
 プロメテウス的主題と科学的主題はいずれも放棄されており、曖昧でロマン派的なユートピアしか残っていない。そのユートピアでは、人間は彼自身となり、「機構的な」社会的諸力に依存することがない。
 アドルノがブロッホから借用しているのは、我々は現実の世界を「超越する」ユートピアという考えを抱いており、この超越性の特別の利点は原理的に、現時点ではいかなる明確な内容ももち得ないことだ、という見方だ。
 ニーチェから来ているのは、「システムの精神」に対する一般的な敵愾心、真の賢人は矛盾を恐れず、矛盾のうちに知を表現する、そして論理的批判に予め備えている、という便宜的な考え、だ。
 抽象的な観念は変化し得る事物を硬直化させるという考えは、ベルクソンから来ている(アドルノはあるいは、そうした事物を「物象化」すると言うだろう)。
 アドルノ自身は他方で、何ものをも硬直化しない「流動的な」観念を我々は創ることができるという望みを与えている。
 アドルノがヘーゲルから取っている一般的考えは、認識過程には主体と客体、観念と感知、個別的なものと一般的なものとのそれぞれの間の恒常的な「媒介」がある、ということだ。
 アドルノは、これらの要素全てに、ほとんど並ぶものがない曖昧な解説を付け加える。すなわち、彼は、自分の考えを明瞭に説明しようと全く望まず、勿体ぶった一般的叙述で覆ってしまう。
 <否定弁証法>は、思考の貧困さを覆い隠す職業的な大言壮語の、模範となるべきものだ。
 (22)人間の理性的推論には絶対的な根拠はないという見方は、たしかに擁護することができる。多様な形態でこれを深めた懐疑主義者や相対主義者によって示されてきたように。
 しかし、アドルノは伝統的考えに何も付け加えないどころか、彼独特の用語法でもってそれを曖昧化している(主体も客体も「絶対化」することができない、絶対的な「優越性」はない、等々。)
 彼は一方では同時に、「否定弁証法」は社会的行動のための何らかの実践的帰結を生むことができる、と想定している。
 かりにアドルノの哲学から知的または実践的な規則を抽出しようとすれば、結局はつぎの教訓となるだろう。すなわち、「我々は、より集中的に思考しなければならない。だが、思考の出発地点は存在しないこともまた忘れてはならない」。そして、「我々は、物象化と交換価値に反対しなければならない」。
 我々が何ら肯定的なことを言えないことは、我々の過失でもアドルノの失敗でもない。そうではなく、交換価値の支配に原因がある。
 したがって、今のところは、我々は否定的にのみ、全体としての現存する文明を「超越する」ことができる。
 「否定弁証法」はこのようにして、左翼集団(left-wing groups)のための好都合なスローガンを提供した。彼ら左翼集団は、政治的綱領としての完全な破壊のための口実を探し求め、弁証法という秘伝の最高の形態だとしてその知的原始性を高く評価するのだ。
 しかしながら、このような態度を激励する意図をアドルノは持っていた、と責めるのは不公正だろう。
 彼の哲学は、普遍的な反乱を表現するものではなく、無力さと絶望の表現だ。//
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 第3節終わり。第4節の表題は、<実存的「真正主義」批判>。

2016/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.363-p.366.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)③。

 (15)ハイデガー(Heidegger)の存在論はこの状況を解消しないし、むしろさらに悪いものを提示する。
 哲学から経験論とフッサールの<形相(eidos)>を排除して、ハイデガーは、存在(Being)を把握しようとしている。-その存在は、彼の理解によれば、純然たる無(nothingness)だ。
 彼はまた、現象を「分離」し、それを明確化に至る過程の諸要素(aspects, <Momente>)だと考えることができない。そのようにして、現象は「物象化」されるのだ。
 フッサールに似てハイデガーは、「媒介」なくして個別的なものから普遍的なものへと進むことができる、あるいは省察することに影響を受けない形式で存在を理解することができる、と考える。
 しかしながら、これは不可能だ。すなわち、存在は主体によって「媒介される」のだ。
 ハイデガーの「存在」は構成されたもので、たんに「与えられた」ものではない。
 「我々は、思考による場合に、主体と客体の分離がただちに消失するいかなる立場も採用することができない。なぜならば、全ての思考において、この分離は本来的なものだからだ。分離は、思考それ自体の中に内在している。」(p.85.)
 自由は、生活の両極の間に生起する緊張関係を観察してのみ、探し出すことができる。しかし、ハイデガーは、この両極を絶対的な現実だと見なし、それらをそれぞれの宿命に委ねるのだ。
 彼は一方で、社会は「物象化」されなければならないと認める。換言すると、<現状>をそのまま承認する。
 他方でしかし、人間にとっての自由は既に得られているものであるかのように叙述し、そうして、隷属状態を承認する。
 彼は形而上学を救おうと試みているが、救済を目指しているのは「直近に現存するもの」だと間違って想定している。
 概して言えば、ハイデガーの哲学は、抑圧的社会に役立つ<支配学(Herrschaftswissen)>の一例だ。
 存在するものとの間の約束した聖餐式を行うために、諸観念を放棄しようと呼びかけている。-しかし、この存在には内容がない。その正確な理由は、諸観念の「媒介」なくしてもそれを把握することができる、と想定されていることにある。
 彼の哲学は、根本的には、「である(is)」という連結詞を実在化したもの(substantivization)にすぎない。//
 (16)可能なかぎり一般的な用語で語れば、〔上のような〕ハイデガーの存在論に対するアドルノの攻撃の主要点は、つぎのヘーゲルの主張にある。第一に、主体を形而上学的考究の結果から完全に排除することは決してできない。第二に、かりにこのことを忘れて主体と客体を両側に位置づけようとすれば、そのいずれをも理解することが絶対にできない。
 いずれもが、分離できない考察の一部だ。いずれにも、認識論上の優越性はない。それぞれが、他者によって「媒介」される。
 同様に、いずれかが絶対的に個別的なものだとする認識-これをハイデガーは<存在とJemeinigkeit(自己帰属性)>と呼ぶ-によって理解する方策は存在しない。
 一般的な諸観念の「媒介」なくしては、純然たる「ここにあるこの物」は、抽象物だ。
 それを考察から「引き離す」ことはできない。
 「しかし、真実は、つまり主体と客体とが相互に浸透し合う集合体は、ハイデガーが曖昧にしがちな主体性との弁証法的関係をもつ存在へと還元する以上には、主体性に切り縮めることができない」(p.127.)。//
 (17)アドルノが「否定弁証法」という語で意味させたいものを説明するのに最も役立つ文章は、つぎのものだ。
 「弁証法的論理は、ある意味では、それを排除する実証主義以上に実証主義的だ。
 思考しているとき、弁証法的論理は、その客体が思考(thinking)の規則を気に掛けない場合であってもいずれが思考されるべきもの-客体-なのかを尊重している。
 客体を分析するのは、思考の規則から脱するということだ。
 思考は、それ自体の規則適合性に甘んじている必要はない。それを放棄しても、我々は様々に思考することができる。かりに弁証法を定義するのが可能ならば、これは提示するに値する定義になるだろう。」(p.141.)
 弁証法は論理の規則に束縛される必要はないということ以上を、我々がこの定義から導出できる、とは思えない。
 我々は実際に別の文章で、もっと自由につぎのように語られる。
 「哲学は理性の真実(vérité de raison)から成るのでも、事実の真実(vérité de fait)から成るのでもない。
 哲学が語る何も、『存在する事実(being the case)』に関する感知可能な規準に屈従しはしないだろう。
 構成観念に関する諸命題は、事実性に関する諸命題が経験科学の規準に従属しているほどには、事実の論理的状態に関する規準に従属していない。」(p.109.)
 もっとよく分かる立場表明を想定するのは、実際のところ困難だろう。
 否定弁証法論者は、第一に、論理の観点からも事実の観点からも批判されることはあり得ない、と明確に述べる。それらの規準は自分たちとは関係がないと断定しているのだから。
 第二に、自分たちの知的および道徳的な優越性は、これらの規準をまさに無視していることにもとづく、と宣言する。
 そして第三に、この無視こそが実際に、「否定弁証法」の本質(essence)だ、と主張する。
 「否定弁証法」は単直に言って白紙の小切手であり、歴史によって署名され、裏書きされる。
 存在、主体および客体は、アドルノとその支持者たちのためにある。
 いかなる金額も書き込むことが可能で、何であっても有効で、論理の「実証主義的偏愛」や経験主義から絶対的に自由だ。
 思考は、弁証法的にその反対物へと変転する。
 このことを否定する者は、「一体性原理」の奴隷となる。これは、交換価値に支配された、ゆえに「質的な相違」を知らない社会を受容することをその意味に包含している。//
 (18)アドルノによると、「一体性原理」がきわめて危険な理由は、それがつぎのことを意味することにある。
 それは、第一に、分離されたものは全て経験的に存在するものだ、第二に、個別的な客体は一般的諸概念でもって見極めることができる、つまり抽象化に向かって分析することができる(これはアドルノは言及していないが、Bergson の考えだ)、ということを意味する。
 一方では、哲学の任務は、第一に、事物は現実に何であるかを確定することであって、たんにそれがどの範疇に帰属するかを確定することにあるのではない(アドルノはこの種を分析した例を挙げていない)。
 第二に、それ独自の観念に従えば、まだ存在に至っていなくともそれは何であるべきかを説明することだ(これはアドルノはこの論脈では言及していないが、Bloch の考えだ)。
 人間は自分を定義する方法を知っている。だが、社会は、人間にあてがう機能に一致するように様々に人間を定義する。
 これら二つの定義の仕方の間には、「客観的な矛盾」がある(ここでも例示はない)。
 弁証法の目的は、観念による事物の固定化に反対することにある。
 弁証法は、事物は決してそれらと同一視されない、という立場をとる。 
 弁証法は、否定の否定は肯定的なものへの回帰を意味すると想定することをしないで、否定を探し出す。
 弁証法は個別性を承認するが、一般性によって「媒介された」ものとしてのみそうするのであり、個別性の要素(aspect, <Moment>としてのみ一般性を承認する。
 弁証法は、客体のうちに主体を見る。逆もまた同様であり、理論のうちに実践を、実践のうちに理論を、現象のうちに本質を、本質のうちに現象を見る。
 弁証法は差違を理解しなければならないが、それを「絶対化」することはない。そして、何らかの特定の事物を最も優れた(par excellence )出発点だと見なすことはあり得ない。
 フッサールの先験的主体のような、一切何も前提としない見方というものは、存在し得ない。
 全てのものを含み、かつ全体と一体となる一つの精神(spirit)があり得るという思想は、全体主義体制における単一党という思想と同じく、馬鹿げた(nonsensical)ものだ。
 精神と物質のいずれに優越性があるかに関する論争は、弁証法的思考では無意味だ。なぜならば、精神や物質という観念はそれら自体が経験から抽象化されたものであり、それら二つの間の「根本的相違」なるものは、因習的約束事(convention)に他ならない。
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 ④へとつづく。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
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 以上。
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