秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Dzerzhinskii

2962/R. Pipes1990年著—第18章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する①。
 (01) ソヴェト・ロシアは、1920年までに、つぎの意味での警察国家になった。保安警察、事実上の国家内部の国家が、その触手を、経済管理機関を含む全てのソヴェト組織に広げた、という意味での。
 きわめて短い時間で、チェカは、無害の政治的異論者を捜査し、判定を下す機関から、人の生か死を決定するだけでなく、全国家装置の日常的活動を監督する、政府を超える機関に変身した。
 このような発展は、必然的だった。
 共産主義体制は、国の運営全般を自分で行なうことを主張したが、数十万人の専門家たちを雇う以外に選択の余地はなかった。—専門家は「ブルジョア専門家」で、その定義上、「階級敵」だった。
 したがって、彼らを緊密に監督する必要があった。
 この監督が、チェカの責任となければならなかった。チェカだけが、必要な組織だったのだから。—この責任が、チェカがソヴィエトの生活の全ての局面に浸透することを可能にした。
 新しい機能に関する1919年2月のCEC に対する報告で、Dzerzhinskii は、こう述べた。
 「群衆をまとめて簡単に処理する必要は、もうない。
 我々の敵は、今では闘争の方法を変えた。我々の組織の中に、虫のように入り込もうとしている。
 その目的は、我々の隊列の内部で破壊工作をすることであり、外部の敵が我々を破滅させ、我々の権力の機関や機構を掌握して、それらを我々に向けるまでつづく。…
 この闘争は、する気があるならば、個人的に行なうもので、今までよりも繊細だ。
 探索しなければならない。とどまることはできない。…
 我々の敵は、ほとんど全ての我々の組織内にいる。
 だが、我々は自分たちの組織を破壊することができない。細い糸を見つけて、捕えなければならない。
 この意味で、闘争の方法は、今や完全に変わらなければならない。」(注119)
 チェカは、このような主張を、全てのソヴェト組織に浸透する言い訳として用いた。
 そして、チェカは人間の生命に対する無制限の力を維持したので、それがもつ行政的指示は、テロルのさらに新しい形態となった。この新しい形態のテロルを、共産党員か否かを問わず、ソヴェトで働く者全員が逃れることができなかった。
 したがって、Dzerzhinskii が、1919年3月にチェカの長官職を保持しながら、内務人民委員に任命されたのは、自然なことだった。
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 (02) 権能の拡大に沿って、1919年半ば、チェカの上層官僚には、いかなる市民をも逮捕し、いかなる組織をも捜索する権限が、与えられた。
 このような権能が実際に意味したことは、 チェカ役員会の構成員に発行された証明書から記述することができる。
 この証明書は、所持者に対して、つぎの権限を認めた。
 (1) 反革命活動、投機その他の犯罪を行なったとして有罪であるかその疑いがあるいかなる市民をも拘束し、チェカに引き渡すこと。
 (2) 全ての国家および公的官署、工業・商業企業、学校、病院、地域共同住宅、劇場ならびに鉄道駅・蒸気船港に、自由に立ち入ること。(注120)
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 ②につづく。

2961/R. Pipes1990年著—第18章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
 (07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
 チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
 両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
 内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
 こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
 戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
 これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
 Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
 「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
 戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
 敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
 バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
 警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
 チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
 それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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 (08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
 チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
 〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
 1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
 「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
 この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
 だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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 (脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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 (脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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 (09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
 チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
 州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
 しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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 (10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
 チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
 しかし、時期が到来していた。
 1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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 (11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
 Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
 二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
 この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
 党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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 (12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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 (脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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 彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
 しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
 今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
 チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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 (13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
 しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
 1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
 まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
 Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
 1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
 それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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 第九節、終わり。

2960/R. Pipes1990年著—第18章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
 (01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
 1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
 しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
 1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
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 (02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
 チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
 チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
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 (03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
 Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
 州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
 1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
 回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
 司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
 その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
 彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
 1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
 党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
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 (04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
 〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
 Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
 彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
 「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
 しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
 モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
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 (05) チェカは、反撃した。
 反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
 彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
 髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
 ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
 赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
 大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
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 (06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
 批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
 Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
 チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
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 (脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
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 ②へ、つづく。
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