Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳のつづき。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔③。
 (10) 共産主義とファシズムが似ている別の点もある。
 ともに科学に基礎があると主張するが、いずれも千年紀(millenarian)の宗教の影響を受けていた。
 Bertrand Russel がその無視された古典の<ボルシェヴィキの実践と理論>(彼がソヴィエト同盟を訪問してレーニンと会話した後で1920年に出版された)で認めているように、いかほど過激で極端であっても、ボルシェヴィキは政治的な教理以上のものだ。
 攻撃的な世俗主義に立ちつつ、ボルシェヴィキの社会改造の衝動は、黙示録的神話(apocalyptic myths)によって強められた。
 千年紀運動に関するNorman Cohn の影響力ある仕事を参照して、Tismaneanu はこう書く。
 「レーニン主義も、ファシズムも、一連の千年紀的な社会学や心理学を生んだ。
 いずれも、徹底した千年至福説(chiliasms)に立ち、無条件に従う支持者たちの間に途方もない情熱を植え込んだ。」
 共産主義の千年至福説的性格は、新奇な主題ではなく、Tismaneanu の書の至るところで、現存する諸批判と力強く統合させるものになっている。
 彼が十分には探っていないのは、宗教的神話を現代の世俗的形態へと流し込む、共産主義というものの機能だ。—継続する魅力を説明する方法を見出すという役割。//
 (11) Tismaneanu は、Boris Souvarine を引用して、「極左と極右のイデオロギー的暴虐の中で野蛮主義と挫折した近代性を不思議さをもって混ぜ合わせている」という理由で、非正統のマルクス主義者を称賛する。
 しかしながら、<歴史の中の悪魔>の論述の論脈では、不思議なのは挫折した近代性という考えかもしれない。
 この書の別の箇所でTismaneanu は、共産主義とファシズムは、疑いなく野蛮だがなおも十分に近代的な、そういう発展のための選択肢的形態だ、と認めている。
 この点についての彼の曖昧さは、今日のリベラリズムについての彼の説明にある間隙を反映している。
 その論述の多くで、彼は、先進リベラル民主主義諸国では、共産主義においてなされた世俗的政治教理として宗教的神話を再生利用することは行われない、ということを前提にしている。
 しかし、西側が採った政策は、ソヴィエト後のロシアと東ヨーロッパ諸国は、経済的ショック療法の短い期間の後では、正常な発展の道へと方向を変え、リベラルな諸価値を採用するだろう、という考えにもとづいていた。—歴史上に根拠のない考え。
 ロシアとヨーロッパの多くでは、リベラルな諸価値は決して「ふつう」になってきていない。
 Tismaneanu は、「結局のところ」、1989年が先駆けとなった「ヨーロッパへの回帰」は「正常さと現代的生活様式」を支持している、と書く。
 しかしながら、かりに共産主義後(post-Communist)の諸国が正常さへと回帰したとすれば、—比較的におだやかだが現実にはある—有毒な範型の正常さへの回帰だ。そうした正常さは、20世紀の長い間ずっと大陸の多くにあったものだ。//
 (12) <歴史の中の悪魔>の盲点は、リベラルな社会で神話がもつ力だ。
 Tismaneanu は、「ヨーロッパにおける共産主義の崩壊は、選択可能な神話体系の余地を許し、救済幻想の蔓延を残した」と書く。
 彼は、ソヴィエトが崩壊した共産主義後の諸国に言及している。残った真空を埋めたのは、自民族中心のナショナリズムと、ユダヤ人はほとんどいない諸国でユダヤ人を悪魔視する、ホロコースト後の多様な反ユダヤ主義だった、と。
 しかし、ソヴィエトの崩壊の影響は、リベラルな社会は完全に近代的であり得る唯一の社会だという考えを褒めそやす、西側の民主主義諸国でも感じられた。
 推奨すべきことだが、Tismaneanu は、「究極的なリベラルの勝利」という、時代遅れの似非ヘーゲル的旋律を奏でるのを拒否する。
 しかしながら、問題は、リベラリズムが必然的に支配するか否かではない。—歴史の不可避性に関する、陳腐な議論。そうではなく、問題は、リベラルな社会は、彼が適切に表現する「近代性(modernity)という伝染性の傲慢」というものから逃れることができるか否かだ。
 共産主義の崩壊は唯一の真に近代的な生活様式—の勝利だという考え—経験的観察というよりも一種の終末論的神話だ—に取り憑かれている人々には、このような問題は生じない。
 そのような人々にとって、リベラリズムは解かれるべき歴史の謎であるとともに、それこそが解決だと示すものなのだ。//
 (13) 同じ神話—神の御意への宗教的信仰の一範型—が、共産主義による相変わらずの訴えかけを支えている。
 ボルシェヴィズムをツァーリズム(帝制主義)と区分けする特質の一つは、レーニンとその支持者たちの、社会を完璧に改修(overhaul)する必要があるという強い主張だった。
 旧態依然たる専制君主たちも、権力を維持するために必要だと思えば、漸次的に近代化するかもしれない。しかし、彼らは新しい模範型にもとづいて社会を再構成しようとは意図しない。ましてや、人間性の新しい類型で装おうとは。
 共産主義体制は、その再構成という変革を達成するために大量殺戮を行い、そして逆説的にも、リベラルたちが魅力をもったのは、この本質的に全体主義的な野望だった。
 あれこれの点で、ユートピア(夢想)主義とメリオリズム(改革可能主義)の陳腐な区別は、原理的なものではなくなっている。
 その主要な形態では、リベラリズムは、近年では人間性の宗教の一範型になってきた。そして、稀な例外を除いて—Russel は気づいている数少ない一人だ—、リベラルたちは、共産主義の実験を自分たちの改良構想の誇張な表現だと見てきた。
 実験が失敗しても、その大惨事は、進歩的な目標のために起きたのだ。
 これと異なって考えると—完全には人間ではないと判断された数百万の者たちは全く無為に死に、殺されたのだという可能性を承認すると—、歴史は継続する人間の前進の物語だという考え方に対して疑問を抱くことになるだろう。この歴史の見方は、今日のリベラルたちには一つの忠誠事項だ。
 以上が、逆の根拠が多数あるにもかかわらず、彼らの多くが今なお、共産主義のファシズムとの明確な親近性の承認を拒否している理由だ。
 共産主義の真の性質に盲目であるのは、過激な悪魔は進歩を追求するためにやって来ることがある、ということを受け入れることができないことを意味する。
  2013年//
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 第42章、終わり。