秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

60年安保騒擾

1810/西部邁という生き方①。

 西部邁(1939.03~2018.01)の名は「保守」論客として知っていたし、少しはその文章を読んだが、教えられるとも、尊敬できるとも、ほとんど感じなかった。
 私の勉強不足といえばその通りだろう。しかし、かつての全学連闘士でのちに「保守」派に転じたというわりには、-以下の点では佐伯啓思も同じだが-共産主義に対する批判、日本共産党に対する批判・攻撃が全くかほとんどないのは不思議だ、と考えてきた。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)や同・保守の遺言(平凡社新書、2018)は、「保守」をタイトルに冠しているが、所持すらしていない。
 西部邁・ファシスタたらんとした者(中央公論新社、2017)は購入したが、一瞥したのみ。
 但し、これが連載されていたときの月刊雑誌はとくに最初の方を少しはきちんと読んだことがある。しかし、熟読し続けようとは思わなかった。
 単行本を一瞥してもそうだが、<オレが、オレが>、<オレは、オレは>という自己識別意識・自己中心意識で横溢していて、何やら見苦しい感がするところも多い。
 きっとよく勉強して(共産主義・コミュニズムについては勉強は終わったつもりだったのかもしれない。これは<日本会議>も同じかもしれない)、よく知っているのだろう。
 しかし、何故か惹かれるところが、自分の感受性にフィットするところがなかった。
 それよりも、記憶に残るのは、つぎの二点だった。月刊雑誌掲載時点の文章によるのだと思われる。以下、記憶にのみよるので、厳格な正確さは保障しかねるが。
 第一。マルクスやレーニンの本を読まないうちに、つまりはマルクス主義・共産主義の具体的内容を知らないままで、東京大学(経済学部)に入学した直後に、日本共産党への入党届(加入申請書?)を提出した。いわゆる浪人をしていないとすると、満18歳で、1957年4月以降の、その年度だろう。
 第二。いわゆる<1960年安保騒擾>に関係するだろう、すでに日本共産党は離れていたとき、何かの容疑で逮捕され、かつ起訴されて有罪判決を受けた(これは彼が付和雷同した一般学生はもちろん、ふつうの活動家学生でもなかったことの証しだろう)。
 しかし、有罪判決であっても、<執行猶予>が付いた
 第一点も興味深いがさておき、この第二の、<執行猶予>付き有罪判決というのが、印象に残った。
 なぜなら、<執行猶予>付きというのは単純な罰金刑ではなくて身体拘束を伴う人身刑だと思われるが、執行猶予が付いたからこそ、収監されなかった。
 そして、収監されなかったからこそ、完全に「自由」とは言えなくとも、大学に戻り、学生として卒業し、大学院へも進学することができた(そのうちに、<執行猶予>期間は経過し、そもそも実刑を科される法的可能性が消滅する)。
 ここで注目したいのは、おそらくは当時の大学(少なくとも国公立大学)での通例だったのだろう、有罪判決を受けた学生でも休学していれば復学を認め、休学中でなければそのまま在籍を認めた、ということだ。
 つまり、学生に対する正規の(日本の裁判所の)有罪判決は、少なくとも当時の東京大学では、その学生たる地位を奪う、または危うくする原因には全くならなかった、ということだ。
 執行猶予付きではなくて実刑判決であれば(当時の状況、司法実務の状況を知って書いているのではないが)、その後の西部邁はあっただろうか
 収監が終わったあとで彼は経済学を改めて勉強し、大学院に進み、研究者になっていただろうか。
 一般的な歴史のイフを語りたいのではない。
 大学あるいは一般社会にあった当時の(反・非日本共産党の)学生の「暴力」的活動に対する<寛容さ、優しさ>こそが、のちの西部邁を生んだのではないだろうか。
 当時の(少なくとも東京大学という)大学の学生に対する<寛容さ、優しさ>というのは、要するに、当時の、少なくとも東京大学を覆っていた<左翼>性のことだ。余計だが、当時の東京大学には、法学部だと、宮沢俊義も、丸山真男もいた。
 しかして、西部邁は自分の人生行路を振り返って、<反左翼だったらしい>彼は、かつての大学、国公立大学、東京大学にあった<反体制・左翼>気分によって「助けられた」という想いはあっただろうか。
 東京大学教養学部に教員として就職して以降の方がむろん、西部邁の重要な歴史なのだろう。
 だが、それよりも前に、彼にとって重要な分岐点があったようにも思われる。これは、「戦後日本」の特質、あるいはそれを覆った「空気」に関係する。
 こんなことは西部邁の死にかかわって言及されることはないが、何となく印象に残っていたので、記す気になった。

1430/西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

1047/朝日新聞の9/21社説-「左翼」丸出し・幼稚で単純な「民主主義」観。

 朝日新聞の9/21社説(の第一)を読んで、呆れてモノが言えない、という感じがする。
 9/19の「脱原発集会」を最大限に称える社説だ。
 平然と大江健三郎の名前を出して、その言葉が印象的だなどと書いているが、大江健三郎という名が「左翼」の代名詞となっているほどだとの知識くらいは持っているだろう。同じ「左翼」の朝日新聞(社説子)にとっては、そのような、<特定の>傾向のある人物らが呼びかけた集会であることは、何ら気にならないようだ。ずっぽりと「左翼」丸出しの朝日新聞。
 この社説が説くまたは前提とする「民主主義」観も面白い。
 まず、「民主主義」を善なるものとして、まるで疑っていない。限界、さらには弊害すらあることなど、全く視野に入っていないようだ。怖ろしいことだ。
 「人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ」。
 こういう文章を平気で書ける人物は、よほどの勉強不足の者か、偽善者であるに違いない。
 また、間接民主主義よりも「直接民主主義」の方が優れている、という感覚を持っているようだ。「市民主権」論の憲法学者・辻村みよ子らと同様に。以下のように能天気で書いている。
 「国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ。/米国の公民権運動を勇気づけたキング牧師の「私には夢がある」という演説と集会。ベルリンの壁を崩した東ドイツの市民たち。直接民主主義の行動が、国の政治を動かすことで、民主主義を豊かにしてきた」。
 「プープル主権」論は間接民主主義よりも直接民主主義に親近的なのだが、その「プープル主権」論の発展型が社会主義国に見られる、あるいはレーニンらが説いた「プロレタリア民主主義」あるいは「人民民主主義」に他ならない。朝日新聞の社説は、じつは(といっても従前からで目新しくもないが)<親社会主義(・共産主義)>の立場を表明していることになるのだ。
 その次に、以下の文章がつづく。
 「日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。……」
 ここでは、「60年安保」闘争(騒擾) や「ベトナム反戦」運動が、何のためらいもなく、肯定的に捉えられている。
 さすがに朝日新聞と言うべきなのだろう。「60年安保」闘争(騒擾) にしても「ベトナム反戦」運動にしても、このように単純には肯定してはいけない。むしろ、「60年安保」騒擾は、憲法改正(自主憲法の制定)を遅らせた、戦後日本にとって決定的に重要な、消極的に評価されるべき<事件>だった、と考えられる。背後には、いわゆる進歩的知識人がいたが、そのさらに奥には社会主義・ソ連(ソ連共産党)がいて、「60年安保闘争」を支え、操った。そんなことは、朝日新聞社説子には及びも付かないのだろう。
 唖然とするほどに幼稚な「左翼」的、単純「民主主義」論の朝日新聞社説。これが、日本を代表する新聞の一つとされていることに、あらためて茫然とし、戦慄を覚える。

0973/長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日(1992)の「あとがき」。

 長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日―「極東文明化」の夢と挫折(PHP、1992)の「あとがき」は1991.12に書かれていて、こんな言葉を含んでいる。p.192。
 ・「国際政治に対する一般的立場からすれば、私は戦後一貫して、共産圏の拡大を阻止するというアメリカの政策を支持し続けてきた」。
 ・六〇年「反安保闘争の動機に疑念を提出し続けていた」。当時の反安保キャンペインの月刊誌など「汚らわしくて手続も触れないというくらいのもの」だ。
 ・「それとともに私は、マッカーサーの占領の成果に寄生しながら、共産圏に関する幻想をふりまき、西側世界を共産圏に向かって武装解除しようとしてきた左翼知識人たちに対して、いうにいえないいかがわしさを感じてきた」。「米軍を追い返し、日本を非武装化しようとする人々の意図がどこにあるのか」、彼らの「純粋な平和への願望」を「信じたことがない」。

 -このようにアメリカの基本政策に賛成しつつ、様々な観点から様々な感想をもってアメリカを観察した。その成果がこの本だ、とされている。
 長尾龍一、1938~、元東京大学教養学部教授(法思想史・法哲学)。
 上のように書く人が東京大学教養学部にいたとは、心強いことではある。
 だが、ソ連・東欧(共産党)の崩壊・解体が明瞭になっていた時点になってからの上のような言明をそのまま鵜呑みにして<称賛?>することはできず、上の本のほか、それまでのこの人の研究内容・文献をも参照する必要があるだろう。
 

0940/戦後史②-遠藤浩一著の2。

 <戦後>とは何だったか、については直接・間接にいろいろと言及してきた。かつて、類似タイトルの田原総一朗の本の内容に触れたこともある。

 あらためて、より包括的に、だが当面は遠藤浩一と佐伯啓思の本を手がかりにして、<戦後史>を考える。

 日本の<戦後>の第一の区切りは1952年の講和条約発効だったかに見える。だが、1950年の朝鮮戦争と警察予備隊発足による日本の事実上の<再軍備(軽装備だが)>の始まりと、その前提としてのアメリカの占領基本方針の変更(変更前の「成果」こそが1947年施行の日本国憲法だった)の時点の方が政治的意味は大きいかもしれない。

 1947年初め(日本国憲法はすでに公布されていた)までを<戦後第一期>とすれば、その後が<戦後第二期>で、今日にいう<戦後>とは、この<第二期>の、アメリカの軍事力に守られて(軽軍事力のままで)経済成長にいそしむ、という「体制」に他ならないだろう。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)p.216(2010、麗澤大学出版会)は、そのような「戦後というものの継続」が確定したのは、1952年でも、(政治学者はしばしば画期として用いる保守・左翼政党のそれぞれの統一年である)1955年(「1955年体制」)でもなく、「昭和三十年代半ば以降」だったとする。

 昭和30年代の半ば、昭和35年は1960年で、<六〇年安保騒擾>の年。この年に岸内閣は退陣し、池田勇人内閣に変わる。

 池田は「朝鮮特需の頃」(1950年)から「助走」を始めていた「高度成長に棹さすことによって所得倍増政策を推進」した(p.217)。

 1963年10月に池田勇人は「在任中、憲法改正はいたしません」と宣言した(p.221)。

 遠藤浩一によると、池田政権の発足ととともに「軽武装・対米依存・経済成長優先」という「吉田路線」が復活し、「戦後」は終わらないまま「池田時代から本格化した」(p.221)。

 最近しばしば目にする<吉田ドクトリン>の内容とその評価はなおも留保したいが、<60年安保騒擾>後の数年間で、現在の日本の基本的姿は決まってしまった、という趣旨には同感する。

 すなわち、この時期に、政権党・自民党は、憲法改正(自主憲法制定)を実質的にあきらめてしまったのだ。

 どうしてだったのだろう? この時期に憲法調査会の報告もあったはずだが、改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていたので、改正の現実性は低かった。

 しかし、憲法改正(自主憲法制定)を訴え続け、国会内勢力を憲法改正発議が可能なように改める努力を、なぜ自民党政権はしなかったのだろうか。

 いつかも書いた気がするが、この時期に憲法改正=「自衛軍」の正式な(憲法上の)認知がなされていれば、今日まで残る基本的な諸問題のかなりの部分はすでに解決されていた。 三島由紀夫の1970年の自裁はなかった可能性がむしろ高いだろう。

 表向きはまたは身近は「平和」な状況のもとで快適で豊かな「物質的生活」を望んだ国民の意識が背景にはあるのだろう。しかし、国民の意識あるいは「欲望」に追随し阿るのが政治家・政党ではあるまい。

 岸信介は、「経済は官僚でもできる。だが、外交や治安はそうはいかない」と語ったらしい(遠藤浩一・下p.217)。

 なぜ、憲法改正はこの時期に挫折し、その後実質的には政治的課題・現実政治的な争点にならなくなったのだろうか。

 改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていた、あるいはそのような状態にさせていた「力」は、いったいどこから来ていたのだろう、という問題ともこの疑問は関連するはずだ。

0157/立花隆は「厚顔無恥」にも詫び・訂正を明示せず<こっそり>修正した。

 これまた些か古い話題だが、私にはきわめて興味深かったことなので、記録に残しておきたい。立花隆という人物がいかほどの人物なのかを、ある程度は示しているように思う。
 昨年の11/23のことだが、日経BPのサイト内の立花隆のエッセイ連載記事に入ってみると、「踏みにじられた教育基本法審議」という11/17付のコラムが掲載されていた。
 残念ながら保存しなかったが、そこには、明らかに、<教育基本法改正案につき衆院で与党が単独採決したのは参院が審議・議決しなくても30日経てば(衆院議決のままで)自然成立するのを待つためだ>、との旨が書いてあった。
 この記述内容の中核、すなわち、<参院が審議・議決しなくても(衆議院議決から)30日経てば衆院議決のままで法律は自然成立する>、というのは、明確な誤りだ。憲法59条~61条を見て確認すれば、すぐに分かる。
 おそらく立花隆には、60年安保の際の記憶が鮮明すぎて、条約と法律の区別がついておらず、衆議院が議決すれば条約は参議院がなくとも衆議院議決後30日経てば批准される、という条約の場合と混同していたのだ。
 cf.「61条 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。」
 「60条第二項 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。」
 さすがに、日経BPの編集部は誤りに気づいていたようで、「編集部注」として正しい内容が11/23の時点で記されてあった。
 cf.「59条第二項 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」
 ところが何と、11/25に再び同じ立花隆の同じエッセイ欄を見てみたら、「よく知られているように、…参院の審議内容がどうあれ、それが審議時間切れで衆院に戻されても、法案は再び衆院の3分の2以上の賛成があれば可決してしまうからである」と、本人の訂正の言葉は一片もなく、日付を変えることもなく、憲法規定の正しい内容通りに実質的に修正されていた。
 細かな憲法規定の知識に関することだが、上のような訂正を<こっそり?>としておいて、「よく知られているように」とはよく書けたものだ、と思った。「よく知って」いなかったのは、立花隆自身ではないか。これが他人の場合なら、立花隆は、<厚顔無恥>という批判の言葉を浴びせかけたのではないか。

-0030/田原総一朗は立花隆よりもマシそう。

 くどいようだが、日本共産党を軽視してはならない。8月25日に機関紙読者数の減少に触れたが、それでも同資料によれば、赤旗本紙30万、日曜版138万の読者がいる(筆坂・日本共産党(新潮新書、2006)p.54によれば、合計で164万)。
 この数字は、一般の書籍が10万も売れればヘストセラ-扱いされるのを考えると、ある種、恐ろしい数字だ。
 毎週1回は100万人以上がコミュニズムを支持する政党の見解を読んでいる。
 先進資本主義国日本で共産党が存在し活動しているのは異常であり、かつそこに日本社会・日本人の意識に独特の問題点又は特徴があるといういうのが私見だ。異常であること、そして異常さをさして意識していないのも異常である、ということを強調したい。
 日本共産党の存在は日本社会党のそれとともに60年安保や70年安保頃の闘争又は国民運動をどのように総括するかともかかわる。デモに参加したことを無邪気に書き、「60年安保」をおそらくは反米民族・民主主義闘争として肯定的に評価することを疑っていないようである立花隆・滅びゆく国家(2006)に比べて、同じくデモに参加していた田原総一朗・日本の戦後―上・私たちは間違っていなかったか(講談社、2003.09)は、「あの国民運動ともいうべきエネルギ-はなんだったのか」と問うているだけでも(p.32)-全部は未読だが-立花よりも良心的だ。
 私見では、日本の軍事力の弱小さを前提とすると、対等性の向上、有事のアメリカの防衛義務の明記等を図る60年安保改訂を当時の国民は反対すべきではなかった。だが、社会主義「革命」をめざす政党と「進歩的・良心的」知識人の「煽動」があったからこそ(マスコミも当然に入る)、大「国民運動」にまでになった。
 南原繁をはじめとする「知識人」たちの責任は頗る大きい、と思う。むろん日本社会党は欧州社民主義政党と異なり容共・反米の立場だったのであり、日本社会党のブレインたちの責任は極めて大きく、歴史的に誹られても仕方がない、と考える。
 このあたりの点はさらに勉強して、いずれまた、70年安保や「全共闘」問題とともに、触れるだろう。
 どのような時代を生きてき、どう当該時代を評価するかは、今後の私の重要な、形式的には趣味としか言い様がないが、作業なのだ。
 ドイツは統一に際してナチス前の帝国の領土回復を国家としては諦念した。が、個人次元では複雑な想いをもつ人もいることが判る-今朝の読売6面を参照。

-0028/視野の狭い立花隆は「曲学阿一世」ではないか。

 月刊現代を買う。立花隆「安倍晋三に告ぐ、『改憲政権』への宣戦布告」が載っていたからだ。一読して、幻滅。
 こんなのを巻頭にするとは月刊現代も落ちぶれた。全体としてもかつてはもっと賑やかで興味を惹く記事が多かった気がする。
 立花論文?は8月15日の南原繁関係の集会にかかる原稿が元にあるようで、羊頭狗肉著しい。特定の政権への「宣戦布告」とワメくためには現在の日本を取り巻く国際又は東アジアの政治環境の認識は不可欠だろうが、異常にも、アメリカも北朝鮮も中国も、言葉としてすら出てこない。そして基本は岸信介のDNAを受け継ぐ安倍を立花が精神的には「DNA」を引くと「思うくらい」の南原繁を援用しながら批判するというもの。これを読んでほとんどすべてにノ-と感じた。
 「安倍の政治的見解は、ほとんど戦後民主主義社会の根幹をなす枠組みを全否定しようとするもので、いわば南原繁が作ったものをすべてぶちこわしたがっている…」。??? 南原繁が「あの時期にあったればこそ、我が日本国はいまこのようにあることができるのだ」。??
 もっとも、「戦後の金権腐敗政治、対米追随路線」は南原のではなく、岸信介のDNAを引く人々によるというから、立花によれば、現在の日本のよい(と彼が考える)点は南原DNA、悪い点(同前)は岸信介DNAによる、とキレイに(アホらしく単純に)説明できるわけだ。
 だがそもそも、南原繁とはそれほど立派な人物だったのか。東大学長だからそれなりの見識と能力はあり「人格的」魅力もあったのだろうが、歴史的に俯瞰してみると、全面講和論は間違いだったし、60年安保闘争も決して日本国民の「成果」ではない。吉田茂の「曲学阿世」との批評は結果として適切なものだった、と考える。
 全面講和論は客観的にはコミュニズム諸国に迎合し追随するものだった。立花隆は、世間の一部におもねているという意味で言うと、「曲学阿一世」ではないか。60年安保闘争は又書くとして、当時これを「煽った」大学人・知識人たち(主観的には共産党や共産同のように「革命」への一里塚と見ていなくとも)の氏名をいつかすべて記録しておきたい。直後の総選挙で社会党等が政権を取れずかつ1/3以上の議席を得たことはその後の日本政治に決定的影響を与えた。自主憲法棚上げについても、経済至上主義選択についても。「永世中立」論の主張者・南原繁の肯定的な歴史的評価は早すぎ、かつ誤っているだろう。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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