秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

60年安保

0936/講和条約から60年安保「騒擾」へ-遠藤浩一著。

 一 いわゆる「六〇年安保」の1960年が、戦後日本にとっての重要な分岐点の一つだっただろう。

 遠藤浩一は、<六〇年安保闘争>などという語は用いず、「六〇安保騒擾」と称している。ともあれ、今でも、この「闘争」なるものに参加して国会周辺デモをしたことを懐かしくかつ何の恥ずかし気もなく語っている者が知名人の中にも少なくないことはどうしたことだろう。騙されてか、信念を持ってかのいずれにせよ、樺美智子や西部邁らとともに安保改定「反対」デモに加わったということは、秘すべき、恥ずかしい過去なのではないか。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010.04、麗澤大学出版会)p.47は、次のように<主権回復時(から安保改定に至るまでの経緯)>の論点を整理している。適確なのではないかと思われる。
 ・「平和憲法」により「戦力は…保持しない」として「自分で自分を守ることは致しません」と内外に宣言した日本が「主権を回復」しようとするとき、「二つの選択肢」が想定された。

 ・①「憲法を改正して普通の独立主権国家並の体制を整える」(そのうえでどこかと「同盟関係」を結ぶというオプションもありうる)。②「憲法の非戦条項を維持したまま別の国家に保護を求める」。

 ・かつまた、「東西」分裂・「冷戦」の激化があったので、この点でも「複数の選択肢」が発生した。

 ・A「自由民主主義陣営」に属する、B「共産圏」に属する、C「非同盟中立」を標榜して「独自の道」を歩む。但し、Cの場合は日本を「軍事的、経済的に保護」できる「非同盟中立の大国」は存在しなかったので、この道は「必然的に憲法を改正し自主防衛を追求」せざるをえない。

 ・以上を複合させて整理すると、「主権回復時」の日本は次の五つから進むべき途を選択する必要があった。

 ・①「憲法を改正し再軍備」したうえで「自由民主主義諸国」と連携する。②「再軍備したうえで共産圏」にコミットする。③「再軍備して非同盟・中立」を追求する。④「憲法」に手を付けず(=憲法改正をせず)「軽武装もしくは非武装」で「米国に軍事的保護を求める」。⑤同様に「軽武装もしくは非武装」で「ソ連に軍事的保護を求める」。

 ところが、と遠藤浩一は続ける。「全面講和論者」は「平和、平和」と気勢を上げるだけで、当時の日本が置かれた「状況」とそこから導出される「選択」について、「説得力ある議論」を展開したわけではなかった(p.47)。

 二 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者は、現実に明確な<勝利>をしたわけではないが、戦後日本の歩みにきわめて重要な役割を果たした。その系譜は、脈々と今日まで受け継がれ、<左翼・売国>政権となって政治の現実について主導権を握るまでに至っている(「コミュニズム」の影響は今日の日本でもなお根強く生きている)。

 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者とは簡単にはかつてにいう<進歩的文化人>を含み、かつこれによって煽られ、「理論」的に支えられもした。この者たちの<罪>は、永遠に忘れられてはならない。むろん、その背後にソ連共産党等の外国を含むコミュニストがいたことも明らかなことだ。

 戦前の個々の「戦史」や作戦・戦略面での<判断ミス>やその責任者について関心はなくはないが、そしてそれは戦後(・占領期)の「東京裁判」の理解と関係するが、基本的には、戦前の歴史には積極的な関心を持たないようにしている。

 時間的余裕が、現在も、想定される将来も乏しいからだ。

 日本は<戦争に負けた>、という事実から、日本の「戦後史」をふりかえるしかない。そして、<戦争に負けた>のは事実だが、そこに道徳的・倫理的な評価を混ぜることがあってはならない、ということをも前提としてふりかえるしかない。

 <戦争に負けた>のは事実だとしても、日本がその<戦争>をしたこと自体が「悪」だったとか、道義的・道徳的・倫理的に批難されるべきものだったとかの立場には立たない。<日本は(反省すべき)悪いことをした>という歴史認識は、一方に偏り過ぎている。いかにそれが、戦後の<正嫡の>「歴史観」だったとしても、<正嫡>・<公式>の歴史観・歴史認識が適切または「正しい」保障はない。言わずもがな、だが。

 というわけで、あるいは、ということを前提として、遠藤浩一の本等に言及しながら、「戦後史」をふり返る作業も、この欄で行う。

0194/林健太郎・清水幾太郎と小泉信三・林達夫-いいろいろな生き方。

 林健太郎氏、清水幾太郎氏の本の一部を読んで感じるのは、人の「思想」の変化・遍歴だ。
 林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
 清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
 かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
 だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
 ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
 林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
 従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
 戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。

0157/立花隆は「厚顔無恥」にも詫び・訂正を明示せず<こっそり>修正した。

 これまた些か古い話題だが、私にはきわめて興味深かったことなので、記録に残しておきたい。立花隆という人物がいかほどの人物なのかを、ある程度は示しているように思う。
 昨年の11/23のことだが、日経BPのサイト内の立花隆のエッセイ連載記事に入ってみると、「踏みにじられた教育基本法審議」という11/17付のコラムが掲載されていた。
 残念ながら保存しなかったが、そこには、明らかに、<教育基本法改正案につき衆院で与党が単独採決したのは参院が審議・議決しなくても30日経てば(衆院議決のままで)自然成立するのを待つためだ>、との旨が書いてあった。
 この記述内容の中核、すなわち、<参院が審議・議決しなくても(衆議院議決から)30日経てば衆院議決のままで法律は自然成立する>、というのは、明確な誤りだ。憲法59条~61条を見て確認すれば、すぐに分かる。
 おそらく立花隆には、60年安保の際の記憶が鮮明すぎて、条約と法律の区別がついておらず、衆議院が議決すれば条約は参議院がなくとも衆議院議決後30日経てば批准される、という条約の場合と混同していたのだ。
 cf.「61条 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。」
 「60条第二項 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。」
 さすがに、日経BPの編集部は誤りに気づいていたようで、「編集部注」として正しい内容が11/23の時点で記されてあった。
 cf.「59条第二項 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」
 ところが何と、11/25に再び同じ立花隆の同じエッセイ欄を見てみたら、「よく知られているように、…参院の審議内容がどうあれ、それが審議時間切れで衆院に戻されても、法案は再び衆院の3分の2以上の賛成があれば可決してしまうからである」と、本人の訂正の言葉は一片もなく、日付を変えることもなく、憲法規定の正しい内容通りに実質的に修正されていた。
 細かな憲法規定の知識に関することだが、上のような訂正を<こっそり?>としておいて、「よく知られているように」とはよく書けたものだ、と思った。「よく知って」いなかったのは、立花隆自身ではないか。これが他人の場合なら、立花隆は、<厚顔無恥>という批判の言葉を浴びせかけたのではないか。

0036/元共産党系全学連委員長・川上徹・査問(筑摩書房、1997)の文庫版を昨年に読んだ。

 2000年くらい以降、読みたいと思いつつ書店で見かけなかったこともあって忘れているうちに、品切れになっていた本が二つあった。
 一つは川上徹・査問(筑摩書房、1997)で、もう一つは藤井淑禎・純愛の精神史-昭和30年代の青春を読む-(新潮選書、1994)だった。
 前者は文庫化されたものの古書を、後者は選書そのものの古書を昨年中に入手した。
 川上徹とは、60年安保後の再建日本共産党系(代々木系)全学連委員長で、私の大学生時代にも名は聞いたことがあった。70年頃は、民青同盟の幹部だったようだ。また、「新日和見主義」とその批判なるものも聞いたことがあったが、その批判の対象に川上徹もなっていたことを知ったのは、上の本の宣伝文を読んだ時だった(従って、1997年のことだ)。
 読了したあとのまず第一に驚いたのは、この人は査問された後、党員権停止処分を受けた後も1990年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けた、ということだった。<イデオロギー>への囚われの怖さ、というのが、従って第一の感想ということにもなる。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったようだ。にもかかわらず、彼は党員ではありつづけた。
 離党したくなった直接のきっかけは日本共産党員哲学者で没前に離党した(除名された?)古在由重の死後に同氏の追悼会の世話をして日本共産党の主流?から「厭味」を言われたことにあるように推察されるが、1990年11月ということは、ソ連解体の過程でもあり、そもそもがマルクス主義幻想又は革命幻想から(冷たい言い方になるが)漸く醒めたことも重要な原因だったのではなかろうか(この辺りは明確には叙述されていない)。
 第二に印象的なのは、宮本顕治に関する叙述だ。1972年1月に(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月に)彼が見た宮本顕治を次のように描写している(p.21以下)。
 「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本氏の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。
 第三に、やや付随的だが、1969年の初めのことだろう、宮本が川上に東大構内からの脱出所要時間を尋ね、その後、「東大時計台」に機動隊が突入した際には党中央指令に従って日本共産党・民青同盟系の学生は構内に一人もいなかった、ということが書かれている。
 現在もそうだろうが、日本共産党は「敵の出方」による暴力(実力)行使の余地を語りつつも実質的にはほとんど「人民的議会主義」とやらの穏健路線をとった。そして、1970年前後の「大学紛争」の時期にも、全共闘系又は所謂反日共系とは異なり、暴力は行使しないという穏健路線をとって、過激な路線についていけない、あるいは「正常化」して講義を受けたい学生たちの支持をある程度は獲得した(1970年代の末に同党の衆議院議席数が最大になったのも、こうして青年・学生層を取り込んだことと無関係とは思えない)。客観的に見れば、全共闘系又は反日共系学生たちの「暴力」のおかげで、それに反対した日本共産党・民青への学生・青年層の支持が現在より以上に増えた、という面があるだろう。
 上の東大構内からの撤収指令も日本共産党・民青同盟系は全共闘系・反日共系とは違って「暴力学生」ではない、と印象を与えるための(共産党・民青系も全共闘系と同様という印象を与えないための)戦術だったに違いない、と当時の全国的な雰囲気を思い出した。共産党・民青系の強い大学・自治会では、彼らこそが暴力=実力を用いて「秩序」を維持したところもあったようだが…。
ギャラリー
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