一 1917年「十月革命」が「革命」だったか「クー・デタ」だったかという問題は、それぞれを、とくに前者をどう定義するかによって解答は異なりうるので、定義・理解を明確にしないままでの論争は無意味だ。たしか、L・コワコフスキはこの問題に拘泥しておらず、むしろ<革命ではあった>旨を述べていた。
だが、<資本主義から社会主義へ>をよいもの、進歩的なもの、「歴史の発展方向(法則)」に添ったもの、という理解を前提にして「社会主義革命」だったと理解するのは、その後に「社会主義国家」ではなく、「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家・社会ができたという意味だとしても、とんでもない大間違いだ、と考えられる。
日本共産党はかつてから一貫して(つまり創立からずっと)「社会主義革命」説という誤った前提を採用しつづけている。
現在に有効な(?)第28回党大会による2020年綱領でも、明確にこう書いている。
「一九一七年にロシアで十月社会主義革命が起こり、第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した」。
「資本主義からの離脱」はよいこと、という見方とともに、「十月社会主義革命」だった、という認識が示されている。
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二 この、レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」の見方は一貫したものだ。これ自体を変更しないかぎり、日本共産党はどんなに外部から助言?されても、その名称を変更することはあり得ない、と考えられる。
レーニンは「資本主義→社会主義(・共産主義)」を当然の発展方向と考え、そう宣言していたはずだ。十月革命は、ソ連時代はずっと「大十月革命」・「大社会主義革命」だった。
また、そもそも「日本共産党」という名称自体がレーニンが呼びかけて結成された「コミンテルン」の存在を前提にしている。同党は1922年7月が創立とされるが、厳密には同年12月のコミンテルン大会で、その結党=コミンテルン支部となること、が承認された。
そして、「共産党」(英語ではCommunist Party)という名称自体がコミンテルン側に(もともとはレーニンの21条件の一つとして)要求されていたことで、加盟を望むならば「共産党」と名乗る必要があった。あるいはおそらく一般論としては、遅くとも加盟後には「共産党」と名乗らなければならなかった。
このことは、社会主義を標榜する諸「社会主義」政党と分離・決別することが要求されていた、ということを意味する。1918年に正式には「共産党」と改称したボルシェヴィキが、かつてロシア社会民主(労働)党内部でメンシェヴィキと分離・決別してレーニンを長として立党されたのと同じように。
(「ボルシェヴィキ」の方が広く知られていたようで、これと「共産党」は別の党だと思っていたロシアの民衆もいたとされる。また、ボルシェヴィキ自体が、公式文書に必ずといってよいほど「共産党(ボ)」(「…(b)」)とわざわざ括弧書きを挿入して、かつての?ボルシェヴィキだとの意味を明確にしていた。)
この基本方向=「共産党」への純化は、国・地域によっては、広く「社会主義」諸党派が合同・協力することを妨げた。
日本でも、この「純化」しての結党は早すぎる等々として「解党主義」が有力になり1924年にいったん解散・「解党」されている(松崎いたる・日本共産党·悪魔の百年史(2022,飛鳥新社)等々。のちに「再建」)。
なお、この「共産党」純粋主義は、その他の社会主義諸政党(社会民主党派)との対立と社会民主主義諸党の敵視につながる。ドイツでは、ドイツ共産党は同社会民主党と「共闘」する=統一戦線を組むことをせず、そのことは、ナツィス・ヒトラー政権の誕生を決定的に助けた(社・共両党の合計獲得議席数はナツィ党を上回っていた)。コミンテルンが「統一戦線」方針へと転換したのは1935年。
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三 レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」、1919年「コミンテルン」結成、1922年末(日本共産党のコミンテルン加入とほとんど同時期の)「ソヴィエト連邦」設立以降、ロシアまたは「ソ連」はどうなったか。
日本共産党の現在の2020年綱領はこう書く。
「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。…。
しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤り…。」
ソ連は一定時期以降「社会主義国」(「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家という意味であれ)ではなかった、とうことを日本共産党が最初に明言したのは1994年だった。同年の第20回党大会が採択した新綱領はその旨を初めて明記した。
その頃の不破哲三らの主張には、国際社会主義運動内部でのソ連共産党のその他の(資本主義諸国のものを含む)共産党に対する覇権主義・「大国主義」とソ連という国家自体の覇権主義・「大国主義」を意識的に混同させて、日本共産党は後者と積極的に闘ってきたのだ、という「大ウソ」があった。
現在でもこの「大ウソ」は維持されている。2020年綱領は、こう明記する。
「日本共産党は、科学的社会主義を擁護する自主独立の党として、日本の平和と社会進歩の運動にたいするソ連覇権主義の干渉にたいしても、…にたいしても、断固としてたたかいぬいた」。
大笑いだが、この「大ウソ」批判を繰り返さない。1980年代後半に中国共産党に対して、ソ連は「社会帝国主義」国ではなく「社会主義」国だと説得または助言?していたのは、日本共産党・不破哲三ではなかったのか。
興味深く思い出すのは、今手元に資料そのものを置いていないが、第一に、かつて1994年党大会のときに、不破哲三による綱領改定中央委員会報告に対して、「では、(一定時期以降)ソ連はいかなる国家だったのか」という質問が代議員から出たことだ。これに対して、不破は、<科学的社会主義でも分からないことはあるのです>と答えた。
相当に面白い。以下の四で言及する時期から1991年まで長ければ1924年〜1991年までの68年間(これは1917年10月以降の74年余の90%を超える)、短くとも1931年以降の60年余り(同じく80%超)、「ソ連」はどう基本的に性格づけられる国家・社会だったのか。資本主義国?、半封建的絶対主義国?
第二は、1994年ではなくソ連「解体」後の1992年頃だったが、まだ中央委員会議長として健在だった宮本顕治が、<スターリンがナツィス・ドイツとの戦争に勝利したことは、それはそれとして積極的に評価しなければならない>と述べていたことだ。
いずれも興味深い。いずれ、資料そのものを引用して紹介するだろう。数年前までに収集して読んだ、当時の日本共産党関係文献は(各中央委員会総会報告討論集のかなりも含めて)、まだ所持している(きわめて安価で出回っていた)。
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四 想定した以上に長くなったので、最後に「おぼえ書き」的に記しておく。
要点は、現在の2020年綱領は「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別しているが、レーニンの死は1924年1月なので、ほぼ1923年と1924年の間に決定的で重大な境界線が引かれると考えられているのか、ということだ。
また、ほとんど同じことだが、1994年の不破哲三・中央委員会幹部会委員長報告はすでに第19回党大会で「『レーニンが指導した時代』と『その道にそむいたスターリン以後の時代』とを区別することの重要性を強調し」たと豪語?しているが、レーニン「指導」の時代とスターリン「以後の時代」は、大まかにであれ、いったいいつ頃の時点を境に区別されるのか、ということだ。
1923年、レーニンはまだ生きていた。「1923年」は「死後」ではない。しかし、1923年にレーニンは「指導」していたのか?
日本共産党創立前の1922年4月に、スターリンは書記長(総書記、第一書記)に就任している。日本共産党結党とコミンテルン加盟は、スターリンが書記長の時代にあったことだ。
この時期はすでに「スターリンの時代」、あるいは少なくとも「レーニンとスターリンの時代」または「レーニンとスターリンたちの時代」ではなかったのか?
あるいはひょっとして、スターリンが明確にレーニンが1921年に主導して導入したNEP政策を放棄する、1927-28年あたりを、今の日本共産党は大きな境界の時期として想定しているのだろうか?
あるいは、「大テロル」が始まる1931-32年あたりなのか?
「正しい歴史認識」というなら、日本共産党は、あるいは日本共産党の党員学者は、ソ連が「社会主義への途」を進まず「転落」した時期について、上のような疑問に答える義務があるのではないか。
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だが、<資本主義から社会主義へ>をよいもの、進歩的なもの、「歴史の発展方向(法則)」に添ったもの、という理解を前提にして「社会主義革命」だったと理解するのは、その後に「社会主義国家」ではなく、「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家・社会ができたという意味だとしても、とんでもない大間違いだ、と考えられる。
日本共産党はかつてから一貫して(つまり創立からずっと)「社会主義革命」説という誤った前提を採用しつづけている。
現在に有効な(?)第28回党大会による2020年綱領でも、明確にこう書いている。
「一九一七年にロシアで十月社会主義革命が起こり、第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した」。
「資本主義からの離脱」はよいこと、という見方とともに、「十月社会主義革命」だった、という認識が示されている。
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二 この、レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」の見方は一貫したものだ。これ自体を変更しないかぎり、日本共産党はどんなに外部から助言?されても、その名称を変更することはあり得ない、と考えられる。
レーニンは「資本主義→社会主義(・共産主義)」を当然の発展方向と考え、そう宣言していたはずだ。十月革命は、ソ連時代はずっと「大十月革命」・「大社会主義革命」だった。
また、そもそも「日本共産党」という名称自体がレーニンが呼びかけて結成された「コミンテルン」の存在を前提にしている。同党は1922年7月が創立とされるが、厳密には同年12月のコミンテルン大会で、その結党=コミンテルン支部となること、が承認された。
そして、「共産党」(英語ではCommunist Party)という名称自体がコミンテルン側に(もともとはレーニンの21条件の一つとして)要求されていたことで、加盟を望むならば「共産党」と名乗る必要があった。あるいはおそらく一般論としては、遅くとも加盟後には「共産党」と名乗らなければならなかった。
このことは、社会主義を標榜する諸「社会主義」政党と分離・決別することが要求されていた、ということを意味する。1918年に正式には「共産党」と改称したボルシェヴィキが、かつてロシア社会民主(労働)党内部でメンシェヴィキと分離・決別してレーニンを長として立党されたのと同じように。
(「ボルシェヴィキ」の方が広く知られていたようで、これと「共産党」は別の党だと思っていたロシアの民衆もいたとされる。また、ボルシェヴィキ自体が、公式文書に必ずといってよいほど「共産党(ボ)」(「…(b)」)とわざわざ括弧書きを挿入して、かつての?ボルシェヴィキだとの意味を明確にしていた。)
この基本方向=「共産党」への純化は、国・地域によっては、広く「社会主義」諸党派が合同・協力することを妨げた。
日本でも、この「純化」しての結党は早すぎる等々として「解党主義」が有力になり1924年にいったん解散・「解党」されている(松崎いたる・日本共産党·悪魔の百年史(2022,飛鳥新社)等々。のちに「再建」)。
なお、この「共産党」純粋主義は、その他の社会主義諸政党(社会民主党派)との対立と社会民主主義諸党の敵視につながる。ドイツでは、ドイツ共産党は同社会民主党と「共闘」する=統一戦線を組むことをせず、そのことは、ナツィス・ヒトラー政権の誕生を決定的に助けた(社・共両党の合計獲得議席数はナツィ党を上回っていた)。コミンテルンが「統一戦線」方針へと転換したのは1935年。
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三 レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」、1919年「コミンテルン」結成、1922年末(日本共産党のコミンテルン加入とほとんど同時期の)「ソヴィエト連邦」設立以降、ロシアまたは「ソ連」はどうなったか。
日本共産党の現在の2020年綱領はこう書く。
「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。…。
しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤り…。」
ソ連は一定時期以降「社会主義国」(「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家という意味であれ)ではなかった、とうことを日本共産党が最初に明言したのは1994年だった。同年の第20回党大会が採択した新綱領はその旨を初めて明記した。
その頃の不破哲三らの主張には、国際社会主義運動内部でのソ連共産党のその他の(資本主義諸国のものを含む)共産党に対する覇権主義・「大国主義」とソ連という国家自体の覇権主義・「大国主義」を意識的に混同させて、日本共産党は後者と積極的に闘ってきたのだ、という「大ウソ」があった。
現在でもこの「大ウソ」は維持されている。2020年綱領は、こう明記する。
「日本共産党は、科学的社会主義を擁護する自主独立の党として、日本の平和と社会進歩の運動にたいするソ連覇権主義の干渉にたいしても、…にたいしても、断固としてたたかいぬいた」。
大笑いだが、この「大ウソ」批判を繰り返さない。1980年代後半に中国共産党に対して、ソ連は「社会帝国主義」国ではなく「社会主義」国だと説得または助言?していたのは、日本共産党・不破哲三ではなかったのか。
興味深く思い出すのは、今手元に資料そのものを置いていないが、第一に、かつて1994年党大会のときに、不破哲三による綱領改定中央委員会報告に対して、「では、(一定時期以降)ソ連はいかなる国家だったのか」という質問が代議員から出たことだ。これに対して、不破は、<科学的社会主義でも分からないことはあるのです>と答えた。
相当に面白い。以下の四で言及する時期から1991年まで長ければ1924年〜1991年までの68年間(これは1917年10月以降の74年余の90%を超える)、短くとも1931年以降の60年余り(同じく80%超)、「ソ連」はどう基本的に性格づけられる国家・社会だったのか。資本主義国?、半封建的絶対主義国?
第二は、1994年ではなくソ連「解体」後の1992年頃だったが、まだ中央委員会議長として健在だった宮本顕治が、<スターリンがナツィス・ドイツとの戦争に勝利したことは、それはそれとして積極的に評価しなければならない>と述べていたことだ。
いずれも興味深い。いずれ、資料そのものを引用して紹介するだろう。数年前までに収集して読んだ、当時の日本共産党関係文献は(各中央委員会総会報告討論集のかなりも含めて)、まだ所持している(きわめて安価で出回っていた)。
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四 想定した以上に長くなったので、最後に「おぼえ書き」的に記しておく。
要点は、現在の2020年綱領は「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別しているが、レーニンの死は1924年1月なので、ほぼ1923年と1924年の間に決定的で重大な境界線が引かれると考えられているのか、ということだ。
また、ほとんど同じことだが、1994年の不破哲三・中央委員会幹部会委員長報告はすでに第19回党大会で「『レーニンが指導した時代』と『その道にそむいたスターリン以後の時代』とを区別することの重要性を強調し」たと豪語?しているが、レーニン「指導」の時代とスターリン「以後の時代」は、大まかにであれ、いったいいつ頃の時点を境に区別されるのか、ということだ。
1923年、レーニンはまだ生きていた。「1923年」は「死後」ではない。しかし、1923年にレーニンは「指導」していたのか?
日本共産党創立前の1922年4月に、スターリンは書記長(総書記、第一書記)に就任している。日本共産党結党とコミンテルン加盟は、スターリンが書記長の時代にあったことだ。
この時期はすでに「スターリンの時代」、あるいは少なくとも「レーニンとスターリンの時代」または「レーニンとスターリンたちの時代」ではなかったのか?
あるいはひょっとして、スターリンが明確にレーニンが1921年に主導して導入したNEP政策を放棄する、1927-28年あたりを、今の日本共産党は大きな境界の時期として想定しているのだろうか?
あるいは、「大テロル」が始まる1931-32年あたりなのか?
「正しい歴史認識」というなら、日本共産党は、あるいは日本共産党の党員学者は、ソ連が「社会主義への途」を進まず「転落」した時期について、上のような疑問に答える義務があるのではないか。
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