秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2020年

2570/人間の「死」①—<コロナ禍>。

 2020年の春以降、意気が上がらない、というか、気が滅入る、というか、そのような話題が継続している。
 潜在的には、自分自身の「老化」と「死」を考えているからだろう。しかし、うんざりする状態が、けっこう長く続いている。全て、人間の「死」に関係する。
 第一は、いわゆる<コロナ禍>だ。自分自身の罹患とそれに続く「死」を疑ったことがあったが、幸い素人判断は外れていた。しかし、この二年間、それ以前に比べて、外出や旅行をし難くなってはいる。
 当たり前のことだが、ウイルスによる感染症は、人の生命を奪うことがある。日本でも(それ以外の原因での病死が減ったという情報もあるが)三万人余が死んでいる。そして、身近な人について遭遇しない多くの人には「実感」がないのかもしれない。
 もともとは早晩死ぬだろう、とくに基礎疾患をもつ高齢者がこれをきっかけに「少しだけ早く」死んだだけ、という説もある。最終的な「死」と感染・発症の因果関係の有無またはその程度の判断は、専門家にも困難なことがあるのではないか。
 しかしともあれ、<コロナ禍>の被害に遭遇しなければ死ななかっただろう若い人々がいるのは間違いない。新聞やテレビは、「統計数字」としてだけ報道するけれども。もはや報道すらしない、警察署前に掲示されている交通事故死者の「数」のように。
 とくに高齢者(その中のとくに基礎疾患のある人々)が外出(・旅行)をし難くなっているということは、相当程度、<運動不足>になっている、ということだろう。
 そして適度の運動の機会が奪われるということは、一般論としては、とくに一定の基礎疾患をもつ老人の死期を早めるものだ、と思われる。心臓にせよ、肺にせよ、その他の臓器にせよ。
 しかし、そうした疾患があって、適度の運動不足によって「早く」死んだ人がいても、それは「新型コロナ・ウイルス」感染症による死者数には計算されないだろう。
 むろん、適度の運動不足と「早く」死んだことの因果関係を探るのは困難だし、基礎疾患をもつ老人の死をそのような観点から考察するという意識、雰囲気自体が存在しないかもしれない。
 それにしても、再び当たり前のことだが、新型コロナ・ウイルスによる感染症は(何型であれ)、人間・ヒトにとっての脅威らしい。これによる、犬・猫、馬、ニワトリ等々の死の話題は聞いたことがない。
 人間・ヒトは、実際にそうであるように、人種、肌の色、民族、帰属・在住国家に関係なく、共通して<コロナ禍>で死ぬことがある。
 これはホモ・サピエンスだからこそそうなのであって、人種、民族、国家とは関係がない。あえて言えば、<グローバル>な現象だ。
 だが、人種、民族、帰属・在住国家によって発症患者や死者の数や率は異なり得る。衛生状態、医療制度、予防措置(入国制限やワクチン接種を含む)など、主としてはおそらく国家の違いによる場合があることは否定できないだろう。
 また、2020年にはしきりと言われたようだが、人種、民族による「ファクターX」というのも、否定できないように思われる(今ではどう議論されているのだろう)。
 というのは、日本人(・日本列島人)と欧米人(たぶんとくにヨーロッパ人)とでは、肝臓の機能に顕著な(と言っても程度問題だが)差異が、何かの分解作用についてあり、日本人の方が<酔いやすい>、<アルコールに弱い>、という話をある医師から聞いたことがあるからだ。そのオチは、韓国の医師たちは、日本人と同じ(同様)だということを、執拗に認めようとしない、ということだったのだが。
 こんなことを考えていると、皮膚・眼球・毛髪の色、頭蓋骨の形状、四肢の長さ・割合、筋力等々はホモ・サピエンスであっても人種、民族等によって異なることは明瞭だと思えてくる(もちろん共通性も多数ある)。
 そして、現在に至るまで差異が続いてきているというのは、人種、民族等が隔絶した、つまり<交雑しない>、よほど長い、数千年、数万年単位の「進化」・変化(しない)過程が続いたのだろうと、想像せざるをえない。地形・地理的隔絶、移動手段の未発達によるのだろう。
 これは、「文化的」遺伝子ではなく、まさに「生物的」遺伝子の問題だ。
 第一点は、この程度にする。
 人間の「死」について考えさせられる第二は、ロシアによる対ウクライナ戦争、第三は、安倍晋三元首相の突然の「死」だ。これらは2022年のこと。

2295/西尾幹二批判015。

 
 つぎの書の存在にようやく?気づき、古書で入手したので、少しばかりコメントをする。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。
  全体を熟読するつもりは、今のところ全くない。賢明な読者は、本棚の端に飾ることはあっても、そんな無駄な作業をしない方がよいだろう。
 書物の体裁(オビを含む)に目を取られて、さぞや立派な内容をもつ本だろうなどと誤魔化されてはいけない。
 新潮社編集部の冨澤祥郎の作文だろうか、それとも西尾と富澤が話しあって決めたのだろうか、いずれにせよ、西尾も了解していると見られるオビの文にこうある。
 「…、崖っぷちの日本に 必要なものは何かを 今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考
 <保守>とか<真の保守>という形容も気にならなくはないが(保守とは?、「真の保守」とは?)、それらよりも「思想家」と謳っていることが目を惹く。
 1999年の『国民の歴史』について、西尾が2009年に「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」等と書いていたことを知って、最近の02/14=No.2285でこう書いた。
 「もちろん、この人〔西尾幹二〕は「思想家」ではなく、<評論家または時事評論家、端的には、一定の出版業界内部での『文章執筆請負自営業者』>にすぎない」。
 但し、「文章執筆」の対象には何「評論」の他に「随筆」も挙げておくのがより正確かもしれない。
 あるいはまた、2011年に西尾が自ら語った自己認識を付け加えれば、以下のようになる。
 「『私』が主題」である「私小説的な自我のあり方で生きてきた」、そのような「評論家」または「随筆家」であり、端的に言えばそのような<一定の出版業界内部での文章執筆請負自営業者>だ。
 他者から「思想家」と(かつ可能ならば「優れた、偉大な思想家」と)見なしてほしいというのは西尾幹二の最大の?宿願かもしれない(特定の一部少数者からを除いて、叶うことがないのは気の毒ではあるが)。
 その他、いろいろと自分自身について<私はこうだ(であるはずだ、と言われている)>と西尾が思っているその他の様々の属性・形容は、A・ダマシオが論述していると浅野孝雄が紹介・検討する<自伝的自己>に該当するだろう。
 この<自伝的自己>について、ダマシオ・浅野によるつぎの文を参考資料として掲げておこう。やはり、ダマシオ・浅野による。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」
 西尾幹二における<栄光と惨めさ、喜劇と悲劇>、<自伝的自己への固執>。さて、この人自身は、どう感じているだろう。
  あらためてつくづく感じるのだが、戦後日本の「文学部」出身者が、「文学部」に帰属した過去に拘泥・執着することを続ければどうなるかを、西尾幹二自身が(そしておそらくこの書物も)示しているだろう。
 こうあらためて感じるのも、上の書の「あとがき」にある文章からによる。
 「あとがき」は文学部は「哲・史・文」だとかつて(高校生時代に?)教えられた、から始まり、つぎの文章で結ばれている。
 「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見えるという若い日以来の私の理想とその主張に、あらためて活路を拓きたい」と念じ、この書を上梓する。p.359。
 さて、つぎの二つの感想が生じる。つつしんで?指摘させていただく。
 第一。「哲・史・文」だけでは、決して「外の世界の全体」を見ることはできない。社会、自然、人間(・人体)等に関する教養・知識をふまえてこそ、「外の世界」を全体として、総体として、総合的に「見る」ことができる(秋月はそうできている、という意味ではない。むしろそうした教養・知識の乏しさを私は大いに恥じている)。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 第二。「哲・史・文」のいずれについても、西尾幹二は中途半端にしか知らない。まるでこれら全体を知っているか、または少なくともそう努めきた、という書きぶりになっているが、とんでもない<思い上がり>だ、という他はない。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 途中に、自分は「ニーチェ研究家」とされているが「正しくない」、こう言うのは「専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている」からだ、とある(p.356)。この部分は、西尾自身が何の専門家でもないことを自認しているということを示していて、当然の自認ではあるが一つの意味はあるだろう。
 それよりも、特定の専門領域を持たない「哲・史・文」全体の通暁者?だという<自負>を表現していると見られることの方が重要だろう。そして、その自負は間違いであり、とんでもない<思い上がり>だ。
 そして、何の専門家でないとすれば、「哲・史・文」のいずれの分野・世界についても、西尾幹二はただの<しろうと>(に少し毛が生えた者?)であるはずだ。
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