秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1999年

2402/西尾幹二批判029—ドイツに詳しいか②。

  西尾幹二・国民の歴史(1999)の第33章<ホロコーストと戦争犯罪>(全集版p.605-)は、ドイツ1980年代後半のErnst NolteやJürgen Herbermas らによる、ホロコーストに対するものを含むドイツ「人」・「民族」・「国家」の<責任>に関係する<ドイツ・歴史家論争>に一切触れていないこと、ノルテの名もハーバマスの名も出すことができていないことは、前回に触れた。
 あらためてこの章を読み返して、すぐに気づくのは、上の点を容易に確認することができることのほか、西尾幹二における法的素養、ドイツの歴史に関する素養の欠如だ。
 前回からの本来の論脈からずれるし、立ち入ると長くなるので、簡単にまず前者から簡単に触れよう。
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  西尾はJaspers による「良心的」責罪論を批判する中で、「責任」に該当する語をドイツ語のVerantwortung ではなく、「法律用語」としては「損害賠償責任」に適用されるHaftung を「用いているのも気になる」とする。全集版、p.613。
 この部分はじつは、西尾自身による、朝日新聞記者による注記を西尾が疑問視しないでそのまま紹介している箇所と矛盾している。
 同記者はヴァイツゼッカーの<政治的な責任>とはドイツ語でHaftung で、<道徳的な責任>とはVerantwortung だと両語の区別を明記している、とする。全集版、p.614。
 西尾はHaftung は法律用語として「損害賠償責任」に適用されると前者では書き、後者では平然と「政治的な責任」だと紹介している。
 この<法的>と<政治的>の区別は、西尾のこの章では重要なはずなのだが、ここでは無視してしまっている。
 いいかげんだ。
 なお、法律用語として「損害賠償」に最も該当するドイツ語はSchadenersatz(またはs を間に入れてSchadensersatz)で、「損害賠償をすること」という名詞としては、Ersatzleistung という語もある。
 有限会社のことをドイツではGmbH と略すが、これはG(会社) mit geschränkter Haftung(有限責任会社)のことで、この「責任」は損害賠償責任に限られはせず、もう少し広い意味だ。
 このあたりのドイツの諸概念の分析だけで、一つ、二つの研究論文はかけるし、現にある。
 立ち入りたいがほとんど省略すると、損害倍賞責任のみならず、土地収用のような意図的かつ適法な権利侵害(収用は権利剥奪)に対する「補填」=損失補償もまた、国家のHaftung の一種とされることがある。
 もちろん、西尾幹二は素人だから、そんなことは知らないし、知らなくてもよい。問題は、シロウトだという自覚があるか、だ。
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  西尾の論調の前提は、①ヒトラー・ナツィスはホロコーストという「大犯罪」を冒した(この点で揺るぎがないのは、世界の通念らしきもの、かつ日本共産党等と全く同じ)。②戦後ドイツは「国家として」、<集団的>かつ<法的責任>がある、というものだ(これも日本共産党らとほぼ同じ)。
 これを前提として、「集団的」責任を認めようとしないワイツゼッカー1985年演説を姑息とし、ドイツの「戦後補償」は「法的」ではなく「政治的」なものにすぎない、とする。
 日本とドイツの<戦後補償>の異同について、種々の専門的文献がある。西尾が書いているのは、そのうちの簡単な一説にすぎないだろう〔何といっても、西尾はこの問題についての法学者・歴史学者ではなく、ただのシロウトにすぎないのだから)。
 このあたりで感じる法的な基礎的素養のなさは、<国家の(法的、とくに賠償)責任>というものの理解についてだ。
 日本ではしばしば国を被告とする損害賠償請求訴訟が提起され、原告国民の側が勝訴することも少なくないから、そういう<国家の責任>は当然にありうる、と一般に理解されているのかもしれない。
 しかし、第二次大戦終了まで(つまりいわゆる戦前までは)、<君主に責任なし>とか<国家無答責>という原則らしきものがあって、損害賠償責任にせよ、国家が「直接に」その責任を負うことはない、と考えられてくきた。
 したがって、民法上の不法行為責任を問う場合でも、公務員にある不法行為責任を「使用者」としての国(・公共団体)が「肩代わり」=代位する、という構成をとらざるをえない。そして、民法の特別法とされる国家賠償法という法律の第一条(国家の公権力責任)も、少なくとも文理上は「代位」責任説で成り立っているような条文になっている。これに対して、直接の加害者として「直接に」責任を負うのだ(国家賠償法一条もそう「解釈」すべきだ)という論もあるが立ち入らない。
 ドイツで、「集団的」=国家的、「個人的」かという区別が重視されるのはおそらく日本以上であり、いまだに国(連邦、州等)の賠償責任は民法+憲法(基本法)に依っている。つまり、官吏(公務員)個人の職務上の義務違反(違法・不法行為)の存在が少なくとも論理的、抽象的には必要なのだ。
 責任はまず(国家ではなく)「個人」(公務員であっても)、という考え方は欧米では(「個人」主義だから?)今も強いように推察される。
 ドイツ「国家」・「民族」の<責任>に関する議論も、大統領演説の理解も、こうしたことをふまえておく必要があるだろう。
 むろん、シロウトの西尾は知らない。この人は、日本での常識的理解から出発している。
  もう一点、法的素養についてとは関係なく感じるのは、この章の文章作成過程のいいかげんさだ。
 長くは立ち入らない。要するに、のちの櫻井よしこにも江崎道朗にもよく似て、要領よく関係文献を探し、引用・紹介しつつ(そして文字数を稼いで)、自説を挿入し結論らしきものを述べる、というスタイルだ。
 この章で引用・紹介されているのは(つまり文章執筆の際の素材になっているのは)、①Sebastian Haffner というジャーナリストでもある者の一著、②ランダムハウス英和大辞典、③<共産主義黒書>、④ブリタニカ国際大百科事典、⑤Karl Jaspers の本のたぶん一部、⑥ Weizsecker 大統領演説、⑦朝日新聞1995年1月3日記事(同大統領Interview)、⑧朝日新聞1995年1月1日付特集(図表を含む記事の写真まで載せている)。
 これらによって、西尾幹二が自らの生涯の主著の二つのうちの一つと自称しているものの一つの章が執筆されているわけだ。ああ恐ろしい。
 熟読して、いかほどに参考になるのかは、主張らしきものは単純だが、きわめて心もとない。
 なお、ついでに。つづく最後の第34章<人は自由に耐えられるか>について、この章の「骨格」をすでに分析している。
 →2307/『国民の歴史』⑥(2021.03.05)。
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  本筋に戻ると、西尾幹二はヒトラー・ナツィス時代についてもだが、ドイツの歴史に関する基礎的な素養に欠けている、と見られる。
  したがって、ナツィスの「犯罪」に触れても、これと別個にソ連・ボルシェヴィキ体制による「大量虐殺」に論及することはあっても、ヒトラーと共産主義、ヒトラーとレーニン・ロシア革命、ナツィとボルシェヴィズムの関係、異同を問うという姿勢とそれにもとづく分析は、全くと言ってよいほど存在しない。
 西尾はナツィのホロコーストは「大犯罪」だと当然視するが、「歴史」家らしく装いたいならば、いったいなぜそのような事象が起きたのかを、とくに先行したロシア革命やボルシェヴィキ体制の確立との関係にも目を向けて、もっと関心を持って追及すべきではなかったのだろうかか。
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  さて、<歴史家論争>の有力な当事者だったErnst Nolte には、この論争に関係する、さしあたりつぎの二著がある。邦訳書はないが、刊行年で明確なように、西尾幹二が1999年著で<ホロコーストと戦争犯罪>を書いたときよりも前に出版されている。
 ① Ernst Nolte, Das Vergehen der Vergangenheit -Antwort an meine Kritiker im sogenannten Historikerstreit (Ulstein, 1987). 計493頁。
 (直訳—<過去の経緯・いわゆる歴史家論争での私の批判者たちへの回答>)
 ② Ernst Nolte, Streitpunkte -Heutige und künftige Kontroversen um den Nationalsozialismus (Propyläen, 1993). 計191頁。
 (直訳—<争点・国家社会主義をめぐる今日と将来の論議>)
 上の二つと違って所持はしていないが、この論争の個別論考等を一巻の書の中にまとめている資料的文献として、つぎがあるようだ(正確には知らない)。
 ③Piper Verlag(Hrsg.=編), Historikerstreit: Die Dokumentation der Kontroverse um Einzigartigkeit der nationalsozialistischen Judenvernichtung, 3.Aufl. 1987.
 西尾の1999年の文章よりも前。「国家社会主義によるユダヤ人絶滅の
Einzigartigkeit(唯一性、独自性、特別性)」に関する論争だったとこの書の編集者は理解しているようだ。
 なお、表題からすると、どちらかというとErnst Nolte の支持者によるようだが、つぎの書物(冊子)も、のちに刊行されている。
 ④ Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Nolte über Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980(Grin, 2015). 計16頁。
 これには、Ernst Nolte とJürgen Herbermas の主張の「要旨」または「要約」が掲載されている。
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  西尾幹二がドイツの新聞や雑誌に日常的に接していれば、この<歴史家論争>に気づかなかったはずはない。実際には彼は、1980年代〜1990年代のドイツ国内での議論に全くかほんど関心を持っていなかった、と推測できる。
 戦後直後のK. Jaspers の本(1946年)に比較的長く言及しているくらいだから、主題に関する資料的・文献的素材の限定性・貧困性ははっきりしている。
 なお、すこぶる興味深いのは、西尾の基本的論調は、ドイツの中ではErnst Nolte(保守)ではなくJürgen Herbermas〔左・中)により親近的・調和的だ、ということだ。
 上の点はさておき、本来の副題は「ドイツに詳しいか」だった。
 西尾幹二は、ドイツに全く詳しくない。ついでに、これは、川口マーン恵美についても同様。
 西尾という「ハダカの王様」に対しては、「ハダカ」だ、と正確に、きちんと指摘しなければならない。<いわゆる保守>にもあるに違いない「権威主義」らしきものを無くさなければならない。「知的に誠実」であろうとするかぎりは。
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  Ernst Nolte はホロコーストの存在自体を否定しているのではない。
 例えば、1917年・ロシア革命の「成功」、1923年・ヒトラーのミュンヘン一揆の「失敗」という時系列的な関係がある。そしてノルテは、ドイツ(・ナツィス)に対するソ連(レーニン・スターリン)の影響を、より多く問題視したいのだ(少なくとも一つはこれだと)と勝手に推察している(ある程度は読んでいるが)。
 第三帝国とロシア革命・ソ連の間には、1917年4月のレーニンのスイスからのドイツ縦貫「封印列車」によるロシア帰還を含む財政援助等から始まる長い歴史がある。また、ロシア革命前後に、国際的ユダヤ人組織の陰謀についての「偽書」がドイツでも流布され、現実的影響をもった、ともされる(<シオン賢者の議定書>)。さらに、コミンテルン指揮下のドイツ共産党が社会民主党<主敵>論をとって共闘・統一行動しなかったことは、ヒトラーの政権掌握を「助けた」。
 むろん、西尾幹二にはこの時代の歴史に関する基礎的素養はない。
 少しでも記しておこうかと、すでに試訳しているR・Pipes の書物の一部(ボルシェヴィキの「戦術」をヒトラー・ナツィスは「学んだ」という旨の叙述を含む)を見ていたりしていたが、長くなるので、ロシア革命とその後のロシア・ソ連全体を振り返る場合のために、残しておこう。
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2371/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)
 第4章の試訳のつづき。この書物に、邦訳書はない。
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 (8-2)もしも誰かが言うこと全てをもはや信じることができないとすれば、人生はじつに耐え難いものになるだろう。
 だが、相互の信頼が完全に消失するとは、想定し難い。
 我々は通常は、どのような場合に、誰かが語ることを安全に信頼することができ、反対に、どのような場合に、我々を惑わせようとしている理由が対話者自身にあるために、ある程度は疑わしいかを、知っている。
 人々は、稀にしか、何の理由もなくてウソをつきはしない。
 もちろん、悪名高いウソつきはいる。
 私はかつて一人の作家を知っていたのだが、その作家は、そのときどきの環境や聴衆に応じて、彼の人生について色彩豊かな物語を作り出すのが好きだった。その彼は、すぐれた想像力と機知でもつてそれを行ったため、苦情を言うのは無作法に感じるほどだった。
 その上に、彼の物語は聞いて楽しいものだった。しかし、誰もが真面目に受け取ってはならないことを知っていた。そのため、真実性という美徳が著しく欠如しているのは彼の性格によるという理由があるので、他人が苦しむという危険はなかった。
 さて、何事についても真実を語ることが全くできない、病的なウソつきはいる。
 その者たちは、それらしい理由が何らなくして、かつまた想像力を発揮することもなく、全てを捻じ曲げ、歪曲するのだ。
 しかし、このような人々は、誰も語ることを信じないで、彼らにふさわしい軽侮の気持ちで対応するために、人畜無害でありそうだ。//
 (9)事業、政治および戦争にウソが蔓延していることは、これらと私的な関係をもつ他者に対する我々の信頼を脅かしている。
 これらの分野で仕事をする人々は、誰がなぜ騙す可能性があるかを完全によく気づいており、警戒すべきときを知っている。
 宣伝広告で語られるウソでも、これらの分野に比べればまだ無害だ。
 全ての国々は、消費者を虚偽表示から保護しようとする法制をもっており、商品についての宣伝広告にある虚偽の主張は、法律によって罰せられることがある。
 例えば、水道水をガンに絶対的効用がある治療法だとして市場で売り出すことは違法だ。
 他方で、奇蹟石鹸(Miracle soap)またはハンブルク・ビールは世界最良だと主張することは、違法ではない。
 違いがどこにあるかと言うと、後者の場合は、広告者は奇蹟石鹸やハンブルク・ビールは本当に世界最良だと我々に信じさせようと意図してはいない。
 そうではなく、彼らの意図は、奇蹟石鹸を特徴のある包装で我々に印象づけ、つぎには一個の石鹸を買わなければならないかのように誘引することにある。我々が何度もテレビでその宣伝広告を見た後では、その商品は我々に馴染みがあるように見えてしまうのだ。
 広告者は、正しく、我々の保守性(conservatism)への自然な志向を考慮している。
 奇蹟石鹸の画像を十分に頻繁に我々に見せれば、我々はかりに実際はそうではないとしても、それに馴染みがあるように感じるはずだ、と知っているのだ。//
 (10)しかしながら、政治の分野で語られるウソに目を向けるとき、重要な区別をしておかなければならない。
 政治では、頻繁にウソがつかれている。だが、民主主義諸国では、言論と批判の自由は、我々を一定の有害な影響から守るものだ。
 真実か虚偽かの違いは、変わりなく残されている。
 かりにある大臣が完全によく知っている何かに関する知識を否認したとすれば、彼はウソをついている。
 しかし、彼が見破られるかどうかはともかく、真実と虚偽の違いは明瞭なままだ。
 同じことを、全体主義国家について言うことはできない。とくに、共産主義が絶頂期にあった、スターリン主義の時代については。
 その国家と時代では、真実と政治的な正しさの区別は、全体として曖昧なままだった。
 その結果として、人々は自分たちが口に出して言ってきた「政治的に正しい」スローガンを、全くの恐怖から、半ば信じるようになった。なぜなら、長い期間だったし、政治指導者たちですらときには自分たちのウソの犠牲者となったからだ。
 このことがまさしく正確に意図されていた。真実と政治的正しさの区別を忘れるさせるような混同を人々の意識(mind)に十分に惹き起こすことができるならば、政治的に正しいものは何であろうとそのゆえに不可避的に真実だと、人々は考えるようになるだろう。
 このようにして、国民がもつ歴史の記憶の全体が、変更され得ることとなつた。//
 (11)これは、たんなるウソつきの例ではない。言葉の正常な意味での真実というまさにその観念をすっかり抹消してしまう、という試みだった。
 この試みは全体としては成功しなかったが、とくにソヴィエト同盟で、それが惹起した精神(mental)の荒廃は巨大だった。
 全体主義体制がその完全な能力を獲得しなかったポーランドでは、影響はより穏やかだったけれども、しかし、やはり強く感じられた。
 かくして、言論と批判の自由は、政治的なウソを排除できないが、それにもかかわらず、「虚偽」、「真実」および「正直」といった言葉の正常な意味を回復し、守ることができる。//
 (12)ウソつきが許され、あるいは「良い動機」があるから望ましいと見なされ得る環境条件はある。しかし、このことは、「ウソつきはときには間違いで、ときにはそうではない」、だから放っておけ、ということを意味しない。
 これでは曖昧すぎて、原理的考え方として依拠することができない。なぜなら、これでは、ウソつきの全ての場合を正当化するために用いることができるだろうから。
 また、このような教訓に従って我々の子どもたちを育てるべきだ、ということにも全くならない。
 どんな環境条件のもとでも、ウソをつくのはつねに間違いだと、子どもたちを教育する方がよいだろう。
 このようにすれば、子どもたちは、ウソをつくときに少なくとも心地悪さを感じるだろう。
 残りは、彼らが自分で、速やかにかつ容易に、大人たちの助けなくして、学ぶことができる。//
 (13)しかし、ウソをつくことの絶対的禁止は、効果がなく、またより重要な道徳的命令と矛盾する可能性もある。ウソをつくのが許される場合を説明することのできる一般的原理をどうすれば見出せるだろうか?
 先に述べたように、答えは、そのような原理的考え方は存在しない、ということだ。どんな一般論も、全ての考え得る道徳的な環境条件を考慮することはできず、過ちがあり得ない結論を与えることはできない。
 しかしながら、この問題の考察から抽出できるかもしれない、また役立ち得ると判るかもしれない、一定の道徳を語ることができるだろう。//
 (14)第一の道徳は、自分たち自身に対してウソをつかない努力をすべきだ、ということだ。
 これが意味するのは、とりわけ、ウソをつくときに我々は事実を知っているはずだ、ということだ。
 自己欺瞞はそれ自体が別の重要な主題で、私はここで論じることができない。
 良い動機から我々がウソをつくときはつねに、ウソをついてることを知っているべきだ、と言うだけにとどめる。//
 (15)第二に、自分たち自身へのウソを正当化する方法を憶えておくべきだ。ウソをつく名目となる「良い動機」という我々の観念は、その「良い動機」が我々自身の利益と合致している場合には、つねに疑わしい。//
 (16)第三に、ウソをつくのが何か別の、より重要な道徳的善の名のもとで正当化されるときでも、ウソをつくことそれ自体は道徳的に善ではないことを、心にとどめておくべきだ。
 (17)第四、そして最後に、ウソをつくのは他人をしばしば傷つける一方で、もっとしばしば我々自身を傷つける、ということを知っておくべきだ。ウソをつくことの効果は、精神(soul)の破壊だ。//
 (18)これら四つの事項を覚えていても、我々は、あるいは我々の大多数は、聖人にはなれないし、この世界からウソを廃絶することもできない。
 しかし、ウソを武器として用いるときに、かりにそうしなければならないときであっても、我々に慎重さを教えてくれるかもしれない。//
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 第四章、終わり。

2351/L・コワコフスキ「名声について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。第2章②。この書物に、邦訳書はない。
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 第二章・名声(fame, 有名さ)について②。
 (6)このように考察すると、名声はいくぶん「不公正に」配分されている、という愚かな考えが生まれる。
 このような考え方は、名声の「公正な」配分とはどのようなものかを、さらにはそれをどうすれば実現できるかを、我々は知らないがゆえに、愚かだ。
 実際そうであるように、ほとんど読み書きのできない何人かのボクシング王者は、純粋に人類の利益のために働く偉大な学者や科学者が、例えば医学研究者が一握りの者たちにだけしか知られていないのに対して、世界じゅうに有名であり得る。しかし、これのどこに問題があるのか?
 なぜ名声は、知的な大きな成果に対する正当な褒賞である<べき>で、スポーツ技量またはテレビ・ショーの司会術に対する報償であってはならないのか?
 名声は、しばしば全くの好運の問題だ。宝くじ当選者ですら、自分の努力や長所がなくとも、短期間は有名であり得る。
 我々自身もまた、しばしば、聴衆や観衆として誰かを有名にすることができる。例えば、その女優が出演している映画を観に行くことによって、ある女優を有名にすることができる。
 多数の人々—Xanthippe〔ソクラテスの妻〕、Theo van Gogh〔画家ゴッホの弟〕、Pontius Pilate〔キリスト処刑許可者〕 —は、たまたま何らかのかたちで有名な人々と関係があるために有名さを獲得している。
 そして問おう、なぜそうであってはならないのか?
 名声の「不公正な」配分について、文句を言っても無意味だ。名声は、善良さ、知恵、勇気その他の美徳の報償ではないし、かつそう考えられてはならないからだ。名声とはそのようなものでは全くないし、決してそうはならないだろう。//
 (7)これは良いことだ。なぜなら、かりに我々の生活がその大部分が予見不可能でなく、偶然に支配されていないとすれば、そのような生活はじつにひどく退屈なものになるだろうから。偶然は総じて我々の有利にはならないという事実があるとしても、やはりそうだろう。
 世界は、公正な報償なるものを基盤にして編成されてはいないし、実際そうであるのとは異なって世界を編成し得ると言うことが何を意味するのか、思い描くことすらできない。
 おそらく天界では、名声や栄誉は異なる規準で従って授与される。おそらく最高のレベルにまで昇りつめた有名な人々がおり、彼らは地上では誰もその名を聞いたことがない人々なのだろう。
 しかしながら、地上で熱烈に名声を追求する人々は、偶然によって有名になった者たちを見て嫉妬心を使い果たして、有名な人々の中には入らない、と想定しておくのが安全だ。
 ノーペル賞受賞者やアメリカ大統領になろうとする絶望的な多数の者たちは、彼ら受賞者らが明瞭に獲得した褒賞を拒否されたという憤懣をもって、天界に行けば自分たちの苦痛に褒美が与えられる、と考えることに慰めを見出してはならない。
 なぜなら、実際には、神は、我々の嫉妬心や虚栄心に対する褒賞として我々を着飾ってくれそうにはないからだ。//
 (8)名声を求める渇望やそれを得られないこと、または値するほどには多く名声を得ていないことは不公正だとする感情は、もちろん虚栄心の結果であり、聡明さとは何の関係もない。
 道徳家たちはこの数世紀の間に、我々の知性はその我々の虚栄心や傲慢さを前にしては無力だ、と知ってきた。
 我々はみなたぶん、さもなくば全く知的な人々が、尊大で傲慢で独善的だという理由で、疫病のごとく避ける人々に遭遇したことがある。
 我々に説教をしたり望んでいない助言をするこの種の人々は、我々がその仲間でなくなるときには、それに気づいていないふりをするか、または自分たちの道徳の高さや知的な卓越性に原因を求める。
 我々はみな、知識と先見性があるにもかかわらず、誰も自分を認めてくれないと常時不満をこぼしている、そして、自分たちが嘲弄に値する者であると理解するのを拒否する、全く知的な人々を知っている。
 彼らは、自分たちを殉教者に仕立て、絶えず我々の同情を惹こうとする。我々の時代の出来事からして、彼らの殉教ぶりは些細な程度であるとしても。
 彼らはまた、自分たちの馬鹿げさ加減を理解するのを拒む。
 我々にあらゆる機会を使って、世界の女性たちは全員がベッドに一緒に行くことしか望んでいないことを明確に教えようとする、完全に知的な人々がいる。
 知性は、虚栄心を克服できない。
 「虚栄(vanity)」という言葉が「空虚(void)」に近いのは、決して偶然ではない。//
 (9)しかしながら、名声の追求は、二つの条件が充たされるならば、卑しいことでも、無価値のものでもない。
 第一に、主要な目標に対して付随的なものでなければならない。主要な目標とは、それ自体が価値があるものを達成することだ。
 その目標へと、我々の努力は傾注されなければならない。その結果として生じ得る名声の見込みに、誘惑されることがかりにあるとしても。
 第二に、名声の追求は、強迫観念(obsession)に転化してはならない。ほとんど余計なことを追記すれば、この強迫観念は、世間に対する憤懣という破壊的な感情を生むことがあり、これは人生を破綻させてしまうことがあり得る。
 概して言えば、名声については全く考えないで、家族や良き友人たちの小さな仲間うちの愛情や敬意に満足しておくのがよいだろう。//
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 第2章、終わり。

2344/L・コワコフスキ「権力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 この書物に、邦訳書はない。
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 第一章・権力について②。
 (9)我々はみな、この意味での権力を欲しがるというのは本当か?
 たしかに、我々はみな、我々が適切だと考えるように、つまりは我々に利益となるように、または我々の正義の感覚と合致するように、他の人々が行動するのを好むだろう。
 しかし、このことから、我々はみな国王でありたいと思っている、ということが導かれるわけではない。
 パスカルが言ったように、自分が国王ではないがゆえに不幸であるのは、王冠を剥奪された王様だけだ。//
 (10)権力は—つねにではないがしばしば—腐敗する、と我々は知っている。
 また、かなりの長期にわたって権力の実質的手段を享有してきた者たちがしばしば、君主たちがかつて神が与えた権利でもって統治していたように、権力に対して一種の自然的な権利をもっていると感じるに至る、ということも知っている。
 このような者たちがあれやこれやの理由で権力を失ったとき、その者たちは、その喪失はたんなる不運ではなく宇宙規模の大災難だと考える。
 そして結局は、我々が知るように、権力闘争が、戦争その他の世界を苦しめる厄災の主要な源泉になってきている。//
 (11)こうした権力と結びついた多数の悪が存在することは、自然に、子どもじみた多様な無政府主義的ユートピアを生み出す。これによると、世界の病悪に対する唯一の治療法は、権力をすっかり排除することだ。
 より極端な考え方では、「権力」は、最も広く理解されている。その結果として、例えば、子どもたちに対する親の権力は、まさにその本性において、可能なかぎりすみやかに廃棄されるべき恐るべき専制だと考えられている。
 この考え方からすると、例えば、我々が子どもたちに母国語を教えるとき、我々は恐るべきほどの専制的暴力を現実に行使していることになる。権力のおかげで、我々は子どもたちを支配しており、我々は力づくで子どもたちに我々の望みを押しつけ、そして子どもたちの自由(liberty)を剥奪しているのだ。
 このような考え方によれば、子どもたちを獣の状態に放任するのが最善なのだろう。そうすれば、子どもたちは、自分たち自身の言語、習慣や文化を発明することができる。//
 (12)しかしながら、無政府主義のうちのより馬鹿げてはいない考え方は、政治権力の廃棄を目標としている。
 この理論は、全ての政府、行政機関、法廷が消失するならば、人間は平和と友愛に充ちた自然状態で生きていくだろう、というものだ。
 幸いにも、無政府主義革命が起きるのは不可能だ。そうしようとたんに決定するだけならば、いつでも好感をもたれるとしても。
 無政府状態は、権力の全機構と全制度が崩壊し、制御する者が誰もいないときにのみ発生する。
 このような状態によるつぎの結果は、不可避だ。すなわち、絶対的権力を追い求める何らかの勢力(force)が独自に(そのような組織がないわけではない)、自分たちの専制的秩序を押しつけるために、あらゆる荒廃状態から利益を得ようとするだろう。
 このことの最も劇的な実例は、もちろん、ロシア革命だった。そのときにボルシェヴィキ体制は、一般的な無政府状態の結果として、権力を奪取した。
 無政府とは、実際には、専制のための小間使いだ。//
 (13)権力を廃棄することはできない。権力は、ある種の政府をつぎつぎと交代させることで、より良くなったり、より悪くなったりする。
 不幸なことだが、政治権力が廃棄されるときにのみ我々みんなは平和な友愛状態で生活するだろうと言うのは、正しくない。
 我々の利益を分岐させて相対立させるのは、偶然ではなく、人間の本性それ自体だ。
 我々全員が攻撃の手段をもち、我々の必要や願望には制限がない。
 ゆえに、政治権力の仕組みが奇跡のように消え失せるとすれば、その結果は普遍的な友愛ではなく普遍的な殺戮だろうということは、きわめて平易に分かることだ。//
 (14)言葉の字義どおりの意味としての「人民の政府」は、存在してこなかったし、これからも存在しないだろう。
 他のことをさて措いても、そのような政府は技術的に見て実現されないだろう。
 人々が政府が行なっていることを監視し続け、選択できるならば別の政府と置き換える、ということによる一定の安全装置は、存在し得る。
 もちろん、ある政府がいったん権力を手にすれば、我々は多様な規制に服し、多数の重要な分野で我々は選択できなくなる。
 我々は選ぶことができない。例えば、子どもたちを学校に通わせるべきか否か、税金を支払うべきか否か、自動車を運転したいときに運転試験を受けるべきか否か、等々。
 政府を監督するために人々は種々の統制手段を設定するが、それらは絶対的な頼りにはならない。
 民主主義的に選出された政府は、腐敗することもある。そして、その決定はしぱしば、多数派国民の意向とは反対だ。
 どんな政府も、全員を満足させることはできない。
 等々。これらは全て、我々がよく知っていることだ。
 人々が政府を統制するために行使できる手段は、決して完全なものではない。だが、人類が専制を回避するためにこれまでに考案してきた最も有効な方法は、まさに、政府に対する社会的統制の諸装置を強化し、政府の権力の範囲を社会秩序を維持するのに必要なぎりぎり最小限にまで限定することだ。すなわち、我々の生活の全領域の規整(regulation)を認めることは、結局は、全体主義権力について語られていることになる。//
 (15)さて、我々は政治権力の全ての機構に疑いをもって対処し、必要とあれば(つねに必要だろう)、それについて抗議することができる。いや、じつに、そうすべきだ。
 しかしながら、権力や権力諸装置の存在自体について不服を言ってはならない。我々は異なる世界を考案することができないとすれば。—誰か多くの者がこれを試みてきたが、誰として成功しなかった。//
 ——
 第一章・権力について、終わり。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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