秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1994年綱領

1350/日本共産党の大ペテン・大ウソ18。

 少し元に戻る。
 1.日本共産党がソ連を<社会主義国ではなかった>と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。
 既述だが、この1994年7月まで、ソ連は「社会主義」国ではなかった、と性格づけたことは、1991年12月のソ連(の公式)解体後も、一度もなかったと見られる。
1991年12月(ほぼ1992年1月)から1994年7月第20回党大会の直前まで、上の性格づけの明言はなく、まだ曖昧にであれ「社会主義」国の一種と見ていたと理解するほかはない文献上の根拠はすでに挙げたが(2016.05.19の「07」の3②)、いま一度、もう少し詳しく紹介しておく。
 2.上記第20回党大会の2月前の 1994年5月に発行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下は次のように、その時点からは過去の同党大会について、叙述している。かりにすでに<「社会主義」国理解>を放棄していたとすれば、以下のような叙述にはならない、と考えられる。
 ①p.238-9- 1985年の第17回党「大会は、党綱領の内容をいっそう充実させる一部改正をおこなった」。「第一に、覇権主義の克服を綱領上の課題としてとりあげた」。「また、綱領の一部改正は、…、社会主義諸国、国際労働者階級、…、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、『内部にそれぞれの問題点をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動』によって、今日の時代における『…を決定する原動力となりうるものであり』と規定し、これらの勢力が世界平和、…、社会進歩をめざして『ただしい前進と連帯をはかることが重要』と明記した。この規定は覇権主義、官僚主義などをもつ『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の体制の劇的破たんは、これらの規定の歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。/〔改行〕
 「第二に、『資本主義の全般的危機』という規定を削除した。『資本主義の全般的危機』論は、①……、②社会主義体制が世界史を決定し資本主義体制の危機をふかめることを一面的に強調し、社会主義国依存の傾向をうみ、主体的力を軽視する傾向をうみがちであること、③社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと、-以上から誤った理解をうむ不適切な規定をとりのぞいた」。/〔改行〕、<第三、第四、第五および「その他」は省略>
 引用終わり。
 上のうち『』内は1985年改定綱領の中に含まれる文であり、それ以外の「」内は、1994年5月発行の上掲書自体の文章だ。1985年時点の日本共産党のソ連理解を忠実に反映しているとも言えるが、1994年5月時点で、「社会主義(諸)国」の中にソ連を含めて叙述していることは明らかだろう。
 ②p.377-8-「『社会主義崩壊』論による異常な反共攻撃と…のなかで、党は1990年7月9日から…、第19回党大会を、…ひらいた」。<中略>
 「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期を区別して分析する必要がある』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義、覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、……』と強調した」。<以下、略>
 引用終わり。上のうち『』内は1990年の党大会決定(または不破哲三幹部会委員長報告)の中に含まれる文であり、1990年7月時点で(ソ連共産党やソ連の解体は1991年)日本共産党がソ連を「現存の社会主義体制」の一つと見ていたことが分かるが、今のここでの文脈では重要なのは、1994年5月の日本共産党の文献が、上のように1990年時点のソ連理解をそのまま引用して「党史」を叙述していることだ。
 なお、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003、日本共産党中央委員会出版局)は、上のような詳しい?叙述を回避している。
 3.1.不破哲三・ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義(新日本出版社、1992.11)、2.不破哲三・日本共産党に対する干渉と内通の記録-ソ連共産党秘密文書から/上・下(新日本出版社、1993.09)はいずれも、1991年12月のソ連解体と1994年7月の第20回党大会の間に書かれ、出版されている。
 注目されてよいのは、かなり分厚い上の2冊(または3冊)において、ソ連またはソ連共産党の覇権主義等々を厳しくかつ詳しく批判しながらも、ソ連は<社会主義国ではなかった>という旨の叙述は、いっさい存在しないことだ。
 かりにソ連解体後にソ連は<社会主義国ではなかった>と不破哲三または日本共産党がすでに?理解していたとすれば、上に述べたような叙述には決してならなかっただろうと思われる。
 上の1.の最初の大きなタイトルは、「ソ連共産党とたたかって三十年」だ。
 この30年とは1961年綱領・宮本賢治体制確立以降のことだと考えられるが、日本共産党・不破哲三の1994年7月第20回党大会以降の説明・主張によれば、1961年の時点でソ連はとっくに<社会主義への道>を踏み外し、<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている。にもかかわらず、ソ連は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっていた、そのような国家又はソ連共産党と「三十年」にわたって「たたかって」きた、というのならば、その旨がはっきりと叙述されているはずだろう。
 この点もまた、1991年12月と1994年7月の間、日本共産党はまだソ連を<社会主義国>と見ていた、あるいは少なくとも(下記の文献の一部も斟酌すれば)、ソ連共産党解散につづくソ連解体に遭遇して明瞭な見地に立ち得ず、<混乱していた>、ということの証左になる、と解される。
 4.1990年8月(日本共産党の第19回党大会の翌月)、ソ連共産党は解体した。
 日本共産党中央委員会常任幹部会は、1990年9月1日付で「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題する声明を発表した。同声明は述べる。以下、日本共産党中央委員会出版局・日本共産党国際問題重要論文集23(1992.01)、p.283~による。<後日6/15に訂正ー上に記した二箇所の1990年は、いずれも正しくは1991年>
 「ソ連共産党の解体は、…を直接の契機としたものであったが、長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたことは、これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。/〔改行〕
 「ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義、覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。1940年の…、45年の…、56年の…、68年の…、79年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」。<以下、省略>
 引用終わり。
 上のうち、まず、ソ連共産党の罪悪として「科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」と(まず第一に、または基本的・総括的に)述べているにすぎないことが注目される。たんに「傷つけ」たにすぎず、「おおきな混乱」をもたらしたにすぎないのだ。
 つまりは、この声明の前提には、ソ連共産党も、(科学的)社会主義の理念を追求し、「平和と社会進歩のためのたたかい」をすべき政党だった、という見地があるものと理解して差し支えないだろう。
 したがってつぎに、この声明は(この時点ではまだ存在していた)ソ連邦は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている、という旨など、まったく述べていない、ということに注目しておかなければならない。
 1994年7月になってはじめて、上の旨を明確に述べたのだったから、上の点は当然かもしれない。しかし、ソ連共産党解体の時点で、ソ連を「(現存)社会主義国」の一つと見ていたことを、現在の日本共産党は正直に肯定しなければならない。
 なお、スターリン以後のソ連共産党およびソ連をどのように見ていたかということは、レーニンの時期との対比をどう説明していたかという、(ネップにもかかわる)第二の大きな論点に関係する。再び、上の叙述部分には言及することがあるだろう。
 5.<以下の叙述は、6/15に一部削除したうえでのもの>
 宮本顕治は、1991年1月1日付「赤旗」紙上で、年頭のインタビューに答えている。
 内容としてきわめて重大なのは、宮本のつぎの言葉だ。以下、宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997.11)p.7以下の「情勢と科学的社会主義の本道」による。上記の、日本共産党国際問題重要問題集23にも収録されている。「ソ連の事態」についての質問を受けて語る中で、こう言う。
 「…残念ながら、ソ連の出口を科学的に解決できる勢力はいまのところ見あたらない。われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思うし、現在の経済危機も乗りこえてほといと思うわけですが、しかし、根は深いということです」(p.14)。
 以上、引用終わり。
 宮本顕治は、ソ連共産党という政党とソ連という国家をおそらくは確実に区別して、ソ連については「失敗は希望しないし、なんとか…立ち直ってほしいと思う」と明言し、1991年元旦の党の機関紙上で公にしていたのだ。
 このような言い方が、ソ連はすでに<社会主義の道から踏み外した>、<社会主義国ではもはやない>という理解から生じるはずがない。
 宮本顕治自身が、この時点で、きちんとまだ?、ソ連を「社会主義国」の一つと見ていたのだ。だからこそ、正しい姿へと「立ち直ってほしい」と明言していたわけだ。
 ここには、日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如も、示されている。宮本は、ソ連が(あるいは社会主義・ロシアが)正式に崩壊することを、全く見通せていなかった、ということになるだろう。
 また、日本共産党の常任幹部会は1991年9月にソ連共産党の解体を「もろ手をあげて歓迎」したのだったが、その一員であったはずの宮本顕治は1991年1月には、「ソ連の失敗は希望しない」と、ソ連邦については明言していたのだ。
 ところで、現在の日本共産党、あるいは不破哲三らは、1991年9月の<ソ連共産党解体歓迎声明>をもって、同党は<ソ連解体も歓迎した>というつもりでいるようだ。そのような趣旨の不破哲三らの文章に出くわすこともある。
 しかし、上の宮本顕治の言葉の論理的な延長は、<ソ連は解体(失敗)してほしくなかった。ソ連解体は残念だ>ということになるはずだ。
 だがしかし、「ソ連解体にさいして」日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない。いったいどちらだったのだろう。
 日本共産党や同党幹部には知的または論理的な思考力や誠実さはまるでなく、もっぱら<政治的に>・<戦術的(・戦略的)に>、そのつど、無定見に、一見詳しくて、理論的?ふうの戯れ言を撒き散らしてきただけではないだろうか。
 -という、疑いをますます濃くさせる。
 もちろん、<ソ連と30年間にわたってたたかってきた>という言い分は、<大ペテン>だ。
 「社会主義国」ではないソ連や社会主義政党ではないソ連共産党と闘うのと、「社会主義国」の一つであるはずの、あるいは社会主義政党であるはずの、ソ連邦やソ連共産党と闘うのとでは、まるで意味が異なることは明白だろう。嗤ってしまう。

1339/日本共産党の大ペテン・大ウソ11。

 一 日本共産党は、ソ連の解体まで、1980年代後半にも複数回、ソ連またはソ連共産党を訪問していた。
 1987年は1917年10月「社会主義」革命70周年だったので、11月初旬のモスクワでの記念行事に出席し、記念集会で当時の書記局長・金子満広がメッセージを読み上げている(日本共産党の70年/党史年表(日本共産党中央委員会)による)。
 また、その前の10月に「日ソ両党関係を素描する-10月革命70周年」という論文を発表して10/22付けの機関紙・赤旗に掲載している。
 黒坂真「『構造改革論』と不破哲三」幻想と批評第8号(2008.04、はる書房)p.44-45によると、その内容の一部はつぎのとおり。
 ・「われわれはまた、十月革命70周年にあたり、70年前に遅れた資本主義国から出発した社会主義のソ連が、人民の生活、教育、医療などの分野で今日まで築きあげてきた大きな成果を土台に、政治的経済的文化的にいっそう前進、発展することへの期待を表明する。」
 ・「おおざっぱではあるが、これまでたどってきたように、65年間の日ソ両党間の関係のうち、主要な部分は友好と協力の関係である。」
 ソ連正式崩壊のわずか4年前にこのように語っていたことを、憶えておく必要がある。
 こう書いた7年足らずのちには、ソ連は「社会主義」国では全くなかった、と評価が反対になったのだった。そして、現在、スターリン下のソ連に対して、日本共産党はさんざんの悪罵を投げつけている。
 1922年日本共産党設立、1991年ソ連共産党解体だから「交流」期間はほぼ70年だが、1935-45年の10年は日本共産党としての活動はないから、実質はほぼ60年になる。
 上では「主要な部分は友好と協力の関係」だという。しかし、今日の日本共産党の見方では1936-37年にはソ連はすでに「社会主義」国ではなくなり、スターリンの継承者たちの指導下のソ連もそうだったとされているので、良好な関係というのは、じつは、1922-35年の10数年間にすぎない。65年のうち約14年間では「主要な部分は友好と協力の関係」だったとはとても言えないだろう。
 1994年7月20回党大会以前の日本共産党の文献のうちソ連関係部分はどのように訂正・修正・是正・削除することになるのか、現在の日本共産党には一覧表を作ってもらいたいものだ。
 二 1994年7月20回党大会の前に開かれた、19回大会第11回中央委員会総会で、予定の20回大会について不破哲三は、つぎのような「幹部会報告」を行なった(1994年3月、19回大会中央委員会総会決定集/下による)。
 「〔予定している〕綱領・規約の一部改定の趣旨について若干のべますと、党綱領の基本路線の正しさはもこの33年の歴史の検証を経て、いよいよ鮮明であります。…。さらに、85年の一部改定のさいには、覇権主義の歴史的克服を綱領的任務として規定しました。ソ連の解体は、この規定の先駆的な意義をあきらかにしました。/〔改行〕
 このように、綱領の基本路線の正しさは明白でありますが、…、今回の一部改定では、ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定することを主眼にしたいと思います」。
 おそらくはすでに、綱領改定案はほとんど作成されていて、ソ連は「社会主義」国ではなかった、ソ連等の崩壊は「資本主義の優位を示すものではない」等の新綱領や不破報告は用意されていたのだろう。
 だが、ともあれ、ソ連の覇権主義批判の「先駆的な意義」が「ソ連の解体」によって明らかになったとは、何という倒錯であり、何という<大ペテン>だろう。
 本来、ソ連が覇権主義の誤りを<社会主義の復元力>でもって是正し<正しい社会主義>の路線に戻ることこそ、日本共産党は期待していたはずなのだ。それとは逆の事態が現実には生じたことについて、覇権主義批判は正しかったと喜んでいるのが、上の不破哲三の言葉だ。
 また、上では「ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定する」と述べているが、実際に行なったことは「ソ連の解体」をふまえての、ソ連に関係する部分の「歴史」の修正、日本共産党にとって都合が悪くなった部分の削除や訂正に他ならない。もっとも、20回大会での改定だけでは不十分だと考えられたようで、その後も、とくにソ連関係部分の「歴史」の修正が綱領改定によりなされていった。
 不破哲三が、そして日本共産党が<反省>らしき言辞を全く述べなかったわけではないが、それは到底「自己批判」・「詫び」と言えるものではないことは、すでにこの欄で述べた。
 ところで、興味深いのは1991年末のソ連正式解体後の日本共産党幹部会メンバーたちの議論の中身だ。ソ連存在中の綱領や不破哲三報告等々が問題にされたに違いない。そして、ソ連が存在しなくなった新情勢にどのように<さりげなく、連続性があるように>綱領や報告を変えていくかが、おそらくは当時の幹部会委員長・不破哲三を中心に議論されたに違いない。
 幹部会委員の議論によったのか、それとも常任幹部会委員だけの議論と案作りだったのか、よくは分からない。明確なのはたぶん、少なくともこの時期は筆坂秀世や兵本達吉は幹部会メンバーではないので、元党員であっても、この辺りの事情にさほど詳しくはない、ということだろう。

1333/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ08。

 一 日本共産党がソ連を「社会主義ではなかった」と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。繰り返しになるが、再度紹介すれば、以下。
 ①ソ連等の「崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」だった。ソ連等は「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」として解体した。(1994年7月第20回党大会・改訂党綱領)
 ②旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」。「スターリンは、…社会主義とは無縁な社会への道をつきすすんだ」。「スターリン以後の転落は、…、反社会主義的な制度を特質として」いた。(1994年7月第20回党大会・不破哲三(幹部会委員長)「綱領一部改定についての報告」)
 このときまで、-党員たちには事前に改定綱領の「案」が知らされていたのだろうが-日本共産党はソ連についての上のような理解・認識を明らかにしていたことはなかった、とほぼ断じることができる。ソ連崩壊後の第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/上・下(日本共産党中央委員会出版局)がその根拠になる。
要するに、1991年12月のソ連解体後、2年半ほどあとになって(ようやく?)上の新しい性格づけに至っているわけだ。
  したがって、これもすでに紹介したが、上の党大会の直前(2カ月前)の1994年5月に刊行された日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下が、少なくともソ連を含めて「社会主義国」という語を使っていたのも、自然ではある。日本共産党にとって、1994年7月の直前まで、ソ連(旧ソ連)はまぎれもなく「社会主義国」だったのだ。
 ・1985年綱領改定がソ連覇権主義との闘争の必要性を明記したのは、「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味」した。また、「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよま」ったという「情勢の変化」から「資本主義の全般的危機」規定を削除した。(1994年5月刊行の日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下)
 二 1994月7月の第20回党大会後の第2回中央委員会総会での「幹部会報告」の中で、不破哲三は、「旧ソ連社会論」として次のように述べている。
 「わが党は、ソ連が解体される以前から、第19回党大会において、…、ソ連史の二つの時期、レーニンが指導した時期とスターリン以後の時期とを根本的に区別すべきことを指摘してきました。//
 第20回党大会では、そこにさらに新たな解明の光をあてました。すなわち、スターリン以後は、…、社会体制としても全面的な変質の道に引き込まれたのであり、崩壊した旧ソ連は、社会主義社会でなかったことはもちろん、それへの過渡期の社会でもなく、人民への抑圧と搾取を特質とする社会だったことを、あきらかにしたのであります」。
以上で引用終わり。//は原文では改行ではない。
 不破によると、「社会主義社会」でもそれへの「過渡期の社会」でもなかった等のことは、「さらに新たな解明の光をあて」たことによって得られた結論だ、という。
 ここにはゴマカシがあるだろう。ソ連解体という「厳然たる事実」を認識して、日本共産党は旧ソ連とともに「社会主義」の側にいたのだ、というこれまた明白な事実を隠蔽し、自己欺瞞をするために、旧ソ連の「社会主義国」性を否定するという、それまでの日本共産党のソ連社会理解とは根本的に異なる、全く反対の理解・認識を、1994年7月になって示したのだ。これを「さらに新たな解明の光をあて」たと表現するのは、本質を隠蔽するゴマカシであり、<大ウソ>だ。
 同じことは、2003年1月に刊行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の80年(日本共産党中央委員会出版局)の中の、第20回党大会(1994.07)に関するつぎの叙述についてもいえる。
 ・「党は、1994年にひらいた第20回党大会で、党綱領を情勢にてらして現代的に発展、充実させる一部改定をおこないました。//
 とくに、旧ソ連社会の内実のたちいった研究にもとづいて、旧ソ連社会論を大きく発展させました。」
引用終わり。//は原文では改行ではない。
 旧ソ連を「社会主義国」の一つと理解することを「社会主義でなかった」へと<変更>させることは、上によると、「情勢にてらして現代的に発展、充実させる」ことであり、旧ソ連の見方を「大きく発展させ」たものなのだそうだ。
 これも大きなゴマカシであり、<大ウソ>だ。嗤ってしまう。
 三 上に言及した不破哲三の1994月7月第20回党大会・第2回中央委員会総会「幹部会報告」の中で、不破はつぎのように述べている。
 ・三大選挙にむかって党の政策文書案を作成したが、「日本共産党の存在意義」を語るのが第二の重視点で、その中では「5つの角度」から党の性格を述べている(中央委員会総会決定集p.33-34)。
 秋月の文章に戻せば、その5点のうちの一つは、つぎのようなものだ。
 ・「ソ連の干渉・横暴・謀略と30年間たたかいぬいた自主独立の党」(p.34)
ここに大ペテンがある。すでに解体・崩壊しているソ連と「30年間たたかいぬいた」というが、解体・崩壊後もなお「社会主義国」の一つと見ていたし、東欧の激動時の頃は「現存社会主義国」と称してもいた(この点は別に文献を紹介する予定だ)。解体後は「たたかう」相手がいないから、30年間というのは、1961年~1990年のつもりなのだろうか。
 厳密にいえば、日ソ共産党の間に対立が生じた(ソ連からの「干渉」があった)のは1964年のはずなので、30年には満たない。
 そんなことよりも、ソ連=社会主義国、ソ連崩壊=社会主義の失敗・社会主義国の消滅というふうに多くの国民が<感じて> いたなかで上のように<宣伝>することは、失敗した<ソ連社会主義>の側には日本共産党はいなかった、それと長らく「たたかって」きたのだ、ということをアピールしたいのだろう。日本共産党は、そのように2016年の今日まで宣伝している可能性はある。
 しかし、上のような<宣伝>は、日本共産党は(1994年7月まで)ソ連を(生成途上であれ)「社会主義国」の一つと見なしており、かつ日本共産党も「社会主義」をめざす政党である、という明白な事実を隠蔽して、より本質的ではない論点にかかるイメージを拡散しようとするものだ。
 <こっそりと自己批判のないまま>過去の言明と真逆の理解をもちこみ、かつ上のような<大ペテン>を仕掛ける。日本共産党とは、そのような政党だ。
 <つづく>

1328/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ04。

 そこそこ大きい書斎につながっている、近所からは図書館と呼ばれている広大な書庫から(冗談だ)、ソ連解体後の初の党大会資料である日本共産党第20回大会決定集(1994)等々々をとり出してきた。
 日本共産党や幹部自体の諸文献を読んでチェックする速さと、この欄に関係部分を引用しつつコメント等をしていく作業の面倒くささが全く一致しない。
 最近の保守派の諸雑誌の日本共産党特集も含めて、これまでの保守派の日本共産党に関する知識や諸媒体の情報発信力は相当に不十分だ、とあらためて感じる。
 宮本顕治体制を確立した1961年綱領の採択が今日までの日本共産党の実質的出発点あるいは基盤だとは思うが(従って、それ以前の日本共産党の歴史を取り上げることは現在の同党に対する有効な批判になるとは必ずしも思えないが)、1985年綱領(17回大会)、1994年綱領(20回大会)、そして現在まで続く2004年綱領(23回大会)によってかなりの<修正・変更・変質?>が加えられていることも分かる。前二者の間にはソ連解体があるのである意味では当然だが、現在の綱領も、ある程度は(第二次大戦での役割など)ソ連を評価していた1994年綱領の一部を大幅に削除したりしている。
 こうしたことを調べて?いくと、いくつかコメント、論評したくなることも出てくるが、当初のイメージにほぼ従って、とりあえず書き進めよう。
 さて、ソ連共産党解体直前の1991年、ソ連自体の解体後の1994年(上記の20回大会の前)の日本共産党文献がソ連についてまだ「社会主義国の一部」とか書いているのだから、1989-91年以前のそれがソ連について「社会主義社会でないことはもちろん、それへの過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白」だ(1994、不破哲三・20回党大会「綱領一部改定についての報告」)、などと書いているはずはない。
 1961年綱領や宮本顕治の文章、そして1980年代後半に至るまでの諸文献からソ連を依然として「社会主義」国と見なしていた例証をいくつかここで挙げようと考えていたが、ほとんど自明だろうと思われるので、省略する。
 つぎに、不破哲三が<ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>、という旨を明確に語っていた(「ソ連完全変質論批判」)、1980年頃の文章をそのまま転記するつもりだった。
 これは、予定どおり紹介はするが、すでに日本共産党の党員(個人名不明)によって、2004年1月13-17日の第23回党大会での不破哲三報告の「ソ連社会論をめぐる歴史の偽造」と題する部分が批判されていることを、ネット上で知った。
 おそらくよく知られているように、<さざ波通信>とは日本共産党の党員グループがネット上で発信しているもので、党中央は関与を禁止しているはずだ。だが、今日まで閉鎖はされていないようで、2004年のものもネット上にある。同上36号だ。 
 以下、「」を省略して転載する。**と**の間が不破哲三の報告からの引用。最後の一文はほとんど無意味なので省略した。
 ---------
 不破報告は、多数者革命に関するいつもの話を繰り返した後に、最後に第5章に話を移している。その中で不破はまずソ連社会論について議論を展開している。その中で、またしても不破は歴史の事実を大きく歪め、平然と嘘をついている
 **「……スターリン以後のソ連社会の評価という問題は、わが党が、64年に、ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争に立って以来、取り組んできた問題でした。
 この闘争のなかで、私たちはつぎの点の認識を早くから確立してきました。
 (1)日本共産党への干渉・攻撃にとどまらず、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略と、覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない。
 (2)社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない。
 私たちは、早くからこの認識をもっていましたが、ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこないました。その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというものでした。」**
 これは、表現をきわめて大雑把にすることで、あるいは、問題や表現をずらしたりスリかえたりすることによって、読者を意図的にミスリーディングし、歴史を歪め偽造するいつもの手法である。
 実際には、90年代以前のわが党は、覇権主義や対外侵略は社会主義とは無縁であるとは言ってきたが、「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」というような言い方は一度もしたことがない。これは、ソ連の体制そのものが社会主義ではないという認識につながりかねないものであり、わが党は慎重にこのような言い方を避けてきたのである。
 それどころか逆に、1980年代にはソ連社会主義の完全変質論を厳しく批判し、「社会主義の復元力」論を『赤旗』を通じて大キャンペーンを展開したのである。
 ※注/あくまでも、1994年の第20回党大会ではじめてソ連の体制そのものが社会主義の体制ではない、と明言されたのである。
 ※注 +ちなみに、ここでの不破の発言には、ソ連社会の現実についても著しい誇張がある。不破は、「社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治」とか、あるいは、その少し先で「ソ連には、長期にわたって、最初は農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者が絶え間ない人的供給源となって、大規模な囚人労働が存在していました。実際、毎年数百万の規模をもつ強制収容所の囚人労働が、ソ連経済、とくに巨大建設の基盤となり、また、社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしてきました」などと述べているが、これはスターリン時代の、とりわけ大粛清期の現象をそれ以降の全時代に不当に拡張したものである。
 フルシチョフ時代にはいわゆる「恐怖政治」的なものはなかったし(もちろん、反対派は厳しく抑圧されていたが)、逆に強制収容所は基本的にすべて解放されて、そこにいた数十万の政治犯はほぼ全員が家族のもとに帰った。スターリン時代に粛清されたほとんどの共産党員は名誉回復された。数百万の囚人労働が「社会主義」建設を支えるという事態は基本的にこのときに終わったのである。ブレジネフ時代には締めつけが強まったが、スターリン時代のような恐怖政治は再現されなかったし、数百万の囚人労働が工業化を支えることもなかった。その後のチェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフ時代のいずれも、ブレジネフ時代よりも締めつけは緩和したし、とくにゴルバチョフ時代にはフルシチョフ時代以上に自由化が進んだ。これはソ連史の常識であるが、不破はどうやらスターリン時代の恐怖政治と囚人労働がそのままソ連崩壊までずっと続いたと思っているらしい。+
 すでに過去の『さざ波通信』などで、第16回大会における不破の報告を何度か取り上げたが、ここでは、もう一つの材料として1984年に出版された不破の『講座 日本共産党の綱領路線』(新日本出版社)を取り上げよう。1994年の第ソ連完全変質論のわずか10年前に出版された本書で不破は、1960年代における中国のソ連社会主義完全変質論に対して当時のわが党が反対して闘った事実を誇らしげに紹介しつつ、次のように述べている。
 **「そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから」(115頁)。**
 1984年の時点ですでに決着がついていたはずなのに、その10年後には日本共産党は、かつての中国とまったく同じソ連社会主義完全変質論に転向したのである。とすれば、当然、当時の論争において正しかったのは中国で、当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない。
 いずれにせよ、こうした歴史的経過は、少なくとも1990年代以前に入党した共産党員にとって常識である。つまり、不破がここで言っていることは、まったく見え透いた嘘なのである。不破哲三ほど、平然とさまざまな嘘をついてきた共産党指導者はおそらくいないだろう。<一文、略>
 --------------
 以上で、紹介終わり
「1990年代以前に入党した共産党員」にとっては、日本共産党最高幹部たち(とくに不破哲三)の言うことの「ウソつき」ぶり、一貫性のなさ、無反省ぶりが明らかだ、というわけだ。
 上では全文が正確には紹介されていないので、不破哲三等が1989年以前に何と書いていたかを、<社会主義の復元力>部分も含めて、別にこの欄でそのまま引用・紹介する。
 なお、上の文章の書き手または当該サイトの設置者は、日本共産党中央に対しては批判的なようだが、少なくとも形式的にはまだ党員なのだろうし、上以外の書きぶりを見ると、なおも「左翼」の立場にはいるようだ。
 <つづく>

-0046/日本共産党綱領の変遷・少年少女文学全集を思い出す。

 北朝鮮が3日に核実験実施声明を出した。その核弾頭が日本に向けられる日がくる可能性があるが、「九条の会」の人々はきっと切迫感・現実感が薄いに違いない。
 日本共産党は北朝鮮批判の声明を出した。だが、1962年のソ連の核実験のあと「ソ連の核はきれいな核」と主張して日本の原水禁運動を分裂させた(共産党系は日本原水協と略される)のは同党だった。同党は北朝鮮だけは中国・ベトナム・キューバという「社会主義」国と区別しているようだ。当然といえば当然だが。
 その日本共産党の綱領は1961年綱領以降にも何度か改正され、2004年1月のものが最新のようだ。だが、内容に本質的変化があったわけではない。
 以下、4号まで揃った雑誌・幻想と批評2号の金子甫「日本共産党の新綱領」(2004.06)に主として依拠する。
 1961年には「科学的社会主義であるマルクス・レーニン主義」だったのが76年にたんに「科学的社会主義」に改められた。
 三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」は1961年「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁」、94年「労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合」の「権力」に変わった。
 また1961年・94年の「民族民主統一戦線政府」は2004年に「統一戦線の政府・民主連合政府」と改められたが、同党は戦前に「不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかった」としているので、これも三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」の趣旨だろう。
 従って、1961年の「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が「…執権」に変えられ、この語も用いなくなった後、1994年の「労働者階級の権力」としてのみ残り、さらに2004年にこの語も削除された。しかし、三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」という考え方が否定されたことには全くならない。
 さらに「二つの敵」に関して、2004年に「アメリカ帝国主義の対日支配」は「アメリカに対する異常なまでの従属状態」に、日本「独占資本の人民支配」は「大企業による政府に対する強い影響力」に改められた。
 こうした変更を見ていると、大人用の文学作品を子ども用に易しく書き直した少年少女世界文学全集の類を思い出してしまう(「レ・ミゼラブル」は「あゝ無情」だった)。
 マルクス・レーニン主義→科学的社会主義独占資本→「大企業」などが典型的で、かつ(少年少女世界文学全集類と同様に)本質的には何も変わっていない(はずな)のだ。
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