レフとスヴェトラーナ、No.15。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.82-p.86.
**
第4章④。
(30) レフの配転は、Nikolai Lileev との友情のおかげだった。この人は、レフがフランクフルトからの護送車の中で会った受刑者だった。
Lileev は、ペチョラに着いたとき壊血病を発症していたので、彼ができる仕事は電力施設にだけあった。彼はそこで、電気グループの長のViktor Chikin に、レフを推薦した。
Chikin は、自分自身が受刑者だつた。
この人物は1938年に逮捕され、彼が監視していたVologda の発電所で火事が発生したことを理由として、ペチョラでの15年の判決を受けていた。
彼の技師としての専門能力が高く評価されたために、木材製造所での電力管理の責任に就くこととなった。
労働収容所にはChikin やStrelkov のような、専門家および管理者として働く多数の収監者がいた。
1946年には実際に、木材製造工場の生産側の責任ある地位の半数以上を、受刑者が占めていた。
Lileev による推薦は、好都合のときに行われた。
木材製造は、生産目標よりもはるか下に落ち込んでいた。
それには、電力不足という特有の問題がからんでいた。発電施設は、乾燥所、製材所および作業所に、必要な量の半分以上の電力を供給することがだきなかった。(木材を燃やしての蒸気エンジンで動く)三機の発電機は、その本来の能力である700キロワットの四分の一しか機能しておらず、経常的に故障した。
事故や火事が頻繁に発生した。かつまた、慢性的に、電気工、技師、機械工、化学者の需要があった。
生産力を増大させるために、MVD は、収監者の中から212名の専門家を募集または訓練することを決定した。
レフは、そのうちの一人になった。
(31) 発電施設で働くことは、収監者にとって特権的な地位だった。
収容所の標準からすれば易しい場所で、 〔川からの樹木の—秋月〕引き揚げ部隊の背骨が折れるような労働とはかけ離れた世界だった。
ふつうの12時間労働ではなく、8時間交替制だった。これは、管理当局が、疲労によって事故が生じる可能性を削減するためにとった措置だった。
業務に就く者たちには、工場の稼働を監督し、修繕を行うこと以外にすることがほとんどなかった。そのため、彼らは余った時間で、手紙を読み書きし、カード、ドミノやチェスで遊ぶことができた。
発電所はいつも暖かく、 給炭工や機械工のためのシャワー室があった。そこでレフは、身体や衣類を熱い湯で洗うことができた。—これは、しばしば衣類が盗まれ、水の冷たい洗い場まで行く必要がなかったので、大きな利点だった。
発電施設には監視員がおらず、収監者が作業をするための護送車もなかった。それで、レフと電気グループの友人たちは、工業地域を自由に動き回ることができた。
レフたちは、発電施設のそばの家屋で生活している自発的労働者を訪れることができた。また、他の収監者用の境界の外にある木材製造所のクラブ・ハウスへも行くことができた。そこでは映画が上映され、ラジオ(ペチョラ収容所局にのみ周波数が合った)があり、近傍の店舗から購入することのできるウォッカやタバコがあった。
仕事を終えて宿舎に帰る途中でStrelkov の実験室に、彼らの友人たちに会いに立ち寄ることもできた。さらに、好むがままに、営舎区域の内外を通ることも。
Lileev は思い出す。
「営舎と他の工業地域の間にある監視舎を通り抜けるとき、我々がしなければならないのは、後ろ名前と収監者番号を言うことだけだった。
一人の監視員が、出た時刻と戻ってきた時刻を、特別の机の上に置いてあった記録帳に記入したものだ。
ときどき監督者がもっと厳しくしようとしたけれども、全てがまったく寛大(relax)だった。」
(32) 1946年の秋、レフは昼間交替制で、朝の8時から働いていた。
彼は他の収監者たちよりも遅くその仕事を始めるので、彼らよりも後で6時に起床し、鉄道地帯の監視員が労働護送車を数えている間に食堂で朝食を摂った。
護送車の多くは一時間かかって作業場へと送り届け、のちにまた一時間で帰ってきた。
しかし、レフは歩いて8分で、仕事場へ行った。
昼食は、発電施設で業務をしている間に、届けられた。
機械類が稼働しているのを監視することだけが仕事の間に、レフは、スヴェータあての手紙をつづった。
10月30日に、彼はこう書いた。「今まさに僕の隠れ部屋で、昼間の動揺は全くなく、落ち着いています」。
「昼間の仕事が終わります。明日まで、することはありません。
一時間で、交替の労働者が来るでしょう。
機械類の物音越しでなければ、きみは自分の声を聴くことができない。でも、困ってはいません。僕は、慣れました。
窓を通して暗くて青い黄昏の光が見えますが、一時間前に黒い夜に変わりました。いまは暗闇が、ペチョラの主宰者です。」
調整室には換気装置がなかった(「蒸し風呂(banya)のようです。—熱くて、湿って、もうもうとしている」)。そのために、紙を乾いた状態で保つことが、一つの問題だった。
しかし、営舎で夜に書くのに比べれば、発電施設で手紙を書くのは容易だった。営舎では収監者たちの喧騒が調整室の機械類よりも耳障わりだった。また、天井からぶら下がっている白熱電球の光は、レフがスヴェータに説明したように、「うすぼんやりとした黄色で、テーブル上の灯油夜間灯なしでは、書くのがむつかしいでしょう」というものだった。
(33) レフは、仕事の後は、夕食と就寝前の最終点呼まで、自由だった。
通常は彼は、この貴重な時間を実験室で過ごした。そこには、電気グループの友人たちをもてなすことの好きなStrelkov がいた。
9月2日、レフはスヴェータにあてて書いた。
「仕事が終わった瞬間から、僕は実験室の主人のもてなしを楽しんでいます。
僕は、壺、秤、フラスコと試験管の文化的かつ「科学的」な周囲の中に座っています。そして、スピーカーから流れるマズルカの音にだけ邪魔されながら、全くの静けさの中で、愉快に、きみあての手紙を書いています。」
Strelkov は、みんなが彼の若き崇拝者である電気技師たちをとくに好んだ。
Lileev は、「実験室で過ごす時間は、我々の生活で最も幸せなものだった」と思い出す。
「我々は、彼の実験室に行ける、どんな機会も利用しました。
しばしば実験室で、昼食休憩時間の全部を使いました。
ときどきは(我々の仕事の交替時間が同じであれば)、我々の誰かの誕生日か何かの記念日には、そこで何とか逢うようにすらしました。」
Strelkov の実験室は、彼らの手紙、小荷物その他の貴重な所持品を隠して貯めておく安全地帯(refuge)だった。そうしなければ、監視員が、または営舎内の仲間たちが、盗んでしまっていただろう。
またそこは、収容所の苛酷かつ退屈な生活条件から逃れる、数時間の安息所になっていた。
電気技師たちは、そこへ行って飲み、タバコをふかし、ラジオの演奏会に周波数を合わせ、カードやチェスで遊び、手紙を読んだり書いたりし、あるいはたんにStrelkov の話に耳を傾けたりした。
レフはスヴェータに、Strelkov は「彼が読んできたあらゆる種類の情報、事件、事象や事物に関して途方もなく知っている、話し上手だ」、と説明した。「僕は口を開けて、彼の話を傾聴している」。
(34) Strelkov の実験室に定期的に集まったのは、6人の電気技師だった。
そのうち一人は、レフと営舎が同じのLiubka Terletsky で、この人物は、発電施設の昼間体制でレフとともに働いていた。
レフは、Terletsky との付き合いを楽しんだ。
彼は、この若きウクライナ人を守りたく感じていた。Terletsky の健康は、ペチョラですでに過ごした6年の間に損なわれていた。
「Liubka は素晴らしい、とても特別な少年だ」と、11月15日にレフはスヴェータに書き送った。
「彼は24歳くらいに見え、聡明で、ユーモアの感性と愉快な性格をもっている。
彼はLvov の学生だったとき物理学を勉強し、自分で電気技術について学んだ。…
ロシア文学を愛しており、ポーランド語を読めないのを寂しがっている。…
彼はたくさんのことを体験した。きみが彼に語りかけたら、彼はいつでも気に掛けていたのに、6年の間、自分の両親に手紙を出そうとしなかった理由が分かるだろう。
彼はとても穏健で、誠実で、上品な性格だ。でも、いま以上のことを自分に要求している。
彼は今では希望をすっかり失っているように見える。そして、誰かがここに来たとしても、『自分の全体を作り直すことはできない』と考えているように思える。
ときどき彼が語るのを聞いていると、自分自身が語るのを聞いているように思う。
彼は、僕の考え方には論理がある、と言う。
でも、僕が生きることができる論理は、スヴェータ、きみの手紙の中に含まれている。」
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第4章④、終わり。同⑤へとつづく。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.82-p.86.
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第4章④。
(30) レフの配転は、Nikolai Lileev との友情のおかげだった。この人は、レフがフランクフルトからの護送車の中で会った受刑者だった。
Lileev は、ペチョラに着いたとき壊血病を発症していたので、彼ができる仕事は電力施設にだけあった。彼はそこで、電気グループの長のViktor Chikin に、レフを推薦した。
Chikin は、自分自身が受刑者だつた。
この人物は1938年に逮捕され、彼が監視していたVologda の発電所で火事が発生したことを理由として、ペチョラでの15年の判決を受けていた。
彼の技師としての専門能力が高く評価されたために、木材製造所での電力管理の責任に就くこととなった。
労働収容所にはChikin やStrelkov のような、専門家および管理者として働く多数の収監者がいた。
1946年には実際に、木材製造工場の生産側の責任ある地位の半数以上を、受刑者が占めていた。
Lileev による推薦は、好都合のときに行われた。
木材製造は、生産目標よりもはるか下に落ち込んでいた。
それには、電力不足という特有の問題がからんでいた。発電施設は、乾燥所、製材所および作業所に、必要な量の半分以上の電力を供給することがだきなかった。(木材を燃やしての蒸気エンジンで動く)三機の発電機は、その本来の能力である700キロワットの四分の一しか機能しておらず、経常的に故障した。
事故や火事が頻繁に発生した。かつまた、慢性的に、電気工、技師、機械工、化学者の需要があった。
生産力を増大させるために、MVD は、収監者の中から212名の専門家を募集または訓練することを決定した。
レフは、そのうちの一人になった。
(31) 発電施設で働くことは、収監者にとって特権的な地位だった。
収容所の標準からすれば易しい場所で、 〔川からの樹木の—秋月〕引き揚げ部隊の背骨が折れるような労働とはかけ離れた世界だった。
ふつうの12時間労働ではなく、8時間交替制だった。これは、管理当局が、疲労によって事故が生じる可能性を削減するためにとった措置だった。
業務に就く者たちには、工場の稼働を監督し、修繕を行うこと以外にすることがほとんどなかった。そのため、彼らは余った時間で、手紙を読み書きし、カード、ドミノやチェスで遊ぶことができた。
発電所はいつも暖かく、 給炭工や機械工のためのシャワー室があった。そこでレフは、身体や衣類を熱い湯で洗うことができた。—これは、しばしば衣類が盗まれ、水の冷たい洗い場まで行く必要がなかったので、大きな利点だった。
発電施設には監視員がおらず、収監者が作業をするための護送車もなかった。それで、レフと電気グループの友人たちは、工業地域を自由に動き回ることができた。
レフたちは、発電施設のそばの家屋で生活している自発的労働者を訪れることができた。また、他の収監者用の境界の外にある木材製造所のクラブ・ハウスへも行くことができた。そこでは映画が上映され、ラジオ(ペチョラ収容所局にのみ周波数が合った)があり、近傍の店舗から購入することのできるウォッカやタバコがあった。
仕事を終えて宿舎に帰る途中でStrelkov の実験室に、彼らの友人たちに会いに立ち寄ることもできた。さらに、好むがままに、営舎区域の内外を通ることも。
Lileev は思い出す。
「営舎と他の工業地域の間にある監視舎を通り抜けるとき、我々がしなければならないのは、後ろ名前と収監者番号を言うことだけだった。
一人の監視員が、出た時刻と戻ってきた時刻を、特別の机の上に置いてあった記録帳に記入したものだ。
ときどき監督者がもっと厳しくしようとしたけれども、全てがまったく寛大(relax)だった。」
(32) 1946年の秋、レフは昼間交替制で、朝の8時から働いていた。
彼は他の収監者たちよりも遅くその仕事を始めるので、彼らよりも後で6時に起床し、鉄道地帯の監視員が労働護送車を数えている間に食堂で朝食を摂った。
護送車の多くは一時間かかって作業場へと送り届け、のちにまた一時間で帰ってきた。
しかし、レフは歩いて8分で、仕事場へ行った。
昼食は、発電施設で業務をしている間に、届けられた。
機械類が稼働しているのを監視することだけが仕事の間に、レフは、スヴェータあての手紙をつづった。
10月30日に、彼はこう書いた。「今まさに僕の隠れ部屋で、昼間の動揺は全くなく、落ち着いています」。
「昼間の仕事が終わります。明日まで、することはありません。
一時間で、交替の労働者が来るでしょう。
機械類の物音越しでなければ、きみは自分の声を聴くことができない。でも、困ってはいません。僕は、慣れました。
窓を通して暗くて青い黄昏の光が見えますが、一時間前に黒い夜に変わりました。いまは暗闇が、ペチョラの主宰者です。」
調整室には換気装置がなかった(「蒸し風呂(banya)のようです。—熱くて、湿って、もうもうとしている」)。そのために、紙を乾いた状態で保つことが、一つの問題だった。
しかし、営舎で夜に書くのに比べれば、発電施設で手紙を書くのは容易だった。営舎では収監者たちの喧騒が調整室の機械類よりも耳障わりだった。また、天井からぶら下がっている白熱電球の光は、レフがスヴェータに説明したように、「うすぼんやりとした黄色で、テーブル上の灯油夜間灯なしでは、書くのがむつかしいでしょう」というものだった。
(33) レフは、仕事の後は、夕食と就寝前の最終点呼まで、自由だった。
通常は彼は、この貴重な時間を実験室で過ごした。そこには、電気グループの友人たちをもてなすことの好きなStrelkov がいた。
9月2日、レフはスヴェータにあてて書いた。
「仕事が終わった瞬間から、僕は実験室の主人のもてなしを楽しんでいます。
僕は、壺、秤、フラスコと試験管の文化的かつ「科学的」な周囲の中に座っています。そして、スピーカーから流れるマズルカの音にだけ邪魔されながら、全くの静けさの中で、愉快に、きみあての手紙を書いています。」
Strelkov は、みんなが彼の若き崇拝者である電気技師たちをとくに好んだ。
Lileev は、「実験室で過ごす時間は、我々の生活で最も幸せなものだった」と思い出す。
「我々は、彼の実験室に行ける、どんな機会も利用しました。
しばしば実験室で、昼食休憩時間の全部を使いました。
ときどきは(我々の仕事の交替時間が同じであれば)、我々の誰かの誕生日か何かの記念日には、そこで何とか逢うようにすらしました。」
Strelkov の実験室は、彼らの手紙、小荷物その他の貴重な所持品を隠して貯めておく安全地帯(refuge)だった。そうしなければ、監視員が、または営舎内の仲間たちが、盗んでしまっていただろう。
またそこは、収容所の苛酷かつ退屈な生活条件から逃れる、数時間の安息所になっていた。
電気技師たちは、そこへ行って飲み、タバコをふかし、ラジオの演奏会に周波数を合わせ、カードやチェスで遊び、手紙を読んだり書いたりし、あるいはたんにStrelkov の話に耳を傾けたりした。
レフはスヴェータに、Strelkov は「彼が読んできたあらゆる種類の情報、事件、事象や事物に関して途方もなく知っている、話し上手だ」、と説明した。「僕は口を開けて、彼の話を傾聴している」。
(34) Strelkov の実験室に定期的に集まったのは、6人の電気技師だった。
そのうち一人は、レフと営舎が同じのLiubka Terletsky で、この人物は、発電施設の昼間体制でレフとともに働いていた。
レフは、Terletsky との付き合いを楽しんだ。
彼は、この若きウクライナ人を守りたく感じていた。Terletsky の健康は、ペチョラですでに過ごした6年の間に損なわれていた。
「Liubka は素晴らしい、とても特別な少年だ」と、11月15日にレフはスヴェータに書き送った。
「彼は24歳くらいに見え、聡明で、ユーモアの感性と愉快な性格をもっている。
彼はLvov の学生だったとき物理学を勉強し、自分で電気技術について学んだ。…
ロシア文学を愛しており、ポーランド語を読めないのを寂しがっている。…
彼はたくさんのことを体験した。きみが彼に語りかけたら、彼はいつでも気に掛けていたのに、6年の間、自分の両親に手紙を出そうとしなかった理由が分かるだろう。
彼はとても穏健で、誠実で、上品な性格だ。でも、いま以上のことを自分に要求している。
彼は今では希望をすっかり失っているように見える。そして、誰かがここに来たとしても、『自分の全体を作り直すことはできない』と考えているように思える。
ときどき彼が語るのを聞いていると、自分自身が語るのを聞いているように思う。
彼は、僕の考え方には論理がある、と言う。
でも、僕が生きることができる論理は、スヴェータ、きみの手紙の中に含まれている。」
**
第4章④、終わり。同⑤へとつづく。