秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1922年

2591/R・パイプス1994年著第9章第五節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第五節・レーニンの孤立③。
 (12) 官僚機構上の小さな敗北、そしてレーニン・トロツキー連合という妖怪。これらは三人組に警戒を促した。彼らが生き残るには、政府案件からレーニンを完全に隔絶することが必要だった。
 トロツキーが勝利した12月18日〔1922年〕、スターリンとカーメネフは中央委員会総会で、レーニンの健康と摂生に関する権限をスターリンに全権委任する決定を獲得した。
 スターリンがその秘書のLydia Fotieva に伝えたように、この決定はきわめて重要な意味をもった。その条項はつぎのとおり。
 「同志スターリンに対して、共産党員との接触と文通のいずれについても、Vladimir Ilich Lenin の隔離(isolation,〈izoliatsiiu〉)に関する個人的な責任を付与すること」。(注142、/
 スターリンの指示によると、レーニンは短い時間ごとに仕事をし、そのうちの一人はスターリンの妻のN. I. Allulieva である秘書たちに、口述筆記させることができた。
 これは驚くべき方法で、レーニンと彼の妻を精神的無能者として扱うものだった。
 レーニンはただちに、中央委員会は医師団の助言にもとづいて決定しておらず、反対に、医師団にどう語るべきかを伝えている、と疑った。(注143)//
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 (13) レーニンは、その中心にスターリンがいるとますます疑った、その計略の罠に嵌ったと感じて、助けを求めてトロツキーへと向かった。トロツキーもまた、同様の窮地にいた。
 トロツキーによると、我々にはこの彼の言葉しか手がかりがないのだが、レーニンは、ソヴナルコムの副議長の地位を受諾するようもう一度彼に要請した。—12月前半のいつかの私的な会話のことで、二人が直接に接触した最後となった。
 しかし、トロツキーが言うには、この場合はレーニンはさらに進んで、官僚機構一般に、とくに組織局に対抗する「陣営」(bloc)に彼も加わるよう求めた。
 トロツキーはこれを、スターリンに対抗する連合(coalition)を意味していると理解した。(注144)//
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 (14) 1922年12月15-16日の夜、レーニンは、二度めの発作を起こした。その後、医師団は強制的な休息と全ての政治的活動の自制を命令した。
 レーニンは、服従を拒んだ。(注145)
 彼は、完全な身体的無能力になる、また、あり得る死の危機に瀕していると感じた。そして、全てを良い状態で残すのを確実にしたいと思った。
 12月22日、話す力を失ったときは青酸カリを渡すようにFotieva に頼んだ。(注146)
 レーニンは五月に早くもスターリンに似たような頼みをしていた。これは、彼はスターリンに特別の信頼を寄せていた証拠だと、Maria Ulianova が理解する事実だ。(*)//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198. 彼女の叙述は、スターリンの命令に応えたブハーリンの依頼で書かれた。また、ブハーリンの手書き文書も残されていており、真実性にはある程度の疑問を生じさせる。Rogo vin, Byla li, p.71.
 トロツキーは、殺害される直前の1939年に、1923年2月の政治局会議での出来事を思い出した。その会議でスターリンは邪悪な目つきをして、レーニンが希望のない状態を終わらせるために自分に毒を求めた、と報告した。L. D. Trotsky, Portrety (1984), p.45-49.
 トロツキーはその生涯の最後に、レーニンは書記長〔スターリン〕が与えた毒で死んだと信じていたようだ。Houghton Library, Harvard Uni,, Trotsky Archive, bMS Russian 13 T-4636, T-4637, T-4638.
 トロツキーの主張には不誠実なところがあった。なぜなら彼は、レーニンの血液には毒素の痕跡はなかった、とする検死結果を知らせるDzerzhinskii からの電話を受ける地位にあったからだ。RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 322.
 Fotieva によると、スターリンはレーニンに決して毒を与えなかった。MN, No. 17 (1989.4), p.8.
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 (15) 12月21日、レーニンは秘書たちを信頼できなかったようで、妻のKrupskaia にトロツキーへの暖かいメモを口述した。それは、「一発の砲弾も打つことなく戦術的妙計だけでもって」外国通商の独占をめぐる闘いに彼が勝利したことを祝うものだった。
 彼はトロツキーに、攻撃を強めるよう強く迫った。(注147) 
 このメモの内容は、すみやかにスターリンに伝えられた。彼は今では、レーニンとトロツキーが自分に対抗する勢力に加わっているという疑いに確信をもった。
 彼はその翌日に、Krupskaia に電話をかけ、彼女の夫の口述ををしたのは党の権限でもって自分が決めた摂生方法に違反していると、激しく叱責した。そして、中央統制委員会の調査にかける、と彼女を脅かした。
 電話が終わったあと、Krupskaia は激怒の発作に陥り、泣きながら床を歩き回った。(注148)
 その夜〔12月22日〕、彼女が夫にこの出来事を告げる前に、レーニンはさらにもう一回、発作を起こした。 
 Krupskaia はカーメネフに対して、党員であった全期間を通じて誰もスターリンがしたようには自分に話しかけなかった、と書き送った。
 自分以上に誰が、夫の健康の世話をするのか?、彼にとって良いことを自分以上に誰が知っているのか?(注149)
 スターリンは、この手紙について知らされて、Krupskaia に電話をして詫びるのが分別ある態度だと考えた。しかし、カーメネフと相談をして、レーニンの隔離を実行すべくいっそう警戒する措置をとった。
 12月24日、政治局(ブハーリン、カーメネフ、およびスターリン)の指示に従って、医師団はレーニンに対して、口述の時間を一日に5分ないし10分に限定するよう命じた。
 彼の口述は回答を必要とする意向伝達ではなく、個人的なメモ書きだと見なされることとされた。これは、レーニンが国家の諸問題に介入したり、トロツキーに通信したりするのを禁止する、巧妙な方策だった。
 指示書には、こうある。「いかなる友人も家族も、レーニンに考察や興奮の素材を与えないように、政治生活に関してはいっさい彼に伝えてはならない」。(注150)
 かくして、健康を守るためという装いのもとで、スターリンとその仲間たちは、レーニンを事実上は家屋内監禁の状態にした。(+)
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 (脚注+) この措置には30年後に奇妙な反応があった。1952年の秋、スターリンの医師は彼が健康でないと知り、ただちに全ての仕事をやめるよう迫った。スターリンは、おそらく先例を忘れておらず、その医師の逮捕を命じた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1), p.9.
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 (16) レーニンは、その政治的習癖への高い対価を払っていた。
 20年間、彼はその同僚たちを支配してきた。だが今や、彼らは権力を味わい、自分たちが権力を握ろうと焦っていた。
 彼らは、党内につぎのようなつぶやきを流布する運動をして、静かなクー・デタに至ることを正当化した。「老人」とは連絡が取れない、彼は精神状態が正常ではない。(注151)
 トロツキーは、不誠実にも、この運動に加わった。
 1923年1月、レーニンは迫っている党大会に備えてPravda 用に論文を書いた。その中で彼は、党の分裂の可能性について懸念を述べ、これを阻止する方策を提案した。(注152)
 政治局と組織局は合同会議を開き、一般党員に衝撃を与えそうな論文の公表の是非を、長々と議論した。党員からは、指導部との不一致は語られてないなかったのだ。
 レーニンは自分の論文が掲載された〈プラウダ〉を見たいと要求していたので、V. V. Kuibyshev は、レーニンが目にする一部だけの発行を提案した、
 結局、政治局の会議には中央統制委員会(TsKK)の代表者が同席すべきだとする一節を除いて、論文は公表されると決定された。中央統制委員会は、とりわけ書記長を含む、どの「有名人たち」の影響下にもなかった。(注153)
 同時に、指導部は論文の潜在的に有害な影響を弱めるために、地方や地区の党組織に対して、秘密の回覧書を配布した。
 1月27日付のその文書は、トロツキーが起草し、スターリンを含む政治局と組織局のメンバーが手書きで署名した。そして、レーニンの体調は良くなく、政治局の会議に出席することができない、と忠告するものだった。
 このことから分かるのは、実際には党が分裂する危険性は少しもなかった、ということを、レーニンは認識していなかった、ということだ。
(注154)
 この文書の内容を知ったならば、レーニンは、ニコラス二世が退位を強いられた後で日記に書いた言葉を思い出したかもしれない。
 「あたり一面、裏切り、臆病、欺瞞ばかりだ!」。//
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 (17) トロツキーが協力した褒賞として、スターリンは彼に対して1月に、VSNKh(最高経済会議)またはGosplan(国家計画委員会)のいずれかを所管する〈zamy〉の職をもう一度提示した。
 トロツキーは、再び断わった。(注155)//
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 (18) レーニンは、追いつめられた動物のように抵抗した。
 発作の間の明晰なときに三人組がしていることを知り、それに対抗する大きな運動を準備した。
 明らかにそうできる状態ではなかったけれども、トロツキーの助けを借りて、3月に予定されている第12回党大会で、国の政治的および経済的運営の劇的な変化を貫徹しようとした。
 トロツキーは、この闘いの当然の同盟者だった。彼もまた、政治的に孤立していたからだ。
 かりにレーニンが成功していたならば、スターリンの経歴は大幅に後退していただろう。破滅しはしなかったとしても。//
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 後注
 (142) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo, list 88.
 (143) Lenin, PSS, XLV, p.485.
 (144) L. Trotsky, The Real Situation in Russia (1928), p.304-5; Moia zhizn', II, p.215-7.
 (145) Khronika, XII, p.542-3.
 (146) Maria Ulianova in IzvTsK, No. 6/317 (1991), p.190.
 (147) Lenin, PSS, LIV, p.327-8.
 (148) Ulianova in IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (149) Lenin, PSS, LIV, p.674-5.
 (150) Ibid., XLV, p.710.
 (151) Leon Trotskii in Biulleten Oppozitsii, No. 46 (1935), p.4.
 (152) Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (153) Pravda, No. 16 (1923.1.25), p.1. PSS, XLV, p.387を参照。
 (154) 初出は、IzvTsK, No. 11/298 (1989.11), p.179-180.
 (155) Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n-199n.
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 第9章第五節、終わり

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
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 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
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 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
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 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
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 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
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 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
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 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
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 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
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 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
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 ③へと、つづく。

2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
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 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
 ——
 第9章第四節、終わり

2178/折口信夫「神道の史的価値」(1922)。

 折口信夫全集第02巻-古代研究(民俗篇1)(中公文庫、1975)より。
 折口信夫「神道の史的価値」(1922年1月)。p.161~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。1922年=大正11年。
 ***
 「…。所謂『官の人』である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言わねばならぬ。」
 「併しながら此の方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。
 又其筋すじの人たちにしても、其辺の考えは十二分に持ってかかっているはずである。
 だが、此の調子では、やがて神職の事務員化の甚だしさを、嘆かなければならぬ時が来る。
 きっと来る。
 収斂の臣を忌んだのは、一面教化を度外視する事務員簇出の弊に堪えないからと言われよう。
 政治の理想とする所が、今と昔とで変わって来て居るのであるから、思想方面にはなまじいの参与は、ない方がよいかもしれぬ。
 唯、一郷の精神生活を預かって居る神職に、引き宛てて考えて見ると、単なる事務員では困るのである。
 社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数えきれぬ程の魂を托せられて居るという自覚が、持ち続けられなければならぬ。<中略>
 …其氏子・信者の心持ちの方が、既に変わって了うて居る。
 田園路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかった。」
 「世間通になる前に、まず学者になって頂きたい。
 父、祖父が、一郷の知識であった時代を再現するのである。」
 「こうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとっては、『宮守りから官員へ』のお据え膳は、実際百日ひでりに虹の橋であった。
 われひと共に有頂天になり相な気がする。
 併し、じっと目を据えて見回すと、一向世間は変わって居ない。
 氏子の気ぐみだって、旧態を更めたとは見えぬ。
 いや其どころか、ある点では却って、悪くなってきた。
 世の末々まで見とおして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなった。
 閑却せられていた神人の力を、借りなければならぬ世になった、ということに気のついたのは、せめてもの事である。
 だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。
 自然にせり上がって来たものでないだけ、どうしても無理が目立つ。」
 「我々は、こうした世間から据えられた不自然な膳部にのんきらしく向かう事が出来ようか。
 何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたえぬだけの用意がいる。
 其用意をもって、此潮流に乗って、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。
 当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。」
 ***

-0016/日本共産党綱領を瞥見してみると面白く、楽しい。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、東アジアには中国・北朝鮮・ベトナムがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは社会主義経済・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 日本共産党もHPをもつことを今年になって知ったが、そこにある2004年改正同党綱領にはまず「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とあるが、ここですでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と述べる方がより正確だ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年綱領・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 共産主義、コミュニズムへの批判は絶えず意識的に行うべきだ。とくに共産党が現に活動している国では。
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