同・マスメディア報道のメソドロジーというブログサイトから、この人物の論述にある<突っ込みどころ>を指摘しておこう。読者は、一見は華麗な?論理的を装う叙述にごまかされてはいけない。
今年3月18日付・「文書改竄問題の議論に騙されないための論理チェック」。
第一。<安倍総理は「私や妻が関係していたら総理も国会議員も辞める」と言った。>ということからする某野党議員の推論を「誤った論証構造」だ等と批判している。
この中で藤原は、のうのうとこう言う。-「安倍首相の『関係していたら』の意味は、『首相あるいは国会議員としての権力を使っていたら』の意味であることは自明です」。
はたして「自明」のことなのかどうか。いつぞやも書いたが、「関係する」という語自体は、(政治・行政)権力を用いる、というような限定的な意味ではうつうは用いないのがむしろ自明のことで、その限定された趣旨ではなく広く、ふつうに理解されたとすれば、発言者自身の言葉遣いが問題になるだろう。
藤原にとって「自明のこと」が万人に取って「自明のこと」ではないこともある。
そのような謙虚さを欠如させた、そして別の論理的可能性を無視した、たんなる藤原の「思い込み」にすぎない可能性がある。
第二。藤原によるとどうやら客観的に誤った報道は「誤報」で、悪意のある誤りによる誤報は「虚報」なのだそうだ。そんなに勝手に、この二つの語の意味を決めてもらっても困る。そのように理解して用いるのは自由だが、第三者にそのような違いがあるものとして両概念を用いよ、というのは傲慢だ。
したがってまた、藤原によると、(決裁文書の)「書き換え」と「改竄」は悪意の有無によって区別すべきで、安直に後者を用いるべきではない、という。後者はすでに一定の価値評価がなされている言葉だ、という。
趣旨は分からなくはないが、しかし、では、悪意のない「書き換え」というのはあり得るのか。「書き換え」が意識的になされていればやはり「悪意」によると言い得るのであって、「改竄」と何ら本質は変わらないとも言える。
こんな言葉争いは、あるいは言葉の使い方を自分の感じるとおりにせよという文句のつけ方は、やはり傲慢だろう。
第三。「関係」とか「改竄」と違って、「行政文書」および「決裁文書」は、法制上の概念だ。おそらく藤原もこの点はおさえているようだ。何らかの法令・行政内部基準による実務において問題になるこれらと、「関係」とか「改竄」とか、特段の明確な意味が法制上示されていない場合とを、きちんと分けなければならない。
第四。藤原は、つづけて「『実行責任』と『結果責任』という言葉も分けて考える必要」がある、と言いはじめる。
このあたり、たぶん藤原は、十分な知識が欠落しているか、非専門家であることを暴露する常識的な言い回しをしている。
麻生財務大臣が書き換えを指示していれば「実行責任」が、指示していなければ「結果責任」がある、という。
部下のミスは上司の、又はその部下が帰属する団体の、いかなる「責任」を生じさせるか。「結果責任」という語はあるだろうが、法学・不法行為の世界では「実行責任」なる概念は聞いたことがない。
藤原は知らないのだろうが、不法行為上の(民事)責任につき、民法715条1項は「被用者の選任・監督」に「相当の注意」をした場合でないかぎりは、使用者が被用者によって第三者に生じさせた損害につき賠償義務を負う旨を定める。
しかし、同規定をもつ民法の特別法とされる国家賠償法は、国家公務員個人の職務上の不法行為につき「国」自体には上の免責要件なく、直接に賠償義務を負うと定めている(と解釈されている)。
「結果責任」というのは、例えば後者のような場合にこそ使われる概念であって、藤原のいうような、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」には<結果責任>も免ずべきという主張は、おそらく、法学上の概念用法には少なくとも適応したものではない。
なお、「責任」とか「結果責任」という語には法学・政治学等の豊富な実例・蓄積があるのであって、上は一例にすぎない。藤原は、いわば<責任論>を学修したことがないのだ。
「実行責任」のほかに、この意味では「結果責任」もまた藤原の造語であって、藤原のいう意味で第三者も用いるべきだ、ということにはならない。
ここで藤原は「実行責任」もなく上の限定付きの「結果責任」もなければ麻生財務大臣は辞任する必要はない、という脈絡で、上の二つを使っている。
何やら見知らぬ?専門的概念を使って深遠なことを述べていると読む人もいるのかもしれないが、この部分では要するに、藤原かずえは、麻生財務大臣は辞任する必要などはない、という「政治的」主張をしているのに他ならない。
さらに、「責任」といっても種々のものがあるが、書き換えであっても改竄であっても財務大臣の「責任」がないわけではないことはむしろ常識的だ。したがって、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」を除くといった主張の仕方もかなり「政治的」で、通用しない議論だろう。
大臣としていかに個人的な落ち度はなくとも、財務省内の(とりわけ職務執行にかかる)非違行為に対する責任は、大臣にある(上司である事務次官にだってある)。
藤原は、安倍晋三首相が<行政(権)の長として責任を深く感じている>と明言していることを知っているだろう。
むろん、この「責任」は辞職・辞任につながるようなものであるのか、は別の話。
藤原かずえによる「論理チェック」一般がすべて奇妙だとは思わないが、しかし、現実的な話としては、立憲民主党等の<反アベの攻撃>の理屈・論法にのみ対象を絞ったのでは、たんなる野党たたきと安倍ガードになるだけだ。
この人に、本当に言説の「論理」のごまかしを見抜く力があるのであれば、日本共産党が日刊赤旗や月刊前衛等で書いていることや日本会議あるいは櫻井よしこ等の言説を検討して、<論理破綻>や<論理矛盾>あるいは<論理一貫性のなさ>を分析してほしいものだ。