秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

鳩山由紀夫

1822/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文②。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)。
 この邦訳書の冒頭にある著者自身による「日本語版のための序文」で、A・ブラウンはさらにこんなことも書いている。一文ごとに改行する。
 ③(第四段落冒頭)「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である、より一層意義深い理由がある。
 今日のヨーロッパには共産主義国家は一つも残っていないが、現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる
 つまり、キューバはここでは措くとして、中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮である。
 いくつかの共通の特徴はあるとしても、共産主義は異なった時代に異なった場所で、まったく異なった現れ方を示した。
 類似点と相違点、いかに…を主要な話題として、以下のページで探っていく。」
 このあと中国と北朝鮮に関するやや立ち入った言及をしたあと、つぎのようにまとめている。
 ④「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である
 このことはとりわけ、世界最大の人口を擁し、遠からず世界最大の経済規模となる中国に当てはまる。//
 共産主義の歴史--革命と戦争、悲劇と勝利、失敗と成功、イデオロギーの信奉者と殺戮者--は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう
 アジアの近隣に共産主義国家が存在することもあって、本書は今日のための洞察を含んでおり、また、過去への省察を提供するのみならず、未来への思索を誘発するであろう。
 本書が日本語に翻訳されることは私にとって大きな喜びである。」
 ** さて、上にある次の文章を、多くの日本人はそのとおりだと感じるだろうか。
 ・「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である」意義深い理由は、共産主義国家で「現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる」からだ。。
 ・「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である」。
 ・「共産主義の歴史は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう」。
 このように言われても、**それほどではありません、共産主義がさほど重要な主題だと感じていないしアジア近隣に四つの共産主義国家が現存しているという意識もないし、共産主義の歴史がさほど興味深いものとは思っていません**、という日本人の方が、知的産業・情報産業従事者も含めて、多いのではないだろうか。
 R・パイプス、S・フィツパトリクらは、日本共産党等も含めて日本のことをほとんど知らないし、日本国内での共産主義・ロシア革命等に関する議論を知らないままで、それぞれの研究をしてきただろう。
 それはA・ブラウンも同じで、日本国内のにある「異例な」<左翼>的雰囲気を-おそらく日本語が読解できないことを決定的な理由として-知らないままで、上のようなことを書いているのだろう。
 しかし、、欧米の「共産主義」研究者からするとおそらく、上のような推測が当然に生じてくるのに違いない。
 ソ連・東欧や欧米の「共産主義」史に詳しい日本以外の研究者にとっては、上のような指摘や推測は自然または当然であって、日本人の方がむしろ違和感を覚えるのだとすると、日本人の方が<奇妙>なのではないか、と思われる。
 <共産主義の恐ろしさ>を肌感覚では理解しておらず、中国も北朝鮮も海を隔てた<遠い国>であるかのごとく捉えられているのではないだろうか。
 そもそも、中国や北朝鮮のことを「非民主主義国」とか「党独裁国家」ということはあっても、日本人は、あるいは日本のメディアや論壇者は「社会主義国家」とか「共産主義国家」などと称すること自体がまずない(なお、日本共産党は北朝鮮は「社会主義国」ではないとする)。
 欧米のメディアや論壇者と比べて、どこか感覚が麻痺しているのではなかろうか。
 それは、日本に「社会主義(・共産主義)」幻想がまだ強く残り、日本共産党の存在もあって、公然と「社会主義」・「共産主義」を批判し難い雰囲気があるからだと思われる。
 「反共」はバカな「愛国・保守」の主張であって、理性的・知的な者は<日本会議的アホ>のような主張をするはずはない、という感覚の者もいるかもしれない。「反共」ではあるらしい<日本会議的アホ>も、江崎道朗らに見られるごとく、「共産主義」に関する知識・素養がまるでないのではあるが。
 A・ブラウンの日本人向け序文を読んで感じるのは、このようなもどかしさ、不思議さだ。
 <反共産主義>あるいはその意味での<自由主義>が、おそらく知的活動者にとっての<常識>になっている国と、そうではない国(日本、おそらく韓国も)の違いだろう。
 立ち入らないが、アメリカ合衆国を含むNATO締結国であることを当然のこととしていると思われる(ソ連解体後は例えばチェコも加入した)ほとんどのヨーロッパ諸国と、日米安保や日本の自衛隊の存在自体を危険視する意識をもつ勢力がなおもある程度存在し、あるいは「抑止力」を理解していませんでしたと平気で言える首相(鳩山由紀夫)がいた国との違いだ。
 D・トランプ現大統領は、R・パイプスのぶ厚い研究書を読んでいないかもしれない。
 しかし、この大統領も、R・パイプスの<共産主義の歴史>という一般人向けの簡潔な本くらいは読んでいて、<反共産主義>の基礎的な知識・常識くらいは持っているだろう。
 基礎的な知識・常識あるいは感覚レベルで、日本には独特の<雰囲気>があるようだ。
 いいも悪いもなく「現実」なのだから受忍する他はないが、このように指摘する者がいてもいけないということはないだろう。

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1183/<保守>論者は「左翼」民主党政権成立を許したことをどう反省し、自己批判しているのか。

 〇元首相・鳩山由紀夫が中国で妄言を吐いている。「棚上げ」で一致していたとかも言っているようだが、万が一そうだったとしても、尖閣諸島を「中核的利益」と正規に位置づけ、同諸島を自国領土とする法律を制定して、さらには「公船」をときどき侵入させたりして、そもそも「棚上げ」していないのは、中国(政府・共産党)自身ではないか。日本政府や日本のマスコミはなぜ、この点を指摘または強調しないのだろう。
 〇ずっと書きたくて書かなかったことだが、2009年8月末総選挙による翌月の民主党政権の成立を許し、鳩山首相を誕生させたことについての、<保守>論壇の側の深刻な反省と総括が必要だと思っている。安倍・自民党中心内閣が昨年末に誕生したからよいではないか、ということにはならない。
 いずれ繰り返すかもしれないが、この欄に当時に書いたように、例えば屋山太郎は明確に民主党政権誕生を歓迎し、外交・安保問題も心配することはないだろう旨を明確に発言していた。この屋山に影響を受けたか、櫻井よしこは、民主党内閣に<期待と不安が相半ば>する、と明言していた。選挙前において、櫻井よしこは、決して民主党に勝利させてはならないとは一言も主張していなかった。
 過去のことにのみ関係するわけではない。上はわずかの例だが、<保守>論者の現在および将来の主張が決して適切なものであるとは限らないことを、2009年総選挙前後の<保守>論壇の状況は示している。

 〇月刊WiLL7月号(ワック)で、渡部昇一はこんなことを(相変わらず)発言している。-「筋としては理想的な憲法を創り、国民に示して、天皇陛下に明治憲法への復帰(一分間でよい)と新しい憲法の発布をしていただく。…憲法の継承問題が起こらないから…」(p.55)。

 渡部昇一ら一部論者の現憲法無効・破棄論の「気分」は理解できないわけではない。但し、この欄で何度も書いたように、この議論はもはや貫徹できない。
 上の渡部発言にしても、誰が、いかなる機関が、いかなる手続によって「理想的な憲法を創り」出すのか、何ら論及していない。こんな議論がやすやすと通用するはずがない。またそもそも(確かめるのを厭うが)、渡部の主張は「国会」が無効・破棄宣言をする、というものではなかったか。
 天皇陛下に「お出ましいただく」とする点に新味があるのかもしれないが、現天皇に「新しい憲法発布の宣言」をしていただくという場合の「新しい憲法」を誰がどうやって創るかという問題に言及していないことは上記のとおりだし、現憲法は昭和天皇の名において「裁可し、公布せしめ」られたこと、今上天皇は皇位継承・即位に際して「日本国憲法にのっとり」と明確に述べられたこと、等との関係をどう整理しているのか、という基本的な疑問がある。

 <保守>論壇の中の大物らしく扱われている渡部昇一ですらこの程度なのだから、現在の日本の<保守>論壇のレベルは相当に低い(あえて言えば、論理の緻密さが足りず、某々のような「精神」論で済ませている者もいる)と感じざるをえない。

 そして再び上記のことに戻れば、「左翼」民主党政権成立をかつて許したことについて、各<保守>論者はどのように反省し、自己批判しているのかを厳しく問いたいところだ。

1077/産経新聞と櫻井よしこと遠藤浩一。

 〇「保守」概念、「保守主義」なるものの意味について考えている。これまでここで取り上げていない文献に言及したいこともある。だが、やや重たいテーマだ。あまり間隔を空けるのも問題なので(と勝手に感じている)、以下の程度でお茶を濁しておこう。
 〇産経新聞1/12櫻井よしこ連載「首相にもの申す」は、かなり興味深い。というのは、櫻井はこの文章の9割ほどをかけて、野田内閣の実績を評価し(「…評価すべき実績が見えてくる」)、同内閣に対する「期待」を語っているからだ。
 前者は①TPP交渉参加表明、②金正日死去の際の哀悼の意の不表明、後者は内閣改造によって「首相が税と社会保障の一体改革に伴う消費税増税に命運をかけた攻勢に出る」ということで、「党内の反対を考慮せず信ずるところを実行に移すのがよい」と述べている。「集団的自衛権の行使を決断」することへの期待も語っている。
 野田佳彦は民主党内「保守」派とされているようで、なるほどイメージとしては鳩山由紀夫や菅直人よりはましのようにも感じる。
 だが、こんなに評価し、期待してよいのだろうか。評価すべきとする①は論者によって(「保守」派論者の中でも)異なるだろうし、②は「当然といえば当然」なのではないか。
 また、もともと、産経新聞上での「期待」を野田はどれほど意識するだろうか、(消費税増税についても議論があるところだが)かりに妥当な内容であったとしても、どれほどの「応援」になるのだろうか、という気もする。産経新聞のスタンスとしては、民主党内閣に対しては、少なくとも<やや辛口>程度ではいるべきだろう。勝手な期待?だが、そうした期待?からすると、櫻井よしこの文章は、産経に期待するレベルを超えて民主党内閣に「甘い」。
 産経新聞1/16の「正論」欄の遠藤浩一の文章は、櫻井よしことはだいぶ論調が異なる。
 遠藤は、内閣改造による「社会保障と税の一体改革」への「不退転の決意」表明に(櫻井よしこの上記文章もあるが-秋月)世論も市場も冷たく、それは「こうした重要にして困難な政策を進めていく当事者能力および適格性が野田・民主党政権にあるのかという不信が払拭されていないからだろう」等と述べる。
 そして一番最後の文章は、「野田氏に期待するのは空しいということである」、となっている。
 櫻井よしこによる「期待」を意識して書かれたのではないだろうが(あくまで推測)、遠藤浩一のスタンスは櫻井とはかなり異なる。
 こういう違いが同じ産経新聞紙上で見られるのは興味深いことだ。そして、遠藤浩一の感覚の方が、私はまっとうだと思っている。 

1046/親北朝鮮・酒井剛の「市民の党」と菅直人・民主党。

 菅直人が存外にあっさりと首相を辞任したのは、北朝鮮と関係の深い団体への献金問題が明るみに出て、この問題が広く騒がれ出すと「もうもたない」と判断したかにも見える。もう少しは「粘る」=しがみつく可能性があると思っていた。
 その献金問題につき、隔月刊・ジャパニズム第03号(青林堂)に、野村旗守「菅直人/謀略の正体-亡国首相の原点を読み解く」、西岡力「菅直人首相の北朝鮮関連献金問題の本質」がある。
 両者から事実を確認しておくと、菅直人事務所と菅直人代表・民主党東京都連は2007-2009の三年間に、「市民の党」(後記)の「派生団体」(西岡p.146)である「政権交代をめざす市民の会」に6850万円の献金をした。また、鳩山由紀夫・小宮山洋子等の民主党国会議員の政治団体も計8740万円の献金をした。「市民の党」自体へも、上記三年間に小宮山洋子等の政治団体から計1693万円の献金があった。これらを合計すると、6850+8740+1693で、1億7283万円になる。野村p.70は「民主党関係団体」から三年間で「計2億5000万円も」と書いている。
 「市民の党」 は本名・酒井剛、通称?・斎藤まさしを代表とする。この男は除籍前の上智大学で「ブント系ノンセクト」ラジカル、退学後に「日本学生戦線」を結成、逮捕された1977年に社会市民連合の江田三郎(・のち江田五月)の選挙を手伝う。1979年に毛沢東主義を標榜する「立志社」を設立しカンボジアのポル・ポト派支援運動を展開、同年に社市連と社会クラブが合同した社会民主連合の初代代表・田英夫の娘と結婚する。1983年、田英夫・横路孝弘らと「MPD・平和と民主運動」を結成。野村によると、「過激派学生組織と市民派左翼政党の合体」だった(p.71)。
 MPD→「大衆党」→「新党護憲リベラル」のあと、1996年に酒井(斎藤)は「市民の党」を結成、1999年の広島市長・秋葉忠利、2001年の千葉県知事・堂本暁子、2006年の滋賀県知事・嘉田由紀子、2007年の参議院議員・川田龍平らの選挙を「勝手に応援」して結果としてすべて当選させた。
 「市民の党」機関紙は1988年に北朝鮮にいた田宮高麿のインタビュー記事を掲載したりしていたが、2011年4月の三鷹市議選候補として、田宮高麿と森順子(松本薫・石岡亮両名を欧州で拉致)を父母とする、2004年に日本帰国の森大志を擁立(落選)。
 かかる政治団体に対して民主党が三年間で1億円以上を、菅直人(都連を含む)がその「派生団体」に約7000万円を献金していたとは、相当に「いかがわしい」。また、そのような献金をする人物が日本国家の首相だったという歴然とした事実に、愕然とせざるをえない。まがうことなく、日本は「左翼」に乗っ取られていたのだ。
 江田五月は衆院議長・法相を経験し、横路孝弘は現在の衆院議長だ。酒井(斎藤)という「いかがわしい」人物は<権力>の側にいて、議会・選挙を通じた「革命」を展望しているらしい。あらためて戦慄する。
 恐ろしいのは、菅直人ら民主党による「市民の党」への献金問題は(それ自体は違法性が明瞭ではないためか?)、産経新聞・関西テレビの某番組とチャンネル桜しか報道していない(野村p.71)ということだろう。違法ではなくとも、菅直人や民主党の「左翼」性または親北朝鮮ぶりを明確に示すもので、ニュース価値はあると思うが、日本の主流派マスメディアは、自らが「左翼」的だからだろう、民主党には甘い。
 この問題を月刊正論はどう取り扱っているかと見てみると、10月号(産経新聞社)に、野村旗守「市民の党代表『斎藤まさし』の正体と民主党」、西岡力「拉致と『自主革命党』、そして『市民の党』の深い闇」と、同じ二人の論考が載っていた。ひょっとすれば、こちらを先に見ていたかもしれない(なお、北朝鮮の「自主革命党」に森大志は所属していた(いる)とされる。ジャパニズム上掲・西岡p.149-150におぞましい「綱領」?が紹介されている)。
 ところで、ジャパニズム第03号には、毎日新聞にも定期的に寄稿している西部邁の連載ものもある。さすがに「左翼」の文章ではないし、「民主主義を振りかざしてきた戦後日本は、多数制原則という民主主義のギロチンによって、おのれの首を刎ねようとしている」(p.168)という表現の仕方も面白い。
 但し、末尾にある「菅直人」の名前をもじった文章などは、言葉遊び的な要素の方が強い感じで、とても好感はもてない。

1042/昭和ヒトケタ世代・「少国民」世代ー再論。

 井沢元彦・日本史再検討(世界文化社、1995)p.110は、こう書いていた。
 「実は、私は日本のある世代に『偏見』を持っている。それは『昭和ヒトケタ』世代である。(昭和一〇年から一二年あたりの生まれの人々もこれに含む)この人たちは戦前の『超国家主義教育』の最大の犠牲者である。『お国のため』『天皇陛下のため』『死ぬのが正義』だと、年端もいかない頃に叩き込まれ、その気持ちが固まった頃に敗戦となり、今までの教育は一切まちがいだったと言われた。……お気の毒だとは思う。/しかし、この人たちのいう『歴史』や『民主主義』には、私はうなづけない点が多い。小さい頃に受けた『心の傷』が、一種の『ゆがみ』になってていて、本物ではない気がするのだ。……」。
 小林よしのりの近年の論調は奇妙なところがあり、日本の歴代の天皇の大多数が男性だったのは、中国(・儒教)の影響を受けた「女性蔑視」思想による、などという叙述には、大いに笑い、かつ悲しい気分にもなった(だいぶ前に読んだので、文献を特定できないが)。いわゆる「男系絶対」論者に対する侮蔑的言葉による罵倒にも従いていけない。本当に「ゴーマン」なところのある人物だとも思う。但し、<英霊の言之葉>を読んで涙した(同編・国民の遺書)という心情には共感できるところがある。
 また、月刊WiLL10月号(ワック、2011.08)のp.186あたりの以下の叙述に限って、同感する。朝日新聞へのある投書を紹介したあと、こう書く。
 「この投書は、まさに『少国民世代』の典型である。ここまで空気がこわばり、直立不動で君が代を歌わされた時代は、小学校が『国民学校』、児童が『少国民』と改称されていた昭和16年から20年までの間にほぼ限られる。日本の歴史上、例外的な現象なのである。……/しかも、自分の異常な体験を普遍化させてしまった『少国民』世代がマスコミや教育を通し、国旗・国歌・天皇は危険なものだとあまりに長きにわたって唱え続けたため、その認識は、正しいか否かに関係なく、『一般常識』として世代を越えて受け継がれてしまっている。……」。
 これらと同趣旨のことはこれまでに何度かこの欄に書いた。
 井沢のいう「昭和ヒトケタ」+昭和12年までは、1925年~1937年生まれで、終戦時に8歳~20歳。 
 小林のいう、昭和16年から20年までの間に小学生(国民学校生=「少国民」)だった者は、国民学校を6年制だとみなして少しだけ複雑な計算をすると、昭和4年(1929)~昭和13年(1938)生まれになる。井沢のいう、「1925年~1937年生まれ」と、大きくは異なっていない。
 むろん例外はあるが、傾向的にはこの世代は、良くなく苦しかった戦時中から戦後は明るく豊かになり、良い時代に変わった、自民党の一部に残る古い・軍国主義的雰囲気の復活を許してはならないと、これは戦後「進歩的文化人」が説いたのとほとんど同じなのだが、漠然と考えていて、そう考えていた者のほとんどは、民主党による(自民党政治から離反した)「新しい」政治を期待して、2009年には、民主党に投票したのではなかろうか。
 自らが特殊な世代だという自己認識はなく、自分たちが新しく戦後に形成した(と思っているがなおも伝統的な部分も基底には残している)「意識・道徳観」を後続の世代も共有しているはずだ、などというとんでもない誤解をしている可能性がある。
 この世代が人数の多い(鳩山由紀夫や菅直人を含む)
いわゆる「団塊」世代の兄貴分的または若い父親的役割を果たして、後者を指導・教育し「煽動」したことを忘れてはならない。

1024/物理的・事務的に可能ならば衆議院解散・総選挙を急げ。

 遠藤浩一稲田朋美が1カ月前あたりからすでに明確に主張しているように、また産経7/16の自民党・伊吹文明インタビュー記事も前提としているだろうように、総選挙実施が物理的・事務的に可能になった段階で、すみやかに総選挙(その前にいずれかの内閣による衆議院解散)を行えるように準備すべきだ。

 産経7/16社説が明言するように、菅直人の発言は「日本の最高指導者の発言として、あまりに軽く、国の統治を任せることはできない」。「閣僚とも調整せず、唐突にかつ独断で基本政策を変えることは、首相としての資質が欠落していると断じざるを得ない」。
 菅直人の地位の正当性(・正統性)の淵源は2009年総選挙の結果にあるが、それによる衆議院の構成(・民主党の占拠比率等)が現在の<民意>と乖離していることは明々白々だ。表面的・建前的な<民主主義>論を採用してすら、実質的には、すでに菅直人の地位の正統性(・正当性)はなくなっていると見るべきだ。
 朝日新聞の社説子は忘れているか、忘れているフリをしているだろうから、1年前頃の同紙の社説をあらためて引用または紹介しておこう。見事に、<(総選挙を通じた)民意>を重視していたのだ。
 2010年6/02(鳩山由紀夫辞任表明直前)―
 「昨年の政権交代の大義は、…首相の座を『たらい回し』してきた自民党政治との決別」だった。「政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」。「そうした政治の流れから誕生した首相を退陣させようというのなら、早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか。それなしに『たらい回し』に走るのは、民主党の自己否定に等しい」。
 翌日6/03の社説(鳩山辞任表明後)―
 「歴史的な政権交代の意義を無駄にはできない。今回のダブル辞任が『平成維新』の出直しに資するなら、必要な通過点だと考えるべきだろう。/問題はすべてこれからである」。新内閣は「…一定の判断材料を国民に示したうえ、なるべく早く解散・総選挙をし、信を問うのが筋である」。
 上の二つの間にある矛盾とそれを隠蔽しようとする姑息さには一年前に触れたので、もはや繰り返さない。
 上の二つで何とか共通しているのは、<解散・総選挙>の必要性の主張だ。

 上の6/03の社説にいう「なるべく早く」という朝日新聞の主張はその後いったいどうなったのか?という疑問は当然に湧く。いちおうは昨年6月3日にはこう言っておきながら、菅内閣の支持率が(とくに尖閣問題発生の昨秋以降)下落傾向にあったためか?、朝日新聞は再び<解散・総選挙>の必要性を説くことはなくなった。
 皮肉を込めて言うのだが、朝日新聞よ、昨年の6月初めの<原点>に戻って、あらためて<民主主義(民意=総選挙重視)の旗手>ぶりを示してみたらどうか。
 昨日に書いたことも併せてみて、あらためて、朝日新聞の<ご都合主義>、いいかげんさ、首尾一貫性のなさ(自分たちの望む政治情勢を実現するためにならば、論理的な一貫性などは無視する姿勢)を感じて、気持ち悪くなる。この、目的のためならば手段(>論理・主張・概念)はどのようにでも変え、どのようにでも選択する、という感覚は、「左翼」の、そしてコミュニスト(共産主義者)に独特のものでもある。

1014/<宰相不幸社会>の宰相・菅直人の意識は?

 読売新聞6/23社説は、「最小不幸社会」を目指したのに<宰相不幸社会>になった、と面白いことを冒頭に書いている。
 さて、菅直人が何を考えている、どういう神経の持ち主なのかはよく分からないが、良いように?解釈すれば、次のように思考しているのかもしれない。以下は、6/02午前中の、鳩山由紀夫との間の「確認書」からヒントを得た推測だ。
 確認書の第二項には「自民党
政権に逆戻りさせないこと」とあったはずだ。これは政権交代を否定するものだとしてすでに言及したが、あらためて表現を見ていると、「逆戻り」との言葉が使われているのに気づく。
 これは、自民党政権に交代するのは「逆戻り」、すなわち、時代の進歩または発展の方向には向かわない、<反動的>な逆の方向だ、という認識を前提にしているものと思われる。
 菅直人に限らず鳩山由紀夫もそうなのだろうが、そして民主党に投票した有権者の少なくない部分も、<自民党はもう古い・遅れている>、<民主党は新しい・進んでいる>というイメージを持っているように思われる。
 このように単純には言えないはずだが、朝日新聞等々の有力マスメディアはこのようなイメージを、2009総選挙の前に撒き散らしたのだ。
 菅直人自身、自民党政権に戻ることは時代・社会の進歩の方向とは逆の方向だ、自分は<時代の流れ>に添った、その方向上にある首相だ、という意識を強く持っているのではなかろうか。
 むろん、上はたんなる幻想、誤った<左翼的>観念にすぎないのだが。
 いま一つ、菅直人を支えているのではないかと思われる意識がある。それは、小沢一郎のように<きたなくはない>という自己認識だ。
 菅直人は、良いように?理解すれば、自分は自民党とは違って<進歩>(歴史の発展方向?)の方向に添っており、かつ小沢一郎(・一派)とは違って<クリーン>だ、という意識に支えられて、なお<延命>しようとしているのではないか。
 以上は、より良く解釈しすぎている可能性はある。たんなる権力亡者かもしれず、自分を客観的に観れないだけの人物なのかもしれない。だが、それらに加えて、上のような二種の意識も最低限度は混じっているようにも思えるのだが…。

1012/菅直人と一部マスコミの謀略?-6/02退陣(辞意)表明。

 民主党最高顧問・渡部恒三が菅直人につき「本当にひでえのにやらせちゃったな」と述べたそうだ(産経6/20二面)。
 菅直人の心理・性格の分析は専門家の研究対象に十分になるだろう。それはともかく、6/02の午前の民主党議員総会での菅直人自身の発言は、それ自体は明確には<辞意>表明ではなかったように聞こえなくはない(例えば、辛坊治郎はそう言っている)。だからこそ、鳩山由紀夫は、一定のメド等を条件としての退陣という趣旨だ旨を直後にその場で発言したのだろう。
 だが、菅直人は明確には辞意を述べていないとの逃げ道を残していたのも確かで、そのかぎりでは、マスメディアが<退陣(辞意)表明>と報じたことは、結果としては、菅直人を助けたことになる(そして今にしてもなお、菅直人首相はいつ頃に辞任するかを明確にしないままで<延命>している)。
 さらに言えば、菅直人が議員総会で<退陣(辞意)表明>を行うつもりだという情報はいくつかのメディアの記者には事前に流されており、だからこそすみやかに、号外が出るほどに、その旨の報道がいったんは行き渡ったのではないか。
 辞意表明し、退陣予定だから、不信任案に賛成はしない、という理屈は、本当は奇妙なものだ。しかし、実際問題としては、不信任案に賛成しようとしていた民主党議員たちは、菅直人の言葉を<退陣(辞意)表明>と理解して、不信任案に反対するか欠席に回ったのだと思われる(賛成して除名された2名を除く)。そして、そういう理解を助けたのは、鳩山由紀夫の発言とともに、事前にメディアの一部から流されていた菅直人<退陣(辞意)表明>という情報ではなかったのだろうか。
 推測なのだが、産経新聞を含むすべてのマスメディアだったとは思われない。その情報は、朝日新聞+テレビ朝日系(星浩ら)、毎日新聞+TBS系(金平茂紀ら)の一部に確定的情報として流されたのではないか。
 そして、一部のマスメディアは菅直人(ら?)の情報策略に、少なくとも結果としては、利用されたのではないか。あるいは、何とか不信任案可決を阻止したいという思惑から、<退陣(辞意)表明>すれば不信任案賛成票は大幅に減るとの見通しをもって、一部のメディアは、菅直人(ら?)の情報策略に協力したのではないか。
 確証はないが、それくらいのことは菅直人らの政治家や、一部マスコミの一部に棲息する政治活動家たちはするだろうと思われる。
 週刊ポスト7/01号p.32(上杉隆・長谷川幸洋の対談記事)によると、朝日新聞6/02朝刊の一面トップは「首相、可決なら解散意向」だった。解散を忌避したい議員たちに不信任案に賛成することを躊躇させるような見出しだ。だが、同記事によると、菅直人は実際には「解散」につき語っていないという。朝日新聞は(ほかの新聞・テレビも?)「官邸の情報操作」(同上記事)に利用されたか、協力した、と理解して何ら差し支えないだろう。
 かくのごとく、マスメディアを、とりわけ朝日新聞・毎日新聞系を信頼してはいけない。

1006/菅直人・岡田克也のレーニン・スターリンに似たウソと詭弁?

 一 不思議なことがあるものだ。
 各新聞6/02夕刊によると、菅直人は6/02の民主党代議士会で「辞任」(朝日)、「退陣」(読売、日経、産経)の意向を表明したとされる。
 ところが、夜の日本テレビ系番組に出てきた岡田民主党幹事長は、「退陣」表明とかの形容・表現は適切ではない、と言う。後に区切りがあることを述べたままでのことだとの旨まで言い、辞める時期ではなく菅首相にこれから何をやってもらうかが重要だなどとも言う。

 菅直人も、なかなか巧妙な言い方をしている。
 6/02の午後10時頃からの会見で(以下、産経ニュースによる)、「工程表で言いますと、ステップ2が完了して放射性物質の放出がほぼなくなり、冷温停止という状態になる。そのことが私はこの原子力事故のまさに一定のめどだ」と述べた。これが「メド」だとすると、冷温停止状態実現の目標は来年1月頃とされているらしいので、「退陣」時期は来年以降になるが、これは、鳩山由紀夫が6月末または7月初めという、あと1カ月くらいの時期を想定していると明言しているのと、まるで異なる。
 当然に記者から質問が出ているが、鳩山との間の「確認書」の存在(鳩山側が作成したようだ)を否定せず、①<原発の収束>も含むのかとの問いに菅は「鳩山前首相が作られたあの確認書に書かれた通りであります」とだけ答える。
 また、②「鳩山由紀夫前首相との合意の内容は、確認書にある通りだと。何を確認した文章なのか」との問いに、「鳩山前首相」との間では「あの合意事項という文書に書かれた」もの以外にない、「あそこに書かれた通り」だとだけ答える。

 ③さらに、「確認書」の三の①と②の時点で辞任していただくという鳩山の発言は間違いか、との問いに、「鳩山さんとの合意というのは、あの文書に書かれた通り」と再び繰り返している。そして、それ以上は「控えた方がいい」とも言う。
 これらで記者たちは、丸めこまれてしまったのか? 情けないことだ。

 菅直人が存在とともに内容も否定していない「確認書」の中に、<原発の冷温停止>などという文言はまったくなく、三には①と②(第2次補正予算の編成にめど)しかないのはなぜか、と何故執拗に突っ込まなかったのだろう。

 菅直人や岡田克也が「確認書」の三の①・②は菅辞任(退陣)の時期を意味しない(退陣の「条件」ではない)と言い張り続けるとすれば、各紙夕刊も、民主党国会議員のほとんども、とりわけ不信任案に賛成しようとしていた鳩山由紀夫や小沢一郎も、菅直人に、見事に<騙された>ことになる。

 鳩山由紀夫は、退陣の「条件」ではないと夕方に発言したらしい岡田克也について、「ウソをついてはいけない」旨を批判的に明言した。

 菅直人・岡田克也か鳩山由紀夫のいずれかがウソをついていることになるが、前者の側だとすると(その可能性がむろん高いと思われる)、菅や岡田は公然とメディア・国民の前でウソをついているわけで、その強心臓ぶりには唖然とし、戦慄すら覚える。

 菅直人は答えるべきだし、メディア・記者たちは質問すべきだ。これからでも遅くはない。

 <確認書の三に①と②があり、かつこれらしかないのは、何故なのか?、そしてこのことは何を意味するのか??>
 「文書のとおり」、「書いてあるとおり」では答えになっていない。<それでは答えにならない>と勇気を持って憤然と(?)反問できる記者は日本の政治記者の中にはいないのか。

 それにしても、戦慄を覚えるし、恐怖すら覚える。旧ソ連や現在の中国・北朝鮮等では、政府当局あるいは共産党(労働党)幹部(書記長等)が公然・平然と<ウソ>をついていたし、ついているだろう。

 現在の日本で、そのようなことが罷り通っていそうなのだ。

 目的のためならば<ウソをつく>ことも許される。これは、レーニン、スターリンらの固い信条だっただろう。菅直人は、レーニンやスターリンに似ているのではないか。内閣総理大臣によって公然と「ウソ」がつかれ、あるいは「詭弁」が弄される事態は、まことに尋常ではない。<狂って>いる。

 二 「詭弁」といえば、先日の、福島第一原発にかかる、菅直人首相の「私は(注水を)止めよとは言っていない」(その旨を命令も指示もしてはいない)との旨の言葉も、ほとんど詭弁に近かったように感じられる。

 谷垣自民党総裁は、上の発言に対して、「わかった。では、東京電力がいったん止めないといけないと感じるような言葉をいっさい発しませんでしたか?(あるいは、そのように感じられる行動をいっさいしませんでしたか?)」とさらに質問し追及すべきだっただろう。

 明確な「命令」・「指示」でなくとも、東京電力とすれば、首相の<気分・雰囲気>を何となくであれ気遣っているものだ、との推測くらいは、私にすらできる。そのような<気分・雰囲気>を感じて、東京電力は形式的には自発的にいったん停止を命じたのではなかったのだろうか(但し、現場の所長が本社側の指示に従わなかった)。
 要するに、菅直人は、「命令・指示はしていない」という(形式的には誤りではない)表現を使うことによって、真の事態を曖昧にして<逃げた>のではないか、と思っている。
 菅直人の言葉の魔術?は、6/02にも発揮されたように見える。

 三 再び「確認書」なるものに戻ると、その「二」で(たしか)「自民党政権に逆戻りさせないこと」とあったのは、興味深いし、かつ怖ろしい。

 つまり、彼ら民主党、とくに菅直人と鳩山由紀夫は、一般論として<政権交代>をもはや否定しようとしているのだ。

 <政権交代>を主張してきたのは彼らだが、いったん政権を獲得すれば、二度と離さない、という強い意向・意思が感じられる。
 だが、政権交代可能な二大政党制うんぬんという議論は、A→B→A(→B)…という交代を当然に予定し、ありうるものと想定しているのではないか。とすれば、自党の政策の失敗等々によって与党から再び野党になることも一般論としては、また可能性としては肯定しなければならないはずだ。

 しかるに、「確認書」の「二」はこれを何としてでも拒否する想いを明らかにしている。
 過去のそれを含む社会主義国は、いったん共産党(労働党)が権力(政権)を獲得すれば、それを他政党に譲ろうとはしなかった(ソ連末期を除く)。そもそもが他の政党の存在すら実質的には認めないという方向へと推移させた。

 菅直人ら民主党の一部からは、そのようなコミュニスト・共産党的匂いすら感じる。

 四 日本の政治・行政をぐちゃぐちゃ・ぐしゃぐしゃ・めちゃくちゃにしている民主党政権が続くかぎり、日本「国家」はますます壊れていく。民主党の一部には、意識的に<(日本)国家解体>を企図している者がいる、とすら感じてしまう。

 2009年の夏・初秋に、そのような民主党政権の成立を許したのは、あるいはそれを歓迎したのは、いったいどのような人々だったのか?? 評論家、学者も含めて、あらためて指弾したい者(名のある者)がいるが、今回は立ち入らない。

0978/西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号)を読む②。

 西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号、ワック)から、のつづき。
 ・規制緩和あるいは「秩序からの解放とか、規制からの解放」→市場「活力」、というのは「エコノミストたちの…ひょっとすると戦後六十五年に及ぶ」大誤解だ。これは「戦後始まった歴史感覚乏しきアメリカニズム」の結果。「秩序を作る活力を持たずに、競争の活力がつくわけもない」(p.232-3)。
 -なるほど。だが、前回に紹介したように、西部邁によると規制と保護の間には<絶妙なバランス>が必要で、一方に偏してはいけないのだ。
 ・日本人が平成の22年余「毎日叫んでいた構造改革がもしも必要だとしても」、歴史を忘れた「合理主義」に舞い上がり、「抜本改革だ、構造改革だ、急進改革だ」などと叫んではいけない。このことは「保守思想の見つけ出した知恵」だ。

 -なるほど。だが「構造改革」一般を否認しているわけでもない。その具体的内容、規制と保護の間の<絶妙なバランス>の問題なのだろう。

 ・世代交代により戦前を知っていた、「歴史の知恵を少々は身につけていた」者たちが消え、敗戦後に育った世代が平成に入って以降、「一斉に各界の最前線に立ち改革を唱え始めた」。その「最大の犠牲者」でもあるのが「今の民主党にいる東大出の高級役人であり、弁護士であり、松下政経塾出身者であり、労働組合の幹部出身者たち」だ。その意味で民主党を「クソミソ」に言う気はない(p.234-5)。

 -戦前・戦中の実際を知っていて単純に<日本は(侵略戦争という)悪いことをした>のではないと実感として知っていた者たちがいなくなり(あるいはきわめて少なくなり)、占領下のいわゆるGHG史観・自虐史観の教育を受け、素朴に<平和と民主主義>教育を受けてきた世代が政界でも「最前線」に立つようになった。鳩山由紀夫、仙谷由人、菅直人、みんなそうだ。このほぼ<団塊の世代>は1930年代前半生まれの「特有の世代」の教師あるいは先輩によって、教育・指導されてきた。その結果が現在だ、という趣旨だと理解して、異論はない。

 なお、「東大出」ととくに指摘しているのは、月刊WiLL3月号の巻頭の中西輝政「日本を蝕む中国認識『四つの呪縛』」の一部(p.36、p.39)とも共通する。中西輝政は<団塊>世代に限定しておらず、固有名詞では、藤井裕久、与謝野馨、加藤紘一、谷垣禎一、仙谷由人らを挙げている。

 ・「民主党のような人間たちを作り出したのは、ほかならぬ戦後の日本」だ。月刊WiLL・週刊新潮・産経新聞に寄稿する「保守派のジャーナリストのように、単に民主党の悪口を言って」いて済むものではない(p.235)。

 -上の第一文はそのとおりで、そのような意味で、民主党内閣の誕生は戦後日本の<なれの果て>、あるいは戦後<平和と民主主義(・進歩主義・合理主義)>教育の成果だと思われる。従って、民主党政権の誕生は戦後日本の歴史の延長線上にあり、大きな<断絶(・「革命」)>をもたらしたものではない、というのが私の理解でもある。また、上の趣旨は、「民主党のような人間たち」のみならず、民主党を「支持した」人間たち、民主党政権誕生を「歓迎した」人間たちにもあてはまるだろう。そういう人々を「ほかならぬ戦後の日本」が作ってしまった。

 上の第二文はそこでの雑誌類に頻繁に登場する「保守派」論者たちへの皮肉だ。櫻井よしこを明らかに含んでいるだろう。渡部昇一佐伯啓思まで含めているのかどうか、このあたりにまで踏み込んでもらうと、もっと興味深かったが。
 ・民主党の「大、大、大挫折」は日本人が戦後65年間、「民族国民として、緩やかな集団自殺行為をやっていたことの見事なまでの証拠」だ(p.233)。
 -そのとおりだと思うが、この点を自覚・意識している者は、到底過半に達してはいない。

 ・今や「ほとんどすべての知識人が専門人」となり、「局所」・「小さな分野」にしか関心・知識のない人間が「膨大に生まれている」。新聞記者、雑誌記者、テレビマン、みんな「その手合い」で、民主党の醜態と併せて考えて、「ほとんど絶望的になる」(p.235)。
 -昨今の気持ちとほとんど同じだ。なんとまぁヒドい時代に生きている、という感覚を持っている。西部邁はこのあとで、退屈な老人にとって「絶望ほど面白いものはない」、「民主党さんありがとう」と言いたい、と書いているが、どの程度本気なのかどうか。一種のレトリック、諧謔だろう。ひどい時代を生きてきたし、生きている。マスメディアのみならず、「その手合い」に毒され、瞞されている有権者日本人に対しても、「ほとんど絶望的になる」。この欄にあれこれと書いてはいるが、ほとんど<暇つぶし>のようなものだ。あるいは、時代への嫌悪にじっと耐えて生きている証しのようなものだ。

0957/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」。

 一 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010.08)の第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」は、月刊正論2010年6月号(産経新聞社)の「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」に「多少の加筆修正」をしたもの。

 月刊正論の原論考ついては、この欄の5/07、5/17、5/18の三回ですでに紹介・言及している。不十分なコメントしかできていないが、単行本の一部となって読み直しても、<保守派>志向の者にとって、無視できない、重要な論点・問題を提起しているようだ。

 日本の「国民精神」は「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間の、「もはや深刻なディレンマとして受け止めることができなくなってしまった」ディレンマとして表象されてきた。この「葛藤を引きうけること」によるしか「精神の活力もバランスもえることはできない」ので、「保守の立場とは、まずはこのディレンマを自覚的に引き受けるということから始めるほかない」(p.202-3)。

 日本の保守派(志向者)ははたして、「このディレンマを自覚的に引き受けるということから始める」ことをしているのだろうか? そしてまた、なぜ、この佐伯啓思論考を手がかりにしたような議論や論争が<保守論壇>で起きないのか?

 二 あらためて、この論考を最初から、メモをしながら読み直す。なお、今年2010年の4月頃に初出論文は執筆されたと見られることは留意されてよいかもしれない(まだ鳩山由紀夫首相で、まだ2010参院選民主党敗北も明らかでなかった。むろん尖閣問題も起きていない)。

 ・鳩山政権の支持率は下がっているが、自民党への期待が高まってもいない。その理由は「この政党の依って立つ軸のありかが全くもって不明な点」にある。但し、民主党も「同じ」で、「経済政策や外交政策の基本的な立場が見えない」(p.178)。

 ・民主党=リベラル、自民党=保守との図式ぱありうるが、「リベラル」・「保守」の意味自体が明快ではない。福祉重視=リベラル、市場競争重視=保守という「何とも大ざっぱで、しかも誤った通念」が流通した。これによると、「構造改革」をした自民党は保守、民主党は「その反動でリベラル」ということになる。だが、「構造改革」という「急進的改革」者を保守と称するのは奇妙で、それに「抑制をかける」ものこそを「保守」というべきだ。また、「過度にならない福祉」は「保守」の理念に含まれているはずだ(p.179-180)。

 ・下野した自民党の一部で「保守の原点」、「保守の再定義」、「真正の保守」等が語られているのは結構なことだ。では、「保守の原点に立ち戻る」とはどういうことなのか?(p.180)

 ・「保守」の立場の困難さの一つは、「改革」・「チェインジ」の風潮と現実のもとにあることだ。だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。「変化」の意味を見極め、「変転著しい」「変化」に「振り回されない軸を設定する」ことこそが今日の政治の課題=「保守」という立場、だ(p.180-1)。

 とりあえず、以上(つづく)。

0918/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)は民主党の「日本を外国に売り渡す」政策も語る。

 一 民主党政権になった一年余前、<左翼(=容共)・売国>政権だとこの欄で位置づけた。朝日新聞が嫌いなはずの、鳩山・小沢・輿石三人の「談合」の結果としての菅直人への(総選挙を経ない)政権「たらい回し」ののちには、この欄で<本格的「左翼」政権>誕生、と書いた。

 菅・民主党政権の具体的なことに言及するのは精神衛生に悪いので、極力書かないようにはしている。

 仙石由人官房長官はかつて日韓基本条約(1965年)締結に対する反対運動をしていた社会党系活動家で、のちに社会党から国会議員になった筈だから、社会党の党是、すなわち「社会主義への道」を少なくともかつては信奉していたはずだ。現に(おぞましき)「社会主義」の道を共産党・労働党指導のもとで歩んでいるらしい中華人民共和国や北朝鮮に、仙石が<甘く・優しく>ならないわけがない。

 拘禁後の中国人(船長?)釈放は、菅→仙石(または仙石→菅→仙石)→某法相→最高検総長→那覇地検という<事実上の>上意下達の結果であることはほぼ明らかだ。地検の<自主的な>判断という大嘘は当然に<卑怯だ>(検察一体の原則からして、もともと最高検が諒解していたかその指示によるかのどちらかであることは法制度上少なくとも明確で、那覇地検かぎりでの判断などはありえない)。

 田嶋陽子(かつて国会議員)らと「従軍慰安婦」個人補償法案を提案し、ソウルで韓国人運動家たちとともに日本大使館に向かって拳を突き上げた岡崎トミ子が国家公安委員会委員長(国務大臣)なのだから、呆れて大笑いしたくなるほどの、ブラック・ジョークのような現菅直人内閣だ。

 かかる「左翼・反日」政権とそのもとでの生活への<嫌悪に耐えて>、生きていかねばならないとは…。

 二 佐伯啓思・日本という「価値」(2010、NTT出版)は、民主党政権の<売国(・反日)>性をこの人にしては明瞭に語っている(以下の初出は2010年1月)。

 佐伯いわく-民主党の基本政策は「対米依存からの脱却」、「市場原理主義的な経済自由主義の見直し」、「土建型公共事業による経済成長」から「福祉に軸足を置いた生活中心社会への転換」で、これらに「特に異論はない」。だが一方でこの政権は①「二酸化炭素」25%削減を国際公約にし、②「外国人参政権」を認めようとし、③「夫婦別姓」も打ち出している。/「こうなるとよくわからなくなる」。「対米依存からの脱却」・「新自由主義路線の修正」は「国家の自立性を高める」という意図をもつ筈だが、他方で、「外国人参政権」を唱え、「聞こえのよい国際公約」を行って、「小々大げさにいえば」、「日本を外国に売り渡す」類の政策を促進する。「一体これらがどのような関係にあるのか」、マスメディアを含めて誰も問題にしていない(p.146-7)。

 佐伯は続ける-この「支離滅裂」は「国家や国民の捉え方の曖昧さ」が生んでいる。叙上のような基本政策は結構だが、その種のことを唱えるには、①「日本という国家の防衛をいかに行うのか」、②「経済成長に代わる価値観をどうするのか」、③「日本社会の将来像をどのように描くのか」、という「国家像がなければならない」。しかも、「相当な国民的な結束」が不可欠だ。「国家像」を描き、それを実現するためには「国民の道徳的な力」が必要なのだ。なぜ、「そのことを言わないのか」。言わないがために「政策に厚みがなく、他方で、『日本を外国に売り渡す』類の政策が平然と」行われる。民主党の政策は「ご都合主義的でファッショナブルなものへの追従かその羅列に過ぎない」ように見える。政策の背景にあるのは「幾分のサヨク・リベラル路線」をとっての「世論の流れと時代状況への追従」の「終始」ではないか(p.147-8)。

 佐伯啓思は私よりも民主党の具体的政策をよく知っていそうだから、あえて異は唱えない。おそらくは昨年末に書かれた文章にしては、民主党の<脆うさ>を、適確に指摘していると思われる。

 但し、民主党全体を評価するにしても、「サヨク・リベラル」と性格づけるのは(p.118も)、「リベラル」の意味が問題にはなるが、やや甘いかもしれない。

 にもかかわらず、「新自由主義路線」が<対米依存>でその「見直し」は「国家の自立性を高める」ことを意味するはずだということも含意しての、佐伯啓思による明確な、民主党政権の<売国性>の指摘は重要だろう。佐伯は8月の<菅談話>も一例として挙げるだろうか。

 なお、菅直人内閣についても、櫻井よしこ等の保守論者は「国家観なき…」とか「国家観のない」と(お題目のように?)言って批判することが多いが、彼ら民主党の要人たちにも何らかの「国家観」はあるのであり、ないのは、佐伯が上に指摘するような、具体的な「国家像」だ、と考えられる。

 仙石や菅らは(そして、その他の仲間たち諸々は)、<国家なんて本当はなくてよいのだ>、<国家意識を過分にもつことは危険だ>、等々の「国家観」を持っているように思われる。対立は、<国家観>の有無・存否ではなく、<どのような国家観をもつか(そしてどのように日本の将来像を描くか)、というその内容にある、のではないか。

0898/朝日新聞社説6/02等と6/03の落差・矛盾を朝日新聞社員は自覚せよ。

 6/02にこの欄で紹介したように、朝日新聞5/29社説は次のように明確に書いていた。
 ・「…旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」。
 ・「鳩山首相が退いても事態が改善されるわけではないし、辞めて済む話でもない。……。そのいばらの道を、首相は歩み続けるしかない」。
 朝日新聞6/02社説は次のようにも明確に主張していた。
 ・「首相退陣論―これで逆風はかわせない 目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」。
 ・「昨年の政権交代の大義は、……首相の座を『たらい回し』してきた自民党政治との決別」だった、「政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」。/ 「そうした政治の流れから誕生した首相を退陣させようというのなら、早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか。それなしに『たらい回し』に走るのは、民主党の自己否定に等しい」。
 衆院解散・総選挙なくして衆議院の多数議席を背景に首相の座を「たらい回し」するのは「民主党の自己否定に等しい」と主張していたのだ。
 しかるに、鳩山由紀夫が退陣表明した翌朝6/03の朝日新聞社説は何と書いたか?
 「鳩山首相が退いても事態が改善されるわけではないし、辞めて済む話でもない。……。そのいばらの道を、首相は歩み続けるしかない」(上掲)という立場からの批判はどこにもない。
 「再び政権選択を求める」ことなく「『たらい回し』に走るのは、民主党の自己否定に等しい」と明確かつ偉そうに(?)書いた、その主張はどこへ行ったのか??
 朝日新聞という新聞は、本当に厚顔無恥だ。6/03社説では、掌を返したように、次のように書いた。
 ・「歴史的な政権交代の意義を無駄にはできない。今回のダブル辞任が『平成維新』の出直しに資するなら、必要な通過点だと考えるべきだろう。/問題はすべてこれからである」。
 前の日に「考え違い」、「民主党の自己否定」 と書いておきながら、翌日には、この新聞は、(いちおうの条件つきながら)「必要な通過点だと考えるべきだろう」と、鳩山辞任表明と民主党を擁護したのだ。何という節操のなさ!! 恥ずかしくないのだろうか。
 ぬけぬけと、「問題はすべてこれからである」とも書いた。
 これは、前日までの(上に紹介したような)社説の主張・内容はすべて御破算する、との居直りも含んでいるのだろう。
 また、「再び政権選択を求める」=衆議院解散・総選挙による首相の交代を主張していたはずなのだが、6/03社説は最後に、とってつけたように次のように付記した。
 ・「…一定の判断材料を国民に示したうえ、なるべく早く解散・総選挙をし、信を問うのが筋である」。
 <たらい回し>=民主党の自己否定という見解が、ここではなくなり、、「再び政権選択を求める」のは「なるべく早く」と一気に後退した。
 <なるべく早く>とは、いったいどのくらいの早さなのだろう。民主党に対する、何とやさしい、物わかりのよい、<変調>なのだろう。面白いが如き論調の変化だ。所詮、朝日新聞とはこの程度の新聞なのだ。この<左翼・親中>新聞が2000万ほどの読者を持っているらしいのだから(販売部数×3)、日本が奇妙な方向へと堕しつづけるのも不思議ではない。
 近づく参議院選挙に関するこの新聞の社説や報道ぶりが<客観的>であるはずがない。輿石某が日教組・教員運動について語ったらしいように、<政治的中立性(・客観性)>が、この<政治団体>でもある新聞社にあるはずはない。

0892/朝日新聞社説は早期の「衆院解散・総選挙」を要求せよ。

 鳩山由紀夫首相、退陣表明。
 誰かが書いているだろうが、やはり書いておく。
 朝日新聞5/29社説は「歴史的事件から1年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の「政局」的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」と書いた。
 また、「鳩山首相が退いても事態が改善されるわけではないし、辞めて済む話でもない。……。そのいばらの道を、首相は歩み続けるしかない。/そのためには民主党が党をあげて、人事も含め意思決定システムの全面的な再構築を図り、政権の態勢を根本から立て直さなければならない」と書いて、「辞めて済む話」ではない、民主党は「政権の態勢を根本から立て直」せ、と叱咤激励(?)していた。
 せっかくの朝日新聞り暖かい?助言も叶わなかったようだ。
 朝日新聞6/02朝刊の社説はさらに興味深い。むろん鳩山の退陣表明の数時間又は十数時間前に書かれたものだ。
 まず第一文。「首相退陣論―これで逆風はかわせない 目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」。
 明日の朝日新聞では、「目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」とあらためてもう一度しっかりと書いていただきたい。朝日新聞という「政治団体」に関心のある人々は明日の紙面を注視すべきだ。
 また、朝日新聞6/02朝刊社説はこうも書いた。
 「昨年の政権交代の大義は、……首相の座を「たらい回し」してきた自民党政治との決別」だった、「政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」。
 「そうした政治の流れから誕生した首相を退陣させようというのなら、早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか。それなしに「たらい回し」に走るのは、民主党の自己否定に等しい」。
 そのあと、「いま民主党がなすべきは、政権8カ月の失敗から何を学び、どこを改めるのか、猛省すること」だ、とか、「本来の理念や方向性は生かしつつ、公約を少しでも実現可能なものに書き改め、参院選で有権者に投げかける。/それしか失われた政権への信頼を取り戻す道はない」とか書いて、叱咤激励または暖かい?助言をしているのだが、上の段落に引用した文章は朝日新聞社説の歴史的文章として現在も将来も長く記憶される必要がある。
 すなわち、「首相の座」の「たらい回し」を「自民党政治」だとして批判している。そして首相「退陣」を求めるならば、「早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか」と明言している。
 誰が次期首相になるかは分からないが、朝日新聞は、「自民党」的「たらい回し」をするな、と主張し、かつ首相「退陣」要求するならば「早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべき」だと明言したのだから、その論理的帰結は当然に、次期内閣は選挙管理内閣で、次期首相によって「早期に衆院解散・総選挙を実施」することを主張し、要求することになるはずだ。
 はたして、明日(以降)の朝日新聞社説は早期の「衆院解散・総選挙」を要求するかどうか。そうでないとすれば、6/02朝刊の社説の主張はいったい何だったのか、ということになる
 新しい(菅直人?)首相のもとでの内閣の政策等をしばらく見守ろうなどの見解を示すとすれば、やはり朝日新聞は信用の置ける新聞では全くないこと(「左翼・政治」団体であること)が明らかになるだろう。
 新内閣の発足・継続を認め、そのもとでの「衆院解散・総選挙」をすることのない参院選挙の実施を容認するということは、朝日新聞が厳しく批判してきた<「首相の座」の「たらい回し」>そのものではないか??。
 朝日新聞社説は早期の(例えば参院選と同日投票になる)「衆院解散・総選挙」を要求すべきだ。そう主張しないと論理一貫しないはずだ。
 朝日新聞論説委員たちよ、君たちがまともな神経と感覚の持ち主ならば、これまでに書いた趣旨が理解できるだろう。君たちがまともな神経と感覚の持ち主ならば、早期の(例えば参院選と同日投票になる)「衆院解散・総選挙」を要求せよ

0891/朝日新聞は民主党・鳩山内閣の継続を願う。

 朝日新聞はふざけた新聞だ。精神衛生に悪いので継続的にウォッチはしていないが、たまに読むと<あゝやはり>と感じてしまう。
 古いが、5/03の社説は当然に憲法のことを扱っていた。だが、「広範な議会への町民参加」や市民の「参加と協働」を旗印にしているという北海道福島町や三鷹市について好意的に言及しながら、5/18に施行された(5/03の時点では施行予定の)憲法改正手続法についてはひとことの言及もない。そして、同法によって想定されている国会(各議院)の憲法審査会が「現在全く機能していない」(同日の一般記事)ことについても、ひとことの言及もない。
 このようにあえて言及しない、書かれていないことにこそ、朝日新聞の体質・本音がある。憲法改正論議が活発になってとくに9条2項が改廃されることは、戦後<平和・民主主義>路線になおもしがみついている朝日新聞にとっては都合が悪いわけだ。
 したがって、朝日新聞の読者には、憲法改正手続法施行の重要性や憲法審査会の機能不全の奇妙さが伝わらないような社説になっている。彼らから見れば当然の書きぶりなのだろうが、やはり卑劣な「活動家」集団だ。
 比較的最近の5/29社説も面白い。
 この社説も含めて、民主党や鳩山由紀夫首相に対する批判的な記事・コメントや社説も書いてはきている。だが、そのような民主党や鳩山由紀夫代表を支持して<政権交代>を煽った昨年前半の自分たちの紙面作りについての反省の気分は、もちろん示さない。
 5/29社説は最後にいう-「何より考えるべきなのは鳩山政権誕生の歴史的意義である。有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのことだ。/政治改革は政権交代のある政治を実現した。永久与党が短命政権をたらい回しする政治からの決別である。選ぶのも退場させるのも一義的には民意であり、選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。/歴史的事件から1年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の「政局」的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である。」
 第一に、「有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのこと」だなどと2009総選挙を<絶賛>するのはバカげているし、事実にも反する。「…初めて」ではない。これまでも総選挙または参院選挙の結果として当時の首相が<責任>をとり首相が<代わった>ことはある。
 自分たちの<政権交代>に向けての報道ぶりを自賛し、立派なことをしたと改めて思っておきたいのだろう。ここには、自らの報道姿勢に対する反省の気分はどこにもない。
 第二に、「旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」として、「首相の進退」論への言及を避け、かつ論じることを<封印>すべきとの主張をしている。
 ここには、民主党(中心)政権をなお擁護し、このままの継続を願っている朝日新聞の見解・主張が表明されている、と考えられる。
 支持率が20%程度になっている世論調査結果が続いていれば、自民党政権であるならば、朝日新聞は、<民意を問い直せ>、現在の新しい民意を確認するために<解散・総選挙を!>と社説で喚いていた可能性がある。
 <民意>を重視するはずの朝日新聞がなぜこういう主張の片鱗も示さず、「首相の進退」論への言及にすら消極的であるのは、自民党政権ではなく、現在が非・反自民党の民主党(中心)政権であるからに他ならないだろう。
 朝日新聞は「左翼」活動家集団らしく、巧妙に使い分けているのだ(ご都合主義、ダブル・スタンダード)。
 朝日新聞の<政略>はどうやらはっきりしている。世論の動向をふまえて現政権の具体的政策・行動を個別的には批判することがあっても、決して現在よりも<右寄り>・<保守的>方向へと基軸を移した政権に代わらせない、ということだ。
 民主党・鳩山政権を批判しつつも、そうかといって自民党への期待が増えているわけではない、というムードは、ある程度は、マスメディア自身が作ってきている。結果としてはずるずると民主党(中心)政権を継続させたい、というのが「左翼」政治団体・朝日新聞の本音だろう。
 三年前の参院選挙の前はどうだったか。ちょうど5-6月あたりは<消えた年金>でマスコミは大騒ぎをしていた。その問題があることはもっと以前から明らかになっていたにもかかわらず、集中的に朝日新聞等が取り上げるようになったのは5月くらいからだった。
 政治家・国会議員の<事務所経費>問題は、いったい何だったのだろう。<カネ>の問題ではあったが、近年に明らかになっている小沢一郎や鳩山由紀夫の<政治とカネ>の問題に比べれば、じつに瑣末な問題だった。にもかかわらず、マスコミは<なんとか還元水>問題と大騒ぎし、当時の安倍晋三内閣の閣僚・農水大臣は自殺までしてしまった。やはり<事務所経費>問題でターゲットにされた後継の農水大臣は顔の<ばんそうこう>をテレビのワイドショー等の話題にされ、虚仮(こけ)にされた。
 政治家・国会議員のあの当時の<事務所経費>問題は、刑事事件になっていたわけではなく、捜査の対象になっていたわけでもなく、「脱税」問題でもなく、せいぜい政治家の<倫理>程度の問題だった。現在の小沢一郎や鳩山由紀夫の<政治とカネ>の問題とは質的に異なる。
 なぜ三年前、朝日新聞等は<事務所経費>問題で大騒ぎしたのか。そして、なぜ、自民党が<大敗北>した参院選後は、<事務所経費>の話題はピタッと止まってしまったのか(そして現在でも関心は持たれていない)。
 言うまでもなく、朝日新聞等が参院選での自民党(・安倍内閣)の敗北・後退を企図して組んだ(一時的な)「政治的」キャンペーンだったからだ。
 朝日新聞は現政権を批判するかもしれないが、<こうすれば支持は回復するよ>的な、民主党・鳩山由紀夫に好意的な「アドヴァイス」としての「批判」も多分に含まれている。
 再び5/29社説に戻れば、「選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。/歴史的事件から1年もたたない。…旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」とは、よくも言えたものだ。
 「選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である」。この「しばらく」は最低でも一年間くらいは意味していそうだ。かりに将来、非・反民主党の新政権が誕生したときには、朝日新聞のこの文章を、きちんと思い出す必要がある。
 また、「『政局』的視点から首相の進退を論じ」てきたのはかつての朝日新聞こそではないか。自己批判もなく、よくもしゃあしゃあと、と呆れてしまう。
 朝日新聞の基本的路線が現実化するようでは、<日本>と日本国民のためにはならない。
 追記-①「仕分け人」民主党・蓮舫の<事務所経費>問題を週刊誌が昨年末か今年初めにとり挙げたことたがあった。その後、この問題はなぜ話題にならなかったのだろう。
 ②鳩山由紀夫から政治活動費(・選挙運動費)として<カネ>をもらったとの証言があり、出所は母親から提供された潤沢な資金の一部だと想定されたが、なぜマスメディアはその後この問題を追及しなかったのだろう。
 新党さきがけの結成やその後の民主党の結成に際して<鳩山資金>が重要な役割を果たし、そのことによってこそ鳩山由紀夫が要職に就けたということは、ほとんど<常識>的な想定なのではないか。
 当然に鳩山は出所を知っていたし、何に使ったかも(厳密な詳細まではともかくとしても)知っていたと思われる。なぜマスメディアはその後この問題を追及し続けないのだろう。
 <やましい金ではないし、やましい目的のために使ったわけでもない>旨の鳩山由紀夫の釈明は、ウソだと推測される。
 ③中井(ハマグリ?)国家公安委員会委員長の議員宿舎キー渡し問題は、国家の「公安」にかかわる。私的な問題に過剰に立ち入る必要はないとしても、この問題はもっと大きく<騒がれて>よく、中井の大臣としての資質・資格にかかわる問題だったと思われる。
 自民党内閣の閣僚であるならば、朝日新聞と同社グループの写真誌等は連日の如く取り上げ<大騒ぎ>をし、場合によっては、クビが飛んでいたのではないか。
 なぜ、マスメディアはその後この問題を追及し続けなかったのだろう。
 何も調べずに頭に浮かんだだけでも上の三つがある。
 私に言わせれば、マスメディアの民主党・鳩山内閣・鳩山由紀夫に対する態度は、まだまだひどく<甘い>。そこに<戦後体制>の維持という「政治的」意図が隠されていることを、多くの国民は知らなければならない。

0882/表現者30号(ジョルダン)の佐伯啓思「民主主義再考」。

 隔月刊・表現者30号(ジョルダン、2010.05)の以下を、とりあえず読了。いずれも短い文章なので。
 A 佐伯啓思「民主主義再考」
 B 富岡幸一郎「『近代』の限界としての民主主義」
 C 宮本光晴「政権交代の議会制度が機能するための条件」
 D 安岡直「われわれは衆愚政治に抗うことが出来るか」
 E 柴山桂太「民主主義が政治を不可能にする」(以上、p.75-95)
 F 西部邁「民主主義という近代の宿痾」(p.196-9)
 以下はAの一部要約または引用。
 A 「民主政治というもののもっている矛盾が、民主党政権において著しい形で露呈している」(p.76)。
 <「民主政治」概念には、「民主主義」を徹底すれば「政治」は不要になり蒸発するという「本質的矛盾」がある、という「決定的な逆説」がある。>(p.76-77)
 <W・バジョットによると、「議院内閣制」の前提は「有能な行政府を選出」できる「有能な立法府(議会)」だが、かかる有能な立法府は「きわめてまれ」。「議院内閣制」での「政府の本当の敵は官僚ではなく〔無能な〕議会の多数党」。「民主党はこの点をまったく理解していない」。>(p.78)
 <W・バジョットによると、「議院内閣制」のよさは、第一に、「議会と政党」が立派=「政党政治家がそれなりの見識」をもつ、第二に、議会選出「内閣」が「優れた統治能力をもって長期的に政治指導」をする、という条件に依存する。><そうして初めて、「議院内閣制」は「大衆的なもの」=「民意」から「距離」を置き、かつ「強力な指導力を発揮できる」。>(p.79)
 <W・バジョットによるとさらに、英国政治体制には「威信」部分と「機能」部分があり、前者を「君主制と貴族院」が担って「大衆を政治に引き付け、政治に威厳と信頼を与え」、後者を「内閣と衆議院」が担当する。両者の分業によってこそ「大衆と政治的指導の関係はかろうじて安定する」。>
 <こう見ると、今日の日本の政治が「著しく不安定で混沌としている理由もわかる」。小沢一郎流「議院内閣制」はそれの「悪用」であり、鳩山由紀夫の「民主主義」観には「威信」部分はなく、「威信」と「機能」は「渾融」してしまった。「威信」部分こそが「演劇的効果」をもつが、それが欠けて「マスメディア」がそれを「発揮して」「大衆を政治に引きつけようとする」ので、政治は文字通りの「演劇的政治」になってしまった。>(p.79)
 なかなか面白い。小沢一郎による参院選の民主党立候補者選び・擁立を見ていると、優れた「政党政治家」から成る「有能な立法府(議会)」ができる筈がない。彼らが当選しても、<投票機械>になるだけのことはほとんど自明だ。かくして「優れた統治能力」を生み出す「議院内閣制」からはますます遠のくだろう。
 屋山太郎はよく読むがよい。「議院内閣制」における「政府の本当の敵は官僚ではなく〔無能な〕議会の多数党」だ。
 もっとも、民主党に限らず、他政党も、<知名人選挙、有名度投票>に持ち込もうとしているようで、日本政治はますます深淵へと嵌っていく…。

0881/櫻井よしこと「国家基本問題研究所」。

 櫻井よしこによると鳩山由紀夫は「戦後教育の失敗例」らしい(産経新聞5/13付1・2面の見出し)。そのとおりだと思う。いや、正確には、戦後「左翼」教育、戦後「平和」教育、「戦後民主主義」教育の成果であり、立派な成功例だと言うべきだろう。
 その櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「
民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこ月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。 
 「国家基本問題研究所」の理事・屋山太郎も、相変わらず、2009総選挙の前から民主党支持気分を煽った一人なのに、そのことについての反省・自己批判の言葉を発してはいないようだ。
 そして、屋山太郎は、上掲の月刊WiLL6月号では、昨年に渡辺某の「みんなの党」の結成時に、渡辺某のすぐ近くに立つか座って一緒にテレビに映っていたときの気分と同じままで、そもそもこの党の結成自体に多少の関与をしたと見られることを隠して、「みんなの党」をヨイショする文章を書いている(p.23)。それによると、民主党に失望した票は、自民党ではなく、「第三党に躍り出てきた」「みんなの党」に流れそうだ、とのニュアンスだ。
 また、屋山太郎は、平沼赳夫・与謝野馨の「立ち上がれ日本」につき、「現下の国民の要求とは完全に外れている」と断言していることも、きちんと記憶しておく必要があろう。
 「国家基本問題研究所」といえば、その「評議員」・「企画委員」なるものを潮匡人が務めているらしい(同ウェブサイトによる)。
 その潮匡人の、月刊正論6月号(産経)のコラム「時効廃止は保守の敗北」(p.44-45)は、法学・法律に詳しいところを再び(?)見せたかったのかもしれないが、気持ちだけ焦っての<大きな空振り三振>というところ。
 ごく簡単に触れれば、権利(刑事罰の場合は公訴権)または義務の発生または消滅の原因となる一定の期間の経過=<時効>と、保守主義者・バークが使っている<時効>とは似ている所もあるだろうが、前者の比較的に法技術的な意味での<時効>概念と後者の比較的に思想的な意味での<時効>概念とを混同してはいけない
 結論的には(馬鹿馬鹿しいので長々とは書かない)、国家「刑罰権力」の行使の余地を広げる・時間的に長くする(公訴)「時効廃止」は、「左翼」論者・心情者は(被害者・遺族の心情を考慮して明確には語らない者もいるだろうが)<反対>のはすだ。潮匡人は、結論的にはそうした「左翼」と同じ主張をしている。殺人罪等についての「時効廃止は保守の敗北」とは、いったい誰が支持してくれている見解なのだろう。
 このような、屋山太郎や潮匡人を抱えたシンクタンク「国家基本問題研究所」とはいったいいかなる団体・組織なのか。
 上では省略したが、櫻井よしこらの自民党批判は理解することはできる。同意できるところ大きい、と言ってもよい。
 だが、選挙前からのかつての自民党批判は同党支持<保守>層の自民党離れを促進し、却って、民主党(中心)政権の誕生を後押しした、という面があることを否定できないように考えられる。
 それに、民主党も自民党もダメというならば、<シンク>することなどはもう止めて、自分たちが政治活動団体を立ち上げて、選挙に立候補したらどうか。国会議員になって言いたいことを国会・各委員会で発言し、国会議員として文章も書いたらどうなのか。その方が、影響力は大きいだろう。
 櫻井よしこをはじめ、年齢的にも国会議員としての活動はできそうにない、という者もいるだろう。だが、潮匡人などは、まだ若そうだ。
 そういう、現実的な政治的行動を採る気概を示すことなく、ただ<シンク(think)>して文章を書き「評論」しているだけでは、<湯だけ(言うだけ)>の「左翼」人士と基本的には何ら異ならないのではないか。この点では、上掲月刊WiLL6月号p.52以下に(自民党からの)<立候補宣言>文書を掲載している三橋貴明は偉い。「言うだけ」人士に対してよりは、敬意を表したい。
 正しいことは言った、しかし負けた、と言うのは、日本共産党だけにしてほしい。もっとも、日本共産党と同じく、「国家基本問題研究所」の面々が「正しい」ことを言っているか否かは吟味されなければならないのだが。
 <保守>的論者・団体の活発化・まっとう化を願って書いている。

0872/鳩山由紀夫「ルーピー」首相はやはり鈍感。ついでに朝日新聞。

 1.鳩山由紀夫首相は4/28に、東京検察審査会での小沢一郎「起訴相当」議決のあと、こう言ったらしい。

 政府としては「検察の判断に予断を与えることになるから、私は何もいうべきではない」。(したがって?)小沢氏は幹事長として「引き続き(このまま)頑張っていただきたい」。

 首相が小沢につき「このまま頑張って…」と言うこと自体が、小沢一郎にかかわる刑事問題について何らかのコメントを発している、少なくともそのように受け止められる可能性がある、ということを、この「現実から遊離した(ルーピー)」首相・鳩山由紀夫は分かっているのだろうか。

 もともとその発言ぶり等から、首相としての資質が疑問視されるている人物だが、上の簡単な言葉にもそれは表れているだろう。
 政府としては「検察の判断に予断を与えることになるから」余計なことは言えない(言わない)というつもりならば、同じ会見・コメントの場でつづけて、小沢氏は幹事長として「引き続き(このまま)頑張っていただきたい」ということも言うべきではないのだ。
 この程度のことが分からない人物が首相を務めているのだから、怖ろしい。
 鳩山由紀夫については「病気ではないか」とか「ビョーキ」とかの論評も出てき、また「現実から遊離した」とのまことに適切な形容も出てきた。
 その資質・基本的素養・能力への疑問は昨秋からすでに感じていたことだ。何だったか特定できないが、記者への受け答えを見聞きしていて、この人はどこかおかしいのではないか?、自分の地位・責任をきちんと理解しているのか?と感じてきた。
 だが、それでも、次のように昨秋11月初旬には書かざるを得なかった。

 「だからこそ、鳩山由紀夫のブレ等々にもかかわらず、少なくとも来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想が出てくる」(注-「だから」とは自民党のだらしなさを指す)。
 これを書いたとき、「来年の参院選挙くらいまで」とすることに、かなりの勇気または思い切りが必要だった。
 鳩山政権が発足して一年くらいは政権(内閣)がつづくだろうことは当時はまだ当然視されていて、衆議院での民主党の多数派ぶりからして3~4年間の継続を想定していた人たちも多かっただろう。したがって、<来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想>というのは随分と思い切って、少なめに見積もって書いたのだった。個人的には、本当にこの人物が2~4年も首相の任に耐えられるのだろうか、と感じていたからこそ、あえて<来年の参院選挙くらいまでは>という表現を使った。

 ところが現在では、5月末・6月初めまたは遅くとも7月参院選以前での鳩山退陣がかなりの現実性をもって語られている。

 実際にどうなるのか分からないが、昨年の10月・11月頃に比べれば政治状況・世論は大きく変化している(ようだ)。

 2.「無党派層」とは「日和見層」・「流動層」であって、マスメディアによる評価・ムード作りによって、どうにでも転ぶ(または「転びそうな」)人たちのことだ。
 「無党派」などという体裁のよい(?)、または「支持政党なし」層などという中立的な(?)言葉は使わない方がよいと思われる。
 この「日和見層」・「流動層」・<マスメディアによる評価・ムード作りによって、どうにでも転ぶ(転びそうな)人たち>に対して、これから参院選(の投票日)までマスメディアはどういうメッセージを発するだろうか。
 とくに朝日新聞はどういう<政治的戦略>のもとで報道し、記事を書き、紙面を編集するだろうか。「左翼」活動家集団・朝日新聞は、そろそろ基本的な<政治的戦略>を決定しているだろう。

0857/週刊現代4/03号(講談社)の山口二郎の言葉。

 サピオ=小学館=週刊ポスト、かつての月刊現代=講談社=週刊現代、という対比もあって、週刊ポストよりも週刊現代の方がより「左翼的」という印象があった。だが、最近は、表紙からの印象のかぎりでは、週刊現代の方が<反民主党>・<民主党批判>の立場を強く出しているようだ。
 もっとも、NHKを含むマスメディアの<体制派>は、民主党を批判しても、決してかつての自民党政権時代には戻らせない(とくに安倍晋三「右派」政権の復活は許さない)という強い信念・姿勢をもって報道しているように見える。
 上の点は別にまた書くとして、週刊現代4/03号(講談社)。
 山口二郎「私は悲しい。鳩山さん、あなたは何がしたかったのですか」(p.40以下)がある。
 「民主党政権・生みの親」とされる北海道大学教授が民主党・鳩山政権を辛口で批判している。
 批判はよいが、「…25%削減を打ち出した温暖化対策は鮮烈だったし、八ツ場ダムの凍結も画期的でした」(p.41)、通常国会冒頭の鳩山の「施政方針演説は、まことに立派なものでした。官僚の作文ではない、血の通った言葉だった」(p.43)とか書いているのだから、山口二郎はまだ大甘の、頭のピントが外れた人だと思われる。「小沢さんは日本政治を最大の功労者の一人であると、今でも信じています」とも言う(p.42)。
 「八ツ場ダムの凍結」はたまたま民主党の選挙用「マニフェスト」に具体名が挙げられていただけのことで、特定の案件について、いかなる基準で公共工事の凍結・継続が決められたか、およびその判断過程は明らかにされていない、と思われる。そのどこが「画期的」なのか?
 「最初の民主党ができた頃から、民主党政権を作ることが夢でした」と真面目に(?)語っている山口の心理・精神構造には関心が湧く。こんな人がいるからこそ、マスメディア(のほとんど)も安心して自民党叩き・民主党称揚の報道をしたのだろう。
 山口二郎は、北海道大学関係者にとって、<恥>なのか、それとも<誇り>なのか。
 その山口も、まともなことも言っている。
 ・民主党の「政治主導」の諸措置により「政務三役だけやたらと忙しく、他の議員はヒマ…」、「格好だけ政治家が前へ出て…その実、まともな政策論議ができていない」(p.41)。
 ・小沢一郎が「幹事長室に陣取って……自民党的な利益誘導政治をしている」(p.42)。
 これらは、<保守>派評論家とされ、国家基本問題研究所理事の屋山太郎よりもまっとうだ。屋山の判断力が、山口二郎・旧社会党ブレインよりも劣っているとは、情けない。

0849/生業(なりわい)としての「保守」派。いや、「保守」派ではない「売文業者」-屋山太郎。

 屋山太郎の文章について、好意的・肯定的に言及したこともあった。
 2007.06.26付「社保庁職員の自爆戦術-屋山太郎の二つの文」。
 だが、昨年の総選挙前あたりから、屋山の主張・見解を疑問視し、選挙後の論評を読んで、この人は決して<保守>派ではない、と感じている。以下の3つを書いた。
 ①2009.08.06「屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙」。
 ②2009.09.21「屋山太郎が民主党を応援し『官僚内閣制』の『終焉』を歓迎する」。
 ③2009.10.31「屋山太郎は大局を観ていない。これが『保守』評論家か」。
 この③では屋山の1.産経新聞8/27付「正論」、2.月刊WiLL10月号(ワック)p.24-25、3. 産経新聞9/17付「正論」、4.月刊WiLL12月号(ワック)p.22-23の4つに言及し、「価値序列、重要性の度合いの判断に誤りがある」、「かりに<議会制民主主義>に論点を絞るとしてすら、屋山太郎は大局を観ていない」等々とコメント(批判)した。
 何と言っても、屋山太郎は昨年の総選挙の結果につき、「大衆は賢明だったというべきだ」(上記月刊WiLL12月号)と明記した人物だということを銘記しておく必要がある。自分自身は「大衆」に含まれているのか、それとも「大衆」とは次元の異なる世界に住む<エリート>だと自己意識しているのかは知らないが。
 その後、屋山太郎は民主党政権(鳩山由紀夫・小澤を含む)につき批判的なことも書いている。
 だが、そのような民主党(中心)政権の誕生を応援しかつ歓迎したことについての自己反省・自己批判の言葉は、その後いちども目にしたことがない(屋山太郎の文章のすべてを読んでいるわけではないので見落としのある可能性はある。だが、おそらくそのような言葉を公にはしていないのではないか)。
 屋山太郎が誠実でまともな感覚の持ち主だったら、<見通しが甘かった>、<こんな筈ではなかった(のに)>くらいのことは書いたらどうか。
 逆に、1月末発売だから昨年末か今年初めに執筆されたと思われる月刊WiLL3月号(ワック)p.22-23では、屋山はまだ性懲りもなく、こんなことを書いていた。
 ①昨夏の「総選挙」は「官僚内閣制」から「議会制民主主義」に「体制」を変えた選挙で、「今、議会制民主主義にふさわしい体制変革が進行」しており、「次の総選挙」こそが「政権交代」選挙になる。
 ②「日本の(議会制)民主主義」はおかしい、「実はニセモノ」だと感じてきた。「民主党政権四年の間には『議会制民主主義』が定着するだろう」。
 -そして、以下の諸点を肯定的に評価している。
 ③A「官僚の政治家への接触を禁止」、B「官僚の国会答弁を禁止」、C「省の方針」の「政務三役」による決定、D「事務次官会議を廃止」。E「陳情を幹事長室に一元化するのも、政治家と業界の癒着防止のためだろう」。
 最後に、こんな文章もある。
 ④「体制変革」の方向〔「官僚内閣制」から「議会制民主主義」へ〕は「間違えていない」。「この『変革』は、民主主義体制確立のためには不可欠」だ。
 唖然、呆然とせざるをえない。これが少なくともかつては<保守>評論家と位置づけられた者の書くことか?
 逐一詳細なコメントはしないが、上の③のAは一概には評価できないもの、Bはむしろ国会による行政(行政官僚)監視・統制のためには必要な場合もあるもの、Dも一概には評価できず、
「事務次官会議」による閣議案件の実質的決定はたしかに問題だが、それによる各省間の<調整>のために必要または有益な場合もありうるもの、と思われる。
 ③のEに至っては笑止千万。それほどまでに民主党(・小沢一郎)を応援したいのか。昨年末にはすでに、「社会主義」国における共産党第一書記(または書記長)による政治(・立法)・行政の一元的「支配」または「独裁」体制に似ている、という鳩山政権の実態に対する批判は出ていたはずなのだが。
 私も2009.11.29に、「そこまで大げさな話にしなくてもよいが」と遠慮がちに(?)付記しつつ、次のように書いた。
 「国会(議会)・行政権の一体化と、それらを背後で実質的に制御する政党(共産党)、というのが、今もかつても、<社会主義>国の実態だった」。
 (「『行政刷新会議』なるものによる『事業仕分け』なるものの不思議さと危うさ」) 
 すでに書いたことだが、「政治(家)主導=官僚排除」と<議会制民主主義>の確立・充実は同義ではない。また、屋山太郎があまりにも単純に「議会制民主主義」や「民主主義」を素晴らしい、美しいものとして想定しているようであることにも驚く。
 どうやらこの人も占領下の「民主主義」教育に洗脳された人々のうちの一人らしい。
 このように「(議会制)民主主義」の徹底・確立を説くのは、こちらは<とりあえず>だけにせよ、日本共産党の主張と全く同じではないか。屋山太郎は、重要な点でいつから日本共産党と同様の主張をするようになったのか。
 屋山太郎の近視眼さ、視野の狭さもすでに指摘したことがある(上記の書き込み参照)。
 佐伯啓思は隔月刊・表現者28号(2010年1月号、ジョルダン)で、端的にこう書いている(p.55)。
 <民主党のほか、自民党・マスコミを含む「今日の日本の政治的関心」にとっての「もっとも重要な課題」は「民主主義の実現」とされている。「政治主導」とは官僚から国民に政治を取り戻す「民主政治の実現」であり、「民主政治の進展こそが、民主党政権の存在意味」なのだった。
 「しかし、状況はもっと危機的であることを認識すべきである。この十数年の間に日本がおかれた状況は、脱官僚政治、というような議論で片付くようなものではない」。> 
 また、佐伯啓思は民主党について次のように書くが(p.56-57)、私は屋山太郎にも同じ言葉を向けたいと思う。
 <民主党の「あまりに浅薄で聞こえの良い政治理解・民主主義理解に虫酸が走る」。>
 それにしても、ウェブ情報によると、櫻井よしこを理事長とする国家基本問題研究所は理事長・副理事長に次ぐ(と思われる)「理事」13名の中の一人として、なおも「屋山太郎」を選任(?)し続けている。
 屋山太郎が「理事」をしているような団体は、少なくともまともな「保守」派の団体ではなさそうに見える。櫻井よしこ・田久保忠衛や評議員等を含めて、少なくとも大きな疑問を感じる人物はいないのに(各人の主張内容を詳しく知っているわけではない)、屋山太郎だけは今や別だ。
 何が「保守」かはここでは議論しない(上記の隔月刊・表現者28号(2010年1月号、ジョルダン)には、具体的論点については本当に「保守」派なのかと疑われる中島岳志が「私の保守思想1-人間の不完全性」というのを書いているが(p.132以下)、そこでの「保守」の意味内容はなおも基本的、常識的すぎる)。
 明らかなのは、屋山太郎は「保守」派あるいは「保守(主義)」思想に依拠している人物ではない、ということだ。他にもいそうだが、「保守」派(的)と一般的にはいわれている雑誌や新聞に文章を書くことを「生業(なりわい)」にして糊口を凌いできている「売文業者」にすぎないのではないか。

0846/佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」と日本国憲法13条。

 一 産経新聞3/15の佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」を読んで、深い感慨に耽らざるをえなかった。
 二 鳩山由紀夫が「幸福度指数」なるものを持ち出していることに刺激を受けてだろう、佐伯は次のように言う。
 A<アメリカ独立宣言は「幸福追求の権利」等を「普遍的価値」と謳ったが、「自由」とともに「幸福追求の権利」はイギリスに対する「抵抗」の思想だったにもかかわらず、それが忘れられ、「誰もが幸福でなければならない、という一種の強迫観念」を生んだ。これに浸かってしまい、「他人が幸福であれば自分も幸福でなければ面白くない。不幸だと感じた途端、自分の人生は失敗だった」と感じてしまう。この強迫観念に捉えられれば「人は決して幸福になれない。それどころか…人をますます不幸にする」。>
 B<日本にはもともとは「かくも利己的で強迫的な幸福追求の理念」はなかっただろう。①「仏教的な無常観」、②「武士的な義務感」、③「儒教的な『分』の思想」、④「神道的な晴明心」、のいずれを持ち出し、いずれに依拠するにせよ、これらはすべて「個人的な幸福追求に背馳する境地をよし」とするものだ。ここに「日本人の死生観や自然観や美意識」が生まれた。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ。「幸福」の指標などと言う前に「日本人の背負ってきた死生観や自然観を学び直す」必要がある。>
 このような佐伯啓思の見解・主張を私はほとんど違和感なく受け容れることができる。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ、との部分も、論争的であるとしても(議論の対象になりうるとしても)、結論的にはそういう他はない、と感じている。
 三 佐伯の一文を読んで深い感慨を覚えた、というのは、佐伯啓思の見解・主張を私個人は十分に納得できるものの、しかし、現在の日本人の多数はむしろ理解できず、あるいは反発するのではないか、という、うんざりとするような気分も同時に湧いたからだ。
 なぜなら、佐伯も言及するアメリカ独立宣言が謳う「自由」や「幸福追求の権利」は現日本国憲法において、まさしく実定法化され(=明文で憲法典にまで書かれており)、少なくとも成文法としては日本国憲法は「最高法規」とされ、それにもとづいて行われた戦後の公教育のための、疑いをもつことが許されないほどの<理念>としてすらされてきた。
 あらためて、現日本国憲法13条を引用しよう。
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 第一文でいう「個人の尊厳」(の保障)が樋口陽一をはじめとする<左翼>(かつおそらくは圧倒的に多数の)憲法学者において、現憲法の最重要の基本理念とされていることは、すでにニュアンスを変えつつ、この欄でも何度も言及した。
 この<個人の尊厳(の保障)>=「個人の尊重」とともに「(自由および)幸福追求に対する権利は…国政上最大の尊重を必要とする」と現憲法は謳っているのであり、かかる憲法規定を知り、学んだほとんどの(かつての、も含む)少年・青年たちには、とりわけ、狭く言えば大学の法学部で憲法を勉強した者たちには、さらには司法試験に合格し専門法曹になったような者たちには、<個人が尊重され>、個人がそれぞれ<幸福を追求する権利をもつ>ことは、疑問を微塵も生じさせないだろうような、しごく常識的で、当然のことになってしまっている、と思われるのだ。
 この13条の淵源はアメリカに、ひいては西欧(欧米)の法(人権・)思想にある。そして、佐伯啓思も指摘するように、必ずしも日本人本来の「人間」観・「人生」観とは合致していない、と思われる。
 だが、そのような問題があることを全くかほとんど意識することなく、<個人の尊厳>と<幸福追求権>の保障が存在することを、現在の日本人の多くは当然視しているのではないか。
 佐伯啓思の一文の内容を諒解しつつ、怖ろしいと感じるのは、上のことにある。
 佐伯啓思の考えていることと、日本国憲法に明示されていることにもよる、多数日本人の意識の間の、この大きな乖離。ここに怖ろしく感じる原因はある。
 それぞれの個人が(自由に)<幸福を追求>することができる、ということ自体は当然のようにも思えるが、佐伯も指摘又は示唆するように、個人は<平等に>「自由」・<幸福追求権>をもつと考えられていることから、他人との間の比較意識、<格差>を嫌う、<そねみ・ねたみ>の意識は容易に生じる。もともと日本人にとっての「自由」とは(他人に害悪を及ぼさない限度での)<気まま>・<放恣>・<何でもアリ>の気分に転化してしまっていること(これはほとんど<多様な個性の尊重>という通念に等しいこと)は、あえて長々と書かなくてよいだろう。
 こうした「自由」・<幸福追求権>を支えるかのごとき<個人の尊重(「個人の尊厳」保障)>の理念も元来は欧米に由来するものであることは、代表的な憲法学者だったらしい樋口陽一が、フランス革命期の<ジャコバン型個人主義>を日本人も(もっと?)体験すべき、と主張していることからも明らかだ。そして簡潔に書くが、丸山真男・樋口陽一(・辻村みよ子)らの日本の「左翼」知識人たちは、日本人は(欧米人のように?)自己を確立した<強い個人になれ>と戦後ほぼ一貫して(戦前から?)主張してきたのだ(そこでは自分は欧米的な「個人」として自立しているが日本の
「大衆」はまだ<遅れている>という暗黙の前提があった)。
 このような欧米的思想を継受した日本国憲法のもとで培養された現代日本「国民」の意識は必ずしも佐伯啓思のそれと同じではないと思われる。佐伯を批判しているのではなく、はがゆい思いで、事実の認識として書いている。
 そして、ここにもまた、日本「国民」の間の<国論の分裂>の根っこを感じ取らざるをえない。
 (「家族」に関する規定のない)日本国憲法も描く<自立した強い個人>の<自由(勝手)>な<幸福追求>活動の保障というイメージは、佐伯啓思の指摘するとおり、やはり日本と日本人の本来の意識とは合致しない、合致するはずがないのではないか。
 「日本人の背負ってきた死生観や自然観」に依拠して日本国憲法をも含めて見直すのか、それともかかる「日本人」意識あるいは<ナショナルなもの>は捨てて<普遍的な>「国際人」(地球市民?)になることを目指すのか、人についても国家についても、基本的なところで<国論の分裂>があり、あちこちで火花を散らしている。
 以上、内容としてはじつに幼稚な、新味のない文章になった。 

0841鳩山由紀夫には行政権・検察の関係をわきまえる素養があるのか?

 鳩山新内閣につき、当初、<美辞麗句(だけの)>内閣と呼んだことがあったが、ほんのしばらくして<左翼(=容共)・売国政権>との呼称と評価で一貫させてきた(つもりだ)。
 それは今でも変わらないし、ますますその感を強める。だが、<学級民主主義内閣>とか<生徒会運営内閣>とかの旨の論評も散見するし、そもそも鳩山由紀夫という人物には、(かりに日本国憲法を前提としても)国家・国政・権力分立等に関する基本的な素養が欠けているのではないか。
 1月16日午前に鳩山は小沢一郎と逢ったが、その後の記者会見で鳩山は、その際に小沢に対して、<幹事長を信じています。どうぞ(検察と)闘って下さい>と述べた、と自ら明らかにした。
 唖然とする、異常な発言だ
 小沢が<検察と闘う>ことを支持する、少なくとも容認することを鳩山が明言するということは、現在の<検察>の動きを支持していない、疑問視している、ということを意味するはずなのだ。
 そうでなければ、「どうぞ闘って下さい」などと言えるはずがない。
 しかして、鳩山は民主党代表であるとともに、日本国の内閣総理大臣、行政権・内閣の長でもある。
 検察組織も広義の行政組織に他ならない(明確に裁判所=司法権とは区別される)のだが、行政権・内閣の長が、かくも簡単に<検察>批判をしてもよいのか?? 少なくとも<検察と闘う>ことを支持・容認することをかくも安易に明言してよいのか??
 田中角栄などの元首相等が検察組織と「闘って」きたことはある。だが、現職の内閣総理大臣が<検察と闘う>ことを少なくとも支持・容認することを明言したことはなかった、と思われる。
 一般論として、検察の動きに<政治性>が全くない、とは言わない。だが、内閣総理大臣、行政権・内閣の長は、政治家がらみで捜査中あるいは訴訟継続中の事案について、どちらかに傾斜した特定の見解を示すべきではなかろう。このような、中立的・抑制的姿勢が全く感じられない「お坊ちゃん」は、首相という自らの立場を忘れ、(幹事長に頭の上がらない)政党の代表という意識しかないのではないか。こんな首相が現に、いま存在しているということは極めて怖ろしい。
 佐伯啓思は今年に入ってから産経新聞に日本では<型の喪失>が進行している旨指摘していたが、あえて関連させれば、現職内閣総理大臣においても、基本的な部分での立憲主義的<型>の忘却が見られるわけだ。異様、異常という他はない。
 ついでに続ければ、民主党の森裕子議員は「検察をトップとする官僚機構と国民の代表である民主党政権との全面的な戦争です。一致団結して最後まで戦う」と発言した。
 笑わせる、のひとこと。現に「政権」を握る者たちと「検察」の「全面的な戦争」とはいったい何だ?? それに「検察をトップとする官僚機構」と「国民の代表である民主党政権」という基本的区分自体に誤りがある。幻想・錯覚と妄想の中で生きている民主党議員も多いのだろう。 

0838/「行政刷新会議」なるものによる「事業仕分け」なるものの不思議と危うさ。

 「行政刷新会議」なるものによる「事業仕分け」なるものには、よく解らないことが多すぎる。
 一 まず、「行政刷新会議」とはいかなる行政機関なのか?
 憲法上、「予算を作成して国会に提出すること」は内閣の職務とされている(73条五号)。その内閣の職務を内閣総理大臣が代表?して行い、その手伝いをしているのが、従来は主として財務省(財務大臣)だったところ、現政権においては「行政刷新会議」なのだろう。
 それはそれでよいとして、では、「行政刷新会議」なるものの設置根拠はどこにあるのか?
 国家行政組織法によると、国の「行政機関」である「省、委員会及び庁」の設立には法律の定めが必要だが(3条)、この「会議」にはそのような法的根拠はないと見られる。
 国の組織・機構に関して国のHPを見てみても、「行政刷新会議」は正確には位置づけられていない。官邸HPのトップに突如として「行政刷新会議」なるものが現れる。そしてどうやら、つぎの<閣議決定>に設置根拠はあるようだ。
 「行政刷新会議の設置について 平成21年9月18日閣議決定
 1 国民的な観点から、国の予算、制度その他国の行政全般の在り方を刷新するとともに、国、地方公共団体及び民間の役割の在り方の見直しを行うため、内閣府に行政刷新会議(以下「会議」という。)を設置する。
 2 会議の構成員は、以下のとおりとする。ただし、議長は、必要があると認めるときは、構成員を追加し、又は関係者に出席を求めることができる。
 議長   内閣総理大臣
 副議長  内閣府特命担当大臣(行政刷新)
 構成員  内閣総理大臣が指名する者及び有識者
 3 関係府省は、会議に対し、関係資料の提出等必要な協力を行うものとする。
 4 会議の事務は、内閣府設置法第4条第2項の規定に基づき、内閣府が行うこととし、内閣府に事務局を設置する。
 5 会議は、必要に応じ、分科会を置くことができる。
 6 前各項に定めるもののほか、会議の運営に関する事項その他必要な事項は、議長が定める。」
 閣議決定は法律でも政令でもない(省令でもない)。「国民の皆さま」を代表する議員によって構成される国会によって承認されてはおらず、行政権かぎりでの事実上の決定にすぎない。これによる機関・「会議」の設置が違法とまでは言えないだろうが、そのような機関・「会議」がそのような位置づけにふさわしい仕事だけをしているかが問題になりうる。
 だが、担当大臣(仙石某)まで置かれ、事実上であれ、予算案編成作業に関して重要な役割を果たしているようだ。むろん法的には、そこでの作業は内閣総理大臣や内閣を法的に拘束しない、たんなる<たたき台>にすぎない、と説明されるのだろう。
 だが、たかがそんな組織にしては、(とくにその<仕分け作業>に)マスコミは注目しすぎているのではないか。また、民主党や政府の側も、たかが一つの準備作業を<オープン>にすることによって<ショー>・<パフォーマンス>化して、政治的には自らに有利な方向に利用しようしているのではないか。それに引っ掛かっているマスメディアも見識が不足しているというべきだ。
 二 ますます不思議なのは、<仕分け人>の位置づけだ。
 上の設置要綱(閣議決定)によると、「議長〔内閣総理大臣〕は、必要があると認めるときは、構成員を追加」することができ、また、「構成員」は「内閣総理大臣が指名する者及び有識者」とされている。
 気になるのは、第一に、国会議員、すなわち枝野某や蓮某らが、<仕分け人>として仕事をしており、どうやら少なくとも「分科会」の構成員であることだ。
 内閣によって提出された予算案を議決して正式の予算とするのは国会の仕事だ。
 ということは、彼ら国会議員は(上の二人に限らない)、予算案の作成の準備作業に参画し、かつ最終的には国会議員として、予算に関する議決にも関与することになる。この後者の権限・任務は当然だが、そのような権限・任務・職責を持つ者が、そもそも同時に前者、つまり事前の作成作業にまでかかわってよいのか??
 たとえば、事前の段階で<仕分け人>として持って(<仕分け>会議で)公にした見解(特定の事業補助費等の予算配分への賛否等々)と矛盾する案が最終的には内閣によって決定され、国会に提出された場合、彼らはどういう態度をとるべきか?、という問題が生じうる、と考えられる。
 むろん、見解・意見は変わりうるものだとして、かつては反対した予算配分を含む予算案全体に賛成することは法的に禁じられるわけでもあるまい。
 だが、そもそも、このような問題を生じさせるようなことをすること、つまり副大臣でも政務官でもない国会議員を、「行政刷新会議」(の分科会?)の構成員とすること自体が適切とはいえないのではないか??
 屋山太郎は、これまた政治家による行政官僚統制だとして肯定的・好意的に評価するのかもしれないが、ここで生じているのは、立法府(法律制定者・予算決定者)の一員と、行政府(予算案作成・「行政刷新会議」)の一員との兼職であり、国会と行政権との間の混淆あるいは区分の崩壊であるように思われる。
 これは議会制民主主義の範疇を超えている、というのが私の直感的感想だ。
 第二に、<仕分け人>の中には、民間人も入っている。「有識者」とされているのだろう。この民間人の「参加」はどのように考えられるべきものだろうか。
 審議会類に民間人が学識経験者として入ることはよくあることだが、その場合、非常勤の「公務員」として扱われる。そして、「行政刷新会議」の<仕分け人>もそのように位置づけられるのだろう。
 だが、マスコミによって大きくとり挙げられるわりには、いかなる基準・資格認定によって、一定の民間人が<仕分け人>として採用されているのかは、さっぱり分からない。議長=内閣総理大臣(鳩山)も副議長(担当大臣=仙石)も、この点を何ら明らかにしていないように見える。
 こんな曖昧な選任方法によって仕分け人とされた者に、華々しく話題にされるような仕事をさせてよいのか?
 あるいは、これは予算編成作業の過程への<市民参加>なのだろうか。だが、予算編成作業編成過程の透明化や何らかの「国民」参加がかりに必要であり、少なくとも違法ではないとしても、現在行われている専門家?民間人の「参加」が、そのための十分に必要な条件を満たしているとは思えない。
 何ゆえに、いかなる理由でもって、特定の民間人(専門家?)が仕分け人に選任されているのか、その基準がさっぱり分からず、公にされていない、と思われるからだ。
 第三に、ますます訳が分からないことがあることがある。仕分け人の中には碧眼の欧米人も入っている。きちんと確認していないが、その人物は日本人、すなわち日本国籍をもつ者なのか??
 かりに外国籍の者だとするとそのような者に、日本国の予算案作成(編成)過程に関与させてよいのか?? これに関与して意見を言う資格(・権利)は国政参加権にもとづく一票(投票権)の行使よりも大きいというべきだ。
 この疑問はすこぶる大きい。いかに「友愛」だとて、「地球市民」感覚だとて、外国人には日本の予算案策定事務に「参加」する<資格>も<権利>もなく、これらを与えてはならないだろう。
 三 以上のような種々の疑問をもつが、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアがこのような問題について説明したり解説したりしているのを読んだり見たりしたことはない。
 野党・自民党もまた、このような観点からの批判はまるでしていないようだ。ただ<ショー的>だ、と指摘しているだけで、重要な政治的・法的問題がある、という問題意識はないように見える。
 重要な政治的・法的問題がある可能性がある、という問題意識が全く希薄であるようなのは、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアも同じ。評論家たちの意見はよく知らない。
 国会(立法府)と行政権(府)の議会制民主主義における適切な協働と緊張関係を超えた融合は、むしろ危険視すへきだ。
 国会(議会)・行政権の一体化と、それらを背後で実質的に制御する政党(共産党)、というのが、今もかつても、<社会主義>国の実態だった。
 そこまで大げさな話にしなくてもよいが、<行政刷新会議>とそこでの<事業仕分け>なるものには、何やら怪しさ・奇妙さと覚束なさがつきまとう。
 大マスコミも、多数いるはずの政治・行政評論家も(憲法研究者を含む学者はもちろん)、以上のような疑問に答えてくれていないようであることこそ、まさに異常なことではないか。成りゆき、ムードに任せてはいけない。

0837/<左翼・容共(親中・隷中を含む)>政権の先導役・朝日新聞。

 一 朝日新聞には感心する。文化・芸能・スポーツ等々、日本共産党の機関紙・赤旗にスポ-ツ欄やテレビ欄があるのと同様に、まるで一般的諸問題を扱い、あるいは高校野球大会(夏の甲子園)の主催者にもなって、まるでふつうの・まともな新聞社・団体であるかに装ってはいるが、その実、見事に<左翼・容共(>親中・隷中)>で、民主党新政権を支持・掩護する政治団体であることを隠そうとする、その巧みさに、だ。しかし、-。
 今月に朝日新聞社系出版社から出た本に、あくまで例えばだが、朝日ジャーナル別冊1989-2009/時代の終焉と新たな幕開け-希望の思想はどこにあるのか?、がある。ここでは2009年の政権交代が「新たな幕開け」と肯定的に理解されていることは間違いない。はたしてそうか。良い方向への「幕開け」だったかどうかを判断するのは、少なくともまだ早すぎる。
 山崎養世・高速道路無料化-新しい日本のつくり方(朝日文庫)というのも、今月に出ている。この本は、「民主党のブレーンでもある著者が、無料化問題を集大成。『無料化こそが日本経済を復活させる』成長戦略であることを明快に説く」ものらしい。朝日新聞が民主党および民主党ブレーンを好んでいることは明らか。
 先月(9月?)には、表紙に「民主党がわかる/民主党衆院議員308人完全データ」等と書かれた、アエラ2009年10月号増刊が書店に並んでいた。選挙直後に、表紙に「民主党革命」と大きく謳ったのは、週刊朝日だった。
 二 最近の社説を見て喫驚したのは、11/23付「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」だ。
 これを読むと、朝日新聞は民主党政権を支持し掩護するのみならず、自分たちが好ましいと考える方向へと政権を先導する役割をも果たそうとしているようだ。<左翼・容共(>親中・隷中)>への世論誘導者でもあり、アジテーターでもある。
 むろんかつての(今もある?)「左翼過激派」 活動団体のビラのような、煽情的な書きぶりはしない。紳士的?に書いてはいる。だが、中身はすごい。
 ①「鳩山政権は『多文化共生社会』をめざすという。実現へ踏み出すときではないか」。「…そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい」。
 ここでの「多文化共生社会」・「多様な生き方を尊重する社会」とは近年の「左翼」が好んで口にするフレーズであることを読者は知らなければならない。あるいは、こんな情緒的な言葉でもって、外国人(地方)参政権付与の是非を議論してもらっては困る。
 ②「世界を見ても、一定の要件を満たした外国人に参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る」。
 読者はこれを読んで、世界の傾向などと誤解してはいけない。欧州にはEUの存在などの特有の事情がある。それに、この社説が「一定の要件を満たした外国人に」とだけ書いていることに注目すべきだし、かつその「一定の要件」を朝日新聞社説は明確に書いていないのも杜撰であり、じつは卑劣だ。
 ③反対論の中には、「人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張」があり、「首をかしげる」、と書く。これは一種のデマゴーグ文章だ。反対論=<排外主義>者(排外的・偏狭なナショナリスト)とのレッテルを貼ろうとしている。
 ④民主党は国交のある国籍の者に限る=北朝鮮国籍者を排除する法案を検討しているらしい。これにも朝日社説は噛みつく。現時点の民主党よりもさらに<左翼(容共)>に位置する主張だ。「左」から民主党を実質的に批判していることになる。
 「しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう」。
 「北朝鮮を支持しているわけではない」者を配慮した文になってはいるが、実質的・結果的に親北朝鮮の姿勢であることは明らか。北朝鮮だけを特別扱いするな、と言いたいわけだ。
 また、「朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない」ということは、選挙権付与のためのまともな根拠になるのか。つまり熱烈な北朝鮮体制支持者であれば選挙権を付与しなくてもよい、と朝日新聞は主張するつもりなのか。
 もう少しはまともで論理的な議論をし、そのような文章を書いてほしい。
 「良き隣人として共に地域社会に参画する制度」とは、上の①のこともあてはまるが、民主党・鳩山由紀夫と同様の美辞麗句でもある。「必ずしも」、「良き隣人」ばかりではないのではないか、と感じることの方が常識・良識をもつ人間の感覚だろう。ここでは、(特定の)在日外国人(日本国籍をもたない者)はすべてが「良き隣人」だと理解されているようにも読める。「東アジア共同体」構想にも通じるところがあるが、なぜか(いや確信的にだろう)朝日新聞は東アジア諸国には<優しく、甘い>。
 三 他の社説を見てみると、11/22付の「G2が動いて世界が動く」で最後にいう米国と中国についての「二つの大国」という表現は、たんに温室効果ガス排出量一位と二位の国だという意味ではなさそうだ。
 11/21付「たじろがず新成長戦略を」も面白い。
 新政権による「デフレ宣言」による、経済政策・景気対策の観点からの民主党政権批判の増大、支持率低下を怖れてだろう、<助け舟>を出している。
 「いまは、鳩山政権が掲げる「コンクリートから人へ」の大方針に沿った福祉経済化や雇用対策、地球温暖化対策としての「グリーンな経済」づくりを基礎に、民間の投資や消費を引き出すような成長戦略を組み立て、実行に移すことが期待される」。
 「福祉経済化や雇用対策、地球温暖化対策としての『グリーンな経済』づくり」が、民主党の採る経済政策だと言っている。これは民主党の立場に立っての釈明だとも理解できる。
 「来日したOECDのグリア事務総長は今週、日本の課題について、女性の社会進出や環境技術の発展で「新たな成長をめざす必要がある」と指摘した。このエールにこたえたい」とも最後に書く。これは「女性の社会進出や環境技術の発展」による経済成長・景気対策を是として、民主党政権に期待するものだ。
 民主党・現政権を何とか援護したい気分は分かるが、どうせ経済オンチの朝日新聞論説委員のご高言を信頼していたのでは、日本経済は立ちゆかないことは目に見えている。

0830/日本共産党員の、林直道・強奪の資本主義(新日本出版社、2007)を一読。

 一 林直道・強奪の資本主義-戦後日本資本主義の軌跡(新日本出版社、2007)は、「一九四六年に大学を卒業してそのまま大学に残り、経済の研究の道を選びました」(p.231)という、経歴とこの本の出版社から見てほぼ間違いなく日本共産党員と思われる経済学者の本。
 精読していないが(つもりもないが)、「戦後日本資本主義」の軌跡をマルクス主義・日本共産党の史観から見て、<できるだけ悪く、悪く、「強奪の資本主義」への道>として描いている。
 二 少しは参考になりそうなのは、戦後日本資本主義の軌跡を大きく四段階に分け、さらに全体(但し2007まで)を八段階に分ける、その区切り方だ。簡略化してメモすると以下のとおり。
 第一・基礎作りと対米従属固め、①敗戦直後(1945-50)、②朝鮮戦争(1950-54)、第二・巨大な経済発展、③高度経済成長(1955-73)、④石油危機・ハイテク産業確立(1974-82)、⑤経済大国化・バブル(1983-90)、第三・長期不況・財政破綻・リストラ、⑥長期停滞(1991-2003)、第四・「強奪資本主義への暴走」、⑦小泉「構造改革」(2001-06)、⑧「経済成長第一主義の超タカ派安倍内閣」(2006-)。
 三 興味深い叙述を二点。
 第一。林直道は、日本は「資本主義国として異例の繁栄」をし「かなり好もしい安定」状況にあったが、それは「…新しい憲法と教育基本法があって、日本が外国とは絶対に戦争しないという大安心に支えられていたから」で、「戦後の民主改革のおかげだということを忘れてはなりません」と書く(p.10)。
 日本共産党(員)もまた<戦後レジーム>の信奉者であることを示している。また、寝惚けた<憲法平和教>を説いているのも「左翼」そのもの。「日本が外国とは絶対に戦争しないという大安心」が万が一あったとしても、外国から「(侵略)戦争」をされれば、防衛「戦争」又は(「戦争」という語をあえて避ければ)自衛の「実力行使」をせざるをえなかったのではないか。そういう大きな事態にならなかったのは憲法九条二項のおかげでも何でもない。林直道や日本共産党は承認しないだろうが、日米安保と米軍駐留(「核の傘」)が他国による「戦争」を抑止してきたと見るのが健全な常識だ。
 林直道や日本共産党にとっては、「戦争」を仕掛ける危険があるのはつねに日本で、近隣には日本(の国土と国民を)を「侵略」しそうな外国は全く存在しなかった(存在しない)のだろう。
 もっとも、「全般的危機」に陥って社会主義への展望が出てくる筈なのに、そうではないのは「新しい憲法」と<戦後レジーム>のためではないか? そうだとすると、共産主義者は本当は、現憲法と<戦後レジーム>を呪い、廃棄・打倒を目指すはずなのだ。<当面、民主主義革命>の日本共産党の路線の苦しいところだろう。
 第二。最後の節のタイトルは「新しい平和友好のアジア共同体へ」。鳩山某首相の「東アジア共同体」論と似ているではないか。
 林直道は書く-「日本は…、アメリカ偏重を改め、近隣アジアとの友好協力を深める方向に進むべきです」(p.217)。鳩山由紀夫はこの本を読んではいないだろうが、鳩山某首相の発言とそっくりではないか(鳩山・民主党政権は「左翼」=「容共」の証左でもある)。
 四 林直道は日本共産党員らしく(「左翼」教条者ならば日本共産党員に限らないが)、狂気の言葉を最後に書き散らしている。以下のとおり。狂人の言葉にコメントする気も起きない。
 「中国は信義を重んじる国民性の国」だ。「たとえば田中角栄元首相…、中国は…今も最大限の鄭重な扱い」をする(p.218)。

 「日本の侵略によって中国民衆は1000万人(…)の命を奪われ」た。「中国人は日本軍の行為を『三光』(…)と呼」んだ。「いつまでも忘れる」ことはないだろう。「ところが、靖国神社には、その日本の中国侵略の最高責任者、いわば元凶も祀られて」おり、「あの戦争を『正しい戦争』だったと言い張る遊就館という宣伝センター」もある。「靖国神社は、そういうネオナチの精神に匹敵する特定の政治目的をもった運動体」だ(p.219)。
 「2007年頭の『御手洗ビジョン』」にも「憲法九条を廃棄し、日米軍事同盟を強化して日本の『集団的自衛権』の発動の方向へ踏み切ろうとする安倍政権下の財界主流の意思が示され」ている。「<強奪の資本主義>への道にころがり落ちるのか、…訣別して…人間をたんなるコストとしかみない貧弱な思考=新自由主義を乗り越えるかが問われてい」る。この「乗り越える力」は「社会的連帯という豊かな、創造的思考に裏打ちされた国民の運動にある」(p.221)。
 1946年に21才だったとすると、林直道は現在84才。一度しかない一生を上のような認識と言葉で生きてきて、まことに気の毒というか、あるいは「幸福」だった、というか…。

0829/屋山太郎は大局を観ていない。これが「保守」評論家か。

 一 屋山太郎の発言を記録に残しておく。
 8/30総選挙の投票日前、産経新聞8/27付「正論」で次のように書いた。
 ①「今回の総選挙の意義は官僚が政治を主導してきた『官僚内閣制』から、政治家が政治を主導する『議会制民主主義』に変われるかどうかに尽きる」。「…より熱心に脱官僚政治、天下りの根絶を主張している民主党が政権をとったときの方が期待できる、と私は考えていた」。「民主党の掲げる政策をあげつらえば、外交・安保も含めて内政面でも多々ある。しかし肝要なことは日本が先ず議会制民主主義の本道に立つことである」。
 同じく投票日直前発行の月刊WiLL10月号(ワック)p.24-25でこう書いた。
 ②「今回の選挙の最大のテーマはこれまでの官僚内閣制をやめて、正真正銘の議院内閣制を確立できるかどうかである。重ねていうが、官僚内閣制の存続を許すかどうか、議院内閣制を選ぶかの『体制選挙』なのである」。「『体制選択』のバロメーターは『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心かである」。
 民主党政権成立後の産経新聞9/17付「正論」欄でこう書いた。
 ③「民主党政権誕生によって、明治以来続いてきた『官僚内閣制』がいよいよ終わろうとしている。官僚内閣制は官僚が良かれと思う政治が行われることで、民意を反映した民主主義とは根本的に異なる。民意を汲み上げることを日本ではポピュリズムと非難する。しかし民意とほとんど無関係に政治が行われていることを国民が実感したからこそ、自民大敗、民主圧勝の答えを出したのではないか」。「民主党の『官僚内閣制』から『議会制民主主義』へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている」。「日本の民主主義は官僚にスポイルされていたのだ」。
 同じく、月刊WiLL12月号(ワック)p.22-23でこう書く。
 ④「鳩山政権誕生とともに…事務次官等会議が廃廃止された」。「明治の『官僚内閣制』を象徴するシステム」の存続は「日本は純然たる民主主義国ではなかったこと」を意味する。「自民党支持者のほとんどはそもそも国家経営の基本が間違っているという自覚がなかった。大衆は賢明だったというべきだ」。
 

 二 屋山は、総選挙の最大争点は(平たくは)「『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心か」だと書き、あるいは「官僚内閣制」か「議会制民主主義」かだ、と主張してきた。そして、民主党勝利・民主党政権誕生を歓迎し又は当然視し、「大衆は賢明だったというべきだ」とする。
 この近視眼的な争点設定・評価に対する批判はすでに書いた。
 あらためて別の書き方をすると、第一に、この人は、「政治」の一端には詳しくても<政治思想・哲学>・<社会・経済思想>に関する教養・知識は乏しいのではないか。第二に、そもそも、コミュニズム(共産主義・社会主義)あるいは中国・北朝鮮(の存在)をどう評価しているのか、不明だ。そして、第三に、この人が現在目指す最大の価値は「民主主義」になっていると見られる。それでよいのか。
 屋山において、価値序列、重要性の度合いの判断に誤りがある、と感じる。
 屋山は、だが、こう書いていた。-「民主党の掲げる政策をあげつらえば、外交・安保も含めて内政面でも多々ある。しかし肝要なことは日本が先ず議会制民主主義の本道に立つことである」。
 民主党の政策には「外交・安保」等々多くの問題があるが、最優先されるべきは、「議会制民主主義」の確立だ、と言うのだ。
 以下、この点に論及する。
 三 民主党(政権)が自民党(政権)と異なり、「議会制民主主義」の確立に向かう、と観るのは、幻想だと思われる。
 第一。この概念は議会(国会)と政治・行政の関係に関するものだ。したがって、<政治・行政>の内部でいかに「政治(家)主導=官僚排除」となっても、それは議会制民主主義の基本問題ではない。副大臣・政務官は、国会議員が同時に広義の<行政官僚>になった、と理解すべきものだ。 
 「政治(家)主導=官僚排除」と<議会制民主主義>の確立・充実は同義ではない
 第二。民主党政権下における<議会制民主主義>の軽視・無視の徴候はすでに見られる。
 ①「議員立法」を(民主党議員については)廃止するとか。これは、憲法に違反すると解される。
 ②衆議院では(参議院でも)民主党は政府に対する「代表質問」をしなかった(参議院では与党社民党の質問はあった)。これは、政治・行政(=広義の「行政)」の中に民主党議員(政治家)が入っているので無意味という趣旨なのだろうが、国会と政府(政治・行政)間の良好な緊張関係をなくすもので、国会軽視だと考えられる。
 その他、<議会制民主主義>の問題ではなく、「政治(家)主導=官僚排除(脱官僚)」の問題だが、次の現象も―周知のとおり―生じている。
 すなわち、屋山太郎は争点は「『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心か」だと説いたが、日本郵政(株)の社長人事は、「天下り」した元(財務省)官僚の「渡り」そのものではないか
 屋山に問いたいものだ。
 ①「天下り」・「渡り」禁止は退官後いつまで通用するのか。まだ5年では禁止され、15年経っているともう適用されないのか?
 ②退官後の期間の長短にかかわらず「有能」で「適材適所」ならよいのか。客観的資料(報道)を引用できないが、鳩山由紀夫(首相)か平野博文(内閣官房長官)は「民主党の政策を支持する(=~に服従する)」元官僚ならばよい、とも述べていた。これでは、せっかくの<「天下り」・「渡り」禁止>も泣く。実質的な基本政策放棄だろう。
 ③日本郵政(株)はかつての公社・公団等、今日の独立行政法人等々に比べて<公的>性格の弱い会社だから、今回の人事は許されるのか? だが、民営化方針を見直し、今後は<公的>性格を高めるというのだから、この理由は成立し難いのではないか。
 おそらくは、屋山太郎の期待・願望に反する事態がこれからも発生してくるだろう。
 <「天下り」・「渡り」禁止>問題自体になお議論すべき余地があるが、この問題はいずれにせよ、まだマイナーな問題だ。
 四 民主党政権下で生じそうなのは、<議会制民主主義>の確立・充実ではなく、国会と政府の一体化、つまりは、ますますの<行政国家>化ではないかと思われる。「行政国家」概念を屋山が知らなければ、政治学・行政学の辞典・教科書でも参照されたい。この現象は、(あいまいな言葉だが)民主党(小沢?)「独裁」につながっていく可能性がある。
 あるいは、鳩山由紀夫(首相)は<市民参加>を肯定的に評価し、推進したい旨を喋っているが、これは議院内閣制=議会制民主主義=代表制民主主義とは矛盾しうる、<直接民主主義>の要素の拡大を肯定することでもある。
 かりに<議会制民主主義>に論点を絞るとしてすら、屋山太郎は大局を観ていない。

0828/鳩山由紀夫「私の政治哲学」に見るアメリカ・「経済」観等。

 一 有名になった鳩山由紀夫「私の政治哲学」月刊ボイス9月号(PHP、2009)に、この欄で8/28と9/18に既に二回言及した。
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1192822/
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1227260/
 前者では、鳩山が紹介するカレルギーの「友愛」理念のように、鳩山は「左右の全体主義との激しい戦い」(p.133)をする気が本当にあるのかを疑問視し、後者では「東アジア共同体」構想を疑問視した。
 これらとは別の論点に触れる。鳩山は上掲の文章で次のように書く。
 「友愛」は「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われた国民経済との調整をめざす理念」で、「それは、市場至上主義から国民の生活や安全をめぐる政策に転換し、共生の経済社会を建設すること」を意味する。
 「いうまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終了後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされた」。「米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、…グローバリズムとか呼ばれた」。
 「米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的…であり、諸国は…経済社会の構造をグローバルスタンタード(じつはアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった」。
 「日本の国内でも、…、これを積極的に受け入れ、すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった」。
 「グローバリズムは、…経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した」。
 「冷戦後…の日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を圧迫し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないであろう。郵政民営化は、…をあまりにも軽んじ、…、郵便局のもつ経済外的価値や共同体的価値を無視し、市場の論理によって一刀両断にしてしまったのだ」(p.136)。
 <郵政民営化>問題に立ち入らない(立ち入れない)。
 上の文を読んで感じる一つは、この鳩山<論文(?)>がどのように要約されて英訳されたのかは知らないが、明瞭に<反米>的なことだ(なお、鳩山の上掲の文章に<反中国>的言辞はない)。
 「アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義」=「グローバリズム」=「市場至上主義」が日本を含む諸国の国民経済を「圧迫し」、社会を「破壊し」てきた、と明確に論難している。これは明らかにアメリカ(の経済政策)批判だ。当否はさて措くとしても、<反米>的だと受け止められても仕方がない。
 第二の感想は、近年のアメリカの経済政策あるいはその「資本主義」を、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、ということだ。また、「小泉政権以来の自民党」は「すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たち」だった、と簡単に言ってしまってよいのか。「すべてを市場に委ねる行き方」とは、いくら何でもいい過ぎだろう。
 ついでにいえば、鳩山自身あるいは「私たち民主党はどちらかというと」上とは違う、「社会的な安全網の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする」立場だったとするが、これはマスメディアが騒いだ<格差拡大>等々の<小泉(構造)改革>の結果らしきもの(いかほどに証明されているのか?)を受けての<後づけ>的なものである疑いが強い。
 この文の中心的テーマにしないが、鳩山由紀夫や民主党は<小泉(構造)改革>のための法律案に<すべて>反対してきたのか? 派遣業法の改正等々に賛成したのではなかったのか?
 さらに離れて言えば、現在民主党(鳩山政権)を支持し擁護している朝日新聞は、<自民党をぶっ壊す>と叫んだ小泉を、<郵政民営化>が争点とされた2005年総選挙での小泉(自民党)をむしろ支持し、少なくとものちの安倍晋三内閣に対する態度とは全く異なる好意的評価をしていたのではないか。
 二 共生」の経済社会論とか、最近に国会で鳩山由紀夫が強調している<NPO・市民の方々の(国政)参加>の積極的推進論は、従来からの<左翼>の主張であり、また彼らが好む言葉・概念だ。この点にも、鳩山由紀夫の「左翼」性は露見している。これを自覚していないとすれば、よほどの勉強不足か、もともと「左翼」的(=容共的)心情の人物なのだろう。
 三 上の点は再び触れることがあるだろう。
 上の一で言及した、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、という疑問(・批判)に関連して、根井雅弘・市場主義のたそがれ(中公新書、2009.06)の以下の指摘は興味深い。鳩山由紀夫は読んでいないだろう。以下、要約又は抜粋的引用。
 〇<ソ連・東欧社会主義国崩壊後に「資本主義」の勝利が「市場メカニズム」の勝利とされ、「市場主義」・「市場原理主義」との言葉が頻繁に使われ始めたが、これらは「厳密な学術用語」ではない。伊藤元重(東京大学教授)は『市場主義』との本を出したが(1996年)、「市場メカニズム」を「軽視してきたようにみえる日本の経済システムに活を入れる意図」なのだろう。伊藤は決して「市場万能論者」ではない。>(p.92-93)
 〇<フリードマンは「ほとんど『自由市場至上主義』に近い立場」から「市場の失敗」よりも「政府の失敗」をはるかに「深刻」視した。この点では、「独自の知識論」にもとづき、「市場メカニズム」(ハイエクのいう「価格システム」)を排した「計画経済は必ずつまづくだろう」と社会主義批判をしたハイエクの方が「本質を突いていた」のではないか。>(p.94-95)
 〇<ケインズの受容以降、「純粋な『資本主義』・『市場』」なるものは存在せず、「各国は、程度の差こそあれ、『混合経済』になっている」ことを等閑視すべきではない。サミュエルソン教科書の読者なら容易に分かるだろう。にもかかわらず、「市場メカニズム」・「市場主義」・「市場経済」
等々の「大合唱」が生じた。>(p.95-96)
 以下、長くなるので省略。または別の回に書く。
 根井雅弘著を論評する気はない。要するに、鳩山由紀夫は、「市場至上主義」・「市場原理主義」等をいかなる意味で用いているつもりなのかという疑問をもつし、これらの意味を十分に理解したうえで書いているのか、という批判をしたい。同じことは、<新自由主義>という、日本共産党系の学者・評論家等を含む「左翼」が(かつ経済学の専門家でも何でもない者たちが)、批判するために近年しばしば用いてきている言葉・概念についても言える。
 「混合経済」というか否かは別として(経済学者に任せるとして)、「市場」も「政府」(計画)のいずれも万能ではないことは常識的なことだ。<自由と(公的)規制>の間の具体的な調整こそが<現代国家(自由主義国家・資本主義国家)>の基本的な役割だろう。国と時期によって、どちらにどのように傾斜するかは異なりうる。「市場原理主義」なるものを今は批判している者が、いつかは<政府(公的介入)の失敗>を慨嘆することにならなければよいのだが。

0824/資料・史料-2009.10.09日韓首脳共同記者会見。

 資料・史料-2009.10.09日韓首脳共同記者会見における鳩山由紀夫首相発言

 <冒頭発言>
 鳩山総理
 (1)本日、李大統領夫妻が私ども夫妻をソウルに招待してくださったことに心から感謝申し上げる。私どもは韓国の社会や文化が大好きであり、ほとんどの日本国民が同じ気持ちではないかとの思いをお伝えしたいと常々思っている。李大統領も記者会見の冒頭に述べられたとおり、総選挙直前の6月に、私は李大統領を往訪した。今回の訪韓は、総理就任後3週間、初めての海外訪問先として韓国を選んだのはまさにこの思いからであり、日韓両国が「近くて近い」関係になるようにとの思いを、本日の会談で李大統領と共有することが出来たことを嬉しく思う。日韓両国は、価値観を共有する重要な隣国関係であり、アジア外交の核となるものである。更に多くの分野で協力を深めることにより、東アジア共同体構想の実現に一歩踏み出すことが出来るものと考える。この点についても李大統領と考えを共有できたことを嬉しく思う。
 当然、韓国と日本との間にはいろいろな懸案があるが、新政権は歴史をまっすぐ正しく見つめる勇気を持った政権である。ただし、何でも解決できるわけではなく、時間的な猶予が必要である。未来志向で日韓関係を良好に発展させていくことは、アジアのみならず、世界の経済及び平和にとって重要であり、この点につき大統領からも共感が示された。

 (2)本日の会談では、東アジア共同体構想や北朝鮮問題について話し合うことができた。北朝鮮問題については、李大統領が提唱する「グランド・バーゲン」は極めて正しい考えであると思う。北朝鮮の核及び弾道ミサイルといった問題を包括的に位置づけ、北朝鮮による具体的な行動や意思が示されなければ、経済協力を行うべきではない、むしろ、経済協力の前提として意思が示されることが必要である、という誠に正しい考え方であると思う。拉致問題の解決について、韓国にとっても同種の人権問題がある旨指摘したところ、李大統領からは当然、拉致(問題の解決)も、この包括的なパッケージの中に入っているとの発言があり、大変ありがたく感じた次第である。このように、日韓間の協力、又、米国及び中国との協力を通じ、北朝鮮を六者会合の舞台に戻すべく、引き続き協力していくことをお互いに確認した。

 (3)拡大会合の中では、日韓両国で中小企業が苦しんでいる中、悩みや関心を共有しつつ、金融危機で経済が厳しい状況の中で、「逆見本市」の成功のほか、更に、さまざまなレベルで協力していくことを確認した。また、若い世代による文化交流及び大学間交流を拡充していくことで一致した。李大統領からは、私の妻(幸夫人)が、韓流ブームに乗って韓国人スターに強い関心を有していること、又、先日東京で行われた「おまつり」に参加したことを褒めていただき、嬉しく思った。李大統領とは、若い世代が心の通う交流を積み重ねれば、政治的懸案も解消していくのではないかとの思いを共有した。
 今回の首脳会談は短い時間であったが、極めて有意義な意見交換であり、このような機会を設けていただいた李大統領の厚意に感謝したい。日韓関係が大きく発展することに希望を抱いた。ありがとう。カムサハムニダ。
 <質疑応答>
 ((問)質問が重なるものの、北朝鮮について伺いたい。先ほど総理が会見でも述べていたが、核開発や拉致問題について包括的に解決していくことで一致したということであるが、六者会合再開に向けた具体的な手法をどのようにとっていくかなど、突っ込んだ意見交換は行われたのか。)

 鳩山総理
 どこまでを突っ込んだ意見交換と言えるのかは分からないが、私が申し上げることができるのは、私の方からは、まず、中国の温家宝総理が金正日国防委員長と会談をした、そこでかなり突っ込んだ議論がなされたのは事実だと思う。その中でも六者会合の可能性も言及されているように仄聞している。また、米朝会談が行われる見通しになっているが、私は先般ニューヨークに行った時にオバマ大統領との首脳会談の中で、私は米朝会談を支持する、ただ、支持する前提として、六者会合に是非導いていただきたいということを申し上げ、そのところでも、拉致問題の必要性も言及申し上げたところである。オバマ大統領もそのことを十分に理解する中で米朝協議に臨むという姿勢を示したと私は理解している。
 このように、中国、あるいは米国が先行して北朝鮮との交渉を進めているところだが、それはあくまでもその先に北朝鮮が六者会合に復帰する、その復帰をした中で李明博大統領が提唱されているように、完全に具体的な北朝鮮のメッセージとして、すなわち意思表示、具体的行動として核を廃棄する、あるいは我々からすれば拉致問題の解決を尽くすというようなことをパッケージとして示していく、その時に必要なことは、六者会合の中の五者がお互いに共同歩調をとるということだと理解している。共同歩調をとることができれば、その先に大きな光明を見出すことできる。
 私たちはそのような思いを今日の首脳会談の中で見出した。

 ((問)鳩山総理は、本日も韓日の歴史問題に対し、前向きな立場を明らかにした。若干の時間的な余裕を置きたいと述べていたが、もう少し、歴史問題に対する具体的な構想を伺いたい。特に李大統領は、来年の韓日併合100年を迎え、天皇が韓国を訪問するならば、両国関係の大きな転換点となることを期待し、訪韓を招請する意思を明らかにした。これに対し、日本側ではどのような、そしてどれほどの関心を持っているのか、また、実現する可能性はどれほどあるかを伺いたい。併せて、在日韓国人の地方参政権問題について、鳩山総理の意見を伺いたい。)
 鳩山総理
 私は常に、歴史に対して前向きに、常に正しく歴史を見つめる勇気を持たなければならないと申し上げてきたところであり、そのことを新しい政権の中でも大変重要な考え方として位置づけていきたい。すなわち言うまでもないが、かつてのいわゆる村山談話、その思いを一人一人の政府あるいは国民が大変重要な考え方だと理解することがまず非常に重要なことだと考える。これは日韓関係に関わることであり、ややもすると感情的になりやすい部分を押さえていかなければならないため、国民の皆様に理解いただくには若干時間がかかるということを申し上げたところであり、ぜひ御理解願いたい。
 そして、その問題(歴史認識の問題)の一つとして、いわゆる在日韓国人の皆様の地方参政権の問題もその中に入っている議論だと思っている。私個人の意見は皆様もあるいは既に御存知かとも思うが、私はこの問題について前向きに結論を出していきたいと心の中ではそう思っている。ただ、この問題についても、今申し上げたとおり、国民の皆様の感情、あるいは思いがまだ必ずしも統一されていない。そのことのために、これからしっかりと内閣としても議論を重ね、政府として結論を見出していきたいと思っており、このことに関しても時間というファクターを御理解願いたい。
 また、天皇陛下の訪韓に関しては、私は天皇陛下御自身もその思いを強く持っておられると理解している。ただ御高齢のこともあり、また、日程的なこともあり、更には、総理大臣がどこまでこのことに関して関われるかという問題もある。したがって、私からはこれ以上のことを申し上げることはできないが、(先般)李明博大統領からそのような御示唆をいただいたことに関しては感謝申し上げたい。この問題に関して簡単に分かったということを今申し上げることができない環境であることもぜひ御了承願いたい。
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<下線・太字は掲載者。出所-官邸HP>

0816/月刊正論11月号(産経)と産経新聞10/14書評欄の宇野常寛。

 一 正論11月号(産経新聞社)の渡部昇一「社会党なき社会党の時代」は些か分かりにくいタイトルだが、基本的な趣旨に異論はない(受諾したのは「判決のみ」で東京「裁判」ではないという主張は、既述のように殆ど無意味だが)。先日書いたように、現代日本の基本的対立軸は、容共か反共かにある。
 渡部昇一は、「マルクス主義…との闘いは終わっていない」、「マルクス主義は日本で優勢になってきている」等と書く(p.42)。「マルクス主義」も共産主義も<コミュニズム>も同じ(と私は理解して使っている)。
 マルクス主義者又は容共主義者は、むろん(日本共産党およびごく一部の団体や個人を除いて)、かつてのように、資本主義→社会主義(・共産主義)という発展段階史観を説きはしないだろうし、かつてのソ連や現在の中国・北朝鮮を手放しで擁護しはしないだろう。
 だが、形を変え品を変えて執拗にマルクス主義・容共「心情」にもとづいて発言し行動する者が多いのが日本の特徴だ。中には、親コミュニズムという意識を持たず、たんに<合理的・進歩的(・「民主主義」的)と自分を考えている者も少なくないかもしれない。
 二 ①月刊正論同号の西村真悟「百難不屈!我が新たなる闘争に向けて」は、<友愛>・<東アジア共同体>に関連して、M・ウェーバー(職業としての政治)の次の言葉を引用している(p.55)。なかなか的確で、印象に残る。
 「善からは善のみが生まれ、悪からは悪のみが生まれると考えるのは、政治のイロハも判らない政治的未熟児である」。
 ②「善・悪」の使い方は違うが、次の表現も気に入った。言いたいが巧く表現できないことを、適切かつ簡潔に述べている。
 産経新聞10/04付の書評欄での宇野常寛の表現だ(「批評家」という肩書きのこの人の名は初めて知った)。
 「個人主義と価値相対主義が浸透し、美醜は趣味の、善悪は法の問題に矮小化されざるを得ない現代…」。
 「すべての価値が『~より勝った/売れた/支持された』という結果でしか決まらないのだという開き直りが支配的な現代…」
 いずれも簡潔だが、鋭くかつ含蓄に富む。
 頭の悪い、戯言を垂れ流している<ネット・サヨク>(ネットサヨ)たちには、いかなる意味なのか、さっぱり判らないに違いない。

0814/資料・史料-2009.09.24鳩山由紀夫国連一般討論演説。

 資料・史料-2009.09.24鳩山由紀夫首相国連一般討論演説 
 /第64回国連総会における鳩山総理大臣一般討論演説/2009年9月24日/ニューヨーク

 議長、ご列席の皆様、/トレイキ議長の第64回国連総会議長への就任をお祝い申し上げます。また、デスコト前議長の卓越した指導力に敬意を表します。
 私は、国連が直面する様々な課題への対応において潘基文事務総長が示している献身と指導力を、高く評価します。

 議長、/日本で、制限的なものとは言え選挙制度が始まったのは、今から120年前の1889年のことです。その後、20世紀のはじめには「大正デモクラシー」と呼ばれる時代もあり、選挙によって政府が変わることは、実は日本でも当たり前のことでした。
 このように、日本は民主主義と選挙の確かな伝統を持つ国です。しかし、第二次世界大戦後の日本では、投票を通じた政権交代が行われることはありませんでした。政と官の間の緊張関係が消えて、結果として日本外交から活力を奪ってしまった面があることは否めません。
 しかし去る8月30日、日本国民は総選挙において遂に政権交代を選択しました。それは日本の民主主義の勝利であり、国民の勝利でした。そして先週9月16日、私が日本国首相に就任し、今ここに立っています。
 私の率いる新政権は、民主主義のダイナミズムを体現し、オール・ジャパンの陣容で、直面する内政・外交の課題に全力で取り組む所存です。

 議長、/日本が国際連合への加盟を承認されたのは、1956年12月18日です。その時の首相が、我が祖父、鳩山一郎でした。
 日本の国連デビューとなった第11回総会で、当時の重光葵外相は次のように述べています。
 「日本の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀の欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西の架け橋となりうるのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を十分自覚しておるのであります」と。
 当時の首相である祖父・一郎は「友愛」思想の唱導者でした。友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え方です。
 重光葵の演説にある「架け橋」という考え方が、一郎の友愛思想と共鳴していることは実に興味深いことです。

 それから53年後の今日、同じ国連総会の場で、私は日本が再び「架け橋」としての役割を果たさんことを、高らかに宣言したいと思います。

 議長、/今日、世界はいくつもの困難な挑戦に直面しています。決して、やさしい時代ではありません。しかし、「新しい日本」はそのような挑戦に背を向けることはしません。友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明の間等で世界の「架け橋」となるべく、全力を尽くしていきます。
 本日、私は日本が架け橋となって挑むべき5つの挑戦について述べます。

 第一は、世界的な経済危機への対処です。
 世界経済は、最悪期を脱したかに見えるものの、雇用問題をはじめ、予断を許さない状態が続いています。
 そこでまず、日本がやるべきことは、自身の経済再生です。新しい日本にはそのためのプランがあります。
 年間5.5兆円の子ども手当は、教育への投資であると同時に、消費刺激策であり、少子化対策となります。
 自動車の暫定税率の廃止は、年2.5兆円の減税策であるとともに、流通インフラの活性化によって日本産業のコスト競争力を改善することが期待されます。
 後で述べるように、我々は極めて高い気候変動対策の目標を掲げていますが、そのことによって電気自動車、太陽光発電、クリーンエネルギー事業など、新しい市場が生まれるでしょう。また、海洋・宇宙・次世代ITなどの分野でも、新産業・新技術の創造を通じて安定的な成長力を確保します。
 政権交代を通じた経済政策の見直しにより、日本経済は復活の狼煙を上げるに違いありません。

 次に、新しい日本はグローバリゼーションに適切に対処する必要があります。グローバリゼーションという世界的な相互依存の深化には、光の側面と影の側面があります。光の部分を伸ばし、影の部分を制御することが今日の世界の課題となっています。
 貿易・投資の自由化を進める一方、市場メカニズム任せでは調整困難な「貧困と格差」の問題や、過剰なマネーゲームを制御する仕組みづくりのため、国際協調が求められています。G20を含む国際会議の場で、日本は共通のルール作りに向けて、「架け橋」の役割を果たしていきます。

 二番目の挑戦は、気候変動問題への取組みです。
 異常気象の頻発や海水面の上昇などに見られるように、地球温暖化は我々の目の前に現実に存在する危機です。しかも、一国で取り組んでも限られた効果しかあがりません。ところが、先進国と途上国、先進国の間、途上国の間と、各国の間で短期的な利害が一致せず、ポスト京都議定書の枠組み構築の道のりは決して平坦ではありません。
 新しい日本政府は、温室効果ガスの削減目標として、1990年比で言えば2020年までに25%削減を目指すという非常に高い目標を掲げました。交渉状況に応じ、途上国に対して、従来以上の資金的、技術的な支援を行う用意があることも明らかにしました。もちろん、すべての主要国による公平かつ実効性のある国際的枠組みの構築及び意欲的な目標の合意がわが国の国際約束の「前提」となりますが、日本がこのような野心的な誓約を提示したのは、日本が利害関係の異なる国々の「架け橋」となり、将来世代のためにこの地球を守りたい、と願ったからにほかなりません。
 私はご臨席の皆様に強く訴えます。来るべきCOP15を必ず成功させようではありませんか。
 第三は、核軍縮・不拡散にむけた挑戦です。
 米ロ間で核兵器削減交渉が進展しつつあることを私は歓迎します。英仏の独自のイニシアティブも同様に評価しており、すべての核保有国が具体的な核軍縮措置をとることが急務です。そして、新たに核兵器の開発を企図する国が存在するほか、核物質や核技術がテロリストの手に渡り、実際に使われる危険性は、今後ますます高まりかねません。
 この分野でも、日本は核保有国と非核保有国の「架け橋」となって核軍縮の促進役になれる可能性があります。すなわち、核保有国に核軍縮を促し、非核保有国に核兵器保有の誘惑を絶つよう、最も説得力を持って主張できるのは、唯一の被爆国としてノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキを訴え続けてきた日本、そして、核保有の潜在的能力を持ちながら非核三原則を掲げ続けている日本です。
 今年4月、オバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」の構想を示したことは、世界中の人々を勇気づけました。私もその一人です。来年5月のNPT運用検討会議を成功させるためにも、CTBTの早期発効やカットオフ条約交渉の早期開始に向け、我々は今こそ行動すべきです。
 ここで北朝鮮について触れておかなければなりません。北朝鮮による核実験とミサイル発射は、地域のみならず国際社会全体の平和と安全に対する脅威であり、断固として認められません。北朝鮮が累次の安保理決議を完全に実施すること、そして国際社会が諸決議を履行することが重要です。日本は、六者会合を通じて朝鮮半島の非核化を実現するために努力を続けます。日朝関係については、日朝平壌宣言に則り、拉致、核、ミサイルといった諸懸案を包括的に解決し、不幸な過去を誠意をもって清算して国交正常化を図っていきます。特に、拉致問題については、昨年に合意したとおり速やかに全面的な調査を開始する等の、北朝鮮による前向きな行動が日朝関係進展の糸口となるでありましょうし、そのような北朝鮮による前向きかつ誠意ある行動があれば、日本としても前向きに対応する用意があります。
 第四の挑戦は、平和構築・開発・貧困の問題です。
 21世紀の今日においても、貧困、感染症、保健、教育、水と衛生、食料、麻薬などの問題から世界は解放されていません。特に、途上国において事態は深刻です。破綻国家がテロの温床になるという、残念な現実も指摘せざるをえません。昨年来の世界経済危機は、状況の悪化に拍車をかけています。新しい日本はここでも「架け橋」になるべきです。
 日本は国際機関やNGOとも連携し、途上国支援を質と量の双方で強化していきます。アフリカ開発会議(TICAD)のプロセスを継続・強化するとともに、ミレニアム開発目標(MDGs)の達成と人間の安全保障の推進に向け、努力を倍加したいと考えます。
 アフガニスタンの安定と復興のために、日本は、警察支援を含む治安能力の強化や社会インフラの整備、日本の援助実施機関であるJICAによる農業支援や職業訓練を含む人材育成など幅広い分野での支援を実施してきました。その上に立って、アフガニスタンがその安定と復興のために注ぐ努力を、国際社会とともに積極的に支援します。言うまでもなく、アフガニスタンで平和を達成し、国の再建を進める主役はアフガニスタンの人々です。その際、反政府勢力との和解や再統合は、今後重要な課題となります。日本は、この分野で、和解に応じた人々に生活手段を提供するための職業訓練などの社会復帰支援の検討も含め、有益な貢献を果たします。また、周辺地域の安定も重要であり、パキスタンなどに対する支援も着実に行います。
 今日の世界において、「国家の安全保障」と「人間の安全保障」はますます分離不可能になってきました。様々な国家も、民族も、人種も、宗教も、互いの違いを認めて共生する、つまり「友愛」の理念によって「支えあう安全保障(shared security)」を実現することこそが、人類を救う道なのです。
 第五は、東アジア共同体の構築という挑戦です。
 今日、アジア太平洋地域に深く関わらずして日本が発展する道はありません。「開かれた地域主義」の原則に立ちながら、この地域の安全保障上のリスクを減らし、経済的なダイナミズムを共有しあうことは、わが国にとってはもちろんのこと、地域にとっても国際社会にとっても大きな利益になるでしょう。
 これまで日本は、過去の誤った行動に起因する歴史的事情もあり、この地域で積極的な役割を果たすことに躊躇がありました。新しい日本は、歴史を乗り越えてアジアの国々の「架け橋」となることを望んでいます。
 FTA、金融、通貨、エネルギー、環境、災害救援など――できる分野から、協力し合えるパートナー同士が一歩一歩、協力を積み重ねることの延長線上に、東アジア共同体が姿を現すことを期待しています。もちろん、ローマは一日にしてならず、です。ゆっくりでも着実に進めていこうではありませんか。
 議長、/最後に私は、国際連合こそがまさに「架け橋」の外交の表現の場であることを、列席の皆さま方に思い起こしていただきたいと思います。
 国際の平和と安全、開発、環境などの諸問題の解決にあたり、国連の果たす役割には極めて大きいものがあります。私は、国連をもっと活かしたいし、国連全体の実効性と効率性を高めたいとも思います。
 日本は国連、中でも安全保障理事会において、様々な国の間の「架け橋」として、より大きな役割を果たすことができる、と私は確信しています。安全保障理事会の常任・非常任理事国の議席の拡大と日本の常任理事国入りを目指し、そのための安保理改革に関する政府間交渉に積極的に取り組んでまいります。
 以上、「新しい日本」からのメッセージをお伝えしました。
 ご清聴に感謝します。
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 いくつかコメント。
 気になる言葉・表現-①選挙による「政権交代」がなかったことが、「政と官の間の緊張関係が消えて、結果として日本外交から活力を奪ってしまった面がある」。②「日本国民は総選挙において遂に政権交代を選択しました。それは日本の民主主義の勝利であり、国民の勝利でした」。←これらの認識は妥当か?
 ③「これまで日本は、過去の誤った行動に起因する歴史的事情もあり、この地域〔東アジア〕で積極的な役割を果たすことに躊躇がありました」。←日本の「過去の誤った行動」と明言。これは何の意味か? かく発言する意義・必要性は?
 幼児的美文-①「友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え方です」。
 ②「新しい日本」は、「友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明の間等で世界の「架け橋」となるべく、全力を尽くしていきます。」
 ③「今日の世界」では「国家の安全保障」と「人間の安全保障」は「ますます分離不可能になって」いる。「様々な国家も、民族も、人種も、宗教も、互いの違いを認めて共生する、つまり「友愛」の理念によって「支えあう安全保障」を実現することこそが、人類を救う道なのです。
 上の③などは、かかることを国連総会(!)で発言することを<恥ずかしく>思わないのだろうか。どこかの高校あたりの(何十年か前の?)弁論大会ではあるまいし。
 地球環境問題、核問題、五本柱の一つとされた「東アジア共同体の構築」問題等々についての内容的なコメントは省略。 

0809/鳩山由紀夫新内閣における「東アジア共同体」。

 9/16新内閣発足。美辞麗句(だけ?)の「お坊ちゃん」首班内閣。
 鳩山由紀夫、1947年生まれ。初の「団塊」世代首相。「団塊」世代生まれはけっこうなことだが、「団塊」世代の中の優等生らしく、<(戦後)平和と民主主義>教育をきちんと受けて、そこから基礎的理念も得ているようだ。
 <東アジア共同体>の構築を、中国共産党の一党独裁、中国の他民族弾圧、同国の対台湾姿勢、尖閣諸島・ガス田問題、朝鮮労働党の一党独裁、同国による日本人拉致問題に一言も言及することなく、「目標」として掲げるとは<狂っている>としか思えない。
 三党連立合意文書の中にも「東アジア共同体(仮称)の構築…」が出てくる。最長で4年間しかないこの内閣で、「東アジア共同体(仮称)の実現」に向けていったい何をしようというのか。
 以下、主として資料。
 一 鳩山由紀夫「私の政治哲学」月刊ボイス9月号(PHP、2009)より
 「友愛」が導く大きな「国家目標」の二つのうちなんと一つとして「『東アジア共同体』の創造」を挙げ、「ナショナリズムを抑える東アジア共同体」との見出しを掲げる(p.139)。以下、抜粋的引用。
 「新たな時代認識に立つとき、われわれは、新たな国際協力の枠組みの構築をめざすなかで、各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創り上げていく道を進むべきであろう。…この地域〔東アジア〕に、経済的な統合を実現することは一朝一夕にできることではない。しかし、…延長線上には、やはり地域的な通貨統合、『アジア共通通貨』の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」。
 「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても不可能なものであり、二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねないものなのである。地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説に立っている。たとえば地域的統合が領土問題を風化させるのはEUの経験で明かなところだ」。
 私は「世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障制度」の確立に向けて努力することが「日本国憲法の理想とした平和主義、国際協調主義を実践していく道であるとともに、米中両大国のあいだで、わが国の政治的経済的自立を守り、国益に資する道である、と信じる。またそれは、かつてカレルギーが主張した『友愛革命』の現代的展開でもあるのだ」。
 「こうした方向感覚からは、たとえば今回の世界金融危機後の…、…将来のアジア共通通貨の実現を視野に入れた対応が導かれるはずだ」。
 「アジア共通通貨の実現には今後十年以上の歳月を要するだろう。それが政治的統合をもたらすまでには、さらなる歳月が必要であろう。…迂遠な議論と思う人もいるかもしれない。しかし、…政治は、高く大きな目標を掲げて国民を導いていかなければならない」。
 「『EUの父』…カレルギーは、…言った。/『すべての偉大な歴史的出来事はユートピアとして始まり、現実として終わった』、『…ユートピアにとどまるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている』」。
 ・そもそもが、「EU」という発想を東アジアに持ち込むこと、カレルギーの「理想」を東アジアにも適用しようとすることに、思考上の方法論的疑問がある。(「欧州」と同様の歴史的・文化的基盤は東アジアにはない、と私は思っている。)
 ・鳩山は遠い将来の東アジア地域の「政治的統合」を構想し、その前の「アジア共通通貨の実現」を構想するが、これらが、とくに前者が望ましい国家「目標」なのか自体を吟味しなければならない。中国共産党・朝鮮労働党の解体に一言も触れない東アジア地域の「政治的統合」とはいったい何なのか?!
 ・「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても不可能」だとの断言は、尖閣・ガス田や竹島問題を、対中・対韓では持ち出さない、外交の場で言及しない(しても無駄)、外務省にも何も言わせない、という趣旨なのか? そうだとすれば、ひどい<土下座>外交ではないか。
 「地域的統合を阻害している問題は、…地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説」とはいったいどういう趣旨か。「地域的統合の度合いを進める」とはいったい何の意だろう。
 ・鳩山由紀夫の頭の中には常人には理解できない(=狂った)「夢想」が宿っているようだ。主観的な<善意>が好ましい現実的効果・結果を生み出すとは、全く限らない。<ファシズム>は美辞麗句・ユートピア的言辞とともにやって来うる(ナチスは正確には国家「社会主義」「労働者」党だった)。
 ・16日に鳩山は「東アジア共同体」に関する質問に対して、「米国を除外するつもりはない。その先にアジア太平洋共同体を構想すべき…」などと述べたらしい。米国が「東アジア」に入るはずはなく、前者はその場かぎりでのウソか、せいぜい<大ブレ>。「先にアジア太平洋共同体を構想すべき」と主張するなら、この論考で述べておくべきだし、そもそも、<アジア太平洋共同体>とはいったい何か? 訳のわからないことを言う新首相。
 二 民主党の政権政策マニフェスト(2009年7月27日)
 「政策各論/7外交/
 52.東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する
 ○中国、韓国をはじめ、アジア諸国との信頼関係の構築に全力を挙げる。
 ○通商、金融、エネルギー、環境、災害救援、感染症対策等の分野において、アジア・太平洋地域の域内協力体制を確立する。
 ○アジア・太平洋諸国をはじめとして、世界の国々との投資・労働や知的財産など広い分野を含む経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の交渉を積極的に推進する。その際、食の安全・安定供給、食料自給率の向上、国内農業・農村の振興などを損なうことは行わない。」
 三 
「連立政権樹立に当たっての政策合意」(民主党・社会民主党・国民新党、2009年9月9日)
 「9、自立した外交で、世界に貢献/

 ○中国、韓国をはじめ、アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し、東アジア共同体(仮称)の構築をめざす。」

0803/鳩山由紀夫の過去の発言-8/17阿比留瑠比ブログによる。

 本イザ・ブログの産経・阿比留瑠比の8/17のエントリーに、民主党代表・鳩山由紀夫の過去の発言のいくつかが紹介されている。
 この人物が九月には次代の内閣総理大臣の国会で指名されるのだろうか。以下に阿比留の紹介そのままに再引用させていただく。再確認をして又は最近の言辞と比較等をして、面白く、また恐ろしい。
 この人は総理大臣を辞したら議員(政治)から身を引く旨をすでに!!述べて、自らの<老後>のこともすでに考えている。戦後<個人主義>者の徴し。
 ①「選挙に言動を左右されない志を持った政治家の集団を生み出すことが日本の未来を導く可能性をもたらすのである。常に選挙を念頭に行動し、世話になっている団体に頭が上がらず、本音が言えない政治家を政治家と呼ぶべきではない」(平成8年1月16日付朝日、新党さきがけ代表幹事、「論壇」欄に寄稿して)

 ②「あまり苦労知らずに今日まで政治の世界にいて、無理をしてきてない。それだけ市民の発想に近いところに身を置くことができるんじゃないか。政治家は 目指して苦労を重ねていると、例えば、金銭的に危ない橋を渡らないといけない。しかも一度得たバッジは絶対失いたくないということで、わりと国民に迎合的な政策しか打ち出せなくなる恐れがある」(平成8年5月3日付読売、新党さきがけ代表幹事、世襲議員のメリットについて)
 ③ 「日本と北朝鮮は体制が違うことを前提に相互理解を深めるべきです。北朝鮮へのコメ支援でも、隣国として支援の手を差し伸べれば、わだかまりを減らすことができます。ただ、こういう発想をすると北朝鮮ロビーと思われる日本の風土があります」(平成8年7月18日付日経、新党さきがけ代表幹事、インタビュー)
 ④「大変強いリーダーシップを持たれるときもあったが、逆に自分の主張を遂げるために民主主義の基本的原則を超越、無視してきた部分があって信奉者が離れていった」(平成10年4月11日付産経、「旧」民主党幹事長、自由党の小沢一郎党首に対する評価で)
 ⑤「私は創価学会さんのヒューマニズムを追求する姿勢は非常に大事だと思っております。我々と公明党さんとの距離が一番近いぞ、ということを選挙で示すことはできるだろうと思っていますし、(公明党との)連立政権のところまで導くことが必要だ」(平成11年1月22日付毎日、民主党幹事長代理、公明党との選挙協力に関して)
 ⑥「結局、小沢氏が五年前に自民党を飛び出したのは、派閥内や自民党内の権力闘争に敗れて飛び出しただけで、国民にそれを悟らせないために『政治改革』の旗を掲げていただけ--としかいいようがありません」(平成11年2月25日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、自身のコラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑦「日本としては日米韓の安全保障体制を基軸としながら、韓国の太陽政策の線で協力すべきだと思います。現在、日本と北朝鮮の間で交渉のテーブルがないことがお互いを疑心暗鬼にしています。確かに、わが国は拉致疑惑といった特殊事情を抱えていますが、真っ先に拉致疑惑を持ち出せば交渉は成立しません。まず、何の前提もなく協議の場を設けるべき」(平成11年3月11日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑧「『対話と抑止』より韓国の包容政策(太陽政策)のような方向にすべきです。拉致疑惑や不審船事件があると日本は硬化しがちだが、冷静に対話の道を切り開くことが大切」(平成11年4月25日付朝日、民主党幹事長代理、インタビュー)
 ⑨「私は核武装は絶対反対ですが、国会でそういう議論があってもいいと思うのです」(平成11年10月28日付夕刊フジ、民主党代表、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑩「東北選出のある議員が、知事にかけ合って地元の有料道路を無料化させたのに、喜ばれたのは二日間だけで『どうせ税金から出すんでしょ。それなら使う人だけ払った方がいい』と批判されている」(平成12年1月6日付夕刊フジ、民主党代表、小泉元厚相との対談で)
 ⑪「(ドイツと比べて歴史の総括が不十分だったことが)今でも日本への信頼を勝ち得ていないことを事実として認めたい。もし、首相となる機会に恵まれれば、歴史認識の問題は皆さんの前でしっかり話す」(平成12年12月14日付産経、民主党代表、北京市内の中国人民大学で講演して)
 ⑫「偏狭なナショナリズムに基づくような教科書が日本の子供たちに影響を与えないよう努力していきたい」(平成13年5月4日付産経、民主党代表、韓国の金大中大統領との会談で扶桑社のの教科書の不採択を働きかける考えを伝えて)
 ⑬「私は、憲法や安全保障といった最も基本的なテーマについてマニフェストが機能していないのが最大の問題だと思っている」(平成15年9月4日付毎日夕刊、民主党前代表、インタビューで)
 ⑭「政権交代に向けて次期衆院選に憲法改正を掲げて挑むべきだ。政権党が当然やるべき改憲を自民党に先駆けて実現させるという意欲が必要だ」(平成15年9月12日付産経、民主党前代表、インタビューで)

0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。

 月刊ヴォイス9月号(PHP)の鳩山由紀夫「私の政治哲学」(p.132-)によると、彼のいう「友愛」は、フランス革命のスローガン中の「博愛」=フラタニティ(fraternite)のことのようだ。言葉だけ似ていて別物かと思っていたら、本人がそう書いている。
 その祖父・鳩山一郎がクーデカホフ・カレルギーの『全体主義国家対人間』を訳したときに(邦題は『自由と人生』)、「フラタニティ」を「友愛」としたらしい。
 鳩山由紀夫も共鳴・共感しているらしいカレルギーの本によると「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。そして、カレルギーの本は反ヒトラー・反スターリンという、「左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だった」と由紀夫は書いている。
 この「友愛」主義を現代日本にあてはめると、基本的には「市場至上主義」ではない「共生の経済社会の建設」になる。より具体的な政策レベルでは、第一に「地域主権国家」の確立、第二に、「『東アジア共同体』の創造」だ、と述べられる。
 「左右の全体主義」の排斥は結構なことだ。だが、こう言うとき、鳩山由紀夫は、「右」のそれとして、安倍晋三平沼赳夫らを(あるいは「靖国」参拝政治家・国民を)イメージしているのではないか。
 「左の全体主義」とも戦うとすればぎりぎり容認されるのは社民党までで、日本共産党や中国共産党とは対立しなければならないはずだが、はたして中国「社会主義」を鳩山はどう見ているのか。鳩山は「中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図りたい」(p.140)とか書いてはいるが、「『東アジア共同体』の創造」を現時点から国家目標として掲げ(p.139)、「各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創り上げ…」と言うとき、彼の立場はかなり「左」にあり、「共生」と「東アジア共同体」の背後に中国「社会主義」は退いて、「左の全体主義」には相当に甘いようだ。
 もともと鳩山のみの意向で政権が運営されるわけはなく、民主党の中には明瞭な親中国派、親「社会主義」派もいることが留意される必要がある。
 そして、サピオ9/09号(小学館)の巻頭の大原康男「ますます遠くなった首相の靖国神社参拝を憂う」から借りると、民主党現幹事長・岡田克也は、結果的・客観的には中国の主張に応じて「A級戦犯が祀られている限り、日本の首相は参拝に行くべきではない」と明言し(鳩山が同旨のことから別の国立追悼施設設置を主張していることは別の回でも言及した)、<チベット、新疆ウィグル問題>については「中国国内の事柄」で「中国の内政に干渉すべきではない」と明言した、という。
 A級戦犯「合祀を理由とする参拝反対は中国からの内政干渉が発端であるにもかかわらず、…たび重なる残虐な・非道な少数民族迫害・弾圧には内政不干渉の美名の下に容認」している(大原、p.3)わけだ。
 こうして見ると、鳩山由紀夫の二つ又は左右の「全体主義」との戦いという「友愛」主義も、嘘くさい。この人物も、戦後<民主主義・個人主義・自由主義>の優等生で、究極的には、右翼「ファシズム」よりも<左翼全体主義>=社会主義・コミュニズムを選択しそうな、つまり「容共」の考え方・意識の持ち主なのではないか。そして、それはもともとの祖父やクーデカホフ・カレルギーの考え方・意識からは離反しているのではないか。
 (なお、誰かがどこかで書いていたように、民主党政権ができるとすれば、それは<戦後レジーム維持>派の大勝利なのだ。)
 サピオ9/09号に上で言及したが、同号の小林よしのりの連載の最後の頁の欄外上には、「民主党は政権をとったら靖国神社に代わる新たな『国立追悼施設の建設』を本格化させ、『外国人参政権』『非核三原則の法制化』も実現させるつもりだ。……左翼全体主義の時代が近づいている」とある。
 鳩山政権が「左右の全体主義との激しい戦い」をするとは信じられず、むしろ「左翼全体主義」へ接近するように見える。ちなみに、「左翼全体主義(左翼ファシズム)」とは、昨秋の所謂田母神俊雄論文後の政治・社会状況を見て、私が(も)使った概念だった。
  

0771/鳩山由紀夫の「友愛」とフランス革命等。

 7/10の日本記者クラブでの会見で、内閣総理大臣(首相)になる現実的可能性がある鳩山由紀夫(民主党)は、次のように述べた。
 1 「政権交代の必然性」の一つは、「世界史の潮流」。①イラク戦争の誤り、②「新自由主義、このある意味で行き過ぎた自由主義経済」の反省、これに関連して③アメリカでのオバマ政権の誕生(「チェンジ」)。もう一つは、「長期政権がもたらしました政治不信」の脱却。①「官僚主導の政治から民主導、国民の皆さんが主役になる政治への転換」。②「中央集権的な政治、…から真の意味での地方分権」、「地域主権」の世へ。③「縦型のいわゆる利権社会を脱して、新たなに横型のネットワークで結ばれた、絆のある社会」が求められている。
 長いコメントはしない。第一点は日本の政権交代とは無関係。「新自由主義」という概念をどう厳密に理解しているかは不明。第二点のうち、「国民の皆さんが主役になる政治への転換」とは、美しい表現かもしれないが、気味が悪く、かつ怖ろしい。「横型のネットワークで結ばれた、絆のある社会」とは、<左翼>的論者が最近よく言っているように推察される表現。
 2.つぎに<国の理念>に触れて、「フランス革命」にこう言及する。
 「この国にはそれなりの理念というものが今、求められているはずだ、と。その理念を友愛と感じた」。「フランス革命のときには自由・平等・博愛という3つが叫ばれたわけでありますが、このときは貴族の社会からいわゆる市民が蜂起をして、独立を勝ち取るための戦いであり、自由も平等もあるいは博愛・友愛もこれは両立し得る状況であったわけでございます。即ち貴族から、市民が独立をするという意味において、自由も求められ、平等も求められ、さらに博愛も求められてきたということでございます」。
 「ございます」の多用は気持ちが悪いことは別として、じつに単純なフランス革命観だ。厳密には、そもそも<「貴族」からの「市民」の「独立」>と表現して適切なのかどうか。
 ほかに、第一。阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)p.197によると、「三色旗」が革命のシンボルとされたのは1792年以降なので、<自由・平等・博愛>が1789年に始まる「フランス革命」で最初から「叫ばれた」わけではないと見られる。
 第二。鳩山由紀夫の思い描く「友愛」と、フランスでかつて語られた「友愛」・「博愛」は同じ意味なのか。「友愛」又は「博愛」(又は「同志愛」)=Fraterniteとは、当時においては、主義・主張を同じくする<仲間たちとの間での愛情・友情>のことで、当時の欧州諸国家国民を含むような普遍的なものではないとともに、同じフランス国民でも、<革命に敵対する(した)>者たちへの愛情・友情などを意味するものではなかったと思われる。
 「理念」にすぎないと言われればそれまでだが、政治家に対する<テルール(恐怖政治)>も、ヴァンデの反乱(ヴァンデ虐殺)において戦闘員でもなく抵抗もしていないヴァンデ地域(ロアール下流南部)の主として農民家庭の婦女・子ども等を全員<虐殺>=「皆殺し」したことも、世界・欧州に普遍的な、かつフランス国民全員にも通じる「友愛」精神にもとづくものとはとても思えない。
 3.さらに、現代の「自由」と「平等」の関連に触れる。
 「現代社会」になり、「自由…が、いわゆる市場原理主義に委ねられる自由」になると、さまざまな社会に格差というものが生まれた」。「地域における格差、雇用における格差、まさに所得の格差から、教育医療の格差」広がった。「一方で政府に頼りすぎる、政府に依存すると平等という社会」は「非効率、非生産性の社会」に向かう。「自由」も「平等も行き過ぎてはいけない」。その中間、「市場原理主義と政府万能主義の間というものが必要」ではないか。「そこに私はコミュニティとかあるいはボランティアとかそういった考え方が中心となる生き様というものが必ず求められてくる」と思っている。
 この程度の「自由」・「平等」論ならば、問題意識のある高校生でも語れるのではないか。「市場原理主義と政府万能主義の間というものが必要」などの言辞は、誰でも昔から言っていることで、今さら言うようなことではない。「コミュニティとかあるいはボランティアとかそういった考え方」は最近の(「市民派」)「左翼」がよく言っていることだ。
 鳩山由紀夫はかつて理系の研究者(大学教員)で、社会・人文的な基礎的な知識は高校卒業程度であると見て間違いない。戦後の<何となく左翼的な>教科書を高校までに学んで育った優等生だったと思われる。にもかかわらず、この記者会見に見られるような、正常な感覚の持ち主ならば恥ずかしくてあえて語れないようなことを喋ってしまえるのは、鳩山一族の一人で、政治家の血を引いていて、(「天下国家」を語る)政治家の素質が自分にもある筈だというただの傲慢さと、政治家になってから吸い込んだ「市民派」知識と思考によるのではないか、と推察される。
 この程度しか語れない人物が日本国の内閣総理大臣(首相)になってしまうのか。もっとも、自民党も含めて、歴史・(政治・経済・社会)思想についても十分な知識・見識をもった傑出した人物はいるのか、と思い巡らすと、 はなはだ心許ない。

0741/北康利・吉田茂-ポピュリズムに背を向けて(講談社、2009)の「あとがき」。

 北康利・吉田茂-ポピュリズムに背を向けて(講談社、2009.05)の「あとがき」の次の文章は、まことに適切だと思う。
 「『民主主義は多数決だ』という教育が戦後の不幸を招いた。
 数にまかせて力をふるおうとする世論は、かつての反民主主義勢力よりもはるかに暴力的でかつ強欲である。『自分たちが主役の政治』を欲しながら、同時にまた強力なリーダーシップを持った政治家を求めている。こうした贅沢で矛盾した要求を恥ずかしげもなく堂々とできるのが世論なのだ。
 国民の政治を見る目は極端に幼稚になり、『嫉妬』という人間の最も卑しい感情が社会を支配しつつある。
 議員の財産開示などという愚にもつかぬことが行われているが、国民はここからいったい何を読み取ろうとしているのか。蓄財をしておらず、浮いた話などなく、老朽化した官舎に住んで国会に電車で通う政治家が本当にこの国を幸せにしてくれるのか。重箱の隅をつついて政治家批判をする前に、国民は政策判断できる能力を身につけるべきであろう。」(p.377)
 <国民が主人公>、<生活が第一>などの国民に「媚びる」スローガンを掲げ、「国民の皆さまに…させていただく」などというような言葉遣いをする代表がいる政党(民主党)が政権をとろうとしているのだから、うんざりするし、日本はダメになる、とも思う。
 「ポピュリズム」の形成にマスメディアは重要な役割を果たしている。産経新聞社にだって、かつて<ミンイ、ミンイ>、<ミンイ(空気)を読め>としか語れない若い記者がいたのだから。
 北康利、1960~。まだ若いので、今後にも期待したい。

0729/佐伯啓思「『政治の品格』取り戻すには」-産経新聞5/28。

 産経新聞5/28佐伯啓思の一文「日の蔭りの中で/『政治の品格』取り戻すには」がある。
 「二大政党政治」につき、英米にはそれなりの背景があるが、日本には「存在しない」、あったとすれば冷戦下の<保守>・<革新>の対立だ、今の対立は「政策選択にも二大政党政治」にもならず「兄弟政党政治」(=親(国民)に向かっての兄弟の悪口の言い合い)に過ぎない、との指摘に、ほとんど異論はない。
 但し、完全な兄弟ではなく、民主党の一部には明確な(元?)社会主義指向者=「左翼」がいるので、相対的には<左・右>の違いが少しはあるだろう。また、安倍晋三らと鳩山由紀夫とではやはり少し違うだろう、<戦後レジーム>の評価の仕方が。といっても、現在、こうした対立点がどの程度有権者国民に意識されているかは疑わしい。
 佐伯啓思は、「見方によっては、方向は明瞭」とも書いて、①<「グローバル・スタンダード」への適応>と②<崩壊してゆく『日本的なもの』の保守>の対立(日本の「近代以降」の二つのモメント)を語る。
 これは、<グローバリズム適応>と<ナショナリズム志向(「日本的なもの」擁護)>が対立軸又は争点たりうる、という趣旨だろうか。
 但し、佐伯は明確には書いていないが、民主党と自民党を明確にこれら二つの対立軸の片方ずつに位置づけることが困難なことも厄介なところだ。自民党の中には、<グローバリズム適合>と<ナショナリズム志向(「日本的なもの」擁護)>が入り混じっているように見える。民主党は前者かもしれないが、後者に属する者もほんの一部はいるかもしれない。
 加えて感じるのは、<グローバリズム適合>と<ナショナリズム志向(「日本的なもの」擁護)>が対立軸又は争点だとした場合、あるいは近い将来にかかる観点から<政界再編>が生じた場合、後者に立つ政党は勝利する=有権者国民の多数派の支持を受ける、だろうか、という心配だ。
 朝日新聞はおそらく明確に<国際主義=グローバリズム>の立場に立つだろう。そして、<ナショナリズム志向(「日本的なもの」擁護)>派を執拗にかつ陰湿に攻撃するに違いない。
 はたして将来、日本国民はそのような朝日新聞的発想から離れることができるだろうか。

0707/民主党・鳩山由紀夫の外国人地方参政権容認発言について。

 一 産経新聞・阿比留瑠比のブログによると、民主党・鳩山由紀夫幹事長は、こう発言した、という。順番に、一部抜粋。
 1.「永住外国人地方参政権付与問題、日本人にどういうメリットがあるのか」との問いに対して
 ・「日本人が自信を失っていると。自信を失うと、他の国の血が入ってくることをなかなか認めないという社会になりつつあるなと。それが非常に怖い」。
 ・「定住外国人」は「税金を彼らが納めてるわけですよね。地域に根が生えて一生懸命頑張ってる人たちがたくさんいるわけです。度量の広さをね、日本人として持つべきではないか」。「自信があれば、もっと門戸を開いていいじゃないか」。
 ・「出生率1・32とか低いところにあるわけですから、この出生率の問題だけ考えても、もっと海外に心を開くことを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、また日本の国土を守ることもできなくなってくる」。
 2. 「地方参政権と国政参政権は違う」ことに関して
 ・「地域に根ざして頑張ってる」、「彼らが地域の行政、参政をする、参画をする必要がある」。「ただ、国政になると、まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがあると思うので、そこまでいま広げる必要はない」。
 3.その他
 ・「アメリカの良さはそういう度量の広さ、色の白黒の問題もありますけども」。
 ・「自信のあるなしの問題なんですよ。自信があれば、もっと度量を広く持てば、日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから。もっと多くの方がたに参加してもらえるような、喜んでもらえるような、そんな土壌にしないとダメです」。
 ・「日本人がアメリカに何か憧れたりするわけでしょ? 私は例えばオバマ大統領を生んだアメリカってのはすごいと思いますよ。絶対にそのようなことは日本では起こりえないですよ、今のような発想では。もっともっと心を広く持たないと。仏教の心をね、日本人が世界でもっとも持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方の参政権一つを持つことが許せないのかと。少なくとも、韓国はもう認めているわけですよね。彼らが認めていて、我々が認めないというのは非常に恥ずかしい」。
 阿比留や百地章のコメントは省略。
 二 以上を知って、こんなことを言う、又はこんなことしか言えない人物が民主党の幹事長であることに(そして政権を担う一人になる可能性があることに)慄然とする。細かなことには触れないで、基本的なことのみまず指摘する。
 具体的なことを言えば、第一に、この人は外国人(の一部)が<帰化>して日本人になること(そして日本人として参政権をもつこと)と、外国人のままで(地方)参政権をもつことを混同しているか、同様のことと考えている。つまり、概念的・論理的に上の二つが区別できていない。すなわち、例えば、以下のごとし。
 ①出生率に言及しているのはおそらく人口減を防止するために…、という理由づけだろうが、それは<帰化>者増加による「日本」国民の数の減少防止に関する話で、外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 ②アメリカへの言及があるが、アメリカが多様な人種から成り立っているとしてもそれは基本的には全て「アメリカ」国籍者の出自の多様性を意味しているだけで、「アメリカ人(国籍者)」から見て外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 第二に、国政参政権と地方参政権の区別がきちんと整理されていない。すなわち、鳩山由紀夫がいう、①税金支払い、②日本人は自信(包容力)をもて、という根拠は、地方参政権のみならず、国政への参加権の付与の根拠になりうる。
 なぜなら、外国人でも(少なくとも「定住」者は)所得税や消費税という<国税>を納めている。彼らが負担しているのは、住民税・固定資産税等の<地方税>だけではない。
 また、「度量の広さ」をもて、「心を広く持たないと(いけない)」と主張するならば、国政参政権も認めないと論理的には一貫しない。
 したがって、国政参加権は別だという鳩山の理由づけは、次のように曖昧になっている。
 「まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがある」と思うので、そこまで「いま」広げる必要はない。
 国会議員による議論・法律制定等は全て「国益」に関係するのであり、「…ときがある」というような程度・範囲ではないだろう。また、鳩山は、「いま」広げる必要はない、と述べて、将来的には認めても構わない、認める可能性がある、という含みを残している。
 最高裁判決を確認しないが、一定の外国人への国政・地方参政権の法律上の否定は違憲ではない、但し、地方参政権に限っては法律で(現行法上は地方自治法ではなく公職選挙法の改正により)それを認めることもできる(「立法裁量」の範囲内)、という重要な傍論つきだった、と思われる。
 上の国政参加権に関する鳩山由紀夫の発言のニュアンスは、 この最高裁判決に反対する趣旨を含んでいる(最高裁判決批判自体が悪いわけではないが)。
 三 鳩山由紀夫の上記発言は、マクロ的にみると、結局、日本は開放的で寛容な<国際主義>に立つべきで、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>を持つべきではないという、戦後日本の<主流>派的な、空気のように感じられている、独特の<意識>にもとづくものと考えられる。
 戦後教育を受け、自民党にかつていて共産主義(・社会主義)社会を目指すわけではないが、「さきがけ」を結成したように、とりわけ大都市部の「市民」の<進歩的な>(そして「国際主義的」な>)意識を鳩山(兄)は無意識にせよ形成してきたものと思われる。
 閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>こそがかつての日本を「戦争」に追いやり「敗戦」をもたらした、と(GHQらの史観と基本的に同様に)思い込んだままなのではないか。おそらくはこのとおりなので、鳩山(兄)は、いくら批判されても、疑問視されても、基本的な考え方を変えないだろうと思われる(鳩山由紀夫と同様の地方参政権付与賛成者の多くもそうだろう)。
 したがって、基本的な問題は、現在において、開放的で寛容な<国際主義>と、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>(あるいは「愛国」主義・「国益重視」主義)、という対立軸を潜在的な意識の上で立ててしまってよいのか、にある。
 あるいは、<国際主義>は「開放的・寛容」で善、<ナショナリズム>は「閉鎖的・偏狭」で悪、という基本的な考え方・意識そのものに問題はないのか、をまず問わなければならない。この点を解きほぐして、基本的な立脚点たる<イメージ>と称してもよいと思われる意識を変えさせないと、鳩山由紀夫は変わらないし、自らの議論の非を認めることはないだろう。
 上のようなア・プリオリな価値判断は抜きにして、<国際主義>か<ナショナリズム>(愛国主義・国益優先主義)かが、それぞれの意味内容自体の議論も含めて、きちんと検討されなければならない(この区別は従来にいう「左翼」・「保守」の区別と必ずしも一致するわけではないと考えられる)。

0299/民主党とはどういう政党か。

 大嶽秀夫・日本型ポピュリズム(中公新書、2003)は序章を含めて6つの章か成っており、小泉純一郎に2つの章、田中真紀子に1つの章があてられているにとどまり、小泉純一郎らの「ポピュリズム」のみを扱った本ではない。
 序章を読んでいて、現在の民主党の性格がかなり鮮明になってきたと個人的には感じた(とっくに整理できている人もいるだろうが)。
 さて、大嶽によると、1990年代の初頭に、「政治改革」・「政党政治の抜本的な再編成」を意図した三つの流れが日本に表れた。
 一つは、小沢一郎らの「新保守主義」だ。「孤立主義的平和主義の克服」(=積極的な軍事的国際貢献)・「自民党の利権構造の全面的な改革」を主張した。
 二つは、日本新党やさきがけに結集した「市民派」だ。成熟した多様な市民の代表、緩やかなネットワークに基礎を置くことを特徴とする。一種のアマチュアリズムで支持を受け、細川護煕や菅直人には一時的には「ポピュリズム」的要素もあった。<小さい政府>論では小沢一郎らと共通したが、小沢らの党中央指導的・執行部中心的政党運営観は、分権的な政党運営観のこのグループとは対極的だった。
 三つは、社会民主主義勢力だ。1989年の労働界の「連合」結成を機に、当時の日本社会党・民社党の和解や政策の現実化を通じて、社民勢力の拡大による自民党に代わる政権を展望した(p.6-11)。
 これら三つの流れが合流してできたのが、細川護煕・反自民連立政権(1993.08)に他ならない。もともと異質な部分を含む寄せ集め世帯だつたので、三つのいずれかが脱退すれば(そしてとくに自民党と手を結べば)、簡単に崩壊する弱点を内在していた。そして、細川護煕は、三者のいずれからも絶縁されたわけでも(少なくとも表向きは)ないのに、自己の政治資金が問題にされるや、無責任とも思えるほどにあっけなく政権を「投げ出して」しまった(1994.04)。そのあとで、三者の対立が顕在化し、小沢・細川グループと社会党・さきがけグループへの分裂により短命羽田孜政権が生まれ、そして社会党が小沢らよりも自民党を選択して村山富市・自社さ連立政権ができたのだった。
 このあたりの社会党に関する大嶽氏の分析は興味深いが別の機会に書くとしよう。
 さて、現在の民主党の性格を考えるとき、大嶽が理解・主張しているわけではないが、上の三つの流れ又は傾向が合流したものという性格づけは細川政権のそれと基本的には同じだろう、と考えられる。
 上の順番をそのまま生かせば、第一に、新進党瓦解後、最も後から民主党に合流してきた、小沢一郎ら、当時の自由党グループだ。羽田孜も渡部恒三も元々は小沢と同じく自民党田中派→新生党→新進党→のちの保守党を含む自由党→保守党が分裂した後の自由党→民主党と渡り歩いたことになる(羽田孜は一時期小沢と離れて「太陽党」を作ったりした)。その理念は、変わっていないとすれば「ネオ・リベラル」要素を含む「新保守主義」だ。
 第二に、菅直人、鳩山由紀夫らの旧さきがけ組を中心とする旧市民派グループだ。菅直人は社会民主連合、鳩山由紀夫は自民党田中派の経歴をもつので、政治家生活当初からの仲間だあったわけではない。
 第三は、横路孝弘らの旧社会党グループだ。社会民主主義勢力ということになるが、旧社会党の<非武装・無抵抗>平和主義に染まっている人もいらっしゃる。
 他に若手で前原誠司等々がいるが、菅・鳩山という元来の民主党の核によって結党したあとで入ってきたものだろう。
 さて、自民党にも加藤紘一や河野洋平がいる如く自民党も決して一枚岩の政党ではないが、民主党の<一枚岩でない>様子は自民党以上で、よくぞ政党としてまとまっていると感じられるほどだ。自民党に対する第二党という看板がなければ、あるいは1人しか当選しない選挙区が多数の選挙制度でなければ、理念的・理論的には本来は四分五裂していても不思議ではない、と思われる。
 小沢一郎は政権交代を、と主張しているが、こんな政党でどうやって統一的な政策を形成し法案化し現実化していけるのだろう。野党の場合には全党的な議論と合意が欠けていても適当なことを代表が主張して誤魔化しておれるが、政権与党となるとそうはいかない。
 かつての細川連立政権の姿が、今の民主党を見ていると、その後ろに透き通って見える。参院選で民主党が勝利しても政権交代につながらないのだが、かりに万が一その後の衆院選で過半数を獲得して民主党政権が出来たとすれば、やはり、早晩に空中分解するだろう。
 <大きい政府>の社会民主主義と<小さい政府>の新保守主義が同居できるはずはないと思われる。また、改憲賛成派と改憲反対派が同じ政権与党内に一緒におれるはずがないと思われる。
 大嶽も示唆しているが(p.23)、自民党こそが小沢らの<新保守主義>の「お株を奪う」政策を実施してきた、という現実がある。議論と検討を要するが、橋本・小泉・安倍政権こそが<改革>を唱え続け、野党は現状を維持を訴えて<抵抗>しているのだ。
 自民党こそがこの10年で変わったのだ(だからこそ従来の支持者の離反・減少を招いているという面がある)。そうした中で、民主党は自民党に対する対立軸を明瞭に打ち出していないし、また上に見たように、打ち出せるような政党でもないのだ。公務員・労働問題に他ならない「消えた年金」問題や閣僚の事務所経費の不透明性や失言を捉えて、一部?マスコミの狂気じみた後押しのおかげで、議席を増やすのかもしれない。だが、日本共産党と同様に、この党にも未来はないことは明らかだ。
 保守党を作って小沢らの自由党を去った野田毅・二階俊博・扇千景らと残った小沢、羽田、渡部恒三、西岡武夫らとの間に基本的な考え方・政策に大きな差異があったのだろうか。おそらくは「人間関係」と与党議員であるか否かの選択の問題だっただろう。
 民主党の中にも一皮むけば自民党であっても不思議ではない者もいくらでもいるのだ(海部俊樹もいた)。
 そんな民主党が一体何を対立点として「政権交代」を訴えているのか。ちゃんちゃらおかしい。

0084/菅直人・安倍首相の4/20国会論戦を半分くらい観た。

 4/20の菅直人・安倍首相の論戦をテレビで途中から立ち見をした。「藤岡氏」などという名前を出して「知っているか」と菅氏が安倍首相に質問したところからだった、と思う。
 新聞では詳細には報じられていないが、どうやら安倍首相が「つくる会」の藤岡信勝と親しく、彼の助言・協力があって、安倍首相の関与のもとに、沖縄戦集団自決「命令」に関する歴史教科書の修正があったのでないか、と菅は疑っているふうだった。
 伊吹文明文科相は菅の挑発もあってボロを出しそうな懸念をもったが、安倍首相は、首相や文科相は個々の検定意見に無関係とだけ答えて突っぱねていた。
 菅は、慰安婦問題では「狭義の強制性はなかった」と自分の見解を述べたのにこの沖縄戦集団自決問題では答えないのは矛盾しており卑怯だとか言っていたが、安倍首相は、「狭義の強制性はなかった」というのは当時の政府の調査結果のことで、その旨の見解(たぶん石原信雄発言)を紹介しただけとかわしていた。
 安倍首相の「元気さ」ぶりも印象的だったが、菅直人の不勉強ぶりも目立つ。首相の指示で教科書書換えがなされる制度にはなっていない。宮沢首相時代に「近隣諸国条項」なるものができたらしいことの方が大問題なのだ。
 もう一点、菅は、米下院での慰安婦日本非難決議問題に関して、ずっと静かだったのに、安倍首相になってからこの問題が出てきた、首相発言が火をつけたのではないか、旨を質問していた。安倍首相は、関係ない、とかわしていた。
 この決議案は毎年のようにホンダ議員らによって提出されてきた筈だ。そして、下院で米民主党が多数派になったからこそ採択可能性が生じ、日本でも話題になり始めたのだ。
 意識的に曖昧にしていたのかもしれないが、菅は、安倍「戦後体制脱却=歴史認識是正」内閣の登場が、米下院に「火」をつけたかのようにも理解できる質問の仕方をしていた。
 菅直人はそれなりに能力のある政治家だとは思うが、前提としての事実認識が不正確又は曖昧であれば、適切な意見・主張になるはずがない。対立する政党の党首でもある安倍を困らせてやろうとの<政略的>意図があれば尚更だ。
 藤岡に関して「誰を知っているか私が答えることに何の意味があるのか」とか、沖縄戦集団自決問題に関して「首相としての私が認識を示すことに何の意味があるのか」旨等の安倍首相の答弁は、見方によれば「逃げ」・「ごまかし」にも見えるのだろうが、答弁内容自体が不適切なわけではない。
 菅の設定した土俵の上に簡単には乗らない強い自信と発言力をとっくに安倍首相は身につけている。結構なことだ。
 菅には<辛ガンス問題>という過去の弱点、いや「汚点」がある。また、それなりに能力はあっても、鳩山由紀夫と同様に、やはりまだ<戦後民主主義>教育の弊害から抜け出ていない。

0024/歴史の国際的捏造、日本国家に対する最大級の侮辱、朝日新聞・中国共産党の高笑いを許すな。

 在米日本大使館の北野充広報担当駐米公使は、(1)旧日本軍の関与の下で女性の名誉と尊厳を傷つけたと認める、(2)同問題でおわびと反省を表明した河野談話を継承する、安倍晋三首相もこの方針を維持する、と説明して、慰安婦問題と北朝鮮の日本人拉致問題を同一次元で論じているとして日本非難の社説を掲載した米ワシントン・ポスト紙に反論したという。
 馬鹿なことをしている。前々から感じていたことだが、安倍首相の意向と、<とにかくとりあえず穏便に>という(いつもながらの?)日本外務省の方針とは食い違っているのではないか。すでに十分に謝罪しているから決議しないでくれというのは、愚の骨頂だ。情けなくなる。
 朝日新聞は、3/27星浩コラム等々、慰安婦「問題」の経緯も争点も、そして米国下院の決議案に賛成か反対かも曖昧にしている。おそらくは決議案採択をきっと朝日は歓迎するつもりなのだろう。その点、読売新聞は、同日3/27朝刊に「基礎からわかる「慰安婦問題」」とのほぼ一つの面を使った適切な解説記事を載せており、朝日と比べて圧倒的に誠実であり、姿勢が明瞭だ。
 あらためて上の読売の記事中の米下院決議案の外務省仮訳を見ると、責任を公式に認めて謝罪せよと要求したあと、「日本国政府による強制的売春である「慰安婦」制度は、その残忍さと規模において、輪姦、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないもので…20世紀最大の人身売買事業の一つであった」と述べ、「(日本国政府)が日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買は決してなかったとのいかなる主張に対しても明確かつ公に反論すべきであることを決議する」と結んでいる。
 米国下院は、そしてアメリカ人は、こんな下品な言葉が出てくる決議を公式にしようとしているのか侮蔑したい気分にもなるし、月刊WiLL5月号の堤堯・久保紘之対談の一部のように、かつての米軍兵士は戦地や占領下日本で「特殊慰安施設」に「関与」しなかったのか、と糾したくもなる。
 だが、問題は、この案の背後にいる主として反日中国系団体・中国政府(中国共産党)による歴史の偽造を、日本人が、日本政府が黙視してよいか否かだ。中国が仕掛けている「情報戦争」、「国際世論誘導戦争」の一環と見なしておく必要がある。
 繰り返す必要はないだろうが、私自身の言葉で書いておくと、上の決議内容は、事実ではない。日本国政府はを「人身売買事業」をしていない。「日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買」もなかった。
 よくありそうな誤解は、軍が慰安所や慰安婦募集事業者に何らかの形で「関与」したことをもって、軍又は政府の「関与」を肯定し、やはり悪いことをしたのではないか、というものだ。例えば「inkyoさん」は3/27に次のように書く。
http://inkyo.iza.ne.jp/blog/entry/140920/
 「安倍さんは、《「心の傷を負い、大変な苦労をされた方々に心からおわびを申し上げている」》と詫びながら、軍の関与を否定している。当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していないのであれば、狭義の関与は否定できるかもしれないが、軍人の規律を守り防諜防止等の観点から、日本政府が慰安所の設置等に関与しているのであれば、広義・狭義の理屈は理解されない。それより、慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい。たとえ、戦時下で異常な心理状態になるとしても。
 私もまた、「当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していない」とは思わない。また、「慰安所の設置等に関与している」こともあっただろうと思う。慰安所の存在を当然に知っていただろうし、衛生面での配慮等々もしただろう。慰安所経営者に対して注意・警告又は場合によっては要望をしたこともあっただろう。
 だが問題は、上のような事実の存否及び当否にあるのではない。上のような「関与」と決議案にいう「人身売買事業」あるいは慰安婦の「強制連行」とは全く別のものだ。問題は、日本政府又は軍が、慰安婦にすべく女性を「強制連行」したのかどうか、そうした意味での「強制」的契機を含む「人身売買事業」をしたのか否か、なのだ。通常の理解力があれば、「広義・狭義の理屈」は分かるはずなのであり、これをおそらく意識的に曖昧にしているのが朝日新聞であり、広義のものがあれば狭義のものもあったに違いないとの(じつは根拠のない)前提で書かれているのが米国下院決議案だ。
 「inkyoさん」は「慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい」と書くが、慰安所・慰安婦の存在自体が「悪い」ことだったかどうかは、戦地という場所的特性や「公娼制度」が存在した時代だったこともふまえて、別に議論すべきものだ。この点につき詳しいのは、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮選書、1999)だろう。「inkyoさん」は何歳の方か知らないが、こうした本を読んで「勉強」してみたらどうか。
 同じ読売3/27によると、下村官房副長官が「強制連行について軍の関与はなかった」と述べたことに対して、民主党の鳩山由紀夫は「歴史をもっと勉強してほしい」等と述べて批判した、という。「歴史をもっと勉強」する必要があるのは、鳩山由紀夫自身だ。民主党の中にも、松原仁(いまは無所属だが、西村真悟)等、歴史が分かっている議員もいるだろう。思わぬ形で、鳩山由紀夫の無知さ・不勉強ぶりを知った。

-0060/小沢一郎・鳩山由起夫・岡田克也はもともとは自民党旧田中派系。

 「戦後」に「団塊」世代が享受しえたのは間違いなく経済成長に伴う生活水準の向上であり、「自由」保障も「民主主義」も戦前に比べて多少はマシだったかもしれない。
 但し、「自由」はしばしば放恣に流れて<規律・秩序>が損なわれはしなかったかという問題はあるし、「民主主義」はそれが日本的なものにならざるをえないとしても、成熟したとはとても言えない。
 何よりも、経済的豊かさと個人的「自由」は得たとしても、家族・地域・国家という<共同体>の無視・軽視は著しいものがあったような気がするし、かつては多くの日本人のもっていた自然や人知を超えた現象に対する<宗教的>感情も相当に失われてしまった。
 日本は、日本人は、と問うとき、とても「戦後」の全面的肯定など(立花隆のように「戦後」を享受して大満足の人もいるかもしれないが)できず、そのような時代に生き、時代に加担してきたことについては私もまた少なくとも部分的には「自己否定」的感情が生じることを否定できない。
 さて、衆院補選は予想どおり、自民党二勝。私の気分で正確にいえば、民主党は勝たなかった。安倍内閣発足後の民主党の主張等を見ていると、当然の結果ともいえる。
 もともと小沢一郎は鳩山・菅・岡田の後の前原がずっこけてようやく「昔の名前」ながらも知名度があったがゆえに民主党代表となったのであり、一時的・暫定的代表にすぎず、もはや「過去」の政治家ではないか。
 また、民主党は奇妙な政党で、小沢はもともとは自民党田中派の重要人物で少なくとも一時は金丸信の愛弟子だったし、鳩山由起夫も自民党田中派出身、岡田克也は自民党竹下派出身でのちに小沢と行動を共にした人物だ。
 民主党は自民党の「田中派」的なるものを継承している人々を抱え込んでいるのだ。小沢を「安倍さんよりも右」という人もいる。
 小沢が党首討論の際に自らの見解としてでなくとも占領下制定憲法の「無効」性問題に言及したというのも不思議でないし、今回の選挙でかつての自民党のごとき「どぶ板選挙」をやったというのも分かる。
 そのような小沢のもとで旧社会党左派の某、「市民運動」出身の某とかがよく同居しているものだ。前原誠司らが周辺事態法適用問題につき小沢・鳩山・菅で合意したという適用反対論に反対しているらしいが、ひょっとしてこの党は来年の7月までに小さな分裂くらいはするのでないか。
 「政権交代」はあくまで諸政策・主張の勝利(相対的多数国民の支持の獲得)の結果であり、これだけを唱えても支持が増えるわけがない。

-0059/1945年から1950年生れを広義の「団塊」世代と呼ぶとすると。

 終戦の1945年に1925年(大正14年)生れの人は20歳で、大学に進学する極めて少数の人を除いて戦前の教育しか受けていない。三島由紀夫は1925年生。
 1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)生れの人は10歳から15歳で、戦前と戦後の両方の教育を受け教科書「墨ぬり」を経験したと思われる。
 1932年生れに石原慎太郎・江藤淳(・本多勝一?)等、1935年生れに西尾幹二・大江健三郎・筑紫哲也等がいる。
 これに対して1940年(昭和15年)以降生れの人は戦前生れであっても戦後教育しか受けていない(立花隆は1940年生)。1945年から1950年生れの少し広義の「団塊」世代が(占領期ではない)戦後の教育しか受けていないことは言うまでもない。
 計算しやすく1990年までを昭和としておくと、この年に上の「団塊」世代は40~45歳でまだ役所や会社の「指導」層ではなかった。かりに50~65歳を社会の指導的中心層とすると、昭和戦前のそれは明治生れの人々であり、1970年のそれは1905~1920年生れ、すなわち明治38年~大正9年生れの人々だった。昭和時代を指導したのはほとんど明治・大正生れの人たちだったのだ。
 昭和世代のうち「団塊」世代がこの指導的中心層になったのは1995年ないし2000年以降で現在に至っている。この時代はバブル崩壊後、欧州での冷戦終結後の「新しい」時代だったと言え、政治的観点からいえば1994~1996年の首相は日本社会党の村山富市だった(自社さ連立)。
 1995年には阪神淡路大震災・オウムのサリン事件も発生したのだが、この年以降頃に指導的中心層になったはずの広義の「団塊」世代は何をなしえただろう。今後何ができるだろう。首相が1954年生れの安倍に替わって広義の「団塊」はスキップされた感もあるが、菅直人・鳩山由紀夫・桝添要一・塩崎恭久・櫻井よしこ・中西輝政・関川夏央らはこの世代で、まだまだ活躍の余地はあるだろう。
 しかし、もっぱら戦後教育のみを受けた者たちが指導的中心層となってどの程度適切・的確に国家・社会を運営していけるか、心配なくもない。「戦後体制との訣別」を志向するとしても、その「戦後」に(ある人々はどっぷりと)浸って、ある意味では「うまみ」も味わっきたのがこの世代であり、「戦後体制」なるものの一部は、この世代の相当部分の人々の血肉化していると思われるからだ。
 1960年代末~70年代の言葉を用いるとすれば、この世代にとってある程度の「自己否定」を伴わないと、「戦後体制との訣別」は不可能だと思われる。

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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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