〇記していなかったが、たぶん3月から松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を読んでいて、5/11夜に少し増えてp.125まで、半分強を読了した。この本の帯には「…研究者の軌跡!」とか「丸山真男の軌跡!」とか(売らんがために?)書いているが、この本は、丸山真男批判の書物だ。
丸山真男を<進歩的文化人>として尊敬している、又は<幻想>を持っている<左翼的>な人々は、この本や、たぶん既述の、竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、1999)あたりを読むとよい。
〇飯田経夫・日本の反省(PHP新書、1996)の第六章「『飽食のハードル』への挑戦」、第七章「真の『豊かさ』とは何か」(と「あとがき」)を5/11に読んだ。第三章と合わせて全体の1/3くらいを読了か。著者の意図はともかく、あまり元気が出てくる、将来展望が湧き出てくる話ではない。1996年の本だが、脈絡を無視して引用すれば、こんな言葉がある。
・「要するに人びとは、現状に満足し、『これでいい』と言っているのである。そして、現状を変更したくはないのではないか」(p.170)。
・「ある社会がピークに到達し、それを通りすぎた後には、『社会のレベル』の低下が、万人の予想を裏切るほどだという事実が、どうやらある…」(p.176)。
・「まさに戦争に敗れたという事実そのものが、日本人から魂を抜き去り、…私たちを腑抜けにしてしまったのかもしれない」(p.185-6)。
以下は、「個人の解放」(個人の尊重)が<究極の価値>だと明言していた憲法学者・樋口陽一に読んでもらいたい。
・「それ〔日本的経営の人間関係〕は、…個人主義ではない。だが、はたして個人ないし『個』が、それほど絶対の存在であろうか。それを絶対と信じるアメリカ人は、はたして『よき社会』をつくることに成功しただろうか。また、はたして個人のひとりひとりが、とくに幸せであろうか」(p.179)。
樋口陽一に限らず、殆どの憲法学者がいう「個人主義」・「個人的自由」は、戦前の<国家主義>又は「個人的自由」の制限に対する反省又は反発を、過度にかつ時代錯誤的に<引き摺り>すぎている、と思う。
〇佐伯啓思・学問の力(NTT出版)はたぶん5/10にp.260まで読んで、あとわずか20頁ほどになった。この本についても、感想は多い。
〇他に、まだ読みかけの本や、月刊雑誌を買ったが読んでいない収載論考があるはずだが、ただちに思い出せない。今、浅羽通明・昭和三十年代主義―もう成長しない日本(幻冬舎、2008)を思い出した。少しは頁数を延ばしている。
阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006)と佐伯啓思・隠された思考―市場経済のメタフィジックス(筑摩書房、1985)は、途中で止まったきりだ……。
飯田経夫
飯田経夫・日本の反省-「豊かさ」は終わったのか(PHP新書、1996)の第三章「ケインズ経済の落とし穴」(p.63~95)だけを読了。
まず、1950年頃の「成長」論争に関して、(おそらくはマルクス経済学主流の)<日本(経済)はダメだ>との「日本の知識人に固有なマゾヒズム」に対して、政府の需要抑制策は不要とし高度成長を予測した「下村治理論」が「ひとつの強力なアンチテーゼ」で、事実は後者のとおりになった、との叙述が興味深い。
つぎに、経済(財政・金融)政策につき「(大衆)民主主義」との関連を述べるところがきわめて面白い。
・大衆=「選挙民」は「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視するので、財政支出の増加・減少については前者を歓迎し後者を忌避する、増税・減税については前者を忌避し後者を歓迎する。かくして「財政支出はとかく膨らみがち」で「税収はとかく不足がち」になる。
・これは「民主主義政治の永遠のディレンマ」で、①「福祉国家」論と②財政による介入を是認するケインズ経済学という「悪条件」がさらに加わった。
・国民は「受益」の最大化と「負担」の極小化を望む。これは換言すれば、「ただ乗り」・政府からの「タカリ」を指向することだ。
・「(大衆)民主主義を否定するつもりは毛頭ないが、それにもかかわらず、(大衆)民主主義とは、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う。この認識を片時も忘れないことが、現代の理解にとって必須」だ。
以上、しごく当然の指摘だ。(大衆)民主主義のもとで国会議員が選出されるとなれば、財政負担についての<正しい>理論・政策の主張者よりも「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視した<財政支出(給付)の増大・負担の減少(減税)>政策の主張者の方がより容易に当選することとなり、そうした国会議員が政府の経済政策を決定する(又は決定的な影響を与える)のだ。
短い文章だが、選挙の結果=<民意>を最大限の価値をもつものとし、<誤っていても尊重すべき>等と堂々と?主張していた、<単純・素朴・幼稚な民主主義者>には是非読んでほしいものだ。
また、福田内閣の支持率低下の原因が<もっぱら>ガソリン代再値上げという目に見える(分かりやすい)金銭的負担の増大にあるのではないこと、民主党の支持率が上がっている(とすれば)、その原因が<もっぱら>財源・負担に言及しないで<(ばらまき)給付=財政支出>政策を主張していることにあるのではないこと、を願うばかりだ。現在は民主党の小沢一郎は、有権者の<劣情>を刺激して<支持率>を高め、<票>を掠め取る戦術に長けているように見えるから。
1989年参議院選挙で日本社会党が躍進し(これは今日の参院構成にも影響を与えている)、土井たか子が<ダメなものはダメ>・<山が動いた>とか言ったのは、<消費税導入反対>の主張によっていた、ということも思い出した。
飯田経夫はまた、「失業と餓えの恐怖」がなくなったために「不平不満・うらみつらみ」を述べ、吐き出す「余裕」が出てきた旨も書いている。明瞭に述べてはいないが、<より豊かな者>・<より力をもつ者>に対する(戦後教育も助長したと見られる)「平等主義」の観点からの「不平不満・うらみつらみ」は、容易に選挙の際の<投票>行動へと結実もしただろう。
「不平不満・うらみつらみ」に支えられた<大衆民主主義>。まさに、飯田とともに、「否定するつもりは毛頭ないが、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う」。
さて、かかる大衆民主主義において大衆の「不平不満・うらみつらみ」を高めたり煽ったりするのは、決定的に、マスメディア、とりわけテレビと一般新聞だろう。1年前の政治家「事務所経費」問題は、いったい何の騒ぎだったのか?
<国民主権>の国家ならば、政府や官僚に失態・失策があったとしてもその最終的な責任を負うべきは<国民>の筈だ。「ねじれ国会」が国家・国民のためになっていないとすれば、その最終的責任は「ねじれ国会」を現出させた<国民>自体にある。より正確には、2005年衆院選挙と2007年参院選挙とで異なる投票行動をとった、多くても数十%の有権者国民にある(余計ながら、新しいほど「民意」に近いとは実際上は言えないと思われる)。
マスコミがそうした「国民」の側に立つことをしばしば明言し、「国家」・「政府」を監視することを役目と考えているならば、政府や官僚の失態・失策についてもマスコミ自身が<責任>を感じなければならないのは当然だ。<国民>の世論を適切に誘導・形成することに失敗すれば、あるいは政府や官僚の失態・失策を防止できなかったとすれば、そのかなりの部分の責任はマスコミ(とくに大マスコミ、テレビ局・有力一般新聞)にこそある。そのような自覚と責任感を現代日本のマスコミ関係者はもっているだろうか。
この点でも、産経新聞5/08の阿川尚之「正論-『マスコミの常識』は非常識」は、ほとんど首肯できる。
「特ダネ、視聴率、締切といったことばかりにエネルギーを注ぎがち」。「不祥事の疑いがあるだげで、会社や役所の責任者に記者会見で居丈高な物言いをする」。「テレビのワイドショーやニュースで、無責任かつ根拠のないコメントをする」。「誤報を流しても簡単な訂正で済ませる」(この最後のものは、<誤報を流しても、訂正しないで開き直ることもある>の方がより正確だろう)。
「報道ステーションの某など、基本的知識の欠如、大仰な言葉や身振りばかり目立ち、見るに堪えない。横に坐るジャーナリストは恥ずかしくないだろうか」(恥ずかしいという感覚は朝日新聞の者にはない。某と同レベルではないか)。
「マスコミは…非常識を衝くのを商売にしていながら、自らの非常識が問われることが少ない」。
マスコミ関係者は自分たちの影響力を自覚していないふうに思えるときもあるが、その<力>に、身の震える想いをもって仕事をすべきだろう。また、阿川が指摘するように、「内容など気にせず、広告の効果のみを基準に番組を提供する企業の責任は重い」。
まず、1950年頃の「成長」論争に関して、(おそらくはマルクス経済学主流の)<日本(経済)はダメだ>との「日本の知識人に固有なマゾヒズム」に対して、政府の需要抑制策は不要とし高度成長を予測した「下村治理論」が「ひとつの強力なアンチテーゼ」で、事実は後者のとおりになった、との叙述が興味深い。
つぎに、経済(財政・金融)政策につき「(大衆)民主主義」との関連を述べるところがきわめて面白い。
・大衆=「選挙民」は「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視するので、財政支出の増加・減少については前者を歓迎し後者を忌避する、増税・減税については前者を忌避し後者を歓迎する。かくして「財政支出はとかく膨らみがち」で「税収はとかく不足がち」になる。
・これは「民主主義政治の永遠のディレンマ」で、①「福祉国家」論と②財政による介入を是認するケインズ経済学という「悪条件」がさらに加わった。
・国民は「受益」の最大化と「負担」の極小化を望む。これは換言すれば、「ただ乗り」・政府からの「タカリ」を指向することだ。
・「(大衆)民主主義を否定するつもりは毛頭ないが、それにもかかわらず、(大衆)民主主義とは、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う。この認識を片時も忘れないことが、現代の理解にとって必須」だ。
以上、しごく当然の指摘だ。(大衆)民主主義のもとで国会議員が選出されるとなれば、財政負担についての<正しい>理論・政策の主張者よりも「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視した<財政支出(給付)の増大・負担の減少(減税)>政策の主張者の方がより容易に当選することとなり、そうした国会議員が政府の経済政策を決定する(又は決定的な影響を与える)のだ。
短い文章だが、選挙の結果=<民意>を最大限の価値をもつものとし、<誤っていても尊重すべき>等と堂々と?主張していた、<単純・素朴・幼稚な民主主義者>には是非読んでほしいものだ。
また、福田内閣の支持率低下の原因が<もっぱら>ガソリン代再値上げという目に見える(分かりやすい)金銭的負担の増大にあるのではないこと、民主党の支持率が上がっている(とすれば)、その原因が<もっぱら>財源・負担に言及しないで<(ばらまき)給付=財政支出>政策を主張していることにあるのではないこと、を願うばかりだ。現在は民主党の小沢一郎は、有権者の<劣情>を刺激して<支持率>を高め、<票>を掠め取る戦術に長けているように見えるから。
1989年参議院選挙で日本社会党が躍進し(これは今日の参院構成にも影響を与えている)、土井たか子が<ダメなものはダメ>・<山が動いた>とか言ったのは、<消費税導入反対>の主張によっていた、ということも思い出した。
飯田経夫はまた、「失業と餓えの恐怖」がなくなったために「不平不満・うらみつらみ」を述べ、吐き出す「余裕」が出てきた旨も書いている。明瞭に述べてはいないが、<より豊かな者>・<より力をもつ者>に対する(戦後教育も助長したと見られる)「平等主義」の観点からの「不平不満・うらみつらみ」は、容易に選挙の際の<投票>行動へと結実もしただろう。
「不平不満・うらみつらみ」に支えられた<大衆民主主義>。まさに、飯田とともに、「否定するつもりは毛頭ないが、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う」。
さて、かかる大衆民主主義において大衆の「不平不満・うらみつらみ」を高めたり煽ったりするのは、決定的に、マスメディア、とりわけテレビと一般新聞だろう。1年前の政治家「事務所経費」問題は、いったい何の騒ぎだったのか?
<国民主権>の国家ならば、政府や官僚に失態・失策があったとしてもその最終的な責任を負うべきは<国民>の筈だ。「ねじれ国会」が国家・国民のためになっていないとすれば、その最終的責任は「ねじれ国会」を現出させた<国民>自体にある。より正確には、2005年衆院選挙と2007年参院選挙とで異なる投票行動をとった、多くても数十%の有権者国民にある(余計ながら、新しいほど「民意」に近いとは実際上は言えないと思われる)。
マスコミがそうした「国民」の側に立つことをしばしば明言し、「国家」・「政府」を監視することを役目と考えているならば、政府や官僚の失態・失策についてもマスコミ自身が<責任>を感じなければならないのは当然だ。<国民>の世論を適切に誘導・形成することに失敗すれば、あるいは政府や官僚の失態・失策を防止できなかったとすれば、そのかなりの部分の責任はマスコミ(とくに大マスコミ、テレビ局・有力一般新聞)にこそある。そのような自覚と責任感を現代日本のマスコミ関係者はもっているだろうか。
この点でも、産経新聞5/08の阿川尚之「正論-『マスコミの常識』は非常識」は、ほとんど首肯できる。
「特ダネ、視聴率、締切といったことばかりにエネルギーを注ぎがち」。「不祥事の疑いがあるだげで、会社や役所の責任者に記者会見で居丈高な物言いをする」。「テレビのワイドショーやニュースで、無責任かつ根拠のないコメントをする」。「誤報を流しても簡単な訂正で済ませる」(この最後のものは、<誤報を流しても、訂正しないで開き直ることもある>の方がより正確だろう)。
「報道ステーションの某など、基本的知識の欠如、大仰な言葉や身振りばかり目立ち、見るに堪えない。横に坐るジャーナリストは恥ずかしくないだろうか」(恥ずかしいという感覚は朝日新聞の者にはない。某と同レベルではないか)。
「マスコミは…非常識を衝くのを商売にしていながら、自らの非常識が問われることが少ない」。
マスコミ関係者は自分たちの影響力を自覚していないふうに思えるときもあるが、その<力>に、身の震える想いをもって仕事をすべきだろう。また、阿川が指摘するように、「内容など気にせず、広告の効果のみを基準に番組を提供する企業の責任は重い」。
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