秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

食料派遣隊

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2904/R.Pipes1990年著—第16章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱②。
 (06) 1918年の後半に村落地域で起きた出来事については、つぎの当時の新聞紙の記事が代表的に示している。
 「調達派遣隊がOrel 州のGorodishchenskaia volost’ に着いたとき、女性たちは、引き渡すことをしないで、穀物を水の中に投げ込み、予期せぬ訪問者が去ったあとで、掬い上げた。
 同じ州のLavrov Volost’ では、農民たちが『赤色派遣隊』を武装解除した。
 Orel 州では、徴発が最も広い規模で実施された。
 通常の戦争のためのごとくに、準備がなされた。
 『ある地区では、パンの徴発のあいだ、個人の全自動車、乗用馬、馬車が動員された』。
 Nikolskaia Volost’ とその近傍では、通常の戦闘が起きる。両者の側に死傷者が出る。
 派遣隊は、Orel に弾薬と機関砲を送るよう電信で要請した。…
 Saratov 州から、『村落は警戒し始め、戦闘の用意をしている』との報告が入る。
 Volskii 地区のいくつかの村落は、三又鋤で赤軍兵団に抵抗し、兵団を解散させた。
 Tver 州では、『食料探索のために村落に送られたパルチザン派遣隊は、至るところで抵抗に遭遇した。多くの場所からこうした遭遇に関する報告が来ている。徴発から穀物を守るために、農民たちは森の中に隠れ、穀物を地中に埋めている。』
 Simbirsk 州のKorsun の市場では、穀物を徴発しようとしている赤軍と闘うために農民たちがやって来た。一人の赤軍兵士が殺害され、数人が負傷した。」(注89)
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 (07) 1919年1月、Izvestia は、Kostroma 州の一村落で蜂起している『白衛クラク』に関する政府による調査の報告を掲載した。これは、村落「ブルジョアジー」に対する攻撃が現実にどのようなものであったかを示している。
 この調査は、村落の〔ソヴェト〕執行委員会の議長が農民の請願者たちをいつも殴ったこと、ときには杖で叩いたことを、明らかにしていた。
 犠牲者たちの中には、靴を剥ぎ取られ、雪の中で座らされる者もいた。
 いわゆる食料徴発は、現実にはふつうの強盗だった。その過程で、農民たちは、コサック式鞭で懲らしめられた。
 ある村落に接近すると、食料派遣隊は農民を脅かすために機関砲を撃つ。
 そして、闘争が始まることになる。
 「農民たちは、打撃から身を守るために5枚かそれ以上のシャツを着なければならなかった。だが、笞には鉄線が入っているので、それは大して役立たない。鞭打ちのあと、シャツが肌にくっつき、乾いた。それで、その部分を温水に浸してほどく必要があった。」
 派遣隊員は兵士たちに、「ソヴィエトの権威を忘れないようにさせるために」、手にする何でも持って殴打するよう命じた」(注90)。
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 (08) 政府がその軍事行動作戦を進ませるにつれて、田園地帯での反乱は大きくなった。
 これは、ロシアの歴史上、先例のないことだった。Razin の反乱やPugachev の反乱のような従前の蜂起は、地域的な事件で、東部や南東部の国境地域に限定されていたからだ。
 ロシアの中心地域では、今のような反乱はかつて一切起きなかった。
 1918年の夏に勃発したボルシェヴィキに対する農村の抵抗は、地域的な範囲と関与した人数のいずれについても、かつて発生した最大の農民反乱をはるかに上回るものだった(脚注1)
 しかしながら、その経緯は、依然として不完全にしか知られていない。ソヴィエトの文書類を所管する当局が重要な書類の公開を拒否しており、また、西側の研究者たちにこの主題についての不可解な関心のなさがあるがゆえにだ(脚注2)
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 (脚注1) ある学生は、この問題に関して、関与者の数と与えられた脅威から見て、内部的前線での対農民のボルシェヴィキの戦争の大きさは、前線での白軍との内戦をはるかに凌駕した、という説得的な主張を行なっている。Vladimir Brovkin, 「内部戦線について—ボルシェヴィキと緑党」.
スラヴ研究の前進のためのアメリカ協会の第20回全国大会で発表された論文。1988年11月、p.1.
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 (脚注2) 労働者と農民のいずれによるのであれ、「騒擾」に関する情報は検閲され、公表する新聞紙はしばしば罰金刑を受け、停刊させられたりした。1919年の初めまでに、全てのこのような情報は軍部の検閲によって排除された。軍部の検閲は、発行がまだ許容されていた一握りの非ボルシェヴィキ新聞から定期的に削除した。DN, No. 2(1919年3月21日), p.1.
 この主題に関する唯一の学問的論文集は、Mikhail Frenkin, Tragediia krest’ianskikh vosstanii v Rossi 1918-1921 gg.(Jerusalem, 1988)だ。1918-19年の蜂起は、この書物の第四章、p.73-p.111で扱われている。
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 チェカの報告によると、1918年に245件の村落「蜂起」(vosstaniia)があり、これらにより875人のボルシェヴィキと1821人の反乱者の生命が奪われた。
 加えて、2431人の反乱者が、処刑された(注91)。
 しかし、こうした数字は、被害者数の一部だけを、おそらくはチェカ自身の人員によって犠牲になった者たちの数だけを反映できるだろう。
 共産党員の歴史研究者の最近の成果は、こう述べる。1918年の7月と9月の間だけの不完全な数字資料から判断すると、22の州で、およそ1万5000人のソヴィエト「支持者」(storonniki)が殺された。この語が意味するのは、赤軍兵士、調達派遣隊員、共産党の役人たちだ(注92)。
 Chelyabinsk の共産党のある歴史書は、機関銃の周りでポーズをとる300人の赤軍分隊の一枚の写真を掲載している。
 説明書きによると、一人の生存者を除く全隊員が、「クラクの蜂起」によって殺戮された(注93)。
 他の地方や州でも、両者の側に同様の被害が発生したに違いないのは、明らかだろう(注94)。
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 (09) 1918-19年の反共産党農民蜂起は、経緯が概略すら知られていないのだが、最後には鎮圧された。
 農民反乱者たちは多くの点で政府の武力に優っていたけれども、射撃力の不足、とりわけ組織化のなさ、という点で劣っていた。それぞれの蜂起は自然発生的で、かつ局所的だったのだ(注95)。
 エスエルは、村落では支配的役割を果たしていたが、農民たちを組織するのを拒んだ。ほとんど確実に、白軍の手中に入って行動することの恐れからだった。
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 ③へつづく。

2903/R.Pipes1990年著—第16章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱①。
 (01) 前年の冬以来、ときには赤衛隊に組み入れられた武装部隊が、食料を求めて村落を襲撃してきていた。
 彼らは通常は、農民たちの激しい抵抗に遭った。農民たちを強力にしていたのは、武器をもって前線から故郷に帰還した兵士たちだった。ふつうは手ぶらで戻っていたのだが(注75)。
 レーニンは1918年1月に、各々10-15人の労働者がおり、厄介な農民を射殺する権限をもつ「数千の食料調達派遣隊」の結成を提案していた。だがこれは、支持を得られなかった(注76)。
 ボルシェヴィキが村落へのテロル行使部隊の体系的組織化へと進んだのは、ようやく1918年春になってからだった。
 最初の措置は、レーニンの署名付きで5月21日に発せられた、ペテログラードの労働者に対する訴えだった(注77)。
 その他の訴えや指示が、これにつづいた。
 実力を用いて食料を奪い取るという考えは、明らかに<armee revolutionnaire>を範としていた。これは、フランスの公安委員会がその最初の措置として 1793年6月に作ったもので、生産物の隠蔵を禁止する法令が伴なっていた。
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 (02) ロシアの労働者はこのような手段を好まなかった。
 彼らは、<burzhui>または地主に対して動員されることがあり得た。地主と労働者のあいだには超え難い文化的な懸隔があった。
 しかし、彼らの多くが生まれて、親戚がなお住んでいる村落に対しては、そうでなかった。
 彼らは、農民たちには階級的悪意を何ら感じなかった。レーニンやその支持者たちが責任があるとした、比較的に良い暮らしの農民に対してすら。
 ペテログラードの労働者たちにかなりの支持を得ていた左翼エスエルは、労働者と農民の間に階級的憎悪を焚きつけるボルシェヴィキの措置に、異議を唱えた。
 左翼エスエルの中央委員会は実際に、その党員たちに、食料派遣隊に応募するのを禁止した。
 ジノヴィエフは、志願者たちを寛容に誘いはしたが、5月の布令を実施するときには、相当の困難に陥った。
 彼は5月24日に、派遣隊は食料を求めて2日以内に出発すると発表したが、ほとんど誰も集まってこなかった。
 労働者全権委員団で組織されたペテログラードの工場委員会の集会は、この手段に反対する決議を採択した(注78)。
 ジノヴィエフは5日後に訴えを繰り返し、食料派遣隊を「ブルジョアジー」の脅威と結びつけた。
 「我々は、彼らがパンの匂いを忘れないように、一日当たり16分の1ポンドを与えるべきだ。
 だが、我々が麦藁粉を食べなければならないとしたら、それをまず最初にブルジョアジーに与えるべきだ。」(注79)
 労働者たちは動かず、ボルシェヴィキ知識人には全く欠けている常識的感覚をもって、穀物の取引を自由化することで食料不足を解決することを主張した。
 しかしながら、そのうちに、ジノヴィエフは脅威と報奨を結びつけて、何とか若干の食料派遣隊を組織することができた。その第一号の400人の兵団は、6月に田園地帯へと出発した(注80)。
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 (03) 食料派遣隊は、失望させた。
 善意の労働者たちはとどまったので、入隊した者たちの多数は、略奪するために村落へ行く都市のごろつきだった。
 このような結果への不満を、レーニンはすぐに受け取った(注81)。
 最初の調達派遣隊が村落に姿を現した後にすぐに、彼は、工業界の労働者に対して、つぎの挨拶文を送った。
 「私は、Vyksa の同志労働者たちが、本当の革命家として機関銃をもって、食料を求める大きな運動に着手するという立派な計画を実行することを、期待する。
 すなわち、飢えている全員を飢餓から救うという共通の任務のために、かつ自分たち自身のためだけではなく、Tsiurupa に完全に同意して、指示に従って活動する、えり抜きの、信頼できる、略奪しはしない者たちが派遣隊に配置されることを、望んでいる。」(注82)
 農民の不満から判断すると、つぎのことがふつうの現象だった。つまり、都市部から来た武装兵団は、盗んだ生産物の上に乗り込み、徴発した密造酒で酔っ払っている(注83)。
 厳しい制裁を受ける怖れがあったにもかかわらず、このような振舞いは継続したので、最後に政府は、食料派遣隊の隊員に、20ポンドまでの食料を個人のために使うことを、許さなければならなかった。これには、最大限2ポンドのバター、10ポンドのパン、5ポンドの肉が追加して含まれていた(注84)。
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 (04) しかし、制裁による威嚇も、自分のための使用の容認も、機能しなかった。そして、やがて体制は、新しく設立する赤軍に目を向けなければならなかった。
 ソヴィエト・ロシアに強制的軍役を導入する、1918年5月29日の布令が、食料派遣隊の設立と同時だったことは、決して偶然ではない。
 5月26日に案が作成され、翌日に中央委員会によって承認されたレーニンによる指令があった。これは、新しく構成された赤軍の最も早い任務はロシアの農民に対する戦争を繰り広げることであることを、示した。
 「1. 戦争人民委員部は、軍事的供給人民委員部へと改変される。—すなわち、戦争人民委員部の活動の十分の九は、軍が食料を求めることに適合させることに集中すること、および三ヶ月間この戦争を指揮することだ。
 2. 同じ期間、全国土に戒厳令を敷く。
 3. 軍を動員する。健全な分隊を選抜する。少なくとも一定の同じ地域の19歳の者たちを、収穫物を獲得し食料と燃料を集める体系的作戦に就かせる。
 4. 紀律の欠如に対して、死刑を導入する。/…
 9. 調達派遣隊全体について、集団的責任制、および10回の略奪事件ごとの処刑の威嚇を、導入する。」(注85)
 赤軍全体が農民層との闘いに割当てられるのを妨げたのは、チェコ人の反乱だけだった。
 そうであっても、赤軍は、この軍事作戦についてかなりの役割を果たした。
 赤軍が形成されていたとき、トロツキーは、次の二、三ヶ月のその任務は、「飢餓と闘う」ことだろう、と表明した(注86)。これは、「農民と闘う」ということの微妙な表現だった。
 この軍事作戦には褒章は発行されなかったけれども、<muzhik>に対する戦争は、赤軍にとって最初の戦闘体験を与えた。
 最終的には、全国家的な食料調達の闘いで、7万5000人の常備軍〔赤軍〕兵士が、5万人の武装民間人に加わった(注87)。
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 (05) 農民は、力には力で対抗した。
 当時の新聞紙は、政府と農民のあいだの戦闘に関する記事で充ちている。
 村落を行進する軍人および民間人部隊の司令官たちは、「クラクの蜂起」を定期的に報告した。しかし、証拠資料が明確にしているのは、彼らが
遭遇した抵抗は、「富農」のみならず村落農民全体を含む農民層の、自分たちの財産についての自発的な防衛活動だった、ということだ。
 「慎重に検討すればするほど、いわゆるクラクの反乱は、ほとんどつねに一般農民の蜂起だったように思われる。そこにはいかなる階級の区別も見出され得ない。」(注88)
 農民層は都市部での必要物の少なさを気にしておらず、「階級分化」について何も知らなかった。
 農民たちが見たのは、都市部からの武装部隊だった。その構成員は、しばしば、皮ジャケットか何かの軍服かを着た元の農民で、自分たちの穀物を奪うためにやって来ていた。
 彼ら農民たちは、農奴制のもとですら自分たちの収穫物を引き渡すことを強いられなかった。そして今も、そうするつもりがなかった。
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 ②へとつづく。
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