Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第二節/法の廃棄②。
(07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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(08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
誰が我々を守るのか?
なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
電話も、電報もない。
誰が我々を守るのか?
理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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(09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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(10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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(11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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第二節、終わり。
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第二節/法の廃棄②。
(07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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(08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
誰が我々を守るのか?
なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
電話も、電報もない。
誰が我々を守るのか?
理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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(09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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(10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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(11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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第二節、終わり。



























































