秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

集団農場

2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第六節
 (01) NEP に関する議論は、時間の問題へと帰着した。
 ソヴィエト同盟が NEP が許容している機構を通じて工業化するのに、どのくらい長くかかるのだろうか? NEP が許容するのは、農場への課税と市場販売による資本蓄積、工業のための価格固定、新しい機械類の輸入支払いのための穀物の輸出だ。
 資本主義諸国家との戦争の勃発前にソヴィエト同盟が必要とする防衛産業を確立するのは、間に合うのだろうか?//
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 (02) 時間の問題は、体制の農民層との関係にかかるより広範な論点に関係していた。
 市場機構がいったん破綻し、穀物不足が発生したなら、とくに戦争の危険があるときにこれが起きたなら、どうなるのだろうか?
 農民たちはもっと多く納税しなければならなくなり、工業への投資はもっと減るのだろうか?
 あるいは、食料徴発が復活し、農民層との同盟関係は危うくなるのだろうか?//
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 (03) ブハーリンは、党の主要な支援者として、調達価格を高めることに賛成した。たとえ、工業化が農民の荷車の速さで進むことになるとしても。
 彼は、1926年の状況を判断したうえで、工業は何とか戦前の水準を再達成することができる、そしてNEP のもとで順調に推移するだろう、と主張した。
 彼は、ソヴィエト連邦は外国の脅威にも国内の脅威にも直面していない、と確信していた(前者につき、外国貿易は資本主義諸国との関係を落ち着かせている、後者につき、「クラク」や「私的利得者」は協同組合の急成長によって阻まれている)。//
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 (04) 1927年に、ボルシェヴィキの意見をNEP に反対にさせる二つの事件が起きた。
 第一は、都市部への穀物供給が再び途絶えたことだった。
 収穫不足が、消費用品不足と同時に起きた。そして、工業製品の価格が上がるにつれて農民たちは穀物売却を減らした。
 その秋の国家による農民からの調達量は、前年の半分になった。
 第二の事件は、戦争勃発の危惧だった。
 プレスが、イギリスがソヴィエト同盟に対する「帝国主義戦争」をしかけようとしている、という虚偽の風聞を報道した。
 スターリンは、この報告を、統合反対派を攻撃するために利用し、その指導者のトロツキーとジノヴィエフを、深刻な危機にあるソヴィエト国家の団結を破壊しているとして非難した。
 これら二つの問題—「クラク」の穀物ストライキと資本主義国家との戦争の脅威—は、スターリンの見方の中では結びついていた。//
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 (05) トロツキーとジノヴィエフは、調達価格を上げることに反対した。
 この二人は、消費用品生産の増加のために必要な食糧備蓄を確保するために、食料徴発を一時的に復活させることに賛成した。
 そのことは、農民たちの穀物を売却する動機をより大きくするだろう。
 この点で、スターリンは、ブハーリンの側に立ち、トロツキーとジノヴィエフに対抗した。後者の二人は、1927年12月の第15回党大会で敗北した。
 しかし、スターリンはそのあとで、ブハーリンとNEP への反対に転じた。
 彼のマキアヴェリスト的戦術は、権力の追求に際してのイデオロギーの完全な無視を示している。//
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 (06) 内戦時の乱暴な言葉遣いに戻って、スターリンは、五ヶ年計画でソヴィエト同盟を工業化すべく、穀物を求める新しい闘いを呼びかけた。
 戦争の危惧を彼は利用し、そのことで、NEP の放棄を推進することができた。NEP は工業の軍事化の手段としてはあまりに遅すぎ、戦争事態の際の食料確保手段としてはあまりに不確実だ、という理由を付けて、だった。//
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 (07) スターリンの五ヶ年計画は、革命は外国と国内の「敵」との絶えざる「階級闘争」だとする急進的な見方にもとづいていた。
 彼は乱暴な言葉遣いでもって、資本主義経済の最後の残滓(小取引と農民による耕作)を根絶することを語った。彼によるとそれは、社会主義的工業化へと国が進むのを妨げている。
 1928-29年のブハーリンとの間の政治闘争で、彼はブハーリンは「危険な」考えを持っていると責め立てた。その考えは、階級闘争は次第に少なくなっていくだろう、「資本主義的要素」は社会主義経済と調和し得る、というものだと。
 スターリンは言う。このような想定は、敵に対するソヴィエト国家の防衛力を弱め、敵がシステムに浸入し、内部からそれを転覆させるのを許すことになる、と。
 スターリンは、大テロル(Great Terror)へと至る国家の暴力の連鎖を合理化する歪んだ論理を用いる先駆者だったが、反対方向で、ブルジョアジーの抵抗は国家が社会主義へと接近するにつれて増大し、その結果として、活力が絶えず強くなることが「搾取者の反抗を粉砕して根絶する」には必要だ、と理由づけた。//
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 (08) 内戦時の階級闘争の再開を求めるスターリンの呼びかけは、一般党員の広範な部分を魅了した。彼らの中には、NEP は革命の目標からの退却を示している、という感覚が大きくなっていた。
 工業の発展についてのスターリンの弁舌は、青年期にイコン(聖像)とゴキブリの農民世界から飛び出して、こうした貧困の遺産を破壊するものと革命を見た下級のボルシェヴィキ党員全てに対して、力強い訴えとなった。
 彼らのほとんどは内戦時に入党し、スターリンのおかげで昇進してきた。
 彼らは実際的な人間で、マルクス主義理論の多くを理解しておらず、ボルシェヴィキに対する忠誠心は、「プロレタリア」という彼らのidentity と緊密につながっていた。
 彼らにとって、五ヶ年計画に関するスターリンの単純な見通しと、後進性を克服して国を世界の偉大な工業大国にするための新しい革命的攻勢とは、同じことを意味した。//
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 (09) スターリンの戦闘的な言葉はまた、まだ若すぎて内戦を闘えなかったが、それに関する物語にもとづく「闘争崇拝」の中で教育されてきた若い共産党員たち—今世紀の最初の20年間に生まれた者たち—に対して、特別の魅力があった。
 あるボルシェヴィキ(1909年生まれ)は、自分たち世代の戦闘的な世界観は、「ブルジョア的専門家」、「NEPmen」、「クラク」その他の「ブルジョアジーの雇われ者たち」との「新たな階級戦争」の必要についてのスターリンの主張を受け入れる心の準備をしていた」、と回想記の中で述べた。
 若い共産党員たちは、NEP に苛立つようになっていた。
 あるスターリン主義者は、こう説明した。
 「私の世代の共産青年同盟員たち—10歳またはそれ以下で十月革命に遭遇した—は、運命を呪った。
 我々の意識が形成され、青年共産同盟に加入したとき、そして工場へと働きに行ったとき、我々は、我々にはすべきことが何も残されていないだろうことを知った。
 革命は過ぎ去っていたからだ。内戦期の真剣だがロマンティックな年月は戻って来ないだろうからだ。そして、歳上の世代の者たちは、闘争や興奮のない退屈で平凡な生活だけを我々に残してくれたからだ。」(注08)//
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 (10) ここに、スターリンの「上からの革命」、革命の第二世代の段階、の先頭に立とうとする熱狂者の集団があった。//
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 (11) スターリンは、内戦期の手段を復活させることで、穀物危機に対応した。
 食料徴発制は、一連の「非常措置」によって支えられた。—その中には、徴発軍団が穀物提出を控えていると疑うならば、その農民を誰でも逮捕して、財産を没収することを認める、悪名高い刑法典第107条もあった。
 「ウラル・シベリア方式」として知られるものは、数万の零落した農民農場を犠牲にしてでも比較的にうまく行った1928年の運動だったが、スターリンはこれによって、「クラクの穀物ストライキ」を破壊して五ヶ年計画が約束した工業革命に必要な食料を確保するために、より強制的な手段を押し進める気になった。
 「穀物を目ざす闘い」は、スターリンや彼の支持者たちを全力をあげた集団化へと向かわせていた。//
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 第六節、終わり。第9章全体も、終わり


 Figes-REv

1817/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑩。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第10回。
 第3章・内戦。
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 第2節・戦時共産主義(War Communism)。
 ボルシェヴィキは、崩壊に近い状態で戦争中の経済を引き継いだ。その最初でかつ重大な課題は、経済を作動させることだった。(12)
 これは、内戦時の経済政策という現実的な脈絡の中で、のちに「戦時共産主義」という名称が与えられた。
 しかし、イデオロギー上の意味ももっていた。
 ボルシェヴィキは、長期的観点からは、私有財産と自由市場の廃止および必要に応じての生産物の配分を意図していた。そして、短期的には、これらの理想に近いものを実現させる政策を望んだかもしれなかった。
 戦時共産主義における現実主義とイデオロギーの間の均衡関係は、長いあいだ論争の対象になってきた。(13)
 問題は、国有化と国家による配分といった政策は戦争という非常事態への現実的な対応だとするか、それとも共産主義が指示するイデオロギー上の要求だとするか、これらのいずれによって、もっともらしくし説明することができるのか、だった。
 この論議では、両派の学者たちが、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者の公的文章を引用することができる。ボルシェヴィキたち自身が、確実な回答をすることができないからだ。
 新しい経済政策のために戦時共産主義が頓挫した1921年時点でのボルシェヴィキの見方からは、明らかに現実的な解釈が選好された。すなわち、戦時共産主義がいったん失敗したとするなら、そのイデオロギー上の土台に関してはなるべく語らない方がよかったのだ。
 しかし、初期のボルシェヴィキの見方からは-例えば、Bukharin と Preobrazensky の<共産主義のイロハ>の見方からは-、それの反対が真実(true)だった。
 戦時共産主義が実施されている間、ボルシェヴィキがその政策にイデオロギー上の正当化を与えるのは自然だった。-マルクス主義という科学的イデオロギーで武装した党は、たんに保ち続けるようもがいているのではなく、事態を完全に掌握している、と主張するために。//
 論議の背後にある問題は、ボルシェヴィキはどの程度すみやかに共産主義へと移行できると考えていたのか、だ。
 これに対する答えは、1918年について語るのか、それとも1920年について語るのか、によって異なる。
 ボルシェヴィキの最初の歩みは用心深く、将来に関する公式説明もそうだった。
 しかしながら、1918年半ばでの内戦勃発から、ボルシェヴィキに初期にあった用心深さは消え失せ始めた。
 絶望的な状勢を見渡して、ボルシェヴィキはより急進的な政策へと変化し、徐々に中央政府の支配がおよぶ範囲を、元々は意図していたよりも広くかつ急速に拡張しようとした。
 1920年、ボルシェヴィキが内戦での勝利と経済での崩壊へと向かっていたとき、高揚感と絶望感とが定着した。
 多くのボルシェヴィキには、古い世界が革命と内戦の炎の中へと消え失せるとともに、新しい世界がその燃え滓の中から不死鳥のごとく起ち上がるように思えた。
 この希望はおそらく、マルクス主義というよりも無政府主義的イデオロギーにもとづくものだった。しかし、そうではあっても、マルクス主義の言葉遣いで表現された。すなわち、プロレタリア革命の勝利と共産主義への移行は、おそらく数週間後あるいは数箇月後にまで切迫している、と。//
 経済政策の領域で最重要なものの一つである国有化は、このような帰結を例証するものだ、とされた。
 優秀なマルクス主義者として、ボルシェヴィキは、十月革命後にきわめて速やかに銀行と信用機関を国有化した。
 しかし、工業全体の国有化に、ただちには着手しなかった。すなわち、最初の国有化布令は、プチロフ工業所のような、防衛生産と政府契約を通じて国家に緊密に関与していた個々の大コンツェルンにのみ関係するものだった。//
 しかしながら、情勢は多様で、ボルシェヴィキの元来の短期的意図をはるかに超える範囲で、国有化が行われることになった。
 地方ソヴェトは、その権限にもとづいて工場施設を収奪した。
 ある範囲の工場施設は、所有者または経営者が放棄した。別のいくつかの工場施設は、かつて経営から排除されていたその労働者たちの請願によって、あるいは無秩序の労働者たちからの保護を求める経営者の請願すらによって、国有化された。
 1918年夏、政府は、全ての大規模工業を国有化する布令を発した。そして、1919年秋までに、この布令の対象となった企業の80パーセントが実際に国有化された、と推算された。
 これは、新しい経済最高会議(Supreme Ecconomic Council)の組織能力をはるかに超えるものだった。すなわち、実際には、かりに労働者たち自身が原料の供給や最終製品の配分を調整して工場施設を作動させ続けることができなければ、その工場施設はしばしばすぐに閉鎖された。
 だが、そのようであっても、ボルシェヴィキは、さらに進めなければならないと感じていた。
 1920年11月、政府は少なくとも紙の上では、全ての大規模工業を国有化した。
 もちろん実際には、ボルシェヴィキには、それらを管理することはもとより、新しい獲得物をどう呼び、どう分類するかも困難だった。
 しかし、理論上は、生産の領域全体が今やソヴィエト権力の手中にあり、工芸品店舗や風車ですら、中央が指揮する経済の一部になった。//
 同じような経緯によって、ボルシェヴィキは内戦が終わる頃まで、自由取引のほとんど完全な廃絶と事実上の貨幣なき経済に向かって進んだ。
 町での配給(1916年に導入)、および理論上は農民層がその余剰の全てを渡すことが必要な穀物の国家独占(臨時政府が1917年春に導入)を、先任者たちから継承していた。
 しかし、町にはパンや他の食糧がまだ不足していた。市場で買える工業製品がほとんどなかったので、農民たちが穀物等を売りたくなかったからだ。
 十月革命のすぐ後でボルシェヴィキは、金銭ではなく工業製品を農民たちに代わりに提供して、穀物の配達量を増加させようとした。
 彼らはまた、取引き全体を国有化し、内戦勃発後は、基礎的な食糧および工業製品の自由な小売り販売を禁止し、消費者協同組合を国家の配分組織網の中に編入しようとした。(14)
 これらは、町での食糧危機および軍隊への供給の問題を見ての緊急措置だった。
 しかし、明らかにボルシェヴィキは、これらをイデオロギー上の言葉で正当化できた-また、実際にそうした。//
 町での食糧危機が悪化するにつれて、物々交換が取引の一般的形態になった。そして、貨幣は、その価値を失った。
 1920年までに、労賃と給料は部分的には現物(食糧と製品)で支払われており、貨幣ではなく商品を基礎にした予算を案出する試みすらなされた。
 衰亡していく都市でまだ機能していた範囲でも、公共サービスは個々の利用者が対価を支払う必要がもうなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキは、これをイデオロギー上の勝利だとして褒め讃えた。-この「貨幣に対する見下し」は、社会がすでに共産主義にきわめて接近していることを示すものだったのだ。
 しかしながら、楽観的ではない観察者には、それは悪性のインフレのように見えた。//
 ボルシェヴィキにとっては不運なことに、イデオロギー上の命題と現実上のそれは、つねにそう都合よく一つになるものではなかった。
 それらの分裂は(そのイデオロギーが実際にはどういう具体的な意味をもつのかに関して、ある範囲のボルシェヴィキには曖昧さがあったこととともに)、とりわけ、労働者階級に関する政策について明確だった。
 例えば労賃に関して、ボルシェヴィキには実務での厳格な平等主義的(egalitarian)政策以上の平等主義志向があった。
 生産を最大限にまで高めるために、ボルシェヴィキは、工業での出来高払いを維持しようとした。しかし労働者たちは、そうした支払い制度は本質的に不平等で不公正だと考えた。
 不足分と配給制によっておそらく、内戦期の都市内の不平等さは減らされていった。しかし、そのことがボルシェヴィキによる成果だとは、ほとんど見なされなかった。
 実際に、戦時共産主義のもとでの配給制度は、赤軍の兵士、重要工業の熟練労働者、共産党員の行政公務員およびある範囲の知識人など、一定の範疇の国民の利益になった。//
 工場の組織は、別の厄介な問題だった。
 工場は、中央の計画や調整機関の指導に従って、労働者たち自身によって(「労働者による統制」に対するボルシェヴィキの1917年の是認が示唆すると思われるように)、それとも、国家が任命した経営者によって、運営されることとされたのだろうか?
 ボルシェヴィキは後者を支持した。しかし、戦時共産主義の間の事実上の結果は、妥協的な、かつ場所によってかなりの変動のあるものだった。
 ある工場群は、選出された工場委員会によって稼働されつづけた。
 別の工場群は、しばしば共産党員だがときどきは従前の経営者、主任技師である、任命された管理者によって稼働された。任命される者の中には、工場施設の従前の所有者すらがいた。
 だがまた別の場合には、工場委員会または労働組合出身の一人の労働者や労働者集団が、工場施設の管理者に任命された。そして、このような過渡的な編成が-労働者による統制と任命管理者制度の中間が-しばしば、最もうまくいった。//
 農民層に対処するについて、ボルシェヴィキの最初の問題は、食料を取り上げるという現実的なものだった。
 国家による穀物の収奪は、私的な取引を非合法することや金銭に代わる代償として工業製品を提供すること、これらのいずれかで成し遂げられたのではなかった。すなわち、国家には、提供できる品物がほとんどなかった。そして、農民層は生産物を手渡したくないままだった。
 町々や赤軍に食料を供給する緊急の必要があったので、国家には、説得、狡猾、脅迫または実力行使によって農民たちの生産物を取り上げるしか方法はほとんどなかった。
 ボルシェヴィキは、穀物の徴発(grain requisitioning)という政策を選んだ。これは、-通常は武装した、かつ可能ならば物々交換のできる品物をもった-労働者および兵士の部隊を派遣して、退蔵穀物を農民の食料小屋から取り上げる、というものだった。(15)
 明らかにこれは、ソヴィエト体制と農民層の間に緊張関係を生み出した。
 しかし、占拠している軍隊がかつてずっとそうだったように、白軍も同じことをした。
 ボルシェヴィキが土地に頼って生きていかなければならないことは、おそらく農民たちを驚かせた以上に、自分たちを驚かせた。//
 しかし、明らかに農民層を驚かせて警戒させたボルシェヴィキのこの政策には、別の側面があった。
 第一に、ボルシェヴィキは、村落に対立集団を作って分裂させることで、穀物収奪を容易にしようとした。
 村落での資本主義の発展によって農民たちの間にはすでに明確な階級分化が生じていると信じて、ボルシェヴィキは、貧農や土地なき農民からの本能的な支持と裕福な農民に対する本能的な反感を得ることを期待した。
 そのことからボルシェヴィキは、村落で貧農委員会を組織し始め、富裕農民の食料小屋から穀物を取り出していくソヴェト当局に協力するようにその組織に促した。
 この試みはひどい失敗だったことが分かった。一つの理由は、外部者に対する村落の正常な連帯意識だった。別の理由は、以前の貧農および土地なき農民の多数は、1917-1918年の土地奪取とその配分によって彼らの地位を向上させていた、ということにあった。
 さらに悪いことに、田園地帯での革命に関するボルシェヴィキの理解は自分たちのそれと全く異なるということを、農民たちに示してしまった。//
 人民主義者と論争したかつてのマルクス主義者のようにまだ考えているボルシェヴィキにとっては、<ミール>は衰亡している組織であって、帝制国家によって堕落させられ、出現している村落資本主義によって掘り崩されており、そして社会主義の発展にはいかなる潜在的能力も持たないものだった。
 ボルシェヴィキはさらに、村落地域での「第一の革命」-土地奪取と平等な再配分-は、すでに「第二の革命」、つまり貧農の富農に対する階級戦争へと継承されている、と考えた。この階級戦争は、村落共同体の統一を破壊しており、最終的には<ミール>の権能を破壊するはずのものだった。(16)
 一方で農民は、歴史的には国家によって悪用されたが、最終的には国家の権力を放擲して農民革命を達成していた真の農民組織だと、<ミール>を理解していた。//
 ボルシェヴィキは1917-1918年には農民層に好きなようにさせたけれども、田園地帯に関する長期方針は、ストリュイピンのそれと全く同じく破壊的なものだった。
 ボルシェヴィキは、<ミール>および土地を分割する細片地(strips)の仕組みから家父長制的家族まで、村落の伝統的秩序のほとんど全ての点を是認しなかった。
 (<共産主義のイロハ>は、農民家族が各家庭で夕食を摂るという「野蛮」で贅沢な習慣を放棄し、村落共同体の食事室で隣人に加わるときを、期待すらしていた。(17))
 彼らは、ストリュイピンのように、村落への余計な干渉者だった。
 そして、原理的に彼の小農的プチ・ブルジョアジーへと向かわせたい熱意には共感はできなかったけれども、農民の後進性に対する深く染みこんだ嫌悪感を持っていたので、各世帯の分散した細片地を近代的な小農業に適した四角い画地にして安定させようとするストリュイピンの政策を継続した。(18)
 しかし、ボルシェヴィキの本当の(real)関心は、大規模農業にあった。そして、農民層に対する勝利という政治的命題からだけ、1917-18年に起きた大きな土地の分解は大目に見て許した。
 残っている国有地のいくつかで、ボルシェヴィキは国営農場(<ソホージ(sokhozy)>)を始めた。-これは事実上は、大規模な資本主義農業の社会主義的な同等物で、労賃のために働く農業従事者の作業を監督する、管理者が任命されていた。
 ボルシェヴィキはまた、集団的農場(<コルホージ(kolkhozy)>)は伝統的なまたは個人的な小保有農業よりも優れている、と考えていた。
 そして、内戦期に、通常は動員を解除された兵士や食うに困って町々に逃げ込んだ労働者たちによって、いくつかの集団的農場が設立された。
 集団的農場では、伝統的な農民村落のようには、土地が細片地に分割されるということがなかった。そうではなく、集団的に(collectively)土地で働き、集団的に生産物を市場に出した。
 初期の集団農場の農民には、しばしば、アメリカ合衆国その他での夢想家的な(ユートピアン)農業共同体の創始者のイデオロギーに似たものがあった。そして、資産や所有物のほとんど全てを貯蔵した。
 かつまた彼らは、夢想家たちに似て、ほとんど稀にしか、農業経営に成功したり、平穏な共同体として長く存続したりすることがなかった。
 農民たちは、疑念をもって国家的農場や集団的農場を見ていた。
 それらは、あまりにも少なくてかつ力強くなかったので、伝統的な農民の農業に対する重大な挑戦にならなかった。
 しかし、それらのまさに存在自体が、ボルシェヴィキは奇妙な考えを抱いていて、とても信頼できるものではない、ということを農民たちに思い起こさせた。
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 (12) 経済につき、Silvana Malle, <戦時共産主義の経済組織・1918-1921年>(Cambridge, 1985)を見よ。
 (13) Alec Nove, <ソヴィエト同盟の経済史>(London, 1969), Ch. 3. を見よ。
 (14) 商取引に関する政策につき、Jule Hessler, <ソヴィエト商取引の社会史>(Princeton, NJ, 2004),Ch. 2. を見よ。
 (15) 食料収奪につき、Lars T. Lih, <ロシアにおけるパンと権力・1914-1921年>(Berkley, 1990)を見よ。
 (17) N. Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>、E. & C. Paul訳(London, 1969)p.355.
 (18) ストリュイピン改革の時期と1920年代の間の継続性につき、とりわけ田園地帯での土地安定化の作業をした農業専門家の存在を通じての、George L. Yaney, 「ロシアにおけるストリュイピン土地改革から強制的集団化までの農業行政」、James R. Millar, <ソヴィエトの村落共同体>(Urbana, IL, 1971)所収, p.3-p.35.を見よ。
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 第3章(内戦)のうち、「はじめに」~第2節(戦時共産主義)までが終わった。
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