Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
——
第二節・征圧されない国③。
(14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
教会に対する新たな攻撃に参加した。
農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
(15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
これが、NEP の失敗の根本原因だった。
ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。
Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
(16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
(17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
これは、間違いだった。
NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
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第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。
試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
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第二節・征圧されない国③。
(14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
教会に対する新たな攻撃に参加した。
農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
(15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
これが、NEP の失敗の根本原因だった。
ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。
Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
(16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
(17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
これは、間違いだった。
NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
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第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。