マルクス(・エンゲルス)の論述自体をL・コワコフスキはどう紹介し、分析し、論評しているかにも関心をもつに至ったので、第一巻の一部の試訳作業も、並行して行うこととする。青年マルクスとか「ヘーゲル左派」とかにまで戻ると、マルクスとレーニンとの関係・差異に言及されない予感がするので、<歴史的唯物論>(「史的唯物論」とされるものの訳語はこれを用いる)あたりから始めることにする。但し、今回部分には、論評類はほとんどない。
マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
----
第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
(1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
(2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
そのとき、社会革命の時期が始まる。
経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。
ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
(3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
(4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
(5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
(6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
(7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
(マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
(8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
----
第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。
マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
----
第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
(1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
(2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
そのとき、社会革命の時期が始まる。
経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。
ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
(3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
(4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
(5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
(6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
(7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
(マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
(8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
----
第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。