秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

陵墓

1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1531/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④07。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
 この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
 ○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。 
 目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
 陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
 そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
 そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
 崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
 なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
 つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
 薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。 
 天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
 神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
 ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
 若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
 ○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
 この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
 阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
 安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
 寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
 ○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
 天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
 さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
 この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
 山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
 また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
 さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
 これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
 ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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 聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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 後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
 順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
 土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
 後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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 後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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 以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
 陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
 上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
 この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
 それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
 ○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
 そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
 しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。

1527/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④06。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と仏教の関係について、あまりにも無知なのではないか。
 ○ 天皇・皇族の墓=陵墓のかなりの部分は、一定の長い間、仏教寺院によって維持・管理されてきた、と見られる。
 江戸時代の天皇の陵墓は、光格天皇、孝明天皇を含めて、全て泉涌寺(京都市東山区)の周辺(東から南)にある。このことは、先に書いた。
 つぎの本に、興味深いことが書かれている。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 そもそもは明治期の神仏分離令・神仏判然令から始める必要がある必要があるのだろうが、割愛してこの本のp.330あたりから読むと、当初の神祇官という重要官署の所管対象に、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだ。1868年(明治元年)に陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされたところ、陵墓事務(山陵)については別の官署・「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、1869年9月に「諸陵寮」が置かれた。
 同「寮」は、とくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について、注目していたようだ。江戸時代の全天皇の陵墓がそこにあったのだから、当然ではあろう。
 「諸陵寮」の1870年(明治3年)8月の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用を混ぜる。厳格な正確さはない可能性もある)。
 ・維新復古となり「神仏混淆不相成旨」を先般布告した。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(然処)、御陵に関係している「泉涌寺」その他(其外)が依然として「巨刹」を構えてそのままになっているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(恐入次第)。
 ・歴代皇室の「御祭典御陵之御取扱」方法は官民の「模範」で、仏教との「混淆」をしてはならない旨を神社に普く「布告」した。
 ・「泉涌寺」ら全ての「御陵ニ関係之寺院」は、一山残らず「還俗」することを、人選の上で「相当の職務」に就かせることを命じた。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 ・「僧徒」たちは「御陵ニ関係」しては全くなくとも、「九重石御塔」または「法華堂杯」をそのまま建て置いて「御祭典」をしているのは「浮屠混淆」の一端なので、少しずつ是正されるのは当然だ。
 ・「御陵」とは「御霊之所在」で、「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は下されなかったけれども、是正されるべきは「自然」だ。
 ・「肝要御陵之御取扱」が「浮屠混淆」であっては、じつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(不堪懸念殊更苦心)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を別紙のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 ・<別紙>-「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきところ、「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと奉り存じ候。 
 以上、終わり。
 泉涌寺に関連しなくても、いくつか興味深い。例えば、
 ①寺院での祭祀・法要類については、従来は「格別」の「勅諚」類がなかった。つまり、神社と同等の扱いだった。
 ②「寺院境内ニ御陵」という言葉があり、これは「御陵」が「寺院」の「境内」にある、という了解または認識を前提としている、と思われる。寺院の所有区画と陵墓の区域とは厳密には区別されていなかったようだ(近代的「所有権」観念のなさによるのかもしれない)。
 さて、皇族である聖徳太子らの合葬陵墓が大阪府太子町・叡福寺の中または直近にあること、多数の天皇陵墓が京都市東山区・泉涌寺の近くにあることは、すでに記した。
 これらは、現時点でのことだ。
 ○ いくつかの論点が、少なくともかつては、あった。
 第一は、陵墓自体の様式・築造法の問題だ。詳しい知識はないが、神道的または仏教的な仏具ないし神具が置かれたり、墓碑自体が神道式または仏教的ということもありうる。
 第二に、陵墓の維持・管理の問題だ。少なくともかつては実質的に寺院または神社がこれを行っていたことはあった、と見られる。
 神社についてはこの欄でまだ言及したことがないが、現在の姿・位置関係から推察して、それがありうるだろうという例をいくつか知っている。
 第三は、陵墓の前又は直近での慰霊行事の主体の問題だ。形式上は皇室または幕府等々による命令(又は委託)によることがあったかもしれないが、陵墓の維持・管理を実質的に寺院または神社が行っている場合には、これもまたそれぞれの寺院や神社が主体として行っていたのではないだろうか。
 第四は、周辺に陵墓がある場合にとくに、寺院(・神社)内部での上のような行為、つまり慰霊・法要や供養の祈祷の類が認められたかどうか、だ。これまた、陵墓の維持・管理が実質的に寺院(・神社)によっている場合には、大きな問題にならないと思われる。
 ◯ これらが明治期以降どうなって、そして現在に至っているのか。
 上の1870年(明治3年)の<建議書>について言うと、まず、つぎの点の解釈が問題になりうる。
 「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきで「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だ。=「御歴代御陵祭祀神典ニ被為依候上ハ、泉涌寺ヲモ被廃候儀当然ノ御儀と奉存候」。
 これは、泉涌寺という仏教寺院の廃絶までを意味しておらず、維持・管理をこの寺院に任さないことも含めて、上の第二、第三を明確に禁止し、かつ場合によっては第四も許さない、という厳しい趣旨だとも読める。
 だが、実際には、これよりも厳しい措置を想定していたようだ。
 外池昇(1957~)の上掲著は、<別紙>について、つぎのように注記している(p.344)。
 「泉涌寺にある総ての陵を泉涌寺から徹底的に分離して管理」する具体策を述べる。
 ①「総ての僧侶」の「復飾」、②その僧侶から人選して「御陵守護に当たらせる」、③「寺中の仏像・経典・梵鐘等の仏器類」の「撤却」、③「本堂を取り除く」、④「寺領」は「陵田」(陵墓の土地)とする。p.344。
 これは、泉涌寺という仏教寺院それ自体の廃止・廃絶を意味するだろう。
 さらには、上に触れた第一の点にかかわって、14の陵墓について、つぎのことすら提言されていた、とされる(同上、p.344)。同寺周辺の他陵については省略。
 ①「仏式の九重塔」を除去して「円丘」を築く、②崩御年号記載の「大石」を前面に設置、③「石垣、玉垣」、「鳥居」の造立、等々。
 ところが、重要なのは、こうした建議はそのままでは採用されたり、実施されたりすることがなかっつた、ということだ。つまり、<神仏分離>を徹底することはできなかった。
 おそらくは、上の第一の点での多少の造作、変更はあった。第二、第三で述べた管理・供養類への主体的関与は(仏教寺院には)なくなった。しかし、寺院それ自体が廃止・廃絶されたわけではなく、すぐ近くに陵墓はありつつ、かつ陵墓面前ではなくとも、当該天皇等に対する慰霊・供養・法要等は寺院内でずっと行われてきた。
 第二、第三は、戦前は国家と世俗宗教との分離、戦後は国家と「宗教」自体の分離の結果だ。陵墓維持・管理は国家の仕事(現在は国・宮内庁)であって、寺院等のすることではない、という法的建前があったし、現憲法のもとでは、寺院のみならず、神道神社についてもある(政教分離、国家と「宗教」との分離)。
 しかし第四については、戦前の実際はよく知らないが(たぶん戦後と同じでないか)、少なくとも戦後は、仏教寺院が天皇の位牌を置いて法要する等のことは、もちろん全ての寺院ではないが、特定範囲の寺院には許されてきた。遺族ともいえる天皇家もまた、それを迷惑に思って封じたりはしてこなかった。
 泉涌寺の「霊明殿」には、天武以降の奈良時代の天皇以外の全天皇(とされる。だが、特定の天皇以降だろう)の「位牌」があって、毎朝読経がされている、とこの寺院で聞いた。
 なお、陵墓それ自体は寺院の土地とは区別されつつ、特定の天皇(・上皇)ゆかりの寺院には、当該天皇(・上皇)の位牌が正面に一つまたは一~三程度置かれて法要を行う畳敷きの部屋が現在でもあることがある(例、仁和寺、青蓮院等々)。その室がある建物に向かう、唐破風であったりする「勅使門」が現在でもあることもある。
 ○ 結局のところ、櫻井よしこのように、天皇・皇室の<宗教>を神道に<純化>させて、仏教と切り離したい、または切り離すのが天皇家の歴史的伝統だと理解している人物が、なんと国家基本問題研究所理事長であっても、いるのかもしれないが、それは過っている、ということだ。
 櫻井よしこは、「無知」を自覚、自認しなければならない。
ギャラリー
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  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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