表題を書名から、章名の〈全体主義論〉に改めた。
 「F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬」=「全体主義論①」だったことになる。
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 第8章/全体主義論・第1節②。
 (6)そのような本の一つは、Waldemar Gurian の〈ボルシェヴィズムの将来〉だ。この書物は、実際にナショナル(国家)社会主義に関するものだ。そして、ロシア人起源のドイツのユダヤ人がこのタイトルの本を1934年に執筆したというのは、驚くべきことだ。彼はこの書物で、ボルシェヴィズムの最も完璧な形態は技術的支配力を理由にドイツ人が見出すだろう、と言っている。
 彼はすでにカトリックになっていた。
 カトリシズムに転宗したペテルブルクの法律家の子息だった。
 Waldemar がまだ幼かったときに父親が死んだあと、母親がドイツに移住し、彼はドイツで育った。
 全く入り組んだことだった。彼はロシア系ユダヤ人で、カトリック転宗者で、執筆した最初の本はMaurras と〈Action française〉に関するものだった。
 私は偶然に、シカゴ大学図書館の書架を周っていて、〈ボルシェヴィズムの将来〉を発見した。シカゴ大学図書館は、主題で分類された書物のある、アメリカの諸図書館により探索者が利用する自由を認められた有り難い施設の一つだった。
 私は熱心にこの本を読んだことを憶えている。このWaldemar Gurian とはいったい誰なのかと不思議に思いながら。
 何人かの同僚に尋ねてみたが、誰も知らない。そして結局、戦後のアメリカでの経歴にもかかわらず急速に忘れられていたこの著者への鍵を電話で教えてくれたのは、友人のReinhart Koselleck だった。
 さて、Gurian は1934年に、ボルシェヴィキの企図はその最大の具現化をヒトラー・ドイツに見出すだろうと、想定していた。//
 (7)同じ考えは、その時期のトーマス・マンの〈ジャーナル〉に見られる。ロシアとドイツの比較が多数掲載されていて、共産主義ロシアはドイツ・ナツィズムの原始的範型として現れる、とする。
 同じ年代にフランスでは、両者の比較はつぎのように進められた。Simone Weil の1936年の諸著作、Élie Halévy の〈L’ère de tyrannies〉(1937年)、そして、共産主義との決裂後のA・ジッド(André Gide)の〈1937-1938年のジャーナル〉。
 1938年にJacques Bainville は〈独裁者〉というタイトルの書物を刊行した。その本で彼は、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンを並列させた。
 要するに、「全体主義」という言葉と関連させているか否かは別として、この主題は両大戦の間の時期に、決して稀なものではなかった。
 むろんのことだが、1939年と1941年のあいだに、盛んになった。ドイツ・ソヴェト協定の時期だ。
 私は〈幻想の終わり〉の執筆中に、全体主義を主題として1940年に催されたアメリカの学会の会議録を掘り出した。その会議での議論は、ヒトラーとスターリンの両人を中心に据えていた。
 こうした議論があったことは、つぎのことを示している。すなわち、H・アレント(Hannah Arendt)は出典を参照要求していないのだが、彼女はファシズム・共産主義の比較対照をした最初の人物ではなく、1950年の著名な書物でこれを再び行ったにとどまる。この当時は、第二次大戦の最終的な過程のおかげで、この比較対照をするのが憚られるようになっていたのではあった。
 タブーは、ヨーロッパできわめて長くつづいた。フランスで、ドイツで、イタリアで。それは、例えばアメリカ合衆国でそうだったよりも長く、強かった。
 今なおドイツでは、このタブーが持ち出されなければならない。
 きわめて不思議なことに、1960年代の左翼運動の波の中で、アメリカの諸大学でこれが復活した。//
 (8)私はたぶん、それを説明するよりもましな叙述するという作業をしたのだが、それとは、20世紀の民主主義的な男女の政治的熱情、その情動の大きさが原因となって、自分たちが生きているブルジョア社会を忌み嫌い、ファシズムや共産主義のような極端なイデオロギーの有利に働いている、ということの神秘さ(mystery)、だ。
 ブルジョア社会に対するこの憎悪、これと結びついているその矛盾への批判により生じる恥ずかしさの感覚は、ブルジョアジーそれ自体と同じくらい古い。
 これらは、2世紀にまたがってドイツとフランスの思想と文学の糧(fodder)となった。
 いったいどのようにして、この熱情は、幼稚だろうと教養があろうと、多数の人々のこころと意識を、多様な分野からファシスト革命または共産主義ユートピアを抱擁するまでにいたらせたのか。これが、私が理解しようとしている謎(enigma)だ。
 これは、我々の時代が避けようとしている疑問だ。なぜなら、一方では、ファシズムはその犯罪性にだけ光が当てられて理解され、なぜ魅力的だったのかを我々が問うのを封じている(実際に魅力的だったのだ)。そして他方では、反ファシズムを言い訳にして、我々はソヴィエト体制の犯罪を覆い隠しつづけている。//
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 第8章第1節、終わり。原英訳書、p.53〜p.57。