西尾幹二・国民の歴史(1999、2099、2017)は「歴史」に関する随筆・評論(時事評論を含む)の寄せ集めにすぎない。むろん、「(歴史)学術書」、<思想書>では全くない。
 概念の不明瞭さと、単純なことを長々と(レトリックを使って)書いている冗長さがひどい。現実の認識自体にも奇妙なところがある。
 これら等を、この書の最後の章「34/人は自由に耐えられるか」に即して指摘してみよう。
 西尾幹二・国民の歴史(全集版、2017)。p.619〜。
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  西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)でこの人は、こう書いた。 
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました」(p.120)。
 「完全な」、「素っ裸の自由」などないと「生涯かけて…言いつづけてきた」。
 しかし、そう言うわりには、既述のように、西尾幹二は「自由」を基本概念とする法学または憲法学の本を一冊も参照していないと見られる。また、<自由>を主題とする哲学書を古典的なものも含めて一冊もまたはほとんどきちんと読んでいないと見られる。
 さらに、上の2018年書での Freedomと Libertyの違いの西尾の理解は、日本の高校生でも冒さないような幼稚な間違いである、旨もすでに述べた。
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  2018年書でも上のとおりなのだから、1999年『国民の歴史』の最後の章の「自由」の意味が全く不明瞭であることは、当然のことなのだろう。
 西尾幹二は、何となくの、常識的感覚?でもって、「自由」という語・概念を用いている。
 その何となくの常識的感覚での言葉だと理解しても、その「自由」に関する叙述の<論理展開>の前提となっているつぎの認識は、すでに基本的に間違っている、と考えられる。
 ①「社会に枠がない。だから、…」。全集版、p.627。
 ②「現代においては、言葉によるにせよ上映像によるにせよ、われわれはあまりに自由に自己表現できる状況下に生きている」。p.629。
 ③「日本に限らない。現代の文明社会に住むすべての人間は、あまりに自由であり、空中浮遊の状態におかれている…」。同上。
 ④「われわれを直接的に拘束し抑圧するものは、今はなにもない」。p.633。
 ⑤「共産主義」と張り合った時代があったが、「私たちは否定すべき対象さえもはや持たない」。p.632。
 これらは、西尾の叙述の<前提>になっている。
 a 自由だ→だから<自分の枠>を作っている、あるいは、b 自由だ→本当は「不自由」だ、あるいは、c 自由だ→「自由だけでは、自由になれない」=ひどく「退屈」している。このc が、最終の節のハイデッガーの「退屈」論へとつながつていく
 さらに言うと、少し既に触れたが、「退屈」しつつ何も信じられないという「人間の悲劇」の前で立ち尽くしている、という「自覚」がある、というのが、最終章の、かつこの書の最後の一文だ。
 このような論理?の前提がそもそも間違いだったら、どうなるだろう?
 「自由」の意味が不明瞭だから断定し難いとはいえ、上の①〜⑤のように<単純に>論定できるだろうか、いやできないだろう(詳論は省く)。
 西尾は、「論述」しているのではなく、レトリックを用いて自己の「思い」・「ひらめき」を表現しているのだ、と反論するかもしれない。そうだとすると、まさにこの点に、概念の意味や論理展開を可能なかぎり明確にまたは厳格にしようという姿勢が欠けた、<随筆・評論>文書であることが明らかになるだろう。
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  西尾の最終章の論脈の骨子は、要するに、上のa +b +c に「退屈」論を経ての「人間の悲劇」の前に立ち尽くしている、という結語を加えただけのものだ。
 これを言うために、長々と全集版二段組で18頁、文庫版で27頁も使っている。
 西尾の文章の<飛び跳ね>、<連想づけ>、あるいは衒学趣味を含むレトリックに惑わされてはいけない。没入し、吸い込まれてはいけない。
 以下、もう少し細かく、その叙述の「論理」らしきものを追ってみよう。
 節番号はないが「0/」にあたる序言らしきもののあとの第一節にあたるのは、「1/理性への期待と未来への不安」だ。p.620〜。
 ここで西尾が書いているのは、最も簡単には、現在の日本はギリシャの「ヘレニズム時代」に似ている、ということに尽きる。あれこれの衒学(たぶん何らかの書物の要約・コピー)や<飾り>はある。
 何が似ているか、いうと、つぎの文章がある。
 ①「開かれた」社会へと変化し「理性の時代に向かっているかにもみえる」が、「自由の不安が、人々の心をひたひたと襲っていた」。p.622。
 ②「一方に理性への信頼があるのに、他方に個人が自由の孤独にどう対処してよいかわからないという不安がどこかで漂っている」。
 これらはこの章の基調のようなもので、すでに書いてしまっているのだ。ここから「退屈」や「人間の悲劇」はさして遠くない。
 また、何のためにギリシャ「ヘレニズム時代」を持ち出すのか。似ている時代は他にもきっとあるだろう。
 上の類似性を根拠づけるものとして、西尾は「占星術」の流行を挙げる。p.624。
 日本でのそれは何かというと、「経済や政治の行く手をめぐって絶え間なく占星術がまかりとおっている」、「株屋の予想のような…経営指南書」、「成功の秘訣を教えるこの傾向は教育論にまで及ぶ」。「人は現代のスタイルにおける星占いに狂奔しているのである」。
 ふーん? そもそも「占星術」の意味の問題でもあろうが、これで、ヘレニズム時代と現代日本の類似性を論証した、とでも思つているのだろうか。「論証」でなくとも、少なくとも「説明」をしたつもりなのだろうか。どこかおかしい。
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  つづいて第2節にあたる、「2/自分を閉ざす『仕切り』を欲する心理」
 冒頭からやや唐突に、歴史書でも哲学書でもない、少年を主人公とする一小説(日野啓三、1980年)の内容紹介がある。
 そして、西尾が何を言いたいかと言うと、結局のところこうだ。
 この小説は「現代の人間は中学生の少年だけではなく、多かれ少なかれガレージの四壁の中に閉じこもる少年と同じような、意図的な自己閉鎖の試みによって、かろうじて精神のバランスを保っているのではないか」と問うているようだ。
 このように一小説を用いて、「社会に枠がない」、「自由」だから「自分の周りに小さい枠をつくって、その中に入ってしまわないと安定しない」という、西尾の「自由」→「自己閉鎖」論が説かれる。
 「自由」も「自己閉鎖」も意味がそもそも明瞭でないのだが、西尾は心理学者でもも脳科学者でもない。「多かれ少なかれ」という副詞も挟んで、けっこう長々と叙述して、何が言いたいのか。
 さらに、自分が作った「枠」に衝突して攻撃しようとする「破壊衝動」が生まれる、そしてこれが基礎にしている「自閉衝動」を含む二つの衝動を満たそうとして中学生少年による<酒鬼薔薇事件>も起こったのだ、と言う。p.627 。
 文芸評論家になったり時事評論家になつたりしているが、ふーん?、それで?、という印象だけが残る。西尾はひよっとすれば得意になって、自分の文章の運びに酔っているのかもしれないが、冷静な読者はそうはいかない。??と感じるだけだ。
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  つづいて第3節にあたる「3/生活の中に増えていく間接体験」
 一つの章全体がさらに小さな随筆・「小論」の並びで(寄せ集めで)構成されているが、この節では、すでに提示されている主題を執拗に繰り返すこともしている。引用が一部重複するが、つぎのごとし。p.629。
 「現代においては、言葉によるにせよ上映像によるにせよ、われわれはあまりに自由に自己表現できる状況下に生きている」。
 しかし、自分の真意は「実際には言葉も映像も、ともに事実を表現するには無力であり、不自由だということなのである」。
 お得意の「自由」=「不自由」論であり、そして<人間は「自由」に耐えられるか>へとつながっていく。しかし、上でいう「無力」がなぜ直後に「不自由」という語に置き換えられるのかの理由・論理はさっぱり分からない。
 種々の事故・事件・異常犯罪を現場にいた者または当事者でなければ「直接に」経験することはできないのは明らかなことで、わざわざ言うほどのことではない。
 にもかかわらず、西尾は一頁以上を使って叙述する。 p.627-8。
 表題にも「間接体験」という語を用いているのだが、この語を思いついて、得意になったのだろうか。しかし、文章・映像、新聞・テレビ等を通じて「間接体験」しかほとんどできないのは、常識のことではないか(truism という語もある)。
 馬鹿馬鹿しくも、西尾はこの<言うまでもないこと>を長々と叙述する。
 ①「事実の異例さに驚くことはあつても、事実そのものに本格的に戦慄するところまでいくことは、じつは滅多にない」。p.630。
 ②「どっちにしてもわれわれは事実そのものを共体験することできないのだ」。p.631。
 自分の思いつきやひらめき、そしてそれらを言葉にしたものは「思想」だ、あるいは「優れた指摘」だ、などという狂っているとしか思えない傲慢さがないと、こういう文章を公にすることはできないのではなかろうか。
 また、この節でも最後に、「不自由」・「空虚」・「不安」に「じつと耐える」べきだ、という思想?、主張?が語られている。その中に、「事実」そのものを「共体験」できないのたから、という理由づけ?も入っている。
 レトリックとしては、何やら美しい文章なのかもしれない。しかし、いかなる具体的内実をもち得るだろうか。何度も、それで?と問わなけれはならない。
 ①「なぜ人は、ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままにじっと耐えつづけようとしないのだろうか。そうしない限り、…なにも経験したことにならない…」。p.631。
 ②「われわれは事実の前に言葉を失って立ち尽くし、ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままに風にさらしつづける不安に耐える勇気を持っていなくてはいけないのではないだろうか」。同上。 
 「ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままに風にさらしつづける不安に耐える勇気」を持て。何だ、これは??
 自然科学や社会系の学問分野で、こんな余計なことを冗長に書けるはずはない。歴史学分野でも同じ。「思想」だとかりにして、いかなる「思想」か??
 西尾はこの節の最後の一文として、「空虚を簡単に言葉や解釈で埋めてはならないのではないだろうか」と書いて、終えている。
 少しは笑ってしまう。この書物刊行後も、しきりと「言葉や解釈で埋め」る作業をして、雑誌論考を書き、書物を刊行してきたのは西尾自身ではないか。
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  長くなったので、「4/明るさのなかのあてどない生のさ迷い」、「5/ハイデッガーの三つの『退屈』」はもう省略する。似たようなことを指摘し続けなければならないからでもある。
 「5/」にはすでにこの欄No.2299〔批判018)で言及した(その際に「4/」としたのは誤り)。