レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
=Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
計18の章に分かれている。邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
——
第13章・自由について(On Freedom)②。
(7)この意味での自由は、これをゼロにまで減少させることができるとしても、逆に無制限ではあり得ないとということを理解するのは困難でない。
社会理論家が言う仮定の「自然状態」、誰もがつねに相互に闘い合っている、全ての種類の法や規則が存在しない状態は、これまで決して存在してこなかった。
しかし、かりに存在したとしても、それは無制限の自由の状態ではないだろう。
そのような状態では全てが許される、と言うのは正しくないだろう。何かは許されることがあるのであり、またそれは法によってのみではないのだから。
そして、法がないところには、自由はない。つまり、この言葉は単直に意味を失う。
自由とは、我々の世界では、つねに条件づけられているものだ。
ロビンソン・クルーソーは無制限の自由を享受しなかった。彼はじつに、あらゆる意味での自由を享有しなかった。
自由は、大きかろうと小さかろうと、何かが許される一方で別の何かが禁じられるところでのみ存在し得る。//
(8)第一次大戦前からあったに違いないつぎの冗談は、おそらくこのことを明瞭にすることができる。
「オーストリアでは、禁止されていないことは、全て許される。
ドイツでは、許されていないことは、全て禁止される。
フランスでは、禁止されていることも含めて、全てが許される。
そしてロシアでは、許されていることも含めて、全てが禁止される。」//
(9)「自由」という言葉のこれら二つの意味はきわめて異なるけれども、そして一方を享受できるが他方はそうでないということもあるが、それにもかかわらず、両者のために同じ言葉を用いることのできるほどに、この二つは近接している。
いずれも、選択の可能性に関係している。すなわち、第一の意味での自由は、人間として選択して創り出すまさに我々の力だ。この能力は現実に我々の前に開かれている選択の範囲については、何も前提条件にしていないけれども。
第二の意味では、自由は、社会と法が我々自身が自由に選択することを認めている領域だ。//
(10)自由について語るときにしばしば生じている二つの誤りについて知っておくべきだ。
第一に、自由を、我々の願望や正当な要求だと考えているものの充足と混同してしならない。
「苦痛からの自由」あるいは「飢餓からの自由」について語るのは何ら過ちではない。痛みや飢餓に苦しまないことは、じつに我々人間の最も基礎的な要求だ。
にもかかわらず、これらの要求が実現するときに、何らかの特有な自由を享受する、と言うことはできない。
この場合に「自由」という言葉を用いるのは、選択とは何の関係がないがゆえに、誤解を招く。
選択する自由の範囲または選択し創出する我々の力について、語っているるのではないからだ。
苦痛は除去されて嬉しいものだ。なくなれば、それでよい。
苦痛が除去されるのはとても望ましい、良いことだ。
一個のりんごを飢えた者が、睡眠を疲れた者が、何らかの全てのものを、我々はある特有のときに欲しがる。
しかし、痛みがなくなったりりんごを食べたりすることは、自由の一種ではない。たんに望ましい物事にすぎない。
(飢餓がない集中収容所を想像できるが、リベラル民主主義は別のものを与える一方で、収監者に一定の自由を与えていると言うだろうか?)
我々の世紀の、そして過去の世紀の多くの人々が、言葉の適切な意味での自由のために生涯をかけて闘ってきた。そのために、誰かが欲しがるもの全てを含むまでにその意味は広がって、この観念の把握の仕方が曖昧になり、この言葉は全く意味を持たないようにまでなった。
この観念の根底が、削り取られてしまった。
「〜からの自由」と「〜への自由」の区別は、無用のものだ。//
(11)自由に関して語るときに知っておくべき第二の誤りは、第二の、法的意味での自由は、我々の他の必要や欲求が達成されなければ無意味だ、と思ってしまうことだ。
この誤りはしばしば、共産主義者たちが行う想定だ。
彼らは問うものだ。「飢えて、失業している者に、政治的自由はどれほど重要なのか?」
そう、重要なのだ。
飢えは政治的自由の欠如よりも切迫していると感じられるかもしれないが、この自由が存在するならば存在しないときに比べて、飢えも失業もその状態を改善する可能性がはるかにある。この自由は権利のために闘うよう人々を組織し、彼らの利益を守る。//
(12)「自由」の旗のもとで全ての善なる財物を欲しがるのは不適切だが、疑いなく、法的意味での自由は、それ自体が、きわめて望むに値する財物だ。
さらに、自由はそれ自体が善なる財物であり、たんなる他の財物を獲得するための道具または条件ではない。
しかしながら、このことは、(ここでの意味での)自由は多いほど良い、という原理的考え方を無制約に受容してよい、ということを意味しはしない。
我々のほとんどはたぶん、魔術や同性愛のようなかつて犯罪と見なされた一定の活動が、少なくとも文明国家ではもはやそうは見なされないのは良いことだと感じている。
しかし、まともに思考する者は誰でも、たまたま自分が好むように道路上の右側または左側を運転する権利を要求しはしないだろう。
ますます頻繁に、またそうした国の数も増えていることだが、学校の生徒たちは自由を多く与えられ過ぎて紀律が不十分だとか、その結果として彼らの勉強だけではなく議論の教育や公民教育に悪い影響が出ているとか、言われているのを聞く。
子どもたちは小さいときからあり得る最大限度の自由が与えられるのを望んでいるのかは、全く定かではない。
欲求は自然に、年齢とともに増える。だが、小さな子どもたちは大人たちの権威を全く自然に受容するものであり、総じては自分たちが選択するのを認めてくれるように要求したりはしない。
成人である我々自身も同様に、とくに自信がないときには、一定の選択を他者に委ねることができてしばしば安心する。また、専門家の助言に従って行動するのを選ぶだろう。—必ずしも全ての専門家が信頼できるのではないとしても。
正しく選択することはしばしば正しい情報があるかどうかにかかっていることを我々は知っており、選択する場合に頼ることのできる全分野に関する知識を十分に持っているとは、誰も言うことはできない。
我々には選択する自由がある。しかし、慣れ親しんでいない問題に無駄にかかわることを好みはしない。//
(13)要するに、どの程度の範囲の自由が我々にとつて良いかを正確に決定するために用いることのできる一般的な規準は存在しない。
我々はときには、自由が十分でないのではなく多すぎる、一定限度を超えた自由は有害であり得ると、正当に考えることができる。
この点で言うと、疑いなく、多すぎることは不十分であるよりも安全だ。そして、法により授けられる自由の多さを警戒するよりもむしろ、<自由性>(liberalty)の側に立って法が逸脱することについて、より思慮深い方がよい。
しかし、この原理的考え方もまた、無条件に受容されることはないだろう。//
——
第13章、終わり。
=Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
計18の章に分かれている。邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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第13章・自由について(On Freedom)②。
(7)この意味での自由は、これをゼロにまで減少させることができるとしても、逆に無制限ではあり得ないとということを理解するのは困難でない。
社会理論家が言う仮定の「自然状態」、誰もがつねに相互に闘い合っている、全ての種類の法や規則が存在しない状態は、これまで決して存在してこなかった。
しかし、かりに存在したとしても、それは無制限の自由の状態ではないだろう。
そのような状態では全てが許される、と言うのは正しくないだろう。何かは許されることがあるのであり、またそれは法によってのみではないのだから。
そして、法がないところには、自由はない。つまり、この言葉は単直に意味を失う。
自由とは、我々の世界では、つねに条件づけられているものだ。
ロビンソン・クルーソーは無制限の自由を享受しなかった。彼はじつに、あらゆる意味での自由を享有しなかった。
自由は、大きかろうと小さかろうと、何かが許される一方で別の何かが禁じられるところでのみ存在し得る。//
(8)第一次大戦前からあったに違いないつぎの冗談は、おそらくこのことを明瞭にすることができる。
「オーストリアでは、禁止されていないことは、全て許される。
ドイツでは、許されていないことは、全て禁止される。
フランスでは、禁止されていることも含めて、全てが許される。
そしてロシアでは、許されていることも含めて、全てが禁止される。」//
(9)「自由」という言葉のこれら二つの意味はきわめて異なるけれども、そして一方を享受できるが他方はそうでないということもあるが、それにもかかわらず、両者のために同じ言葉を用いることのできるほどに、この二つは近接している。
いずれも、選択の可能性に関係している。すなわち、第一の意味での自由は、人間として選択して創り出すまさに我々の力だ。この能力は現実に我々の前に開かれている選択の範囲については、何も前提条件にしていないけれども。
第二の意味では、自由は、社会と法が我々自身が自由に選択することを認めている領域だ。//
(10)自由について語るときにしばしば生じている二つの誤りについて知っておくべきだ。
第一に、自由を、我々の願望や正当な要求だと考えているものの充足と混同してしならない。
「苦痛からの自由」あるいは「飢餓からの自由」について語るのは何ら過ちではない。痛みや飢餓に苦しまないことは、じつに我々人間の最も基礎的な要求だ。
にもかかわらず、これらの要求が実現するときに、何らかの特有な自由を享受する、と言うことはできない。
この場合に「自由」という言葉を用いるのは、選択とは何の関係がないがゆえに、誤解を招く。
選択する自由の範囲または選択し創出する我々の力について、語っているるのではないからだ。
苦痛は除去されて嬉しいものだ。なくなれば、それでよい。
苦痛が除去されるのはとても望ましい、良いことだ。
一個のりんごを飢えた者が、睡眠を疲れた者が、何らかの全てのものを、我々はある特有のときに欲しがる。
しかし、痛みがなくなったりりんごを食べたりすることは、自由の一種ではない。たんに望ましい物事にすぎない。
(飢餓がない集中収容所を想像できるが、リベラル民主主義は別のものを与える一方で、収監者に一定の自由を与えていると言うだろうか?)
我々の世紀の、そして過去の世紀の多くの人々が、言葉の適切な意味での自由のために生涯をかけて闘ってきた。そのために、誰かが欲しがるもの全てを含むまでにその意味は広がって、この観念の把握の仕方が曖昧になり、この言葉は全く意味を持たないようにまでなった。
この観念の根底が、削り取られてしまった。
「〜からの自由」と「〜への自由」の区別は、無用のものだ。//
(11)自由に関して語るときに知っておくべき第二の誤りは、第二の、法的意味での自由は、我々の他の必要や欲求が達成されなければ無意味だ、と思ってしまうことだ。
この誤りはしばしば、共産主義者たちが行う想定だ。
彼らは問うものだ。「飢えて、失業している者に、政治的自由はどれほど重要なのか?」
そう、重要なのだ。
飢えは政治的自由の欠如よりも切迫していると感じられるかもしれないが、この自由が存在するならば存在しないときに比べて、飢えも失業もその状態を改善する可能性がはるかにある。この自由は権利のために闘うよう人々を組織し、彼らの利益を守る。//
(12)「自由」の旗のもとで全ての善なる財物を欲しがるのは不適切だが、疑いなく、法的意味での自由は、それ自体が、きわめて望むに値する財物だ。
さらに、自由はそれ自体が善なる財物であり、たんなる他の財物を獲得するための道具または条件ではない。
しかしながら、このことは、(ここでの意味での)自由は多いほど良い、という原理的考え方を無制約に受容してよい、ということを意味しはしない。
我々のほとんどはたぶん、魔術や同性愛のようなかつて犯罪と見なされた一定の活動が、少なくとも文明国家ではもはやそうは見なされないのは良いことだと感じている。
しかし、まともに思考する者は誰でも、たまたま自分が好むように道路上の右側または左側を運転する権利を要求しはしないだろう。
ますます頻繁に、またそうした国の数も増えていることだが、学校の生徒たちは自由を多く与えられ過ぎて紀律が不十分だとか、その結果として彼らの勉強だけではなく議論の教育や公民教育に悪い影響が出ているとか、言われているのを聞く。
子どもたちは小さいときからあり得る最大限度の自由が与えられるのを望んでいるのかは、全く定かではない。
欲求は自然に、年齢とともに増える。だが、小さな子どもたちは大人たちの権威を全く自然に受容するものであり、総じては自分たちが選択するのを認めてくれるように要求したりはしない。
成人である我々自身も同様に、とくに自信がないときには、一定の選択を他者に委ねることができてしばしば安心する。また、専門家の助言に従って行動するのを選ぶだろう。—必ずしも全ての専門家が信頼できるのではないとしても。
正しく選択することはしばしば正しい情報があるかどうかにかかっていることを我々は知っており、選択する場合に頼ることのできる全分野に関する知識を十分に持っているとは、誰も言うことはできない。
我々には選択する自由がある。しかし、慣れ親しんでいない問題に無駄にかかわることを好みはしない。//
(13)要するに、どの程度の範囲の自由が我々にとつて良いかを正確に決定するために用いることのできる一般的な規準は存在しない。
我々はときには、自由が十分でないのではなく多すぎる、一定限度を超えた自由は有害であり得ると、正当に考えることができる。
この点で言うと、疑いなく、多すぎることは不十分であるよりも安全だ。そして、法により授けられる自由の多さを警戒するよりもむしろ、<自由性>(liberalty)の側に立って法が逸脱することについて、より思慮深い方がよい。
しかし、この原理的考え方もまた、無条件に受容されることはないだろう。//
——
第13章、終わり。