Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
——
第9節②。
(07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
結果として、人間の本性を否定したのだ。//
(08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
ニーチェは、こう明言した。
「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
(09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
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第10節①。
(01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。
否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
(02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
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第10節②へと、つづく。
〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
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第9節②。
(07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
結果として、人間の本性を否定したのだ。//
(08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
ニーチェは、こう明言した。
「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
(09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
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第10節①。
(01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。
否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
(02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
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第10節②へと、つづく。