秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

道州制

1098/月刊WiLLの藤井聡論考による誤解・謬論の蔓延?

 〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。

1088/道州制と広域連合-橋下徹と藤井聡。

 〇 道州制には、前回にイメージしたもの以外のものもありうる。市町村・都道府県という二層制の上にあるいわば三層めの地方公共団体としてそれを構想することだ。現在よりもさらに複雑になるが、「広域行政」の必要からして、そういう「道州制」もありえなくはない。そして、道州住民の選挙による議会が置かれる可能性とともに、構成員を都道府県(または加えて現在の政令市など特定の市)という団体として住民代表議会を設置せず、構成団体(の長)が道州の「長」(知事・長官)を選出することにする、という構想も考えられる。この後者の場合、「道州制」は現行制度としての「広域連合」に類似しているところがある。
 但し、上の後者の場合であっても、特定の事務のために関係都道府県や市町村が任意に構成員となる広域連合とは違って(従ってその実際の例は関西広域連合があるにすぎないともされている)、「道州」制は<国家のしくみ>の一部としての統治機構である(一般的制度化が想定されているはずの)地方団体であるから、上のようなイメージのもとでも、その「長」は構成長(・代表者)の選挙により、それらの都道府県知事等とは別の者の中から選出されることになろう。
 鳥取県は関西広域連合の構成員の一つであり、現在の当該連合の「長」は兵庫県知事が兼任しているようだ。したがって、鳥取県知事(かつては片山善博)が関西連合の「長」になる可能性は抽象的には(現実的にはともあれ)あるだろう。
 前回言及した藤井聡が紹介する片山善博の発言は、そのような場合の気持ちを表明したものだろう。つまり、広域連合の「長」になっても元来は鳥取県民に直接に選ばれた者なのだから、鳥取県域を超えて「関西」広域全体について「真剣に親身に」なれる自信はない、と言っているのだと解される。
 従って、道州制の「長」が(考えられるその一つの制度設計のもとで)関係都道府県等(の代表)の選挙によって選出される場合だったとしても、特定の都道府県等の長を兼ねていない者が選任されるかぎりは、その者は当該「道州」全体について「真剣に親身に」ならなければならないし、そのようになれない人物は選任されるべきではないことになる。
 前回は想定またはイメージしていなかった「道州」制を構想してみても、やはり片山善博の発言についての藤井聡の理解は結論的には間違っているのだ。お分かりかな? 藤井聡くん。
 それにそもそも藤井は、自ら「道州制」をどのように理解・想定するかを明らかにしていないのだから、あらためて記しておくが、「道州制」や「地方分権」(国・地方関係)に関する論考としては、きわめて拙劣なものだ。
 〇 「道州制」の意味が大阪維新の会・橋下徹らにおいても明確でないと見られることは、既に記したとおりだ。「大阪都」構想との関係も明瞭ではない。
 橋下徹らは走りながら考える、考えながら走っているようなところがあって、研究者的に厳密な検討をすれば不十分なところは多々あるように思われる(藤井の論考は研究者の厳密な検討ではないが)。このことはこれまでも述べてきている。
 但し、「保守」主義の祖のごとく語られるE・バークも、抽象的かつ体系的に「保守主義」論を著したのではなく、現実のフランスの状況(フランス革命の推移)を念頭において、のちに<保守主義>と冠されるような論考を新聞等に発表したのだ。
 橋下徹らの提起する論点・問題が、抽象的ないし論理的に、学者の「書斎」から出ているのではないことは言うまでもない。現在の「国」・民主党政権の実際を念頭に置いて、さらにはそれら至る現実の日本の「統治の仕組み」を現実に・リアルに意識しながら、発せられているものと思われる。
 現実の「国」のありようを無視していかに一般的・抽象的に国・地方関係を議論しても無駄だ。少なくとも現実に建設的な検討結果は生まれないだろう。
 さまざまの現実を眼にした問題意識をもって語られる橋下徹らの言葉尻をとらえて、「書斎」派あるいは「アーム・チェア」派の論者があれこれと批判してみても、生産的な意味を持たず、橋下徹らのいう「既得権」者を利するだけではないか。あるいは、その批判に単純かつ性急なものがあるとすれば、(文章で構成されるマスコミの世界では「売れ」ても)ほとんど積極的な現実的意味をもたず、意識の攪乱を通じてむしろ現実を悪い方向に導くのではないか。
 最近に書いてきたのは、簡単には上のようなことだ。
 〇 何のワクワクした気分もなく、ただ久しぶりにこの欄を埋めて置こうという気分から書いた。本来は書きたいこと、言及・論及したいことが他にたくさんあるのだが、こんなに気軽には書けそうにないので、つい、起稿するのをやめてしまう。

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