産経新聞9/13の山田慎二「週末に読む」は、相当にレベルが低い。
 某書(草野厚という底の浅そうな政治学者の本)を援用して「疑似政権交代の限界」を指摘し、< 国民への大政奉還>が求められる、と主張する。
 もともと全体的に村上正邦・平野貞夫・筆坂秀世(元共産党幹部)の鼎談本・自民党はなぜ潰れないのか(2007?、幻冬舎新書)を肯定的に紹介・言及しているのも奇妙に感じるが、基本的に問題なのはつぎの点だ。
 第一に、これまでの自民党(と一部の小政党)内における総裁の交代、従って首相(内閣総理大臣)の交代を「疑似政権交代」と理解して疑っていないが、重要なことを看過している。
 執筆者は「先進国」で本来の「政権交代」がないのは日本だけで、特定政党の「権力独占」は「北朝鮮や中国のような国家しかない」と書く。
 この人は日本の政治状況の歴史の、他の「先進国」との違いをまるで判っていない。
 すなわち、日本において、1990年代初めまでは、日本の野党(少なくとも第一党)は日本社会党という社会主義(・共産主義)を(全体がどの程度本気だったかどうかは別として、あるいは少なくとも一部の勢力は)目指していた政党だった。この政党は、日米安保に反対し、1960年頃には「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」だと北京で委員長(書記長?)が声明したような政党だった。
 このような安全保障政策の野党(第一党)に「政権」を任せることができなかったからこそ、この点では聡明だった日本国民は日本社会党への「政権交代」を許さず、結果的には同じ自民党の(を中心とする)長期政権が続いたのだ(但し、日本社会党に1/3以上の議席を与えてきたのは大きな過誤だった)。
 「世界の先進国」を見ると、戦後早くから、「左翼」又は「革新」であっても、反共産主義・反コミュニズムを明確にした、かつ自国の軍備を当然視する<健全な>野党が存在したのだ。だからこそ、そうした諸国では「疑似」ではない「政権交代」もあったのだ(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツを念頭に置いている)。
 山田慎二の上記の文章はこの点をまるで判っていないようだ。
 第二に、上記の鼎談本での発言から<国民への大政奉還>が必要との旨を最後に述べている。
 「一票」を投じることは「大政」の「奉還」を意味せず、有権者(「主権者」とも厳密には異なる)国民の選挙権行使にすぎない。それに何より、「国民」という概念のこのナイーブな使い方は、「国民目線」とか「国民が主人公」とかのアホらしい(無内容の、又は国民大衆に「迎合」した)言葉・語句と同列のものだろう。
 産経新聞にこんな文章が載るのだから、他は推して知るべし、と言うべきか。
 山田慎二なる者が産経新聞の(論説委員等の)記者だったら、こんな内容のつまらない文章を書かないでほしい。
 山田慎二なる者が武田徹山崎行太郎のような頼まれ原稿執筆者なのだとしたら、産経新聞はこんな者に原稿を依頼しないでほしい(武田徹山崎行太郎については言うまでもない。既述)。
 
せっかくの講読代がもったいない。
 イヤなら読むなと言うかもしれないが、読んでみないとわからない文章・記事もあるのだ(今回取り上げて山田慎二なる氏名をたぶん記憶したので、次回からは読まないように用心しよう)。
 なお、八木秀次批判のつづきを止めてしまったわけではない。