一 <左翼>は間違いなく橋下徹・維新の会を危険視・警戒視してきた。社民党も共産党も勿論だ。
最近の某週刊誌に東京都知事選で宇都宮某を「市民派」・「リベラル」等だとして支持することを明記していた者に森永卓郎、池田理代子、香山リカ、雨宮処凜がいたが、社共両党が支持するこの元日本弁護士会会長を支持する者たちもまた、橋下徹に対しては批判的であるに違いない(すでに明確に批判している者もいる)。
一方、<保守>の中では橋下徹・維新の会に対する評価が分かれたし、現在でも分かれたままであることは興味深いことだ。
その橋下徹を石原慎太郎は義経に、自分を義経を支え保護する武蔵坊弁慶になぞらえ、橋下を義経ではなく頼朝にしたいとか発言していた。そして、石原新党は橋下徹・日本維新の会に合流した。
安倍晋三も橋下徹に対して決して警戒的・批判的ではなく、将来における「闘いの同志」と言っていたこともあるし、衆議院解散後も「お互いに切磋琢磨して‥」などと言っていた。
<保守>派論者はおおむね又はほとんど石原慎太郎・安倍晋三を支持しているか好意的だと思われるが、この二人には好感を持ち、かつ橋下徹は「きわめて危険な政治家」だとか「保守ではない」とか言って批判していた者たちは、近時の石原や安倍の橋下徹に対する態度をどう観ており、どのような感想を持っているのだろうか。
石原慎太郎や安倍晋三は橋下徹の本質、その危険性を見抜いていないとして苦々しく思っているのだろうか、そして、この二人に諫言または忠告でもしたい気分だろうか。それとも、橋下徹に対する評価を少しは改めたのだろうか。
二 佐伯啓思は産経新聞11/22の「正論」で、新日本維新の会について次のように述べている。
「石原新党が合流した日本維新の会は、ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」。
そのあと「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶりを特に難じようとは思わない」としつつ、かなりの国民が維新の会を支持しているとすれば、「われわれは民主党の失敗から何を学んだことになるのだろうか」と結んでいる。
この後半部分はどうぞご自由に論評を、と言いたいが、その前提となっている、「ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」という認識は、学者らしくなく、あるいはある意味では学者らしく、あまりに単純すぎる。
日本維新の会はもっといろいろなことを主張しているのであり、とりわけ「自主憲法の制定」の方向を明確にしていることを看過する論評は、大きな欠陥があるだろう。とても、緻密な?佐伯啓思の文章だとは思えない。
三 「左翼」だと思われるが、自称「保守」または「保守リベラル」でもあるらしい中島岳志は、宇都宮健児・雨宮処凜・佐高信・本多勝一らとともに編集委員をしている週刊金曜日の11/16号の、朝日新聞にある欄の名称とよく似た「風速計」という欄に、「第三極のデタラメ」と題する文章を書いている。それによると、以下のごとし。
橋下徹代表の日本維新の会とみんなの党は「リスクの個人化」を志向し、「小さな政府」に傾斜しているのに対して、「たちあがれ日本」は「リスクの社会化」を志向している。また、日本維新の会と「たちあがれ日本」は「タカ派的主張」を中核にしているが、みんなの党は「消極的リベラルの立場」だ。
こうして実質的にはこれら三者の合流は困難だと、のちに聞かれた「野合」論を先走るような叙述をしている。
各党の個々の評価には立ち入らない。興味深いのは、学者らしく、あるいは厳密にはしっかりした研究者らしくなく、「リスクの個人化」か「リスクの社会化」か、「タカ派」か「リベラル」か、という単純な対比によって各党を評価しようとしていることだ。
実際は、もっと複雑だと思われる。学者の、レッテル貼りにもとづく単純な議論はあまり参考にしない方がよいだろう。
ところで、中島岳志は、橋下徹代表時の日本維新の会と「たちあがれ日本」の主張を「タカ派的」と称している。このような称し方は「左翼」論者や「左翼」マスコミと変わりはしない。まともな<保守>派論者ならば、改憲の主張を「タカ派」などと呼びはしないだろう。
中島岳志の「左翼」ぶりは、今回の総選挙に際しての「緊急の課題」を次のように述べていることでも明瞭になっている。すなわち-。
「保守・中道リベラルと社民リベラルが手を結び、新自由主義・ネオコン路線と対峙すること」。以上、上掲誌p.9。
「新自由主義・ネオコン路線」という一時期の<左翼>の好んだ語がまだ使われていることも目を引くが、中島が「社民リベラル」に好意的であることを明瞭にしていることの方が面白い。
中島岳志が<保守>であるはずがない。この中島を同好の者のごとく同じ月刊雑誌(「表現者」)に登場させている西部邁や佐伯啓思の<保守>派性すら疑わせる人物だ。
週刊金曜日
・「西部邁事務所」を「編集」者とする隔月刊・表現者(ジョルダン)の37号(2011.07)の座談会の中で、代表格かもしれない西部邁はこんなことを発言する。
大震災数日後に日本の「自称『保守派』の中心的な機関紙」の産経新聞がトップで、米国の「トモダチ作戦」が機能し始めて「実に有り難い」と「吠えまくった」。左翼も右翼も「国家」を「丸ごと他者にあずけてしまう」(p.47)。
調子に乗って?、あるいは追随して?富岡幸一郎は次のように語る。
戦後憲法を作ったアメリカが「非常事態を執行する」という「第二GHQ作戦」を米軍は福島で想定していた。産経新聞の礼賛の意図は不明だが、「国家主権なき、国家意識なき、国家理性なき戦後の正体が露出した事態だ」(p.47)。
むろん厳密に正確に全文を引用してはいないが、上のような発言からは、反米(・自立?)の気分と親米保守?の産経新聞に対する嫌悪感が明らかだ。
そもそもが、かかる感覚は「保守」のものか。「保守」の意味に当然に関係するが、米軍の東北地域での活躍をもってその存在の重要性を認知させるための意図的な計略だ旨を強調したらしい沖縄の「左翼」マスコミと、いったいどこが違うのだろうか。
反米・自立が「保守」の要素たりえないとは考えない。だが、優先順位というものがあるだろう。少なくとも私の理解からすれば、「保守」とは何よりも先ず<反共>でなければならない。
佐伯啓思もそうなのだが、西部邁ら「表現者」グループには、反共産主義(反コミュニズム)・反中国(・反中国共産党)の意識、あるいはそれにもとづく発言や論考が少ないのではないか。反共よりも反米を優先させたのでは、とても「保守」とはいえないと考えられる。
・思い出して確認すれば実例を別の機会に示すが、「左翼」の文章の中には、本題とは離れて、末尾か「むすび」あたりで、唐突に「保守」派を批判するまたは皮肉る文章を挿入しているものがある。その場合に、石原慎太郎を右派・保守の「代表」と見なしてか、石原慎太郎の発言等をとり上げていることがある。
似たような例が、上の表現者37号の同じ座談会の中にもある。中島岳志は、次のように発言する。
石原慎太郎は『NOと言える日本』の中で、「日本はアメリカに対してテクノロジーにおいてはもう追い付いた、だから自信を持て」と言っている。ここに「はからずも見えて」いるのは「戦後日本の『保守派』のナショナリズム」の問題性の一つだ。「日本のナショナリズムの根拠」を「テクノロジーの優秀さ」に求めるという「トンチンカンさ」がある。一般に、「保守派」の「ナショナリズムの内実こそが問われている」(p.34)。
「保守」にとってのナショナリズムの意味・内実を問い直すのはよいが、上の石原批判は的確なのかどうか。石原に対する親米(「アメリカニズムを疑ってなんかいない」)保守派というレッテル貼りを前提として、揚げ足取りをしているのだけではないか。
もともと日本人の「テクノロジーの優秀さ」が日本人が古来から形成してきた知的能力の高さや精神・技術の繊細さ・適応能力等の柔軟さに由来するとすれば、それは堂々と誇りに感じればよく、それが自然だろう。中島岳志が「日本のナショナリズムの根拠」の一つを「テクノロジーの優秀さ」に求めることに違和感をもっているとすれば、この人物は日本人ではなく、日本の「保守」派でもないのではないか。
ついでに書けば、中島岳志は、原発は「アメリカ依存の賜物」だ、そういうアメリカ依存の「戦後なるもの」を考え直す必要がある、「僕たちが本気で『近代の超克』という座談会をやってみせないといけないような思想的な環境におかれているのではないか」、とも発言する(p.48)。
中島はいったいなぜこんなに気負っているのだろう。こんな大口を叩ける資格があると考えているとすれば、傲慢で、面白いほどに噴飯ものだ。また、ここでいう「僕たち」とは誰々のことなのだろう(この座談会出席者は他に、西部邁・佐伯啓思・原洋之介・富岡幸一郎・柴山桂太)。
そもそも、中島岳志は自らを「保守」と位置づけているようだが、週刊金曜日という「左翼」小週刊誌の編集委員でもあり、「保守リベラル」などと称して朝日新聞にも登場している。
また、西部邁とともに、専門的な法学者またはケルゼン研究者から見れば嗤ってしまえるようなバール判事意見書(東京裁判)に関するつまらない書物を刊行してもいる。
中島岳志とは、客観的には、日本の「保守」陣営を攪乱させるために、「左翼」から送り込まれた人間なのではないか、という疑いを捨てきれない。こんな人物を「飼って」いる西部邁もどうかしていると思うし、何とも感じていないようでもある佐伯啓思も、どうかしているのではなかろうか。
・この「表現者」グループも、自主憲法の制定(現憲法九条2項の削除等)には賛成するのだろう。その意味では大切にしておくべき、せっかくの集団だが、―産経新聞を全面的に信頼しているのでは全くないものの―奇妙な、首を傾げる文章・発言も目立つ。他にもあるので、別の機会に触れる。
パール判決を問い直す(講談社現代新書)の共著者である中島岳志と西部邁は親しいようで、西部邁と佐伯啓思の二人が「顧問」をしている隔月刊雑誌・表現者(ジョルダン)の29号・30号に、中島岳志は「私の保守思想①・②」を連載している。
30号で中島は「私が保守思想に傾斜していく大きなかっかけとなったのは…」などと述べて(p.138)、「保守思想に傾斜して」いるとの自己認識を示し、また、先人から学ぶべきことは「デモクラシーが健全に機能するためには、人間の交際の基盤となる『中間団体』が重要であり、歴史的な『伝統』、そして神や仏といった『絶対者』の存在が前提となる」ということではないか、などと、なるほど<保守的>と感じられる叙述もしている(「神や仏」は「絶対者」なのか、いかなる意味においてかは分からないが、さて措く)。
いずれにせよ、錚々たる(?)<保守>派執筆者たちに混じって、さほどの違和感を感じさせずにいる。隔月刊雑誌・表現者を<保守的>または<保守派の>雑誌と表現して差し支えないだろうことは、顧問二人(西部邁・佐伯啓思)と西田昌司の三名の共著(半分以上は座談会)・保守誕生(ジョルダン、2010.03)のオビに「真正保守主義が救い出す」という語があることにも示されているだろう。
興味深いことに、あるいは奇妙なことに、同じ人物・中島岳志は<左翼>週刊誌・週刊金曜日の編集委員を<あの>本多勝一や石坂啓らとともに務めている。この週刊誌の発行人は<あの>佐高信。
この週刊誌が<左翼的>であることは歴然としてしていて、たとえば、その4/30号(797号)は<反天皇制>の立場を前提として「暮らしにひそむ天皇制」という特集を組んでいる。編集長の北村肇は同号の「編集長後記」で、天皇制はただちに廃止すべきとか昭和天皇の戦争責任を許さないとだけ主張するにとどまる限りは「廃止への道は遠い」と書いて、<天皇制廃止>を目標としていることを明らかにしている。
思い出せば、2006年11月に教育基本法「改悪」等に反対する集会を主催し、天皇陛下や悠仁親王を「パロディーとしたコント」を演じさせたのは、週刊金曜日だった(本多勝一・佐高信らも出席。のちに、佐高信と北村肇の連名でそっけない、本当に反省しているとは思えない「謝罪」文を発表した)。
また、「左翼」的運動の集会等の案内で埋め尽くされている頁もあり(p.64-65)、「女性国際戦犯法廷から10年目を迎えて」と題する文章の一部を関係団体の機関紙から転載したりもしている(p.54)。
こんな週刊誌にも中島岳志は本多勝一らとともに執筆していて、「風速計」とのコラムで「『みんなの党』のデタラメ」と題して、「新自由主義を露骨に振りかざすみんなの党」を批判し、「構造改革ーのNOを突き付けた国民」は「みんなの党のデタラメを見抜かなければならない」と結んでいる(p.9)。
まったく新種の人間が生まれ、育っているのか、中島岳志は、一方で<西部邁と佐伯啓思>を顧問とする<保守的>隔月刊雑誌・表現者(ジョルダン)に「私の保守思想」を書き、一方では、<本多勝一・佐高信>らとともに<左翼的>週刊誌の編集委員になって自ら執筆してもいる。<西部邁・佐伯啓思>と<本多勝一・佐高信>との間を渡り歩いて行けるという感覚あるいは神経は、私にはほとんど理解できない。
週刊金曜日のウェブサイト内で中島岳志は「保守リベラルの視点から『週刊金曜日』に新しい風を吹き込みたい」とか語っている。
「保守リベラル」とはいったいいかなる立場だ!? こんな言葉があるのは初めて知った。そして、上の「みんなの党」批判は社民党的な「左から」の批判なのだろうか、富岡幸一郎や東谷暁らが集うような「右から」の批判なのだろうか(月刊正論6月号には宇田川啓介「みんなの党の正体は”第二民主党”だ」も掲載されていた)、と思ったりする。
そんな<左・右>などに拘泥しないのが自らの立場だと中島は言うのかもしれないが、そう言って簡単に逃げられるものではないだろう。中島岳志には、一度(いや何度でもよいが)、<天皇(制)・皇室>に関する態度表明をしてもらいたい。そして、<反天皇制>主張が明確で、<天皇制廃止>を明確に意図している編集長のもとでの編集委員として、どのような「新しい風を吹き込」むつもりなのか、知りたいものだ。
齊藤笑美子、1975~。一橋大学法学部卒、現在(2008~)茨城大学人文学部准教授。専攻、「憲法・ジェンダー法学」。
この齊藤が「暮らしにひそむ天皇制」を特集テーマとする週刊金曜日4/30=5/07合併号に登場し、「24条が届かない1章-個人の尊厳・両性の平等と天皇制」と題する文章を寄せている。
これに見られる憲法解釈方法の逸脱の甚だしさには別の機会にも触れる。この点にも関係せざるをえないが、齊藤が「一憲法学徒として」言いたいこと二つのうち一つは「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」の問題らしい。そして、次のように言う。
<皇位継承資格者の妻になった女性たちには、かかる自由は実質的にはない。「リプロダクティブ・ライツの欠如」は、憲法上の天皇の世襲制の「必然的帰結」で、「女系天皇」を認めても大きな変化はない。「天皇家の人々の権利の制約」はこれらの人々が最初から「市民的な権利保障体系の外部」にあることの「帰結」だ。>
この人はいったい何を言いたいのか。世襲の(象徴)天皇制度の存在を憲法が明記して肯定しているかぎり、<世襲>制によって、天皇または皇族を一般的「市民」と同列に(平等に)扱うことができないのは、当然のことではないか。
上のように指摘したあとで齊藤は、だから、という論法で天皇制廃止の憲法改正等を主張する。こうまで明記するとは現時点ではなかなか勇気のいる、だがいかにも「左翼」らしい見解だ。
それはさておき、皇室の女性は「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」を実質的には持たないと問題視していることから窺われるのは、<一般>国民たる女性はそのような権利(・自由)を当然に持っている、持つべきだ、という見解に齊藤が立っている、ということだ。
「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」なるものを(男性についても)一概にまたは一般的に否定する気はない。
だが、この権利・自由を意識し、強く主張し続けることの帰結はいったい何だろうか。出産につながる妊娠をするかしないかを決する権利・自由の段階ならばまだよい。
だが、妊娠した女性について「子を持つか持たないかを決める自由」を語ることは、どういう結果をもたらすだろうか。
妊娠した女性の「個人の尊厳」と<自己決定権>を尊び、「子を持つか持たないかを決める自由」があると説くことは、中絶・堕胎を勧めることとなる可能性があるというべきだろう。むろん、やむをえない事由でそうしなければならない女性(・その配偶者等)もいるだろうが、上の権利・自由の強調は、妊娠中絶・堕胎を増加させることになる、と推測するのが自然だろう。
民主党のウェブサイトの中の「男女共同参画政策」のページの中に、次のような恐ろしいデータが掲載されている(データの典拠は不明)。
「2005年度の統計では、15歳~19歳の女子の中絶率は、人口千人につき9.4となっています。これは、性交経験の有無に限らず約106人に1人が一年間に中絶を経験していることを意味します。なお、年齢別にみると、19歳の女性の58人に1人、18歳女性の80人に1人の割合で人工妊娠中絶を経験していることになります。」
民主党「男女共同参画局」のメンバーには局長・太田和美(福島2区)、事務局長・永江孝子(愛媛1区)以下、<小沢ガールズ>が勢揃いしているようだ。この人たちは、自らの党のサイトが示している上のようなデータとなっている原因・背景について、まともに頭を巡らしたことがあるだろうか?
(男性についても似たようなものだが)女性についての<個人主義>の行き過ぎ、というのが基礎的だろうが、そこから派生する、とくに女性憲法学者や<ジェンダー・フリー>論者の説く、「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」もまた、上のような実態の背景・原因になっていると思われる。
<少子化>社会への変化の背景・原因の一つであることも疑いえないだろう。
<少子化>とは、戦後の女性が、「リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)」=「子を持つか持たないかを決める自由」を積極的に行使したことの結果でもあるまいか。
そうだとすれば、一国の衰亡の一徴表であるかに見える<少子化>は、<ジェンダー・フリー>学者・論者(「女性法学」なるものを含む)あるいは「左翼」フェミニストの、戦後における<勝利>の象徴であるはずだ。
福島みずほ(瑞穂)は「少子化担当相」と称されている。真剣に適切な「対策」を考えているかは大いに疑問で、この人物は、本当は<少子化推進担当大臣>なのではないか。
週刊金曜日6/19号、p.47。
長いタイトルの、高嶋伸欣「看過できないTV番組介入の議員連盟発足/厳しさが足りない身分を保障された者への監視姿勢」。
高嶋伸欣は琉球大学名誉教授との肩書きで、いつぞやの日曜午後のTV番組「…言って委員会」で<左翼教条>発言をしていた。
上の文章も面白く読ませる。嗤ってしまうのだが。
NHK4/05の台湾統治に関する「NHKスペシャル」を契機に「公共放送のあり方に関する議員連盟」が発足したことにつき、「明らかに政治家による番組内容への介入」、「組織的にやろうというのは悪質」と批判。
また、産経・朝日がこの議連発足をベタ記事でしか報道しなかったことにつき、「本来ならば社説で厳しく批判して当然な程の言論界の大問題」だと批判。
さらに、読売がNHKは「政治家の介入を招くスキを自ら」作った等の識者コメントをのせたことを「NHK批判」だとし、「スキがあろうとなかろうと、政治家の介入は不当とするのが、メディアの立場だろう」と批判。
高嶋によると、メディアは「憲法感覚から迫る姿勢を失って久し」い。そして、「違憲違法の議員連盟を客観視の名目で黙認するのか」と最後を締め括る。
さて、第一に、古屋圭司・安倍晋三らの「公共放送のあり方に関する議員連盟」の発足のどこに<違憲・違法>性があるのか。「憲法感覚」を語るわりには、高嶋は何も解っていないのだろう。具体的にどの憲法条項違反かを高嶋は語らない。
放送法というNHKの設立根拠法でもある法律が適正に執行されているかを監視することは、むしろ国会議員の義務・責務だ。
第二に、高嶋の頭の中には、NHKの<表現の自由>対自民党国会議員(政治家)・<権力>の介入という構図が描かれているのかもしれない。この構図に立たないで後者を「社説」で「厳しく批判」しないのは怪しからんと怒っているわけだ。
上の構図しか描けないことこそ「左翼教条」の高嶋らしい。<表現の自由>はNHKのみならず、国会議員・政治家にもある。特定の番組についてであれ、国会議員・政治家が批判的にコメントすれば<不当な政治家による介入>と捉えられるのだとすると、国会議員・政治家はマスメディアについて何も発言できなくなる。
第三にそもそも、高嶋はNHKの番組の内容とそれ問題視する側の見解についてほとんど何も語っていないし(「日本の台湾支配を悪く描きすぎているとのバッシング」というだけ)、かつそれらに関する自らの見解は何も語っていない。
問題は、<表現の自由と「権力」>ではない。NHKが行使した「表現の自由」の結果・具体的内容の当否なのだ。それについて、種々の議論があることこそが、「表現の自由」の保障のもとでは当然のことなのだ。NHKが放送法等による規制を受ける、一般の民間放送会社とも異なる「公共放送」だとすれば、一方の「表現の自由」を国会議員が行使するのはますます当然のことだ。
高嶋伸欣においては、おそらく明瞭なダブル・スタンダード=「ご都合主義」があるのだろう。
すなわち、かりにNHKが高嶋の気にくわない<保守・反動的>番組を作り、それを例えば日本共産党(社民党でもよい)が問題視する質問を国会(・委員会)で行ったとする場合、高嶋は上の文章の如く、<政治家による不当な介入>と批判するだろうか。
国民の代表者・国会議員は国民主権のもと、NHK(の「保守反動」性)を厳しく監視すべきだ、とでも主張するのではないか。
高嶋伸欣にとっては、自分に都合のよい(自分の思想・歴史認識・考え方と同じか近い)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>として「憲法」上守られなければならず、自分に都合の悪い(自分の思想・歴史認識・考え方と異なるか対立する)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>の保障に値せず、封殺されるべきものなのだ。
そういう本音を隠したまま、あるいはそういう矛盾が自らのうちにあるのを(「左翼教条」のゆえに)自覚すらしないままで、上のような文章を高嶋は書いたのだろう。
隔週刊・サピオ7/08号(小学館)で小林よしのりは、月刊・世界6月号(岩波)で古木杜恵(男性)が結局は「小林よしのりは差別者だ!」「こんな奴に発言させるな!」とだけ主張していることを捉えて、「全体主義」と称している。
この回のタイトルは「『世界』に暗躍する全体主義者」で(p.55)で、「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう!」、「左翼の本質・本能をなめてはいけない! 彼らは言論の自由が大っ嫌いなのだ!」とも書いている(p.62)。
週刊金曜日6/19号を読んだのが先だったが、高嶋伸欣の文章・主張に私は「(左翼)全体主義」を感じた。
<表現の自由>どおしの闘い=議論・討論をしようとする姿勢を全く示さず(=NHKの番組の内容的評価には何も触れず)、一方の側(国会議員)の<言論の自由>(「政治活動の自由」でもあるかもしれない)を封殺しようとし、そうしようとしない新聞を批判しているからだ。
さらに言えば、まだ<言論の自由>(「政治活動の自由」)の行使には至っていない段階かもしれない。「議員連盟」が設立されただけ、なのかもしれない。それでも、その「議員連盟」の言論・諸活動を、高嶋伸欣は事前に封殺しようとしているのだ。
これは考え方の出発点において、「全体主義」だ。<言論>・<思想・信条>の中身いかんによって保護したり抑圧したりするのは、「全体主義」だ。
高嶋伸欣よ。よく自覚するがよい。小林よしのりが対象としているのは別の人物だが、あなたも「全体主義」者だ。「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう」のだろう。また、ここにも、マルクス主義の痛ましい犠牲者がいるのかもしれない。
なお、週刊新潮7/02号(新潮社)p.163は、水島総らが上に言及のNHK番組を理由に民事の「大訴訟」を検討中と伝える。この問題関係の訴訟の法的な勝算・コストパフォーマンスには疑問全くなしとしないが、同じ週刊誌でも週刊金曜日とは大きな違いがある。
週刊金曜日(編集人・北村肇、発行人・佐高信)をたまに読むのも精神衛生によいかもしれない。
一 6/19号によると、現在の編集委員は、雨宮処凜・石坂啓・宇都宮健児・落合恵子・佐高信・田中優子・中島岳志・本多勝一。
このうち宇都宮健児はときにテレビに出る弁護士だったか? 他に知らないのは、田中優子。
パール判事論争の当事者・中島岳志の名がある。
中島岳志はこの論争の縁で西部邁=中島岳志・保守問答(講談社、2008)という対談本を出し、戦後保守思想家のビッグ2は福田恆存と西部邁だと述べ、「保守思想の原点に返って…。…保守思想そのものを理論的に考察する」のが必要とか語っていた(p.4)。
<週刊金曜日>が「左翼」色丸出しの週刊誌?だとしても、西部邁が編集顧問であるらしい<月刊・発言者>は、中島岳志と西部邁を通じて、ひょっとして<週刊金曜日>と<姉妹誌>なのかもしれない(?)。
二 週刊金曜日のp.43に東京経済大学「教員」との肩書きの本橋哲也による書評。前田朗・非国民がやってきた!(耕文社)を対象にしていて「私たちの日常をむしばんでいる生活保守主義と監視社会の現状を分析し…」と肯定的に紹介。
<生活保守主義>は「左翼」の好きな「個人主義」・「個人の尊重」の帰結でもある。
現在の日本を「監視社会」とは。フーコーかそれともサルトルあたりの影響か。万が一監視されていても好き放題に書け、出版できる日本にいると、言葉・発言自体で逮捕され収容所等に送り込まれる国家のあることを想像もできないのだろう。
また、<「市民的不服従」の系譜>を「…根津公子…とたどる」とも紹介。
根津公子といえば、国歌斉唱時不起立・同呼びかけ・国旗下ろし等で懲戒処分等を受けて多数の訴訟を起している東京都下中学校の教員だ(元になったか?)。この根津が<「市民的不服従」の系譜>に位置づけられるのだから、根津が自分は<英雄>だと勘違いするのもわかる。究極的には、マルクス主義の犠牲者の一人がここにもいる、という感じ。
本橋哲也は自分の言葉として、以下を書く。
「オリンピックから『テロとの戦争』まで、『コクミン』の雄叫びが巷に渦巻く現在、私たちにとって今しばらくは『非国民の思想』を実践する、それ以外の選択肢はない」。
「国家」・「国民」憎しがここまできている人が実際に存在するのを知って感激?する。「非国民」とは名誉な称号なのだ。
ではどうなればこの人は「非国民の思想」の実践を止めるのだろうか。
民主党中心政権の誕生時?、社民党中心政権の誕生時?、それとも日本共産党中心政権誕生時?、あるいは日本が「社会主義」国になったとき又は中国「社会主義」国の一州になったとき??
一 大原康男・象徴天皇考―政治と宗教をめぐって(展転社、1989)は、第一章を数日前に読み終えて、次の章に入っている。
第一章は「象徴天皇と皇室の伝統」でp.102までと長い。
ともあれ、<統治権の総覧者から象徴にすぎなくなった>と理解し強調するのと、現憲法上の<象徴>性の意味を積極的に語ろうとするのでは、憲法解釈論にも違いが出てきそうなのは確かだ。多数説および政府解釈も認めている(とされる)「象徴」としての天皇の<公的行為>の中にどのようなものが入ってくるかは、今回は立ち入らないが、祭祀行為の位置づけ、皇室経済法の具体的内容、祭祀関係規定の皇室典範(法律)からの除外等々に関係してくる。あらためて、このあたりのことを今日の憲法(学)教科書・概説書を実際に見て確認又は検討してみたい。
二 1 興味を惹いた一つは、日本社会党のブレインだった(自衛隊「違憲合法」論を少なくとも示唆した)と見られる元東京大学の憲法学者・小林直樹ですら、現憲法のもとで、「特殊な天皇制を存置する以上、象徴侮辱罪というようなものを設けても、―立法政策としてはむろん反対だが―憲法違反ではあるまいと考える」と述べているらしい、ということだ(p.34)。
戦前の<不敬罪>の正確な内容と運用を知らない。だが、一般国民と異なる<天皇>という世襲職を憲法が「象徴」として設けることを明言しているのだから、天皇陛下についての<象徴侮辱罪>というものがあっても、理屈としては不思議ではなく、ただちに憲法違反にはならないだろう。
日本共産党(員)あたりはすぐに<国民主権制>と矛盾し違憲だと単細胞的反応をするだろうが、<国民主権>を謳い、かつ<平等原則>(法のもとでの平等)を明記する憲法が同時に「世襲」の「天皇」の存在を認めているのだ。憲法は、一部の都合のよい原理・条項だけを持ち出すのではなく、総合的に解釈されなければならない。
とはいえ現実に<象徴侮辱罪>を新設する(刑法改正又は独自法律の制定)は困難なようだ。人権擁護委員会なる国家行政組織法三条機関が想定されているならば、<皇室擁護委員会>でも設置して、天皇・皇族への<侮辱>的発言・出版をとり上げ、何らかの勧告・指導をできるようにしてもよいだろうが、対象とすべき<侮辱>の内容およびその(公表)方法の具体的判断はむつかしい。人権擁護法案について言われているのと同じ問題が生じそうだ。
国家行政組織法三条機関に第一次的には委ねるのではなく、警察官・検察官に直接任せること(刑罰の直接適用)も一つの方途だが、これまた具体的判断はむつかしく、<表現の自由>等の侵害可能性等の反対論が一斉に噴き出しそうだ。
というわけで、合憲であっても現実にはとても法的規制にはなじまないように思うが、しかし、国民がもっておくべき精神論・<心構え>としては、やはり、国家と国民統合の「象徴」である天皇というお方に対する何らかの敬意的なもの、対等に物言いできるお人ではないという気持ち、を持つべきなのではなかろうか。
誰かの表現にあったが、国家と国民統合の「象徴」たる地位に就くことを国民は<お願い>しているのであり、かつその地位は「世襲」であって、2660年とは言わないまでも少なくとも1500年は血統が続いていることが正式文書等の上でも明瞭な<天皇家>(?)の当主なのだ。
2 天皇とそれ以外の皇族とを同一視することはできない。しかし、やや大雑把に書いてしまうが、皇太子・皇嗣として次代天皇になられることが予定されているお方、ついで皇位継承順位第二位のお方や皇后陛下・(次代皇后となられることが想定される)皇太子妃殿下についてもまた、何らかの<敬譲>の気持ちはあってしかるべきなのではないだろうか。
<象徴侮辱罪>が合憲的に成立しうるならば、<皇室(皇族)侮辱罪>も(その立法政策的当否、現実性は別として)法的には合憲的に成立しそうに見える。
国民に対して完全に<開かれた>皇室など存在する筈はなく、皇室・皇族に関するあれこれを全く自由に発言・出版してよいとは(少なくとも道徳的・倫理的には)思えない。
佐高信らの週刊金曜日主催の集会が、悠仁親王に模した縫いぐるみの人形を投げ遊ぶことを含むパフォーマンスをしたことがあった(確認しないが、たぶん一昨年末)。これは「公」の面前でなされた。
家庭内で、あるいは喫茶店内で、家族や知人たちと皇太子妃殿下や秋篠宮妃殿下のにことをあれこれと噂しあい、あるいは情報交換しあい、それにもとづいてあれこれの分析や今後の処方箋なり解決策を<世間話>の類として話題にしあるいは提言する程度のことは許されるし、法的な規制が及ぶべきではないだろう。
但し、現皇太子の天皇不適格論(皇位継承不適格論)又は少なくとも現皇太子の皇位継承疑問視論や、これらを含む可能性が論理的にはある現皇太子妃の<皇后位継承再考論>が、堂々と、三・四流とは一般には評されていないとみられる月刊雑誌上に「公」にされるとなると、はたしていかがなものだろうか。
それも表現(・出版)の自由かもしれないが、そのような議論を個人名を出して「公」にできる(そして活字化させて将来=未来永劫に残す)とは大した<勇気>だと感じ入っている。少なくとも私にはできない。
<表現(・出版)の自由>にも元来、<内在的制約>というものがある。天皇・皇室との関係でそれを全く意識していない議論が<保守>の側から(も)出ている。戦後日本の、<表現・出版の自由>が保障されているとの「自由」意識は、このようにして<保守>の(筈の)論者の数人にまで及んでしまった、という感慨を私は今もっている。
この時期になると選挙を意図した又は意識したいろいろなことが明らかにされるものだ。
思い出すと、1993年に細川護煕・非自民連立政権ができた後で、たしかテレビ朝日の社長か報道局長あたりが、できるだけ自民党に不利に・できるだけ(選挙前の)野党に有利になるように報道した、と民放関係またはもう少し広いマスコミ関係の会合で明瞭に発言して話題になり、自民党がたしか抗議するなど、物議をかもしたことがあった。
むろん、マスコミ・メディアの思惑どおりに国民が投票行動をするわけではない。しかし、日本のマスコミ・メディアは(予め明言していればそれはそれでいいのだが)それとなく、国民を一定の方向に誘導するように、特定の政党に有利又は不利になるように報道することがあるので、有権者も騙されてはいけない。
国民を一定の方向に誘導するような報道の仕方をする代表格の新聞は、言うまでもなく、実質的には<政治団体>に他ならない朝日新聞だ。
その<政治運動団体>たる性格は、約1年前には安倍現首相に対抗して自民党の福田某氏に総裁選に立候補するようけしかけたり、4月の都知事選の前には石原現都知事に対抗して菅直人氏をこれまた名指しして立候補するよう促したりする、まるで自分を<反権力>側の<参謀>とでも誤解しているかの如き言論だけでも、すでに明らかだ。
日本共産党が自衛隊関係者から入手したという文書内容を明らかにしたのも、当然に、参院選挙前という時期を意識したものだ。
そして当然の如くこれを大きく取り上げ、6/07社説ではこの問題のみをテーマとしたのは朝日新聞だった。他の新聞の扱いは朝日に比べると、はるかに小さい。
さて、その「情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか」と題する社説だが、まず「自衛隊は国民を守るためにあるのか、それとも国民を監視するためにあるのか」と書く。この一文だけでもすでに朝日新聞のスタンスとその奇妙さを感じる。
自衛隊(の一部)の情報収集の対象となったのは国民全体ではない。同社説は「文書には映画監督の山田洋次ら著名人、国会議員、地方議員、仏教やキリスト教などの宗教団体も登場する。報道機関や高校生の反戦グループ、日本国内のイスラム教徒も対象となっていた」と書いて何故か山田洋次のみの名前を出しているが、著名人でかつ「ふつうの」人物らしく見えるのは彼だと考えたのだろうか。しかし、山田洋次は「ふつうの」人物ではない。日本共産党の少なくとも明瞭な支持者であり<映画人九条の会>の結成呼びかけ人でもあったことは前回に書いた。
また、自衛隊(将来の?自衛軍も)は国民の生命・安全の確保のために存在している。こんなことは書くまでもない。
今回の事件?の要点は、<自衛隊が、大多数の国民の生命・安全のために、反自衛隊的意識をもつ少数派の国民に関する情報を収集していた>ということだろう。
自衛隊(将来の?自衛軍)がその組織を維持するためには、自衛隊内の秘密とされるべき情報を入手し(そして外国に伝え)ようとしたり、自衛隊にそれを働きかけたり、あるいはその他一般に自衛隊員の志気を攪乱する又はその可能性のある日本!国民に関する情報を把握しておくことは不可欠のことと思われる。
まさに<敵は内部にもいる>のだ。自衛隊(将来の?自衛軍)が日本国内の反自衛隊意識やそれにもとづく「工作」によって影響をうけていれば、いざという時に、多数の日本国民の生命・安全を守るという任務を果たせないではないか。
個人情報の収集なので、一切の制約がないということはないだろう。だが、強制的な又は公権力を行使したと言えるような収集の形態・方法でないかぎりは、原則としては違法とは言えないのではないか(橋下徹弁護士は同旨のことをテレビで述べていた)。
むしろ、自衛隊内の正規と見られる文書情報が日本共産党に平然と漏洩された、という情報管理体制の不備、日本共産党に情報を提供した自衛隊員の存在こそが問題にされるべきだろう。
自衛隊(将来の?自衛軍)を国民の<敵>と考え、その武力が「国民」に向けられることをむしろ怖れ批判する(という倒錯した意識をもつ)「国民」の中に含まれるような人びとや団体は、上のようにはその<正当な目的>を理解できないだろう。
なお、同社説によれば、防衛省は「イラク派遣への反対運動から自衛隊員と家族を守るため」と説明しているようだ。正確かどうかは確認していないが、ありうる話で、その目的を批判することはできない。朝日社説は「それはとても通用する理屈ではない」と書いているが、なぜそうなのかはよく分からない。
守屋武昌防衛事務次官の「手の内をさらすことになるので、コメントするのは適切ではない」とのコメントも、非難されるようなことではない。
朝日社説は今回もまた<戦前の軍隊>に言及しているが、時代の倒錯がある。
心配なのは、自衛隊又は自衛軍が「有事」に際して行動しようとするとき、朝日新聞が自衛隊又は自衛軍の行動を邪魔し、国民に自衛隊又は自衛軍への抵抗を呼びかける、という事態だ。
朝日新聞あるいは週刊金曜日ならやりかねない。防衛行動への攪乱者、そして客観的には日本ではなく外国の味方をする者は日本国内に現にいるし、将来も存在するだろう。
レーニンの<(帝国主義)戦争を内乱に転化によ>とのスローガンを思い出した。自国の中で「内乱」を起こして自国を敗戦に導こうと呼びかけた<国際主義者>がいたことを忘れてはならない。また、そうした意識は雰囲気としてはまだ残存していると見られることにも留意が必要だ。
昨年に面白くて一気に読んでしまった中宮崇・天晴れ!筑紫哲也News23(文春新書、2006)の著者・中宮崇は月刊WiLL7月号(ワック)にも「日本一のお笑い番組「News23」筑紫哲也、今夜も妄言、暴言、失言」を書いて、この本来はニュース番組を「お笑い番組」として見るべきとの真面目な?テーゼを提出している。
私には、ほぼ同時期の、西村幸祐責任編集・中学生にも分かる慰安婦・南京問題(撃論ムック、オークラ出版、2007.07)の中の中宮崇「「慰安婦」「北朝鮮」「筑紫哲也」で読み解く-日本メディアと従軍慰安婦の異常な関係」の方が、新しい又は興味のある情報が含まれていた。
TBSの筑紫哲也News23を観るような趣味はないので、この番組についてはもっぱら中宮崇らによる情報によるのだが、上の後者の中宮の一文によると、筑紫哲也News23の今年3/08で筑紫は「慰安所があって、慰安婦というものが存在したということは消えません。こういうことをくどくどと説明して、どれほどの意味があるんだろうか」と安倍首相の「説明」を揶揄したらしい。中宮も言うとおり、朝日新聞とともに慰安婦問題に火をつけ、別の方向に拡散させたのは筑紫哲也だったとすれば、何をか言わんやだ。
最も印象的なのは、筑紫と西野瑠美子との関係だ。西野瑠美子とは(たしか故松井やよりとともに)バウネット(Vaww-Net)ジャパンの共同代表の一人として、例の<女性国際戦犯法廷>を主催した人物だ。
筑紫哲也は自らが共同編集人である週刊金曜日上に西野に執筆させることもしたが、例えば2002年の12/12には、西野をNews23に招き慰安婦につき語らせた、という。
また、安倍現首相らによるNHKへの圧力を朝日の本田雅和らが捏造報道したときには、2005年の1/12に朝日の報道内容をそのまま報道し、バウネット共同代表としての西野の記者会見の内容は「何の論評も加えられることなくそのまま垂れ流された」ようだ。1.この日に、朝日新聞と同一内容で報道したニュース番組はこのNews23だけ、2.西野の記者会見を報道したのはこのNews23だけ、だった(p.45)。
ここまででもTBS・筑紫哲也・News23、それぞれの<異様>さは改めて明らかだ。つい最近の「ハニカミ王子」問題を見ても、TBSは「あるある…」とやらの関西テレビよりも、放送機関として遙かに<悪質>だ。
中宮の文章は北朝鮮問題にも言及している。それによると、筑紫哲也News23の2003年6/12は、伊藤孝司なる者を北朝鮮に派遣し、「当局に紹介され」た「ごく普通の家庭」による歓待ぶりを北朝鮮の政治体制等への批判的コメントもなくそのまま紹介した。
2005年4/05には、「慰安婦」という語が全教科書から消えたこと(本当だったかな?)を中国(支那)の「抗議を引用して批判」した。
今年3/09には、六ケ国協議に伴う日朝協議の決裂につき、北朝鮮を何ら批判することなく、「慰安婦の強制連行を認めない安倍総理に北朝鮮が憤ったため」と報道した。この日には、「筋金入りの北朝鮮の手先」の北朝鮮支援団体会長・エバンス・リビアなる男、日本共産党の志位和夫も登場させて語らせた。
精神衛生によくないので、最後の部分の引用に移る。
「歴史を直視していないのは一体誰なのか。こういうヨタ話を恥ずかしげも無く公共の電波で流し続け、拉致被害者を傷つけながら北の将軍様に忠誠を尽くしている筑紫が自分自身を直視することはできるのか、健常者にとっては考えるまでもないことであろう」。
筑紫哲也News23の問題性を知るとき、いつも思うのは、この番組のスポンサー企業はどれどれか、ということだ。テレビ局や番組制作者にとって最も怖いのはスポンサーに決まっている。
スポンサーが無くなれば、番組もつぶれる。どうしていくつかの企業はスポンサーを平気で続けているのだろう。
どなたか、中宮崇でもいいが、TBSのNews23のスポンサー企業名のリストを明らかにしてほしい。
最後に、いつぞや編集姿勢の不統一・中身の貧弱さを問題にした宝島社の憲法問題に関するよく似た体裁のムック本と比べて、西村幸祐責任編集・撃論ムック(オークラ出版)は遙かに<安定>し<しっかり>としている。宝島社の牙城?は揺らいでいるのではないか。
宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです。非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。 こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。
そのスペシャル版もたぶん全て所持し、読んでいる。そのうち、新ゴーマニズム宣言スペシャル・脱正義論(幻冬舎、1996)は、小林が1994年に「HIV訴訟を支える会」の代表となり、弁護士等と運動の仕方等について軋轢を生じさせながら活動し、1996年03.29に加害企業と「和解」が成立して、彼の影響も受けて「支える会」会員となった者たちを含む若者(学生)たちに、<さぁ日常に戻ろう>と呼びかけたところ、「支える会」の支部等の「代表も事務局長も会計もすべて左翼系団体の同盟員というところもある。民青が仕切ってたりするところもあるらしい」(p.70)ことを知って愕然として原告患者青年の川田龍平に伝えたところ、彼は「知ってますよ」とニヤリと笑って答えた(p.78)、なんていうことが生々しく描写されていて、とても印象的だ(とても長い一つの文だ)。
「HIV訴訟を支える会」の実際がどうだったのかの知識はないが、純粋な善意で始まった「市民」運動も、いつの間にか政党等の「色のついた」(多くの場合は「左翼系」の)運動に変質していくことは、十分に考えられる。この本が描くように「支える会」を日本共産党・民青同盟系の者たちが実質支配したのだとかりにすれば、さすがに「大衆団体」を党・民青等近接団体の<下請け>化することに手慣れていて、巧いものだ。また、こうした訴訟の場合、手がける弁護士たち自体がとっくに日本共産党員又は同党シンパであることも十分にありうるだろう。
「政治」と何らかの関係のある問題についての、多数の「個」の純粋な「連帯」は、小林が正義感をもって当初想定したよりはやはり相当に困難なのが現実だろう。
その他、書き残しておきたいことが二つある。
1.「あとがきにかえて」に、「もっと腹が立つのは佐高信ら、『絶対の正義』と薬害エイズが世間に認定された後に近寄ってきて自分の言い分にこれを利用しようとするハイエナみたいな言論人だ」とある(p.256)。
なるほど、佐高信は、自分たちの「運動」に利用しようとして小林又は「支える会」にも接近してきたのだ。
佐高信は、巧妙に隠しているものの「週刊金曜日」共同編集人でテレビ・コメンテイターをしている石坂啓もそうだと思うが、決して<評論家>ではなく、<(社会)運動家>だ。「ハイエナみたい」と表現されているのも、ずばり適切で、よく分かる。
「週刊金曜日」編集人たちは、選挙に候補者を立てないから政治資金規正法上の「政治団体」ではないだけで、昨秋に反皇室演劇つきの集会を行うなど実態は「政治団体」に他ならず、「週刊金曜日」はその機関誌だと思われる。
2.川田龍平は7月参院選に東京選挙区から立候補するらしい。日本共産党・民青そのものには加入しなかったようだが、訴訟等の運動の中で「左翼的」活動家に成長したのだろう。
小林の上の本の中に、「支える会」の若者の間でカール・ヴォルフレンの本がよく読まれているという話が挿入されていたが、彼の日本・権力構造の謎(上・下)(早川書房、2000)は日本の国家・社会を欧米的観点から「異常視」する、偏見に満ちた本で、なるほど(反発がありうる)モロの共産党・民青の本よりは、外国人が書いた(客観的ふうの)日本の「権力構造」批判の本として、読者を「反体制」化・「左翼」化するのに役立ったに違いない。
読売がなぜこんな人物を使うのかが解らない。読売はときどき奇妙な記事を載せ、主張をすることがある。
佐高信は最後の方で、城山は叙勲を固辞した、「その意味するものをくみとってほしいと願う」と書いて佐高自身の「左翼」ぶりを存在証明している。城山氏のその態度が何を意味するのか私はよくわからないが、反天皇、反権力、反国家を意味するのだとすれば、そのような作家を読売は大きくとり上げて死亡・追悼の記事を載せるべきではなかろう。それに城山の小説に関する私の記憶では、反天皇、反権力、反国家の姿勢は感じられなかった。
佐高の文の中で注目してよいのは、広田弘毅、石田礼助、井上準之助という城山の小説のモデルとなった人たちを「あるいは少数派かもしれないが、誇るべき日本の財産である」と明記していることだ。この中の広田弘毅は言うまでもなく所謂東京裁判の所謂A級戦犯として、たしか軍人以外では唯一人、死刑(絞首刑)になった人だ。佐高信がこれまで及び今後、広田弘毅を含めた所謂A級戦犯を批判し、貶めるような文章を書いていないか(書かないか)、監視しておく必要がある。
内館牧子・女はなぜ土俵にあがれないのか(幻冬舎新書、2006)の最初57頁と最後の33頁を読了。主張はごく自然で納得できるし、最後に示してある改革案にも賛成だ。それにしても、第一に、この大相撲の土俵に関する「女性差別」問題らしきものも、議論を煽り、「女性」を応援したのは、この本で読むかぎりは、やはり?朝日新聞であることが分かる。朝日は混乱・錯乱を好み、表向きは「差別」反対なのだ。第二に、大阪府の太田房江という女性知事は大した人物ではないことも分かる。戦後教育の優等生、東京大学卒、元上級通産官僚では、日本の歴史・伝統・「国技」に関する特別の知識も教養も身につけていないのだろう。法律にもとづく男女共同参画行政もしている筈で、よく分からないが、フェミニズムに抵抗感がない可能性もある。これらは東京都知事候補・浅野史郎と同じだ…。
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