一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)をさらに読みつなぐ。なおも憲法にかかわる。
・「近代憲法の正当性の根拠」は欧州でも問題がなかったわけではなく、二つの立場があった。一つは、「ロック流の個人の社会権という社会契約というフィクション」を必要とした、「革命」により「近代社会」(普遍的「人権」等を内包する)が始まり、「その精神を憲法化する」、というやり方。フランスやアメリカで、これらには「近代社会」の「神話」を受容する「歴史的な構造」があった。もう一つは、イギリスのように「歴史的連続性」を強調するもので、統治・権利の原則を元来「イギリス人がもっていたもの」という伝統に遡及させる。「革命」という断絶は回避され、歴史の中の「本来の経験」に戻ろうとする(p.151-2)。
・では、日本の戦後憲法は上のどちらなのか? 明治憲法の「改正」手続を採った点で(形式的には)「歴史的連続性」が踏襲されているが、一方、実質的には、八月「革命」説のように「戦前との断層」に存在意義を主張していると見られる。ここに「日本国憲法の歴史に例を見ない奇妙な性格がある」。現憲法の「ユニークさ」はただ第九条にのみあるのではない(p.152)。
・欧米憲法において、国民(人民)主権原理のもとでは主権者たる国民(人民)が(議会・政府を通じて)自らの権力を制限するが(「集合的な権力の主体としての国民」)、これとは別に、そのような「権力」を超えた、「普遍的な権利をもった一人一人の個人」という範疇も成立する。国民(人民)主権を支えた、現実の「国民の一体感」・「愛国心」こそが、この二つの範疇の矛盾をとりあえず「隠蔽」し、「辛うじて調和させ」た(p.153)。
・アメリカ憲法修正1~10条は「連邦議会から個人の権利を守る」目的のものだが、ここでの「個人」は「抽象的で普遍的な」それではなく、アメリカ国民(人民)であり、連邦政府を作った張本人たちだ。これとは別に、「連邦政府の権限の以前に」、「自由な個人」が想定されていて、彼ら「個人」の「基本的な権利は不可侵」なのだ。
・日本国憲法においてはどうなのか? その11条によると「基本的人権」を保障するのは「この憲法」に他ならないが、元のGHQ案の表現では、「基本的人権」の根拠は「多年にわたる人類の自由への戦い」という歴史の「普遍性」にあった。この辺りが、現憲法では「一切不明確なまま」だ(p.156-7)。
〔なお、ここで挿んでおくと、現憲法97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と、-その具体的な法的意味は他の条項に比べて違和感があるほど不明確だが-書いている。この条文によっても佐伯の提出する問題は残るだろうが、佐伯がこの97条の存在を意識しているかは定かでない。〕
・「憲法の専門家たち」がどう説明しているのか知らないが、戦後憲法において「国民の意思」、「その由来するところ」は「きわめてあいまい」ではないか? その原因は直接にはGHQ案に基礎をもつことにあるだろうが、「もっと根本的には」、「近代憲法の正当性の基盤」という困難な問題を「回避」したことによる(p.159)。
・既述のように、フランス型憲法における、「革命」により「普遍的人権に基づく近代社会」の創設という「ストーリー」を支えたのは「人民の一体感をともなった愛国心」・「国民意識」だったが、「戦後日本にはそのようなものはほぼ皆無だった」(p.159-160)。
・「戦後の体制変革は革命ではなく占領政策」だった。「愛国心や国民意識は…打ち砕かれていた」。そんな状態で「普遍的人権」に依拠した「近代憲法を創設する」ことができるわけがない。「国民」に憲法制定能力がないとすれば、「憲法の正当性は明治憲法の改正という手続」に求めるほかはない。そうだとすると、(改正の最終的主体としての)「天皇制度の維持はきわめて重要な事項」だった(p.160)。
・「良かれ悪しかれ、天皇制度を国家の(象徴的な)骨格としたのが日本の歴史の連続性」で、明治憲法も「その改正を天皇の勅令をもって帝国議会に付すべきこと」を規定していた。従って、明治憲法の中核である「天皇制度…を廃止するような改正」は「事実上不可能」だったのだ。だとすれば、その存続がマッカーサーの政治的判断であろうとなかろうと、「天皇制度」は「憲法のロジックにしたがって生き延びることになる」(p.161)。
二 以上、あまり読んだことのないような指摘、問題設定、説明等がなされている(「国民」と「人民」は意識して区別されることなく叙述されている)。
現に生きている日本国憲法は、そもそも何によって憲法として「正当化」されているのか? (憲法前文の前の告諭が明示するように)天皇が「裁可し、公布せしめ」た現憲法が、所謂「天皇」主権を廃して「国民主権」原理を採用している(とされている)ことはどう説明されるのだろうか。「告諭」は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび」から始まるが、「日本国民の総意に基いて」と、なぜ言えたのだろう。
ぎりぎり間接的には「国民代表」者から成る衆議院による可決を経ているが、国民(有権者)投票が行われたわけではなく、逆に、「枢密顧問の諮詢」という明治憲法上の規定もなかった枢密院での審議・可決手続を経ており、また、新憲法によって廃止されることとなっていた「貴族院」での審議・可決すらあったのだ。
戦後日本は、<不思議な>来歴の憲法の下で国家運営がなされてきた、とあらためて感じる。法的・論理的には、完璧な説明はできないのではないか。そのような憲法が60年以上も生き続けてきたことに、大多数の国民が違和感を持たなかったのだから、憲法学者を含むその<鈍感さ>にあらためて驚くとともに、占領期の日本人の<思考停止>状態におけるGHQの力の大きさも感じる。
新憲法制定・施行を「祝う」行事・催事がなされたはずだし、何といっても天皇陛下が「裁可し、公布せしめ」たとあっては、大多数の国民は(その内容に関係なく)新憲法を(少なくとも当面は)「支持」せざるを得なかったものと考えられる。
だが、その「支持」は、はたして「内容」をも全面的に支持するものだったのかどうか。表面的にはともかく(占領下に新憲法反対の国民運動が起こせる筈もない)、実感としては違和感も覚える憲法条項もあったのではなかろうか。そうした違和感を潜在的には多少とも覚えつつ、建前としては「支持」しているうちに、<ごまかした>まま60年が経過してしまった、というところだろうか(直接には「護憲」派が国会で少なくとも1/3以上を占め続けたことによる)。
当時の国民の全てが、あるいは圧倒的多数の国民が、手続的にはともかく「内容」的に支持し、受容した、という、少なからぬ(と思われる)憲法学者等の説明は、信頼できない、と思われる。
近代憲法
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