午前2時。古書を数冊持って(買いすぎて残りは宅配回し)バス停が間に一つあってもおかしくない長い一街区以上を歩き、タクシーでワンメーター分乗って帰ってきた。
 かつては新聞の「社説」は重々しく権威あるように見えたものだが、とくに朝日のそれは、Web上で読んでいるせいか、軽くかつ駄文に感じてしようがない。
 8/13(日)の朝日の社説は結局何を言いたいのだろう。戦争について親子で考えようというだけか、それともその際の素材を少しは提示しているつもりなのか。それにしても、他のテーマでもある程度は同様と思うが、「侵略」と「責任」なる問題をよくまぁこれだけ簡単に書いて済ませられるものだ。社説子は、かつての戦争についてどの程度「研究」しどの程度豊富な「知識」があり、そして何らかの発言をする自信と資格がどの程度あると自己認識しているのだろう。
 「政治家では、軍人以外でただ一人死刑になった広田弘毅元首相よりも、日中戦争を始めた時の近衛文麿首相の方が、責任が重いのではないか」。これは何だろう。社説で歴史的評価を下すつもりか。政治家ではなぜ近衛文麿についてのみこんな指摘をするのか。軍人については「石原莞爾元参謀ら」とだけしか書いていないのはなぜなのか。
 日本人が裁判していれば「もっとずっと多くの死刑判決が出たでしょう」との半藤一利の言葉を肯定的に使い「それほど戦争に対する悲惨な思いや憎悪が大きかった」とつなげているが、ひょっとしてもっと多数の軍人・政治家が刑死すべきだったと社説子が考えているのだとすると、ある意味では「怖い」。
 「新聞も戦争をあおった責任を忘れてはいけない」と言うが、その「責任」は日本人による裁判の対象になりえなかったのだろうか、朝日社主は死刑・懲役・禁固、どのあたりの刑罰が適当と考えているのだろう。白々しく、マスコミに「法的責任」はない、というつもりか。また、戦後に入って、朝日は中国・韓国と日本の対立を「あおった責任」は全くない、不十分な記事をきっかけにして外交「問題」をあえて作り出したことは全くない、と自信をもって言えるのか。
 半藤一利の他に保阪正康の本の一部も引用している。半藤は憲法9条擁護論者で朝日と共通の基礎的考え方をお持ちのようだが、過日示唆したように、保阪のスタンスはわかりにくい。「天下の」朝日社説で紹介され、名誉なことと感じておられるのかどうか。